70歳からのバトルフロンティア

「クラちゃん、待ってってば。バトルなんて無理よ」
「なあに言ってるのよ! あたしたちブティックでお洒落して、船に乗って、ショッピングして、ホテルの食べ放題に行って、マスクド・ジョーカーズのライヴも行って、あの愛知育太や佐々波音矢と握手までしてきたじゃないの!」
 今のあたしたちは無敵よ! 不死身よ! 弱点のないヌケニンよ! と、クラちゃんと呼ばれた小柄な女性が大笑いしながらもう一人の女性――エマの手をひっぱっている。クラは、まるでムラサキキャベツに漬けたような赤い色の髪を短く切り揃えていてはつらつな印象、一方エマは、今日のために白髪をシルバーに美しく染めてもらったので高貴な御婦人然としている。まったく真逆な取り合わせで、しかもクラが大きな声を出しているので二人はよくめだった。
「いやだわヌケニンなんて。その高齢者ギャグみたいなのやめてちょうだい、みんな見ているわ」
「高齢者ギャグ! エマちゃんったらおもしろいこと言うわあ」
 きゃははははとクラが甲高く声量を上げ、エマは顔から火が出るかと思った。
 二人が向かっているのは、世界中からポケモントレーナーが集うというポケモンバトルのテーマパーク、バトルフロンティア。周りを見れば、エマたちとは歳の離れた若い者ばかりだ。こんなところ、私たち老人が歩く場所じゃないわ。エマは今にも引き返したい思いでいっぱいだった。


   ◇  ◇


 事の始まりはポケモンセンターだった。
 夫のポケモンは大きく育ちすぎて、夫婦二人では、身体を洗ってやったりケアしてやったりするのが大変になった。それで週に一度、ポケモンセンターに預けるのが習慣になっていた。ポケモンが成長したというよりは自分たちの体力がなくなったんだわとエマは思う。夫がポケモントレーナーを引退したのも随分と昔のことだった。
 ポケモンセンターに着くと、云十年の付き合いになるクラがピカチュウを抱いていた。ピカチュウは隣に座っている少女のポケモンのようだ。人間に触れられることに慣れている様子で、気持ちよさそうに撫でられている。クラはよく、こうして人のポケモンとふれあうためにポケモンセンターに通っていた。
「エマちゃん、決めたわ。シニア割引よ!」
 そこに至るまでにどんなふうに話が運んでいたかは知らないが、クラのこの唐突な物言いはくっきりと記憶に残っている。それとそのときラジオから流れていた、マスクド・ジョーカーズの新曲『素麺のような僕のリンパ腺に響いた情熱』のメロディも。このときはそんな曲名、エマが知るはずもなかったけれど。
 ようするにクラは、ピカチュウの少女にあれこれと教わったらしかった。シニアの旅行をいかにしてお得に遂行すべきか。マスクド・ジョーカーズなる男性アイドルユニットの魅力とはどんなものか。クラがそんな若者向けのアーティストに興味があったとは知らなかった。
 エマはそのとき、たしかに言ったのだった。そうねえ、いつか行けるといいわねえ、と。まさかクラが本当にとてつもない倍率の公演のチケットを勝ち取るとは思ってもみなかったし(そもそもとてつもない倍率だったということをクラから聞いて知った)、この歳になって船に乗ってどこかへ行くことになるだなんて考えたこともなかった。
 ちなみに、これも後でクラに教えてもらったことだが、アイドルの舞台にシニア割引はなかった。――そしてこのことも、エマを竦ませた。これってつまり老いた人間の入場を想定していないということでしょう? やあねえ、区別されないってことはあたしたちも若いってことなのよ。そう言ってクラは笑っていたものだけど。


   ◇  ◇


 ゲートをくぐった二人を出迎えたのは、きらきらした柔らかな風だった。あらっ何かしらね、とクラがご機嫌に風上のほうを向くと、そこにいたのは真っ黒なマタドガスだった。反射的に二人はごほごほと咳込む。咳が落ち着いてから、それほど苦しくないことに気がついた。
「Oh! I’m Sorry!」
 色白の男の子が外国語で何か言っている。意味がわからず困っていると、すらりとした若い女がすっと現れて「ごめんなさい、ようせいのかぜの練習をしていたんだ。毒はないはずだから大丈夫だよ、ですって」と通訳して颯爽と去っていった。男の子も言葉が通じたことがわかるとどこかへ走っていってしまった。あまりに慌ただしくて、エマは目が回りそうだった。そうこうしているうちにも、たくさんの人が二人の周りを行き来していた。バトルフロンティアは、まるで何かのお祭りでもしているみたいに賑わっている。
「ねえ見た? さっきのマタドガスの、苦味走ったダンディーな顔」
「なんだか帽子みたいなものをかぶっていたわね。おヒゲも立派で……」
 小ぢんまりとしたクラと、姿勢がよく元々の背丈も高いエマが並ぶとマタドガスのようである。マタドガスのような二人組が、すでに見えなくなったマタドガスの後ろ姿を目で追いかけていた。もう少し若かったら今のシーンでときめいていたかしらとエマは考えてみて、すぐさま冷静にそんなことはないと判断する。だって、ポケモンよ? エマは心の中で今の自身を遠くから眺めるようにして見て、それから微笑ましい心地で、この旅行で自分がいつになく浮かれていることを自覚した。

 その後も珍しいポケモンを見つけてはクラと一緒に見に行った。クラちゃんはこういうのが本当に好きなのよねえ。エマは思う。毎日のようにポケモンセンターに通い、「この前はこんなポケモンがいたの!」といくつになってもまるで子どものようにはしゃぐクラ。船旅も、食べ放題も、ライヴももちろん彼女のしたかったことには違いないが、この旅行の一番の目的は、ここに来ることだったのだろう。
「メガシンカって、進化なのかしら」
「メガシンカって言うんだから進化なんじゃない?」
「なんだかちょっと違う気もするけれど」
「何にしても、進化の瞬間が何度も見られるなんてすごいわ!!」
 メガシンカしてアゴが二つに分かれたクチートに、クラと二人で別々のアゴにオボンのみを食べさせてみた。クチートを連れた女の子は、本体の口からきのみを食べさせていた。どういう身体のつくりなのかしらねと囁き合う。
 まるで少年少女が見つめ合っているかのような、恋愛模様をその翅に描いているビビヨンは、壮年のトレーナーが何人ものトレーナーとトレードした末に手に入れたものだという。そう自慢していたのに、虹色の毛糸を優雅に纏ったミノマダムを連れた人とその場で交換してしまっていた。あのミノマダムは何タイプだったのかしら。え、虫じゃなくって? ほら、もうひとつタイプがつくのよ、ミノマダムって。あたしたちもマダムよね、何タイプだろ。……さ、さあ?(クラちゃんはドラゴンじゃないかしら)
 自転車で走る少年の腕に抱えられたタマゴが生まれたかと思ったら、そのままそのポケモンを逃がしていた。ああいう人もいるわね。そうね。カラ踏んづけてパンクしてるわ。そうね。
「これから何が始まるというの?」
 物々しい佇まいの大きなポケモンが広場に寝そべっていて、円を描くように人々が離れて見守っていた。そのポケモン、ヒードランから放たれる熱と威圧感に圧倒されているとトレーナーがやってきて「試合が終わったから寝ているだけですよ」と笑った。ねむって体力回復ってわけね。これだけ身体が大きいと、回復に何百年もかかるんじゃないかしら。何もこんなところで寝なくてもいいのにね。
 巨木が歩いてきたので見上げていると(あまりに丈が長くてその顔は拝めなかったが)アローラ地方から来た25メーターのナッシーだと教えられた。てっぺんが見えないとわかっていても、人々の視線は上昇気流のように上へ上へと集められる。老若男女、大きなポケモンも小さなポケモンも皆一様に空を見上げている。まるでこの一本の木を目印に寄ってきたみたいに――本当に世界のあちらこちらからいろんな人やポケモンが集まっているのだと、エマは唐突に実感する。エマたちと同じくらいの歳のトレーナーも少なくなく、驚くと同時に安心もした。
「ところで25メーターってどうやって測ったのかしら」
「横に寝かせたんじゃない?」
「そんなことをしたら二度と立ち上がれないわ、きっと」
「24でも25でも、すごく長いことには変わんないわよ。たいした違いじゃないわ」


   ◇  ◇


 人やポケモンとの出会いを忙しなく楽しんでいたら、いつの間にかある施設の前まで来ていた。エマはすっかり忘れていたが、クラはポケモンバトルをしたがっていたのだ。
「ここよ、ここ! ポケモンを持っていなくても借りられるって!」
 バトルファクトリー。そこでは施設専用のポケモン同士で戦うレンタルバトルが催されていた。ええいままよとエマは意を決してクラに続く。
 握手会で握手した佐々波音矢に笑顔のよく似た男性スタッフに、クラはさっそくあれこれと聞いている。マスクド・ジョーカーズのメンバーの中でも顔つきの幼い男の子。クラとしては愛知育太が一推しだそうだけど、音矢のことも大好きらしいことはよくわかる。クラちゃんって昔からメンクイなのよね、とエマは最近思い出したことを今改めて思い出していた。
「外にいた首の長いナッシーは借りれないの?」
「いやいや、あんなのここに入れたら天井貫かれちゃうっすよ」
「きゃはは、それもそうよね!」
 エマちゃん、六対六のフルバトルよ!! い、い、一体で十分よ。六対一でも全然アリっすよ? 三人で賑やかに奥の部屋へと移動する。棚という棚にずらりとモンスターボールが並んだその部屋に入ると、クラがそれまで以上に大きな声を上げた。
「これが全部ビリリダマだったらあたしたちひとたまりもないわね!!」
「そ、そんなに大きな声で刺激したら本当に爆発してしまうわ」
 そういうのがお好みっすね! と音矢似の青年がせっせとゴローニャ、フォレトス、オニゴーリ、フワライド……とモンスターボールをかき集めてくる。ほんとに、ほんっとに結構よ、とエマは慌てて青年を止めた。なんて物騒な面子。もっと穏やかなポケモンはいないかしらと棚を探す。
「強くてかっこいいポケモンがいいわね! きゃっ、オーダイルなんていいんじゃない?」
「私は小さいポケモンでいいわ。……ねえ、バチュルとか、いないかしら」
「バチュルはちょっとうちにはいないっすね」
「そんな小さすぎるの、オーダイルにばちゅっ、って踏まれておしまいよう!」
「ばちゅっ! っすね」
「私たちも一緒に踏み潰されてしまいそうだわ」
 モンスターボールの中のオーダイルに睨まれた気がして、エマはぶるりと震えた。

 あれやこれやと話しながら、選ぶことよりも物色することが目的に思えてきたころだった。青年が思いついたように棚を漁って、ひとつのボールを持ってきた。
「エネコロロなんてどうっすか」
「あらいいわね。穏やかそうで、のんびりしてそうで」
「じゃああたしはゲンガーにしよっと」
 クラがそう言った途端、棚にあったボールがパカッと開いた。
 待ってました! と言わんばかりの満面の笑みを浮かべたゲンガーが勝手にボールから飛び出してきて、ぴょこんぴょこんと左右に跳ねた。見せびらかすように長くて真っ赤な舌をべろべろと出している。地獄の血の池に通じていそうな赤。突然のことに少し驚いて、エマは胸を押さえた。
「びっくりしたわ。私たちの素麺みたいなか細いタマシイなんて、ぺろりと吸い取られてしまうわね」
「あたしのタマシイは丈夫なきしめんよ!」
「ぺらっぺらってことっす?」
「きゃははっ、言うわね!」
 きしめんは意味不明っすけど、エネコロロにゲンガーはずるいっす、だめっす。それもそうねえ、ノーマルタイプとゴーストタイプじゃあねえ。じゃあゲンガーはやめるの?
 雲行きが怪しくなってきたのを察したのか、ゲンガーが枯れゆく果実の如くだんだんとしぼんでいく。なんだかかわいそうだわねと思いながら、そのさまがちょっと面白くて見ていると、エマの後ろで部屋の扉が勢いよく開け放たれた。驚いたエマはまた胸を押さえた。
「なあ、ゲンガー残ってないか。こっちのトレーナーさん、どうしてもゲンガーがいいって聞かなくってさあ」
 やってきた別のスタッフの声に、ぱあっと表情を明るくして元のすがたに戻るゲンガー。まるで窯の中でパンができるのを高速映像で見ているみたいに、ふっくらと膨らんだのがまた面白かった。焼きたてのゲンガーはその短い脚でステップを踏みながら機嫌よくスタッフについていった。
 踊って出ていくゲンガーを見て、クラがぽんと手を叩く。
「イイコト思いついた!」
 ボールを再度物色しはじめたクラを横目に、エマも、青年から受け取ったエネコロロのボールを手の中に大事に包みながら棚を眺める。リザードン、カメックス、バクフーン。エマが見ている辺りは人気なのかボールがない箇所が多い。何のポケモンが置いてあったのかしら。オーダイル、バシャーモ、ラグラージ……あるポケモンのボールに、エマの目がとまる。
「あの、ごめんなさいね。せっかくあなたが選んでくれたエネコロロなのだけど……変えてもいいかしら?」


  ◇  ◇


 バトルフィールドの端と端にクラとエマが立ち、中央の壁際に審判役で青年がついた。夫の出る大会を観にいったときやテレビでポケモンバトルを見るときには気がつかなかったが、いざ自分が立ってみると、目の前の空間のそのあまりの広さに――何も無さに、ともいえる――途方に暮れるような心地になった。
 ポケモンバトルのためだけに用意された無機質なこの部屋はさながら白紙のキャンバス。使う絵具こそ定められているけれど、その組み合わせ、塗り方、描き方は人によって異なり、完成する絵に同じものは存在し得ない。今までこの部屋でどんなポケモンが、どんな軌跡で移動し、どんな色の技をぶつけ合ったのだろう。私の選んだポケモンとクラちゃんの選んだポケモンと、まったく同じ組み合わせの二体が戦ったことはあったのかしら? それは、どんな戦いになっただろう。掃除の行き届いた、真新しさすら感じられるこの部屋から想像できることは何一つない。――何一つないからこそ、思いを馳せることが、とても愉しい。
 エマは思い出した。
 私はこれが好きだった。
 この感覚が、エマは好きだったのだ。この人は今日はどんな戦い方をするんだろう。あれこれと思いを巡らせ、だけど愛する人がエマの想像通りのバトルをしたことは一度もなかった。いつもエマの予想の斜め上を行き、驚かせ、楽しませてくれた。あの人のそういうところが、エマは好きだった。いつまでも、どこまでもついていき、彼のバトルのひとつとして見逃したくはない。そんなふうに思っていた時期が、そうして彼を追いかけていた時期が、たしかにあったのだ。

「きゃ! どきどきするわね! 興奮しちゃう!!」
「クラちゃんったら、出発のときからずっとそうじゃないの。血圧高いんだから気をつけてちょうだいね」
「よおっし、いけっ、あたしの育太君!」
「そんなに振りかぶったら肩を痛めるわ」
 二人の前に、それぞれの選んだポケモンが現れる。
 クラが選んだのは毅然とした顔で前を見据えるエルレイド。すらりとした体躯で姿勢がよく、くっきりとした目鼻立ちはクラの一推しの愛知育太に似ていなくもない。
 そんなエルレイドに対峙するように立つのは、エマが選んだ密林ポケモン、ジュカイン。瑞々しさの漲る新緑色のしなやかな身体と、艶やかな目元が印象的だった。――夫のポケモンと同じ、草タイプ。それが、エマがジュカインを選んだ理由だった。
「よ、よろしくお願いするわね」
 明らかに戦いに慣れているであろうポケモンが、まったくバトルの経験のない人間の指示を待っている。いくらレンタルバトルのために専門のしつけを受けたポケモンでも、自分なんかがトレーナーでは不満ではないだろうか。盛り上がるクラとは反対に、だんだん心配になってくるエマ。
 ジュカインはそんなエマにチラリと振り向き、だいじょうぶよ、とでも言うように微笑んだ。その涼しげな目にエマはどきりとした。男性が十人いたら十人ともがコロリとハートを捧げてしまうような、円熟した笑み。すべてを包み込み抱擁するかの如きオトナの女の余裕。彼女からはそんなものが感じられた。

 青年の合図でバトルが始まる。
 ああ、どんな技が使えるのだったかしら……。ジュカインの得意技が書かれたカードを、バトルフィールドに入る前に青年から渡されていたのを思い出す。エマがカードと老眼鏡を出している間に、クラが叫ぶ。
「育太君、たいあたりよ!!」
 エルレイドが困ったようにクラを振り返る。
「その呼び方じゃ動いてくれないんじゃないかしら?」
「というか、エルレイドはラルトスまで遡ってもたいあたり覚えないっすよ」
「じゃあ、しっぽをふる!!」
「しっぽ無いっす」
 きゃはははあたしったらもう! 笑い転げるクラ。青年もつられて笑っている。
「それなら、なきごえ!!」
「えっ」
「えっ」
 えっ、とエマたちと同じくエルレイドも一瞬まぬけな顔を見せて、それからカッと顔を紅くした。それでエマは察した。ああ、できるんだわ、なきごえという技は。得意技というわけでは決してないのだろうけれど、使うことはできる技。指示をされたからには使うことが望ましい技。だけど恥ずかしいに違いない。可愛く鳴いて敵の戦意を削ごうとする技なんて。
 時間にしたらほんのちょっとの空白、しかし不自然であることはたしかな間ができ、それから。
 意を決したようにぎゅっと目をつむり、ひっくりかえった裏声でなきごえを上げるエルレイド。変声後の若い男の子が無理をして高い音を出しているような、不安定で情けない声。気の毒に思いつつ、また可愛らしくも思う。ジュカインは口元に手を当ててくすくすと笑っている。技としてはまったく効いていない。あんなに勇気を出してがんばったのに。彼のなきごえは失敗に終わってしまった。
 羨ましいくらいの透き通るような白色の肌のせいで、エルレイドの顔の紅潮はよくめだった。顔の前に片腕を持ってきて半分隠し、穴があったら入りたいというような顔をしている。さすがに不憫に思えてエマはクラに得意技のカードのことを思い出させた。


  ◇  ◇


 開始後間もなくしてバトルが中断されたバトルフィールドで、クラとエルレイド、エマとジュカインがそれぞれ額を寄せ合っている。作戦会議の時間。カードに書かれた技は四つ。リーフブレード、シザークロス、つじぎり、つばめがえし。エマはジュカインに予備の老眼鏡を貸そうとしたが、ジュカインは丁寧に辞退した。
「シザークロスってどう出すの?」
 そう聞くエマに、ジュカインは穏やかな表情のまま瞬時に後方に飛んで、掲げた両腕を勢いよく振り下ろしながらクロスさせた。その瞬間の腕は刃物のように鋭利で、こんなものをまともに受けたら真っ二つどころか四つくらいになってしまうわとエマは慄いた。このひと意外に武闘派なんだわ。呆けたようにぽかんと口を開けて固まるエマにジュカインはにこやかに笑いかける。
 一方クラは、カードではなくスマホをエルレイドと見ていた。スマホに関していえば、エマもユーチューブで外国のピアノリサイタルを視聴するくらいはできる。クラはそれ以上に器用であれこれと調べものをしたり流行りのシステム(たとえば撮った写真をその場で全世界に発信するもの――エマも誘われたが難しそうなので断った)を使いこなしたりしている。今も、もしかしたら、カードに書かれているもの以外の、エルレイドが使える技を調べているのかもしれない。
 それでエマも思いつくものがあった。
「あのね、お願いがあるの。しっぽをふって、ってわけではないのだけど……」
 なあに、教えて? というようにジュカインが首をかしげてエマの顔を見つめる。
 このときエマは胸の高鳴りを感じていた。若い子たちみたいにもったいぶって耳打ちしてみる。背丈のあるジュカインが自分のために屈んで耳を向けてくれて、一緒になって秘密を共有するみたいに楽しそうな顔を見せてくれたのがうれしくてたまらなかった。
「――って、できるかしら……?」
 お安い御用よ、とジュカインは優雅にウインクしてみせた。

 バトル再開っす! という青年の声に被さるようにして、突如音楽が流れだした。マスクド・ジョーカーズのデビュー曲『覆面の神経衰弱』――ライヴで聴いた曲だと、エマにもわかった。それは、クラの掲げたスマホから流れているのだった。いったい何のつもりかしら?
「さあ! 行くのよ育太君!」
 高く跳ね上がり、着地すると同時に今度は二度――まるでトランプを二枚裏返すように――連続でくるりっくるりっと宙転。今日のステージで愛知育太がセンターで魅せた動きとまったく同じだった。前へ、後ろへ、あるいは反比例のグラフをなぞるように、次のカードを決めかねるような足取りで、孤独でセンチメンタルな男の心の内側を歌いながら、またジャンプ。エルレイドは完全に、育太をトレースしていた。さきほど二人がスマホで見ていたのは彼のダンスだったのだ。
「思いついたイイコトって、これのこと?」
「そう! あたしこれがしたくてこの子を選んだんだったわ」
 音楽に合わせて完璧に踊るエルレイドと、きゃっきゃ言いながら観賞するクラ。よくあの短時間でこれだけ覚えられたものねとエマは感心する。ジュカインはといえば、何をしてくるかわからない、というより何をしているのかわからないエルレイドから距離を取ってじっと動向を見守っている。エマはその背中に「あれ、頼むわね」と小声で囁いた。ジュカインもエマだけにわかるよう小さく頷く。
 ラスト、全てのトランプが覆されマスクをつけたジョーカーが一枚――育太一人が残り、その仮面を剥がすキメのポーズを取るまで、エルレイドがジュカインに攻撃することはなかった。ただただ、一曲踊っただけだった。
 じっと見つめ続けるジュカインと、あまり見ないでくれと訴えるように顔を強張らせるエルレイド。若干頬が染まっているが慣れてきてもいるようで前ほど真っ赤にはなっていない。――と思っていたら、ジュカインがくすりと笑った途端それが起爆のきっかけみたいにボンと爆ぜた。はにかむエルレイドの口元がちょっとだけ愉しそうにみえたのは気のせいか。

「ここからが本番よ!!」
 次の曲『素麺のような僕のリンパ腺に響いた情熱』ではエルレイドは積極的に攻撃してきた。やはり見事に再現して、サラサラと流れるような動きで育太を真似ている。アイドルの素質があるのかもしれない。要所要所で冷気や熱気を込めた拳を打ち込もうとしてくるあたり、さすがはバトルに慣れたポケモンともいえた。れいとうパンチもほのおのパンチも、ジュカインの苦手な技だ。これら全てがクラとの打ち合わせの上での行動なのか、エルレイドの判断なのかはわからないけれど。
 エマも、ただ眺めていたわけではなかった。シザークロスは隙が大きく、エルレイドの攻撃を許してしまうので使い辛い。つじぎり、つばめがえしは素早く動けるものの相手の隙を見つけなければならず、打ち込みにくく威力が低くなりがち。自身と同じタイプの技、リーフブレードが発動に時間がかからず威力も出るので一番使いやすそう――このバトルを見ていてエマが気づいたことだった。そういう目を、私は自分でも知らないうちに養っていたんだわ。夫のポケモンと、そして夫が相手をした数多くのポケモンたちを見て鍛えられた、バトルを見る目。
 ジュカインの異常に、だからエマはいち早く気づくことができた。
 二つあった。
 ひとつめは、ある時点から技の威力が大幅に落ちたこと。ジュカインは腕を庇うように動いていた。腕にやけどを負っていたのだ。このまま戦っていては力の差で押し負けてしまうだろう。
 ふたつめは、リーフブレードのことだった。どの技もはじめより勢いがなくなっているのに、リーフブレードだけは、いっそ漲るように鋭さを増していた。これにはエマも思い当たるものがあった。夫のポケモンで、何度も見てきた。ピンチになると草の技の威力が上がるポケモンがいる――ジュカインも同じだった。

 決めるのは、今しかない。

「今よ! お願い!!」
 ジュカインとは事前に打ち合わせていた。だから、これだけの言葉で十分だった。





 ――あのね、お願いがあるの。しっぽをふって、ってわけではないのだけど……



 ――ソーラービームって、使えるかしら?


 ――主人のポケモンがよく使っていた技なの。あの人のお気に入りの技でね。いいえ、私が好きだから、よく使ってくれたのかもしれない。相手に気づかれないようにこっそり光を集めておいてね、ここぞというときに放つの。


 ――眩しくて、暖かくて、とっても強い、なつかしい光。



 ――私、もう一度、あの光が見てみたいの!





 それまでに蓄えていた光の全てをエネルギーに換えて放たれた光線は、真っ白で、明るすぎて、何も見えなかった。けれどもエマは、その光の中に、若き日のときめきやあこがれや恋慕、情熱や愛情や、あの時代に置いたまま忘れてきた何もかもを見つけた気がした。
 光の奔流がやんでからもしばらくは景色が霞むように白っぽかった。シルクが世界中を覆ってしまったみたいだった。ぼんやりと、夢の中の映像を思い出しているみたいな曖昧な視界に、ジュカインの背中が映る。
 ありがとう。エマが言うと、ジュカインは涼しげな顔で振り返り、どういたしましてと笑った。





  ◇  ◇


 真ん中に青年を立たせ、両脇からクラとエマが顔を寄せる。さらにそれぞれの後方にはエルレイド(キメ顔で愛知育太のポーズをしている)とジュカイン(驚くべきことにピースが上手だった)が写っている。
 え、自分も写っていいんすか? あったりまえじゃない! 自撮り棒持ってきてるんすね、さすがっす!
 クラからエマのスマホに送られた写真を見ていると、そんなやりとりが再生されるようだった。ひとに、どちらかの孫だと言ったら、彼はどっちの孫に見えるだろう。
「たーのしかったわねっ!!」
 夕暮れ時。バトルフロンティアにはもう、巨大な熱を放つポケモンも25メーターの熱帯樹もいない。けれども人やポケモンの賑わいはそのままで、新しい面々が顔を見せていた。
「エマちゃん、ありがとね」
 クラが改めてそう言うのでエマはたじろいだ。それでクラも恥ずかしくなったのか顔の前でひらひらと両手を振った。
「や、その、いやね、ポケモンバトルなんて、一生縁がないと思ってたからさあ! 人生ってまだまだなのねえって思っちゃったわ」
 クラの生家は名のある家系で、昔ながらの規律を重んじる家でもあった。少女のころから女はポケモンを持つべきでないと教えられ、家を出てからも、なんとなくその機会がないまま一生を過ごしてきた。ポケモンセンターに通っていたのもトレーナーへの憧れがあったからで、エマもそのことは知っていた。
 エマはといえば、夫のバトルさえ見られればそれで十分で、自分のポケモンを持つという発想すらなかった。夫がポケモントレーナーを引退してからは、何かが抜け落ちたように、静かに余生を過ごすだけだった。今さらポケモンを持つなどということは、思いつきもしなかった。
 ようするに二人とも諦めていたんだわとエマは思う。機会がなかったとか、思いつかなかったとか、そういうものの前提にはきっと、諦めがあったのだと思う。それがどれほどもったいないことであったか、エマは今日一日で大いに実感した。
「私もとても楽しかったわ。ありがとうね、クラちゃん」


  ◇  ◇


 ぱたり、と伏したミノマダム。もう降参よぉ、というように虹色の衣の一部をひらひらさせて、そこで試合終了となった。
「エレガント! 素晴らしいポケモンをお持ちだ! ぜひ私のミノマダムとトレードしていただきたい!」
 壮年の男性は駆け寄り、フシギバナの鮮やかな花弁を慈しむように撫でた。大きな身体のその主は見知らぬ人間に近寄られても触れられてもまったく動じない。それでもエマはやんわりとその手をどかした。
「ふふっ。残念だけどそれはできないの。この子、主人のポケモンなのよ」
 案内の女性に促され、エマはエレベーターへと向かう。上へ、もっともっと上へ。バトルタワーの勝ち抜きバトル。エマは再びバトルフロンティアを訪れていた。
「お強いんですね」
「ありがとう。長く戦っていなかったから、ちゃんと戦えるか心配だったのだけどね」
 エレベーターの中で案内の女性と話す。モンスターボールの中で、フシギバナがうれしそうに吼えたのがわかった。
 あの日から、エマはポケモンバトルに夢中になった。もう見られないと思っていたフシギバナの技の数々。自分が連れていってバトルに出してあげれば再び見られるのだということに、エマは気がついたのだった。だけど――
「どうかされたんですか?」
「あら、ごめんなさいね。何でもないのよ」
 知らないうちに顔が強張っていたようだ。心配してくれる女性に、エマはなんでもない顔を作って笑ってみせた。
 あのころに見たフシギバナの技をもう一度見たいという気持ちは、叶えることができた。しかし願いがひとつ叶うと、また新しい願いが生まれてきてしまったのだ。

 ――あの人のバトルが、見たい。

 いいえ、いいえ。エマは心の中で首を振る。
 バトルファクトリーにいたジュカインが協力してくれて、ソーラービームを再び目にすることができた。それだけでなく、夫のフシギバナが自分についてきてくれて、一緒にバトルしてくれているのだ。これ以上望むなんて、欲張りだわ。
 バトルフィールドに着くと、次の対戦者が来るのを待ち切れずにフシギバナがボールから飛び出した。良い香りのする巨大な花びらは、最近はポケモンセンター任せではなくエマ自身が手入れしてあげている。以来、うんと香りがよくなったように思う。
「あら、どうしたの」
 フシギバナがそわそわし出す。エマと同じように歳を重ねてきたフシギバナにしてはあまりに似つかわしくない仕草。まるで大きなフシギダネにでもなったみたいに、落ち着きがない。
 奥のエレベーターの到着する音がする。そして現れた人物に、エマは目を疑った。
「やあ、やっと会えた」
「あなた……!?」
 ぴょん、というよりビヨンッ、と大きな身体で飛びつこうとするフシギバナ。その先には、エマの夫が立っていた。最近ではまったく見ることのなかった、爽やかな表情をしている。
「どんどん勝ち進んで、どんどん上へ行ってしまうんだから。追いかけるのに苦労したよ」
「どうして……もうポケモントレーナーは引退するって……」
「そりゃあ、もう歳だし、バトルはできないと思っていたが――」
 うれしそうにすり寄るフシギバナを撫で、花の香りをかぐ。その姿は、引退する以前の姿とまったく変わっていないように見えた。
「妻が、若い娘のように置き手紙だけ残してバトルに出かけてるのに、もう歳だなんて言っていられないだろう?」
 家に置いていった手紙を思い出して、エマは自分の顔が紅くなるのを感じた。あまりに浮かれすぎていて、そんな真似をすることに、一片の躊躇すら抱かなかった自分が今さらながら恥ずかしい。
 だけど今は気恥ずかしさよりうれしさのほうが何倍も勝っていた。だって今から、この人とバトルをするのだ。
「フシギバナ、こちらへいらっしゃい」
 今の今まで夫に懐いていたフシギバナが、従順にエマの元に戻ってくる。
「あなたの切り札は、今は私が持っているわ。それであなたは勝てるの?」
「フシギバナの戦い方は、自分が一番よく知っているさ。――こうして話している間にも、実はこっそり光を集めているのだろう?」
 笑みを浮かべ合う二人。――三人だった。フシギバナ自身が、今まで何十回、何百回と、この手を使ってきたのだから。
「あなたに負けたら、私は連れ戻されてしまうのかしら?」
「そうだなあ。勝ったら、今度はタッグを組んでバトルしてみたいな」
「あら、それは私が勝ったらあなたにお願いしようと思っていたことよ」
 それなら話が早い。フシギバナが光を溜め切ってしまう前に、早く始めようじゃないか! そう言って彼はモンスターボールを高く、高く投げた。