グルメなジャッジは人の気持ちがわからない

 タマムシシティホテル最上階。
 本場カロスの美食家も認める三ツ星レストラン『L'Arc-en-ciel』のスタッフは、いかにも当然といった風に入店してきたその男を確認し、少しだけ鼓動を早くする。だが、それを周りに悟られぬようにしたのは、流石といったところだった。
 その男はそのような店に入るにはまだ随分と若いように見えたが、服装はその店の雰囲気にふさわしいものだったし、女性のコートを脱がせる手付きはこなれている。
 一方、その男と一緒に入店した女性は正反対であった。やりすぎではないかと言うほどに気合の入った服装のその女性は、おそらく年下であろう男に弱みを見せまいと落ち着いて振る舞っているように見えるが、むしろそれが余計に緊張を表現していることには気づいていない。スタッフも思わず見とれてしまいそうになるほどの色気ある雰囲気を醸し出しているのに、その様子はまるで怯える少女のようだった。
「こちらへ」と、スタッフは彼らを厨房から最も離れた席、虹色に輝くタマムシの夜景を一望することのできる席へと案内した。若い男とおそらく一見の女性には行き過ぎた席のようにも見え、それを訝しむような客も数人存在していたが、もしその男の事を知っている人間がいれば、それは仕方のないことだと思うだろう。
 爆弾のようにめんどくさい客なわけではない。美食家であることにナルシズムを感じているタイプではないし、それ故に店を値踏みしようと考えているタイプの人間でもない。その店の雰囲気と料理に身を任せ、特に知識をひけらかすわけでもない。性格的に癖のある部分は有るが、それも店に影響があるほどではない。だが、それでも、ありとあらゆるレストランがその男を警戒するのは、その男に気に入られれば繁盛するというジンクスのせいか。
「どうぞ」と、スタッフに促されて女性が席に座るのを確認してから男は席に座る。彼は椅子に浅く座り、背筋を伸ばしている。
 その男、K・イトウが、一円たりとも現金もカードも所持しない完全なゲストであり、むしろテーブルの上に並ぶ何種類もの食器を目を白黒させながら眺めている女性、ツェツェグこそが今回のホストであることをスタッフが見抜いていたのは、勤勉で用意周到な彼がもしものときのためにと仕入れていた知識のおかげだった。




「そろそろ、仕事の話をしましょうか」
 イトウがそう切り出したのは、給仕がスープを持ってきて少ししてからだった。
 ツェツェグはその言葉に息を吐いて笑顔を作った。
「安心しました、正直、不可思議なことばかりで、本当に依頼を受けていただけるのかと……」
 今の今まで、彼女はイトウをかなり疑っていた。そもそも、この状況をすんなりと受け入れられる方がどうかしているのだ。
「よく言われますよ」と、イトウは何でも無いことのように答える。
「だけどね、結局お金をもらったところで、人間はそれで栄養を取らなければならない、だったら食事そのものを報酬にしてしまえばいい。僕の中ではよく出来た理屈なんですがね」
 言葉の通り、イトウは仕事の報酬の一部を格の高いレストランでのもてなしで要求していた。だから彼に気に入られて質のいい仕事を要求する金払いのいい依頼主は、国内外を問わず彼をより格調あるところへと誘う。当然彼の同業者と比べれば結果的に割高な出費にはなってしまうが、それでも構わないと思われるほどの能力が彼にはあった。
 ツェツェグは彼の理屈に少し首をひねりながらも本題をすすめる。
「実は、私の仕事仲間について、あなたの意見を伺いたいのです」
「仕事仲間、ですか?」
 今度はイトウが首を捻る番だった。それが、自分の仕事とどう関わるのかがわからない。
 それを理解しているのだろう、彼女は続ける。
「私はあるサーカスの一員で、主にポケモンバトルを演出する事を仕事にしています。仕事仲間というのは、その、いつも私の相手をしてくれる子のことなんですが……」
 緊張が溶けてきたのだろうか、少しずつ、彼女の口調がこなれてきた。
「最近、どうも調子が悪いようなんです。今はまだ誤魔化せていますが、いつか取り返しのつかないミスが起きてしまうのではないかと怖くて。私達がミスをする分には問題ないんですけど、観客の皆様に迷惑がかかってしまうことを考えると」
「はあ、なるほど、それで僕に依頼したわけですか」
 それを聞いて、イトウは安心したように相槌を打った。確かにそれならば、自分の仕事と関連があるかもしれない。
 イトウは、ポケモントレーナーに対するコンサルティングを主な職としていた。彼はポケモンのポテンシャルと感情をひと目で見抜くことのできる通称『ジャッジの目』を生まれつき持っており、通常のトレーナーの何倍もポケモンを理解することが出来る。その天性の才能からの助言を欲しがる人間はいくらでもいた。
 ツェツェグは「この子なんですが」と、バッグから写真を取り出してイトウに手渡す。
 そこに写る人物とポケモンを見て、イトウは「若いな」と思わずつぶやいた。確かに、そこに写る少年は、ツェツェグと比べれば随分と若い、十代中盤といったところだった。
「確かに若いですけど、キャリアは十年はあります」
「とすると、まだほんの子供の頃からサーカスに?」
「ええ、確か五歳の頃にはもうステージに立っていました」
 はあ、なるほど、と、イトウは弱々しい相づちを打った。五歳からステージだなんて彼にはとても考えられないことだったが、サーカスという特殊な職場であるならばそれも仕方のないことなのだろうか。
 次に、イトウはその少年の顔つきに注目し、問う。
「この子……ああ、名前は?」
「クルディです」
「どうも、クルディはどこの生まれなんです?」
「ああ、この子は海外の出身なんです。うちのサーカスが拾った子なんですよ」
「拾った?」
「ええ、昔私達が海外公演に行ったある地域はまだ情勢が安定していなくて、彼はそこの孤児でした」
「はぁ、なるほど」
 やはりイトウは弱い相づち、やはり全く想像ができない。
「想像できませんか?」と、彼女はイトウの様子を見て答える。
「うちの団長が困った子供をほっとけない人で……実は私も同じような境遇なんですよ」
 ますますわからん、と、イトウは小さく唸った。
「とてもいいトレーナーなんですよ」と、ツェツェグはその日一番に表情を明るくさせて言った。
「元々ポケモンバトルはサーカスの中でもそこまで人気のある演目じゃなかったんですけど、三年ほど前に彼が担当するようになってからはとても人気になったんです」
「その、演出されたバトルというのは、あなたと?」
「ええ、そうです」
「それまで組んでいた人はどうなったんです?」
「引退したんです。それでみんなが困っていた時に、あの子が立候補してくれて」
「なるほど」と、イトウは再び唸った。
 途中、会話の途切れを待っていた給仕がスープの器を下げ、一言料理の説明をしながら魚料理をテーブルに置く。
 イトウはひとまずそれを一口食べ、鼻に抜ける香りを楽しんでから言った。
「正直、あまり僕が動く必要があるようには思えないですねえ。あなたの話を聞く限り、多分僕よりもあなたやサーカスの人々のほうがその理由がわかりそうなものですけど」
「それもだめなんです。仕事仲間に聞いてもわからないと言ってばかりで」
「本人にはなにか聞きましたか?」
「はい、でもあの子もそんなことはないの一点張りで何もわからないんです。でも私はあの子と十年も付き合っているんです、わかります、あの子は絶対に調子が悪いんです。だから、あなたなら何かがわかると思って」
 すがりつくように言うツェツェグに、イトウはもう一切れ口に含みながら考える。
 そして、もう一つだけうーんと唸った後に答える。
「わかりました、やってみましょう」







 タマムシマンション六階。仕事を受けるための端末と、少しばかりの書籍、そして小さなテーブル以外は何も存在しない、始めたばかりの秘密基地のようなその部屋が、カリスマポケモンコンサルタントであるイトウの自宅だった。
「なぁ、ロビィ」
 その小さなテーブルの前にちょこんと座ったイトウは、対面の石像に向かって言った。
「最初はちょっとめんどくさいかなと思ったけれど、今回の依頼は面白そうなんだ」
 彼はテーブルの上においていたポスターをその石像に向けて広げる。それは世界的に有名なあるサーカス団の公演予告ポスターであった。
「これがクライアント」
 イトウはポスターの真ん中に陣取る女性を指差して言った。もちろんそれはツェツェグであったが、レストランで見せていたあの緊張をはらんでいる様子は微塵も感じられない。
「ポスターで見ると随分美人だね、いや、もちろん実物も美人だったんだけど、どうも僕は料理の方に夢中でそこまで気が向かなかったよ、こういうところが未だに彼女の一人もできない理由なんだろうね」
 あ、と、イトウは石像の前に何も備えられていないことに気がつき、足早にそこを立つと冷蔵庫から十二個で一パックのお徳用いかりまんじゅうを取り出してそなえる。
 よし、よし、と、何かを確認するように頷いてから、彼は続ける。
「なんとクライアントから関係者パスを貰ったんだよ、まあ、そりゃ彼女らの仕事を見ないことには僕の仕事も始まらないわけだから当然といえば当然なんだけど。でもこういう類のものに行くのは生まれてはじめてだなあ、大体こういうのって誰かと行ったりするのが普通だけど、僕には一緒に行く彼女はもちろん、友達だっていないからね。君と一緒に行っても良かったけれど、僕も君も花より団子だろうし、そういう発想には至らなかったよね」
 イトウは明るく悲しいことを言った。無論それは冗談などではなく事実だった。
 卓越した才能である『ジャッジの目』を持つ彼は、ことポケモンとトレーナーの関係においてはずば抜けた観察力を持つ。だが、人と人との関係においては、彼は万年赤点の生徒であった。このように饒舌にまくしたてることができるのも、唯一心を許している石像相手だけ。
「クライアントはこの人だけど、今回僕が観察するのはこの人だよ。クライアントほど扱いがいいわけじゃないけど、かと言って脇役といった風でもないね」
 彼が言う通り、ポスターには観察対象であるクルディも写っている。
「付き合いの長いクライアントも本人もその理由がわからないらしいし、原因はポケモンの不調だと睨んでいるよ。しかし、人間というのは人の変化には敏感なくせに、ポケモンの変化には全然なんだよね、不思議だよね」
 そう言って彼がもう少し続けようとした時、携帯端末がけたたましい音を鳴り響かせ、持ち主に設定された時刻が来たことを伝える。
「お、時間のようだね、今日はこのサーカスを見に行くんだ。どんな物があるか楽しみだし、そうだ、やっぱりああいうイベントではポップコーンを食べるのが礼儀だよね、まあ、抜群の素材を使ってるってわけじゃないだろうけど、ああいうのはさ、カロス料理と同じで雰囲気込みのものだから」
 おっと、喋り過ぎだね、と、イトウは立ち上がり、身支度を整え始めた。







 人が空を飛び、まるでポケモンのように振る舞う。
 綱渡り、空中ブランコ。人はシーソーで空を飛び、まるで炎タイプのポケモンのように火を吹いてみせる。
 危険なバイクのノーヘルライダーは、ポケモンのタマゴを後部座席に乗せたままケージの中を走り回り、最後にそれを割って本物のタマゴであることを証明しようとするが、観客の子どもたちがそれに悲鳴を上げるのを待ってから、自身の髪をズルリと引っ剥がし、スキンヘッドとともにそれがかつらであったことをニヤリとアピールしてから去っていく。
 間抜けなピエロはスターのマネをして空中ブランコに挑戦するが、あっけなくそれから手を離してネットの上に落下する。それでも彼はすっくと立ち上がり、観客たちに心残りを残さずに間抜けなまま退場する。
 思わず観客が緊張してしまいそうになるほど危険なチャレンジを、彼らは何でも無いようにはこなさない、むしろ、自分たちが緊張の面持ちを見せることこそがエンターテイメントであることを彼らは理解している。
 ポケモンが踊り、まるで人間のように振る舞う。
 緊張感だけがサーカスの醍醐味ではない、非日常的で幻想的な光景を見せることも、彼らが持ち得るエンターテイメントの一つだ。
 他地方から来たという巨大なナッシーが、カントー人からすれば伸びすぎている首を振り回して観客たちに挨拶をする。
 可愛らしいドレスを着た少女と踊るリオル達は、少女が背を向けているときだけ悪戯をし、観客の子どもたちの声に少女はあえて気づかない。
 凍える風を撒き散らして観客たちを威圧した巨大なツンベアーは、ピカチュウに天使のキッスを受け、鼻歌交じりに小さな三輪車を漕いで会場を一周。
 間抜けなピエロは友達のテッカニンを繰り出したが、どんどんと『かそく』していくテッカニンにピエロは振り回され、最後は見えなくなって鳴き声だけとなったそれに翻弄されながら、間抜けなままに退場する。
「やぁ、うまいうまい」
 イトウは塩味のポップコーンを頬張りながら周りの迷惑にならぬように小さくそういった。もっとも、歓声と笑い声にあふれかえるテント内である、多少ばかり大きな声を挙げたからと言って問題はないだろう。
 ホウエン地方の海を作ったとされる伝説のポケモン、カイオーガが描かれたあまりにも巨大なポップコーンカップは、イトウのような青年が持つにはふさわしくないようにも思えたが、彼はそんなことは気にしない。ちょうど彼の横には我儘な兄にポップコーンを半分も奪われて、今にも泣き出しそうな表情をしている小さな女の子もいるのだが、彼はそんなものには一瞥もくれず、ただただその塩味を頬張っている。
 もちろん、その女の子に少し頂戴と言われれば何の抵抗もなくあげるだろう、イトウにだってその程度の優しさはある。だが逆を返せば、そう言われなければあげないし、むしろ彼女がそれに困っていることにも気づかない、それがイトウという人間だった。
 女の子がそのカップをチラチラと見ているのに彼が気づかないまま、サーカスは最後の演目を迎える。
『それでは皆さん、最後に、我がサーカスが誇る二人のトレーナーの戦いをご覧に入れましょう!』
 若々しい司会者の声が響き、サーカス内は歓声と拍手に包まれる。
「お」と、イトウはポップコーンカップを床においた。
「それ、いらないの?」
 彼の隣りに座っていた家族連れの、我儘な兄がイトウに問う。その卑しくも取れる質問に、彼の母親がたしなめる。
「うん、欲しかったらあげるよ」
 だが、イトウは快くそれを許可した。だが、母親の礼も彼の耳に届かなければ、嬉しげにカップを手に取る我儘な兄の喜びの声も聞こえないし、妹と半分にしろという母親の叱責も届かないし、それによって明るくなった妹の表情にも彼は興味がない。
 音楽隊の生演奏と共に、まずは一人、少年トレーナーが舞台に現れる。彼の故郷の衣装であろうか、世界中を回っているイトウでも初めて見るような気のする衣装に身を包んでいる。褐色の肌と、鋭い目つきが印象的だった。
『まずはクルディとそのパートナーであるザングースです!』
 そう紹介されると、クルディはきのみで作られたボールを放り投げてザングースを繰り出した。
 観客たちはそのザングースの目付きの悪さとむき出された牙と爪に恐れおののく、親の良心から最前列に座ってしまった子供などは、思わず小さな声を挙げてしまうほどだった。
『まだまだ若いと侮るなかれ、クルディとザングースはすでに我がサーカスの二番手トレーナー! 今日あなた達を楽しませたナッシーも、リオルも、ツンベアーも、そしてもちろんピエロとテッカニンも、彼らには敵わないでしょう。すでに幾多ものポケモンジムに認定もされているコンビです!』
「そうだろうな」と、イトウはつぶやく。
 彼の『ジャッジの目』は、ザングースのポテンシャルをすでに見抜いていた。もちろん、それはザングースの威圧的な姿に惑わされることはない。
 キャラクター作りのためだろう、威圧的な雰囲気をまとってはいるが、本質的な性格は陽気だ。
 彼は素晴らしい能力を持っているし、おそらく攻撃と速さは最高のものを持っている。
『お次は我がサーカスが誇る最強のトレーナー! ツェツェグ!』
 観客たちは、その言葉に大きな拍手と歓声。ポスターの真ん中に陣取るほどの花形スターであるツェツェグは、観客たちにも認められているようだった。
 舞台に上がったツェツェグの堂々たる風格に、イトウは思わず唸ってしまった。最も、多くの観客やファンはその姿こそが本物のツェツェグだと思っているし、実際にはそうかも知れない。
『この美しき女性とハブネークのコンビは、この世界で最も優れたコンビの一つでしょう! すでに数多くの認定ジムバッジを手に入れ、イッシュ地方の四天王とも互角の戦いを披露したのは記憶に新しい! 年月とともにそのコンビネーションは熟練し、常に私達に新しい戦いを見せてくれます!』
 きらびやかなハイパーボールからハブネークが繰り出された。彼女はぐるりと観客席を見回すと、すぐにツェツェグに身を寄せる。
「あらら、こっちもなかなか」と、イトウは感心した。
 速さという面では最高というわけではなさそうだが、体力と精神力に関しては素晴らしいものを持っている。紹介された経歴が本物であるのならば、熟練したトレーナーであるツェツェグの元でしぶとく戦えるだろう。
『それでは両者、位置に――』
 紹介を終えた司会が試合の開始を取り持とうとしたその時だった。
 突然、ザングースがハブネークに襲いかかった。
 鋭い爪がハブネークの体をひっかき、更に連撃でハブネークの頭を狙う。
 だが、ハブネークはその長く強靭な尾をザングースに叩きつけて攻撃した。
 一瞬よろめいたザングースに追撃を入れ、ハブネークとツェツェグは距離を取る。
 その一連の動きを固唾を呑んで見守ってから、観客たちはそれぞれの反応を示した。
 クルディとザングースが不意を打ったのだと思う人間もいれば、いや、仲間同士だからそんなことはしないだろうと思う人間もいる。所詮演出されたものだからそういう台本なのさと、どうしてこのような場に来たのかわからないような無粋な人間もいれば、もしかして若くて無鉄砲で野心の有る人間ならば、そうして力の差をわからせる事も考えられるのではないだろうかと邪推する人間もいるだろう。
 演出というものは、そのあやふやな境界線を楽しむものなのだ。
 だが、観客席でその答えを知るただ唯一の人間であるイトウは、ふーんと鼻を鳴らしながら考えを巡らせていた。
 その一連の動き自体は、演出だ。
 その不意打ちに、悪意の要素が全く見えなかった。最も、それはイトウのような『ジャッジの目』を持つ人間でなければとうてい見抜けぬほどに緻密な演出。その点では、心配がない。
 だが、イトウが訝しんでいるのはザングースの体調面だ。
 石像にプレゼンしたように、当初イトウはクルディとザングースの不調の原因を、ザングースの体調面にあると睨んでいた。だが、今の動きを見る限り、まるでそんなものは感じられない、むしろ体のキレはかなりいいように見える。
 間髪入れず、ザングースは電光石火の攻撃でハブネークに体当りする。
 そこで、思い出したように音楽隊が演奏を再開し、司会もマイクを取る。
『失礼しました。少し若いコンビが先走ってしまったようです』
 演出を悟られぬための方便だったが、未だにリズムを取りそこねている音楽隊の慌てぶりと、脂汗を吹き出している司会の姿が、それにリアリティを与えている。当然、そのどちらもが素晴らしいプロフェッショナルの演出である。
 体当たりでリズムを掴んだザングースは、相手の体を切り裂くブレイククローを狙って右手を振りあげた。
 だが、それを待ち構えていたようにハブネークは口を開き、どす黒い塊を吐き出す。
 それはザングースの顔面に直撃し、まるで水風船が弾けるように爆発した。
『ヘドロ爆弾!』
 地を這うような呻き声を上げながら、ザングースは地面を転げ回る。
『毒タイプのハブネークが持つ最大の攻撃が顔面に直撃しました!』
 ハブネークは追撃の噛み砕くを狙って間合いを詰める。
 しかし、今度はザングースが口の中から毒液を吹き出してハブネークに目潰しをする。流石に自分の毒に侵されることはないだろうが、毒液によって視界が侵される。
 観客たちはそれに驚いた、見るからに猛毒であろうその液体を、まさか口に含んでいただなんて。
「なるほど、免疫力か」
 イトウがつぶやいてから少しして、司会も声を上げる。
『なんと! ザングースはハブネークの毒を口に含んでいたようであります! ザングースはハブネークとの長い闘争の歴史の中で、毒を無効化する特性、免疫力を体得しているのです!』
 一瞬注意を削がれたハブネークに、ザングースが再びブレイククローを狙う。
 鋭い爪がハブネークの頭目掛けて振り下ろされる。
 観客は、鋭い爪が肉を切り裂く音が響くことを予感していたであろう。
 だが、鳴り響いたのは何かが爪を受け止める甲高い音。
 見れば、ザングースの爪を、ハブネークの牙が受け止めていた。
『なんと!』と、司会が声を上げ、観客も驚きのざわめきを起こす。
 注目を浴びるハブネークの背後で、ツェツェグが声を上げている。
 視界を失ったハブネークを、彼女はうまく誘導した。的確な指示によって彼の第三の目となり、危機の方向を知らせた。
「どちらも見事」
 イトウは感嘆の声を漏らした。そして、司会が言った彼女の経歴に嘘はないのだろうと確信する。
 ハブネークの状態を素早く認識し、ほとんど完璧な指示を出したツェツェグの実力も素晴らしければ、それを信じ切ったハブネークと彼女の連携も見事だった。
 爪を弾かれたザングースは、まだ目の見えぬうちにと再び攻撃の体勢をとり、クルディもハブネークのスキを探そうと目を凝らす。
 だが、次の瞬間、ザングースは動けなくなっていた。
 自分たちをにらみつけるハブネークに、スキが存在しなかった。まるで金縛りにあってしまったように、体が動かなくなる。
 ザングースのそのスキを突き、ハブネークはするりと彼の懐に潜り込んだ。
 その瞬間、クルディとザングースが一瞬動く。だが、柔軟なハブネークの体は、その動きごとハブネークを絡め取り、締め上げる。
「ん?」と、イトウは怪訝な声を上げたが、それは観客の歓声にかき消された。
『締め上げた! 蛇睨みからの締め付けるはハブネークの得意技』
 当然ザングースはもがく、だが、もがけばもがくほど、ハブネークの筋肉はより無駄なく彼の体を締め上げ、無理な体勢、無理な体勢へと彼の体を変化させる。
 やがて、ハブネークの筋力は、ザングースの血管をも締め上げ始める。
 白い体毛は、毒液によって毒黒い斑になってしまっているため、表情はわからない。だが、その目は充血し、呼吸をするために無理やり開かれた口からは、乾いた舌が放り出されている。
 もがくザングースと、締め上げるハブネークの攻防は、音楽隊が奏でる緊張感のある伴奏とともに暫く続く。しかし、観客はただただ締め上げられているのを眺めているわけではない。時折不意をつくように大きく暴れるザングースに、もしかすればこの状況がひっくり返るかもしれぬという緊張感を、常にはらんでいる。
 だが、ついにその時がきたようだ。
 振り上げられていたザングースの右手が、だらりと下がる。それは、彼の意識が失われたことを意味していた。
 それがわかるや否や、ツェツェグはハブネークに指示し、その拘束を解く。
 ハブネークの体がほどかれるたびに、ザングースは力なくだらりと体をなにかに預け、やがてハブネークが完全に離れると、今度は地面にその身を横たえた
『戦闘不能、戦闘不能です!』
 司会がそう叫び、クルディはザングースをボールに戻した。そして、さっさと舞台を後にする。
『まさに電光石火の逆転劇でありました! 皆様! 勝者のツェツェグに大きな拍手を!』
 司会の言葉に反論するものはない、観客たちは誰もが手を叩いて彼女たちの実力を称える。
 ただ一人、イトウのみが「んん?」と、首を傾げ続けていた。







「なぁ、ロビィ」
 タマムシマンション六階、持ち主がうっとおしく感じる瞬間すらあるほどに日当たりの良いそこは、地平線の向こうに沈まんとしている太陽が最後に放つオレンジ色の影響を、これでもかというほど受けている。
 その石像と同じく長い影をフローリングに作りながら、イトウは小さな机の前に鎮座していた。
「今回の依頼は、やっぱりちょっとめんどくさいかもしれないんだ」
 いかりまんじゅうの包みを開き、対面に置かれた石像の前に備える。
「キミはよく知っているだろうけど、僕の仕事ってのはさ、まあ、色々なことをやってきたけど、大抵はほら、強くなりたいとか、勝ちたいとか、負けたくないとか、そんなことばっかりだ。ぶっちゃけた話、その大抵の仕事だって楽じゃないんだよ、誰も彼もが強くなれるわけじゃないし、誰も彼もが強くなってしまったら、一体何が弱いということなのかわからなくなるしね」
 はあ、とため息をついて続ける。
「今回の依頼も、まあ少し特殊だけど、そんなところなのかなと思っていたんだ。結局の所は、調子を崩したトレーナーを矯正してほしいってもんだったしね。ところが、どうもそうは行かないようなんだよ」
 一旦そこで話を切って、彼は瞬間湯沸かし器を手にとった。その中の熱湯をテーブルの上にあった急須の中に入れ、ゆらゆらと揺らす。
「どうも引っかかることがあるんだ。違和感っていうのかな、これまで僕がやってきた仕事とは一線を画す何かが、この仕事にはあるような気がするんだよね。まあ、その違和感ってのは、君も理解してはいるんだろうけど」
 今度は同じくテーブルの上にあった湯呑を手に取り、それに急須を傾ける。緑茶のいい香りが、部屋の中にふわりと巻き起こる。それはびっくりするほどの高級品というわけではないが、数々の美食を堪能してきたイトウが普段用に選んだ茶だった。
「あのとき、クルディは踏み込んだ」
 突然、イトウがつぶやく。それまでの朗らかな雰囲気とは違う、『ジャッジの目』を持つものだけが見抜くことのできる真実。
「ハブネークが締め付けようとしたあのとき、ザングースは一瞬だけ早く動いた。状態は麻痺していたけれど、空元気で攻撃すれば、あの戦況を逆転することは容易にできたと思う。ザングースが暴走しただけのようにも見えるけど、あれには確実にパートナーであるクルディの指示があった。僕にはわかる、そういう才能を天から貰ったから」
 石像に相槌を求めるように一瞬だけ沈黙してから続ける。
「高度なトレーナーだけが持つことができる技術と感性だ。おそらく僕のような人間でなければ見抜くことはできなかっただろう。ツェツェグさんが感じていた違和感もおそらくはそれ、彼女も優れたトレーナーだけど、完全にそれを見切ることはできなかったようだね」
 彼は石像の相槌を待つ。当然来ないそれに頷きながら、更に続ける。
「特殊な状況がややこしくしているけど、クルディのその行動は理解できない。強さを演出するのならばもっと大げさにするべきだし、あそこで僕のような人間にしかわからない演出をする必要なんてない。あの行動はリアルではあったけど、観客に提供すべきリアリティのあるものではなかった」
 そこからわかることは、と、続ける。
「あのバトルの中で、クルディは勝つための技術を使い、そして、それをこらえた。それがどうしてかはわからない、だけど、彼が芝居を超えた攻撃を加えようとしていたことは間違いのない事実だ」
 しかしイトウは首を傾げた。自分の『ジャッジの目』はこれまで寸分も狂わずにポケモンとトレーナーの真実を見抜いてきた。今更それを疑う理由はない。だが、やはり、その理由がわからないのだ。
 彼は自分の湯呑みにも緑茶を注ぎ、熱さを我慢して少しだけそれを啜る。
「まあ細かいことはさ、この後クライアントに聞こうかなと思うんだ。今回の仕事は、わからないことが多すぎる。人と喋るのは苦手だけど、僕なりに頑張ってみるよ」
 湯飲みを石像の前に差し出しながら、イトウは服を着替えるために立ち上がった。







「今日は僕の奢りですから。好きなだけ食べてください」
 タマムシ食堂、安くてうまくて、何より飯の量が多いことで有名なその店で、イトウとツェツェグは待ち合わせていた。
 カジュアルな服装に身を包んでいたツェツェグは、先日のレストランに比べると随分と気楽そうだった。もちろんそれは勘定の心配をしなくてもいいという拝金主義的なものからくるものではないだろう。
「こういうお店にも来るんですね」
 ツェツェグは微笑んで言った。慣れぬ世界への緊張さえなければ、クライアントと依頼者という関係はあれどイトウは年下、多少の軽口を叩くくらいの余裕はあった。
「ええ、ここすごく美味しいですから」
 ツェツェグの言葉に含まれるもの、例えば様々な高級レストランに足を運ぶ彼の食に対するこだわりについてだとか、ガチガチのマナーを求められたあのレストランから開放された安堵とか、その他諸々の雑談の取っ掛かりになりそうなものを、イトウはバッサリと拒否し、自分が話したい話だけを早口にまくしたてる。
「高いもんばっかりが美味いってわけじゃないんですよ、むしろ旨さってのはある程度頭打ちのものであってね、例えば『L'Arc-en-ciel』なんかはもちろん美味いんですけど、ああいうのは雰囲気込みというか、高くて美味いもんを食ってるんだなっていう感覚を大事にしなくちゃならないんですよね、だからマナーやドレスコードに気を使うし、店側もある程度客を値踏みするわけです。僕だってそれが抜群に正しいとは思いませんけど、かと言って声を荒げて否定するほどのものでもない」
 ちらりとメニューをみやりながらもう一言続ける。
「大体、僕の感覚は『美味い』と『すごく美味い』しか無いですからね、その日の気分で店を選べるんですから得な性分ですよ」
 はぁ、と、ツェツェグは圧倒されたように一言だけ答えると、同じようにメニューを眺める。
 こんな美人連れて来といて何やってんだこの若造は、と、周りの客が思ったことは言うまでもない。




「それじゃあ、仕事の話をしましょうか」
 分厚いというわけでもないが薄いというわけでもないビフテキを器用に刻みながら、イトウが唐突に言った。
「はい」と、デザートを手にとっていたツェツェグがそれに応じる。
「先日、サーカス見に行きましたよ」
 イトウは頷きながら続ける。
「良かったですよ。ザングースとハブネークの戦いも見事だった、ひねくれてないお客さんは間違いなく感動するでしょうね」
「ありがとうございます」
 ツェツェグはその全面的な称賛に一瞬戸惑いながらもすぐに笑顔で応えた。
「あの、最初の不意打ちは台本あるんでしょ?」
 あまりにも普通の声量でそう言うものだから、ツェツェグは慌てふためいて周りを見回した後に、誰もそれを気に留めていないことに安堵しながら「そういう事を言うときは声を落としてもらえませんか」とつぶやく。
「ああ、失礼失礼」
 イトウは左手を振りながら申し訳無さそうに答えた。気遣いはないが悪意もない、自分の行いがまずいことの理屈がわかればそれを素直に反省できる。
「それで、実際のところ、決めてるのは最初と最後だけってことでいいんですかね?」
 その言葉にツェツェグは驚き、彼が優れたポケモンコンサルタントであることを再び理解する。
「はいそうです。あの日は最初の不意打ちと最後に私が勝つこと以外は全部アドリブでやっていました」
「はー、やっぱりですか」
 デリケートな話は終了、イトウは背筋を伸ばしてビフテキを一口放り込んだ。
 それを咀嚼して飲み込んだ後に、一つ深呼吸してから言う。
「正直言いますが、あの少年のトレーナーとしての実力は、すでにあなたより上だと感じました。その次があなたで、その次があのピエロですかね」
 ツェツェグは、一瞬それに沈黙したが、すぐに「やっぱり」と返す。
「あの子はメキメキ力をつけていましたし、センスも良かった」
「でも、観客の前ではあなたに負けるしか無いんでしょう?」
「まあ、そうです。いずれゆっくりと世代交代することはできるでしょうけど、今すぐとなると……」
「なるほど」
 ふうん、と、イトウは眉をひそめて唸る。
 だが、それとは対象的にツェツェグは嬉しそうであった。
「そうですか。あの子、私より強いですか」
「不安とかはないんですか?」
 不躾だが、イトウの質問は考えられる当然のものであった。スターの座にある彼女にとって、自らの立場を危うくする存在の出現は、面白いものではないだろうと誰でも考える。
「いえ、まったくありません」と、彼女は答えた。
「私もいつまでも現役でいるわけには行きませんし、それに、あの子が強くなるのなら、嬉しい」
「そもそもこの依頼をしてきたのもそうですけど、随分と気にかけているんですね」
「ええ、あの子が五歳で拾われた時、私は十七でした。まるで年の離れた弟のようで、随分と可愛がったんですよ。まあ、この世界で生きていくために、随分と厳しくしつけもしましたが」
 はぁ、と、イトウは曖昧な相槌を打つ。彼にはいまいちピンとこない話。
 だが、ニコニコと笑う彼女に、まだ確信のないこれより先の話は今はすべきではないだろうなと思うことのできる程度の常識は彼にもあった。







「間違いない、きっとそうに違いない」
 タマムシマンションまでの帰り道、明るい繁華街を歩きながら、イトウはブツブツとつぶやいている。
 とても真人間のように見える行動ではなかったが、アルコールに身を任せる人間も珍しくない時間帯。誰もそれを気に留めなかった。
「クルディは攻撃しようとしていた。演出を超えた、本物の優劣を決めるための一撃を、ツェツェグさんに放とうとしていた」
 投げ捨てられた紙カップを踏みしめて行進しながら更に続ける。
「その理由は明白、実力に劣る相手に演出という名のもとで負けなければならない屈辱。優れたトレーナーであればあるほど、それによるストレスは甚大。仕事を失うよりも、優先すべきプライドを彼らは持っている」
 道端に捨てられていた、まだ中身のあるミルクティーを蹴飛ばす。幸いにも人にかかることはなかったが、内容物の歯ごたえのある炭水化物が散らばって、それを見ている人間が顔をしかめる。
「ツェツェグさんは優しすぎる。もう少し厳しい人ならば、単純な実力だけではなく、人間としての厳しさを持っていれば、その格を持ってして抑え込むこともできたかもしれない。だけど、あの人は優しすぎる。あの優しさは、悪意に飲み込まれる」
 ふと、イトウは足を止めて今まで来ていた道を振り返った。
 ミルクティーを蹴飛ばしてしまったことに気づいたからではない、人混みの中、自分と歩調を合わせているような足音と気配を感じたからだ。
 だが、彼の視界に入るのは繁華街を行き来する人々の波のみ。
 イトウは首をひねり、そして、少しばかりの恐怖を覚える。彼は自分の感覚を疑わない。
 まるでちょっと気がそれたような雰囲気を演じつつ、イトウは再び歩みをすすめた。







 ホウエンの陸を作ったとされる伝説のポケモン、グラードンが描かれたカップ、キャラメル味のポップコーンを小脇に抱え、イトウは再びサーカスに訪れている。
 リピーターを飽きさせないためだろうか、最初に見た演目と比べればテンポも演出を少しずつ変化させられている。
 空中ブランコでは一度失敗風の演出があったし、綱渡りでは渡りきった後に後ろ向きのままもう一往復するサービスもあった。
 少女と踊るリオル達の一匹は、少女が背を向けているうちに勝手にルカリオに進化し、振り返った少女を驚かせる――最も、イトウはそれがメタモンの変身によるものだと理解することができたが――
 間抜けなピエロは友達であったはずのテッカニンを猛獣使いのツンベアーと交換し、意気揚々と自分を肩車するように命令するが、人からもらったポケモンであるツンベアーは当然言うことを聞かず、無視をしたりそっぽを向いたり昼寝をしたり。終いには昼寝の邪魔をしたピエロが怒り狂うツンベアーから逃げ回って舞台からはける。
 一旦舞台から誰もいなくなり、誰もがメインイベント前の休憩かと思っただろう。それはイトウも同じで、少しばかり緊張しながらもポップコーンを口に放り込む。
 だがその瞬間、ガラクタが崩れる音がしながらピエロが舞台裏から飛び出してくる。その後にはツンベアー。
 まだその寸劇が続くのかと思われたその時、同じく舞台裏からザングースとクルディが現れ、ツンベアーを追い回す。
 体格としては半分ほどのザングースを相手に、ツンベアーは甲高い鳴き声を上げながら逃げ回る。
 ピエロを追っかけ回していたツンベアーが、ザングースとクルディを怒らせた。これほどまでにわかりやすいストーリーがあるだろうか。それも、あれほど巨大で強そうなツンベアーが逃げ回るような相手だということも知らしめることができる。
「なるほどなあ」と、イトウは驚きのあまり気管に入ったポップコーンに咳き込みながら涙目になってつぶやいた。この時点では、クルディとザングースに不穏な動きはない。
 ついにピエロとツンベアーが追い詰められた。彼らは涙目になり身を震わせ、お互いの両手をつないでザングースたちを恐れている。
 そのあからさまな命乞いに絆されることなく、ザングースが右腕を上げる。
 その時だった。舞台裏からどす黒いヘドロばくだんが打ち出され、ザングースに直撃する。
 白い体毛を黒々しく染め上げたそれを鬱陶しそうに拭い去るザングースの前に、ハブネークが立ちふさがる。
 そして、ピエロとツンベアーを守るようにツェツェグが立つ。
 ザングースとハブネークがにらみ合い。その向こう側からクルディとツェツェグがにらみ合う。ピエロとツンベアーはそのスキに二人三脚のようにドタバタと舞台から逃げ出した。
 司会も音楽隊もいない、にらみ合いだけが舞台を支配している。
 否、そうではない、にらみ合いの中に、いくつもの小さな駆け引きがある。そして、それを主導しているのはクルディとザングース。
 まただ、と、イトウはそれを眺める。演出を無視した勝つための技術をクルディは見せている、不意に相手を刺し殺すための刃を、ちらつかせては鞘におさめる。
 先に動いたのは、否、動かされたのはツェツェグの方。微妙な間合いを嫌った彼女は、ハブネークを突っ込ませる。
「無謀だ」と、イトウは思わず叫んだ。それは周りの観客をその世界観に巻き込む演出として作用する。
 その立ち回りは火に飛び込むようなもの、人間の感情に疎いイトウは、その理由がわからない。
 ツェツェグはそれに期待していた。自らより格上になったクルディが、なりふり構わぬ自分の突撃をどういなそうとするのか、それを楽しみたかった。
 狙いすました噛み砕く攻撃をザングースは紙一重でかわす。そしてハブネークの喉元を爪で切り裂く。
 頑丈な鱗を持ってしても、その攻撃には耐えられない。ハブネークは地面をのたうち回る。
 ザングースは再びブレイククローで追撃を狙うが、その攻撃は空を切る。
 空振った先に待ち構えていたのは、ハブネークの口だった。
 次の瞬間、ハブネークの口から放たれる火炎放射。サーカスで火を吹くのは太った火吹き男だけではない。そのハブネークも、奇襲攻撃としてそれを習得していた。
 ヘドロばくだんで付着した毒液がよく燃えるのだろうか、今度はザングースが火達磨になり地面をのたうつ。
 畳み掛けるようにハブネークが毒突きで攻撃。
 ようやく火が消えたザングースは、焦げて縮れた体毛を一つ爪ではらってから再びハブネークと向き合う。
 ハブネークは蛇睨みの体勢を取る。相手を麻痺させ、戦いを有利にすすめるつもりだ。
 あっ、と、イトウがつぶやく。
「火傷だ」
 イトウの言葉通り、ザングースは先程の火炎放射で『やけど』状態になっている。つまり、ハブネークの蛇睨みは効果がない。
 だが、それに誰も気づかない。優れたトレーナーであるはずのツェツェグですらそれに気づいていない。
 ザングースが麻痺したと思い込んでいるツェツェグとハブネークは、追撃を疑わない。
 迫るハブネーク、その時、ザングースは小さく動く。
「空元気」
 イトウが技名をつぶやいた。絶好の行動、たとえやけど状態であろうと、空元気の攻撃は威力を発揮する。
 その次の瞬間の悲劇を彼は予測する。
 しかし、それは起こらなかった。
 ザングースはその動きを止め、ハブネークの尻尾の攻撃を受け止める。
 サーカスのテント全体を揺らす地震攻撃は、ザングースを戦闘不能にするのに十分だった。
 動かぬザングース、それをくり抜かれたきのみに戻すクルディ。
 ツェツェグの戦いを称賛する観客の拍手の中、イトウは額に手を当て「助かった」と漏らす。
 最後の最後、ギリギリのところで、クルディは演出の中に身を戻した。またも刃は鞘に収められたのだ。
 だが、それもいつまで持つかわからない。クルディの不満は、近いうちに爆発するだろう。
 イトウは舞台をあとにしようとするクルディを見つめる。
 その時だった。
 不意に観客席を見回したクルディと、目が合った。彼はこの広い観客席の中からその卓越した視力によってイトウを見つけ出した。
 そして、彼は思いっきりイトウを睨みつけたのだ。
 それは、人間の感情に疎いイトウでも理解することができる、露骨なまでの敵意だった。







「なぁ、ロビィ」
 タマムシマンション六階、どちらかといえば神経質よりのイトウも十分に安心するほどのセキュリティを備えたその部屋で、イトウはある程度安心しながら、コーヒーを蒸らしている。
「今日、僕はツェツェグさんにすべてを話そうと思うんだ」
 太陽の光をいっぱいに浴びたきのみがいっぱい載せられた最近話題のタルトケーキを切り分け、石像の前に備えてから、イトウが言う。
「そりゃ僕だって一応人間なわけだからさ、こういうことを告げるのは気がひけるというか、罪悪感を感じるよ。一応僕だって人間なわけだしね。ツェツェグさんはいい人だし優しい人だと思う。レストランでの前払いもきっちりこなしたし、年下の僕に上から物を言わない、何より笑顔がいいしね」
 イトウはカップにコーヒーを入れ、それも石像の前に備えた。
「多分、この結論は彼女が望んでいるものじゃない、さすがの僕もそれくらいはわかる。だけど、僕はそれを言わなければならないんだろう。不思議だね、例えば自分を強いと思っているおじさんに、あなたは弱いですよと言うことに抵抗を感じたことはないのに、そのおじさんを強いと信じていた子どもたちがその時に見せる落胆の表情は、心に残るんだ。そんなときと、同じような気持ちだね」
 いつの間にか消えているタルトケーキの皿を引き戻し、もう一切れ備えて続ける。
「だけど、クルディは危険なんだ。自分が強いことは理解しているけど、その強さをどう使えばいいのかわかっていない、そんな手合いだ。彼女だけでなく、僕にも危険が及んでいる。あのとき彼が僕を睨んだ目を見たかい? このマンションがオートロックじゃなかったら、今頃は僕も切り裂かれてたかもしれないね。少し前に、後をつけられていたような気がするんだ。もしあの爪で切り裂かれたら大変だ、僕は君たちと違ってポケモンセンターで直ぐに回復というわけにはいかないんだ」
 余ったタルトケーキを一口かじり「すごくうまい」と一言、コーヒーを啜って続ける。
「僕はこういう感情が大嫌いだ。僕は本当のことを言っているだけなのに、まるでみんな僕が悪いかのように言う。でも、仕方のないことなんだ、仕方のないことなんだと思うよ」
 彼はすっくと立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ着替えてくるよ。果たしてこの着替えに意味があるのかどうかは、まだわからないけどね」







 タマムシシティの二等地に店を構える他地方料理のレストラン『BUONO!!!』は、本格的な地方料理をそれなりの値段で楽しめることで有名だった。歴史的にその地方の料理はカロス料理のベースになったとも言われ、その中に歴史を感じることだってできる。
 現れたツェツェグは、やけに上機嫌だった。無理もない、十年近く目をかけてきた姉弟のような存在が、自分自身を超えた強さを身に着けたのだというお墨付きをもらったのだから当然だ。
 それに対して、イトウは暗く沈んだ気分だった。それもまた当然、むしろ、自分が出したその結論を目の当たりにして、ツェツェグの上機嫌がどうなるかを想像しただけで胃液を戻してしまいそうになる。
 ツェツェグはイトウがあまり人間との会話を得意にしているわけではないことも忘れて次々に話題を降る。イトウもなんとかそれに答えようとするが、人間の社交性というものはポケモンの進化のように一晩二晩でどうにかなるものではない、当然ちぐはぐになるが、ツェツェグは気にしない。



 イトウがようやく重い腰を上げて硬い口を開いたのは、メインディッシュ格の肉料理が下げられてからだった。
「仕事の話です。僕の結論を言います」
 やはりイトウらしく、早口で不躾な切り出し方だった。
 ツェツェグは沈黙をもってその次を促す。少し目線を下げているイトウを不思議に思っていた。
 一口だけコップの水で口の乾きを癒してから、イトウが言った。
「これ以上、クルディと対戦するのは危険です」
 その言葉に、ツェツェグは首をかしげる。
「どうして?」
「クルディは、何度もあなたを倒そうとしています」
 あはは、と、ツェツェグは笑った。
「それは同然ですよ。私達が決めているのは最初と結末だけで、あとはアドリブなんですから」
「ですから、今の所彼はその演出に則って最後の華をあなたに持たせています。ですが、すでにその対戦の中で何度も勝利に対する悪意ある『欲』をちらつかせているんです。それを理性で抑え込んでいるから、いつもの動きにはならない。あなたが彼に感じていた違和感は、そのようなものだったんです」
 一拍おいてさらに続ける。
「実力であなたを上回っているという自負は、いつか必ず爆発します。おそらく近いうちに、彼は演出を超えた悪意ある攻撃をあなたに放つでしょう。だから危険なんです」
 イトウの見解にツェツェグは笑いを引っ込めて、静かに考え込んだ。とても信じられないような理屈だった。
 やがて彼女は口を開く。
「それは、間違いないのですか?」
 イトウは自信満々に答える。
「間違いありません。僕が見た二度の演目の中でさえ、彼は何度もあなたを叩き潰そうとした。それは悪意以外にありえないでしょう」
 彼女がそれに何も答えないのを確認してから続ける。
「それに、おそらく彼は僕の存在に気がついています。二度目の見学の時、彼は観客席の中から僕を見つけ出し、睨みつけました。彼は僕に敵意を持っているでしょう」
 二人は沈黙した。その重苦しい空気を感じているのだろう、給仕はデザートのメニューを聞けずに困っている。
 やがて、ツェツェグが口を開く。
「演目は中止できません。私のピークも長くなく、クルディは今からピークを迎える大事な演者です。仮に彼が私に悪意を持っていたとしても、それは絶対に」
「しかし……」
「そもそも、彼が私に悪意を持っているなんて、信じられませんし、信じたくもありません」
「ですが、彼があなたを倒そうとたのは事実なんです。あなただって、僕の『目』を信じて依頼したわけでしょう? 僕の『目』を信じてください」
 その意見にも一理はあった。ツェツェグは再び考え込む。
 そして、次に彼女が提案したのは、全く違う方向からのものだった。
「私がさらに強くなれば問題ないんでしょう?」
 それは、ある意味理想的な回答のように思えた。クルディの悪意ある攻撃を彼女が察知し、捌き切ることができるようになればなんの問題もないのだ。
 ツェツェグも、その発想が素晴らしいことだと確信していた。それに、そうするための努力を惜しむことはないという自信もあった。
 だが、イトウはそれに首を振る。残酷なことに、それは、イトウが最も得意としている仕事、彼が最もクライアントに突きつけ続けてきた宣告だった。
「駄目です。あなた達は今以上に強くはなれません」
 もし、イトウにもう少しだけでいいから他人を思いやる気持ちがあればそのような物言いにはならなかったはずだし、イトウがもう少しだけでいいから仕事に対してだらしなければそのような物言いにはならなかった。もっと言えばイトウがもう少しだけでいいからツェツェグに対して悪い感情を抱いていれば、もっとテキトーなことを言ったかもしれない。
 だが現実では、イトウは人の気持ちがイマイチわからないし、イトウは仕事熱心だし、イトウはツェツェグに悪い感情は抱いていない。
 三つ重なったその最悪のシチュエーションは、ツェツェグがそれ以上の会話を拒否するのに十分なものだった。
「今日は失礼させていただきます」
 急にかしこまったツェツェグは、不気味なほど静かに立ち上がりながらそう言った。
「後払いのことはまた連絡します。サーカスあてに請求書を送ってもらっても結構です」
「そうですか」と、イトウは背を向けつつあったツェツェグに向かってつぶやいた。なんの思いもなかった。ただただ、仕事をしただけ。
 彼女が店の扉をしめてから、まだ若い女性の給仕が足早にイトウのテーブルに近づく。
「あの……いいんですか?」
「何が?」と、イトウは水で口の乾きを癒しながら聞き返す。
「お連れの方」
「ああ、いいよ。あの人とは仕事上の付き合いだから、難しい交渉事が決裂して、ご破綻になった。そんなに珍しいこと?」
 いえ、と、表情を引きつらせながらそこから去ろうとした給仕を捕まえて、イトウはデザートの注文をした。



「なぁ、ロビィ」
 デザートの到着を待ちながら、イトウは虚空に向かってつぶやいた。周りの客が自分に注目したことも、彼はどうでもいいと思っている。
「僕だってさ、嫌われようと思って嫌われてるわけじゃないんだよ」
 のどが渇いたが、水を飲む気になれなかった。死のうと思っているわけでは無いが、積極的に生きたいと願っているわけでもない。
「そりゃ僕だってさ、みんなと仲良くなれたらと思うよ。自分の能力だって誰かを助けたいし感謝されたいしあわよくば誰かと仲良くなるために使えたらいいと思っているんだ」
 はぁ、とため息をつく。
「だけどうまくいかないものなんだよね。僕がこの能力を使えば使うほど、誰かが悲しんで誰かが救われなくて誰かが僕を嫌うんだ」
 返答を待たない、どうせ返答なんか有りはしないのだから。
「どうすれば良いんだろうね、僕は」
 ちょうどその時、独り言をつぶやくイトウを少し恐れながら、給仕がデザートを運んできた。
 どうせ美味いかすごく美味いかしか無いんだろうな、と思いながら、イトウは礼を言ってそれを受け取る。
「あるいは、全く味がしないかだ」
 つぶやいてスプーンを口に運ぶ。
 案の定、味はしなかった。







 レストラン『BUONO!!!』を後にしたイトウを待ち構えていたのは、フードをかぶった褐色肌の少年だった。二等地らしく薄暗さの残る路地に、たった二人で向き合う。
 フード越しに見えるその目には、イトウも見覚えがあった、サーカスで感じたあの敵意そのもの、それが、より距離を近くして自分を睨んでいる。
 当然、イトウはそれをまずいとは思っている。だが、もうどうしようもない。逃げれば追ってくるだろう、逃げ切れてもまた追い回してくるだろう。サーカスはまだこの地域で一月ほど興行を残している。ベストはこの場をしのいでしばらく身を潜めることだろうが、サーカスの団員相手に、逃げ切れるとは思わない。
「いくつか、聞きたいことがある」
 少年はフードを上げて言った。やはりサーカスで見た男、クルディだった。
 多少片言の残る言葉だったが、あまりにも鋭く自身を睨むその視線に、イトウは気圧される。
「あんた、何なんだ?」
 イトウはなんとかその威圧に負けないように頑張りながら答える。
「僕はイトウ、ポケモンコンサルタントをしている」
「コンサルタント、ねぇ」
 クルディは鼻で笑う。敵意に嫌悪感がプラスされている。
「で? ツェツェグさんとはどんな関係なんだ?」
 予測できた質問だった。イトウは強く答える。
「それは答えられない」
 クライアントの情報を漏らすことはできない。やはりイトウは仕事に真面目。
「なるほどね、まぁ、だいたい予測はできるけどよ」
 クルディは続ける。
「あんたがツェツェグさんと二人で店に入ったのは確認してんだ。で、どうしてツェツェグさんだけが先に出てきたんだ?」
「それは、あの人が先に帰ったからだ」
「じゃあ、どうしてあんたはそれを追わなかった? 普通、連れの女が早足で店を出りゃ、男も追うもんだろうが。ガキの俺にだってそのくらいのことはわかる」
 その言葉は、イトウにとって予想していないことだった。そのような発想、彼は欠片も持ち合わせていなかったし、今この段階でもそれをしなかったことを後悔することはない。
 なぜならばそれは。
「そういう関係じゃないから」
 イトウは何気なく、むしろなんの問題も無いだろうと思って発したその言葉に、クルディは目を見開き、わかりやすく激昂した。
「クソが」
 きのみをくり抜いた簡易的なモンスターボールからザングースが繰り出される。
 イトウは人間の気持ちはイマイチわからないが、ポケモンの気持ちならば痛いほどにわかる。彼もまた、わかりやすく激昂している。
「少し、痛い目見やがれ」
 ザングースが一気に距離を詰め、右手を振り上げる。
 本当に切り裂くつもりはないだろう、だが、言葉通り、多少痛めつける意図はあるかも。
 イトウは、右手を動かす。
「ロビィ!」
 ゴージャスボールから繰り出された石像が、ザングースと相対する。
 イトウ唯一の手持ち、ロビィことロビンソン。珍しい特性『ダルマモード』を持つヒヒダルマは、サイコキネシスでザングースの腕をコントロール、僅かだが軌道をそらして空振らせる。
「こんなことをして何になる!」
 ロビィことロビンソンの背後に隠れながら、イトウは叫ぶ。
「君がツェツェグさんのことをどう思っていようと、僕には関係のない話だろう! こんなことをされる覚えはない!」
 これがまたよろしくない。
「切り裂け!」
 ヒヒダルマを出したところで、クルディが怯むわけではない、否、むしろ全力で攻撃することのできる標的が現れたことにより、クルディも、そしてザングースもより渾身の攻撃を放つことを躊躇わない。
「守る!」
 ヒヒダルマは再びサイコキネシスで力の壁を作り出してザングースの斬撃から身を守った。もうほんの少し反応が遅れていれば、そしてもうほんの少しヒヒダルマの力が弱かったら、その壁ごと切り裂かれていただろう。
 クルディはフラストレーションをためていた。敵意を持っている相手が自身の攻撃をうまくいなしているのだから。それも当然だ。
「クソ野郎め」と、吐き捨てるように言った。
 普段のイトウならば、そんなことを言われることもあるよね、とそれを流していたかもしれない。だが、傷心状態の彼にとって、そのなんでもない罵倒の言葉は、物心覚えてからこれまで、数えるほどしか怒ったことのない彼を怒らせるのに十分だった。
「なんだと!」と、イトウは怒鳴る。
「黙って聞いてれば好き勝手言いやがって! 元はと言えば君が彼女に対する気持ちをはっきりさせないのが悪いんじゃないか!」
 その言葉と、震えながらも怒鳴り上げるイトウに、クルディは一瞬言葉を失い、そして、顔を少し赤らめた。
「もう怒った! 行くぞロビィ!」
 その掛け声とともに、ロビィことロビンソンはダルマモードを解除して普通のヒヒダルマに戻る。
 クルディはそれを見て少し感心した、強そうな見た目に申し分ないヒヒダルマだった。
 だが、それも一瞬。戦闘態勢の二匹のポケモンとトレーナー、次の瞬間は想像するまでもない。
「ブレイククロー!」
「しねんのずつき!」
 共に出した指示は相手を叩く直接攻撃。
 両者が相手の懐に潜り込むために足に力を込める。
 だが、その寸前。
「火炎放射!」
 一筋の炎が、両者を分かつように放たれた。
 それに驚いた二人がその方を見ると、そこにいたのはハブネークと、顔を赤らめたツェツェグだった。
「あんたら、何やってんの!?」
 二人のやる気が一旦削がれたのを確認してから、ツェツェグがそれぞれを見やって叫んだ。
 勢いに任せて店を出た後、二等地の立ち飲み屋で故郷のアルコールを摂取しながら管を巻いていれば、突然直ぐ側で喧嘩騒ぎ、何だなんだと足を運んで見れば、そこでは知り合い二人が何故か臨戦態勢。彼女がそう言うのも当然である。
「助かった……」と、イトウは呟く。
 一旦は怒りに身を任せてみたものの、やはりこういうのは向いていない。止められてラッキーだったと思う。
 だが、クルディはそう思っていないようだった。
 彼は身を震わせ、両手の握りこぶしをわなわなと震わせている。
 そして「姉さん!」と一つ叫んで、右人差し指でイトウを指差し、公衆の面前の前で叫んだ。
「こんな男のどこが良いんだ!?」
 三人の中に沈黙が流れる。
 イトウはその意味がわからない、ツェツェグもその意味がわからない。
 クルディは二人の困惑の沈黙の意味がわからない。やがて彼はその困惑の沈黙の理由が自身の『勘違い』にあることに気がついて、先程とは比べ物にならないほどに顔を真赤にしてうつむいた。
 ツェツェグもなんとなくその言葉の意味も理解し始めていた。だが、やはり彼女には困惑がある。
 イトウには未だにわからない。
 イトウのパートナーであるロビィことロビンソンが、もし人間と同じように喋ることができたらこう言うだろう。
「もうええわ」







「なぁ、ロビィ」
 タマムシマンション六階、持ち主であるポケモンコンサルタントのイトウは、その日はやけにご機嫌だった。
「はっきり言って、今回の騒動は僕が初動を間違えたのが大きな原因の一つだろうと思う」
 壁にかけられたいくつものジャケットとネクタイを見比べながら、下着姿の彼は小さなテーブルの向こうにある石像、ダルマモードのヒヒダルマに向かって言った。
「つまるところ、クルディがツェツェグさんに抱いていた感情は悪意でも敵意でもない、好意だったわけだね。それも愛情というとびっきりの」
 彼はまるで自分がそれの当事者であるように体で震わせて続ける。
「彼は彼女を愛していた! けれども相手は自分をまるで家族のように扱う。彼はそのような彼女に愛情を覚えることに戸惑い、恥じてもいた!」
 ふんふんと鼻歌を歌いながら、ワイシャツに腕を通す。
「例えばはるか海の向こうのある部族の中では、唇や耳に穴を開けてそこに入るお皿が大きければ大きいほど美人であり、結婚するに値する女性とみなされる。それはなぜか、そのような女性は人攫いに攫われないからだそうだ」
 妙に血なまぐさいトリビアを披露しながらボタンを締める。
「クルディが生まれた地域では、男は戦って勝利することで伴侶を手に入れる文化だったらしい。つまり彼らにとって男を退け続けている女性、強い女性はそれだけで美人の象徴であり、結婚できる男性は尊敬の目で見られるそうだ。まあ文化的な背景の是か非かを論じてもしょうがないし、そもそもクルディが故郷にいた期間は人生の中で短いし、何よりそもそもツェツェグさんは世界標準的に美人だから。そういうものが当てはまるのかどうかはわからないけど、まあ、愛しちゃったんだから仕方がない」
 ご機嫌にネクタイを締める。
 ロビィことロビンソンはその間もダルマモードのままそれを聞くだけだ、捉えようによっては冷たい相棒だと思われるかもしれないが。表情もなく、視線も動かないダルマモードのほうが、イトウの口がよく回ることを彼はよく理解している。楽な姿勢ではないが大好きな甘味を備えてもらえるので悪い気はしないのだ。
「さて、だ。そんな彼からして、憧れの女性を食事に、はては高い三ツ星レストラン『L'Arc-en-ciel』に連れて行った……正確には連れて行ってもらったわけだけどそこは置いといて。つまり彼の目に僕はどう写ったのかという話だよ。そりゃあ怒り狂うだろうし、僕に対して敵意も持つだろう。僕だってそうなると思う、そこで僕のあの返答だ、そりゃああなるよ」
 選びぬいたスラックスに足を通す。
「とにかく、彼は戦いの中で彼女の一枚上を行って、自分が一人前の男だとアピールしたかったというわけさ、ところが演出の中でそれをするわけにはいかない、その葛藤の中で、違和感のある動きをしてしまったということだね。ところが、僕はその葛藤を悪意のあるものだと思ってしまったわけ。彼らがピュアすぎるのか、僕が汚れすぎているのかはわからないけど、まあ、僕はこれまでこの仕事で人間の汚いところを見すぎていたのかもしれないね。だけどしょうがないじゃないか、こんな仕事で、こんなにも素晴らしい瞬間に出会えることがあるなんて想像できるかい!?」
 興奮してまくし立てながら、彼は壁にかけられていたジャケットの中で最も右端のものを選んで羽織った。
「ロビィ! これでいいかな!?」
 反応を示すために一旦ダルマモードを解除したロビィことロビンソンは「まあ悪くはないんじゃないの」と薄く反応する。
「じゃあ、一緒に行こう。今日は楽しい『後払い』の日だ」
 イトウはゴージャスボールを手にとった。







 ヤマブキシティの外れの外れ。
 薄汚れた小さな引き戸を開けると、団体の客は保証ができない程度の広さに、中年の女性一人が切り盛りする地方料理屋が現れる。
 引き戸を開いたイトウを出迎えたのは、奥の席に並んで座るツェツェグとクルディだった。
「やー、どーもどーも!」
 この一連の騒動についてあまりにも興奮しているイトウが適切な挨拶も忘れてズカズカと入店する。全体的に飴色のシミが多いその店に、彼の決めまくったスーツは不似合いだったが。今更そんなこと気にはしない。
「こんばんわ! その説はお世話になりました!」
 クライアントであるツェツェグも適切なテンションを忘れて挨拶を返す。
 唯一冷静に見えるのは苦虫を噛み潰したような表情のクルディだけであったが、彼はあのようなことがあった以上どのような顔をしてイトウと向き合って良いのかわかっていないだけで、彼も決して冷静ではない。
「食事の前にこれを」
 イトウは持ってきた紙袋から果実酒の入ったボトルを二本取り出す。
「これ、お二人の誕生した年に作られた果実酒です。クルディくんが酒を飲めるようになってから楽しんでください。よければ、信頼できる保存業者を紹介しますよ」
 わーすごい、と嬉しげにそれを手に取るツェツェグと、なんとも言えぬ表情と小声で礼を言うクルディ。
 後のクルディとイトウは定期的に連絡を取り合う大親友となるのだが、それはまた別のお話。



「今日は私のおごりですから。どうぞお腹いっぱい食べてください!」
 テーブルの上に並べられた料理を前に、ツェツェグがイトウに言った。
 彼女の気前が異常に良いわけではない。それはイトウが依頼主に求める『後払い』の一部だった。
『クライアントが最も美味しいと感じる料理をご馳走する』
 それがイトウが求める後払いの一部だった。
 別にそれでその人のすべてを知ることができるわけではない、だが、食というものは、人と違うイトウが唯一人と共有できる価値観だと彼自身が思っている。
 故に今日訪れた地方料理屋は、ツェツェグの故郷の料理を提供する店だった。
 カントー民からすれば一癖も二癖もありそうな料理を前に、イトウは嬉しげに笑う。そりゃそうだ、彼の味覚には『美味い』と『すごく美味い』の二つしか無いのだから。
「そういえば」と、ツェツェグが言った。
「あの後サーカスのみんなにこの話をしたんですけど、みんな驚くんですよ。まさかバレていないとでも思っていたのかって。誰でもわかるよそんなことって言われちゃいましたよ」
 その言葉に、クルディは顔を赤くして目を伏せる。
 話によれば、クルディがツェツェグに好意を抱いていることは、サーカスの中で公然の秘密となっていたらしい。それに気づいていなかったのは、当事者であるクルディとツェツェグのみ。
 サーカスの仲間たちは、クルディの違和感には気づかなかったが、おそらくその正体のようなものを問われればすぐにその答えを答えることができた。だが、それを自分たちが言っちゃあ意味がない。
「そうこうしているうちに、ツェツェグさんが僕に依頼してしまったと」
 ところがこれが途中までは最悪の一手、なぜならば愛情というものにいまいちピンときていないイトウはソレに気づけなかったし、彼女も年の離れた弟のように思っていた少年を男としては見ていなかったのでソレには気づかなかった。
 つまりそれは、鈍感な女性と鈍感な少年の間に起きているトラブルに、同じく鈍感なイトウが巻き込まれた形だったのだ。
「まあでも、結果的には良かったじゃないですか」
 そう、結果としてそれは良かったのだ。
 あの時あの状況でああなってしまえば、クルディは玉砕覚悟でツェツェグに告白するより無かったし、ツェツェグはクルディの違和感の正体に驚きこそすれ、彼が自分に向けていたものが悪意ではなかったことに安心し、それを受け入れた。
 イトウはその光景に面食らいながらも、自身が恋のキューピットになったことに彼ら以上に喜んだ。終わってみればみんな幸せ、紆余曲折あったが、最後にはみんなが笑顔だ。
「いやぁ」と、イトウが笑う。
「この仕事、嫌なこともいっぱいありますけど、続けててよかったですよ」
 極端に上がったテンションそのままに、彼は水の入ったグラスを掲げる。
「それでは、この素晴らしい出会いに、お水で乾杯!」
 慌ててそれに合わせたツェツェグとクルディのグラスに、袖が濡れることも気にしないほどの勢いでガツンガツンと自身のグラスをぶつけた後に、彼は目の前の料理を一口放り込む。
 クライアントの故郷の味がする。
「すごく美味い!」と、彼は笑い、ゴージャスボールに入る相棒、ロビィことロビンソンも「じゃあよかったんじゃないの?」と呆れて笑った。