ロスト・アポカリプス

 窓から柔らかな月光が差し込み、部屋の中を幻想的に彩る。靡かないカーテンとは対照的に、黄色の羽衣がふわりふわりと揺れ動いた。その存在は月を吸い込んだのかと思うほどに大きな光を目に宿し、虚空に佇んでいる。
 願い星。そんな単語が頭をよぎる。その姿はまるで某有名ゲームに出てくる幻のポケモンとよく似ていて――いや、紙やゲーム画面に描かれたものをそのまま実体化させたと言ってもいいほどに「同じ」だった。なぜか名前が出てこないが、これは実物を見た衝撃で一時的に忘れてしまっているのだろう。
 願い星がここにいるのなら、これはきっと夢に違いない。一度そう思ってしまえば周囲を彩る月光も部屋に満ちたこの空気もどこか現実味がない。試しに頬を軽く抓ってみる。痛みはいつまで経っても襲って来なかった。
 なるほど、これが世に聞く明晰夢というものか。明晰夢なんてこれまで見たことがなかったが、実際見てみると意外とすんなり受け入れられるようだ。これが普通の夢の時は夢とは思わないのだから、人間の脳は不思議に満ち溢れていると言えるだろう。
 問題は起きた時に覚えているのかどうかだが――、夢は夢なのだからあまり気にしなくてもいいだろう。いや、これは貴重な体験なのだから逆に大切にした方がいいのか? ……よくわからないな。とりあえずこれは一旦置いておくことにしよう。
「……さて」
 ここが夢の中だとわかったとはいえ、ずっと考えているわけにはいかない。いつ目が覚めてしまうのかわからないのだから、この状況をなるべく楽しんだ方がいいだろう。うんうんと軽く頷くと、再び願い星に視線をやる。
 願い星の後ろには月に隠れた太陽を抽象化したようなものが浮かんでいて、うっかり触れると吸い込まれてしまいそうな、そんな印象を抱いた。いつからあるのか不明だが、最初からあったような気もする。ベッドから上半身を起こしてその光景を眺める俺に、願い星がふわりと微笑んだ。
 俺が持つ全てを優しく包み込んでしまいそうなその笑みに、俺は思わずぼうっと見入ってしまう。そんな俺に気分を害することもなく、願い星はそっと星型の頭についた短冊の一つに触れた。
 短冊がぽうと淡く光りだし、その光はやがて部屋を、家を包んでいく。目の前に映るのは一面の白。網膜にしっかりと焼き付いて離れないほど美しい白は、恐怖ではない何かをもたらしていく。
思考までもが白に染まり始め、体がぐらぐらと揺れる。意識が白に沈む直前、どこからか声が聞こえた気がした。





「――響生(ヒビキ)! 響生ってば!」

 目覚ましのアラームよりも大きな声が鼓膜に突き刺さる。絶対開いてやるものかを意地を見せる瞼を指でぐいと持ち上げ、光を取り込むことで強制的に意識を覚醒させた。布団の魔力から逃れるように上体を起こすと、うーん……と伸びをする。
 陽光のお陰でぐんぐんと眠気が遠のいていく感覚を味わいながら、俺は何だか不思議な気分になっていた。
 上手く言えないが、どこか幻想的な夢を見ていた気がする。俺はそれをはっきりと夢だと認識していた。だが、その記憶を引っ張り上げようとすればするほど記憶は揺れて遠ざかっていく。
 夢なんてどうでもいいと思っていたはずなのに、その記憶を必死に呼び戻そうとしている俺がいる。いや、結構大切に思っていたっけ? よくわからないが、この問題は一旦脇にでも置いておこう。
 頭の中で意識の手を伸ばしてみても、実体のない夢は手をすり抜けていく。このままでは完全に忘れるまでそう時間はかからないだろう。せめてメモでも取れれば断片的であっても覚えていられるのに――。
「それだ!」
 頭の中で解決しようと思っていて、すっかり現実の道具に頼ることを忘れていた。夢日記をつけているわけじゃないんだから、そう都合のいい場所に紙と鉛筆があるはずがない。この際携帯でもいいか。スマートな時代に取り残された我が携帯を開くと、そこには無が広がっていた。
 ……ああ、そうだ。充電がなくなっていたんだった。ガクリと項垂れる俺に追い打ちをかけるかのように、脳天から全身へと痛みが走り去っていく。ほんの一瞬、世界がぐにゃりと歪んだ。
「いってぇ!? 何すんだよ!!」
「せっかくボクが起こしに来たっていうのに、それを完全に無視して変な行動をする響生が悪いんじゃんか!」
 じんじんと痛む頭を押さえながら視線を上げると、そこにはフライパンと片手に携えた短髪の少女――光莉(ヒカリ)の姿があった。時間帯から考えると、わざわざ起こしに来るほどのイベントは朝食くらいだ。俺はそれだけ寝ていたということか。
 朝食は確かに大切だが、それに呼び出すにしては少し乱暴すぎる。お陰で何を考えていたのか綺麗さっぱり忘れてしまったじゃないか! いや、何かを忘れたということだけわかるのだから、完全に綺麗さっぱりとは言い切れないのか……?
「ちょ、響生!」
 思考の海に沈もうとした俺を、再びフライパンのものと思われる衝撃が襲う。おい、やめろ。いくら俺を現実に呼び戻すためとはいえ、俺を叩くのに使われるのではフライパンが可哀そうだ! あれ、それじゃ俺はフライパンよりも下になるのか?
 いや、そんなことはどうでもいいな。俺が言いたいのは、あれだ。フライパンはやろうと思えば立派な武器にもなるのだからむやみやたらに叩くな! 本来の役目を果たさせるためにキッチンに返してきなさい!
 がんがんと痛む頭を押さえながら、フライパンを構えつつ仁王立ちする光莉を睨む。俺が再び思考の海に沈もうとした途端、三度目のフライパン攻撃をするつもりなのだろう。さすがの俺もそれはご免被りたい。
 布団を足元へと押しのけてベッドから降りると光莉に視線を送る。視線の意味がわかったのか光莉は仁王立ちを解除すると、「早く降りてきてね~」と風の如く階段を降りていった。忘れずに扉を閉めてくれたあたり、少しは気を遣ってくれたようだ。
「そんじゃ、さっさと着替えますか」
 いくら俺が青春の中を突き進む男子高校生だとしても、幼馴染に着替えを見られるというのは罰ゲームに近い。俺はナイーブなんだ。いや、ナーバス? 横文字はともかく、俺は繊細で恥ずかしがり屋な少年ということだ。
 恥ずかしがり屋かどうかは別にしても、思っていることは光莉も同じだろう。そうじゃなかったらすぐに部屋から出るとは思わない。もう少し言葉のキャッチボール、いやドッジボールをしてから出るだろう。あと、仮にすぐ出ても扉を閉めるのを忘れると思う。
 こんなやり取りがあってもぐーすか寝ているマリルは気楽なものだ。寝坊して朝食を食べられないのは辛いだろう。すぐに起こそうと視線を一通り彷徨わせ――、その姿がないことに気が付く。
「……俺よりも先に言ったのか。まあ、あいつ食いしん坊だからな」
 ため息を一つ吐くと、俺はのそのそと着替えてから階段を降りていった。


「あ、響生君。今日はやけに遅かったね?」
 俺の前以外皿がないという、なんとも恥ずかしい光景を目にしながらテーブルにつく。……テーブルの端に置かれた炭は一体何だろう。炭を使うような料理は今できないと思うんだが。
 一旦炭から視線を外すと、食パンの一枚にジャムを塗ってかぶりつく。甘酸っぱい味と香りが口の中に広がった。返事をしなければと思いつつ、空腹には勝てない。何口か食べた後、声に対する答えを口にした。
「俺をそうさせる何かが確実にあったんだが、それは光莉のせいで忘れた」
 食べ終えて幸せそうな顔で膝上に座るイーブイを撫でる光莉を軽く睨むと、下手な口笛が耳元を通り過ぎる。その光景に苦笑いを零すのは、たった今俺に声をかけてきた人でありこの家を管理している雅(ミヤビ)さん。
 俺達よりも年上だというのにタメ口で話していいと言ってくれたうえ、好意でかつては宿泊施設だったという今の家に上がらせてくれた。糸目のせいで視線がどこにあるのかわかりにくいのがアレだが、全体的に見ても文句なしの好青年だろう。
 呼び捨てでも構わないなんて言ってくれもしたが、既にタメ口も許されているのに呼び捨てだなんて恐れ多い。もし呼び捨てなんてしたら、その日のうちに俺に不幸が襲い掛かる気がする。
 ふと視線をずらすと、俺達から離れたところに座る長髪の少女――春香(ハルカ)が視界に入る。彼女はどこを見るでもなく、ただ虚空を眺めていた。その近く――と言ってもやはり離れているが――ではロコンがくうくうと寝息をたてている。
 あの地獄のような猛暑日が続いていた頃はともかく、冷たい風がやっと吹き始めた今なら炎タイプ特有の温かさを歓迎できるだろう。冬になったら一緒に寝てくれないかな、なんてことを考えながらパンを食べていると、くいと服の裾が引っ張られる。
 首を動かして正体を確かめると、そこには今にもよだれを垂らしそうなマリルの姿が。……どうやら自分の分を食べてもまだ足りないらしい。そういえば、朝食にハムエッグが出ていた時もこうやってイーブイと一緒におかわりをねだっていたな。
 これを逃すと昼食までないし、どうしたものかとパンとマリルを交互に見る。すると、光莉が笑顔で皿に乗った炭をマリルに差し出した。
「あれ、足りないの? だったらボクとロコンが協力して作ったトースト食べる? 見た目はアレだけど、中身は多分平気だから食べても問題ないと思うよ?」
 ……安心できる要素がなさすぎる! というか、さっきから地味に視界に入っていたアレ、食パンだったのか! いつもなら春香の近くに行こうと努力するロコンが寝ていたのは、光莉に付き合ったせいで疲れたからだったとは……。後でたくさん撫でておこう。
 笑顔の光莉に対し、食パンの形をした炭を突きつけられたマリルは引きつった顔でぽんぽんと腹を叩く。「やっぱりもうお腹いっぱいだから大丈夫!」と言いたいらしい。本当はまだ空いているのだと思うが、そう訴えるとあの炭が口にシュートされかねないから仕方なくだろう。俺もマリルと同じ状況になったら迷わずそうする。
 ひとまず食パンの安全は確保されたので、残ったものを一気に口の中に押し込んで水で強引に押し流す。一瞬喉に詰まったような感覚があったものの、水のお陰ですぐに通り過ぎていった。
 今日も空腹が満たされたことに感謝しながら、皿をシンクまで持っていく。
「マリル、頼む」
「りる~」
 弱めに放たれた「水鉄砲」で皿を入れた桶を満たしていると、後ろから雅さんの声がした。

「響生君。光莉ちゃんや春香ちゃんにはもう言ったんだけど……、またポケモンによる被害が出たらしいよ」


 今よりも少しだけ前のこと。魔法も何も存在しないこの現実世界にポケモンが現れた。不思議なのは現れたのはポケモンだけで、木の実などポケモンに関するものは何も現れなかったことだが今は些細な問題だろう。
 俺はポケモン達が現れた理由を知るため、幼馴染の光莉や春香と一緒に旅を始めた。そこで見たものは、ポケモンの存在によって大きな混乱に陥った世界そのものだった。
 ポケモンの出現と同時にこの世界にいる動物、それも予想される限りは人間の以外全てが消えたのだから混乱の度合いはかなり大きい。俺達が知っている文明は実質消滅したと言っても過言ではないだろう。
 内容を詳細に思い出していると頭の中で整理が追いつかないため、記憶に残ったものだけを挙げていく。全てを思い出していると頭が軽くパンクするくらい、ポケモンによる騒動は多いということだ。
 最初はなぜだか知らないが道路でバトルを始めたポケモン達と、ココドラやコドラ達による騒動だった。これで交通網はほとんど麻痺し、主な移動手段は自転車か徒歩になった。レールを食べられたことで電車が使えなくなったのは結構キツイ。
 続いては電気ポケモン達が発電所に住み着いたことにより、電気が送られなくなったというもの。数日は問題なく使えていたのだが、どんどんと集まる数が増えたのか今では全く使えなくなった。テレビは見られないし、夜は完全にロコンの炎に頼っている。
 このせいで俺達にとっての娯楽がほとんど潰れたと言えるが、ポケモンがいるからそれほど退屈でもないのが唯一の救いだろう。
 そして、たった今雅さんから告げられたのが近くの宝石店がヤミラミ達に襲われたというもの。この騒動自体は数日前にあったもののようだが、連絡手段が限られているのだから伝わるのが遅れても何も不思議ではない。
 世界がこんなになっているというのに限りなく今までと近い、でも遠い生活を送っていられるのは、旅の途中で偶然出会った雅さんのお陰だ。彼の家には定期的に従兄弟達が遊びに来るらしく、食料が普通の家よりは多い方だった。そのこともあってなのかやはり好意の塊なのか、見ず知らずの俺達を家に上げることに抵抗はなかったらしい。
 本当は一日だけ過ごしたら出ていくつもりだったんだが、今までの野宿や避難場所と比べると居心地がよすぎてもう何日も居続けてしまっている。それでも嫌な顔一つしないのだから、雅さんはもう好意だけで構成されていると考えていいだろう。
 彼の好意について考えていると日が暮れそうなため、他のことを考えるとするか。何を考えよう……って、ポケモンのこと以外ないよな。それ以外を考え始めたら脱線しかしない気がする。
 ポケモンが現れた当初、俺は興奮と期待からか何日も眠れない日々を送っていた。今では落ち着いてぐっすり寝ているが、我ながらアレはないと思っている。いや、それなら光莉もある小説コンテストに作品を投稿して結果発表がもうすぐだったものの、ネットが使えなくなったことで結果がわからなくなったと嘆いていたな。
 やはりポケモン好きはポケモンに対する恐怖よりも、長年の夢が実現したという感動が勝ってしまうのかもしれない。光莉は感動よりも結果がわからないモヤモヤの方が勝っていたようだが。
 そういえば、春香はどうなんだろう。ポケモンを好きとも嫌いとも言っていないが、明らかに避けていることからあまりいい印象は抱いていないのかもしれない。それでも俺達の旅についてきてくれるのは……何でなんだろう。無理に聞くのも悪いし、いつか話してくれると信じて待つとしよう。
「今日も平和だな……」
 微妙な温度の水を飲みながら、俺の中では「平和」な今日に感謝する。すると、何をするでもなく椅子に座っていた雅さんが突然こちらを向いた。糸目なので一瞬では判別がつきにくいが、周りの空気からかなり怒っているのがわかる。
「響生君。今も大変な状況だというのに『平和』なんていうのは変なんじゃないかな?」
 独り言のつもりだったのだが、雅さんにはバッチリ聞こえていたらしい。散歩に行った春香や隣の部屋でマリル達と遊んでいる光莉とは違い、俺の近くにいたのだから聞こえて当然と言えば当然かもしれないが。
 波風立てるつもりは全くないのですぐに謝ると、こちらを責めるような視線から逃れるため天井を見つめる。
「いや、こうも連日ポケモンによる被害を聞いていると、あの頃の平和の感覚が薄れてこっちの方が平和だと勘違いしそうで。ここは他と比べると安全だから、ますますそう思ってしまったのかもしれない」
 俺にとっては平和でも、他は全然違うこともある。そのことを記憶に刻みつつ、居心地の悪さに俺も散歩に行こうかな、と思っていると雅さんが軽く頷いた。
「人を通して毎回毎回色々な話を聞いていると、確かに『これが日常だったっけ?』と思いそうになるかもしれない。ここはポケモンの影響がほとんどないから、なおさらそうなるのかもね。
でも、あの日々がいつ戻ってくるかわからない以上、軽率な発言は控えた方がいい。こんな森の中でもどこに人の耳があるかわからないからね」
 雅さんの言うことは最もだ。いくら町から少し離れた森にある家と言っても、俺達以外の人が入らない保証はない。軽はずみな発言がとんでもない事態を引き起こすことだってあるだろう。
 しっかりと口にチャックをしておかなくては、と心の中でチャックをしているとマリル達と遊び終えたらしい光莉がこっちにやってきた。イーブイがまだ遊んで欲しいとばかりにボールをくわえたまま尻尾をぶんぶん振っているが、光莉は華麗にスルーしている。
「ぶい……」
 悲しそうにボールを元の部屋に戻すイーブイ。その後ろ姿はこの世の絶望を全て知ったかのような、そんな雰囲気を醸し出していた。……この後時間があれば思いっきり遊ばせてあげよう。
 ロコン達に今の悲しみを伝えるように鳴き続けるイーブイを眺めていると、玄関の扉を蹴破るようにして春香が俺の胸へと飛び込んできた。光莉と同じように春香とも幼馴染とはいえ、こうも突然抱きつかれたらどう反応していいのかわからない。
「ちょっ!? は、はる、か!?」
 名前もまともに言えないまま固まっていると、春香が涙目で窓の向こうを指さす。春香に抱きつかれているため移動ができない。仕方なく軽く背伸びをして窓の向こうを見ると、一面の緑が広がっていた。森なのだから当たり前といえば当たり前か。
「……あ、キャタピー」
 俺に代わって窓の向こうを見た光莉の発言とこくこく頷く春香の反応により、脳内に涙目のキャタピーが映し出された。涙目は想像だが、逃げられたのならこれに近い状態になっているはずだ。
「――っ!?」
 光莉による生温かい視線を感じたのか、春香が弾かれたように俺から離れる。その顔はさくらんぼのように赤く染まっていた。今の世界基準で例えるならチェリンボだな。マトマで例えられないのが惜しいところだ。
 動けるようになったので早速窓の向こうを見てみると、俺の想像通り涙目のキャタピーが森の中にいるのが見えた。慰めに行こうかどうか迷っていると、茂みから現れたコジョフーが何か言っている。
 コジョフーの言葉に何か心打たれるものがあったのか、キャタピーはその後コジョフーと共に夕日の向こうへと……違う、森の向こうへと走って行った。詳しいことは一つもわからなかったが、とりあえずキャタピーが元気になってよかったと思うべきか。
 それに自分から逃げた春香と同じ人間である俺よりも、同じポケモンの方が何かと安心できたのかもしれない。そんなことを考えていると、季節に反して生温かいものが流れる空気を変えようと思ったのか、雅さんがそういえばと家族や旅の目的、マリル達のことを聞いてくる。
「最初は聞いちゃいけないかな、なんて思って聞かないでおいたけどやっぱり気になっちゃってね。ほら、三人ともゲームの主人公と漢字は違えど同じ名前だし、ポケモンも連れているし……」
 俺は後半の言葉に頬を染めたが、春香は後半の言葉に顔が少し青ざめさせた。心配そうに尋ねる雅さんに対し、春香は平気だと告げる。やや重くなった空気を塗り替えるように、光莉が明るく話しだす。
「ボクのところは……親が両方とも楽観主義って言うのかな? 響生の考えを聞いて一緒に旅に出るって言った時も本当に物事をいい方向に考えていて、悪い方向には全く考えていなかったよ。ボクが何かの事件に巻き込まれる可能性なんて、微塵も考えていないんじゃないのかな?
イーブイは愛犬がいたはずの部屋で遊んでいたのを見つけて、すぐに仲良くなったから一緒に行くことにしたんだ」
 明るいのやら暗いのやら微妙なラインの内容に微妙な顔をしつつ、雅さんが俺のところに視線を送る。
「俺のところは親父が自分勝手なやつだったらしく、お袋は離婚してスッキリしたと笑っていたな。世界がこうなった原因を探しに行くため旅に出ると言った時も、もし親父を見つけたらもし見つけたらガツンと言ってやれと背中を押してくれたよ。
マリルはハムスターがいたはずのケージの上にどんと座っていたな。何も言わなくてもついてきてくれるし、ある程度は言うことを聞いてくれるから一緒に行くことにした」
 光莉と方向性が違うとはいえどう捉えたらいいのかわからない内容に、またもや微妙な顔をする雅さん。そんな雅さんの顔が見えていないのか、春香が自分から口を開く。
「わたしのところはお父さんが最近家に帰っていなくて……。お母さんも少し大変だから、半ば家出みたいな形で出てきたの。わたしがいなくなっても弟や妹がいるから大丈夫だと思う。旅は偶然出会った二人についていく形で始めた気がする。
ロコンはいつの間にか庭にいたと思う。わたしは連れていく気なんてなかったけど、気が付いたらついてきていたからそのまま……って感じかな」
 俺達の中では唯一重い方向にだけ傾いた話に、雅さんの顔が一気に曇ってしまう。完全に自分が悪いことをしてしまったかのような顔でこっちを見ている。糸目でも周りの空気でわかる。
 雅さんは悪くない。会って少ししか経っていない雅さんに内部まで聞かせた俺達が完全に悪い。一体どうしたんだ? 旅というスパイスのせいで、いつもかかっていたフィルターがぶっ壊れたのか?
 それはそうと、話を聞くまで光莉や春香の家のことまでは知らなかった。幼馴染のことを何でも知っているわけではない、という事実が痛いほどわかる。幼馴染とはいえ、ある程度成長すると異性の家には遊びに行かなくなるからな……。
 仮に小さい頃行っていた記憶があったとしても、相手の親も家の詳しいところを見せたりはしないだろう。これは二人と一緒に旅に出たからこそわかったのか。その事実に嗤いが零れる。
 ――これじゃ、ますます本当は一人がよかったなんて言えないな。結果として一緒に旅をして悪いことなんてなかったから、言うつもりもないけど。心に小さな棘が刺さったような感覚に、思わず唇を噛んだ。


 このままだと雅さんが罪悪感から過剰なサービスをしかねないということで、軽く空腹を満たした後俺達は散歩という名目で森の中を歩いていた。森にもポケモン達がいるが、皆が皆人に襲い掛かるような種族ではない。
 現に木の枝にとまっているムックル達は楽しげにさえずり、木の洞に入ったパチリスは慣れた手つきでどんぐりを食べている。その光景に思わず冬ごもりの準備はいいのか、と言いたくなってくる。
 だがポケモンもモチーフの動物と同じように冬ごもりをするのかわからないうえ、仮に言ったとしても俺達のことなど動く木か空気のようにスルーしてしまうだろう。
「こうしてみると、本当に動物達と入れ替わったみたいだな」
 写真のようにここだけを切り取るのであれば、よくある日常の一コマと言っても差支えがないだろう。空気も美味しいし、降り注ぐ太陽は心地よく遠くに行ったはずの眠気を連れ戻してくれる。
「でも、動物達と入れ替わっただけにしては正直よりも被害が出ていると思う。……今まで何度か話したけど、どうしてこうなったんだろう?」
 春香が地面に落とした視線をロコンが拾う。ロコンはチャンスとばかりに春香の元へと歩み寄るが、春香もその分離れていく。切なげな視線を拾わなかったことで諦めた方がいいと思ったのか、耳を垂らした状態でイーブイの横へと戻っていった。
「こぉん……」
「……りるりり」
 マリルがロコンを慰めるように肩(?)をぽんと叩いたのを見た後、各々思いつくものを挙げていく。
「誰かがジラーチに頼んで動物達とポケモン達を入れ替えた、とかはどう?」
「ありえなくはないが、一体誰が頼むんだ? 仮にポケモンが元々存在する世界ならジラーチとも会えそうだが、わざわざ入れ替える理由が思いつかない。こっちだとそもそもジラーチに会う方法がないし……」
「平行世界が接触した結果、動物が消えてポケモンが代わりの存在となったのはどうだ!?」
「仮に平行世界が接触したのなら、ボク達にも何かしらの影響があるはずだよ。動物だけが消えるのはおかしいんじゃないかな?」
「ウルトラホールから来たトレーナー、またはポケモン単体が何かしらの方法で動物を消してポケモンを出現させたっていうのは?」
「さっきのジラーチと同じでウルトラホールが開いたという証拠がないし、何かしらの方法がわからないから結局考えるしかないな……」
「『もふもふに埋もれ隊』という謎の団体が意地と執念でポケモンを呼び出した!」
「いや、もう何でもありになってない!?」
 もはや仮説もへったくれもない俺の発言に光莉が思いっきりツッコむ。今のところ意見も反論もしていない春香はどこか遠くを見ていた。
「……だって、全然わかんねえし。原因を見つけるための旅をしているんだから、これは一旦見つけるまで保留でよくないか? わからないことに対して言い合っても何も出てこねえよ」
 答えがないのだから、出てくる考えなんてそれこそ人の数だけある。ああだこうだ言い合ったところで、今の状況で生み出されるのは無意味な時間だけだ。心が冷えてくるほどの沈黙がこの場を支配する。
 森にはポケモン達の鳴き声が響いているというのに、俺達の周りだけが無音。この状況に不安を抱いたのか、視界の端でイーブイがロコンの影に隠れるのがわかった。ロコンがイーブイを安心させるためか、器用に尻尾の一本を使って頭を撫でている。
 俺も、光莉も、春香も。誰も沈黙を破ろうとしないまま歩き続ける。しばらく散歩の時用のルートを歩いていると、俺達やマリル達以外の足音が聞こえていることに気が付いた。足を止めて主を探すと、こちらに向かって全力で走る少年の姿が目に飛び込んでくる。
 どんどんと大きくなってくる姿を見ていると、少年は手ぶらではなく手に何かを持っているようだ。そこまで確認できたと同時に少年の姿が掻き消え、腹に少なくない衝撃が伝わってくる。
「ぐほっ……!?」
 衝撃から変な声が漏れ、軽いものが落ちるような音が聞こえた。倒れかけながら何とか少年を横に移動させる。その際地面にカードが落ちていたので拾うと「三島 昌紀(アキノリ)」と書かれているのがわかった。裏面に色々と書かれているが細かくて読むのが面倒臭い。
 これが何なのかよくわからないが、俺のものではない以上少年の持ち物であることは間違いない。ひとまずカードを彼のポケットに突っ込むと、今起きた状況の把握にかかる。
 少年の姿が突然消えたことと、地面で結ばれた不自然な草。この二つを考えると、どうやら少年は森に住むポケモンが悪戯か練習で仕掛けた「草結び」に運悪く引っかかってしまったようだ。あれだけ全力で走っていたのなら足元に注意が行かなくても不思議ではない。
 そして、横で何かを警戒するように見回す少年が持っているのは何かのタマゴ。タマゴにしてはやけに青いうえに、どこか神秘的な雰囲気がある。動物は消えているのだから、ポケモンのタマゴ以外に選択肢はないだろう。転びかけてもとっさに手を出さずにタマゴを守ったのは偉いが、勢いがつきまくった頭突きはあまり偉くない。
 かといって俺が避けていても、それはそれで大変なことになったかもしれないし……。いや、原因を考えていくと一番悪いのは「草結び」を解除しないでどこかに行ってしまったポケモンじゃないのだろうか?
 誰だよ、「草結び」したままどっか行ったやつ!? さすがの俺も「草結び」を覚えるポケモン全部は知らないぞ? それよりも前に、どうしてこの少年は全力で走ってきてこんなにも辺りを警戒しているんだ?
 少年に尋ねようと口を開くと同時に、光莉の口が素早く動く。
「ねえ、あんなに急いで一体どうしたの? 危険なポケモンにでも襲われたの?」
 早口ながらも優しく問いかける光莉に対し、少年は首を横に振りつつタマゴを抱える手にぎゅっと力を入れる。その目はゆらゆらと揺れており、本当に話していいのかどうか迷っているのが見てとれた。
「光莉は他人が言ったことをすぐに話すようなやつじゃないし、春香も同じだ。俺は……可能な限り努力はするし、言いそうになったら光莉にでも止めて貰うさ」
 言い終わってから「アレ、俺の部分逆に不安をあおったんじゃ?」と失敗したかもしれないことに気が付く。俺のせいで少年が原因を話さずに立ち去ったらどうしよう、とこっちも不安になっていると少年がキラキラした目を俺達に向けた。

「ヒカリにハルカ!? ポケモンの主人公と同じ名前じゃん! 町の人とは違ってポケモンも連れているし、本当に主人公みたいだな!! あ、オレは昌紀! 実は――」

 どうやらカードに書かれていた名前は少年のものだったらしい。少年こと昌紀が大事な部分を話そうとした瞬間、青空が染み込んだのかと思うほどに顔を青くした春香が家に向かって走っていく。
 どう考えてもただ事ではないと判断した俺は、マリル達やぽかんとした顔の昌紀、何か言いたげな光莉を置いて春香を追いかけた。


「春香!」
 足の速さの問題かそれ以外の問題なのか、意外と早く春香に追いつくことができた。なるべく優しく肩に手を置くと、春香が勢いよく振り向く。その目からは今にも涙が零れ落ちそうだった。
「……何、響生」
「どうしてあの言葉で逃げたんだよ。ゲームの主人公と名前が同じって言われただけじゃねえか」
「……響生にはわからないよっ!!」
「あっ、おい!」
 俺の手を振り払うようにして逃げていく再び春香を追いかけようとした時、肩にぽんと手が置かれた。誰がと振り向くと、そこには短髪の幼馴染の姿が。昌紀やマリル達の姿は見えない。
「……どうして止めたんだ?」
 今から追いかけようにも、姿を見失ったのでは追いかけようがない。追いかけるのを止めた光莉に理由を尋ねると、「今の響生じゃ、絶対に春香の心に届かないから」と悲しそうに笑った。
「何でだ? 何で、今の俺じゃ届かないんだ?」
 理由が全くわからず、答えを求めるように光莉の目を覗き込んだ。夜を閉じ込めた色の目には戸惑う俺の姿が映し出されている。
「それはね、響生が春香とは違って『ゲームの主人公扱い』されることを受け入れている。いや、正確には少し違うかな。響生は『ゲームの主人公として扱われたがっている』。だから届かないんだよ」
 その言葉に、視界がぐらりと揺らいだかのような感覚に陥る。俺はゲームの主人公として扱われたいと思ったことなんか――、あるな。喉まで出かかった否定と入れ替わるように、すとんと肯定が喉の奥に落ちていく。
 ポケモンが現れた当初、俺は名前のこともあって主人公になれるのではないか、と期待していた。雅さんから他の人とは違ってポケモンを連れていると言われた時、やはり俺は主人公なんだと興奮していた。
 ――春香のあの反応に、光莉の言葉。このことから春香が「ゲームの主人公」として扱われるのを嫌がっていることは確実だ。そんな春香に真逆の俺が何かを言ったのでは、届くものも届かないだろう。
 原因はわかった。だが、わかってもどうしたらいいのかわからない。まさか今から「本当は俺もゲームの主人公扱いされたくなかったんだ!」となるわけにもいかないし。さっきまで肯定派だったのに急に否定派になる人間ほど信用できないものはない。
「ボクは自分の気持ちを素直にぶつければそれでいいと思うよ? 響生って結構何でも受け入れる方だし」
 どうしようもないほどに困っている顔をしていたのか、光莉が笑ってアドバイスをしてくれる。自分の素直な気持ち、か。それだと逆に意見のぶつけ合いみたいになって、最悪喧嘩して終わりになりそうなんだが。
 ……あと、何となく俺が行くこと前提みたいになっているけど、こんな俺が行くよりも彼女が行った方がよほど上手くやれるんじゃないのか? どうして地味に俺が行かなきゃいけない空気になっているんだ?
「……本当にそれでいいのか? 俺ってそんなに受け入れている方なのか? 光莉が行くのはダメなのか?」
 質問の雨に光莉は笑顔を崩さないまま答えを返してくる。
「大丈夫だからそう言っているんだし、響生はボクのことも受け入れてくれたから大丈夫! ……ああやって言ってくれた男の子は、響生くらいだったんだよ?」
 光莉のことも受け入れた。その言葉で光莉と出会った時のことを思い出す。出会った頃からボクと言っていた彼女に対し、周りがよく言っていたのは大抵「女の子らしくない」というものだった。
 彼女の場合、ポケモン好きであることと名前から真っ先にあのヒカリをイメージされ、クラスメイトからは「ヒカリなのにボクだなんて変だ」「女なら『私』を使わないと……」といったことを言われていた。
 家族からはどう言われていたのかわからないが、あの話から考えると別に咎めるようなことは言われていなかったと思う。クラスメイトに関しては俺が「光莉はどんな言葉を使っていても光莉だ! 勝手にイメージを押し付けるな!」と言ったことから表向きは解決したな。
 今はずっとボクを通すわけにもいかないということで、公私によって一人称を使いわけているようにしているようだ。時々とはいえ私という光莉を見ると、どこか違和感を覚えてしまう。やはりボクと言っている光莉を見慣れているからだろうか。
 というか、親のことがあるというのに光莉がかなりしっかりしている。いや、あの親だからこそしっかりしたのか? いわゆる反面教師というものか、うん。
「それに、ボクが行ったんじゃダメなんだよ。……やっぱりお姫様のところには王子様が行かないとね!」
 お姫様? 王子様? それって互いが互いをそういう意味で思い合っているやつにいうセリフじゃ――。

「え!? 春香って俺のことが好きなのか!?」

 ムックルが慌てて飛び去って行くほどの大声に、これまた同じくらいの大声で光莉が反応する。
「ちょっと待って? 響生、どんだけ鈍感なの!? いくらキャタピーのことがあっても、何も思っていない相手に抱きつかないって! 仮にそうならボクに行くでしょ!? 今までのことを入れたとしても、あんなにわかりやすい反応はないよ!! というか、抱きつかれた時の反応からてっきり両想いだと思っていたよ!!」
 光莉の言葉に思考が一時停止する。いや、異性からああされたら誰でもあんな感じになるだろ。確かに春香は髪が綺麗だし顔も可愛い方に入るし、見ていると何だか守ってあげたくなるような――。
「……あれ、俺も春香のこと好きなのか?」
 初めて気が付いた気持ちに驚いていると、光莉が呆れたような視線を投げつけてくる。
「あ、やっと自覚したの? だったら鈍感寛容ロマンチストな響生は早くお姫様のところに行きなよ。多分雅さんの家に向かったと思うから」
 悪口に該当しそうな言葉の数々は、俺の寛容な心でスルーしておこう。全てが全て間違っているとは言えないしな。心の中で頷いていると、今更ながらマリル達の姿がないのが気になった。
「そういえば、マリル達はどこにいるんだ? 光莉はどうするつもりなんだ?」
「マリル達は昌紀くんの護衛をしているよ。あと、昌紀くんの目的地も雅さんのところらしいから、ボクは彼と一緒に早足で向かうことになるかな」
 なぜ早足と言いたくなるが、それは「さっさと行って本音をぶつけて告白しやがれコノヤロー」ということだろう。というか視線がそう言っている。光莉は健闘を祈る、という風に親指をグッと立てると、風のような速さでこの場からいなくなってしまった。
「……ありがとな、光莉」
 しっかりとした幼馴染に小さくお礼を告げると、俺は全力で春香の元へと足を動かした。


 春香は光莉の言う通り雅さんの家にいた。……正確には家のキッチンに、だが。この時間帯なら誰もいないはずのキッチンの隅で、長い髪が揺れている。
「……何でこんなところにいるんだよ」
「……ここなら普通は探さないと思ったから」
 その選択のお陰で雅さんの記憶にはばっちり残っていたようだが……、本人のためにも今は伝えないでおこう。言ったら恥ずかしさからキッチンを飛び出してしまうかもしれないし。
 何も言い出さない俺に痺れを切らしたのか、春香がこちらを向いた。その顔は先ほど見た時よりも更に涙に濡れており、頬も赤く染まっている。ごしごしと乱暴に涙を拭くと、弱弱しくもこちらを睨んできた。
「どうしてここに来たの? 響生じゃわからないって言ったの、聞こえなかったの?」
 春香の言葉に首を横に振る。「だったら何で……」と今にも消えそうな声を出す春香に視線を合わせると、俺はここに着くまでに用意していた言葉を口にした。

「実は、俺は少し前まで本当は一人旅に出たかったと思っていたんだ」

 あ、予定していた言葉と全然違うものが出てきた。慌てて訂正しようとするも、勢いに乗ってしまったらしいこの口はどんどん言葉を吐き出していく。
「ゲームの主人公って、ライバルとかはいるけど大抵一人で旅をしていただろ? だから俺もそうしなくちゃいけない、なんて思っていたんだ」
 この言葉に春香の目に剣呑な光が宿る。それを振り払うように手を動かしていると、またもや勝手に口が続きを紡ぎだした。
「だけど、それは違った。春香や光莉達と旅をして大変なことはあったけど悪いことは何一つなかったし、発見したことの方が多かったんだ。これらはきっと、俺だけじゃわからなかったに違いない。
他ならぬ春香達がいてくれたからこそ、今までの旅が笑顔で思い出せるものになったんだ。だから、もう――」
 突然口が言葉を紡ぐのを止めた。それは春香の目から大粒の涙が落ちていくのを見たからだろう。春香が体を小さく震わせながら言葉を落とす。
「わ、わたしはお父さんが最近帰って来なくて、お母さんも少し大変だって言っていたけど、本当は少しどころじゃなかった。お母さんはわたしに理想を押し付けて、わたしからは何も言えないようコントロールしていた!
二人についていったのも、流れでそうなったからそれに従っただけ! 本当の意志を伝えないで、まるで人形みたいになっていた!」
 一つ嗚咽を漏らした後、きゅっと両手を握りしめる。震える拳を見つめるように、視線も沈んでいく。……俺達についてきたのは流れだったのか。確かに光莉が少し強引に誘っていたが、従うほどではなかったはずだ。
 ……いや、人形みたいなっていたのならあり得ないことじゃない。思い返すと、春香が自分から話した時は誰かに聞かれたから答えたというパターンが多かった気がする。
「ロコンを連れているわたしの名前を聞くと、ポケモンのことを知っている人達は皆主人公みたいだって言った。わたしはそれが嫌だったの! あんなゲームの主人公みたいに大事件や悪の組織に挑めるわけがないよ! わたし達、普通の高校生だったんだよ!?
それなのに、響生は逆にそうなりたそうだったし、光莉はそうじゃなくても受け入れているみたいだった。二人がそうだったから、わたしはポケモンそのものを避けることで現実から目を逸らそうとしたの」
 春香の言葉で今まで彼女がポケモンにしてきた行動を思い出す。確かに春香はこれまで異様なまでにポケモンを避けていた。あれはポケモンが嫌いだからやっていたわけじゃなかったのか。
「でも、それは自分に嘘を吐くことになっていたの。本当はポケモンが大好きだった! ロコンが現れた時、本当はとても嬉しかった!! ……わたし、もう普通に振る舞ってもいいのかな? 自分の気持ちを偽らなくても、大丈夫なのかな!?」
 再び視線を上げた彼女の目には、どうしようもない不安が揺れ動いていた。白くて細い手を壊さないようにそっと握ると、不安を吹き飛ばす言葉をぶつける。

「母親が言っていたことはもう忘れろ、周りのイメージなんか笑って受け流せ! 誰に何を言われようとも、春香は春香だ! ありのままのお前でいればいいんだ!!」

 春香は俺の言葉を聞いた途端、また大粒の涙を落とす。涙の跡をそっと拭うと、俺は彼女を優しく抱きしめた。春香は旅に出るまでは母親に、出てからは見知らぬ誰かにイメージを押し付けられていた。誰かに自分は自分でいいと認めて貰いたかったんだ。
 不安を吹き飛ばすにしても少し言葉が乱暴だっただろうかと不安になったが、ちゃんと彼女には響いたようだ。こういうやつは口の先の問題じゃなくて、やっぱり心の方だよな。
 耳元で春香の呼吸が聞こえる。光莉がついでに告白しろと視線で言っていたし、やるなら今か? いや、今しかないな。ここまで来たのならやるしかない。小さく春香の名前を呼び、少しだけ距離を取ってから視線を合わせる。
 うるさい心臓を落ち着かせるために何度か深呼吸をすると、震える唇に音を乗せた。

「――春香のことが、好きだ」

 緊張もあってか出た言葉に比べるとかなりガタガタした声だったけれど、春香にはしっかりと届いたらしい。春香も小さいながらも「わたしも……」と告げると、俺にふわりと抱きついてきた。柔らかな甘い香りが鼻をくすぐり、じわじわと幸せが込み上げている。
 互いに何も言わずただ甘い空気に浸っていると、その空気を切り裂くようにわざとらしい咳払いが響いた。一体誰がと音がした方向に目を向けると、そこには顔を赤くした雅さんの姿が。

「あ~。青春しているのは結構なんだけど、ちょっと大変なことになっているからキッチンから出てくれない?」

 その言葉で今俺達がいる場所と状況を思い出し、お互い弾かれるように離れる。そういえばここキッチンじゃん! 告白をするならもっと雰囲気のある場所があっただろ!? 例えば黄昏時の公園とか夜の海辺とか――って、俺って結構ロマンチックだな!? 光莉がロマンチストと言うだけあるということか。
 あと冷静になって状況を振り返ると、よくあの会話でここまでいったな!? 俺も俺だし、春香もあのタイミングで本音を話すのは少し急ぎすぎだったんじゃないのか?
 もしかして、不器用なのか? 俺達って意外と不器用なのか!? 不器用同士だから逆にぴったりはまるってことなのか? うん、割れ鍋に綴じ蓋という例えもあるくらいだからきっとそうだな。
 一人納得していると雅さんが糸目の圧力で早くこっちにこいと言ってきたため、顔を赤くしたまま固まっている春香の手を引いてキッチンを出る。雅さんの後に続いて扉を潜った俺達が目撃したものは、一種のカオスだった。

「だから、オレは悪くないんだって!」
「ぴっか!? ぴかぴかちゅ!!」
「みゅみゅっ」
「いぶ、いぶぶっ」
「こぉん!」
「ちょ、待って!」
「りるりる!」

 タマゴを抱えたまま走る昌紀と、その昌紀を追いかけるピカチュウ。尻尾の形からするとメスだな。そんなピカチュウを追うミュウに、長い尻尾に引っ張られ尻尾から浮き上がるイーブイ。そんなイーブイを取り戻そうとするロコン、光莉、マリル。
 二人と五匹が一定の場所をぐるぐると回り続けているこの光景を、カオスと呼ぶ以外どう呼べというのだろうか。の前に、ピカチュウとミュウは一体どこから出てきた。森にいそうなピカチュウはともかく、ミュウなんてそうそう現れるものじゃないぞ?
 視線で雅さんに説明を求めると、「どこから話したものやら……」と呟きながらも話し始めてくれた。
「最初にタマゴを持っていたのはミュウで、昌紀は偶然ミュウと出会ったらしい。経緯はわからないけど意気投合して一緒に森を歩いていると、ミュウを狙う悪い男達が現れた。ミュウはすぐにタマゴを昌紀に託し、その場で姿を消したみたいだね」
 姿を消した、との言葉で昌紀が転んだ原因となる「草結び」を思い出す。もしかすると、あれは昌紀の後をこっそりとつけていたミュウがやったものだったのかもしれない。
「光莉ちゃんと一緒に昌紀の話を聞いていた時、窓を蹴破ってピカチュウが上がり込んできたんだ。タマゴを持った昌紀を見かけたのか、タマゴを取り戻そうと昌紀を追い始めてそれをいつの間にか現れたミュウが追って、なぜかイーブイが巻き込まれて……という感じで今の状況になった。こんな感じかな?」
 状況だけ見るとカオスだが、そうなった理由は全然違った。タマゴが彼女のものではないのは色からしても一目瞭然。だったらどうして取り戻そうとしたのだろうか。
 それと、なぜミュウがタマゴを持っているのかも気になる。だが、一番気になるのはミュウを狙ったという男達だ。姿を消していたとはいえ、もしかするとここまでミュウを追いかけてくるかもしれない。
 話が通じるかどうかわからないが直接会ってみた方がいいだろう。いざとなればポケモンバトルで止める必要があるかもしれない。もし今から会いに行こうとするのなら案内役が必要だな。ミュウは狙われているのだから外すとなると、やはり昌紀か――と思ったところで、まだ追いかけっこが終わっていないことに気が付く。
 昌紀に案内を頼むのであれば追いかけっこを終了させる必要があるが、割って入ろうにもタイミングが掴めない。電撃か炎か水を喰らう覚悟で飛び込むかと足に力を入れた時、特大の雷が落ちてきた。

「――いい加減に、しなさいっ!!!」

 鼓膜が破れるかと思うほどの大声に、昌紀達だけではなく俺や雅さんも動きを止めてしまう。声量が少し大きすぎたことに気が付いたのか、春香はやや俯きつつ「いつまで経っても終わらなそうだから……」と呟いた。
 今までの春香であれば様子を見ていただけだろう。あんな感じの言い合いだったとしても、春香はちゃんと普通になろうとしている。成長しているんだな、と思うと何だか心がぽかぽかとしてきた。
 俺達の様子から何かを感じ取ったのか、光莉がぜえぜえと肩で息をしながら温かな目をこちらに向けている。心なしかマリルやロコン、それにイーブイも似たような目を向けているように見えた。
 その光景に咳払いをしつつ、雅さんが何をするつもりなのか聞いてきた。早速考えたことを伝えると、昌紀は「詳しい場所はよく覚えていないから案内できない」と申し訳なさそうに首を振る。
 昌紀がダメだとすると、案内ができそうなのはミュウしかいない。やっと解放されたイーブイに現在進行形で文句を言われているミュウを見る。
「みゅ?」
 ミュウは俺達の話を聞いていなかったのか、こてん、と小さく首を傾げた。可愛い。いや、そうじゃない。可愛いものは可愛いけど、今はそれに癒されている場合じゃない。
「ミュウ、お前を行かせるのは危険だとわかっている。だけど男達のところに行くにはお前の協力が必要不可欠なんだ。だから俺達を――」
 ――「テレポート」で送って欲しい。そう言いかけて、ミュウが「テレポート」を覚えたのはかなり昔のことで、しかも技マシンを使う必要があったのを思い出す。
 「テレポート」じゃなくて、普通に案内して貰うか。そう思い直した途端、エレベーターで一気に下に行くような浮遊感が俺を襲う。それに合わせるように視界もぐにゃりと歪むと、景色が一瞬にして家の中から開けた場所へと塗りかわった。


「……こ、ここは?」
 木々が多いことから森の中なのは確かだが広場のように広い。一瞬だったとはいえ、まだ足がふわふわとしているような感覚に思わず足踏みをする。何度かして安心感を得た後、他には誰がいるか確認することにした。
 目の前にはミュウが浮かんでおり、足元にはマリル、ロコン、イーブイ、ピカチュウがいる。横には春香に光莉、雅さん、昌紀がいた。不思議なことに、このミュウは「テレポート」が使えるらしい。ご丁寧にもあの場にいた全員を送ってくれたようだな。俺は最後まで言っていないうえに考え直したはずなのだが、そこはさすがエスパータイプ。本音を読んだということだろう。
 この場所に違和感を覚えるとすれば、遠くからこちらを見ている二人組だけだろう。二人は突然現れた俺達に驚いたのか、どんどんとこちらに近づいてくる。やがてミュウの存在にも気が付いたのか片方がキルリアに何かを言った。
「みゅ!?」
 刹那、ミュウの桃色の体を紫色に光る葉っぱが切り裂いていく。ミュウは痛みに顔をしかめた後、手の先から黒いエネルギー体を生み出してキルリアに向かって放った。
「……るるっ!?」
 キルリアは痛みからか体をふらつかせたものの、しっかりと立った状態で二人の後を追いかける。一撃だけではさすがに倒れない、ということか。昔の技マシンでしか覚えない「テレポート」が使えたことといい今の「シャドーボール」といい、ミュウは、いやこの世界のポケモン達は世代関係なく技マシンで覚えるものもレベルアップとかで覚えるのか?
 疑問を覚えながらも、俺は今のやり取りで確信する。あいつらがミュウを狙うやつらだ。そうじゃなかったら、わざわざ外れない「マジカルリーフ」でミュウを攻撃するはずがない!
 相手も移動しているだろうからすぐには会えないだろうと思っていたが、意外と早く見つかったものだ。いや、これもミュウがエスパータイプだからこそできたのかもしれない。……単に相手が会った場所に戻ってきただけ、という可能性もあるが。
 一体誰がと思っていると、相手はいつの間にかはっきりと詳細がわかるくらい近くに来ていた。片方は写真でしか見たことのない人で、もう片方は町でよく見かけた人だ。
「親父、と竜也(リュウヤ)さん!?」
「お父さん!?」
 俺と春香の声が重なる。親父が春香の父親なんて話は聞いたことがないから、竜也さんが春香の父親なのか!? 思わず視線を竜也さんへ移すと、彼は困ったような表情を浮かべていた。
「春香? どうして何でここに……。いや、それはどうでもいい。私の目的のためにミュウをこちらに渡して貰おうか」
「何で!? 何でお父さんがミュウを狙うの!?」
 信じられないという顔で叫ぶ春香に対し、竜也さんは酷く驚いたような表情をした。だがそれもすぐに消え、そっと視線を下げると拳をぎゅっと握りしめる。
「これまで何があったのか知らないが……、春香にはわからないだろうな。正義だと思っていたものが実際は正義と程遠かったことを知った時のショックを。真実を告げようとした途端、職を失い訴えても誰にも信じて貰えなかった絶望を!」
 聞いているだけで痛みを覚えそうな叫びを聞いていると、町で何回か会ううちに竜也さんが自分はかつて警察官だったと言っていたのを思い出す。一体何があったのか知らないが、竜也さんの反応を見る限りでは相当なことがあったに違いない。
 ……あの時聞いた春香の話を考えると、二人が結婚までいけたのが奇跡のように思える。だがそうなっているのだから、何か合うものがあったんだろう。それにこの話題は俺が口出ししていいものじゃない。
「私は家を飛び出すと、細々と信じて貰える方法を探していた。そんな時だよ、世界にポケモンが現れたのは。混乱に便乗しようとする輩に怒りを覚えていた時、この男が現れた。話を聞くと、伝説や幻と呼ばれるポケモンの中には願いを叶えてくれる存在もいるらしいじゃないか」
 バッと顔を上げた竜也さんの目には黒い炎が揺らめいていた。願いを叶える存在と聞いて嫌な想像が脳内を駆け巡る。
「それを聞いた時、私は決めたんだ。願いを叶えてくれるポケモン、ジラーチに私が理想とする正義の世界を創って貰うとな! この男もジラーチを探しているようだったから、すぐに手を組むことにしたよ。なるべく手は多い方がいい」
「でも、それじゃミュウを狙う理由にならないよ。お父さん達が探しているのはミュウじゃなくてジラーチでしょ?」
 確かにそれはそうだ。ミュウも幻のポケモンであることには変わりないが、ジラーチのように願いを叶える力はない。不思議に思う俺達の質問に答えたのは竜也さんではなく、まさかの親父だった。
「オマエ達が言うようにワタシ達の狙いはジラーチだ。だが、それはあくまでも第一の狙いに過ぎない。ジラーチは千年の眠りにつき、七日の間だけ目覚めるという。ワタシ達が見つけた時にジラーチが目覚めているという保証などどこにもないのだよ」
「だったら、何でミュウを――」
「だからこそだ。ジラーチならすぐに願いを叶えてくれるが、その願いが叶えられる確率を考えると現実的ではない。であれば、他の伝説、幻のポケモンの力で願いを叶える以外なかろう?
魅力的なポケモンは数多いが、ミュウはあらゆる技を使えるという。これほどワタシの願いを叶えるのに最適なポケモンはいない。まさかこんなにも早く見つけられるとは思わなかったが、ワタシもまだ運に見放されていなかった、ということだな」
 親父はくくく、と歪んだ笑みを見せる。親父の願いが何か知ったことではないが、どうせ自分に都合のいい願いに違いない。ふつふつと湧き上がってくる怒りに任せ、ビシッと指を突きつける。
「おい。ミュウを手に入れるにしては一方的に攻撃を仕掛けるなんて、ちょっと卑怯じゃないか? やるなら正々堂々とポケモンバトルで勝ってからにしろ!」
 世間的にはポケモンという存在がまだ馴染んでいないにも関わらず、ポケモンバトルを提案する俺。一瞬にして辺りを覆う沈黙に、「あ、これ間違えたわ」と思ったのだが――。

「ほう、ポケモンバトルか。いいだろう、捻り潰してくれる」
「やはり正義を貫くためには戦いは避けられない、か。……仕方ない、乗ろうじゃないか」
「オレは連れているポケモンいないし、ヒビキキ達を応援する!」
「僕もポケモンがいないから応援かな」
「あ、だったらボク審判やる! 三対二はさすがに卑怯だし……」

 ――皆、意外とノリノリだった。誰も「どうしてポケモンバトル?」というツッコミを入れる気配がないのが素晴らしい。なぜか俺と春香が戦うことになっているようだが、相手も二人なのを考えるとある意味当然か。
 誰に言われるまでもなく位置につくと、それぞれのポケモン達に声をかけて前に出て貰う。これがゲームならモンスターボールを投げるのだが、ボールがないのだから仕方ないか。あんな技術、今の日本では再現できなさそうだし。
 バトルフィールドと化した空間に出てきたのは、マリル、ロコン、キルリア、クチートの四匹。自然とダブルバトルの形になっているが、これも誰もツッコミを入れないのでこのままでいいだろう。視界の端ではイーブイ、ミュウ、ピカチュウが応援のつもりなのか踊っているのが見える。やっぱり可愛い。いや、癒されている場合じゃない。
 どうやらキルリアが親父のポケモンで、クチートが竜也さんのポケモンのようだ。少々厳つい顔の男が可愛いポケモンを使っていると何か変な感じが……、いや、先入観を持ったまま挑むのはよくないな。竜也さんはポケモンについてあまり知らないようだし大丈夫なのかとも思ったが、親父が詳しいようだからそこらへんも教えているに違いない。
 いつの間にか安全な位置に移動していた光莉の合図と同時に、双方が指示を飛ばす。とはいえ技の構成がわかる道具なんてないから俺達が言うのは「避けろ」や「やれ!」くらい。具体的な攻撃はポケモン達が自分で判断してやっている。
 いや、二匹の様子を見ながら指示を考えるほどの脳はまだ持っていないから、勝手にやってくれた方がかえって集中しやすいのかもしれない。
「りるっ!」
 マリルが放った水鉄砲が勢いよくキルリアの方へ飛んでいく。だが水はキルリアに届く直前軌道を逸らし、雫のみがキルリアに降りかかる。
 軌道が逸れる直前に目がぼんやりと光っていたことから、「念力」か「サイコキネシス」を使ったのだろう。仮に「サイコキネシス」を使ったのならもうサーナイトに進化していそうだから、考えられるのは「念力」か。
「マリル、遠距離技は『念力』で軌道を変えられるぞ! 『念力』が効かないほど強力な技か物理技を使うんだ!」
「りるっ!」
 少し考える仕草を見せた結果、マリルが選んだのは「転がる」だった。マリルはごろごろとキルリアに向かって転がっていく。
 だが、しばらく進むと相手が何もしていないにも関わらず軌道が逸れ、クチートにクリーンヒットした。これは当たったのか外れたのかわからないが、何度も軌道を変えてぶつかり続け近くの木に当たるまで技を続けたのだから成功したと考えるべきだろう。
「くち?」
 しかし、岩タイプの技は鋼を持っているクチートには効果が今一つ。技を当てられ続けたクチートは「今何か起こった?」と言いたげに風に首を傾げている。首を傾げているのをチャンスと見たのか、ロコンの炎がクチートを襲う。炎の大きさから使ったのは恐らく「火の粉」だ。
「くちっ!?」
 すっかりマリルに意識を向けていたクチートは「火の粉」をもろに受け、大きくバランスを崩す。それを逃しはしないとばかりにロコンがもう一度炎を吐いた。その炎はクチートに触れた途端膨れ上がり、大きな渦となってクチートを閉じ込める。
 「炎の渦」に捕らわれたポケモンは移動や交代ができなくなる。無理やり出ようにも、クチートに炎は効果抜群。暴れても技以上のダメージが返ってくるだけだ。これでクチートは封じたも同然だろう。
「こぉん!」
「る!?」
 今ので勢いに乗ったらしいロコンは、そのままキルリアに素早く体当たりする。一見すると「体当たり」を使ったように見えるが、あの速さは「電光石火」あたりか。何だかロコンだけで勝てそうな気がしてきた。
「りるりっ!」
 俺の考えが伝わってしまったのか何なのか、マリルが焦ったようにキルリアへ水を纏った尻尾を叩きつける。ロコンの直後だったからか、技を発動する余裕も親父が避けろという暇もなく直撃する。
「る……」
 キルリアは衝撃でぐらりと揺らいだかと思うと、静かに片膝を地に着けた。あっけないと思ったが、キルリアは負傷した状態でバトルを始めている。恐らくミュウの攻撃、色から判断するに「シャドーボール」が効いたのだろう。
 親父がキルリアを呼んで後ろに座らせる。あまり実感はないが、これで残りはクチートだけだ。恐らく「炎の渦」で動けないままだから、すぐに決着がつくだろう。マリル達も同じ考えになったのか、マリルは再び尻尾に水を纏わせ、ロコンは炎を吐き出す。
 水と炎がクチートを襲う直前、妙にキラキラとした風が吹き抜ける。目に入ったら痛そうだと目を閉じ、風が消え去るのを待つ。そして風が消えた後に目を開けると、大あごに捕らえられたマリルの姿が視界に映し出された。「炎の渦」は綺麗に消え去っている。
「マリル!」
 何が起こったのかを理解すると同時に思わず舌打ちをする。クチートは技が当たる直前に「妖精の風」で「炎の渦」を消すと同時にマリルの注意を引き、その隙をついて「挟む」を使ったんだ。
 「炎の渦」はまだ何ターンも経過していなかったように思えるが、マリルの「アクアテール」で少しは勢いが落ちていたに違いない。相手を怯ませられる「驚かす」ではなく「妖精の風」を使ったところが、咄嗟だったとはいえクチートの判断能力の高さを窺える。
 どうする。「水鉄砲」などでは首を捻ったところで微妙に届かない位置にマリルは捉えられているし、物理技もあの大あごを開けさせるには少し火力不足に思える。マリルが何の技が使えるかがわかれば、こうもモヤモヤしないのに――!
 せめてもう一度クチートの動きを止められれば、と思った時頭の中に素晴らしい考えが降ってくる。問題はマリルがそれを覚えているかどうかだが、モヤモヤしたままやられるよりはずっとマシだ!
「マリル、クチートの足元に向かって『冷凍ビーム』!」
「りる!」
「みゅっ!」
 命令されたマリルは「無理!」という風に挟まれているにも関わらず首を横に振る。その代わりになのか、ミュウが凍える光線をクチートの足元に向かって発射してくれた。ピキピキとクチートの足元が、地面が凍り付いていく。
 親父達からすればマリル達ではない第三者がバトルに割って入った形になるが、親父達もバトルをする前に攻撃してきたのだからこれでおあいこというものだろう。……おあいこになるのか? ……なって欲しいな。
 ほぼ願望を込めるようにして様子を見ていると、突然足元を凍らされたとこにより慌てたのか、クチートの大あごが開く。その隙を狙って転がるようにマリルが脱出すると、俺に視線を飛ばす。なるほど、フィニッシュは俺の指示で決めたいらしい。

「マリル、『アクアテール』だ!!」
「りるりいっ!!」

 挟んでくれたお返しだとばかりに、マリルがこれまで見た中では一番多く水を纏った尻尾を思いっきり叩きつける。さすがのクチートもダメージが重なっていたのかぐらりとバランスを崩すと、そのままブリッジをするかのように倒れた。
 ……うん、足元がまだ凍っていたのだから、ちゃんと倒れられるはずがないよな。バトルは終わったので、ロコンに弱めの「火の粉」をお願いする。ふよふよと飛んで行った炎はしっかりとクチートの足元だけ溶かしてくれた。
「なるほど、これがポケモンバトルか。実際にしてみたことはなかったが、これはなかなか面白い。私達はバトルをして、負けた。なら潔く手を引くべきだろう。だが忘れるんじゃない。私達は決して諦めたわけじゃない、ということをな」
 負けたにも関わらず、そこまで悔しそうでもない竜也さんは親父に視線を投げる。親父は「……仕方ない。負けは負けなのだから今は引こう」と言うとキルリア達と共に姿を消してしまった。恐らく「テレポート」を使ったのだろう。
「勝ったとはいえ、ミュウの力を借りてしまったのだからまだまだだな……。もっとマリル達のことを知って、今度は外野の助けなしに勝てるようにならないと」
 今のバトルに対する反省を垂れ流していると、「ここはとりあえず勝てたことを喜ぼうよ……」と呟いた春香が頑張ってくれたロコンを撫でた。やっと触れてくれた、とばかりにロコンは春香に甘えまくっている。
 そういえばバトル中春香の声は聞こえなかった気がするが、アレか? 俺がポケモン達に集中しすぎて他の声を無意識に閉め出していたのか? そうじゃなかったら、ポケモン達が勝手に繰り広げるバトルにいつ口を挟めばいいのかわからなかったとか?
 ……後者の方が圧倒的にあり得そうだ。春香はポケモンが好きなようだが今まで触れ合っていなかったし、そもそもバトルは俺も初めてだったのだからそうそうゲームのようにはいかないだろうし。
 りるりると自分の活躍を訴えるマリルの頭を撫でくり回していると、光莉達と一緒に安全な場所で様子を見ていた昌紀が目を輝かせて走ってくる。見ていた最中横に置いていたタマゴはしっかりとその腕に抱えられていた。
横に置いておいたんじゃタマゴが危険なのではと心配していたが、親父達にも他のポケモンにも狙われなかったのだから今はそれでよかったのだろう。……次もそうしようとしたら、何かアドバイスをしておくか。
「ヒビキキと春香、すっげー! やっぱりポケモンバトルってカッコいいな!」
 マリルとロコンを見ながらそう言う昌紀に、俺はさっきから少しだけ気になっていたことをぶつける。
「なあ、昌紀。どうして俺だけ『ヒビキキ』なんだ? 多分だけど光莉や雅さんに名前を教えて貰っただろ?」
「教えて貰ったからこそヒビキキって呼んでいるんだよ!」
 教えて貰ったからそう呼んでいる? 何だそりゃ、と首を傾げていると苦笑いを浮かべた雅さんと光莉がこちらに歩いてくる。
「響生君達がキッチンにいる間、ピカチュウが来る前に漢字も含めてちゃんと紹介したんだけどね……。光莉ちゃんや響生君の名前を知るや否や『上の漢字単体でもそう読めるのに、どうして二つ合わせて一つなんだ?』って言いだして」
 雅さんの言葉を引き継ぐように、今度は光莉が口を開く。
「ボクの名前は上だけでも『光る』という風に『ヒカ』だけでも読めるから『莉』をつけても問題ないって納得して貰ったんだけど、響生だけはずっと『生』は『キ』とも読むから『ヒビキキ』だって聞かなくて……」
 いや、何だよそのトンデモ理論!? 光莉の話で納得したのなら俺も「『響く』で『ヒビ』と読めるから~」というわけにはいかなかったのか? それとも「ヒカリリ」と呼ぶのは何か嫌だったのか!?
 頭の中で様々な文句が飛びかうが、昌紀が納得してくれないことには直しようがない。今は泣く泣く諦めるとして、俺達はマリル達の回復のためにもミュウに頼んで「テレポート」を使って貰った。
 再び視界が歪み、一瞬のうちに景色が森の中から家の中へと切り替わる。
「二度目でも慣れないな……」
 独特の浮遊感から再び足踏みをした後、ちょうどいいので昌紀にここに来た理由を拾ったカードについて尋ねる。
「あ、ヒビキキ達には言っていなかったか。実はオレ、ポケモンが現れてからずっと町の避難施設にいたんだけど、親が突然『今日から雅さんのところでお世話になりなさい』って言うから来たんだ。あのカードはその時持たされたものだよ。マサ兄のところにはよく来ていたから一人で向かったんだ。まさかミュウと出会えるとは思わなかったけど」
 昌紀は周りを楽しげに飛ぶミュウを見る。その言葉に嫌な想像が頭を過ぎるが、本人が気にしていないようだからわざわざ口に出す必要もないだろう。
 それにしても、マサ兄? この中にマサがつく人間はいただろうか、と頭を回転させていると、雅さんが「僕と昌紀は従兄弟なんだ。僕の名前はマサとも読むからマサ兄ってわけさ」と答えを出してくれる。なるほど。それでか。そういえば従兄弟達が定期的に来るって言っていたな。
 一人納得していると、光莉がなぜミュウがタマゴを持っていたのかについて疑問を口にする。それは俺も気になっていた。答えを求めるようにミュウに視線を向けるも、ミュウはさっきと変わらず周りを飛んでいる。……答えは期待しない方がよさそうだ。
「ぴっか!」
 エスパーなんだからテレパシーでも使えないのかな、と思っていると突然ピカチュウがずっと昌紀が抱えているタマゴを指さしつつ顔真似を披露し始める。
 しばらくの間それが何を意味するのかわからず皆で意見を出し合っていたが、タマゴの色と「ミュウが持ってきたイコール幻系」という謎の発想から「これはマナフィのタマゴだから取り戻そうとしたんじゃないのか?」と適当に言ったらまさかの正解だった。ピカチュウは飛び跳ねて喜び、ミュウも大正解とばかりに手を叩いている。
 なるほど。陸のポケモンでも蒼海の王子の偉大さはわかっている、ということか。今度はなぜタマゴを持っていたのか、に問題が移りそうだが……。もしかすると、ミュウ自身のものなのかもしれない。ミュウは全てのポケモンの遺伝子を持つというし、あり得ないことではないだろう。……昔に使えた技を考えると、可能性は十分すぎるほどある。
 タマゴを取り戻そうとした理由はわかったし、ここも今のところ安全だとわかった。これでピカチュウは森に帰るかと思ったのだが、帰る気配はさらさらない。もしかしたらタマゴが孵るまで見守るつもりなのかもしれない。
「残る問題は世界にポケモンが現れた理由か……」
 光莉が天井を見つめながらそう呟く。俺が旅を始めようと思ったきっかけでもあり、俺達の中では一番の問題だ。仮説の通りジラーチに叶えて貰ったのであればわかるが、一体誰がどうやって――。

「――ん?」

 ジラーチ。願い。ウルトラホール。これらの単語が突然パズルのピースのように組み合わさり、今朝忘れてしまったはずの何かを記憶の彼方から引きずり戻す。欠けたパズルの最後のピースがはまるかのように記憶の中にそれが収まったとき、全ての謎が一気に解き明かされた。
 いや、違うな。全て、「思い出した」んだ。

「――この世界にポケモンが現れた原因、俺かもしれない」

 ぽつりと零れた言葉を光莉達は何か悪い冗談を聞いたかのような顔で聞いていたが、俺の顔が真剣そのものだったのかやがて彼女達も真剣な表情になり――。

『ええええええぇぇぇぇ!!!???』

 俺が今日聞いた中でも一番の大声が、この家に響き渡った。



 結論から言おう。俺が今朝見た明晰夢は、夢だけど夢じゃなかった。つまり、現実に起こったことを夢として思い出していた。世界から動物が消えポケモンが現れた日の前日、俺は実際にジラーチに会っていたんだ。
 あの太陽を抽象化したようなものはきっとウルトラホールで、ジラーチはその穴を通って来たに違いない。断片的とはいえ、光莉達と言い合った仮説は間違っていなかった、ということだ。
 いくつもの奇跡が重なって生まれたジラーチとの出会いを夢だと思った俺は、どうせ夢なのだからとポケモンがいる世界にしてくれと言ってしまった。その際道具やら何やらについては何も言わなかったから、ジラーチは言葉通りポケモンだけを出現させたんだ。技などがゲームと違うのは、恐らくポケモンだけでも大丈夫なようにとジラーチが気を利かせてくれたのだろう。
 動物達が消えたのは、代償がどうとか言っていた気がする。きっと大きな願いにはそれだけの代償が必要で、ゲームにあるように何でもタダで叶えてくれるというわけではなかったのだろう。地味に言葉が通じていた気もするが、それも恐らくテレパシーを使ったのだと思うし。
 この報告に、光莉が「どうしてもっと早く思い出さなかったの? というか、それなら意見を出し合っている時でも思い出せたよね?」とやけに怖い笑顔を浮かべていた。……確かにその通りです、はい。
 今更思い出したのは最初の不眠の影響でずっと記憶の整理ができていなくて、今やっとできたからだろう。多分そうだ。……そうだと思いたい。
「それで、響生君達はこれからどうするつもりなんだい?」
 皆でテーブルについてのんびりとしていると、雅さんがそう尋ねてくる。まさかの俺が原因でした、という意外すぎる結果に終わったものの、確かに旅の目的だった「この世界にポケモン達が現れた原因を知る」というものは果たされた。
 だが、目的は果たされたのだからすぐ家に帰ります、なんていうのは絶対にない。
「ジラーチを探して元に戻して貰うか偉い人に真実を告げて謝るかを選んだけど、とりあえず今は親父達を探してくだらない計画を止めることだな」
 前者は目覚めた状態で会える確率がかなり低いし、後者は言ったとしても証拠がないから信じて貰えるかどうかわからない。仮に信じて貰えても、次の日から俺を待っているのは話を聞いた人達による非難の嵐だろう。恐らく毎日のように続くと思われる言葉を全てかわして耐える自信が俺にはない。
 だから、第三の選択肢が出てきたのはある意味当然と言えば当然のことだった。ミュウは今のところ俺達のところにいるが、いつまでも傍にいるとは限らない。次の瞬間には「テレポート」で消えているかもしれないし、親父達もミュウに拘らず他の伝説や幻のポケモンを探しに行くかもしれない。
 春香が父親を無視しておくとは考えにくいし、光莉も一緒に来てくれるだろうから三人旅はもうしばらく続くだろう。チャンスがあれば、二人っきりでのデートもしてみたいものだ。
 ……俺の様々なスキル不足がバッチリと障害としての実力を発揮しそうな気がしてならないが、今はその事実から目を逸らしておく。
「旅の目的を変えたとしても、わたし達の旅はなかなか大変なことになりそうだね……」
 春香の呟きにより、なるべく考えないようにしていた現実的な問題が目の前に現れる。具体的に言うと海を含む交通手段とか、今ある食料が尽きたらどうしようだとか、なさそうだけど学校が再開したらどうするのかとか。
 携帯も使えないから連絡手段も限られるし、思った以上に俺が失わせてしまった文明は俺達に大きな影響を与えていたようだ。今ある文明が崩壊に近い状態を迎えたのだから、これを言葉とするのなら「ロスト・アポカリプス」か? 何か違う気もするが、あながち間違ってもいないだろう。
 春香も前に進み始めたし、マリル達とも出会えた。それに旅のお陰で雅さん達とも出会えたのだから、文明の全てが失われたわけじゃない。……現実を見てから言えと言われたら、何も言えないが。
 思った以上に現実は厳しくて先が見えないが、春香達と一緒なら何とかなるだろう。そんな根拠のない自信が次から次へと湧き上がってくる。実際これまでも何とかなったし、これからも何とかなるだろう――なんてのは、さすがに虫がよすぎるか。
 でも現実は小説よりも奇なり、なんて聞くし思いもよらない展開が待っている可能性も捨てきれない。俺はやっぱりゲームの主人公に憧れているんだな。とはいえ、これからは理想を追うのもほどほどにしなきゃな……。
 色々なことを考えていると、春香が俺の隣にわざわざ座り直してきた。しかも、何か言いたげにこちらを見つめている。こ、これは……? 俺は一体、春香に何を求められているんだ? ぶっちゃけ、恋愛経験など年齢と同じである俺には難易度が高すぎる。
 結果としてスキル不足を早速露呈することになり、ただ視線を彷徨わせることしかできない。何かヒントは、とありもしないヒントボタンを探していると、膝が重くぽかぽかとしたものに覆われる。
 不思議に思って視線を下げると、そこにはなぜか口の端をくいっと持ち上げたロコンが座っていた。そ、そういえば朝のことで撫でてあげようと思っていたな! 今がそれをするべきか!
 ロコンの頭をうりうりと撫でていると、今度はボールをくわえたイーブイが視界に入ってくる。どことなく顔がニヤついている気がするが……、そうだ。イーブイとも遊んでやろうと思っていたな。ロコンを撫で終わったら遊んであげよう。
 どんどんと本題(春香)から離れている気しかしない俺の耳に、春香か光莉のものと思われるため息が入ってくる。……期待通りのことができなくてすみませんでした。心の中で土下座をする勢いで謝ると、より丁寧にロコンの頭を撫でていく。
 そんな俺の行動に文句をつけるように、ばしばしとボールのような尻尾を当ててくるマリル。実に頼もしいポケモン達に囲まれながら、やはり俺を待ち受けている一番の問題は俺なのかもしれない、と深い深いため息を吐いたのだった。