あなたと旅をしましょう




何のために、お前はここを目指す?



 耳が折れ曲がっているのは、強い力で掴まれたから。
 仮に治療したとしても、曲がったまま固まった骨を治すのは容易ではない。長い時間を要する。
「どこでこの子を?」
 ジョーイは丁寧に傷薬を塗った。ラッキーの“うたう”で眠ったまま、イーブイは苦悶の表情を浮かべていた。
「ハナダの岬の近くで……どうしてこんな、ひどい……」
 少女は怒りで拳を握りしめた。傷薬を塗り終えたジョーイにガーゼと包帯を手渡そうと少女は手を伸ばした。「待って」とジョーイが止めた。
「家に帰って、お風呂に入った方がいいわ」
 少女の手と服は血と泥にまみれていた。
「酷い顔してるわよ、アセビ」
「ここで洗って、戻ってきたら駄目ですか?」
 少女、アセビは自身の顔に両手をあてた。表情は分からなかった。顔に泥がついてしまい、ジョーイが笑った。
「洗ってきたらね」
 アセビは急いで手と顔を洗いに飛び出した。
 今日は雨が酷く、トレーナーたちもバトルをする気にならなかったらしい。ポケモンセンターの待合室には、治療を待つポケモンとトレーナーはいなかった。待合のテレビだけが騒いでいる。
『決まったー!!!! バクフーンの火炎放射がさくれええええええええええつ!!!!!』
 ポケモンリーグの試合が放送されていた。特徴的な前髪の少年が叫んでいる。バクフーンの吐き出した炎が画面いっぱいに広がり、相手のライチュウを飲み込んだ。電光石火で炎を逃れたライチュウだったが、かなり効いたようだ。ふらふらとしている。バクフーンのスピードスターが追撃をかけた。ライチュウに直撃し、その場に倒れこむ。
『ナーイスバクた――』
 少年が勝利の声をあげたところで、アセビはチャンネルを代えた。ほとんどがリーグの中継やニュースを流していた。チャンネルが一周したところで諦めてテレビを切る。後ろから裾を引っ張られ振り向くと、ラッキーが洗いたてのタオルを差し出してきた。
「ありがとう」
「ラッキー」
 別のラッキーが白衣を差し出してきた。ジョーイの服とよく似ているが、見習い用で少しデザインが違う。
「今日は勉強に来たんじゃないの」
「ラッキー」
 ラッキーがアセビの汚れた服を指さした。
「う……分かった」
 アセビは白衣を受け取った。顔と手を洗い、急いで着替える。もう一度待合室を窺うと、ちょうどずぶ濡れの少年が入ってきた。青緑色の長い髪を一つにくくっているが、ぺったりと顔や服に張り付いてる。
「すみません、イーブイを知りませんか?」
 アセビは表情を硬くした。自分でも驚くほど冷たい声が出る。
「……耳の折れ曲がった?」
「耳? 怪我してるんですか?」
 少年は怪訝そうに首を傾げた。
「“怪我させられた”のよ」
 非難気に睨みつけたが、少年はますますきょとんとした顔をしていた。
「させられ……誰に?」
「トレーナーに!!」
 アセビは眉を吊り上げて言い放った。我慢できず、つかつかと少年に近づく。
「あなたがイーブイのトレーナー!?」
「えっと、なにか怒ってますか? ジョーイさん」
 「ジョーイじゃない」――そう言おうとして、アセビは自身の今の格好を思いだした。見習い用とはいえ、白衣だ。少年が勘違いしたのも無理はない。
 しかし、アセビは否定しなかった。
「イーブイは酷い怪我をしています。返すわけにはいきません」
「でも、すごく心配しているんですよ。少しでいいので会わせてください」
 少年が懇願した。心配しているのだろうか。本当に? 眉は下がり、瞳が困ったように揺れている。アセビは少年が可哀想な気がしてきた。
 だがすぐに頭を横に振った。アセビが保護した時、弱っていたのに激しく抵抗してきた。トレーナーに会わせれば、イーブイが怯えるかもしれない。
「駄目です! 会わせません」
 アセビがきっぱりと言い放つと、その後ろから別の声が少年に問いかけた。
「この子のトレーナーですか?」
「イーブイ!」
 少年はイーブイを抱きかかえたジョーイに駆け寄った。アセビも驚いて振り向く。少年は心配した様子でイーブイを見ていた。安心させるような声音でジョーイが言う。
「手当は終わりました。あとは安静にしていれば、明日には元気になりますよ」
「ジョーイさん!」
 アセビが悲鳴のように叫ぶと、ジョーイの咎める声が返ってきた。
「アセビ、少し待っていてちょうだいね」
「……はい」
 すごすごと引っ込む。少年はイーブイの折れ曲がった耳が気になるようで、触らずに問いかける。
「耳はもとに形に治りますか?」
「それは……残念ですが、難しいです」
「そうですか……」
「心当たりはありますか?」
「いえ、僕もその子のトレーナーに頼まれて探していただけなので。連絡してもいいですか? この雨の中、傘もささずに探しまわってるんです」
 少年の言葉に、アセビは目を見開いた。彼はイーブイのトレーナーではなかった。つまりは、早とちり。
「一応、あなたとトレーナーの名前を聞いておいてもいいですか?」
「僕はアイ。イーブイのトレーナーはマサキです」
「マサキさん?」
 ジョーイが問い返した。
 マサキといえば、このハナダシティで名前を知らない人間はいない。ポケモンマニアの変人。ここポケモンセンターのあるパソコンに入っているポケモン預かりシステムを作り出した張本人だ。
「今日イーブイを引き取ったらしいですから、怪我の事情も知ってると思います」
「マサキさんなら、帰しても大丈夫ですね」
 ジョーイがホッと胸をなで下ろした。冷静に対応してはいたが、彼女もイーブイを心配していた。
 マサキはすっ飛んできた。イーブイはポケモンセンターで一晩預かり、翌朝に引き渡される事となった。イーブイが気になったアセビは、翌日にポケモンセンターを訪ねた。マサキの方が早かったようで、とっくにイーブイは引き取られた後だったが。
「イーブイの前のトレーナーって、どんな人だったんですか? 聞きました?」
 アセビの問いかけに、ジョーイは眉を寄せた。
「あまり良いトレーナーではなかったようね。でも、マサキさんなら大丈夫よ。ポケモンをたくさん預かるから、自宅に回復装置もあるし……アセビも、昨日はありがとうね」
 「でも」とジョーイは言葉を付け加えた。
「勝手にトレーナーを面会拒否するのは駄目よ」
「……ごめんなさい」






 君に会いたい。それだけが理由じゃ、駄目?



 アセビは夕方、マサキの家を訪ねた。「昨日、イーブイを保護したものですが」と名乗ると、マサキは快く迎えいれてくれた。
「いやー昨日はおかげでえろう助かったわ! どこを探してもおれへんし、もう駄目やー! って思ってまったわ!! ほんっとうにおおきに!!」
「イーブイはどうですか?」
「ああっ! せやったせやった! まだ寝とるんやけど、一度看てくれへんか!? いやージョーイさんに看てもらえるなら安心やさかいに」
「えっあの……私、ジョーイじゃ……!」
 マサキに押され、アセビはイーブイの療養している部屋に連れていかれた。ほどよく薄暗くて、眠くなるような居心地の良い部屋だ。イーブイは柔らかそうなクッションの上で寝息をたてている。潜めた声でマサキが病状を尋ねた。
「どうやろ? 調子が良くなってきたら外に連れてったろう思っとるんやけど……昨日は苦しそうに眠っとった。魘されとったら楽にしてやる方法はないか? 部屋はこんな感じでええんか? 怪我の具合はどうや?」
 困ったな。アセビは眉を下げながらも、とりあえずイーブイを看てみることにした。昨日よりは呼吸も落ち着いているし、熱が出ている様子もない。綺麗に巻かれた包帯とガーゼを見れば、マサキが丁寧に処置をしているのが分かる。確かに時々魘されるように唸るが、このままで問題はなさそうだった。
「これで良いと思います。魘されているのは、前のトレーナーとの事を思い出しているのかも」
「やっぱりかぁ……」
 二人はイーブイのいる部屋をそっと出た。「ここだけの話」と前置きをし、マサキは語り出した。
「イーブイがいたのはロケット団のところや」
 一時期は新聞でも取り沙汰された犯罪組織の名前に、アセビは目を丸くした。3年前に壊滅してから、カント―ではその名前を聞くことは少なくなった。
「最近ジョウトで復活しかけて、まぁそれも色々あって、また解散したんやけど」
 イーブイはその時に保護された。タマムシのゲームコーナーに、資金繰りの為に売り飛ばされるところだった。
 療養の為にマサキの家に預けられたのが昨日で、その足で脱走してしまった。マサキのイーブイ好きは有名だが、ここら辺にたむろしているトレーナー全てが知っている訳ではない。野生と勘違いしたトレーナーの攻撃に、イーブイも殺気立って反撃してしまったようだ。
「気長に付き合うしかないんやろうな。けどまた脱走したらと思うと、心配や。なんや、脱走せえへんようにする方法はないんやろうか? せめて怪我が治るまでは、うちで大人しくしてて欲しいさかいに」
 マサキは深くため息をついた。「アイも、いつまで居れるかわからんしなぁ」と呟く。
「昨日の子ですか?」
「せや。イーブイはなんかアイには大人しいんや。バッジ持ってるからやろうか?」
「え? バッチ持ってるんですか?」
 アイはせいぜい12、3くらいの少年に見えた。11歳のアセビと身長もそう変わらない。持っているといってもせいぜい1個2個だろうが、マサキは得意そうに言葉を続けた。
「せやで。なんていったってアイは――」
 チャイムが鳴った。「すまんな」マサキが席を外した。玄関口から聞き覚えのある声がした。「なんや、アイか」「そろそろイーブイが目を覚ます頃かと思って」「まだ寝とるで」「そうか。安心したよ」アセビは時計を見た。結構長く話し込んでいたらしい。イーブイを起こさなかっただろうかと、アセビはイーブイの部屋を覗いた。クッションで眠っていたはずだが、そこに姿はなかった。
「イーブイ?」
 呼びかけた。床が軋む。突然、茶色い塊がアセビの足にタックルしてきた。
「っ痛!」
 バランスを崩し、アセビは前のめりに倒れこんだ。視界の端をイーブイが駆け抜ける。痛みを堪え、アセビはよろよろと立ちあがった。痛む足を庇いながら追いかけると、イーブイは蔓の鞭に捕らえられてジタバタしていた。マサキとアイ、それにフシギバナ。アイが穏やかにイーブイに話しかけている。
「無理しちゃ駄目だよ、イーブイ」
「バナァ」
 フシギバナが草笛を奏でる。アイは眠りに落ちたイーブイをそっと抱きかかえた。アセビがぽかんとした顔で見ていると、アイは気がついて顔を向けた。
「あ、昨日の怖いジョーイさん」
 ぐさっとアセビの心に刺さる。言い返す言葉を持ち合わせていなかった。気分を逸らそうと、マサキに向かって話しかけた。
「マサキさんに何かご用が?」
「僕はマサキの家に泊まってるんだよ」
 マサキではなく、アイが答えた。
「君はどうしてここに?」
「私は、」
 アセビは、アイが抱いているイーブイを横目で見た。安心したように眠っている。
 大したことは出来なかったし、していない。来た意味はあったのだろうか。
「別に。マサキさん、私、帰ります。突然すみませんでした」
「え? あ、あぁ。せっかくやし、また来たってな」
 アセビはアイの顔を見ず、二人の横を抜けようとした。不意に、アイが呼び止めた。
「怪我の手当だけでもしていきなよ」
 アイの視線は、アセビの膝と手に向いていた。さっき倒れ込んだ時にぶつけたらしい。膝の少し擦りむいた所から、うっすらと血が出ている。
「ホントや! わい、傷薬持ってきたるわ」
「いいです! これくらい、大した傷じゃない。今日は失礼しました。さよなら」
「え!?」
 傷薬を取りに行きかけたマサキの足が、その場でバタついた。取りに行くべきか、引きとめるべきか。迷っている間にアセビはマサキの家を出た。
「マサキ、イーブイをよろしくね」
「は!?」
 すやすやと眠るイーブイをマサキの胸に押し付け、アイはアセビを追いかけた。
「待ちなよ」
 追いかけてきたアイに、アセビはぎょっとした。早足で撒こうとしたが、アイはすぐに追いついた。アセビの肩に手をかけ引きとめる。
「待ってってば」
「痛い」
 アセビが睨むと、アイはパッと手を離した。
「そんなに強く掴んでないよ」
「なに?」
「僕は日中はマサキの家にいないよ。朝早く来て、夜遅く帰ってくる。一晩帰らない事もあるし」
「それで?」
「また来てあげてよ」
 アセビは、そこで初めてちゃんとアイの顔を見た。青緑色の瞳はまっすぐにアセビを見据えている。
「イーブイは、あなたの言うことなら聞くらしいね。あなたは看てあげないの?」
「僕は他にやることがある」
「私よりきっとうまくやれるよ」
「君はジョーイの卵らしいね」
 アイはニヤッと笑った。
「イーブイを最初に保護したのは君だ。ならイーブイは、君の患者だ」
 アセビはぐっと言葉を詰まらせた。
“どんなポケモンでも、責任を持って看る”
 ジョーイとしての心得は、耳にオクタンが出来るほど言われている。
「待ってるよ」
 重たい言葉を残して、アイは帰っていった。







 信じろって? 無理言うなよ。



「あの子はどうして、マサキさんの家に泊まってるんですか?」
「ポケモンセンターよりも気楽なんやろうなあ」
 言葉通り、アイがアセビとはち合わせることはなかった。アセビのいない時にちゃんと戻ってきてはいるらしい。気を遣っているのかもしれない。
「イーブイ、ご飯だよ」
 餌を置いて、アセビはじりじりと後ろに下がる。手が届かない距離になると、そろりとイーブイが餌をとりにくる。素早く口に詰め込んで、パッと飛びずさった。
「まだまだ時間がかかりそうやな」
「食べてくれるようになっただけマシですけどね……」
 3度の食事以外にもコミュニケーションをとろうとアセビは奮闘しているのだが、どうにもうまくいかない。近づくと逃げるし威嚇される。仕方がないので部屋の壁になったつもりで気配を消して観察している。
「ぶい、ぶい、ぶぶい」「ぶーい?」「ぶぶぶぶい!」「しゃわ~」「ぶびぃ!」
 わりと退屈はしなかった。
 マサキの家にはイーブイも、その進化形もたくさんいた。「同じイーブイがいるなら、安心するかもしれへんしな」との提案で、今この家にはイーブイというイーブイが放し飼いにされている。サンダース、シャワーズ、ブースター……イーブイの進化形でも特に珍しいブラッキーやエーフィまでいる。みんな忙しいマサキに協力して、耳の折れたイーブイにちょっかいをかけていた。アセビはというと、仕事に戻ったマサキの代わりにみんなを見守っている。
「ぶぶい!! しゃー!!」
「しゃわ……」「ふぃふぃ~」
「威嚇されてる……」
 仲間であるはずのブイズ達も駄目らしい。諦めず近づいたサンダースが話しかけるが、イーブイは険しい顔で威嚇している。
「ぐぅるりい?」
「しゃー!! しゃー!!!!!」
 じりじり後退していたイーブイのお尻がこちらに近づいてくる。サンダースに集中していて、アセビに近づいていることに気がついていない。追い詰められたイーブイのお尻が壁に当たった。焦ったイーブイが振り向くと、壁になり切っていたアセビと目があった。
「……」
「こ、こんにちは~」
「ッ!!!!????」
 ようやく気がついたらしい。
 あわを食って反対方向へとび跳ねたイーブイが、至近にいたサンダースに体当たりする。サンダースが悲鳴を上げた。突然の攻撃に反応し、サンダースの全身がぶわっと針山になった。「駄目!!」アセビは叫び、とっさにサンダースを抑え込んだ。電撃の針が全身を貫く――事はなかった。覚悟した痛みはこなかった。
「ふぃ~」
 「やれやれ」といった顔で、エーフィが念力を放っている。サンダースとアセビの体が不可視の力に包まれていた。誰よりも早く反応したエーフィが、念力でサンダースの電撃を抑え込んだようだ。
「ふぃ。ふぃふぃ!」
「……っ!」
 エーフィがイーブイを咎めた。アセビは「イーブイもびっくりしたんだよ」とフォローしたが、「お前は黙ってろ」と言わんばかりにエーフィが睨んできた。とても怖い。とうのイーブイはどうかというと、肩で息をしながらエーフィを睨みかえしていた。
「ぶい!! ぶぶぶい!!」
「ふぃ~。ふぃふぃふぃ?」
「ぶい!」
 イーブイに聞く耳はなさそうだ。興奮しきったまま部屋を飛び出した。一瞬だけアセビを振り返った時、憎悪をぶつけられたような気がした。
“何もかもが気に入らない”
 イーブイの目は語っていた。
「……どうしたら」
「ぐるりぃ」
「あぁ、はいはい」
 腕の中のサンダースがじたばたとしたので、解放した。抱きしめたままだった。
「びぃぃ」「しゃわ」「ぶいぶい」
「大丈夫。エーフィもありがとう」
 ブースターやシャワーズ、他のイーブイたちが心配して鳴いた。助けてくれたエーフィはすまし顔だ。どたどたと足音がして、心配そうなマサキが扉を開けた。
「なんやえろう大きな音がしとったけど、大丈夫か!?」
 返答するようにエーフィが鳴く。
「ふぃ」
「エーフィが助けてくれたので、みんな怪我はないです」
「ほな良かったわ。ありがとうな、エーフィ」
「ふぃ~」
 エーフィが得意げな表情で鳴いた。
 『認めたトレーナーにはとことん忠実である』
 図鑑にかかれたエーフィの特徴だ。エーフィはアセビを助けようと思った訳ではなく、単純に“マサキの客”を守っただけのようだ。
 ポケモンとトレーナーの信頼関係――アセビとイーブイには、縁遠い関係だ。そうでなくとも、アセビは自分のポケモンを持っていなかった。いつかそんなポケモンが、トレーナーが現れるのだろうか? 自分にも、イーブイにも。少なくともアセビには想像すら難しかった。
 でもイーブイは、アイには少し気を許しているらしい。自分と彼の何が違うというのだろうか? 年齢? 性別? 経験? 才能? 知識?
「……」
 理由はいくらでも思いつくが、身勝手な不満が募るだけだ。

 出ていったイーブイは、別の部屋でテレビを見ていた。あくびをして退屈そうだ。景色を眺めるのも飽きたし、外には出られない。最初の脱走以来、マサキのポケモン達が目を光らせている。
「アセビ、ちょっと手伝ってくれへんか」
「はい」
 マサキの手伝いをしながら、ちょこちょこイーブイの様子を見に行く。ここ数日は、だいたい昼過ぎから夕方までそうやって過ごしていた。ポケモンの世話の手際にマサキは感心していた。といっても、それは“年齢のわりには”という条件付きだったが。必ず枕詞に“まだ若いのに流石やなぁ”とついた。
「ジョーイさんになるのって資格がいるんやろ? 勉強するんか?」
「はい。私は、再来年くらいに受けようと思ってます」
「はぁ~頑張ってなぁ。やっぱり小さい頃からジョーイさんに憧れとったんか?」
「いえ、親の勧めです」
「そうなんか?」
 マサキが意外そうな顔をした。
「ポケモントレーナーになる奴が多いさかい。その年でジョーイさん目指しとるから、なんや理由でもあるんかと、わいは思ったんやけど……」
「マサキさんは、確かポケモン預かりシステムを開発されたんですよね。昔からなりたかったんですか?」
「わいはポケモンが好きや。コンピュータは得意やったし。“ポケモン預かります~”言うたら、珍しいポケモンもぎょうさん見られるかもしれへんやろ?」
 マサキは目をキラキラさせ、ブラッシングしていたブラッキーに視線を落とした。
「例えばこのブラッキーは、夜に進化させり必要があるんや。おもろいやろ~?」
 「ええもん見したるわ」とマサキは続け、アセビをパソコンの前へと引っ張った。パソコン画面に、イーブイと複数の進化形を出した。
「イーブイの進化形であるサンダース、シャワーズ、ブースター、エーフィ、ブラッキーはうちにおるやろ。最近までイーブイの進化形はその5種類と言われとったんやけど、最近更に新種が見つかって、なんとグレイシア、リーフィア、ニンフィアってのがあるらしいんや! 進化条件がまだよく分かってなくて、発見された個体数は少ないんやけど、他の地方のシステムの管理をしてる知り合いが教えてくれたんや」
「……へ、へぇ」
「わいも他の進化形見たいわ~!」
 マサキは心の底から羨ましがっているようだった。若干ついていけないところはあるが、子供のようにわくわくしている。あまりにも楽しそうな姿に、そんな風に夢中になれるマサキが羨ましく感じた。
 アセビは自分の意思で進路を決めた訳じゃなかった。でも他になりたいものややりたいことがあった訳でもなかった。
「……どうしたんや?」
 心配そうにマサキがこちらを見つめていた。
「なんか体調悪いんか?」
「え?」
「いや……落ち込んでるような気がしたんやけど」
「元気ですよ?」
 アセビはすっくと立ち上がった。「イーブイの様子をちょっと見たら帰りますね」理由はよく分からないけど、ほんの、本当にほんの少しだけ、もやもやしていた事は確かだ。
 音を立てないように、イーブイのいる部屋を覗いた。イーブイはさっきとは違い、まっすぐに座って、食い入るようにテレビを見ていた。理由の説明を求めて、アセビもテレビに視線を向けた。
 白い宝石のような街並みが映っていた。カント―では見慣れないポケモンを連れたリポーターが街を歩いている。海上からは立ち入ることの出来ない、カルデラ湖の街――ルネシティ。深い青の湖は、夜空を落としたような美しさだった。リポーターの視点で画面は固定され、自分が白亜の路地裏を歩いているかのように錯覚する。行き交う人々の言葉よりも、アセビは遠い地方の風景から目が離せなかった。
「“歴史が眠る神秘の街”」
 振り返ると、アイが扉に背を預けていた。見られた。帰ってきた? いつ?
 カッと体温が上がった。気が緩んだところを見られたのが、アセビは嫌だった。気まずい気持ちになったアセビに、アイは問いかけた。
「君は行きたい?」
 ――ルネシティへ。
 アセビはすぐには答えられなかった。「僕も今は行く予定がないけどね」とアイは勝手に続け、視線をイーブイへと移す。
「イーブイは、興味あるみたいだね」
 イーブイはすでに、想像の中のルネシティを旅していた。
「君は空は飛べる? ダイビングは?」
 できる訳がない。困惑するアセビに、アイは下を指さした。
「ルネシティには、空以外に海底洞窟を通る方法があるんだよ」
 「カント―ではあまり馴染みがないけどね」と続け、部屋の電気を消した。「暗い!」アセビが悲鳴のように抗議の声をあげた。テレビの画面だけが煌々と光っている。アイがテレビ画面を指す。吸い込まれるようにアセビの視線が動いた。
 ルネシティ周辺の海底洞窟が映っていた。夜よりも深い青。深海の暗闇を、小さな光を頼りにゆっくりと進んでいく。
「ポケモンの作った空気の膜につつまれて、トレーナーは深海を探検する」
 アイの澄んだ声がじわりと脳にしみ込んでいく。
「……行きたくなんかない。死んじゃうもの」
「ポケモンが一緒だから、大丈夫だよ」
 アイはそうかもしれない。イーブイはというと、彼はとっくにシャワーズになりきっていた。気持ち良さそうに深海を泳ぐ彼は、いつかルネシティにたどり着くだろう。
「アイ、アセビは――って、なんで電気消しとるんや?」
 入ってきたマサキが部屋の電気をつけた。深海から引き揚げられたイーブイが突然の光に飛びあがる。混乱と興奮で部屋中を駆け回るイーブイに、マサキは慌てて電気を消した。直後、アセビの足にイーブイが激突した。
「い……っ!?」
 アセビの体が傾いた。これで二回目だ。床との激突の予感にアセビは目を閉じた。誰かの手がアセビを引っ張った。ぐるんと体が浮き上がったかと思うと、柔らかい場所に体が落ちた。近い場所でアイの声がした。
「マサキ、電気つけて」
 パッと明るくなる。アセビはアイに抱きかかえられていた。硬直しているアセビに、アイが痛みに顔をしかめながら訊いた。
「どっかぶつけた?」
「……!」
 アセビは勢いよくアイから離れた。真っ赤な顔で壁まで逃げたアセビに、「大丈夫そうだね~」とアイは笑った。マサキは顔を片手で覆ってた。
「こっちは大丈夫やない」
 みんなの視線が集まった。明るくなった部屋の中で、壁に激突したイーブイが目を回していた。

 その夜、アセビは深海を泳ぐ夢を見た。
 ところどころがおかしい夢だった。イーブイはそのままの姿で泳いでいたし、アセビは服を着ていなかった。イーブイの目がライトになって深海を照らしている。アセビは光を頼りに着るものを探すのだが、見つかりそうにない。きょろきょろジタバタしていると、イーブイがどんどん遠くへ泳いでいってしまう。
 アセビは焦って声をあげた。
「待って!」
「どうして?」
 遠くからイーブイの声がする。深海の底から。
「おれは あのばしょに いくんだ。いきたい ばしょに いく」
「どこへ行くの?」
「まだ しらないばしょへ――」
 パチンと、深海の電気が消えた。







 安全に、確実に。全てお母さんが教えてくれた。



 イーブイはすっかり旅番組がお気に入りになった。マサキが用意したノートパソコンで延々流れる旅番組を、来る日も来る日も眺めている。時にシャワーズになって海を渡り、時にブースターになって火山を駆け回る。かと思えばサンダースになって街を停電させてしまったり、エーフィになって旅の天気を予想したりした。
「……連れて行ってあげないんですか?」
「嫌がる」
 しくしくとマサキが泣いた。二人してドアからそっとイーブイを覗き見る。今日のイーブイは夜の森を探索するブラッキーで、電気を消した部屋でうろちょろしていた。
「わいのケーシィなら連れてけるっちゅうのに……はぁ~……」
「そうなんですか? すごいですね」
「行ったことのある場所限定やけどな。ひとっ飛びやで!」
 マサキは胸を張った。
「アセビも世話になっとるさかい。行ける場所やったら連れてったるで~」
「え!?」
 アセビの目が一瞬輝く。が、すぐに首を横に振った。
「……すみません。いいです。悪いですし」
「そんな遠慮せえへんでええて」
「そうじゃなくて、その……お母さんが」
「泊まる訳じゃないんやし、パッと行ってその日に帰ってきたらええやん」
 「なんならわいが事情を話してもええし」マサキが言った。アセビは勢いよく首を横に振った。
「お母さん、あんまりマサキさんの事よく思ってなくて」
「なんでや!?」
 ガビーンとマサキはショックを受けた。アセビはぽつぽつと事情を話した。
 アセビの母親は、いわゆる“リーグを目指すポケモントレーナー”が嫌いだった。元々ジョーイとして働いていた時分に、ポケモンの扱いの悪いトレーナーを多く見てきた。もちろんそんなトレーナーばかりではないのだが。治しても治しても、傷ついてかえってくるポケモンたちを見るうち、バトルを命じるトレーナーに嫌気がさしてしまったらしい。
 マサキが発明したポケモン預かりシステムは、一人のトレーナーが持てるポケモンの数を増やした。それがポケモンを道具のように使うトレーナーを増やしたと。
「マサキさんがポケモンを大事にしていることは分かります。でも、実はお母さんにここに来てること内緒にしてて。あちこち連れてってもらったなんてバレたら……」
 マサキも母親の言い分が分からなくもないようで、難しい顔になった。
「本当にええんか? バレても、わいがなんとか、こう……」
 アセビは「大丈夫です」と言った。
「イーブイと旅番組見てるだけで十分です」
 毎日毎日、飽きもせず旅番組を見るイーブイ。邪魔さえしなければ同じ部屋にいても威嚇してこないので、アセビも一緒に見ている。一日中火山灰の降り注ぐ道、いまだ美しく現存するスズの塔、時々にしか見つからないマボロシ島。知らなかったことがたくさんあった。
「旅に出たりはせえへんのか?」
「女の子の一人旅は危ないから駄目って、お母さんが」
「おかんやのうて、アセビは旅に出たくないんか? それでええんか?」
 マサキもアイも、答えにくい質問をするのは止めて欲しいとアセビは思った。アセビの口は質問に答えることを拒否していた。「それで×××です」「特に××××とは思い×××」ふよふよと、口が迷って形を変える。
「あ」
 雨だ。外れた視線の先、窓の外にパラパラと小雨が降り始めていた。
「マサキさん、外にいるポケモン戻さないと」
「せやな」
 洗濯物を取り込んだり、ポケモンを戻したりしているうちに、雨脚はだんだんと強まっていった。ブースターは憂鬱そうに空を睨んでいるが、シャワーズは楽しそうに庭へ飛び出した。イーブイがそれに続こうとしたが、エーフィに引きとめられた。
「ふぃふぃ」
「ぶい!!!! ぶーい!!!」
「ふぃ」
 フン、とエーフィは冷やかな態度だ。イーブイは抗議したものの、すごすごと室内に引っ込んだ。外に出る代わりに、ふらりと近づいてきたブラッキーと喋り出した。
「ぶい、ぶいぶい?」
「ぶら」
 室内で寛ぐブイズを眺め、アセビはほほ笑んだ。
「最近はあんまりつんけんしてないですね」
「毎日イメトレしとるしなぁ。どれに進化するか楽しみなんやろ」
 エーフィをはじめとして、ブイズが根気よく関わった成果か、最近はこうして会話している様子も見られるようになった。
「雰囲気が柔らかくなった気がします」
「悪い奴らやないって分かってきたんやな!」
「みんないい子ばかりですしね」
「アイもめっちゃいい奴やで」
「なんですか突然」 
 アセビは洗濯物を畳む手を止めた。
「帰ってきたあと、アセビのことちょくちょく聞いてくるんやで。イーブイと仲ようやれとるか心配しとった」
 余計なお世話だ。アセビは洗濯物を畳む手を再開した。
「別に冷たくしてる訳じゃないです」
 アイの服をきちんと畳んで積み上げる。マサキの服も同じように畳んで積んだ。ほつれが気になる服をわずかに迷った後、端に寄せた。
「それならええんよ。ちょびっとだけ心配になったんや」
 マサキはパソコン画面に向きなおり、仕事の続きをやり始めた。
 アセビは洗濯物を畳み終わった。針と糸を持ってきて、ほつれた服に手をつけた。
 手に取った服には、落とせない冒険の汚れがしみ込んでいた。

 物音がした気がして、アセビは顔をあげた。マサキはまだパソコン画面とにらめっこしている。イーブイは他のブイズたちと旅番組を見ていた。時計に目を向けると、いつも帰る時間より1時間も過ぎていた。
「いけない」
 繕い終わった服を畳む。シャワーズの鳴き声がした。
「――わ! しゃわ!!」
 マサキとブイズ達も顔をあげた。アセビは急いで立ち上がり、声のした玄関へ小走りで向かった。
 玄関を開け放つとずぶ濡れのシャワーズと少年が入ってきた。それがアイだと理解するのに、アセビは数秒ほどかかった。いつもの掴みどころのない姿はどこにもなく、憔悴しきっていた。ぽたぽたと長い髪から水滴が落ちる。アセビは慌ててバスタオルを取りに踵を返した。
「待って」
 アセビの腕を、冷やりとしたアイの手が掴んだ。手に複数個のモンスターボールが押し付けられる。
「回復装置に……はやく」
「う、うん!」
 やや遅れてやってきたマサキにタオルを頼み、アセビはポケモンを回復装置にかけた。お風呂のお湯を入れ、着替えを手にアイのもとへ戻る。部屋の扉を開けると、マサキとはち合わせた。マサキは口に指を当て、中のアイを指さした。
 アイはバスタオルにくるまって丸くなっていた。
「寝かせたってぇな」
「風邪ひくから駄目です」
 きっぱりとアセビは言った。マサキを押しのけ、アイに近づく。床に転がって寝息を立てているアイは、疲れきった顔をしていた。
「……30分だけですよ」
 アセビはため息をついた。マサキがこくこくと頷いた。
「彼はいったい、どこに行ってたんですか?」
 アイを起こさないよう、アセビは声を潜めて問いかけた。ブイズたちはアイを温めるため、ぴったりと体をくっつけている。耳の折れたイーブイだけは引き続き旅番組を見ているが、ちらちらとアイを気にしていた。
「心配なんか?」
「違います」
 間髪入れずにアセビは否定した。
「ポケモンが心配なんです。かなり強そうなポケモンたちだったのに、あんなにボロボロになるなんて……何かあるんじゃないですか?」
「わいの口からは言えへん。どうしても知りたいなら、アイに直接訊いたって」
 マサキは頑として口を割らなかった。アセビはムキになって問いを重ねた。
「どうして止めないんですか?」
「止めてきく奴やあらへん」
「でも危ないじゃないですか!」
「関係ないんや」
「なんで! だって……!」
 アセビには理解できなかった。危ない事はやらない。当たり前だ。そうやって教えてもらった。それをやるのは馬鹿なことだ。
「友達に会いに行くんだ」
 アイがぽつりと呟いた。アセビとマサキが振り返ると、アイはゆっくり身を起こした。くっついていたブイズたちが散っていく。いつの間にか、そこに耳の折れたイーブイも混ざっていた。
「本当にそれだけ。心配することはないよ」
「じゃあどうして怪我してたの? 友達にやられたの?」
「辺鄙なところにいるからなかなか会いに行くのが大変で……いてて」
「怪我してるの? どこ?」
 アセビが慌ててアイに駆け寄ると、アイは意外そうに目をぱちくりさせた。
「僕はあちこち擦っただけで、大きな怪我はしてないよ」
「本当に? 我慢してるんじゃないの?」
 アセビはアイの服を引っぺがしかねない勢いだ。身の危険を感じたのか、アイがうろたえる。
「え、えと……その、僕、お風呂入るから」
 アイはアセビの手から逃げていった。「着替え!」とアセビがその後を追いかけた。マサキが息を漏らした。
「やっぱり心配なんやないか」
 アセビは家に電話を入れ、外泊許可をとった。「ポケモンの治療の為に泊りこむ事にしたから」嘘ではない。実際、アイのポケモンのダメージは大きく、みな瀕死に近い状態だった。何故ポケモンセンターでなく、マサキの家なのか訊いたが、マサキは言葉を濁した。この状態で家に帰るなんて、不安だ。少なくともアセビには出来なかった。
 マサキも説得して泊まり込む許可をもらい、テキパキとアセビは動いた。夕食を作り、ポケモンたちの世話をして、汚れた廊下と玄関を掃除した。風呂から上がったアイを捕まえて手当てをしようとしたが、「自分でする! 自分でやれるから!!」とアイが必死に訴えたので見逃した。
 アイのポケモンたちの様子を見に行くと、耳の折れたイーブイが回復装置を覗きこもうととび跳ねていた。アセビはイーブイを抱えてあげた。
「見える?」
 イーブイは嫌がらなかった。不安そうに、回復装置で眠るポケモン達を見つめていた。
「大丈夫だよ。ちゃんと、元気になるから……」
 イーブイが安心できるように、繰り返し、繰り返しアセビは「大丈夫」と言った。“絶対”とは言えない。そんなものはない。イーブイを抱える腕が小刻みに震えていた。
 ポケモンセンターの外で治療をしたことはなかった。それがこんなにも不安だなんて思わなかった。
 イーブイを保護した時も、息が苦しかった。
「大丈夫……」
 トレーナーは過信する。
 “ポケモンセンターなら治してくれる”と過信してやってくる。
 駄目だった時の事を、考えもしない。
「ぶい」
 イーブイがこちらを見上げていた。折れ曲がったままの耳がゆらゆらしている。
「耳、痛くない?」
「ぶぶい」
 イーブイが首を横に振った。
「良かった」
 泣き出しそうな顔が、イーブイの大きな瞳に映っていた。
 アセビはイーブイを床に降ろし、マサキの仕事部屋へ相談に向かった。どうせ今夜は寝付けそうにはない。やることが欲しかった。
 だがマサキは「体だけでも休めといた方がええで」と断った。ついでにパジャマも貸し出してくれたが、可愛らしいピカチュウ柄のパジャマだった。
「いやちゃうで。わいのやない。たまに手伝いに着てくれる子の置きパジャマやで。ほんまや」
 マサキは一生懸命否定したが、それはそれで別の疑惑が生じそうだった。
 マサキに従い、アセビは来客用布団にもぐりこんだ。あれこれと考えが浮かんではごちゃごちゃと頭をかきまわしていく。数時間ほどうとうとしたりもしたが、結局は目が冴えて起きだしてしまった。
 仕事部屋を覗くとマサキが突っ伏して眠っていた。肩からタオルケットをかけて扉をしめる。回復装置の部屋を覗く。順調そうでアセビは安心した。このまま一晩何事もなければ、明日には元気になる。最後にアイの眠っている部屋を覗いたが、ベッドはもぬけの殻だった。
「……?」
 冷たい風が吹いた。ベランダが開け放たれていて、アイはそこにいた。
「眠れないの?」
 振り返ったアイが訊ねた。アセビが頷くと、ちょいちょいと手招きする。
「来なよ。良いものがみられるよ」
 アセビは目を瞬かせ、ベランダへ出た。雨はもうあがっていた。月の光が射しこむ庭を見下ろすと、イーブイとブラッキーが何かしていた。
「ぶら」
「ぶい?」
 ブラッキーが姿勢を正した。額の模様が薄く光り出す。月の光を集めているようだ。一瞬金色に光り輝き、やがておさまっていった。
「ぶい!」
 イーブイがブラッキーの真似をして姿勢を正した。しばらくポーズをとっていたが、どこも光ったりはしない。ブラッキーがふるふると首を横に振った。
「ぶい……」
「ぶらぶら」
 ブラッキーがイーブイを慰めた。一連のやり取りを見て、アセビはぴんときた。
「今のは“月の光”?」
「晴れてる夜は、色んなブイズの技を教えてもらってるんだ」
「イーブイは月の光を覚えられないけど……」
「もしブラッキーにこの先進化するなら必要かも?」
「でも、進化しないことの方が多いんじゃない?」
「関係ないんだよ、彼には」
 アイは笑った。
「いつか一つを選ぶとしてもね。いまは、無数の可能性と遊んでるんだ」
 庭のイーブイは月の光を使えなかった。でも、一生懸命ポーズをとってみたり、月を睨んでみたりして、とても楽しそうだ。彼は彼なりに、先の事を考えてあれこれ試しているのだ。
「イーブイも、いつか旅に出るのかな」
「絶対行くと思う」
「危なくない旅ってないの?」
「トレーナーによるかな」
 アイは苦笑した。
「怪我してほしくないんだね」
「……うん」
「そっか」
 でも、難しい事なんだろう。アセビはアイを横目で見た。露出している肌にはたくさんの怪我の跡があった。ポケモンも酷い怪我だったけれど、アセビがアイを責められなかった理由はそれだ。
 人間は、回復装置にかけられない。
「しばらくは出かけないよね?」
「いや、明日ポケモンが回復したらすぐに出るよ」
 アイの返事に、アセビは目を丸くした。
「止めた方がいいよ。危ないよ」
「今じゃないと駄目なんだ」
「やめなよ。死んじゃうよ……」
 アセビは消え入りそうな声で言った。アイは驚いてアセビの顔を見た。
「ポケモンも、人間も、無理したら死んじゃうんだよ」
 自分を過信をしないで。
 今、目の前の人間に、アセビは死んで欲しくなかった。
「無理しないで。無茶はやめて。……お願いだから」
 自分には出来ない事がたくさんあって、どうにもならない事もたくさんあって、手の届かない事ばかりで。
 それはきっとアイも同じだ。どんなに強くみえても、限界のある人間だ。
 アイが息を呑んだ。
「泣かないで」
「泣いてなんか……」
 ぽろぽろと目から落ちていく滴が、拭っても拭っても止まらない。
 アイの手が彷徨うように動いた。躊躇いがちに、アセビの背中に触れた。背中をさする手は温かく、生きている人間の体温だった。言葉を迷いながらも、アイは口を開いた。
「……ルネシティの番組、覚えてる? 空を飛ぶか、ダイビングしないといけない街」
「ひっく……おぼえてる、けど……」
「僕は、そのどっちも使えない友達を迎えにいく。それは今じゃないと出来ない事で、僕にとって、すごく、大事なことなんだ」
「友達は、そこから、出たいの?」
「……分からない」
 アイは困った顔をした。アセビの背中をさすっていた手が止まる。
「……自分がやってることって、もしかして身勝手なことで、余計なお世話かも知れなくて……友達だって思ってるのも僕だけで、もう、諦めて欲しいのかもしれないって」
 アイの不安は、冷たい。深海の暗闇を進んでいた。
 冷たくて、暗くて、怖くて、深い不安の海だ。
 アイは黙ってしまった。アセビは止まってしまったアイの手をとった。同じように、迷いながら、言葉を選んでいく。「聞いてほしい事があるの」と、アセビは言った。
「私、最初はちょっと嫌だったの。イーブイに会うのが」
 一番最初に保護した時も、満身創痍なのに暴れてきて、とても大変だった。
「イーブイは全然心を開いてくれなくって、無視するし、威嚇するし」
 途方にくれた。どうにもならなくて、上手くやれない自分も嫌だった。
「……今も懐いてくれている訳じゃないし、私が何かうまくやれた訳じゃないけど」
 アセビは庭に目を向けた。遊び疲れたイーブイとブラッキーが身を寄せ合って丸くなっていた。いつの間にか、他のブイズもイーブイたちの傍に寄ってきていた。
 ――胸が温かくなるような気がした。
「でも、今、笑っていてくれるから。それが見られたから、助けてよかったって、関わってよかったって思う」
 アセビがとったアイの手は、温かかった。まっすぐにアイを見て、名前を呼んだ。
「だからあの時、声をかけてくれてありがとう。アイ」
 アイが目を見開いた。きゅっとアセビの手を握り返してくれた。
「……うん」
 月の光の下、わずかにアイの顔が赤かった気がした。






 ま、やりたいようにやったらええんちゃう?



「アセビ、落ち着かんのは分かる。だから別の部屋に行って欲しい」
「すいません」
 翌朝、アイは行ってしまった。アセビは一度家に帰った後、夕方に再度マサキの家を訪れた。アイはまだ帰っていなかった。しばらく待ってみたのだが、まだ帰ってこない。
 溜息ばかりでマサキに怒られたアセビは、庭の見える部屋で掃除をはじめた。
「ぶい?」
「餌ならまだだよ~……」
 イーブイの声にひらひら手を振る。すごすご戻っていくかと思われたが、イーブイはアセビの足元に近づいてきた。見ると、口に何かくわえている。
「どっから破いてきたの?」
 広告か新聞か資料か。カラー印刷されたルネシティの写真だった。
「ぶいぶい!」
 でしでしと前足でイーブイが写真を叩く。そして、アセビをじっと見つめてきた。
「行きたいの?」
「ぶい!」
「マサキさんに訊かないと……」
 アセビはイーブイを抱きかかえ、マサキの仕事部屋に向かった。
「マサキさん、イーブイがルネシティに行きたいって」
「あぁっ! 今ちょっと忙し――なんやて?」
 マサキが顔をあげ、アセビの腕の中に大人しく収まるイーブイに目を瞠った。
「イーブイ~! 人間大丈夫になったんかー!?」
「うわっ!?」
 凄まじい速さでマサキはアセビに迫ってきた。だがその瞬間、イーブイが激しく威嚇した。
「しゃー!!!!」
「なんでや!?」
 マサキが崩れ落ちる。イーブイは鼻を鳴らすと、非難の視線をアセビにぶつけた。
「なんで怒ってるの……?」
「ぶい! ぶいぶいぶいぶい!!」
 イーブイの激しい抗議の鳴き声。抱きかかえられてるのが嫌なのかと、アセビはイーブイを床に降ろした。直後にイーブイに体当たりされた。
「なんで!?」
「イーブイは、アセビに「連れてけ」いうとるんや……たぶん……」
 よろよろと復活したマサキが言う。
「せやろ、イーブイ」
「ぶい」
 イーブイが肯定の鳴き声をあげた。
「でも私じゃ連れて行けないですよ」
「そやったらアイに連れてってもらったらええ。アセビがイーブイ連れてって、アイがアセビを連れてくんや」
 マサキが手を打った。「どーせわいはイーブイに嫌われとるし」とちょっぴりどんよりしていたが。魅力的な提案にアセビは心が揺れたが、なかなか決心がつかない。
 目の前のイーブイはアセビの返答を待っていた。どこにもいかずに、じっとアセビを見つめていた。
「私でいいの?」
「ぶい!」

 ――君がいい。

 そう言われたような気がした。一瞬、アセビの頭をお母さんがよぎった。反対するかもしれない。
 それでも、口から言葉が零れた。
「私も、あなたがいい」
 アセビはイーブイを抱きかかえた。ふかふかしてて、アイとはまた違った温かさを持っていた。
「……イーブイのトレーナーは、決まりかな?」
 マサキがひとりごちた。
 イーブイを連れたトレーナーはハナダを旅立つのも、そう遠くはない。マサキは確信を持って思うのだ。