この汚らわしい、美しき世界

この作品はR-15です
 この世界のほとんどの人間は、この世界を一点の曇りもない美しい世界だと思っているらしい。
 この街に外からやってくる人間は、だいたいそんな奴らだ。立派で華やかな服に身を包んでやってきて、人間ひとりの体では受け止めきれないくらいの享楽にふけって、金とゴミとゲロを残して去っていく。
 奴らの目に映っているのは楽しいこと、心地よいことだけ。そうでないものなんてこの世界にはないって本気で思っているんだろう。世界は美しいもの、心地よいものばかりでできてるわけじゃない――学のないバカなあたしでも知ってるようなことがわからない大バカが、どうして金持ちになって遊び回ることができるんだろうな、といつも思う。
 そんなあたしは、"この世界のほとんどの人間"ではないほうの人間。この街に外からやってくるのではなく、この街の中で生きている人間のひとりだ。
 金とゴミとゲロ――それだけじゃないこの世界の汚いものを、美しいものしか見ようとしない人間のぶんまで背負わされて生きることを強いられた人間。そんな人間たちの汗と涙で、この見てくれだけは美しい歓楽街はできている。
 そんな美しさも、誰かが掃除してやんないとあっという間に汚くなっちまうのは世の道理。そんなわかりやすい汚さを背負うのが、あたしと相棒がこの街で背負っている役割だ。



 1.



 自販機で買ったクリームパンを朝食に食べた後、あたしはポケモンセンターの食堂を出てロビーへ歩み出た。
 出入り口の自動ドアのガラスを通して、外の様子をうかがう。鉛色の朝の光に照らされるビルに挟まれた狭い道路のアスファルトから、かすかな雨音が響いてくる。
 相変わらずの雨。もう夏めいたクソ暑い日差しがさんさんと降り注いでいてもおかしくない季節なのに、今年は梅雨が随分長引いている。灼熱の太陽の下よりも、このくらいの雨の中のほうが仕事は楽ではあるんだけど、こうも太陽が出てこないと気分も滅入るというものだ。
 ため息をついて、外から内へと視線を移す。朝早くという事もあって、ロビーには人っ子ひとりいない。点けっぱなしのテレビだけが、あまり大きくはない音をロビーに響かせている。
 映っているのはニュースのようだ。最近よく見るバラエティみたいなノリのやつではなくて、お堅い感じにまとめた女子アナが合いの手みたいに『ホニャララがありました』だけ言って、それ以外は全部やっぱりお堅い感じの男が読み上げるようなクラシックなやつ。
 正直テレビは嫌いだし、どんな番組であれ5秒以上見続けることなんか普通はしない主義だ。でも、今流れているニュースの中身は、ちょっと"普通"の気分ではいられなくなるようなものだった。
『――ポケモンの死骸が中から発見されたゴミ収集車からはモンスターボールの破片が発見されており、ポケモンが入ったままのモンスターボールがゴミ捨て場に捨てられていたものとみられています。先月29日以来、同様の事件はこの事件を含めてこれまでに5件発生しており、警察は警備の体制を強化しています――』
 無感情に読み上げる男の声。こいつがこの事件のことをどう思ってるかは知らないけど、こんな事件のことも無感情に読まないといけないこんな仕事、あたしには務まんないだろうな。
 最初にこんな事件が起きたことをボスから聞かされたのは、たしか先週のことだ。最近そういうことが多いから、ゴミ捨て場でモンスターボールを見かけたら用心するように、という釘刺しと抱き合わせでその話を聞かされて以来、この話に関するニュースだけは、流れているのを見たら柄にもなく見入ってしまう。
 なぜなのか。それはきっと、あたしはこの事件を他人事とは思えないからだと思う。捨てられてひとりで死んで、誰かに気づかれるのは死体になったあと。それは天涯孤独のあたしにとっても、行き倒れポケモンだったあたしの相棒にとっても、あり得たかもしれない過去だし、あり得るかもしれない未来でもある。



 ニュースが切り替わる。仕事をしないお偉方のお仕事頑張ってますアピールだ。もういいな。いい加減ぼさっとしてないで仕事に行かなきゃ。
 テレビに踵を返して、自動ドアを潜り抜けて表に出る。傘を広げてから、あたしはウエストポーチのジッパーを開いて、中からモンスターボールを取り出した。
「さ、出番だぞ。相棒」
 ボールを開く。足元に放たれた光の束は、赤ん坊くらいの大きさの緑色の丸っこい生き物に姿を変える。
 胴体いっぱいに広がる大きな顔に眠そうな大あくびを浮かべる彼こそ、あたしの繁華街サバイバルの頼れる相棒、ゴミ袋ポケモンのヤブクロン。名は『ヤブ』という。
 あくびを終えると、軽くストレッチのつもりか小さな腕をちょこちょこと振り回す。世間じゃあまり好かれないタイプのポケモンだけど、こうやって見てるとなかなか愛嬌あるやつだろ? ま、単なる親バカかもしんないけど。
「んじゃ、行こうか」
 ヤブの視線があたしと合ったのを確かめて、あたしはヤブに言った。ヤブはこくりと頷いて、小雨がリズムを奏でるアスファルトの上を歩き出す。ヤブが濡れないように歩幅を合わせて、あたしも一緒に歩き出した。



「おっと、そいつはあたしの取り分だよ」
 ビールの空き缶を拾ったヤブに、あたしは軍手をはめた手を伸ばす。わかってますよ、と言いたげに、ちょっと渋い顔をしながらヤブは空き缶をあたしに手渡してくれた。それをあたしは左手のゴミ袋に放り込む。
 さっきまであたしが持っていた傘を自分で差しながら、ちょこちょこと歩くヤブの後ろ姿はどこか物憂げだ。
 ヤブは自分の考えていることをわかりやすく表に出すタイプではないのだけど、それでも今のヤブは、ゴミを探しているのがよくわかる。最後まで収穫がこんな感じのままだったら、流石に何か買ってヤブにあげなきゃダメだな。財布には痛いけど背に腹は代えられない。大事な相棒にひもじい思いをさせるなんて、人としての道理に背くことだ。財布は貧しくなっても、心まで貧しくなっちゃいけねえ。



 毎晩無数の酔っ払いが歩き回るこの街は、朝になればそこらじゅうにゴミが散乱しているのが常だ。
 そんなゴミを拾って回るのが、あたしとヤブの生業。リサイクルできるものはあたしが回収して、そうでないものはヤブの腹の中へ。ゴミを食べて生きるヤブクロンと、ゴミを再生させる人間のコンビネーション。実に美しいエコロジーの絆じゃないか? これほど社会の役に立ってるんだから、もっと金を沢山寄越してほしいものだ。具体的に言えば、食う寝るところに住むところがまともに得られるくらいには。
 それでも、週の真ん中ともなると、繁華街に遊びに来る奴は流石に少ない。当然落ちているゴミもいつもより少ないわけで、おまんまが減ってしまうヤブにとっては憂鬱な日になるわけだ。今日も例外じゃなく、道に散らばっているゴミはそう多くなかった。



 ヤブが急に、持っている傘が置いていかれてしまいそうな勢いで駆け出した。
 どうした、と思ったけど、ここがどこだかを思い出せばその理由はすぐにわかった。
 もうすぐ公園に差し掛かる。その公園の近くにはゴミ捨て場があるのだが、ヤブはいつもそのゴミ捨て場で、袋が破れてしまっていたり、縛り方が甘かったりするゴミ袋からつまみ食いをしていくのだ。
「おいヤブ! あんまり食いすぎるんじゃねえぞ!」
 レインコートのフードを深くかぶり直して、あたしはヤブを追いかける。ゴミ捨て場のゴミはヤブもいつもならほんの少し失敬するだけなんだけど、この仕事を始めたばかりのころ、今日のようにゴミが少なかったときに、ちょっと目を離していたらいなくなっていたヤブがゴミを盛大に散らかしたゴミ捨て場の中で見つかって、ボスやらゴミ収集の人やらにヤブ共々こっぴどく叱られたことがある。またそんな目に合うのはごめんだ。
 ヤブの歩幅はかなり小さいから、運動音痴なあたしでも、追いつくことはできないにせよ見失わないように追いかけることはできる。
 雑居ビルやビジネスホテルに両脇を挟まれた道路の右手側が、不意に開けた。公園に差し掛かったのだ。
 公園とは言っても、繁華街のどまんなか。学校の校庭より一回りくらいは狭い、土が全く出ていない敷地の中に、バスケットボールのコートとポケモンバトルのコート、それと申し訳程度の木があるくらいのパッとしない公園だ。しかも夜中や朝早くは門が閉まってて、中に入ることができない。つまり今もそんな状態だ。
 公園だというのに人を拒む冷たいシャッターの前を通り過ぎて、右に曲がってすぐのところにゴミ捨て場はある。案の定、ヤブは右に曲がった。よかった、これでもう走らなくて済む……と、息を切らしながらヤブに続いて曲がり角を曲がる。
 果たしてヤブはゴミ捨て場を眺めていた。ショーウィンドウを眺める子供のように目をキラキラさせながら、積み重なったゴミ袋を物色している。あの時しこたま叱られたことは、ヤブもちゃんと覚えていてくれたらしい。心臓が張り裂けそうなくらい激しく高鳴っている胸をなでおろした。
 とはいえつまみ食いはつまみ食い。誰かに見られたら咎められても仕方のないことではある。あたしは深呼吸してあたりを見回した。朝6時前の繁華街、そうそう出歩いている人間などいやしないけど、念には念を入れて、だ。
 誰もいない。遠くで車の音はしきりに聞こえるけど、こちらに近づいてくるものはない。さっきより心臓が落ち着いてきた胸をまたなでおろして、あたしはゴミ捨て場へ視線を戻す。
 ヤブはもうおこぼれをいただくゴミ袋に目星をつけたようで、カラス除けの網の下に潜り込んで口の縛りが甘いゴミ袋の縛り口をほどいている。
 あれ、傘はどこへやったんだ? 変なところに放り投げてないだろうな……と思って、視線をヤブからそらして、ゴミ捨て場の正面に回り込む。
 お、よかった。あった。ヤブが持っていた傘は、丁寧に畳まれてゴミ捨て場の足元に寝かせて置いてあった。教えた覚えなんてないのにちゃんと傘をたためるとは、なかなかどうして賢いじゃないか。さすがはあたしの相棒だ。
 傘を拾って顔を上げる。ヤブは最初のごちそうを見つけたらしい。ゴミ袋の中に突っ込んでいた右手を、後姿を見ても嬉しそうな顔が見えてきそうないそいそとした手つきで引っ張り出した。



 それを見たあたしの顔は、ホラー映画で殺人鬼に最初に出くわして殺される運命にあるモブキャラみたいに見えたことだろうな。
「……おいおいおいおいおい待て待て待て待て待て!!」
 傘を放り投げ、ちゃぶ台をひっくり返す半世紀前のオヤジみたいな勢いで、あたしはカラス除けネットをまくり上げる。
「食うな! 食うなヤブ! それは食っちゃだめだ!!」
 ヤブの右手をまず右手で掴んで、それから左腕でヤブの身体を抱き寄せる。困惑しているのであろうヤブはあたしの腕の中でもがいている。ポケモンだけに力は強いが、それでも体格の差はあたしがずっと有利。あたしは力任せに、ヤブをネットの下から引きずり出した。
 勢いあまって後ろにのけぞり、盛大に尻もちをついてしまう。と同時に、ヤブが右手に持っていたゴミを取り落とした。
 雨に濡れたアスファルトの上に放り出される、紅白の球体。ころころと転がるうち、赤と白の境目にあるスイッチが路面にこつり、とぶつかった。
 球体がふたつに割れる。中から光が飛び出す。飛び出した光は一瞬艶やかにアスファルトを照らし出したと思うと、たちまちに消えた。
 光が消えた路上に残されたもの。それは、降りしきる雨を避けるために動こうともしない、小さなポケモンの姿だった。



 あたしは一度、尻もちをついたあたしの膝の上に収まったままのヤブへ目を向けた。
 目が合う。どうする、とヤブの目が語っている。せっかくの朝飯が台無しになってしまった戸惑いは抜けきれていないけれど、今の状況はただならぬものだ、ということは理解できている目だ。
「決まってんだろ」
 そう言って、あたしはヤブを膝から下ろす。ヤブもほとんど身体と一体化している大きな頭で頷いた。
 まだ痛むケツに鞭を打って、あたしは立ち上がる。そして、アスファルトの上に放り出されたポケモンに駆け寄った。
「……おい、大丈夫か、生きてるか?」
 毛むくじゃらのポケモンの肩のあたりを軽く叩いて、あたしは声をかけてみた。
 ぴくり、と長い耳が動いた。閉ざされていた瞼がかすかに開く。よかった。返事ができる状態ではあるみたいだ。もっとも、噛みついたり逃げようとしたりはしないあたり、弱っているのははっきりわかる。
「心配すんな。姉さんはな、君を助けに来たんだ。今ポケセンに連れてったげるからね。頑張れよ。大丈夫だぞ」
 声をかけながら、あたしはポケモンの様子を確かめる。茶色い毛並みに、首元の白い飾り毛。これはアレだな、最近テレビやネットで飽きるくらいに見かける流行りのポケモン、イーブイだ。
 でも、このイーブイはテレビやネットで見るそれとは明らかに様子が違う。きれいなはずの毛並みは汚れだらけの毛玉だらけ。ろくに手入れもされてないような感じだ。
 ヤブと出会った時のことをふと思い出す。今は元気に走り回っているけどその時はボロボロで、すぐ近くにあるゴミ捨て場のゴミさえ口にできないほどだった。いてもたってもいられなくなって、大慌てでポケセンに連れ込んだっけな。
 イーブイに目に見える傷はなさそうだった。でも、素人のあたしが見ただけじゃわからないものがあるかもしれない。兎にも角にもポケセンだ。
 捨てられていたモンスターボールのスイッチを押して、イーブイをボールの中へ戻す。ああ、また走らなきゃならないな。でもイーブイの命には代えられない。腹をくくれ、あたし。
「ヤブ、あたしポケセンに戻る。後でパンあげるから入ってな」
 ヤブのモンスターボールをポーチから出して、ヤブに声をかける。ヤブはもう一度力強くうなずいた。あたしはボールのスイッチを押して、ヤブをモンスターボールの中へ収めた。2つのモンスターボールをポーチに突っ込んで、路上に放り投げたままになっていた傘を拾い上げる。
 まだ仕事中だけど、捨てポケモンを助けるためとあらばボスもわかってくれるだろう。あたしはポーチからスマホを取り出して、ボスの番号に電話を発信しつつ、ポケセン目掛けて走り出した。



 2.



「ねえちょっと待ってくださいよ、どうしてなんです? なんで診察ができないんですか? それやるのがポケセンの仕事なんじゃないですか?」
 少しばかり人が増えてきたポケセンの窓口で、あたしは狼狽していた。
 つい今しがた、この場所にやってくるポケモントレーナーたちと同じように、あたしはイーブイの入ったモンスターボールをポケモンセンターの受付のお姉さんに渡した。モンスターボールを拾った経緯を説明して、この子を手当てしてほしい、と言って。
 ところが、だ。
「申し訳ないのですが、モンスターボールに登録されているトレーナーの同意と同伴がないと、原則として治療は行えないんです」
 お姉さんはモンスターボールを機械に通すや否や、頭を下げつつモンスターボールを突っ返してきたのだ。その理由がわからなくて問い詰めてみたら、こんな答えが返ってきた。そして今に至るというわけだ。
 今の電子化されたモンスターボール管理システムはなかなか凄くて、専用の機械に通せばトレーナーの顔写真まで分かるらしい。それを見て、お姉さんはこのイーブイのトレーナーがあたしの言葉通りあたしじゃないと理解したのだろう。だから、対応はできないというわけだ。
 口に出して言うことはしなかったが、ふざけんな、と言いたかった。モンスターボールもなく野ざらしになっていたヤブのときはすぐに診てくれたというのに、誰かのボールに入っているというだけでこれらしい。そりゃ確かに自分の相棒を赤の他人にあれこれされたら嫌だけど、そこまでするのかね、とも思わずにはいられない。人間の作った仕組みってのはなんと面倒くさいのだろう。
「"原則として"ってんなら、例外はあるってことですよね。ボールごと捨てられてたこのイーブイを診れる例外ってないんすか?」
 こういうルールってものにはだいたい穴があるものだ。というより、命に関わるこういうことにこういう穴がなかったら大変だ。そう思って、あたしは一縷の願いを胸に言葉を続けた。
「はい、緊急時にはボールに登録されたトレーナーの情報を削除して対応することは可能です」
 なんだ、あるんじゃないか。ならなんでそれを先に言わないんだよ?
「ですが……」
「……です、が?」
「当センターには、トレーナー情報にアクセスして書き換えすることができる技術者がおりませんので、対応できないのです。申し訳ございません」



「あの……あの、お姉さん」
 どんな言葉を口から出すべきなのか、見当もつかない。口から出るのはそれだけでは特に意味を持たない言葉だけだった。
 ポケモンを助けるために必要な人がポケセンにいない、ってどういうことだ? それでもポケモンの命を預かるポケモンセンターかよ、この人でなし! と言いたいのはやまやまだけど、このお姉さんだって、そんなことを言われてもどうにもできない、組織の中で言われるがままのことしかできない下っ端でしかないことはあたしにもわかる。この感情を直接ぶつける相手はお姉さんの上司も見るであろう利用者アンケートにでもしておこう。ならばどうする?
「えっと……その、お姉さん、ニュース見てますよね? ゴミ捨て場にモンスターボールごと捨てられて、ゴミ収集車のプレス機でボールごと潰されるポケモンがいるって話、最近よく聞くじゃないですか。そうなりかけてたこのイーブイをあたしは助けたんですよ? なのにポケセンで治療は受けられないって、あんまりじゃないですか」
 散々迷った挙句、口から出てきたのは世間話だった。情に訴えたって何かが変わるわけじゃないにせよ、最後の言葉は付け足さずにはいられなかった。
「そうは言われても、対応できる人員が当センターには配属されていなくて……」
「それはさっき聞いたよ!……ごめん、おんなじこと何度も言わせちゃって」
 一瞬きつい言葉を言いそうになったけど、こらえて続ける。
「でもさ、あたしはこの子を助けたいの。それって人として当然のことでしょ? ここじゃどうにもできないなら、なんとかする方法見つけたいんだよ。だからさ、せめて、せめてさ、この子を助けるためにはどうしたらいいか、せめて教えてくんないかな? そのトレーナー情報をどうにかできる技術者とやらがいるポケセンをさ、教えてくれるだけでもいいんだよ。ねえお姉さん」
 祈るような気持ちで、あたしは言い続ける。正直怖かった。教えられたところがとても遠いところだったらどうしよう。歩いたら何時間もかかるようなところへ電車を使って行くことだって、あたしの懐事情ではそう簡単にできることじゃない。
 でも、だからと言ってこのイーブイを見捨てることだけはやっちゃいけない。その想いが揺らぐことはなかった。あたしはイーブイを助けて『大丈夫だぞ』って言った人間なんだ。ポケモン相手であっても嘘つきになんてなりたくない。まして自分がついた嘘のせいでイーブイが死ぬなんて事になったら、きっとあたしが死ぬまで後悔することになるだろう。明日飯抜きになったとしても、借金背負って首を吊る羽目になったとしても、そんな後悔を抱えて生き続けるよりはマシってもんだ。
 だから頼むよ。どんなことだってしてやらあ、このイーブイだけはせめて助かる方法を――



「あのー、ちょっと、いいですか」
 聞こえてきた声は、受付のお姉さんのものではなかった。もっと低い女の声。あたしの周りでいつも聞く言葉と、ちょっとイントネーションが違うなまった感じの言葉だった。
 えっ、なに? と思うや否や、何者かがあたしの左隣に立つ。
 背の高い女の人だった。受付のお姉さんはおろか、この歓楽街のそこかしこを歩いてる男どもよりも余裕で高い。170代は間違いなくありそうだ。なにより印象に残るのは、ドレッドにまとめた黒い髪と、黒褐色の肌。この人、外国から来た人なのかな。
「私、ボール管理システムのエンジニアなんです。もしよければ、力になりますよ」
 そう言って、女の人は名刺を受け付けのお姉さんに渡していた。
 え、うそ。マジ? こんな都合のいいことってあるもんなの? 夢じゃないよね?
「……あ、あの、その、ありがとうございます」
 さっきから悪い意味でもいい意味でも驚いてばかりで、口が思うように動かない。それでも必死に口を動かして、助け舟を出してくれた外国人さんへお礼の言葉を伝えた。
「『人として当然のこと』をしたまでだよ」
 あたしを一瞥して、外国人さんは笑顔でウインクしてみせながらそう答えた。
 神様なんてこの世界にはいないんだ、と今までずっと思っていたけど、その考えを改めなきゃいけないかもしれない。再び受付のお姉さんのほうを見てなにやら話している女の人を見ながら、あたしはそんなことを考えていた。



「所有権が違う人のものになってるポケモンを緊急に診なきゃいけないときは、いったん登録されたトレーナーの情報を消さないとなんないの。つまりは"逃がす"必要があるんだけど、それができるのはポケモンを所有してるトレーナーだけでしょ? だから、それをするためにボールの管理システムにアクセスして、システム管理者としての権限で"逃がして"やる必要があるわけ」
「ははあ、なるほどね……」
 なんでまた、こんな面倒くさい仕組みがポケセンにはあるんだ? と尋ねたあたしに懇切丁寧に答えてくれている外国人さんの話を、あたしはウォーターサーバーの水を飲みながら聞いている。
 結局、外国人さんの手でイーブイは彼女――今しがた分かったことだが、あのイーブイは雌だったらしい――を捨てた忌々しい人間のモンスターボールから無事に"逃がされる"ことができた。そうして誰のものでもなくなったイーブイは、ようやく診察を受けさせてもらえることになった。今はまだイーブイは診察室の中で、あたしたちはイーブイが出てくるのをロビーで待ってるところ。仕事に戻んないとヤバいかな、と思ったけれど、ちゃんと見ててやれ、集めたゴミはポケセンまで手の空いた人に回収しに行かせるから、とわざわざ向こうから電話をかけてきてくれたボスが言ってくれたのはありがたかった。ろくでもない世の中だけど、やっぱいる所にはいいやつがいるもんだ。まだこの世界も捨てたもんじゃない。
「しかし腑に落ちねえなあ。捨てられたポケモンを助けるために、助ける側が改めて"逃がす"必要があるなんてさ。逃がすくらい捨てたてめえが責任もってやれよなっての!」
「私も同感。でも、私たちもポケモンから見れば、捨てたヤツと同じ人間だからね……私が取れるものなら、責任取んなきゃね」
 そう言って外国人さんは、自動販売機で売っている紙コップのコーヒーを口に含んだ。いい香り。ああ、コーヒーなんてしばらく飲んでないな。
「……お姉さん、どこから来たの?」
 話が止まってしまうのがなんだかもったいなくて、何気ない話を振ってみる。
「アイオから」
「ごめん、アイオ……ってどこの国だっけ?」
「アメリカの西海岸だね」
「遠いとこから来たんだね……観光?」
「うん、2年前まで仕事で日本にいたんだけど、久しぶりに寄りたくなっちゃって」
「へえ……」
 遠い外国に観光旅行か。近場の海水浴場や温泉地まで行くのだって高嶺の花なあたしにとっては、まったく想像もつかない遠い世界のお話だ。そんな遠い世界の住人と偶然同じ時間に、偶然同じポケセンに居合わせて、捨てられポケモンを助けたいという思いが縁で偶然知り合って、こうして話をしている。なんだか不思議だ。こんな人生でも、何があるかわからないものなんだな。
「ねえお姉さん、名前なんていうの?」
 気が付けば、あたしはそんなことを訪ねていた。
 自分から話し相手の名前を訪ねたのなんて、ずいぶん久しぶりに思える。今の暮らしを始めてから、他人と積極的に関わりを持とうとしたことなんてほとんどない。そもそも、あたしみたいな人間がこの世界にいる、ってことさえわからないような奴だらけの世の中なのだ。そんな世の中で、関わりを持てそうだと思える相手なんてめったにお目にかかれるもんじゃない。
 この外国人さんは、まさにその『めったにお目にかかれるもんじゃない』人だ、とあたしの第六感が告げている。一度助けられたくらいでお人好しが過ぎないか、とも思ったけど、腹の底に汚い何かを持っているような奴にも見えなかった。そんな奴ばかりを見てきたからか、この人はそんな悪い人じゃない、と思いたい欲も、なおさら強くなってるのかもしれない。
「私? 私はラティーシャ。あなたは?」
 朗らかな笑顔を浮かべて、外国人さん――ラティーシャは答えた。
「あたしはアキラ。ま、これも何かの縁だし……よろしくね、ラティーシャ」
 握手をしようと手を伸ばす。こんなことするなんて本当にいつ以来だろうか。胸が高鳴る。これってもしかして、運命の出会いかなにかだったり――



 ポーチが震える。スマホの着信だ。
 ああもう、大事なときに水を差してきやがって! スマホを出して画面を見ると、同僚の名前が出ていた。ああ、ボスに頼まれてあたしのゴミ取りに来てくれたんだな。ありがたい。今度酒の一杯でもおごらなくっちゃな。
「わりぃ、仕事の電話だ。ちょっくら表行ってくるよ。すぐ戻るから!」
 視線をスマホからラティーシャに移して、あたしはラティーシャに詫びを入れる。
 いってらっしゃい、と見送りの言葉をわざわざくれたラティーシャに背を向けて、あたしは歩き出した。ポケセンの中に持ち込むわけにもいかないから目立たないところにこっそり隠しといたんだけど、バレてねえかな、ゴミ袋……



 3.



 イーブイはなかなかタフな奴だった。ポケセンでの最初の診断を終えたときには、まさに行き倒れといった感じにぐったりしていたのだけど、ポケセンの人からちゃんとした食事と薬をもらえるようになってから、彼女はみるみるうちに回復していった。あれから1日に3回くらいは様子を見に行ってるけど、今は汚れていた身体も洗われてふかふかになっているし、捨てられて弱っていたのが嘘みたいにピンピンしている。ポケモンの生命力の強さはすごいもんだな。
 ただ、心配事もないわけじゃない。それを知ったのは、イーブイが元気を取り戻して自分で歩き出すようになったおとといのことだった。
 イーブイは、右の後ろ足を引きずるようにして歩いていた。まだ治ってない怪我があるんですか、とポケモンを診る獣医さんに訊ねてみたら、怪我があるわけじゃなく、脚に麻痺があるらしい、と言われた。先天的なものか、あるいは病気の後遺症か。どちらにせよ、治療して動かせるようになるようなものではないらしい。
 それでもイーブイは健気なもので、脚を引きずりながらもあちこち歩き回っては、他のポケモン達を一緒に遊びたそうに眺めたり、飯をねだりにいったりしている。そんな当人にしてみれば大きなお世話なのかもしれないけど、見ているこっちはハラハラが止まらないのだ。
 加えて、誰がこのイーブイの面倒をこれからみるのか、というのも悩みのひとつだ。あたしがこれ以上ポケモンを増やすのは難しいし、事件に巻き込まれたイーブイを助けたことを通報した警察に、被害者たるイーブイの保護をお願いできないかとついでに頼んでもみたが、その件についてはけんもほろろにあしらわれてしまった。加害者に興味はあるが被害者はどうでもいいらしい。そんなの警察としてアリなのか。警察なんてしょせんそんなもんだと思いつつも怒りを隠すことはできなかった。
 そんなあたしの心配事を汲んでいるのか、ラティーシャはハラハラするそぶりも見せず毎日欠かさずイーブイの面倒を見続けてくれている。
 ラティーシャときたら殊勝なもんで、警察が頼りにならないのならと、イーブイの新しい主人を探すための張り紙やチラシを持っているタブレットPCを使って作っては、コンビニのコピー機で印刷してポケセンで配ったり、街角に張って回ったりしている。もちろん、しかるべきところの許可を取ったうえで。
 観光に来たのにこんなことずっとやってていいのか、休みだってそんなに長くないだろ……と思って訪ねてみたら、休みは1か月近くあるんだし、1週間や2週間くらいはどうってことない、という。
 あたしは二重に驚いた。1ヶ月も仕事の休みがもらえる人間がいるんだということと、彼女はそんなせっかくの休みを潰してまでイーブイに尽くそうとしてくれているということに。
 そんな時間を持て余している良心の塊のような人間がいないと、ポケモン1匹助けることさえこんなに難しいのか。そう考えると、どうしたってセンチな気分になってしまう。あたしがこのイーブイを助けたことは、本当に正しかったんだろうか。そんなことまで考えたくらいだ。
 悩み多い日々を過ごしていたさなか。一緒にイーブイを連れて外を歩いてみようか、とラティーシャが提案してきたのは、イーブイを助けてラティーシャと出会ってから5日目の仕事あがりのことだった。



 あたしはイーブイを抱きかかえて、ラティーシャと一緒にイーブイを見つけたあの公園を訪れていた。
 暑さもそれなりに和らいだ午後6時半の空は、相も変わらず鈍色の分厚い雲に一面覆われている。雨がさっき止んだのは幸いだったけど、いつまた降り始めてもおかしくない感じの空ではあるから、雨具はしっかり持ってきた。あたしはポーチにレインコートを入れて、傘はヤブが持っている。
 雨が残した湿り気がまだ残っている公園の隅っこに、あたしはイーブイを下ろしてやる。あたしの手を離れるや否や、イーブイはトコトコとびっこを引きながら歩きだして、舗装のひび割れに生えているタンポポを眺めたり匂いを嗅いだりしていた。
 ラティーシャはポケセンの獣医さんとちゃんと確認した上でこうすることを決めた、と言っていたけど、本当に大丈夫なんだろうか。そんなあたしの思いを察してくれているのか、それとも単に遊び相手ができて嬉しいのか。ヤブはイーブイのそばにくっついて、イーブイと一緒にタンポポを眺めたり、ときどき顔を上げるイーブイと目を合わせては笑いあったりしていた。
「アキラのパートナー、優しいんだね」
 あたしの隣で一緒にヤブとイーブイを眺めているラティーシャが言った。
「まあね。あたしの自慢の相棒さ。ヤブって言うんだ。イーブイをゴミ捨て場で見つけたのもあいつなんだぜ」
 そういえば、ヤブのことをラティーシャにちゃんと紹介するのは初めてだ。ポケセンの中ではヤブの身体の臭いがどうしても嫌がられてしまうから、ポケセンの中でヤブを出すことはできない。だから、あたしとまだポケセンの中でしか話していなかったラティーシャには、ヤブを見せたことも一度もなかったのだ。
「へえ、そうなんだ」
「つまみ食いしようとしてたゴミ袋の中から偶然、イーブイのモンスターボールを拾い上げてさ。それは食うな! って必死で止めたんだぜ」
「ははは……」
 呆れたように笑うラティーシャ。英雄譚みたいなものを期待していたのなら、ちょっとがっかりさせてしまったかもしれないな。
「……でも、中身がイーブイだったってわかってからは、あいつも真剣な顔になってたよ。あいつも、もともと行き倒れになってたのをあたしが助けたポケモンだったからだろうな、きっと」
「そうなんだ」
「ああ、もうかれこれ4年くらいか……冬のゴミ捨て場で凍えて倒れててさ、あわててポケセンに担ぎ込んだんだよ。ボールには入ってなかったから、イーブイの時みたいなもめごともなく診てくれて、そしたらなつかれちゃってさ。それからずっと一緒にやってるんだ」
 ヤブとの馴れ初めを誰かに話すのなんて、もしかしたらこれが初めてかもしれない。それからとりとめもなくヤブとの思い出をラティーシャに言える範囲で話していたけど、話しているうちに、自分でもいろいろと忘れていたこともあるような気がしてきた。
 ……まあ、思い出したい思い出より、思い出したくない思い出のほうがいっぱいあるような身の上だ。あまりこういうのは得意じゃないな、と話しながら考える。
「えーと、それから……そうだな……」
 結局、そう多くを話さないうちに話題に詰まってしまう。あたしは笑ってごまかしながらラティーシャを見た。不機嫌そうな顔は全くしていなくて、変わらない笑顔を浮かべていてくれたのが少し嬉しかった。
「あ、私ちょっとトイレに行ってくるね」
 あたしの話にずっと相槌を打ってくれていたラティーシャが、ちょっと久しぶりに自分の言葉を口に出した。
「あ、おう、いってらっさい」
 トイレに向かって歩いていくラティーシャの背中を見送りながら、あたしは話をいったん区切るタイミングができたことに安堵のため息をついていた。
 視線をヤブとイーブイへ戻す。ヤブとイーブイは、向かい合ってニコニコと笑いあっていた。
 さあ見てごらん、と言いたげにヤブが傘を持った右手を上に掲げる。何をするのか? と思ったら、その手で傘をバトントワリングみたいに回し始めた。それを見ているイーブイはきゃっきゃと笑っている。
 あいつ、あんな器用なことできたんだな、とあたしは舌を巻いた。でも、それなりに眺めの傘を結構勢いよく振り回しているから、誰かに当たらないように見ててやらないと。
 でも、そう思っていても、今は曇り空の夕暮れ時。あたりはもうだいぶ薄暗くなり始めていて、回る傘の輪郭を捉えることもちょっと難しくなっている。暗くなってきたから、子供はそろそろ帰りなさい、と言われるような雰囲気だ。
 大人の自分でもちょっとおっかないかな。昼間は暑いからって、外を歩かせるには遅い時間にしすぎたか……もっと早くそう考えられなかったことを、あたしはすぐに後悔することになった。



「おい!」
 いきなり男の怒鳴り声。なんだ、と思う間もなく、背中をいきなり強く押された。
 こちらを見ていたヤブの目の色が変わるのが見えた。振り返って、笑顔が急に引きつるイーブイの姿も。ふたりの上に倒れちゃこんじゃいけないと、なんとか立てた右腕で身体を受け止める。
「……てめえ、何しやがる!」
 利かせられる限りのドスを利かせた声で、振り返りながらあたしは叫んだ。
「お前こそ何してんだよ、え? 汚えヤブクロンに傘なんて振り回させてあぶねえじゃねえか。おかげで怪我するとこだったんだけど?」
 後ろからあたしを突き飛ばしてきたのは、Tシャツ姿のガラの悪そうな男だった。数は2人。手前にいる髭を生やした奴が、多分あたしを押し倒した奴だな。ヤブのやってたことが危ないことだってのは言い逃れはできないけど、あたしの後ろに立って奴がどうやってヤブの傘で怪我しそうになったんだか。
 ……つまり、だ。こいつらは道理なんか持ち合わせちゃいない、ただ殴りたいだけで人を殴りにくるような奴らってことだ。こういう奴に出くわした経験は一度や二度じゃないけど、よりによってこんな時に出くわしちまうなんて。どうする、あたしはよくても、イーブイは、ラティーシャはどうすりゃいい?
「あー、こいつ、ポケセンに居座ってるゴミ拾い女っすよ」
「え、お前こいつ知ってんの?」
「近くのポケセンに住み着いてて、毎朝ゴミ拾いしてるんすよ。デブで汚い女の相棒がヤブクロンって、本当にお似合いっすよねー」
「へー、そんなのがイーブイ拾って張り紙はって主人探しなんかしてたのかよ。笑っちまうなあ!」
 キャップを被った後ろの男が唐突に、髭の男に話し始めた。立ち上がろうとしてるあたしのことそっちのけで、あたしのことを散々貶して笑ってやがる。
 怒りの炎が、心の中で燃え滾っていた。デブなのも汚いのも事実だが、だからってそれを理由に侮辱される筋合いはねえ。
「……いきなり人を突き飛ばすような野郎に、危ないとか言われる筋合いはないんだけどな。それと……デブで汚い女がイーブイ助けて悪いかよ。舐めんじゃねえぞクソ野郎。ヤブの毒ガス吸って1週間寝込みたいか?」
 ドスを利かせた声のままで、あたしは言い返した。それと共に、ヤブがあたしの前に進み出てくる。自慢じゃないけど、ヤブはそれなりにケンカは慣れているほうだ。今みたいな状況に陥った時、助けてくれたのは一度や二度じゃないくらいにある。
「ポケモンバトル? いいねえ、負けてヒス起こしても知らねえぞ?」
「そうだな、あんな汚い女にイーブイなんか持たせてたら、イーブイもヤブクロンみてえな毒タイプになっちまう。俺たちで助けてやんなきゃ、なあ?」
 ガラの悪い男2人が、モンスターボールを手に取る。こいつら、イーブイが狙いなのか?
「てめえら、イーブイが欲しいってんならまずポケセンに電話しろって張り紙に書いてあったはずだぞ! 字読めねえのかお前ら?」
「知るかよ! 行けぇ!!」
 どうやら言葉もわからないらしい男2人は、それぞれモンスターボールを投げた。
 ヒゲの男が投げた方からは、鉄の塊みたいな四足のポケモン、帽子の男が投げた方からは、両腕が鋭い鎌になった虫ポケモンが出てきた。
 コドラにストライク。厄介そうなポケモンだ。しかも2対1。いくらヤブでも、これは勝てるかどうかわからない。
 どうするヤブ、と思ってヤブを見る。ヤブは傘を放り投げて、あたしの目をきっと睨んだ。そして左手で、あたしの足元を指す。
 ………分かった。そういうことだな。あたしはすぐさまイーブイを抱える。この場はヤブに任せて走って逃げようかとも考えたけど、それはできない。相手はダブルなんだ。そうしたらどっちかにヤブを任せて、もう片方があたしを追ってくるだろう。そうなったら、どうやってもイーブイは守れない。それに、ヤブを見捨てて自分だけ逃げるなんて、理屈じゃそうしたほうがいいとしてもできることじゃない。
 ……やるっきゃねえ。あたしは生唾を飲み込んだ。
「連続斬りだ!」
 帽子の男の声。と同時にストライクがヤブに斬りかかる。
「左!」
 右手で相手が斬りかかるのを見て、あたしは叫んだ。ヤブはすぐさま左へ跳ねて、襲い来るストライクの鎌をかわした。
「ヘドロ爆弾だ!」
 あたしはヤブの得意技の名を叫ぶ。ゴミ拾い屋として公園を汚すようなことはしたくなかったのだけど、この際仕方がない。
 黒いヘドロの塊を、狙いを定めてストライクに放つヤブ。だが。
「アイアンヘッド!」
 今度はヒゲの男の声。するとコドラが、ストライクとヤブの間に割って入ってヘドロ爆弾を受け止めた。
 コドラはそのままヤブへ向かって突撃する。船のへさきみたいにエッジの効いた石頭が、ヤブの身体にもろにぶち当たった。
 体重差はかなりのもの。たまらずヤブは弾き飛ばされてしまう。しかしそれでも、ヤブは受け身をとって立ち上がる。この程度で伸されるほどヤブもやわじゃない。
 だが。
「どうしたどうしたぁ? 威勢がいいのは声だけかよぉ?」
 ヒゲの男のイキった挑発はともかく、2対1の数の差はやはりいかんともしがたい。でも、そのまま逃げようったって逃げられるもんじゃない、ってのは先程考えたとおりだ。
 畜生、もうダメなのか? イーブイを見捨てるかここで死ぬか、2つに1つだってのか?
 ……目の前のことを考えるのに精一杯だったあたしは、迂闊にも大事なことを忘れてしまっていた。さっきまであたしの隣にいた彼女のことを。



「終わりだ! アイアン――」
「インファイト!!」
 ヒゲの男の声を、突如女の声が遮った。
 ヤブに狙いを定めていたコドラが、突然何者かに突き飛ばされた。倒れ込むコドラに、突然現れた何者かは容赦なく拳と蹴りを叩き込んでいく。
 小学生の子供くらいの大きさの、人型の影。まさか小学生が素手ゴロでポケモンをぶちのめすなんて絶対にありえない。じゃああいつは。
 しこたま殴られたコドラが立ち上がれなくなるのを見届けて、影はようやく動きを止めた。仁王立ちしてやっと、薄暗い中でもその姿をはっきりと捉えることができた。
 道着を身に着けたような身体に、セルリアンブルーの頭と手足。あれはテレビで見たことがある。人間に似ているが人間ではないポケモン、空手ポケモンのダゲキだ。
「ずいぶん騒がしいことするんだね。あんたたち、私の友達に何か御用?」
 勇ましい女の声。聞こえてくるのは、この公園にあるトイレのほうからだ。
 そうか、そういうことか! あたしはトイレのほうへ視線を動かした。果たしてそこに立っていたのは、夕闇の中でもはっきりとわかる勇まし気な笑顔を浮かべた、背の高い女性の姿。
「……ラティーシャあ!!」
 単にラティーシャがあたしを助けてくれた、というところにはとどまらない強い喜びのあまり、あたしは思わず声を上げてしまっていた。ああ、神様ってマジでこの世界にいるものなんだな。
「……友達? ホームレスにこんな外人の友達がいるって? じょ、冗談じゃねえぞ!」
 うろたえる帽子の男。そいつのストライクも、帽子の男の焦りを感じ取って取り乱してしまっているように見える。おっと、こいつは喜んでる場合じゃねえな。
「ホームレスに外国人の友達がいちゃ悪いかよ! ヤブ!」
 いちいちどうするかを指示するまでもない。もう攻撃を阻むコドラは戦えないのだから。
 ヤブは寸分の迷いも見せずに、ストライクに向かってヘドロ爆弾を放つ。クリーンヒット。着弾の衝撃で跳ね飛ばされたストライクは受け身を取って姿勢を立て直すが、身体がふらついている様子がはっきりと見て取れる。どうだ、ヤブの十八番のお味は!
「てめえ、ふざけんな! 2対1だなんて卑怯だぞ!」
「おいおい、可愛いヤブクロンを2人がかりでタコ殴りにしようとしてたのはどこのどいつだよ?」
 逆上して叫ぶヒゲの男に、あたしは思わず失笑してしまった。ついさっきまで自分がしてたことじゃないか。卑怯な手が使えるのは自分だけだと思っていたのか? あたしもそれができることを失念していたとはいえ、こんなお粗末な奴がこの世界にまさかいるとは思っていなかった。
 ラティーシャのほうを一瞥する。優しいラティーシャはあんなバカ男に対しても笑顔を向けていたが、その笑顔はあたしに向けられていたものとは少し違う。呆れのような嘲りのような、そんな感情が滲みだしている笑顔だった。ラティーシャも、あんな顔で人を見ることがあるんだな。
「……クソッ! ダゲキに燕返しだ! 片方先に潰せ!!」
 あたしの言葉とラティーシャの顔にしびれを切らしたのか、帽子の男が動き出した。ストライクは地を蹴り大きく跳びあがる。
 まずい、これじゃダゲキがやられちまう!
「ヤブ! フォローだ!」
 急いでヤブを向かわせる。が、ストライクの電光のような素早い動きに、ヤブはとても追いつけない。
 短い脚で必死に走るヤブを尻目に、ダゲキの上空から鎌を振りかざし襲い掛かるストライク。だがしかし、ダゲキは微動だにしない。ラティーシャも、何かしろとダゲキに言うようなことは何もしていない。
「おいラティーシャ! 何して――」
 間に合わない。重力の力を借りて加速したストライクの鎌が、ダゲキの身体に吸い込まれるように振り下ろされた。



「な……!」
 帽子の男の勝ち誇ったような顔が、一瞬にして唖然とした間抜け面に変わった。
「ペダルの"頑丈"さ、舐めてもらっちゃ困るよ」
 一方のラティーシャは、最初からこうなることを見込んでいたかのように余裕綽々だった。ここに来てようやく、あたしもダゲキに回避を指示しなかったラティーシャの意図を理解したのだった。
 ラティーシャのダゲキは、両腕を交差させ、ストライクの鎌を真正面から受け止めていた。まるで、時代劇の真剣白刃取りのように。
 手じゃなく腕を使って受け止めているから、無傷というわけにはいっていない。だが、戦いを続けられなくなるほどの深手はきっちりと回避しているのが分かる。そう、ラティーシャはダゲキに有利なストライクを使う相手の慢心を誘って、攻撃をあえて真正面から受け止め、そこから反撃に出る作戦に打って出ていたのだ。
 ダゲキが腰を低く下げる。まずいと思ったか、ストライクはすぐさま打撃から距離を取ろうとした。でも、時すでに遅し。
「カウンター」
 ラティーシャの言葉と共に、ダゲキはストライクの腹に強烈な蹴りを叩き込む。
 ストライクの身体が、鮮やかな放物線を描いて宙を舞う。頭の上を飛び越すストライクを追いかけてあたしは振り返った。
 ストライクの身体は、あたしが背を向けていた車道の、公園とは反対側の路傍に立っている電柱に背中から勢いよくぶち当たる。ストライクは顔から車道に倒れ込んで、そのまま再び立ち上がることはなかった。



 4.



 捨て台詞と共に逃げていったチンピラ2人組を見届けた後、あたしたちは公園で起きた出来事を警察に通報し、包み隠さず起きた出来事を話した。イーブイを保護した時にももちろん警察に通報はしたから、ほんの1週間で警察に二度も世話になったことになる。
 あいもかわらず、警察はそんなあたしたちの話をまともに取り合わなかった。無駄に時間ばかりかけて適当に話を聞いて、適当な注意喚起をするばかり。
 ラティーシャはそんなやる気のない警察どもにいい加減腹を立てたようで、チンピラたちを相手にしていたときとほとんど変わらない凄みのある笑顔で話をしていた。それでも警察ときたら態度を変えないもんだから困ったものだ。
 箸にも棒にもかからないような警察との問答が終わったころには、すっかり日が暮れてしまっていた。もしかしたらさっきの連中がボケセンにいるかもしれないからすぐに帰るのはまずい、というラティーシャの助言に従って、適当にハンバーガー屋に潜り込んで時間を潰してからポケセンに戻ると、時刻はすっかり午後9時近く。
 トラブルに巻き込まれてすっかり疲れてしまっていたイーブイをポケモンセンターの病室に戻して、あたしとラティーシャはポケセンのロビーでだべり込んでいる。



「持ってきたよ」
 ラティーシャが声をかけてくる。手にはカップ自販機のコーヒー。傍らにはさっき大活躍を見せたダゲキが。そのダゲキもまた、カップに入ったコーヒーを手に持っている。
 コーヒーを持ってラティーシャがあたしの右隣の席に座ると、ダゲキは甲斐甲斐しくあたしに手に持ったコーヒーを差し出してくれた。
「お、サンキュ」
 コーヒーを受け取ってお礼を言うと、ダゲキは執事みたいに綺麗なおじぎをあたしに返してくれた。
「ありがとね、ペダル」
 それを見たラティーシャも、ダゲキにお礼の言葉を返す。ペダルというのがこのダゲキの名前。ペダルはやはり甲斐甲斐しく礼をラティーシャに向かってすると、ラティーシャの右隣の席に腰掛けた。荒っぽい戦い方に反して、なかなか礼儀正しいポケモンだな。
「わりいな、ハンバーガーにコーヒーまでいろいろおごってもらっちゃって」
「気にしないで。大変だったでしょ」
 そう語るラティーシャの顔は、チンピラに立ち向かっていた時ともまた違う、憂いの浮かんだ笑顔だった。
「ラティーシャ」
「なに?」
「なんかさ……無理して笑顔になってない? 大丈夫か」
 あたしは心配になって、そう声をかける。思えば彼女の表情は、出会った時からずっと笑顔のまま。孕ませている感情は違っても、常にそれを笑顔で隠しているような雰囲気を感じずにはいられなかったのだ。別にそれが悪いってわけじゃなく、そうせざるを得ない何かがラティーシャの中にあって、それがラティーシャを苦しめているんじゃないか、という思いが捨てられないのだ。
「……確かに、アキラの言う通りかもね。無理してでも笑顔でいなきゃ、憎しみとか苦痛とか、いろんなものに飲み込まれちゃいそうで……そんな自分が怖いから、こうしてるのかもしれない」
 笑顔のまま、ラティーシャは語り続ける。この笑顔の裏側に隠された感情は、きっと鈍くさいあたしに読み取れるようなレベルのものだけじゃないのだろう。それくらいの想像はあたしにもつく。それは友達になって1週間も経ってないような相手に、そう簡単に話せるようなことじゃないってことも。
「アキラ、私からもひとついいかな?」
 しばしの沈黙を挟んで、とぎれとぎれに会話が続く。今度は、ラティーシャが最初に話題を振るほうになった。
「なんだ?」
「……あいつら、アキラのことを『ホームレス』って言ってたけど、本当なの」
 ……ああ、そろそろちゃんと話さなくちゃいけないなと思いつつほったらかしにしていたことを、とうとうラティーシャのほうから問われてしまったか。
「ああ、そうだよ。日本式に言うなら『ポケセン難民』ってやつさ。ゴミ拾いの仕事でちゃんとした家持てるほど給料もらえないし、もっといい仕事に就けるような学も資産も持っちゃいないからな」
 今のラティーシャとの距離感で話せるレベルのことだけだけど、あたしは包み隠さず話した。毎日朝早くからポケセンにいる割に、この街で仕事をしていて、どこかへ旅をしているわけでもないし、連れているポケモンは餌代のかからないヤブクロン。大方ラティーシャにもあたしがどういう暮らしをしてるかは察せていたと思ってたけど、彼女の話しかたからしてそれは間違いなさそうだった。やっぱり、こうやって仲良くしてると隠し事するのは難しいもんだ。
「……お互い大変だね」
「ああ、大変だよ。本当に」
 それだけ言い合って、また沈黙が始まる。ラティーシャは本当に信頼できる相手だ。こんなあたしを蔑むようなことはしないのはもちろんのこと、あたしの身の回りだとか昔のことだとかを詮索するようなことも、変に気遣うような言葉を続けることもしない。善意のつもりで人を深く傷つける言葉ってものが、どういうものかを知っている。1か月休みを取って海外旅行に出かけられるようなエンジニアでも、あたしみたいな人間の苦しみを分かってくれる人がいる。それを知れたことが、ラティーシャと出会って一番良かったことかもしれない。



 静かなポケセンのロビーに響く音は、テレビから聞こえる音だけだ。
 あたしはテレビをぼんやりと眺めている。流れているのは、外国で起きている凶悪犯罪を他人の不幸は蜜の味みたいなノリで紹介するバラエティ番組だ。雛段に並ぶオッサン芸能人たちが、やれ外国は怖いだの、日本は治安のいい素晴らしい国だの、そんなことをしたり顔で言い合っている。
「この人たち、テレビ番組に出てるくせになんにも知らないんだね。今日みたいなことをしてくる奴が実際にこの国にいるのに」
 ラティーシャが珍しく毒を吐く。見ると、笑顔だった彼女の顔が仏頂面に変わっていた。
「この国はさ、ああいう無知なオッサンが全てを動かしてる国なんだよ。テレビもポケセンも警察も一緒さ。金と所帯を持ってて、自分の世話をなんでも見てくれる女がいて、怖い奴に襲われることもないし、ポケモンを捨てる奴もいない。そんなちっちゃな自分だけの平和な世界が、この世界の全てだと思ってんだ」
 あたしが話しているうちに、テレビはCMに切り替わっていた。五体満足で毛並みもいいイーブイがアフレコされた人間の声と共にはしゃぎまわるCMだ。
 こういうCMのせいで、飼える環境もないのにイーブイを欲しがるやつが出てきたりするんだろうな。そう思うと、今はポケセンの病室で眠っているであろうあのイーブイのことを思い浮かべずにはいられなくなる。あのイーブイはCMのイーブイと違って、元気に飛んだり跳ねたりはできない。そうだったから、ゴミ捨て場にモンスターボールごと捨てられたんじゃないのか、と。
「……だから、そうじゃない世界に生きてるやつは、最初からいないことにされるんだ。目を向けてもなんの得もない、守っても手柄にならない、だからシカトするんだよ。暴漢に襲われるホームレスの女も、足の不自由なイーブイも」
 あたしは言葉を続ける。ポケセンだって警察だって、傷つけられた弱いものを守るためにあるもんだろう。なのに、そんな奴らに限って、社会からシカトされてるやつをシカトすることを積極的にやろうとさえする。おかしいよな。こんなの。
「……黒人の女も、そうみたいだね」
 ラティーシャはあたしの言葉にそう返す。テレビCMは何人かの外国人が出てくる別のものに切り替わっていた。そこに映っているのはみんな白人ばかりで、ラティーシャのような黒人は1人もいない。
 テレビからラティーシャに視線を移す。テレビを見るラティーシャの目は、今にも泣き出しそうな悲しみを湛えているように見えた。その奥で主人を見つめるペダルの顔を見て、あたしはやはりこの出会いは運命だったのではないか、と場違いなことを内心思っていた。



 5.



「ところでラティーシャよう、あいつらなんで電話しなかったんだろうな? 張り紙は見てるみたいだったのに」
「保護ポケモンを新しい飼い主に引き取ってもらうときは審査をするからでしょ。ポケモン使ってあんなことするような所業の悪い奴に保護ポケモンを渡すなんてことはまずないよ。トレーナーデータに簡単にアクセスできるポケセンなら、なおさらね」
 不良トレーナーに襲われた次の日の朝。あたしはいつものようにゴミ拾いのために早朝の街を歩いていた。いつものようにあたしはレインコートを着て、ヤブは傘を差して。
 ただ、いつもと違うことがひとつある。それは、あたしの隣をレインコートを着たラティーシャが歩いていることだ。イーブイ目当ての不良どもが逆恨みで襲ってくるか分からないからと、ボディガードを引き受けてくれたのだ。
 あんな目に遭ったばかりのあたしにとっては、目の前でバトルの腕を存分に見せてくれたラティーシャがそばにいてくれるのは心強かった。正直今は、ヤブがいるだけでは不安をぬぐい切れない。歩くのは人気のない朝早くだからなおのことだ。
 ポケモンセンターの人たちにも、イーブイをあこぎな方法で手に入れようとするやつらがいることはしっかり伝えてある。あたしたちも、引き取り手の手に渡るまではイーブイを外に出さないことを決めた。ポケセンに直接乗り込んでいくような馬鹿野郎がいないとも限らない。そんな奴が来たらポケセンもタダじゃすまないからか、さすがに腰の重いポケセンも出来る限りの手を打つことを約束してくれた。
 弱ったポケモンを助けただけのことが、まさかここまで物々しいことになるなんて。そしてまさか、そんなこと物々しいことになっても、あたしたちの周りはのんべんだらりと静観を決め込もうとするままだなんて。
 相変わらず降り続ける雨と、人っ子ひとりいない早朝という時間も相まって、まるで世界中にあたしとラティーシャ、それからヤブとペダルの2人と2匹だけが取り残されてしまったんじゃないかと思うくらいの孤独感が、あたしの心の中に重くのしかかっていた。



「それにしてもさ……」
 そんな中で、あたしは気のせいとはとても思えない異変を感じていた。
「なんか、やけに涼しくないか?」
 そう、あの公園に差し掛かる道に入ったあたりから、急に気温が下がり始めたように感じるのだ。最低気温は予報じゃ17度はあったはずなのに、それより断然涼しく感じる。いや、『涼しい』なんて断然通り越して『寒い』と言っても過言じゃない気温だ。
「確かにそうだね。誰かが氷タイプのポケモンの特訓でもしてるのかな?」
 のんきな言葉に聞こえなくもないラティーシャの返事。でも道の先を見据えるラティーシャの目つきは、不穏な事態を見通しているかのような険しいものだった。のんきに聞こえる言葉を使っているのは、神経をとがらせているあたしを気遣ってくれているからのかもしれない。
「そっ、そう……だな、そうだと、いいけど」
 あたしは気さくなノリで返そうとしたが、それでも身体に走った緊張のせいか、それとも季節外れな寒いくらいの涼しさのせいか、途中で何度も噛んでしまう。いつもならそれを自分で笑いのタネにすることくらいはできるんだけど、生憎今はそんな余裕を心に持てるような状況ではなかった。



 ふと、誰かの足音のペースが上がる。
 隣のラティーシャを見るが、彼女はあたしと同じペースで歩き続けていた。という事は。
「ヤブ、どうした?」
 駆けだしていたのはヤブだった。どうしたんだろう。またつまみ食いできそうなゴミでも見つけたのか?
 あたしはヤブの後を追って駆けだす。公園の横を通り抜けて、右へ曲がるとゴミ捨て場がある道。その曲がり角の道端で、ヤブは立ち止まった。
 ヤブが立ち止まったのは、まだシャッターで閉ざされているあの公園の入り口の前だった。いったいなんだ、と思ったのもつかの間。ヤブは初めてイーブイの入ったモンスターボールを見つけた時と同じように、右手を掲げていた。
 手に取っていたのは、飲み残しが少し入ったままのペットボトルだった。汚れたペットボトルはリサイクルに出せないし、出せるようにするには手間もかかるから、この手のゴミはヤブのおやつになることが多い。
 なんだよ、脅かすなよ……そう思って、胸をなでおろした、まさにその時だった。



「危ない!!」
 ラティーシャが叫ぶのと、青白い光と共に、ただでさえ妙に涼しくなっていた空気が一気に冷え込んだのは、ほぼ同じタイミングだった。
 冷たい空気を切り裂く青白い光は、雨に濡れた道路のアスファルトに、白い氷の一筋を描き出していた。そしてその先にあるのは。
「……ヤブ!!」
 持ち主の手を離れ力なく路上を転がる傘を見て、あたしはようやく悟った。そう、あの光が放たれた先にいたのはヤブだったのだ。
 ペットボトルを持っている手をばたつかせるヤブの下半身は、アスファルトと全く同じように氷漬けにされている。ヤブはそこから必死に抜け出そうとしているが、硬く凍り付いた氷塊はヤブが身動きすることを許さない。
「冷凍ビーム……やっぱり氷タイプ!」
 舌打ちとともにラティーシャが叫ぶ。そうか、ラティーシャはこういうことが起きるかもしれないって見越していたのか。それに引き換え、いつもと同じノリでゴミのつまみ食いを許してしまってたあたしはなんて馬鹿なんだ……!



「ご名答! 外人さんは頭が冴えるね。それに比べてホームレスはさすがホームレス。こんな簡単な罠に引っかかるなんてさ。拾い食いしないと生きてけないんだもんなぁ?」
 悔いるあたしの心に追い打ちをかけるように、朝5時半の路上に罵声が響く。
 声のした先を見る。交差点をまっすぐ進んだ先、4メートルくらい進んだ先の電柱の影から、レインコートを着た男が姿を現した。傍らには、ちょうどペダルと同じくらいの大きさの、和服を着た女のような姿のポケモンが立っている。雪国ポケモンのユキメノコだ。
「こんなところで待ち伏せして、私たちになんの用? あんたもイーブイが欲しいってクチ?」
 ラティーシャが前に歩み出る。右手のひらをあたしに向けて『下がっていろ』とジェスチャーを送りながら。
「いやぁ、別に? バトルもできないびっこのイーブイなんて役立たず、誰が欲しがると思ってんだよ? 俺はただ、俺のダチに恥をかかせた責任をあんたらにとってもらいたいだけさ」
「……てめえ!!」
 両掌を上に向けて、わざとらしくふざけた声でこちらを挑発するレインコートの男。挑発だと分かっていても、あたしの戦力になってくれるヤブが動けないことも分かっていても、一発殴ってやりたくなってしまう。ラティーシャが右手であたしを止めようとしてなけりゃ、実際殴りに行っていただろう。
 あたしを右手で止めたまま、ラティーシャは無言で左手に持ったモンスターボールを開いた。中からペダルが現れる。ユキメノコを見据えたペダルは、生唾を飲み込んで腰の帯を締めていた。厳しい戦いになるであろうことを覚悟しているのかもしれない。
「へえ、俺とやろうってんだ? 黒んぼの女が?」
「……恥を知りなよ」
 相変わらずのゲスい挑発に、ラティーシャは冷静に毅然と返していた。でも、握りしめられたラティーシャの手が細かく震えているのが、あたしにははっきりと見えた。



「地獄突き!」
 先に攻め込んだのはラティーシャだった。
 ラティーシャの怒りが乗り移ったかのように、ペダルの貫手が勢いよく放たれる。
 命中。姿勢を崩すユキメノコ。いいぞ、効いている!
 このまま押し切る、とばかりに、今度は左手で地獄突きを叩き込まんとするペダル。この調子なら押し切れる。あたしはそう思った。
 だが。
「サイコキネシス」
 レインコートの男の声。それと共に、ペダルの動きが突然止まった。
 ペダルに何か考えがあって止まったのか。いや違う。何かに動きを無理やり止められている。その証拠に、必死に動かそうとしている身体が震えている。しかし、ペダルの身体はぴくりとも動かない。かなり強烈な力だ。
 体を動かせないペダルに、ユキメノコはそろそろと近づいていく。動けないペダルをあざ笑うかのように。
 ペダルの目と鼻の先まで歩み寄ったところで、ユキメノコは立ち止まった。
「そんなポケモンで勝てると思ってんのかよ? ドレインキッスだ」
 ユキメノコはかがみこんで、貫手を打ち込まんと踏み出されたまま固定されてしまっているペダルの左足の太ももに、そっと口づけをした。
 ペダルの身体の震えが一層強くなる。苦しんでいるんだ。まずい、このままじゃやられる。でも、身体をがっちり固定されてしまっている以上、ペダルに為す術はない。
 ただ、持ち前の"頑丈"さだけが、すんでのところでペダルを耐えさせているように見える。でも、動きを封じられてしまっている時点で、それもあってないようなものだ。
「ふん、終わりだ。投げ飛ばせ」
 軽蔑の笑いとともに、男は言い放った。
 ペダルを拘束していたサイコキネシスの力が解き放たれる。ペダルは勢いよく弾き飛ばされ、あたしたち2人の目の前に立っている電柱へ叩きつけられた。
 くずおれるペダル。必死に立ち上がろうとペダルはあがくが、ボロボロに痛めつけられた彼の身体は、それを許してくれないようだった。
 昨日チンピラを瞬殺したペダルが、今度は逆に瞬殺された。信じられないけど、これは現実以外の何物でもない。季節外れに冷たい空気の中で、あたしの身体が、心が、氷のように冷たくなっていくようだった。



「……逃げるよアキラ!」
 ラティーシャが叫んで、あたしの左腕をひっつかんで走り出そうとする。促されるがままに、あたしもポーチからヤブのモンスターボールを出しながら振り返ろうとした。でも。
「逃がすかよ。やれ」
 突然、身体を強烈な力で拘束された。まさか、これはさっきペダルが食らっていたサイコキネシスか。
 自由が利かないまま、自分の足が引きずられていく。
「ポケモンが負けるだけで責任が取れるなんて思ってたの? ろくに考えることもできやしない女のくせして、俺のダチに手ェ出そうとするからこんなことになるんだよ。バーカ」
 無理やり体の向きを変えられる。目に映るのは両腕を前に突き出したユキメノコと、敗れたあたしたちをせせら笑うレインコートの男。
「……口を閉じろクソ野郎!」
 あたしと同じように空中に縛り上げられたラティーシャが叫ぶ。
「やれやれ、これだから始末に負えねえんだよなあ弱いヤツって。ホームレスに黒んぼにびっこに……お前らがいくら吠えたところで、お前らが役立たずのゴミなのはなんも変わんねえんだよ」
 しかし、手を出せないあたしらの言葉を聞きもせず、独りよがりな演説をレインコートの男は続ける。
 それをただ見ているだけなんて。悔しい。今までの人生の中で感じた屈辱の中でも、トップクラスの屈辱だ。
 その屈辱が、あたしの中で次第に炎へ変わっていく。もう力は残っていなくても、何かをしても何も変わらないにしても、何もせずに黙っていることなんてできなかった。
 何か、何か打開策はないのか。生きるか死ぬかのレベルの瀬戸際に追い込まれて、頭が必死に抵抗することを考え始めている。どうにか動かせる目を必死に動かして、あたりを見回す。どこかに落ちているかもしれない、希望を探して。
 ごそごそ、とかすかに音が聞こえた。
 視界の右下。電柱のふもと。氷で身動きを封じられた小さなゴミ袋ポケモンが、必死に自分を閉ざす氷を破ろうともがき続けている。
 ……そうだ。ヤブはまだあきらめちゃいない。ヤブは冬の寒い中をどうにか耐え抜いて、あたしに見つかって生き抜いたポケモンなんだ。この程度でくたばる奴じゃない、あきらめる奴なんかじゃないのだ。
 相棒がまだあきらめてないっていうのに、あたしだけ折れるわけにはいかない。
 あたしの心の中に、大きな勇気が湧きあがってきた。それを出し惜しむ理由なんかない。負けない。負けられない!



「いい加減にしろ!」
 もう聞く気も起きないような悪口雑言を言い続けるレインコートの声を、思い切り声を張り上げてあたしは遮ってやった。
「役に立つだの立たねえだの好き勝手言いやがって! あたしたちはてめえの子供部屋に置いてある人形じゃねえんだ! あたしもラティーシャもヤブも、ペダルもイーブイも! みんな自分が生きるために生きてんだよ! てめえのために生きてんじゃねえ!!」
 抑え付けられていたあたしのプライドが、鎖を引きちぎって解き放たれていくようだった。
「……てめえ、二度とそのきたねえ口が開けないようになりてえのか?」
「やれるもんならやってみろ! てめえがどれだけあたしたちを潰そうとしたって、あたしたちは諦めない! あたしたちだっててめえと同じ、プライドがある命なんだよ!! だからな、どんだけ負けたって、生きるためなら何度でも立ち上がるんだ! そうやってずっと、生きてきたんだ!!」
 肺に詰まった空気を全部吐き出すくらいの勢いで、あたしは叫び続けた。そして、もう一度大きく息を吸い込んで、叫ぶ。
「そうだよな……ヤブ!!」
 あたしと一緒にこの汚れ切った街を生き抜いてきた、最高の相棒の名前を。



 その声にこたえるように、朝の街に光が走った。
 電柱の根本から走る閃光は、ヤブを拘束していた氷塊をたやすく打ち砕く。それもそのはず、光と共に、ヤブの身体は彼を閉じ込めていた氷塊よりもみるみるうちに大きくなっていく。
 光を纏い巨大化するヤブが、ユキメノコめがけてのしのしと歩き出した。ユキメノコはあたしとラティーシャを縛り上げるサイコキネシスの余波でヤブを止めようとしているようだが、見る見るうちに大きく重くなるヤブの身体を止めることはかなわない。
 細長い腕がユキメノコめがけて勢いよく伸びる。散々あたしたちをいじめてきた暴力への"しっぺ返し"が、ユキメノコにぶつけられた。
 刹那、あたしとラティーシャを縛り上げていた力が消える。そして。
「う、うわあ、わああああああ!?」
 さっきまで余裕綽々の罵詈雑言を吐いていたのと同じ声とは思えない、情けない悲鳴が響く。
 なんだ、と思って悲鳴のした方向を見た瞬間。あたしはさっきまでの絶望もあっという間に忘れて、思わず笑いだしてしまった。
「やっ、やめろ! 離せ! 離せえええ!」
 情けない声を上げるレインコートの男は、頭を下に、脚を上にした状態で宙づりになっている。男を宙づりにしているのは、彼の傍らに立つ巨体から伸びたひょろ長い右腕。
 その右腕の持ち主である巨体――ゴミ捨て場ポケモンのダストダスは、あたしに向かって誇らしげな笑顔を浮かべている。そうか、ヤブ……お前、進化したんだな!
「はは……やったな! やったなヤブ!! あはははははは!!」
 腹の底から湧き上がる感情のままに、あたしは笑い続けた。あっけに取られていたラティーシャも、つられてくすくすと笑いだしている。
 いつの間にか雨はやんでいた。日差しが差し込み、けだるい暑さをもたらす太陽が、夏に不釣り合いな冷気を振り払っていく。
 まるで、笑い続けるあたしたちを空が祝ってくれているようだった。


 6.



「私たちの友情に、乾杯!」
 澄み渡る晴れた空の下に、ラティーシャの声が響く。昨日に続いて今日も晴れ。梅雨の明けた繁華街は、真昼ともなればとても外を歩くことなどできないよう気だるい暑さに包まれている。
 そんな暑気もある程度落ち着いた夕暮れ空の下。あたしとラティーシャと、ヤブとペダルとイーブイと。この街で出会ったみんなで、すべてのはじまりになった公園に勢揃いしてアルミ缶を酌み交わす。あたしとラティーシャはビール、ポケモンたちはミックスオレだ。
 ペダルはイーブイのぶんの缶を開け、皿に注いでやっている。イーブイは皿に注がれるミックスオレを、目を輝かせながら見つめている。そんな中でヤブはというと、缶ごとミックスオレを丸呑みしてしまっていた。何でも食べれるヤブにしてみれば、アルミの風味をプラスしたほうがミックスオレも美味くなるのだろうか? それはさておき。
「いやあ、良かったな。荒事が終わってからはなにもかもトントン拍子で進んでくれてさ」
 一口で飲みきれるだけの冷たいビールを飲みこんで、あたしは言う。
 ヤブが逆さづりにしたままのクズ野郎を交番へ連れ込んでから4日。事態はびっくりするほど急に良い方向に進んだ。張り紙を見たポケモン保護団体が、イーブイの引き取りを申し出てくれたのだ。捨てポケモンや被虐待ポケモンを保護しているというその団体は実績もあるしっかりした団体で、彼女たちを託すのには申し分ない相手だ。
「うん、本当によかったよ。みんなが幸せになるお手伝いができて」
 そう返すラティーシャの顔は満面の笑顔。裏側に隠れる暗いものは何も感じられない、心からの笑顔だ。
 そんなラティーシャの顔を見ていると、あたしもつられて笑顔になる。でも、あたしの今の笑顔は作り笑顔だ。
「明日イーブイたちが行っちゃったら、ラティーシャも旅行に戻るんだろ? これでやっとバカンスに戻れるな」
 寂しさを紛らわす強がりを語尾に添えて、あたしは作り笑顔のままで言った。イーブイは明日件の団体に引き取られ、ポケセンを去ることになっている。そしてそれを見届けたら、ラティーシャもあのポケセンから旅立つのだという。何を隠そう今やっているこの乾杯も、明日の別れを皆で惜しむお別れ会なのだ。
 仲睦まじく笑い合っているこの姿が見られるのもあとわずか、と考えると、やはり寂しさを覚えずにはいられない。明後日からはみんなのいる非日常は終わりを告げ、ゴミ拾いで食いつなぐつまらない日常がまた始まる。
「そうだね……でも、ここでアキラたちに会えたことより大切なバカンスの思い出は、きっと作れないだろうなって思ってるよ」
 ラティーシャはそう返して、またビール缶を傾ける。やめろよ、そんなことを言ったらますます別れが惜しくなるじゃないか。
「ねえアキラ。また会えるかな」
 ビールを飲み干したラティーシャが呟いた。明るく振る舞う彼女の声にも寂しさが混ざって聞こえることが、あたしは少し嬉しかった。
「会えるさ。また日本に来たら、あのポケセンに寄ればそれでいいんだよ。あそこがあたしの"家"だからさ」
 寂寥感も全部腹の中へ飲み込んでしまいたくなって、あたしは再びビール缶に口をつける。
 ふと、誰かが肩を叩く。誰だと思って振り返ると、そこにはダストダスに姿を変えても、ヤブクロンだった頃から変わらない可愛げのある笑顔を浮かべるヤブの姿があった。
 僕がいるから大丈夫さ、と言ってくれているのだろうか。そういえばあたしよりもずっと小さいヤブクロンだったヤブに、肩を叩かれるなんて初めてのことだ。すっかり頼もしくなっちゃって。そう考えると、寂しさ以外にもいろんな感情が溢れ出して、思わず泣きそうになってしまう。
「ヤブの言うとおりだよアキラ。寂しくなんかない。みんなこの世界で生きてる。それを知ってれば、いつまでもみんな友達だ」
 そう言いながら、ラティーシャは上を向く。つられてあたしも上を向いた。目に入るのは、ギラつく真夏の夕日に照らされる繁華街の街並み。いつもと何も変わらない、空の狭い殺風景な街並みのはずなのに、何故かこの時は、この街並みは世界中のどんな街よりも美しいんじゃないか、と思った。



 この世界は、一点の曇りもない美しい世界なんかじゃない。あたしたちのように、泥沼の中に放り出され、泥まみれになって生きなくちゃいけない者たちが、見てくれだけの美しさの裏にはかならず潜んでいる。
 でも、そんな中で這いずり回っていても、限りなく美しいものに出会うことがあるし、限りなく美しく輝くものになることもできる。そんな一面があるのも、またこの世界の現実だ。
 これだからやめられないんだよな。どんなに辛く苦しくても、この世界で生き続けていくことは。



 終