夏の思い出

 これは学校に入って彼に物心というものがついてきて初めて分かったことだが、彼の家は転勤による引越しがとても多かった。
 パパは何の仕事をしているのか知らないが夜遅くまで帰ってこない。休日には家にいるが、遊んでくれることは稀だ。
 ママは基本的に家にはいるが、いないこともよくある。パパとはよく喧嘩し、たまにはともにわが子を可愛がった。
 いわゆる一般的な転勤族だったといえよう。


 ホウエン地方は一般的に田舎という評価がもっぱらであるが、学研都市カナズミはその中では開けているほうである。学研都市という性質上転勤族の家庭も多い。
 そして、子供は田舎だろうが都会だろうが、関係なくうまく遊ぶものだ。
「さて、みなさん。今日から夏休みですがいくつか言っておかなくてはならないことがあります」
 カナズミシティにいくつかある公立の初等教育学校は、今日から子供たちの待ちに待った夏休みが始まる。
「安全にしっかり注意して、保護者の方の言うことをよく聞くように。旅行先ではしゃいではいけませんしポケモンをむやみに……」
 教壇の先生は注意事項をくどくどと話すが、教室の生徒たちはもはや誰も聞いていない。返却された通知表の中身を見るのもそこそこに、隣の席同士でこの後どうするか話し合うもの、既に荷物をまとめてかばんを背負っているもの、とにかく早く開放されて自由になりたいという空気が渦巻いていた。
 たまによその教室で上がる歓声に子供たちがイライラを募らせながら教卓を睨む。
 先生はそんな生徒たちの気持ちを知ってか知らずか、これは生徒としての心構えですよと説いているのだが、当然、誰も聞いていない。一つ咳ばらいをした。後ろの席では学級通信を折り鶴にしたり早くも宿題に手を付け始めた子が出始めた。
「それでは。登校日は忘れず来るように。号令!」
 そして子供たちの待ちに待った号令は、もはや号令の体をなさず、クラス全体の叫び声となって消えていった。もう彼らを縛るものはカレンダー以外何もない。
 空気銃に詰め込まれていた銀玉が、吹っ飛んでいくようなものであった。
「キュータロー、昼飯食ったらレーコのとこ集合な」
 キュータローとはこちらに来てからもっぱら呼ばれている下の名前で、転勤族である彼の一家がカナズミに移ってからわずか数ヶ月ながら、それほどまで仲良くなった友達ができていた。
 もともと転勤族の多い地域という下地はあったのだろうが、友達が一人も出来ずに終わった町もあったことを考えると、彼にとってはありがたいことだった。
 下駄箱でいつもの友達に声をかけられてからの行動は早い。誰だって休みを無駄にしたくないものだ。この点は大人になっても変わらない。
 最近見つけたできる限り信号のない道を真っすぐ、帰ってもママはいなかった。代わりに、冷蔵庫に冷やし中華が入っているのでたれをかけて食べてとの書置きが。家の中は日差しの強い外に負けないくらいむわっとして蒸し暑い。
 クーラーを入れても効くまでに時間がかかることは子どももよく知っていた。鞄を放り出し、手も洗わずに昼食をかき込む。味なんかどうでもいい。一応、ママも味や栄養のことは考えているのだろうが。
 よく噛まないと消化に悪いとはよく言われるが、今はそんな小言をいうのは誰もいない。若い胃だ。食べてすぐ運動をしても戻さないだろう。
 ごちそうさん、ときゅうりを咀嚼しながらつぶやくと、台所でジャっと皿を流してすぐに冷蔵庫から麦茶の入ったペットボトルを掴み取り、玄関に転がしてある遊び用のバッグを背負った。手が濡れていようとお構いない。暑いのだからすぐ乾く。
 忘れずに鍵をかけて、正午の蝉時雨の中を一目散に駆け出した。
 さあ、夏休みだ。


「おっ、来た来た……キュータロー、ボール買うカネ持ってるよな?」
「もちろん」
「僕のモンスターボールもあるし、トモキはキャプチャーネットを持ってるだろ。無理して買う必要はないよ」
「トモキのボールばっかりじゃ不公平だろ。後はレーコがロコンを連れてくるのを待つと」
「僕のボールはスクールで使った奴の残りだけどね」
 昼間なのにやかましい団地を抜けて、照り付ける太陽から逃げるように街路樹の下を跳び渡りつつ、入道雲が睨む分譲地の奥にある由来も知らぬ小さな神社、しかしそこは他のグループの遊び場で、そこを鳥居もくぐらず縦断した先の旧家の並ぶ地帯の中の一つの家の前、うちよりも学校とこの家に近いところに住んでいる男子二人はもう着いていた。
 基本的にこの順番で集まる。家の近い男二人。三番目にキュータロー。最後にこの家に住んでる女の子のレーコ。
 この待ち時間の間に今日持ち寄ったもの、冒険のリソースとも言おうか、そんなものを整理していた。虫よけスプレー、キズぐすり、モンスターボール。子供は時間を無駄にしない。財布の中身の確認もそこそこに、滴る汗を乱暴にぬぐう。持ってきた麦茶はもう半分もない。
「レーコおそーい」
「レディは支度に時間がかかるんです!」
 レーコは裕福な家のお嬢様で、まだ小さいのに自分のポケモンを持っている。トモキに「変わったロコンを見せてやるよ」と言われて出てきたのが白くて、炎の代わりに氷を操るロコンで、レーコの一番のパートナーだった。
 テツヤはトレーナーズスクールに通っていて、自分のポケモンは持っていないのによく物事を知っている。勉強が好きなのか、はたまた家庭の方針があるのかは、聞けていない。
 トモキはずっとカナズミシティ周辺でポケモンを追い回している。ポケモンをゲットするのはうまいが、まだ自分の手持ちにするようなポケモンは持っていない。捕まえても逃がしてしまう。曰く、「びびっと来ない」とかなんとか。
「でもこの子も準備万端ですからね」
 門の向こうからぴょこんと顔を出したロコンが、レーコの脇をすり抜けて男子三人の足元を回る。毎日手入れしているという純白の額毛を撫でると、氷を操るだけあって体温が低くて気持ちが良い。ロコンもひとなきして喜んでいるようだった。
 夏は体調を崩しやすいらしく、梅雨明けそうそう調子が悪くなり、終業式までに間に合うかと四人をやきもきさせたが無事復活した。
「で、今日はどこに?」
「116番道路」
「いいですわね!ジグザグマやエネコみたいなかわいいコに会えるかも!」
「いやー…その先にあるトンネルを覗いてみようかと……」
 カナズミシティを上に抜けて、シダケタウンと繋がる未成の隧道のことは、町の噂になっている。怖い話の類ではなく、岩盤が固いのと、洞窟特有のポケモンが生息していることで。
 そしてその前の草むらは野生のポケモンのみならず一般のトレーナーや旅人すらウロウロしている一般道だ。同じ年代の子供を除けばわざわざ子供にバトルを仕掛けようとする不審者はいないだろうが、念のため巡回がいるらしい。子供も子供で用心しなくてはならない。
「先生が危ないところには行くなって言ってたでしょ」
「聞いてないわ」
「私もロコンを危ない目にあわせたくないですわ」
「キュータローは?」
 その前の草むら、すなわち116番道路までは子供たちだけでも何度か行ったことはある。彼らだけでなく、町のみんなが、だ。
 では隧道の工事現場は? 行くわけがない。当然だ。大人には絶対にばらせない、夏休みの冒険。
「興味ある」
 ぱっと顔が明るくなる一人と、渋いお茶を飲んだような顔になる二人。
「賛成2。反対2。とりあえず入口までは行くってことで!」
 言うが早いか、トモキが駆け出した。子供用の小さな自転車では草むらを抜けられないから、わざわざ歩きで来ている。太陽が高く昇って、子供にとっての一日の半分がもう終わってしまった。もう半分しか残ってないのだ。
 反論する時間ももったいないと、残りの三人と一匹もついていく。一人の時は強すぎた日差しも、集団になると全く気にならない。ショップによってモンスターボールと飲み物を買い足し、大人たちとすれ違いつつも町の外へ。
 誰にとっても、よくある夏休みの一風景だった。


「本当に来ちゃった」
 草むらに出てからは、自分たちの目的が何かを悟られないよう、素人考えながらも隠密に行動していた。見つけた野生ポケモンを追うふりをして奥に進む。ロコンが暴走したことにして奥に進む。話しかけられても目を合わせない。
 真夏の暑い時間帯だからか、大人たちもまばら。明らかに怪しげな小さな四人組に気をかけるものなど、ここまで皆無だった。
 隙間だらけの形だけ立ててあるバリケード、外から覗く分には怒られることもない位置で、四人と一匹は集合した。ここまではロコンが吠えたりテツヤが石ころで応戦したりで野生ポケモンに執拗に絡まれることもなく、理想の状態でここまで来た。
 レーコが持ってきたスポーツドリンクをロコンにも与える。男たちも表にこそ出さないが緊張はしていた。言い出しっぺのトモキですら口数が少ない。
 今日でこそ偶然人目は少なかったが、本来なら人目もあるほうだし、もともと24時間警備員が立つような大きなトンネルではない。
 そして、子供たちは知る由もないが、一番暑い時間帯の作業を避け、作業員は全員エアコンの効いた休憩所で昼飯と昼寝の時間だった。
 つまり、今隧道の中にも外にも、邪魔をする大人は誰もいない。絶好のチャンスだったのだ。
「よし、入るぞ」
「見つかったら全員で怒られるからな」
「私は逃げますから」
「逃げても白いロコンを連れた女の子で特定されそう」
 周囲をキョロキョロ見渡して、誰も見ていないことを確認する。ひょっとしたらスバメの一匹や二匹は空から見ていたかもしれない。
 塞ぐことをまるで考えていないバリケードの外側と内側の境界線に乗る。ここまでは多分大丈夫だから。
「見つからないように中に入るまで走るからな」
「わかってるよ」
 緊張と、少しの怖さと、かなりのワクワク。走る前から胸が高まる。なんだかんだで、みんな冒険は大好きなのだ。
「せーの」
「ドン」
 テツヤが勝手にスタートを切り、走り出す。大声を出したらばれるかもしれないから、抗議なんてできないのを知ってか知らずか、すぐに3人も駆け出した。
 一番乗りは、当然ロコン。
 脱獄囚とそう心境は変わらないだろう。障害もなく大口を開いた隧道の、光が届かぬ奥まで逃げ切った時には、何も障害もなかったのにずいぶんと安心した。
 短距離なのにみんなやたら息が上がっていた。
「ずるいですわ、テツヤ」
「もたもたしてると見つかるからね」
 ともかく、潜入には成功したのだ。息を整えて奥に進む。照明はないが奥が深くないので、光が届かないといっても中を見通せないほどではない。
「キュータローはこういうところは初めて?」
「どうかなあ、あんまり」
 先頭にロコン、だれか見ているわけでもないのに四人で固まり、壁際をこそこそ。未成道特有の吹付前の土壁は、触れば崩れそうな怖さがあった。
 そして、立ち入り禁止の看板の向こう側という聖域に踏み込んでいるというドキドキワクワク感も。
「あっ」
 トモキが立ち止まる。
「何か見つけたのか」
「ゴニョニョ」
 116番道路でもたまに見られるポケモンだ。性格はおとなしくて、とくに強いというわけでもない。四人だって何度か見たことがある。
 隧道の肌にぽっかり穴が開いたというよりは、一段高くなった向こう側に空間が広がっているようだった。
「なんだ。珍しくもない」
「でも何匹も集まってるのは初めて見るぜ」
「おいおい用心してよ」
 好奇心で高台に上ろうと手をかけるトモキ。キュータローも気になるようで、ピョンピョン飛んで様子を見ようとしている。
 116番道路で見るときは一匹でいる時が多いから気づかなかったが、何匹も集まると丸い体を寄せ合って、小さすぎる声でひそひそ話しているというのは本当らしい。
 聞いてもわかるわけがないが、こうやって目の前でひそひそ話をされると何を話しているのか気になるのも仕方のないこと。 
 割と後先考えず無鉄砲なところのあるトモキには、じっとしているのなど耐え難いことだった。そして、テツヤもレーコもキュータローも、まだ下から登ってくるか登らないかという段階だから、手を出す前に止める役目もいないし、ふと声をかける相手もいない。
 これはまずかった。
 ふらふらと誘蛾灯に引き寄せられていくがごとく、掘った土塊を踏みつぶしながら接近してくるよくわからない謎の生物に、ゴニョニョは恐怖と警戒を強めてひそひそ話のホーンとスピードを上げたが、まだトモキはそれに気付けるほど経験豊富じゃないし、成熟もしていない。
 触れる距離まで近づいたとき、事件は起きた。ほかの三人はまだ下でああでもないこうでもないとモタモタしているらしい。
 これはちょっとした冒険なのに、何をそんなに遠慮することがあるのか。トモキが致命的なミスを犯す。
 ちょっかいをかけようとして、ゴニョニョの耳を引っ張ってしまったのだ。

 うわあああああああああん!!!

 四人は一斉に耳を塞ぐ。
 あんなに小さな声で話していたゴニョニョの、どこからこんなに大きな声が出てくるのか。初めての経験だった。しかし初体験に感動しているわけにもいかない。
 鼓膜が裂けて、体が震える。そう思わせるほどの轟音。耳を塞いで耐えるしかなかった。未成で穴だらけで土だらけの隧道とはいえ、響くものはとてもよく響く。
 トモキといえどこれには驚いたらしく、すぐに耳をふさいで三人の近くまで逃げてきた。
「トモキ、すぐにこっちに来い」
 あの轟音の後で聞こえているかは分からないが、テツヤがトモキを呼び寄せる。この場では、ゴニョニョの大声の意味を知っているかも知れない子供だ。
 しかし子供だ。だからどうなるということが分からない。とりあえずゴニョニョに危害は加えないという意味で呼び戻したのだが、はたしてゴニョニョたちはどう感じるか。
「うっ、やべえ」
 耳が慣れてきたところで、トモキの悲鳴が聞こえる。
「どうした?」
 テツヤがすぐに聞き返した。レーコは同じく轟音にやられたロコンに構っている。キュータローはいまだに耳殻をひっぱったりこすったりしていた。
「でかいのが来る……耳はゴニョニョ並みにでかいが寝ずに立ってて、何より口がでかい……」
 トモキの言っているデカいのというのがドゴームだというのは、知識のある者にはすぐにピンと来る。
「やばいぞ、ドゴームは進化系だ」
「さっきのゴニョニョの大声って……」
「危険を感じて進化系を呼んだんじゃ……」
「逃げる! トモキ、テツヤ、レーコ!」
 キュータローの行動は早かった。ドゴームが自分にも見え、トモキが高台から滑り降りてくるのを確認したと同時に、高台の下にいた両手で二人の腕をつかんで出口に向かって走り出した。

 さて。音が響くということは当然外にまで音は逃げてきているということで。
 現場の作業員にとってゴニョニョの危険信号は慣れたものだったが、休憩時間中の出来事ということもあり、一応ということで巡回に出る必要性を認められた。
 子供たちは気づいていないが、大人がやってくる。
 立ち入り禁止の工事現場に入り込んでゴニョニョを怒らせて自分たちは大けがをしたとしたら、雷が落ちるどころでは済まされないというのは四人ともわかっていた。凍える背筋にひいていく血の気、体温の低いロコンが心配そうに下から見守るほどである。
 さらに悪いことに、よくあることだが、行きの計画は丹念に立てるものの、帰りについては何一つ考えない。今回そのことに気付いたのは、迫りくるドゴームの前に撤退を決め込んで、しばらく走ってからだった。
 後ろを振り返るほどの勇気はないが、こっぴどく叱られるのはもっと怖い。出口に人影を見つけたところで、申し合わせたわけでもなく四人とも顔を見合わせた。
「工事の人かな?」
「一人しかいないからなんとかするしかない」
 しかしもう止まれないし、隠れるところもない。第一走る音や息遣いが聞こえてしまっているだろう。ドゴームが追い付いてきて何かしていくかもしれないが、
「誰かいるのか。ここは立ち入り禁止だぞ」
 大人が人の気配を察知して声をかける。もう各々の発想に期待するしかなかった。
「ふぶき!」
 レーコの合図でロコンが動く。ダメージを与える必要はない。ただ視界を奪ってくれれば。
「んなっ!」
 トンネルの中から雪が飛んで来たら、大の大人でもまずは間違いなく混乱する。そして、わざわざ視線を下げて背の低い子供たちの顔なんて見ていられないだろう。
 大人と子供の距離が近くなる。日が直接届かない暗めのところといっても、見ればわかるくらいの距離。
 キュータローがバッグから虫よけスプレーを取り出して、作業員に向かって吹き付けた!
 本来なら絶対にやってはいけない行動だが、自分たちにとってはそれほどの重大案件だ。ポケモン用のスプレーだし、重い毒性はないはず。
「ドゴーム…いや、バクオングが出てきたから入っちゃだめだ!」
 そして、最後にテツヤが叫ぶ。丸腰の作業員にバクオングまで相手にはできまい、との考えだった。
 作業員が外にもいたらまずかったが、トンネルを出てバリケードを抜けるまで、障害は何もなかった。すぐに草むらの中に身をかがめる。隧道の中は外に比べればいくらか涼しかったがそれでも真夏、走ったことで汗が噴き出して止まらない。
 作業員がほうほうのていで詰め所に帰っていくのをドキドキしながら眺めながら、温くなったドリンクを四人と一匹で飲みまわした。もう大丈夫だ、バレてない。ふぶきを使えるポケモンをしらみつぶしに探されても、しらばっくれれば、たぶん、大丈夫。
 こうして彼らの夏休み初日の冒険は、成果こそないものの、大それたことをやってのけたという点では満足のいくものだった。
 明日からもきっと充実した夏休みになるだろう。そんなことは、この段階では考えるまでもないことだった。

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 夏休みのうち、7月が終わったら折り返しとはよく言ったもので、ちょうど夏休みの生活に満足してきた時期に、久しぶりに早く帰ってきたパパと、それを知っていたらしいママが腕によりをかけて晩御飯を作った日があった。
 そして、経験上、そういう日は決まってよくないことが起こる。
 三人で食卓を囲んで、いただきますをする。聞いた話ではポケモンも同じテーブルにつく家庭もあるらしいが、この家ではやらない。
 唐辛子の利いた鶏肉のおかず、夏野菜を食べやすくする工夫。見目彩もよく栄養も取れる。パパがビールを煽って、子供が少しその泡立つ黄色い液体に興味を示したが、それだけ。団欒の場に会話がなく、代わりに重苦しい空気が澱む。
 三人が三人、何かを感じ取っていた。
 お汁をすすったところで、赤ら顔になっている役に立たないパパを見限り、ママが口を開いた。
「ごめんねきゅうちゃん。私たち、また引っ越すことになったの」
 そんなこったろうな、と彼は思った。
「夏休みが始まって早々なんだが、また新しい土地でも友達はできるよ」
 ママに便乗して、パパも口を開いた。反論は聞かないぞ、と言っているらしい。
「いいよ。ぼくはパパのお仕事がつらいこと分かってるし」
 彼は友達が出来たのに、絶対に離れない、などと泣いて喚いてもどうにもならないことを既に学習している。だから興味なさそうにごはんをかきこんだ。全然美味しくない。
「ああ、きゅうちゃんは本当にいい子ね。文句一つ言わないでついてきてくれるのね」
「今度行くところはいいところだぞ! なんてったってリゾート地だからな」
 きっとパパとママは自分に話す前に大喧嘩したのだろう。ここで喧嘩にならないというのはそういうことだ。
 彼は手短に食事を済ませると、ママのそれだけで足りるの?という言葉に返事もせず自室へ戻った。

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 翌日、すぐに仲良くなった3人に、夏休み中に引っ越すことを告げた。
 キュータローにとってはもはや慣れたことであったが、3人の側では、事態が良くわかっていないのか、実感がわかないのか、それともやはり慣れているのか、ショックを受けている様子ではあったが、落ち込んではいないようだった。
 その日も、4人で仲良くポケモンを探しに行って、同じように分かれたのである。
 そして、その日が最後の4人での日常になった。

 次の日。朝の勉強の時間をほどほどにして切り上げると、特に約束はしていないが、足が自然といくつかあるいつもの待ち合わせ場所のうちの一つへ向かった。
 アパートとショッピングモールの並ぶ中に窪んだ、植木と噴水とベンチがある憩いの空間。トモキが一人で寝そべっていた。最初から大当たり。
「あれ? トモキしかいないの?」
「レーコは今日から塾の講習。テツヤは爺さんがきとく?とかいうことでシンオウまで行った」
 噴水では彼らよりもさらに一回りも二回りも小さい子供たちが服の上から水を浴びて涼んでいる。
「……今日は116番道路やカナシダトンネルじゃなくてトウカの森の方に行こうぜ」
 二人しかいないと遊びのテンションも下がるらしい。手持ちポケモンもいなくなるので仕方ない。
 トウカの森なら虫取り網で戦えるポケモンもいるし、何より雰囲気がちょうどいい。トウカの森のいくつかある整備ルートの中で、最も森の深い所を通っている道は、人通りも少なく、必要以上に人の手を加えた様子もなく、楽しいひと時を過ごせる。
 森林の中だと街中よりも涼しいし。
 行先とやることが決まった後は、例によって行動は早かった。
 湖の上にかかっている104番道路の木橋を、子供二人で揺れるほど脆くはないのだが、ガタガタ揺らして走り去り、ちょっと花畑や木の実畑になっている綺麗な土地を横切って森に入る。
 森林特有のべっとりと重いが、しかし不快ではない空気が歓迎してくれる。同じような目的の森林浴や虫取り少年は何人かいたが、他人がいる前では遊びたくない。もっと奥の、人のいないところを求めて、色の剥げたルートの表示板を、一番深いところを指している方向へ。森が深すぎてかえってセミの少ないトウカの森では、たまにすれ違う長袖長ズボンのおじさんおばさんとのあいさつ以外で鳴る音も少ない。途中虫に刺されたのでスプレーをする。わざわざ戦いを仕掛けてくる好戦的なポケモンもほとんど生息していないので、手持ちポケモンがいない今注意するのはヘビくらいのものだ。
 奥へ奥へと進んでいく道はそのうちに踏み荒らされて草の生えない部分も薄くなっていく。だんだん下草が濃くなり、森そのものとの一体感が出てくるのだ。
 といっても、ちゃんと整備され、子供たちだけで入ってよいハイキングコース。自然と溶けてはいても、最低限の境界で隔てられている。
 途中見つけたケムッソを問答無用で虫取り網に押し込めたりしたが、二人とも気が乗らないと言って捕まえっぱなしになった。二人の仲が悪いわけではないが、今日だけは会話も少なく、話すべきことを探しているようだった。
 そのうちに森の一番深い、開けて整備されているところについてしまう。トモキが先に足を踏み入れ、キュータローが後に続いた。
 が、トモキはすぐに茂みに身を隠し、キュータローを引きずり込んだ。
「なんで隠れる必要があるんだよ」
「いや、だって……」
「あ、あのポケモンは知ってる。イーブイだ」
「それは俺にもわかる」
 茂みの中から、だってとトモキが指した方向を見る。先客だ。自分たちだけしかいないだろうと勝手に思っていたところに誰かがいると隠れたくなる。気持ちはちょっとわかる。
 この広場には苔むした岩とか呼ばれている巨岩が鎮座している。何か効能があるとか、信仰の対象だとかは言われていないので、子供たちはモニュメント程度にしか思っていなかったが、先客は手を添えて何やら念じている。
 先客はポケモントレーナーだった。服装とバッグとモンスターボールを見れば一目でわかる。ハイカーではない。旅人だ。
 そして、そんな先客の後ろを追ってくるポケモン。
 教材や教具としてよく出てくるし、メディア露出も多いし、とにかくとても有名なポケモンだった。子供でもほとんどは知っている。大人でも研究に愛玩に様々な人気を博している。
 だが、実際に実物を見るのは初めてだった。それなりに希少、らしい。スクール通いのテツヤがいればもう少し情報が聞けたかもしれない。あるいはお嬢様のレーコなら持ち主と会ったことがあるとか言い出しそうだ。
 二人で顔を見合わせることもなく、その後は目を離すまでもなく連続してコトが起こった。
 今の今まで岩にもたれかかっていたトレーナーがかっと目を見開くと、イーブイがそれに合わせて身構えた。
 自分たちが狙われるわけでもないのに、二人して背筋が伸びる。
 指示もなく、いや、したのかもしれないが、子供たちでの集中力では拾いきれなかった指示で、イーブイが四方にスピードスターを放つ。どこを狙っているのだろうと、いぶかしがる間もなく、どさどさどさと野生のポケモンたちがどこかで倒れる音。
 トレーナーというのはこんなにすごいのか。思う間もなく、次のイベントが始まる。
 イーブイの体がびくりと震えて、まばゆい光に包まれた。
 これも見たことはないが、習ったことはあるし、直感でなんとなくわかる。進化というものだと。進化系は見たことがあるが、進化そのものに立ち会うのは初めてだ。
「すげー……」
 唾を飲み込むのも、乾いた眼球を湿らせるのも忘れて、二人して凝視していた。
 光の中で起こる急激なポケモンの肉体の変化、人間のような成長の遅い生物とは似ても似つかない。めきめきと変わっていく小さなイーブイのシルエットに、よくわからない興奮を覚えたのもつかの間。なんでこのトレーナーが苔むした岩に拘っていたのがよくわかる。
 トウカの森全体のエネルギーがイーブイの一点に集まっているようだ。草は慄き木は鳴き、見守る無数の森のポケモンたちの視線を感じる。進化とはこれほどのものなのかと圧倒されそうになるが、目を離すそぶりはない。トモキも、キュータローも。光が収まり、中から草木の祝福を受けたとしか思われないイーブイの成長体が現れた。
 確かリーフィアというポケモンだったと思う。やっぱりテツヤがいればもっと情報をくれたんだろうけど。
 トレーナーは嬉しそうにリーフィアの頭を撫でる。
「出ておいで。可愛いトレーナーさんたち」
 ぎくりとした。いつからばれていたのかはわからないが、こういう物言いをされると身構えてしまう。トモキがキュータローを押し出すようにして、茂みの中から姿を現す。
 トレーナーは何か責めるわけでもなく、スピードスターで撃破したカラサリスを連れてきて手当をしていた。
「あの…覗き見して、すいませんでした」
「いやいやいや。覗き見なんて怒ることじゃないよ」
 トレーナーの言葉に怒気は感じられなかった。トモキもキュータローも緊張を解くと、何か言うでもなくポケモンの手当てを始めた。
「知ってるかい。このポケモンの名前」
「リーフィア」
「そう。イーブイの進化系の一つだ。」
 不思議そうな顔をしてトモキとキュータローのにおいを嗅いでいるようだった。
 触ったら怒られるかなぁ、なんて考えていると、トレーナーのほうから触ってもいいよと言ってきた。咬まれても知らないけどね、と付け加えるのも忘れずに。
「進化に立ち会うのは初めて?」
「……はい」
「僕も」
「そっかそっか」
 怖い人ではなかった。カラサリスの手当てを終えて、ケムッソの手当てへ。そういえば、とキュータローたちもケムッソを捕まえっぱなしにしていたのを思い出した。
 後で逃がしてやろう、とトモキとアイコンタクトを交わす。きっとこのトレーナーは彼らがケムッソを捕まえっぱなしにしているのもお見通しだろう。わざわざ言わないだけで。
「進化。どう思った?」
「ええっと……」
「なんか、こう、言葉にできないんですけど……なんか、すごい?」
「はは、まあそんなもんだよね」
 そういって、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ彼の思い出を語ってくれた。イーブイとの出会いとか、ここまでの旅路とか。
 本当に短い間で、トモキとキュータローにとっては、知らない人と話した緊張で吹き飛んでしまうような時間だった。
「さあ、そろそろ行こうかな」
 最後のキノココを放してやると、トレーナーが立ち上がった。
 進化したばかりで暇そうにちょうちょを追っていたリーフィアが足元にすり寄る。
「たぶん、君たちは僕の言ったことを覚えていられないだろうけど、君たちがここでリーフィアの進化を見届けたのも一つの縁さ。こういう一つ一つの思い出を、大切にね」
 トレーナーは去っていくのも早かった。手を振るのもそこそこに、ハイキングコースをすぐに消えた。子供二人も何がなんやらといった様子でしばらく手を振っていたが、我に返ると二人で顔を見合わせて、よくわからないジェスチャーをした。進化、すごかった。というのは伝わる。
「戻ろうぜ。なんか気が抜けちゃった」
 トモキが尻の泥を払い、ケムッソの入った虫取りセットを抱えてトレーナーの消えていった道を辿る。行きにあったような不自由な沈黙はもはや無い。
「キュータローはさ、この町での出来事は忘れるか?」
 トレーナーの言ったことに影響されたんだろうな、と言った本人も聞いた本人も思った。
 日常の話題ではないが、十分回る話題だった。
「分からない。もっと前の町では、忘れたこともある」
 前の町でもポケモンを捕まえたりした記憶はあるが、地方をまたいで連れていけるポケモンはそうそう多くない。数自体が多すぎて思い出がぼやけたこともある。
 だから、一番思い出につながりそうなものをもっていないというハンデもあった。
「ふーん。じゃあ絶対に忘れない思い出を作らないとな」
 してやったり、といった風にトモキが続けた。
「あのトレーナーも言ってたもんね」
「俺、考えたんだよ。昨日引っ越すって言われてから、どうすればいいかって」
 先を行くトモキの顔はうかがえなかったが、声は少しだけ震えていた。
「ポケモンを交換しよう。俺はこのケムッソをもらう。その代わり、俺たちは絶対に忘れられない一匹をお前にやる」
「俺たち?」
「レーコとテツヤと俺からだから」
「一人で決めて良いの?」
「文句なんて言わねえだろ」
 くるりと振り返ったトモキの顔は汗でびちゃびちゃだった。残っていたお茶を差し出すと一気に飲んでしまうくらい。
「楽しみにしてるよ」
 すぐにハイキングコースはほかの人が行き交う道へと合流した。
「でもキュータローはポケモン慣れしてるからなー。ほとんどのポケモンの印象が薄そう」
「あちこち引っ越してきたからな」
 レーコのロコンやさっきのリーフィアのようなここでは希少なポケモンが、希少でも何でもない地域もある。
 発想が試されるのは間違いない。キュータローのことだから恐らくどんなポケモンを渡しても忘れないとは言うだろうが、それでは意味がないのだ。
「ところでさ」
 ぽつり。
 次に行くのはどんなところなのか、とか、学校の皆に会えなかったね、とか、脈絡のない関係のある話をしばらく続けているなかで、不意に、トモキのトーンが変わった。
 虫取りセットの中のケムッソがじたばたする。早くボールに移しておけばよかったのに。
「俺さ、来年から旅に出ようと思ってるんだよね」
 森を抜けて、花屋のある道路から町の方へと少し戻り、一番はずれにある駄菓子屋の軒下のベンチで、二人でサイコソーダを買った。小銭だけで買える。それを煽りながら。
 下げられているかき氷の旗から日光が透けるほど日差しが強い。
 橋の下へと下りられる池では、何人か薄着で水遊びをしていた。
「知ってるだろ? 10歳になったら旅に出られるって」
 正確には子供にはあずかり知らぬところで様々な審査がなされるのだ。子供の性格や素質、学校での成績や態度は序の口のこと、親の素性や家庭環境、通さなければいけない書類は大量にあるし、手間も賃も膨大にかかる。それだけ出しても申請が通らず来年の審査を待つ子もたくさんいるのだ。
 トモキは日焼けした顔に白い歯を覗かせて自信満々に続けた。
「だから、俺にとってもここでの最後の夏休みなんだ! キュータローが最後に一緒にいてくれてよかった!」
  
 それから、四人と一緒に遊べることはほとんどなかった。あっても一日のうちの一時間とか、買い物に行った時の短い時間とか、そのくらいだった。
 向こうに引っ越す準備があるからと、両親と一緒に遠くに行って何日も帰ってこられないことがあったし、向こうの学校で出さなきゃいけない課題があったり、両親の友人が送別会をしてくれるからと言って連れていかれたり。
 夏休みの真っ最中だというのに、まるでつまらない日々が続いた。学校は休みで、生徒は散り散りになってしまったので、キュータローの送別会を開くことはあり得ない。
 トモキもテツヤもレーコも、なんだかんだでつながりはあったが、それぞれ忙しいらしかった。
 夏休みは、始まる前はたくさんあるし、始まってからもなかなか過ごしがいがあるのだが、それでも過ぎていくのは早い。そんなこんなでつまらない時とは言え夏休みだ。キュータローはモヤモヤを抱えながらも、ついに彼にとっての夏休みが終わりを告げた。引っ越しの日だ。
 トウカシティから104番道路を少し行ったところにある小さな港が出立地だった。
 見送りには両親の友人をはじめ、キュータローの担任やクラスメートも何人か来ていたが、肝心の三人組は遅れているらしかった。
 そんなに大きな船じゃないが腕は折り紙付きだという陽気な船長とパパが話し込んでいて、ママは友達と一緒に泣いている。
 クラスメートが来てくれたのはうれしいことだったが、それ以上に他ごとが気がかりで、すぐに感づかれてしまう。
「きっと間に合うよ」
 担任の先生は分かったようなふりをしてくれたが、その実不安だらけだった。
 船長がもうすぐ出航だと叫んだ。ママが友達と別れてタラップから船に乗る。まだ積んでいなかった僅かな荷物を船に乗せて、イライラとそいつらを待つ。
「来たぞ」
 クラスメートの誰かが叫んだ。
「船、もう出る?」
「……まだ出ないな。坊主、降りてていいぞ」
 ぼんやりと外を眺めていたが、言われるが早いか飛び出した。自分にも遠くから走ってくる白い粒が見えた。間違いない、彼らだ。


「トモキが中々言うことを聞かせられなかったせいですわよ!」
「レーコが手加減しなかったのもあるぞ」
「テツヤはバトルを見てただけだろ!」
「そもそもトモキが僕たちを巻き込む前提で勝手に決めたのが悪い」
「そうですわよ! どれだけ迷惑したことか……」
 3人は走ってやってきた。それも賑やかに。
 息せききって駆け寄る子供たちを、大人たちは道を譲ることで出迎えた。何があったのかは聞かないが、何か大事なことはあったのだろう、と。
 降りてもいいとは言われたものの、いつ出航するか分からない船に、キュータローは桟橋より先に行くのはためらわれた。両親はもう船に乗って出発を待っているだろう。
 ここにいると手を振ると、三人も手を振り返して答えてくれた。
「約束通り、交換相手を持ってきた。受け取ってくれ」
「今度はトンネルに入ったことが見つかってなかなかこっぴどく叱られたんですよ」
「僕なんかスクールの先生にも怒られたよ」
 桟橋の上での再会に、クラスメートたちが湧きたつ。三人は息絶え絶えで喋るのも辛そうだったが、そんなことは構わずトモキがモンスターボールを差し出した。
 差し出された赤白のボールの、赤く透けたところから中身が見える。ゴローンだった。
 三人もキュータローがゴローンだと気付いたのが分かったらしい。
「岩をどかしたらイシツブテが飛び出してきてさー」
「腰抜かしてたものな」
「抜かしてないわ」
「イシツブテをゴローンに進化させる方が苦労したのではなくて?」
「そうそう、野生だけじゃ足りなくて、レーコのロコンと組んでダブルバトルで育てまくったんだぜ」
「僕がトレーナーズスクールで頼んだんだけどね」
 三人の苦労話という名の土産話。どうやらまた懲りずにカナシダトンネルに忍び込んで、今度は見つかって怒られたらしい。
 自分は現場を見ていないのに、三人ともとてもありありと語るので、自分がその場にいなかったことに嫉妬心すら感じる。
 苦悩、苦闘、工夫、三人が三人、自分の手柄と仲間の手柄を自慢げに語ってくれた。武勇伝も。
 どれくらい話し込んだか分からないが、待ちくたびれた小舟が燃料を入れてパワー満タン、エンジンが暖まったところで、汽笛が会話を切り裂いた。
 別れの時は迫っているらしい。
 四人の尽きぬ話をそれまでに、キュータローが踵を返そうとした。それを止められる。
「おっと、まだ完成じゃないんだ」
「そのゴローン、ボールから出してご覧なさい」
「時間はかからないはずだよ」
 ちら、と船長室の方を見やると、船長は両親とまだ談笑していた。まだ猶予はあるのだろうが、もたもたしていられないと、ボールを地面に叩きつけた。
「よく見て!」
 モンスターボールを炸裂させた煙が晴れれば、そこに立っているのはゴローンのごつごつした巨体……のはずだった。
「えっ」
 言葉を失うキュータローに対し、やった、大成功だとはしゃぎ、ハイタッチを決める三人。そして、遠くにいる見送りたちから上がる歓声。
 この光景は初めて見るわけじゃない。
 繰り出したゴローンの全身から光が溢れ、シルエットにやや劇的な変化が起こっている。
 そうだ、トウカの森で見て以来の進化だ。ゴローンよりもトモキの方を見る。
 気付かれて、微笑み返されてしまった。
「交換したとたん進化するってのが、すごく印象に残るだろ?」
「ポケモン自体はそんなに珍しいわけでもないのに」
「ゴローニャのこと、大切にな」
 きっとポケモンの知識が多いテツヤが考えたんだろう。戦ったのはレーコとロコン。捕まえたのはトモキ。
 そして、ゴローンまで育てたのは三人一緒で。
 トモキが進化を一緒に見た話をテツヤに話して、そこにレーコが乗っかって……
 気付けばゴローンの体が一回り大きくなって、手足はより岩よりも動物らしく、そして球面についていた顔は首が伸びてしきりに新しい主人に自分が進化したことをアピールしていた。
「ありがとう……すごく、すごく……なんだろ……」
「おーい、坊主、そろそろ出るぞ」
 感極まって視界が歪み始めたと同時に、船長の呼ぶ声が聞こえる。大っぴらに泣くのはまだ恥ずかしい年ごろに気をきかせてくれたのか。
 後ろを向いて、振り向かずにゴローニャを戻す。
「じゃあな」
 三人がどんな顔をしているかは知らないし、見たくもない。キュータローが右手を上げる。船長がニヤニヤこっちをのぞいていた。
「向こうでも元気でな」
 そのまま揺れるのも構わず走って船に飛び乗った。埠頭の方からあれこれ言葉になってない叫び声が聞こえる。
 出航だ。

 陸からずいぶん離れたというのに、まだ手を振っていてくれるのが、ぼんやりと見える。もうこちらが手を振り返しても届かないし、ましてや声なんか届きやしない。
「ねえ、パパ、ママ。たぶん僕カナズミシティのことも三人のことも忘れないと思うよ」
 パパは黙って頭に手を乗せてくれた。