ストローハット大行進

 みなとみらいは交錯する。
 横浜駅は世界第5位の乗降客数を誇る鉄道交通の要だ。県内外から多くの人間が訪れ、また箱に揺られて帰っていく。家族連れ、カップル、サラリーマン……。接点のなかった者どうしが交わり、あるいはさらにその関係を深め、それぞれの人生に何かを残していく。幕末に開かれた横浜港は今やアジア圏のクルーズ客船も乗り入れ、海外からの輸入品を詰めたコンテナが日夜積み降ろされている。中心エリアから南へ外れれば元町中華街へ迷いこみ、唐突な異国情緒に浸ることができるだろう。人も物も時間さえ入り乱れ、世間はお盆に入りピークを迎えた夏の日差しは、日暮れにも気づかぬうちに関東屈指の夜景へすり替わっていく。ランドマークタワーをはじめ再開発の高層ビル群の窓にともる明かりが、穴の空いたビンゴカードのように縦横ナナメに浮かび上がる。列がそろっても景品は出ない。みなとみらいはそんな町。
 夕方4時を回った山下公園は多くのトレーナーでごった返していた。常時は木陰のベンチがシーバスを眺めるカップルで埋まる人気のデートスポットだけれど、今日は違う。年に1度のお祭りを最後まで楽しもうと、だだっ広い芝地に異様な熱気を纏った大人たちが散らばっていた。みんな汗にまみれながらスマートフォンにかじりつき、血眼になって歩いては画面をつつき、また歩いてはつつきを繰り返している。大さん橋ホールの同人誌即売会へ赴くオタクへ向けられるようなアウェー感に圧倒されないよう、僕だって目を凝らしてポケモンを探す。
「……見つけた!」
 この日のために設置された、虹のかかった空が描かれたドーム状のオブジェ。その周囲に並んだフワンテ、ポッポ、ネイティ――これらは風船だ。けれどその背後に地面を跳ねて移動する影があった。気配を殺して忍び寄る。緑の体に青い翼。ちょんと突き出たピンクの嘴に、首飾りと胸の羽は白と黄でちょうどマーガレットのよう。頭には音符のようなトサカがついている、小学4年生の平均身長をした僕の高さの半分もない、ビビッドカラーのやかましい鳥。
 ぺラップだ。
 人混みに紛れてその背中を追う。ご飯を探しているんだろうか、キョロキョロと辺りをうかがっていて、そいつが不意にこっちを向いた。香川照之が演じていそうな怪訝な目と、藤原竜也ばりに飛びかかろうとする僕の目とがバッチリ合った。
 今!
 思いっきり芝生を蹴って、腕を伸ばして――、その隙間をすり抜けて、ペラップが飛び立った。
 ううっ、惜しいなあ。反射的に飛び去った方へ顔を仰ぐと、器用に片翼飛行しながらおんぷ鳥があっかんべぇをしてくる。嫌なヤツ。よそ見しながら飛ぶ鳥なんか電柱にでもぶつかって、トムとジェリーの猫の方みたいにぺしゃんこになってしまえ。睨み返すしかできない僕を鼻で笑ったペラップが、悠々と低空を旋回して、ゴチっ! 空中で硬いボールにぶち当たった。
 憎たらしいおんぷ鳥を赤い光で回収して地面へ落ちたモンスターボール。それを投げたらしい人間がかがんで、うつ伏せのままの僕へ手を差しのべる。
「走っちゃ危ないぞ、少年」
「あ……、ありがとう」
 助け起こされて、黄色のシャツにはびこった短い草をぱっぱと払い落とした。素麺のつゆみたいな色をした短パンも芝だらけ。陽は傾いたとはいえ酷暑は衰える気配もない、栗色の髪を掻きあげて、額に溜まった汗をシャツで拭う。
 恩人の顔を見ようと向き直って、僕はけっこう首を傾けた。
 僕を助け起こしてくれたのはおねえさんで、おねえさんは背が高い。180センチ以上ある。マキシ丈の白いワンピースは膝が隠れる程度にまでしか覆えていない。赤いリボンの麦わら帽子が小さな顔に影を落としている。モデルさんみたいだった。宝塚時代の天海祐希らしい男前な印象を与える。それでいて履いているのは赤のコンバースだったり背負っているバッグがピカチュウの耳を生やしたりしていて、何より親しみやすい物腰だ。
「ひとりかい? ここらの子? お姉さんがフレンドになったげようか?」
「あ、いや、僕はスマホ、持ってないし……」
「そなの。GOやってないのに来るなんて、ポケモン好きなんだねえ」
「おねえさん程でもないよ」
 おねえさんは話し相手が年下だと自分のことをお姉さんと言うらしい。だから僕もおねえさんと呼ぶ。こっちが少年と呼ばれるのは、ちょっとむず痒い気もするけれど。
 彼女の見せてくれたスマホ画面では、今しがた捕らえられた香川照之が、悔しそうに首をクックッと捻っている。どうだ見たか。カイジでも最後に笑うのは藤原竜也なのだ。
 液晶を睨みつける僕を、とりあえず木陰行こっか、と誘導して、おねえさんとふたりで穴場の夕涼みスポットへ収まった。ポケモンセンターで買ったというピカチュウリュックからポカリと厚手のタオル、それにアイスノンまで取り出している。予備のペットボトルは僕の手の中に。こういうイベントに慣れているのだろうか、熱中症対策は抜かりがない。
 口へ含んだお茶は生ぬるいを通り越してお風呂くらいの温もりがあった。彼女との会話の糸口が見つからないまま、投げ出した脚へかかる木漏れ日が少しずつずれていく。ここらは飛行ポケモンのハビタットになっているらしく、ミツハニーやハネッコなんかが人間たちの頭上を舞っていた。と思えば木陰には花飾りを頭に乗せたピカチュウがいて、目があった僕にウインクしてくれる。今日のためにオシャレしてきたらしい。可愛いなあ。
 空のオブジェの隣には僕のよりかかる樹よりも背の高い青色のポールが突き刺さっていて、おねえさんがスマホを指先でなぞると、モンスターボールを模した巨大なピンがくるくると回った。崎陽軒のシウマイみたいにポヨポヨした輪郭の泡に包まれて、便利な道具が回収されていく。今度は逆に彼女のスマホからニョロモが飛び出して、どこか遠くへ跳ねていってしまった。世話しきれないポケモンを逃したのだろう。
 僕がいつも見ている光景。おねえさんと話したいことは山ほどあるけれど、いっそ並んで座っているだけでいい気もしてくる。
 そうだ交換、と短い声をあげたおねえさんが、リュックに手を突っこんでスケッチブックを引っ張り出した。数十秒でさらさらと可愛らしいエムリットを描き上げて、プラカード代わりに掲げているとすぐに外国人らしきお兄さんが交換を持ちかけてくる。絵が上手い以上に背が高いってこともあるんだけれど、話しかけやすい彼女の雰囲気が自然と人を集めるのだと思う。
 そうこうしているうちに知らない誰かとポケモンバトルが始まった。おねえさんがスマホの液晶をフリックすると、勢いよくマリルリが飛び出してくる。続けざまにロズレイド、カイリュー。彼女がお気に入りの、いずれもジムバトルで活躍しているポケモンたちだ。指先ひとつで豪快な技を繰り出す手持ちたちを横目に、おねえさんは麦わら帽子から童心に帰ったような表情をのぞかせる。僕はケヤキの陰で、彼女のリュックから転げ落ちた孵化装置のタマゴと試合の雲行きを見守っていた。
「はー負けた負けた。待たせたな少年、アイス食べよう。お姉さんが奢ったげる」
「いいの?」
「もちろんもちろん。甘えちゃいなさい」
 噴水近くでピカチュウ柄に塗装されたキッチンカーを見つけたおねえさんは、待ちぼうけをしていた僕を引き連れて熊谷並みの体感気温の芝地を突っ切っていく。
「何味がいいかい? peach or pine?」
「そんなビーフオアチキンみたいな」
「ははは。きみはその歳で飛行機に乗ったことがあるのかい」
「おねえさんは外国にも行ったりするんでしょ」
「まぁね。出張も多かったから」
 アイスはパイン味しか売ってなかった。僕にはピカチュウの顔をかたどったアイスバーを渡されて、彼女はオレンジレモネードソーダを注文する。スタバで出されがちな容器にこれまたピカチュウの耳が生えている。僕らはどう見てもピカチュウマニアだ。
「さて、君はどうする? お姉さんはこれから横浜駅まで歩くつもりだけど」
「…………うん、一緒にいく」
 僕は神妙に頷いた。そうするために僕はおねえさんに会いに来たんだもの。
 満足げに片手を腰に当てたおねえさんが、それでは、と飲み物を持った右手で北を指す。
 僕たちは気ままに海沿いを行進した。
 潮風になびく麦わら帽子を先頭に見上げながら、僕は舌でアイスを溶かす。パイン味が頬を内側から甘くした。味に夢中になっていると置いていかれそうで、彼女との距離が空かないよう小走りになってそれを詰める。
 コンバースの靴先で小石を弾くように彼女は歩く。スマホを見ずに液晶を指先で叩くたび、ランドマークに突き刺さったポケストップがくるくる回る。誰とも知らないトレーナーの取り付けたモジュールが等間隔で桜吹雪を散らし、お花見とばかりに人もポケモンも寄り集まってきていた。モデルのようにスタイルの良い彼女は好奇の視線に微笑みで返しつつ、でも歩くのをやめない。昔見たディズニー映画に出てきた魔法使い、メリー・ポピンズのようだった。おねえさんがちょちょいと手招きすれば、象の鼻パークでじゃれあっていたゴマゾウとプリンがなんだなんだと付いてくる。ダンディ坂野が着てそうな色の僕のシャツをゴマゾウが鼻でぐいぐい引っ張るものだからすっかりバテてしまった。
「そろそろ休憩にしよっか」
「うん」
 赤レンガ倉庫に寄り道して、衰える気配のない西陽に追われるように屋根の下へ逃げこんだ。途中で立ち寄っていた地元でも人気のカフェ『横浜ロータス』で彼女が買ったバナナとチョコのマフィンを分けっこする。かぶりつこうとするとゴマゾウが円らな瞳を潤ませてくるから仕方ない、さらに半分に分けてあげた。疲労にバターの旨味が染み込んでいくようで、噛むたびに元気が湧き出てくる。波止場の欄干にチルットたちが集まる時間、7羽揃うと夕凪のハミングが始まった。つられてプリンも鈴の喉を転がす。ふわもふの翼を胸へ宛てたお辞儀に惜しみない拍手を送った。おねえさんが残りのデニッシュを小鳥たちへおすそわけすると、腰を上げた僕たちの頭上で羽を広げて付いてくる。ぷくぷく、ごろごろ、ぱさぱさ。楽しげな行進曲を奏でながらお供たちが付いてくる。
 僕とふたりだけの散歩だったのに。ちょっぴり湧いた不満はピカチュウのアイスバーを舐めてごまかした。任された孵化装置のタマゴをぎゅっと抱く。
 交差点に差し掛かったところで、麦わら帽子の楽隊長が足取りをビッと歩道橋へ向けた。眼前のコスモワールドではアローラナッシーがにゅんと長い首をひしゃげて、大観覧車のゴンドラに乗っている家族連れを覗きこんでいる。
「あっち行こっか」
「え、でもまっすぐ進んだ方が早いんじゃ」
「人生寄り道も大切だぞ少年。それとも遊園地で遊びたかった?」
 僕が駄々をこねているように聞こえて、慌ててかぶりを振る。高架のサークルウォークは横浜ワールドポーターズに直結していて、冷房の効いたショッピングモールの中を一行は練り歩いた。和小物を扱う商店のチリーン、サーティワンのアイスケースに潜りこんでいたユキカブリたち、フードコートにある作り物の大樹にぶら下がるエイパムなんかも巻きこんで、僕の後ろに並ぶ列はどんどん長くなる。飛ぶヤツ跳ねるヤツ転がるヤツ。列はどんどん騒がしくもなる。
 ウィンドウショッピングを済ませて屋内を出ると、東の空から夜色が染み出していた。汽車道は新港と桜木町を繋ぐ左右を海に挟まれた散策路で、おねえさんはウッドデッキを木琴のように踏み鳴らしながらずんずん進む。陽気な演奏に誘われてどこからかやってきたラプラスが、彼女と並走して泳ぎながらプリンやチルットと輪唱を奏で始める。コロトックがバイオリンの音色を添え、いつのまにか進化していたエテボースが尻尾でシンバルを叩いていた。ホエルコの背中を足場にしたタマザラシのつるつるダンス、音楽隊はビル群の合間を縦横無尽に突き進む。僕も即興のコンサートに参加できないかと思って溶ける気配のないアイスバーを振ると、カラカラとマラカスのような音がした。ゴマゾウが円らな瞳を潤ませてくるから仕方ない、貸してあげると嬉しそうに鼻で振り回すのだ。
 孵化装置のタマゴも踊り出しそうな雰囲気に、気分の良くなったおねえさんが歌詞を口ずさむ。
「東京都心は、パラレルパラレルパラレルワールド」
「え」
 僕はちょっとドキッとした。足を止めて列をウニュっと乱した僕の様子をうかがうよう、ここは横浜なんだけどさ、と後ろ手を組んだ彼女が横目で笑いかけてくる。
「私が中学のとき流行った曲だよ。君はもう知らないだろうけど」
「ううん、知っているよ」
「へえ? なかなかにマニアだね」
 ポケモンたちに囲まれる彼女の横顔は実に幸せそうで。
 ああ、彼女を連れ出してあげたいなあ。
 交差点も何もない一本道で、僕は足取りをビッと海へ向けた。首元をトトンと叩くとラプラスは僕のシャツの首後ろを咥えて、そっと背中へ乗せてくれる。
「おねえさんこっち!」
「どうした少年?」
「寄り道、しよう!」
 丸っこい棘にまたがっておねえさんに手を差し出した。おずおずと重ねられた彼女の手をさっと引き上げる。旅は道連れ、とばかりに後へ続くポケモンたちもわらわらとラプラスによじ登った。海が怖くておずおずと丸まっていたゴマゾウの鼻を引っ張り上げて、いざ黄昏の船旅へ。
 長い首に掴まる彼女の麦わら帽子が、潮風に揺れた。
 ラプラスが汽笛のように小さく鋭く鳴いて、おねえさんと僕とポケモンたちを満載した島が沖へと漕ぎ出した。一段と濃くうねる海のにおい、クラブの吐いた泡が沈みゆく夕陽をでたらめに煌めかせている。公園で飾られていた巨大なピカチュウバルーンが風に流れてきて、僕がその尻尾を掴むと、ざばあ。島ごと宙へ浮かび上がった。「あはは、すごいすごい!」少女のように笑うおねえさんの背中にしがみつく。ラプラスがみなとみらいの夕景を横切って飛ぶ。このまま彼女をどこか遠く、人間社会のしがらみから遠く離れたところへ連れて――
「着いたぞ少年。いい加減起きたらどうだい」
「…………、ふぇ?」
 押入れの奥で見つけたぬいぐるみを抱くように優しく体を左右に揺さぶられ、僕はまどろみから引き戻された。ラプラスの乗り心地そっくりなおねえさんの背中に揺られていたらしい。垂れかけていたヨダレを黄色のシャツの袖で慌ててぬぐう。右手に握っていたはずのパインアイスはすっかり溶け切っていて、ただの木の棒に変わり果てていた。あれだけ騒がしかったポケモンたちはどこへ消えたのだろう。アニメの放送時間が変わった次の週のの木曜7時のような寂しさがとぐろを巻いていた。
 いつから僕は眠っていた? 思い出そうとして、思い出せなかった。あたりは既に真っ暗で、頭上にはビルの光が蔓延している。いい加減おねえさんの背中から降りようとして、僕らは黒山の人だかりの中にいると気づいた。これじゃあ降りるに降りられない。
「……ここはどこ?」
「見ておきたいものを思い出してね、横浜美術館だよ。ほら丁度ショーが始まるところだ」
 促されるようにして視線を前へと向ける。細い水路で囲われた玄関広場には、直径1メートルほどのモンスターボールのオブジェが転がっていた。観客のざわめきを割って響いた重低音とともに、それが真横に開いて光が溢れ出す。
 美術館の壁面にプロジェクションマッピングされたピカチュウが、校長室の絵画のようにずらりと並ぶ。荘厳なハウスミュージックとともに迸る電撃のエフェクトから、本物のピカチュウが10匹ほど、奥から舞台へとやってきた。
 本物ではない、ピカチュウは着ぐるみだった。
 きらびやかな衣装を纏った着ぐるみのピカチュウが、跳ねて揺れて駆け寄って、夜のステージを熱く盛り上げる。体を左右に振ると可愛げに揺れるボディ、短い手を懸命に触れば観客から拍手が上がった。一糸乱れぬ――というより素早く動けないなりのシンクロしたダンスを披露する。それが終わると人間のヒップホップ集団がステージになだれ込み、光と映像を交えたショーが始まった。
 爆音とレーザービーム、それにぴったりと息のあった動きに圧倒されていた僕の栗毛へ長い腕がぬっと伸びてきて、不意にくしゃくしゃと撫でられた。
「私が本当にポケモンを持っていれば、あんなダンスができるのかねえ。……君はもうお姉さんの相棒みたいなもんだ。イチバンの相棒。いいね、相棒って。あははは」
「……相棒、いい響きだね」
「君もそう思うだろう。あははははは」
 あっという間の20分が過ぎ、観衆がぞろぞろと帰路につく。美術館は夜にふさわしい静けさを取り戻し始めていた。
 おねえさんは近くの自販機でお茶を買ってキャップをひねる。ベンチで脚をプラプラさせていた僕のむき出しの腕へひやり、ポカリが押し付けられた。喉が渇いていた。
「これもあげる」
 え? と見上げる間もなく、僕の頭へ重みがかぶせられる。おねえさんに似合っていた、赤いリボンの麦わら帽子。サイズは合っているようだけれど、目深に覆われた帽子をずらそうと後ろへ引っ張っても、上から軽く押し付けられているようでびくともしない。
「え、でも、これお気に入りなんじゃ」
「いいから」
「…………うん」
 アイスやジュースはたくさん奢ってもらったけれど、形に残るものは特別な嬉しさがこみ上げてくる。でもそれを素直に伝えるのはなんだか小っ恥ずかしくて、緩んでほころぶ笑顔を噛み殺しつつ、ありがとうを言おうとして、
「私ね、今日、会社辞めてきた」
 顔を上げられなくなった。
 すぐ近くで、続くおねえさんの呟きが、やけにはっきりと聞こえた。
「イラストレーター、目指そうと思ってたんだ。ずっとずっと。少しだけどお金溜まったし、もういい加減に、自分の人生決めようと思ってさ」
 いくら自慢の夜景でも彼女の表情までは照らせない。それだけを静かにこぼした彼女は、そっと僕の頭から重みを外した。僕はまだおねえさんの顔を見上げることはできない。
 ……うん、知っていたよ。イラストレーターはおねえさんの――カナエの、子供の頃からの夢だものね。
 僕が顔を上げるのを待たずに、おねえさんはいつもの明朗な調子に戻っていた。
「……なんでもないや。もう夜も遅い、そろそろお別れにしよう。浜っ子なんだよね、ひとりで帰れる? 電車なら調べてあげるから――あ」
 いやに早口になったおねえさんがスマホを手に取った瞬間、丸一日稼働しながらもかろうじて保たれていた充電が切れた。真っ暗になった液晶の中央で、処理中のマークが申し訳なさそうに回転している。
 バチん!
 僕の世界に一瞬、断線したようなノイズが走った。それを皮切りにテクスチャーが剥がれていく。美術館の大理石が割れ、生垣で暗くそびえる灌木は中央で斬られ、入り乱れたビルの作り上げるみなとみらいの夜景がぼあぼあと滲んでいく。仕事帰りのサラリーマンもファンサービスで残っていたピカチュウの着ぐるみも、チリコンカンをすくったスプーンから砕かれた豆が溢れ落ちていくように、何もかもが平面に均されていく。
「……少年?」
 僕の隣で、カナエが小さな驚きの声を漏らした。崩壊していく僕の世界で彼女だけは無事だった。けれど、目線は合っているのに、合っていない。たぶんもう、彼女の視界に僕の姿は映っていないだろう。
 タイムオーバーだ。
「や。どうだった?」
 電源が切れたはずのカナエのスマートフォンがぱっと光って、飛び出てきた小さな星型のポケモンがくるりと一回転してみせた。現実とデジタルのみなとみらいを交錯させたジョーカーのお出ましだ。
「元気そうだった。ありがとうジラーチ、僕の願いを叶えてくれて」
「きみもあの子も、同じこと思ってるんだもん。ボクの力で引き合わせてあげたくなっちゃうじゃんー。本当はダメなんだからね。きみの世界はこっち、あの子の世界はあっち。今日きみが見てきたこと感じたことは、注意深く切り取ればちゃんとふたつに分けられる。夢うつつに行進したポケモンたちも、首の長いナッシーも、あの子の持っていたタマゴだって本当は君にしか見えていない。ジョーカーだか素麺だかもきみが勝手に想像したこと。反対に流暢な英語でアイスの味を聞いたのは彼女だし、バトルをしたのもそう。きみの物語はここでおしまいだけれど、また一歩大人になった彼女の話はこれから何千何万文字と紡がれていくのさ。今日が特別なだけ。本来なら世界は1本のわらみたいなもので、こんな複雑にもつれ合って麦わら帽子を編み上げちゃあいけないんだ。交わることのないパラレルワールドなんだから」
 うん、分かっているよ。他にもそうだ。エムリットを交換したのだって、ニョロモを逃したのだって、ポケモンセンターでリュックを買ったのだってカナエだ。これから電車に乗ってシェアハウスに帰るのだ。
「ジラーチは現実の世界でもあり得るの?」
「まあね。なんたって幻のポケモンだもの。ボクが取り持ってあげたんだからね」
 ポケモンGOフェスタに招待されたトレーナーだけが消化できるスペシャルリサーチ。それをクリアしたカナエのもとに、ジラーチがやってきた。最近元気がない彼女を直接僕が励ましたいんだと相談すると、いやにやる気な彼がサラリと叶えてしまったのだ。期限はスマホの電池が切れるまで。彼女と協力してペラップを捕まえられたのは良かったけれど、人間の体には慣れていなくて無様に転んでしまったのは、いいや、今となってはいい出会いのきっかけだったかもしれない。
 千年寝て起きたら地球が滅んでいたときのようにつまらなさそうなジラーチが、だらりんと浮かんだまま頬を膨らませた。
「でもねえ、せっかくあの子に会えたってのに、なんで正体を教えなかったかなー。もっといろんな話、聞けたと思うのに」
「ううん、いいんだ。これで、いい」
 だって僕は、カナエのことをずっと見守ってきたんだから。見守ってきたからこそ、彼女は立ち直ったのだと直感した。
 原色こそ正義みたいな色味の知育玩具を手放すよりも早く、彼女は僕と出会った。6つ歳の離れた兄がゲームボーイで僕らと遊ぶのを、カナエはずっと側で見ていたのだ。小学校にあがるとスケルトンのアドバンスを買ってもらって、初めて自分でプレイしたタイトルはルビーだった。中学の時にはDSでダイヤモンド版を遊び倒して、以降も新作が出るたび画面越しに僕たちと触れ合ってくれた。それから彼女はポケモンの種類が増えようとも、常にピカチュウだけは手持ちに加えて旅をする。僕がアニメやサブカルチャーに詳しいのは、彼女の側にいたから。そう、僕はいつだってカナエの側にいたんだ。小学校で背が高いといじめられ席を一番後ろにされたときも、中学生になって大学受験で浪人していた兄が自死したときも、それがきっかけで両親が離婚したときも、転校先の女子高ではモテて付きまとってくる後輩からリストカットの写真が毎日送りつけられてきたときも、中退して引きこもりがちになった家で父親に暴力を振るわれていたときも、大学でできた彼氏に薬を飲まされそうになったときも、就職した飲料メーカーで70歳近い上司にセクハラを受けているときも、2年目で飛ばされたマレーシアでマラリアにかかり死の淵をさまよったときも、何もかもが嫌になって辞表を叩きつけたときも、――今も。
 大人びた顔つきにすっかり戻っていたカナエが、うんと伸びるように美術館のベンチから立ち上がった。颯爽と駅前の繁華街へ消えゆく彼女の背中を、僕も追いかける。1歩踏み込むたび少年の姿はするすると解け、背が縮む。全身は黄色の被毛に覆われ、耳としっぽが生えてくる。電気袋の内側に一瞬蘇るパイン味。
「お帰りイチバンの相棒くん。今日みたいな奇跡はもう起こらないけれど、引きずるのはやめなよね」
 ううんジラーチ、そんなことないよ。あるべき形を取り戻し始めた僕の頭には、カナエのくれた麦わら帽子がかぶさっているもの。
 のっぺりとした交差点を曲がる彼女の背中を駆け上がって、いつもいる右肩へちょんと乗る。帽子、ありがとう。僕は小さく呟いて、カナエの進む先をずっと一緒に見つめていた。