マインドショック!

『Avant-Title』





 一生のうちの最後にして最大のビッグステージは葬式だ。そんなことを最初に言ったのは誰だろうか。

 タチワキシティの町はずれにある葬儀場。今日のプログラムは大女優のパートナーポケモンのビッグステージ。あいにくの雨にもかかわらず、多くの人やポケモンが参列している。本日の主役でもあるエモンガは、祭壇の上で花のスポットライトを浴びるかのようにニッコリと笑っていた。祭壇には白や黄色の花が飾られており、この会場がエモンガの最大にして最後のオンステージであることを強調している。
「最近、容態が急変したんですって。タマゴが見つかった後、って聞いてるわ」
「もともとリンパ腺が弱かったんでしょう? かわいそうに……」
 参列者の何人かがかわいそう、とかお気の毒に、とか涙声で言葉を並べる。しかし、この場で一番悲しみに暮れているのは、エモンガのトレーナーにして大女優のマイヤだ。これまでエモンガと一緒にいろんな役になっては笑い、怒り、泣き。スクリーンの外でも苦楽を共にしてきたマイヤの涙が、演技によるものではないことは誰が見ても分かる。
 エモンガの眠る棺にすがるように泣きじゃくる母の姿を、マドカは不思議そうに見つめていた。ママのエモンガが天国に行ったということは聞いてはいるが、5歳のマドカにはことの大きさがまだ理解できていない。
 マドカの父・ハッサクも映画監督という立場から、参列者の何人かから挨拶を受けている。「この度はお悔やみ申し上げます」という言葉を受け取りながら、涙を堪えているために目を細めていた。
 ハッサクが応対している傍らで、マドカは椅子の上に置かれているタマゴをつんつんと突いていた。ハッサクのパートナーのメタモン・タロッコもタマゴが気がかりなのか、ぴっとりと寄り添っている。寄り添うというより、張り付いていると言った方がメタモンらしいかもしれない。
「ねぇ、パパ。このこのママ、てんごくにいっちゃったの?」
「マドカはずっと、そのはなしばっかりだね」
 ハッサクを見上げながら、マドカは尋ねる。兄・コウジが同じことばかり言うのに飽き飽きしているのも、お構いなしだ。悲しそうに目尻を垂らしながらハッサクは答えるが、その声は子ども達の前で悲しみを堪えるかのように震えていた。
「……そうなんだ。これから生まれてくるはずなのに、ママがいないなんて。このタマゴのポケモンも、寂しくなっちゃうよな」
 ハッサクの返事を聞き、マドカはタマゴのポケモンのことをかわいそうに感じた。自分だったら、大好きな家族がいなくなるようなことがあれば、耐えられないだろう。だったら、誰がタマゴのポケモンのママになれるの? 親になって、そばにいることができるの?
 そう思うと、マドカの口は勝手に動いていた。
「だったら! あたしがそのこのママのかわりになる! そしたらさみしくないよね?」
 食いつくようにタマゴを見つめながら、マドカは高らかに宣言する。その声は会場全体に響き渡っており、参列した関係者や葬儀場の職員がどよめくほどだった。大衆の視線を気にかけず、ハッサクはマドカを二度見ほどする。娘はいい加減な気持ちで、タマゴのポケモンをお世話すると言っているのではないだろう。しかし、まだ学校にも上がっていないマドカに、ポケモンのお世話という『生命を預ける役割』を担わせてもいいのだろうか。
「えー、マドカにポケモンのおせわできる?」
 コウジは半信半疑で目を細めており、ハッサクも即答できずにいる。「できるもん」とアピールするマドカだが、不安が残るのも事実だ。そんな時、後ろから鼻声になった女性の声が聞こえてきた。
「マドカ。その子はあなたに任せるわ」
 マイヤだった。目元を真っ赤にし、泣き疲れてフラフラした足取りで、マドカ達のもとに駆け寄っている。歩いている途中でバランスを崩したところをハッサクに支えられながらも、マイヤは顔をしっかりマドカに向けていた。
「あなたにとって、はじめてのパートナー……お世話してくれる?」
 ママが大事にしていたエモンガの子ども。マドカからすれば、断る理由などない。ポケモンのお世話の手はずは、ハッサクやマイヤの姿を見ていたから、ある程度は分かっていたつもりだ。何より、ママのパートナーの子どもを自分がお世話できるという、そんな特別感を子どもながらに感じていた。
 迷いなく自分達に笑顔を向けるマドカが、とても頼もしく感じる。明るい性格の我が子なら、マイヤのエモンガの忘れ形見を大事にすることができるだろう。ハッサクとマイヤは、そう確信した。マドカがそこまで言うのなら、コウジも止める理由がない。
「うん! あたしにまかせて! だいじにそだてるから!」

 同じ頃。外は雨が上がり、灰色の雲がかかった青い空に虹がかかっていた。マドカと初めてのパートナー、新しいコンビの物語が、封切りされた瞬間だった。





『Cut1.Changing Our Minds!』





 タチワキシティにあるプレイヤ学園。演劇や芝居の文化が盛んなイッシュ地方有数の、演劇科がある学校だ。演劇業界人の卵達が業界で輝くために、この学園で毎日切磋琢磨している。とりわけ最も人気の専攻は、ポケウッド俳優の専攻コースだ。ポケモン達と息の合った演技をこなした時の達成感に、憧れる生徒はとても多い。
 マドカもまた、この学園の中学2年生。かつての母のようにイッシュ中を感動の渦に巻き込む銀幕スターになるために。そして父が指揮を執る映画にいつか出演するために。そんな目標を立てながら、日々演劇の勉強や稽古に励んでいる。
 だが。

「なぁあああああぁい! ない、ない、ない! なんでぇ!?」
 楽屋中にマドカの叫び声がエコーする。ツインテールを振り乱し頭を抱えているマドカの動きは、周りにいる生徒やポケモン達がドン引きするほど激しい。手のひらに『人』の字を書いて飲み込む生徒や、ウォーミングアップとして肩を回すポケモン達が自分のことをそっちのけで注目している。
 今日は中学2年生を対象に、年に一度のビッグイベント・演劇テストが行われている。本物のポケウッドのスタジオを借りて、映画の撮影現場を体験するという課外授業の側面もあるこのテスト。生徒とそのパートナーポケモン達は、この日のために血のにじむような努力をしてきた。そんな日に限って、マドカは焦りで顔が耳までかぁっと火照っている。手提げをひっくり返しても、マドカの探し物はかくれんぼを続けていた。
「アキヨちゃん、アキヨちゃん! あたしの台本、間違って持ってない?」
「えぇ? 持ってないけど……。マドカちゃん、もしかして台本なくしたの?」
 困った顔をしたアキヨの問いに、マドカはヘドバンのごとく首を縦に振って肯定する。セーラー服の襟が乱れているのも気に留めていない。マドカの返しに、アキヨは「あちゃー」と声を落とした。
「でもどうするの? 今日のテスト、学園祭の製作映画の主演かかってるんだよ?」
 おっとりした口調でアキヨは続けるが、その言葉はさらにマドカを追い詰める形になる。焦りメーターMAX、こんらん状態。せっかく今日のために主演を目指して練習してきたのに。このテストで学園祭の主演をもぎ取れば、成績にも大きく影響するのに。このままでは努力が全て水の泡だ。きっと今、マドカの頭の中をパカッと箱のように開いたら、「困惑」の2文字で埋め尽くされているだろう。
「エモッ!」
 マドカの頭が何かでペシン、と叩かれた。「いったーい!」と頭を押さえながら、マドカが自分の目線より少し上の方を見上げると、目つきの悪いエモンガが1冊の本を手に握って宙に浮いている。ジト目でマドカを見下ろすエモンガは、手に持っている本をマドカの鼻先に突き出した。
「ちょっとライム! それはハリセンじゃないんだよ、大事な台本なんだよ!」
「エモッ、エモエモッ!」
「もう、これじゃあコメディアンだよ」
 エモンガをライムと呼びながら、マドカは口をコダックのように尖らせた。
 マドカのパートナーポケモンでもあるエモンガのライム。マドカが5歳の時にタマゴから孵って以来の付き合いにはなるが、こうしたやりとりは日常茶飯事だ。ドジで抜けているところがあるマドカを、ライムがすかさずフォローする。ちょっとトゲトゲしい性格のライムに、マドカは対等に噛みついてしまう。
「フーちゃん、また始まったねぇ。マドカちゃんとライムちゃんのやりとり」
「こじょぉ」
 アキヨはコジョフーのフーちゃんを抱きながら、マドカとライムのやりとりを眺めていた。アキヨとフーちゃんも、マドカ達のこのケンカを見るのは慣れっこ。一見、どっちが『おや』か分かりやしないが、見ていて面白いというのもまた事実。まるで人とポケモンの漫才を見ているかのようだった。
 アキヨがマドカ達に感じるその魅力は、一見いがみ合っているこのコンビの掛け合いが、妙に息が合っているところにある。ケンカするほど仲がいい、とはこのようなことを言うのだろうか。
「何してるんですか? 騒々しいのあなただけですよ?」
 そこへ嫌味たらしなセリフと共に姿を現したのは、クラスの学級委員長。丸いメガネと長く伸びた黒髪が、いかにもな真面目ちゃんオーラを放っている。パートナーポケモンにはトゲキッスを従えており、よく育てられているように見える。力強い眼差しとキッチリ整えられた毛並みが、委員長そっくりだ。ウマが合うのかもしれない。
「い、委員長。ごめんごめん、なくしものしてて、つい……」
「親の七光りだからって、安心してはいけませんよ?」
 マドカはポケウッドでも有名な人物達との間に生まれた子。それゆえに、他の生徒から嫉妬の目で見られることも少なくない。小学校の時は周りの友達から「マドカちゃんのパパとママはすごい」とよく言われていた。ところが学年が上がるにつれて、マドカのことを腫物に触るかのように扱う級友が増えてきた。特に中学2年生ぐらいになると、ちょっとでも他の生徒よりも一歩先を行くようなことがあれば、悪い意味で目をつけられる。
「そう言ういいんちょさんは、すごく落ち着いてるね。緊張しないの?」
 マドカと古くからの付き合いのアキヨは、委員長のような嫌味な態度を面白くなく感じている。実際、おっとりした口調はそのままにアキヨの目は笑っていない。フーちゃんも主人と同じ気持ちなのか、委員長に対してかくとうワザをお見舞いできるように構えている。
「私はパートナーとの演技に自信がありますから。凸凹サラブレッドコンビのあなた達とは違って。アキヨさんも生徒会の副会長なのに、のっぺりしてますよね」
 ベトベターの『ねんちゃく』よりもねっとりしている委員長の言葉。自分だけならともかくアキヨまでバカにするような言い方に、さすがのマドカもカチンときた。顔を強張らせ委員長に詰め寄る姿は、楽屋の空気を一気に凍り付かせる。他の生徒やポケモン達が、一斉にマドカと委員長に視線を集めた。
「委員長、アキヨちゃんにまでその言い方はどうなの?」
 薄桃色の唇を固く結んで、真正面から委員長と対峙するマドカ。テスト前にドンパチするのはよくないと分かっていても、今はそこまで冷静になれない。アキヨは「ま、マドカちゃん」としどろもどろになっている。
 ライムはというと、一緒に噛みつくこともなければ止めることもしない。よく言えば見守り、悪く言えば他人事のようだった。幸か不幸か、楽屋には教師達もおらず、止めようとする者が誰もいない。生徒達もポケモン達も、『きんちょうかん』で硬直する他なかった。
「次の人ー、私の出席番号の次の人ー」
 この緊迫した空気を打ち破るかのように、1人の女子生徒が楽屋に戻ってきた。ギアルをパートナーとして引き連れている彼女は、テストを終えてきたのだろう。
「……私の番なので、失礼」
 幸いにも、次のテストは委員長の番。委員長はそれだけ言い放つと、楽屋を後にした。扉を閉めるバン、という破裂音のような音が、クラスメイト達を萎縮させる。それでも、息苦しさはだいぶ緩和されたと思われた。証拠に、生徒達の気の抜けたような声があちこちから聞こえてくる。
「なんなのあれ」
 マドカは扉に向かって眉をひそめる。「いいの、いいの」とアキヨになだめられるも、本心では納得できていない。ぎゅっと握りしめた台本の用紙が、マドカの握力でシワを作っている。
 ライムはというと、気が抜けたように溜息を楽屋の床に吐き出すが、内心では複雑な気持ちを抱えていた。

 凸凹サラブレッドコンビ。そんなことを最初に言いだしたのは、誰なんだろう。マドカはともかく、自分は亡き母の血を全然引き継いでいないのに。







 マドカは親の仕事の都合や、趣味や勉強で映画を見るためにポケウッドには何度も立ち寄っている。しかし、ここで芝居をするのは他の生徒達と同じで初めてだ。親の七光りだの、サラブレッドだのと言われてはいるが、みんなと同じで緊張する。だが、それと同時にワクワクするのもまた事実だ。間近で両親が映画の仕事を楽しんでいる姿を見てきているからこそ、映画って楽しいものなんだと頭にインプットされている。
 とはいえ、緊張を紛らわすためにジュースでも飲んでおきたいところ。マドカは手荷物から財布を持って楽屋を出ていく。ライムもあの楽屋に1匹取り残されるのも気まずいと思ったのか、ふよふよとマドカの後を付けていた。
「よっ、マドカ」
 自販機までたどり着き、飲み物を選んでいるところ。誰かが背後からポンとイヨの肩をたたく。びっくりしたようにマドカが振り向くと、ネイビーのブレザーを身にまとった男子生徒がそこにいた。肩の上には、少し目が垂れているメスのピカチュウ。髪をワックスでふんわり固めている彼の顔立ちは、少しだけマドカに似ている。
「お兄ちゃん! スダチちゃんも、何でここにいるの?」
 兄・コウジが「ライムもお疲れさん」と、わしゃわしゃとライムの頭を撫でてやる。相変わらずエモンガらしからぬ不愛想な顔をしているが、ライムはコウジのことは嫌いではない。むしろ気配りができるコウジは、マドカよりも好感が持てるくらいだ。
 脚本家を目指すコウジも、この学園の生徒。1学年上で専攻コースも違うコウジが、何故ここにいるのかマドカには疑問だった。
「生徒会長の仕事。学園祭の特別講師、今年は『侵略者』の脚本家呼ぶことにしてるからその挨拶」
「去年はパパが来たんだよねー、懐かしいなぁ」
「2年生は今日が学園祭の主演決めるテストか」
「そうなんだよー、もう緊張」
「祭りのことで頭がいっぱいになるのも分かるけど、せっかくのポケウッドのスタジオだから。この空気を楽しんでこいよ」
「ピィカ!」
 スダチなるピカチュウも、気難しい顔をしているライムに視線を送る。ポケモン語で激励を送っているのだろうか。顔色ひとつ変えないライムの気持ちを知ってか知らずか、スダチは困ったように微笑んでいる。
「それと、ライムのこと、ちゃんと気にかけてやれよな」
「気にかけてるもん!」
 そう言い残して去っていくコウジとスダチを、マドカは頬を膨らませて見送る。その顔はまるでプリンみたいにプリプリしており、ライムからしたらちょっと面白かった。フンとライムが鼻で笑っているのに気づいたマドカは、瞬時にライムに向き直る。
「あーっ! あたしのこと鼻で笑ったでしょ! その癖やめてってば!」
 マドカにとっての不安材料があるとするならば、ライムのことだ。毎日のようにケンカして、凸凹コンビなんて言われて。悔しいが、ポケウッドという観点で見ると委員長とトゲキッスのコンビの方が向いている。ウマが合って、仲が良くて、息もバッチリで。その点でいうと、自分とライムはこの上なくポケウッドに向いていない。
 それはライムも同じ気持ちだった。自分はあれこれと考えて行動しているのに、マドカときたら一度決めたら勝手に突っ走る。おまけにうっかり屋。コウジはああ言っていたけど、お互いのことを意識しながら芝居するなんて、絶対ムリ。
 1人と1匹の凸凹コンビは、不安な気持ちを抱えながらテスト会場へと足を運んだ。







 テスト会場には受験者とパートナーポケモン、そして採点者である教員が3人ほど、向かい合わせに対峙している。しぃんと静まるスタジオの空気は、生徒やポケモン達の胃をじわじわ痛めつけるようなものだった。
 マドカは気持ちを落ち着かせるように、もう一度軽く深呼吸する。ライムはというと、緊張のあまり深呼吸の仕方も忘れ、完全にスタジオの空気に飲まれてしまっている。思わずチラリとマドカの方を向くも、マドカは案の定ライムを気にかけるようなそぶりはない。ライムのことなど見ちゃくれず、目の前のテストにのみ向き合っていた。
 助けを乞うような視線を送るライムをよそに、マドカは教師達に向き直る。そして、腹の奥から台詞を並べ始めた。
『Why won't you understand? You're special to me!』
 流暢な発音のそれは、マドカの演技力によって説得力を増している。立ち振る舞いも、先ほどまでのドジっ子マドカとは全然違う。スッと伸びた背筋にきめ細やかな挙動ひとつひとつが悲しげに、でも力強く訴える少女そのものだった。親の七光りとは関係ない、彼女の努力の結晶であることは、教師達も見抜いている。
 これが本物の映画であれば映えていただろう。しかしこのテストにおいては、マドカの芝居は悪い意味で浮いてしまっている。
「……エ、エモ……」
 ライムは深く考えすぎてしまうその性格から思い切りが足りず、ハイレベルなマドカの芝居についていけなかった。それでもマドカはお構いなしに芝居を進めてしまうものだから、コンビネーションが歪なものになってしまう。いくら優秀な生徒でも、ポケモンのことを気にかけられないようであればポケウッドじゃなくてもいい。
 ガチガチになっているライムの姿は、マドカの神経を逆なでさせる。芝居に集中しつつ、マドカは目力でライムに訴えた。
(何してんの、ライム。萎縮しないで、もっとあたしについてきてよ!)
 その視線が、まるでマドカに責められているかのように感じて。思わずライムは萎縮した。分かってはいるけど、自分をさらけ出すことが怖い。どうしよう、どうすれば。
 そう思っていると、ふとガタガタという音がライムの耳に飛び込んでくる。音のする方__上に視線をやると、いくつかの照明が揺れるように動いているではないか。照明達の動きはさらに激しくなり、今にもこちらに落ちてきそうだ。照明の位置を目で追うと、ちょうどマドカの頭上にビンゴする。
 このままではマドカは照明の下敷きになってしまう。ライムの小さな身体は、勝手に動き出していた。持ち前のスピードでマドカに向かって突進し、彼女を突き飛ばす。
「エモッ!」
 このライムの行動には、マドカだけでなく教師達も驚いていた。あの生真面目なライムが、思い切ったことをするものだ。演技の一環なのか、気が狂ってしまったのか、それは分からない。
「ちょっとライム! 『アクロバット』のアドリブなんて、あたし教えてな__」
 マドカが体勢を立て直していると、天井からガタガタと音を立てて照明が落ちてくる。さすがにこの距離、このタイミングでライムが逃げ切るのは無理があった。ここまで所要時間約15秒。ライムの姿は照明の山へと消えていった。
「ライム!」
 マドカの顔はサーッと音を立てるようにヒヤップ色になっている。すぐにライムを探さないと。その一心で照明をかき分け、生き埋めになっているライムを探し出す。テストは中断され、教師達はスタジオ関係者に確認を取るために動き始めた。間もなくして、このスタジオの整備に当たっていると思われる職員がずらりと登場した。ハシゴなんかも用意して、照明の調子を調べている。
「ライム、ライム! どこ? 返事してよ! 無事だよね!?」
 ライムに何かあったらどうしよう。これだけたくさんの照明の中に生き埋めになっていれば、ケガなしでは済まない。
 もしかして、お兄ちゃんの言葉をまともに受け止めなかったから。台本忘れたりなんかしたから、バチが当たったのかな。マドカの頭の中は、ライムの安否のことでいっぱいになっていた。
 しかし、その余裕のなさがアダとなる。周りに設置されているスピーカーやマイクが、宙を舞ってマドカ目がけて襲い掛かった。「危ない」と声をかけてくれた職員の言葉も耳に入っていないマドカは、構わずライムの救出を続けている。
 同じころ、ようやくマドカはごつごつした照明の山の中に、柔らかい手触りを感じ取った。間違いない、ライムだ。このまま引きずりだせば、助けられるかも。「今、助けるから」と声を荒げながら、ライムの手を引っ張ろうとするマドカ。ようやく照明達の隙間から、ライムの顔が見えたかと思ったその時。

 ガスッ、とマドカの頭に響く鈍い音。

 ビリッ、とマドカの手を通して、電気が通ったような気がした。
 全身が痺れるようで、頭がぼおっとする感覚。教師達が自分を呼ぶ声が遠のいていく。
 マドカの意識は、まるでステージの幕が降りるかのように消えていった。







 マドカがゆっくりと目を覚ますと、雪のように真っ白な天井をバックに、ぼやけた人の影が2つ見える。よく知るその姿はコウジとアキヨ。徐々にはっきりと見える2人の顔は、安心したようにこちらを見ていた。アキヨに至っては、リンゴの刺繍が入ったタオルハンカチをぐしゃぐしゃに濡らしている。彼女のつやつやした頬にくっきりと見える涙の痕は、いかに彼女が心配してくれていたかを知るにはじゅうぶんだった。
「よかったぁ、マドカちゃん! 全然起きないから心配したんだよ?」
(あ……お兄ちゃんだ。アキヨちゃんも付き添ってくれてたんだ……)
 目を覚ましてすぐ、そばにいてくれたのがこの2人でよかった。まだぼんやりとする頭の奥で、マドカはそんなことを考えていた。場所は、ポケウッド内の医務室のようなところ……といったところだろうか。
「今、先生達やここのスタジオの人が原因の調査してるところだって。テストもマドカちゃん以降の出席番号の子は、来週に延期するって」
 鼻声の説明口調で、アキヨは状況を伝えてくれる。コウジもアキヨも、今の現場の状況を的確に理解している。他の生徒よりも情報網が活発に動いているあたりは、さすがは生徒会といったところか。

《それにしても、ライムさんもアンハッピーですわ。テスト中に機材の落下に巻き込まれるなんて……》
《心配したよ、マドカちんまで頭打っちゃうし……》

  ふと、聞き覚えのない声が枕元から聞こえてくる。テレビアニメの声優のような、かわいらしいソプラノボイス。声優専攻の生徒に知り合いはいないし、クラスメイトにもこんな声の子はいなかったはずだ。横目で枕元に視線をやると、見覚えのあるピカチュウとコジョフー__スダチとフーちゃんだ。音声さえ耳に入れなければ、かわいいポケモンが2匹並んでいるファンシーな光景。しかし、マドカは目の前の2匹の姿を捉えたのと同時に絶句する他ならなかった。
(す、スダチちゃんとフーちゃんが喋ってる! なんで?)
 2匹が人間の言葉を喋っている姿が、そこにあった。吹き替え映画でも、ファンタジーでもSFでも見てるわけじゃあない。まるで人間の女の子が世間話をするかのように、何食わぬ顔でペラペラと。
「ん? どうした、マドカ。どこか痛いのか?」
(え? お兄ちゃん誰の方見て言ってるの? マドカはこっちだよ?)
 それに、コウジやアキヨの目線もおかしい。本当に“マドカに対して”会話をしているのであれば、もう少しだけ自分の方に目を向けてくれてもいいのではないか。コウジもアキヨも、まるで“マドカの隣にいる何者か”に対して話しているように見える。
 目を覚ましてから何かがおかしい。頭を打ったショックで、何かが起こっているのかもしれない。
「え……エモ……?」
 思わず漏れた言葉は、自分の声ではなかった。それどころか、いつも自分が使っている言葉ですらない。しかし、聞き覚えのある、人間のものではないこの声。何がどうなっているんだと、マドカはがばっと起き上がる。まだ寝ていなきゃダメだよ、というスダチやフーちゃんの声も耳に入っていない。ふと横を見ると、自分と同じように口をパカッと開けながら飛び起きる少女の姿。ツインテールに結われた髪が揺れている。少女と目が合ったその瞬間、マドカは息が止まるかと思った。
 よく母に似ていると言われる、ぱっちりした目。ぷにっと肉付きの良さが気になっていた頬。薄すぎずしつこくない、いい感じの厚さの唇。ケガを負ったこともあり、頭には包帯が巻かれているが、目に映る少女の全てが、自分のものだった。
「どうして、オレが、ここに……!?」
 少女はマドカの声で、絞り出すように確かにそう言った。まさかと思い、マドカは自分の身体をよく確かめてみる。ずんぐりむっくりな白い身体のあちこちには、包帯が巻かれている。ばっ、と両腕を広げると、マントのような膜。そして、意識を失う前に自分が握った小さな手。間違いなく、この身体はエモンガそのもの。周りの反応を踏まえると、結論はひとつ。

「ぎゃぁああああああぁああああ!」
「エモォオオオオオオオオオオオ!」

 状況を察した凸凹コンビは、お互いの姿を見て絶叫する。マドカであるはずの存在はライムになり、ライムであるはずの存在はマドカになっている。
 マドカとライムは、中身が入れ替わっていたのだ。





『Cut2.Pokemon's life and human's life』




「……えーと、つまりまとめると」
 夕暮れの帰り道、タチワキの住宅街。アスファルトには3つの影が並んでいる。自転車を押しながら歩いているアキヨが、こめかみに人差し指を当てるポーズを取りながらぼやいていた。
 マドカ(の姿をしたライム)は浮かない顔でアスファルトとにらめっこしており、ライム(中身はマドカ)は面白そうに宙をふわふわ舞っている。アキヨからすれば、いつもと180度違う雰囲気の凸凹コンビの姿は違和感を感じる。ただ、同時に新鮮な気持ちも芽生えたのが本音だ。
 それはコウジも同じだった。いつも穏やかな顔をしている妹が眉間にシワを寄せている姿も、気難しい性格の妹のパートナーがのほほんとした雰囲気を醸し出しているのも、変な感じがする。当事者であるマドカとライムがあれだけ驚いていたのならば、コウジ達が信じられないのも当然だ。
「マドカちゃんはライムちゃんで、ライムちゃんはマドカちゃん。2人は入れ替わっちゃったってこと? 昔ヒットした映画みたいに」
 ライムがこくこくと首を縦に振る。「マジか」とコウジは顔を引きつらせ、アキヨも「ひぇえ」と、頬に手を当てるポーズに切り替えている。
「で、でも……どうしてこんなことに……」
 たどたどしい話し方で、ライムは切実さを込めて呟いた。ただでさえ人間の身体が馴染んでいないのに、いつもとは違って聴こえる自分の言葉は慣れないものだった。
「照明が落ちたり、機材で頭を打った時のショックかもしれないな。よくアニメとかで、雷が落ちたショックで入れ替わる話とかあるだろ?」
 コウジの推測に、一同は「なるほど」と口をタマゴの形にする。頭とか身体に何かしらのショックを受けることで、魂が別の器に入ってしまった。フィクションにありがちなことだろうと考えられるのだ。ましてやコウジは脚本家志望。様々な物語のパターンをよく知っているため、憶測を立てるのが得意だ。
《そういえば、気絶する前に身体が痺れるような感覚になったんだよね。でんきワザ浴びたみたいな》
「でんきワザぁ? オレそんなん使ってねーぞ」
 マドカに応えるように、ライムは顔をしかめる。まるでマドカと会話をしているかのように見えるが、コウジやアキヨにはマドカの言葉は「エモエモ」という鳴き声にしか聞こえない。マドカ達が難なく掛け合いを見せている様子に、アキヨは目を白黒させていた。
「ライムちゃん、マドカちゃんの言ってること分かるの?」
「もともとオレはポケモンだからな。ポケモンが何言いたいのかってのは、だいたい分かるんだ」
 アキヨが感心するように両手を合わせたポーズを取る傍らで、コウジは「どんな仕組みだ?」と、興味深く首をかしげている。つまりは、マドカになったライムは人間ともポケモンともコミュニケーションを取れる、唯一無二の存在になっている。
「んで、マドカは何だって?」
「でんきワザ浴びたみたいな感覚になったんだってさ。でもオレ、そんなん使った覚えねーんだよ」 
「あ、分かった! たぶん『せいでんき』じゃないかなぁ。ライムちゃんの特性だよ」
「そうか。ダメージを受けているところに、さらにせいでんきが化学反応を起こしたってところか?」
「何だよ、オレのせいかよ」
 うがった解釈に行きついたライムは、眉間にシワをよせる。とてもではないが、年ごろの女の子がするような顔には見えない。慌ててコウジとアキヨはなだめ、弁解しようとするが、ライムの機嫌はそう簡単に直らない。
「まぁまぁライム。あくまで推測だから、悪かったよ」
 ライムははぁ、と溜息を地面に吐き捨てる。「あたしの顔で顔芸しないで」とせがむマドカの声が聞こえた気がしたが、気に留めることはなかった。
 分かれ道になり、アキヨが自転車に乗り込む。家はマドカ達とは別の方にあるようだ。「私も力になるからねぇ」とニッコリ笑ったアキヨは、フーちゃんを自転車のカゴに乗せると、帰路へと向かっていった。アキヨの姿が見えなくなるのを確認すると、マドカ達は再び家へと足を運ぶ。人間がポケモンになり、ポケモンが人間になった今、どうしていけばいいんだろうか。ライムは不安に暮れながらも、コウジを見上げる。
「んで。どーするよ、これから」
 一方、ライムとは対照的に、マドカはこの短時間ですっかりエモンガの身体をエンジョイしている。空中で一回転しながら、ケロッとした様子でライムに答えた。
《どうもこうもないよ、元に戻る方法探そうよ!》
「いやだから、それって具体的に何なんだよ。不思議パワーみたいなやつか?」
「よくマンガで、入れ替わった時と同じシチュエーションを再現するやつあるだろ? あれやればワンチャンあるんじゃね?」
 そこに目を輝かせて食いついたのはコウジ。今回のような入れ替わり騒動も、数あるストーリーのパターンとして嗜んでおり、まるで尻尾を振るかのようにワクワクしている。ただ、同じシチュエーションを再現するということは、マドカとライムからすればつまり。
「ふっざけんなよ! また照明の生き埋めになれってのか!?」
 ライムが口から火を噴く勢いでツッコむ。また生死の境をさまようような目に遭うなんて、溜まったもんじゃない。ぷんすかしているライムをよそに、マドカが「あっ」と何かを思い出すように目を見開く。
《そうだ、あたし昔映画で見たことあるよ! 中身を入れ替えるポケモンの話!》
「あー、マナフィの映画のやつか。でもマナフィって、イッシュじゃ見かけないんだよなぁ」
 そう言いながら、コウジはスマートフォンから検索サイトにアクセスし、『マナフィ』と検索をかける。検索結果のトップに上がっていたマナフィのネット辞典にアクセスすると、マナフィの写真だのデータだのがまとめられたページが開いていた。マドカもライムも、スダチまでもがキノのスマートフォンに食いついている。
 確かにマナフィは、その頭の触覚に不思議な力を込め、ポケモンや人の心を入れ替えるという。ただ、マナフィの存在が確認されたのはシンオウ地方。イッシュでは見つかった例はない。
 コウジは素早い指の動きで、今度は地図のアプリを開く。親指と人差し指を物をつまむように動かしたことで、世界規模の地図が見えるようになった。
「ここがイッシュな。んで、この海挟んだここが、マナフィが発見されてるシンオウ地方」
「遠ッ」
 イッシュ地方とシンオウ地方は、海だけでなくアローラ地方や日付変更線も挟んでいる。まず移動だけで丸一日はかかることを覚悟した方がいい。思わずライムが声を上げてしまうのも、自然なことだ。それにマナフィは幻のポケモンと言われており、お目にかかるのは難しい。マナフィを探すだけで、長い時間がかかってしまうだろう。
 今の状況は『打つ手なし』と言っても言い過ぎではない。これからどうしていけばいいのだろうと、さすがのマドカも肩を落とす。一同は途方に暮れながらも、自分達の家にたどり着いていた。
 玄関をくぐると、ほんのりと温かく、まろやかな匂いが出迎えてくれる。この匂いはクリームシチューだろう。
 リビングに顔を出すと、マイヤが鍋の前に立っている姿があった。9年前に女優を引退したというのに、その美貌は衰えていない。映画監督を務める父・ハッサクもお膳立てを手伝っている。作り置きされたサラダを食卓の真ん中に置き、家族全員分のスプーンやフォークをきれいに並べていた。
「マドカ、コウジ、おかえり。今ご飯できたところよ。ライムちゃんとスダチちゃんの分もあるわよ」
 はーい、と生返事をしながら、コウジは手を洗うために洗面所に向かう。コウジが洗面所を使い終わるまで、ライムはリビングのソファに座り、待つことにしたのだが。
「ちょっとマドカ! 頭ケガしてるじゃない!」
 案の定、マイヤが素っとん狂な声を上げて駆け寄ってくる。そりゃあかわいい自分の1人娘が頭に包帯を巻いて帰ってきたら、ビックリするものだろう。むしろマドカとライムからすれば、マイヤの声とムンクの叫びのような顔にビックリしたのだが。
 オロオロとするマイヤの肩をポンと叩き、落ち着かせたのはハッサク。ポケウッドが仕事場ということもあり、今日の事故の情報も入ってきているのだろうと、マドカとライムは推測する。
「今日、私の仕事場とは別のスタジオで、照明が落ちてくる事故があったんだって。原因調べてもらったんだけどさ、エスパータイプのワザによるものだったみたいだよ」
 トレーナーもちゃんと、ポケモンを見ていて欲しいわとマイヤは顔をしかめる。
 一方のマドカとライムは揃って目を見開いていた。自分達がこんな目に遭った原因は、事故じゃなくて故意に行われた事件かもしれないというのか。これは今日の夜か明日にでも、生徒会のコウジやアキヨにすぐに相談しようと、すぐに判断した。







 食事の時間。マドカもライムもそれぞれ、慣れない食事を取ることとなる。食卓の上にはマイヤ特性のクリームシチューとサラダ。ライム、スダチ、タロッコの目の前にはポケモンフーズ。
《へぇ。ポケモンフーズってこんな味がするんだ》
《マイヤ様特性のポケモンフーズは、わたくし達業界ポケモンの栄養バランスも考えられていますのよ》
 ポケモンフーズを手づかみで、がつがつと食べるマドカ。ポケモンフーズを食べるのは生まれて初めてだが、想像以上にとてもおいしい。まろやかなのに、しつこすぎず舌がよく受け付けてくれる。食べれば食べるほど、もっと食べたくなるような魅力的な味だった。マイヤの料理はいつもおいしいが、まさかポケモンのご飯までクオリティが高いとは。自分の母ながら、マドカは感激する。
 一方のライムは、お膳立てされたスプーンをじっと睨みつける。今まで食事といえば手づかみだったライムは、食器の使い方を知らない。スプーンの使い方を堂々と聞くこともできず、どうしたものかと心の中で頭を抱えていた。
「……おい、マドカ。スプーンってどうやって使うんだよ」
 どうしようもなく、ライムは声をひそめてマドカに尋ねる。スプーンの使い方も知らないのかと、マドカはめんどくさそうにライムを見上げていた。
《えぇー。あたしがいつも使ってるの、見てないの?》
「そこまでいちいち気にしてねぇよ!」
 ライムは思わず、食卓をバンと叩く。その反動で、スプーンやフォーク、皿がガシャンとなる音が響き渡った。ライムと向かい合わせに座っていたマイヤは、大きな目をさらに丸くしている。穏やかとはいえ、思春期の娘がいきなり大声を上げるものだから、何があったのだろうと心配になる。
「マドカ、どうしたの? 大声出して」
「あっ、いや、なんでも……」
 しゅんとちいさくなりながら、ライムは再び席に着く。「しかたないなぁ」とマドカはめんどくさそうにつぶやくと、声を潜めてライムにアドバイスを送った。
《そしたら、パパとかママとか、お兄ちゃんが食べてるの見てみなよ》
 不服ながらも、ライムはハッサクやマイヤ、コウジのスプーンの扱いをよく観察してみる。おぼつかないが、なんとかライムはコウジ達の真似をして、シチューをスプーンですくう。ジャガイモとブロッコリーを同時に口に放り込むと、とろりと野菜達が口の中でとろけた。身も心もあったかくなるこのシチューは、マイヤの真心が込められているのが分かる。ちょっと得した気分かも、なんてライムが思っていると。
「さぁ、あなたも召し上がれ」
 マイヤはもう1匹分のポケモンフーズを、写真の前に手向ける。写真の中に写っているのは、ライムによく似たエモンガの姿。マイヤの横顔は、少し悲しそうに微笑んでいた。
「……あれ……」
《ライムのお母さんだよ。ライムが生まれる前に、死んじゃったけど》
「分かってるよ、そんなん」
 ライムはちぎったパンを口に放り込みながら、ぶっきらぼうに応えた。オレの顔で、そんな憂いた顔すんなよ、なんてことをマドカに思いながら。
 見慣れた居間には、ライムによく似たエモンガと、若かりし頃のマイヤが並んでいる写真が飾られている。ハッサクが指揮を執った映画の、舞台挨拶の時の写真まである。ハッサクは今もなお、数々のヒット作を生み出し続けているが、マイヤは表舞台から一線を引いている。
 パートナーが死んだことをキッカケに、マイヤは女優業を引退していた。







「マドカ、マドカ! 起きろってば!」
 マメパト達のさえずりが聞こえてくる朝。ライムはベッドで寝転んでいるマドカを揺さぶったり、彼女が抱いている枕を引っ張ったりしている。この時のライムは、パジャマ姿で寝癖まみれだ。オロオロと焦る様子のライムだが、マドカは気に留めずに枕によだれなんかも垂らしている。
《えぇー……。あと10分だけぇ、10分ルールぅ……》
「んなこと言われても! オレ、人間の髪の毛のセットの仕方とかわかんねぇんだよ! 助けてくれって!」
《ママにやってもらってよぉ……。ご飯になったらまた起こしてぇ》
 そんな感じで、ライムは慣れない人間の生活に悪戦苦闘していた。特にマドカは女の子でもあるため、身だしなみや仕草、振る舞いにも気を遣わなければいけない。入れ替わりのことを知っているのは、コウジとアキヨ、そのパートナーのスダチとフーちゃんのみ。誰振り構わず助けを求めるワケにもいかなかった。
 ただ、学校生活の方がライムにとっては苦しい。字の書き方から読み方、授業で当てられた時、何て答えればいいのだろうか。マドカに直接聞けば早いのかもしれないが、授業中にポケモンに話しかける生徒もそうそういない。
「マドカちゃ……じゃなかった、ライムちゃん。人間の授業とか大丈夫そう?」
 業間休みになるたびに、アキヨが声をかけてくれる。ぐったりと机に突っ伏しているライムを心配そうにのぞき込んでいるものだから、ついついライムもアキヨにすがりたくなってしまう。マドカもマドカで2回ほど、ポケモンだけで受けなければいけない授業に駆り出されたりもしていた。そこではコジョフーのフーちゃんに助けられ、何とかやり過ごしている。
「字の書き方は、昨日コウジに教えてもらったけど……。まだ『漢字』とか『筆記体』は自信ねぇわ」
「そしたら、今日の放課後に生徒会室においでよ。これからのことも相談できるんじゃないかなっ」
「アキヨぉ……お前ほんと優しいなぁ」
 追い詰められているときほど、周りの優しさが胸に沁みる。アキヨみたいなトレーナーがパートナーだったら、普段の苦労もちょっとは違っていたのだろうか。なんて、ライムは頭の片隅で考えていた。
「ところで、マドカはどうなんだよ。ポケモンだけの授業、ついていけてるか?」
《それがさぁ、マドカちんめっちゃ呑み込み早くて! 他のポケモン達からも「いつものライムじゃなーい!」って驚かれていたんだよ》
《えっへん! でも、フーちゃんの教えもあったからだよ。ホント助かった!》
 フーちゃんの言う通り、マドカは呑み込みが早い。芝居に関しても堂々としており、ポケモンになってもなんだかんだやっていけるんじゃないかとは、ライムも思っていた。だが、自分はこんなに苦労してひぃひぃ言ってるのに。安心した気持ちと複雑な気持ちが、ライムの中でぶつかり合っていた。







 放課後。マドカとライムはアキヨに連れられて、生徒会室を訪れていた。既にコウジが生徒会長用の机に書類を広げて待っている。ノートや筆記用具を机の上に広げながら、ライムは早速と言わんばかりに、コウジとアキヨに昨日聞いた話を告げた。
「昨日、ハッサクさんが言ってたんだ。照明落ちてきた原因の捜査してたら、エスパータイプのワザによるものじゃねーかって」
 それ、本当? とアキヨはシャーペンをカチカチとノックさせながら驚いている。アキヨも思うことは同じ、あの照明落下は誰かの意思で起こった可能性が高い。
「それなんだけど、実は監視カメラの映像見せてもらったらやべーことが分かったんだ」
《お、お兄ちゃんいつの間に!?》
 机に両肘をつき、口元で指を交差させるポーズを取りながら一同に告げるコウジ。マドカもライムもアキヨも、思わずガタッと席を立って驚きを現している。フーちゃんに至っては、どういうことだとコウジに詰め寄っていた。一同が言葉を失う中、スダチが得意げに補足する。
《コウジ様は生徒会長にして、ハッサク様の長男ですわ。権限さえ使えば、ポケウッドの監視カメラのひとつやふたつ、見せてもらえますのよ》
「これがその映像なんだけどよ……これ、これ。この白いポケモン」
 そう言いながら、コウジはスマートフォンを机の上に置き、ひとつの動画を再生した。ハッサクに見せてもらったと思われる監視カメラの映像を、カメラのムービー機能でさらに撮影したものだろう。一同が目を凝らして動画を食いつくようにみていると、白くて大柄なポケモンが両目を光らせ、スタジオの照明に細工をしている様子がバッチリ映っていた。おそらく、このワザは『サイコキネシス』。ハッサクが言っていたエスパータイプのワザという言葉と一致する。
 そして、この映像に映っているポケモン。腹の方に、赤や青の模様が点々と浮かんでおり、両腕は羽根のようになっている。それは、マドカ達にとってはあまりにも馴染みがありすぎるポケモン。アキヨが真っ先に声を上げ、ポケモンの種族名を口にした。
「えっ、トゲキッス!?」
「さらにあの日、ポケウッドにいたのは中学2年生のポケウッド俳優の専攻コースの生徒だけ。その中でトゲキッスを連れたトレーナーは、1人だけ該当した」
「生徒会長、それってまさか__」
「ああ。お前達のクラスの委員長だ」
 ようやくこの事件の犯人を突き止めた。しかも因縁のある相手。犯人が分かれば、あとは倒すなりなんなりして制裁を下せばいいのみ。ライムはそう思っていた。
「だったら、委員長をコテンパンにしてやればいいってことか?」
《うーん、それはどうかな》
 そこに、否定するような言葉を投げかけたのはマドカ。怪訝な顔をしたライムは、彼女に向き直り、続く言葉に耳を傾ける。
《確かに委員長は苦手な相手だけど、コテンパンにするのって違くない? それで元に戻るワケでもないっしょ?》
 確かにマドカの言うことも一理ある。あくまで委員長は、マドカとライムのテストを妨害し、入れ替わりの遠因になっているに過ぎない。入れ替わったトレーナーとポケモンを元に戻す力を持っているワケではないのだ。言葉が分かるスダチとフーちゃんは、マドカの言い分に「あー」と声を落として納得していた。
「なんだよ、マドカ。せっかくコウジが犯人突き止めてくれてるのに、何もしねぇのか?」
《いやだって、コテンパンにしてどうすんの。あたし達の目的って、元に戻る方法探すことでしょ?》
「でも、今回の件のカギになってるのは間違いなくあいつだよ。ちょっとは何か変わるかもしれねぇだろ?」
「ちょ、ライムちゃん。落ち着いて落ち着いて」
《マドカちんも、いつも以上にカッカしてるけどどうしたの?》
 アキヨとフーちゃんが、マドカ達の間に入って仲介しようとする。しかし親友の声も、今のマドカとライムには届かない。
《変わんないって言ってるじゃん。なんでライム、そんなに短絡的なの? いつもはうざいくらい細かいのに》
「そういうマドカこそ、なんでそんなにドンパチするのにビビってるんだよ? コシヌケかよ?」 
 もしかしなくても、2人ともいろんなことが立て続けに起こっていて、ピリピリしているのかもしれない。アキヨやコウジは客観的に見てそう思った。ライムは明らかに焦っているのが分かるし、マドカにしても、表に出さないだけで慣れない身体の生活にストレスが溜まっているのだろう。お互いに自分でいっぱいいっぱいになっていた状況が、まず味になっていたのだ。
 とうとうマドカとライムの言い争いはエスカレートし、2人は声を荒げている。コウジとアキヨには、マドカが何て言っているのかを確実に読み取ることはできないが、悪化していることが分かるのは一目瞭然だった。そしてとうとう、ライムは最後の切り札ともいえる言葉を、マドカに言い放ってしまう。
「マドカのわからずや! どこへでも行っちまえ!」
《もういいっ! ライムのバカ!》
 マドカは捨てセリフを吐くと、生徒会室の窓から外に出て飛んで行ってしまった。アキヨが「マドカちゃん」と窓から見を乗り出して呼び止めるが、広い空を目で追う中で見失ってしまった。マドカは親友が心配になり、「探してきます」とだけ告げ、フーちゃんを引き連れ生徒会室を出て行ってしまった。
 しぃんと静まり返る生徒会室。ライム、コウジ、スダチの間には、気まずい空気が広がるのみだった。






(なんなの!? ライムのバカバカッ! 委員長にモノ申しに行ったら、ライムが危険な目に遭うの、分かってないの!?)
 心の中で暴言を吐き続けながら、マドカは学園内をさまよっていた。マドカからすれば、委員長は嫌味キャラ。今ここでドンパチを繰り広げても、嫌な思いをしたり傷つくのはライムになってしまう。散々ここ数年で他の生徒からの悪意を向けられてきたマドカだからこそ、ライムには同じ思いをして欲しくないと思っていたのに。
 そう思いながら地団駄を踏んでいるマドカに、ひとつ、忍び寄る手があった。
 手はマドカの襟首をひっ掴み、マドカがスッポリ入るくらいの麻袋に彼女を詰め込むと、学園内の物陰へと駆けて行った。
「た、大変……!」
 その様子をバッチリと目に焼き付けているのは、アキヨとフーちゃん。すぐにライムに知らせないと、とライムを探すために引き返した。




『Cut3.You're special to me』





「おかえり、マドカ」
 マイヤにただいまも言わずに、ライムはスクールバックを床にドサッと置く。はぁ、とわざとらしく大きな溜息を吐くと、ライムは居間のソファに倒れこんだ。クッションに顔をうずめると、マドカとのやりとりが映画のワンシーンのようにフラッシュバックされる。
 マドカの態度は、ライムからすればやきもきするようなものだった。かと言って、マドカも全く不安がなかったワケではないだろう。それなのに、半ば八つ当たりのような形であんなことを言ってしまって。思い出せば思い出すほど、ライムは自己嫌悪と後悔の念に駆られていた。
「もぉんもん」
 ハッサクのパートナー・メタモンのタロッコが、どうしたのかとこちらにすり寄ってくる。ライムからしたら、実の父にあたるタロッコ。今はマドカの姿でも、こうして心配してくれることが嬉しかった。
 マイヤも我が娘の異変に気付いたのか、食器洗いから手を止める。濡れた手をタオルで拭きながら、顔を上げようとしないライムのもとへ近づいていく。
「どうしたの。ライムも一緒じゃないの?」
「……」
「何かあった?」
 なかなかライムは口を開こうとしない。だが、マイヤになら、自分の本心を打ち明けてもいいような気がして。クッションから顔を放し、ライムはマイヤを見上げる。この優しく穏やかな微笑みなら、きっと自分の気持ちを分かってくれるんじゃないか。そう思うと、ライムの口は勝手に動いていた。
「ケンカした。ひどいこと言っちゃった。どこへでも行けって」
 ライムの声が震えているのが、マイヤにもよく分かる。吐き出すように告げられたライムの言葉を、マイヤは驚きもせずにうなずきながら受け止める。泣きそうになるのを堪えるかのように、ライムは続けた。
「そんなこと、思ってもいないのに……」
 どうしてまたケンカしてしまったのか、マイヤは敢えて聞かなかった。それでも、どこへでも行け、という言葉がライムの本心ではなかった。それだけは明らかに分かる。マイヤはライムをぎゅっと抱きしめると、頭を優しく撫でてやった。その温かさに、ライムは涙が溢れそうになる。入れ替わってから張り詰めていた気持ちが、すうっと解けていくかのようでもあった。
「つい言っちゃったのね」
 こくこくとライムはうなずく。長年連れ添っているパートナーであっても、だからこそ、上手くいかないこともある。今まさに、その上手くいかない時期に直面しているマドカとライムに、今こそ伝えるべきだ。マイヤはマドカの目を自分に合わせると、静かに話し始めた。
「ママもね。ライムのママとはしょっちゅうケンカしてたのよ」
 えっ、と思わずライムは声を落とす。大女優と言われていたマイヤでも、そんなエピソードがあったのか。
「お芝居の意見が合わなかったり、ライムのママが寝坊して撮影に遅れて、パパに頭を下げたり……。あ、ママの大好物のビレッジサンド、勝手に食べたこともあったわ」
 オレの生みの親って一体。謎のベールに包まれていた親の裏の姿を知り、ライムは思わず顔を引きつらせる。マイヤはライムがドン引きしていることに気が付いたのか、くすくすと鈴のような声で笑う。そして、遠い目をしながら「でもね」と前置きをして続ける。
「その分、何度もケンカしても、同じ数だけ仲直りもした。だって、ママにとって“特別”なパートナーだったんだもの」
 特別。
 その言葉は、ライムに強く響いてきた。ただの仲の良し悪しでは測れない、特別な関係。それがパートナーなのだと。同時に、ますます自分とマドカはどうなんだろうという気持ちがふつふつと込み上げてくる。
「あんなに、息ピッタリって言われてたのに」
「マドカ。息がピッタリだから、いつも仲良しなワケじゃない。いつも仲良しなパートナーなんて、きっとどこにもいない」
 マイヤは続ける。
「だから、パートナーは代わりがいない、“特別”な存在なの。お互いの目を見て、思いをぶつけ合うこともパートナーのたしなみ」
「それが、相手を傷つけることになったとしても……?」
「傷つき、傷つけ合いの連続よ。それができる相手って、なかなかいないでしょう?」
「うん……」
「マドカとライムもそうだと思うわ。だから、この前お互いを助けるために、2人そろって大ケガなんてしたんでしょう?」
(あ……)
 ようやくここで、ライムはマドカが自分のことをどう思っていたのか、気付くことができた。最初からそうじゃないか。自分が生まれてすぐ、お世話をしてくれたのはマドカだったのは今でも覚えている。小さいときから、ずっと一緒にいて、ケンカもしたけど、すぐに仲直りできて。いつしか、一緒にいることが当たり前になっていた。
 マドカもライムも、自分達のあり方について不安を感じていた。でも答えは、もう出ていたのだ。
「それって、マドカにとってライムが“特別”だからじゃない?」
「ありがと、ママ」
 ライムはすっくとソファから立ち上がると、シワだらけになったセーラー服のスカートをきちんと直す。そして、玄関に足を運ぶ前にマイヤに向き直った。
「ごめんねって言ってくる!」
 リビングを立ち去るマドカの背中を見送り、マイヤはつぶやく。視線は祭壇のエモンガの写真に移されており、亡きパートナーに思いを馳せている。マイヤは自分の“特別”を病で失ってしまったから。だからこそ、マドカとライムにはこんな形で終わって欲しくないという思いがあったのだろう。
 だが、娘の立ち去る姿を見て確信した。あの2人なら大丈夫だろう、と。







 ライムが玄関を出てすぐ、コウジとアキヨが息を切らして待ち構えていた。ライムが姿を現したのを確かめると、飛びつくようにライムに駆け寄ってくる。
「ライム! ちょうどよかった!」
「コウジ、アキヨ! どうしたんだよ、そんなに慌てて」
「マドカちゃんがね、委員長に連れてかれるのを見たの! 袋の中に入れられてて……ヤバいかも!」
 マジかよ、このタイミングで。ライムは驚きと不安が入り混じったような顔をする。委員長は、本気で自分とマドカを仕留めようとしているつもりだ。主演欲しさにそこまでするか、と思うのも正直な気持ちだが、前々からマドカを快く思っていない彼女ならやりかねない。既に照明落下事故の前科もある。
 とにかく今は、マドカを助けに行かなければ。もとより謝りに行くつもりだったが、ちょっとばかり急ぐ必要がある。
「場所はどこだ?」
「体育倉庫! 体育委員ぐらいしか入らないのを見越して、わざとあそこ選んだんだと思うよぉ」
 分かった、と言い終えると、ライムは血相を変えて学園へと走り出した。コウジとアキヨもライムに続いていく。
 ポケモンの姿であれば、学園までひとっ飛びだろう。しかし、今は人間の少女の姿をしているライムは、走る以外の選択肢がない。
(どうして人間の足って、こんなに遅いんだよ! どうしてオレ、空飛べねぇんだよ!)
 人間であるが故の不便さを、ライムは入れ替わってから今一番呪っている。だが、ここまでマドカのために一生懸命になったことがあっただろうか。こうしてマドカのためだけに息を切らしながら走るのも、悪くない。不謹慎ながらにも、ライムはちょっとだけそんな気持ちを抱いていた。



☆ 



 学園の体育倉庫。委員長とパートナーのトゲキッスの元で、マドカは監禁されていた。身体をロープで縛られており、周りにはカラーコーンやボールボックスがバリケード代わりに囲んでいる。
 主演欲しさにここまでする子だったなんて。マドカは委員長の嫉妬の恐ろしさを痛感していた。そんなにあたしが憎いなら、その分頑張ればいいのに。でも、委員長にはそう思えるほどの器がなかったのだろう。嫉妬し、他者を傷つけることをしても、自分の実力が上がるワケではないのに。
「せっかくまとめて消そうとしたのに、しぶとく生き残るなんて。あなたのトレーナーと違って、何のコネもない私が一生報われないのは納得いかないわ」
 それを『ライムなう』のあたしに言われても。マドカは口をポカンと開けるばかり。むしろ、物理的に蹴落とすようなことしか考えられない委員長には、それ相応の結果しかついてこないのでは。そうは言わないし、言っても伝わらないと思っていたマドカだったが、どうやら顔に出てしまっていたようだ。
「何なのその顔。まるでマドカさんみたいな顔して」
 委員長はそう言うと、トゲキッスに顎で合図する。従順なるトゲキッスは、翼を手のように構え、波動の力を込め始めた。『はどうだん』だ。もしかしてこれ、はどうだんで吹き飛ばされるヤツ? マドカはぞわぁっ、と危機感を感じた。このままじゃやられる。
 そう思った時。バンと大きな音を立てて倉庫の扉が開いた。



「待てよ!」



 ドアの向こうにいるのは、自分の姿をしたライム、兄のコウジ、親友のアキヨ。そして彼らのパートナーのスダチとフーちゃん。トゲキッスはワザの構えを止め、委員長はチッと舌打ちをする。マドカは自分を助けに来てくれたんだと安心したと同時に、ライムの姿が見えたことに驚いていた。どこへでも行けって言われたし、バカって言い返したのに。それがとても、マドカにとっては嬉しかった。
「あたしの……オレのパートナー傷つけたら、承知しねぇぞ!」
 しかし、今ここでむやみに手を出せば危険なことには変わりない。ましてや今のマドカは、人質あらぬポケ質状態だ。下手に委員長に抵抗すれば、牙を向けられる可能性もじゅうぶんにある。現に委員長は、そのつもりでいるのだから。
《ライム……! 来ちゃダメ! 逃げて!》
 マドカは声を張り上げるが、もとよりライムは逃げるつもりはない。マドカに謝り、彼女を連れて帰るために来たのだから。
「やっぱりいいんちょさん、マドカちゃ__じゃなくて、ライムちゃんにひどいことしてたんだねぇ。分かりやすいよ」
「アキヨさんの突き止める力はすごい。おっとりしてるのに、侮れないな」
 コウジの賛辞にそんなことないですよぉ、と照れるアキヨ。しかしながら、緊迫した空気は依然としてキープされている。マドカは動けない状態にあり、その気になれば委員長のトゲキッスがいつでも攻撃できるようにスタンバイしている。
 どうする、ライム。今の自分にできることは何か。神経をすり減らして考えていたところ、コウジがライムの右に、アキヨが左に並ぶ。2人の顔つきはどこか頼もしく、まるで何かの覚悟を決めたかのようだった。スダチとフーちゃんも、戦闘態勢に入り闘争心をむき出しにしている。
「相棒を助け出すために戦うのも、映画のクライマックスのワンシーンだろ?」
「ここは私達に任せて。ライムちゃんは、マドカちゃんを助けてあげて」
 そういうことか。
 この入れ替わり騒動、きっと自分とマドカだけではどうにもできなかった。ここまで協力し、理解してくれたコウジとアキヨ、そしてパートナーポケモン達に力を貸してもらおう。
「すまねぇ、コウジ、アキヨ!」
 ライムは囚われのマドカ目指して走り出す。委員長もそれを黙ってみているワケにはいかず、トゲキッスを戦線に繰り出し、コウジ達と対峙する。2対1という状況だけを見れば、コウジ達の方が有利に見える。しかし、相手は執念深さで委員長の座を手にした生徒だ。手ごわい相手になることには、間違いないだろう。また、トゲキッスが戦いに臨むことでマドカの監視がなくなるが、バリケードが厳重になされている。体育倉庫の道具をふんだんに使い、簡単にマドカのもとへはたどり着けないようになっている。
『マジカルシャイン』に『10まんボルト』、『はどうだん』。強力なワザが飛び交う中、ライムはバリケードを懸命にかき分ける。ボールケースを避けて道を作ろうとすれば、あらゆる体育道具の位置がズレ、反動で上からボールや鉄のパイプが落ちてくる。上ばかりを気にしていると、今度は足元に転がっているボールにつまづきそうになってしまったり。
 それでもようやく、ライムはマドカのもとへたどり着くことができた。体育道具に囲まれる中、マドカを縛っているロープを解いてやる。ライムの太ももや手首には、体育道具をぶつけたせいか、いくつかアザができていた。
《ライム、バカなの? なんでそうまでしてあたしを助けに__》
「“特別”なパートナー助けるのに、理由なんているかよ」
 パートナー。ライムが自分のことをそんな風に言ってくれるなんて。ライムの言葉は、マドカの胸に強く響き渡っていた。ライムはロープを解き終えると、ぎゅっとマドカを抱きしめる。
「マドカ、ごめん。オレ、マドカに大事にされてるってこと、全然分かってなかった。あんなひどいこと言って……」
《あたしこそ、バカって言ってごめん……!》
 ケンカしても、すぐにまた仲直りできる関係。ぶつかり合うことがあっても、お互いを大事に思うことができる関係。それに気づけたマドカとライムは、やっと本当の意味でお互いを“特別”だと胸を張って言えるラインに立てた気がした。
 だが、ことはまだ片付いていない。戦線に視線をやると、トゲキッスが『サイコキネシス』を繰り出し、体育倉庫の備品達を自由自在に操っていた。スダチやフーちゃんにも、ラインカーの粉や跳び箱など、やっかいになりそうな道具が飛んでくる。ポケモンバトルの範疇を超えていた。
「マドカちゃん、ライムちゃん! 危ない!」
 わっ、と効果音が付くくらいに、マドカ達に体育道具が襲い掛かってくる。綱引きの綱、マット、ボール、剣道用の防具や竹刀まで。とりあえずあるもの全てを使って、マドカとライムを抹消しようという、委員長のやけっぱちさが伝わってきた。狭い体育倉庫で、マドカとライムが逃げるのはとても難しく、2人はあっという間に体育道具の生き埋めとなる。
 身体を打ち付け、息をするのもやっとなマドカとライム。薄れゆく意識の中で、2人の手と手が触れ合う。同じ頃、「そこで何をしている」という教師達の声がうっすらと聞こえてきた。バトルや道具の落下による大きな物音に気付いたのだろう。
 どんな形になるかは分からないが、コウジやアキヨが上手いことやってくれれば、委員長とのことも決着がつきそう。そう安心しながら、マドカとライムの意識はゆっくりと消えていった。

 その時。バチッ、と電気が流れた気がした。



☆ 



 頭がぼんやりとする。ぼんやりというよりも、脳がビリビリ痺れているかのようだ。ピコ、ピコと電子音が自分の脈拍を打っている。この電子音はよく知っている。自分がケガや病気をした時、いつもマドカが連れてきてくれたっけ。
(ここ……ポケモンセンターか……?)
 真っ白な布団が、自分の身体に覆いかぶさっている。薬の独特のニオイは、鼻をツンとさせるものだった。
 まるでモノクロ映画に色が付けられるように、意識を失う前の記憶がよみがえってくる。そうか、自分はマドカを助けようとして、体育道具の雪崩に巻き込まれて意識を失った。それからどうなったんだろう。
《マドカ様! 無事でよかったですわ!》
 聞き慣れた女の子らしい声が、鼓膜を破る勢いで響いてくる。声のする方を目で捉えると、安心した顔でこちらを見つめるピカチュウ__スダチがそこにいた。隣には、コジョフーのフーちゃんも一緒だ。フーちゃんもまた、ベッドに身を乗り出す勢いでこちらに迫ってくる。
《マドカちん、ここがどこか分かる? ウチらのことも分かる?》
 マドカ?
 スダチもフーちゃんも、マドカとライムが入れ替わったという秘密を共有している。そうなれば、自分のことを『マドカ』と呼ぶことはないハズなのだが。
《……オレは……オレは、ライムだぞ?》
《えっ!? じゃあ……マドカちんとライムちん、元に戻ったってこと!?》
 フーちゃんの言葉に耳を疑う。でも、もし本当にそうだとしたら。がばっと勢いのある音を立てて起き上がり、自分の身体を調べる。小さな白い手に、マントのような膜。尻尾の感覚もあるし、何より、さっきまで身にまとっていたセーラー服の感触もない。
 マジだった。ライムは元のエモンガの身体に戻っていた。ということは、マドカも元に戻っているだろう。辺りを見回してみるが、マドカの姿はどこにもない。姿が見えないだけで、ライムの胸には大きな不安がつのった。
《マドカは? マドカはどこだよ?》
 今度はライムがまくし立てるようにスダチ達に詰め寄る。ライムの発する『マドカ』という言葉に、スダチもフーちゃんもバツが悪そうな顔をする。言うか、言うまいか。でも、言わなければいけないだろう。アイコンタクトで相談していた2匹は、ライムに向き直ると神妙な面持ちをしていた。これ、いいことではないんだろうな。スダチ達の目の色を見れば、ライムもそれ相応の覚悟を持つことができた。
 スダチとフーちゃんは、覚悟を決めるようにベッドを囲むカーテンを開く。その向こう側には、人間の少女が1人ベッドに横たわっていた。点滴のチューブが、彼女の腕あたりまでつながっている。
 ベッドを囲むように、コウジ、アキヨ、マイヤ、ハッサクと、おなじみの登場人物達が勢ぞろいしていた。ハッサクの右肩には、タロッコも付き添っている。アキヨとマイヤは、ライムが目を覚ますまでにかなり泣き疲れたのか、焦燥しきっている。ベッドの中で眠っている少女は、マドカ。トレードマークのツインテールはほどかれ、枕に長い髪が広がっていた。口元には酸素マスクが被せられている。身体のあちこちには包帯が巻かれており、見ている側の方が痛々しい。
 スダチとフーちゃんの反応から、何となくそうじゃないかな、とは思っていた。だが、マドカを取り囲んで悲しそうなムードになっているこの光景を見ると、言葉を失ってしまう。
(なんでマドカが、目を覚ましてねーんだよ?)
 自分だけが助かってしまったことの罪悪感はもちろん、ライムの頭の中は「なんで」という気持ちでいっぱいになっていた。マドカの寝顔と、周りの人々やポケモン達がすすり泣く姿を交互に見るたびに、ライムの目にも涙が溜まっていた。
 ライムは未だ痛む身体を引きずりながら、マドカの元にゆっくりと近づいていく。やっとの思いで、マドカの枕元までたどり着いたライムは、すぐさま彼女に訴えかけた。
「エモ! エモ、エモ!」
 元に戻ったんだ、見てみろよ、オレの声で気付いてくれよ。ライムは声を荒げながら、マドカをゆすったりするが、目を開くことはない。なんなら、ポケモンのワザなら気付くんじゃなかろうか。ライムは尻尾を鋼のように固くすると、マドカの腕に叩きつける。『アイアンテール』は、かなり威力の高いワザだ。もしかしたら、「いったーい!」って言いながら、マドカが飛び上がるように起きるかもしれない。
「何やってんだ!」
 コウジが素早い手つきで、ライムをひょいと抱きかかえる。さすがに病人にワザを繰り出すのはマズイと思い、慌てて引き離したのだろう。放せ、放せと振り払った末、ライムはベッドに転げ落ちる。マドカは起きてくれただろうか。それを確かめるために、ライムは再び、マドカの枕元まで戻ってくる。
 その一縷の望みは、叶わなかった。
「エモ……ッ……。エモォオッ……!」
 マドカにすがりつくように、ライムは声を上げて泣いた。こんなにも感情を爆発させるライムの姿は、誰もが初めて見た。真っ白なシーツは、あっという間にライムの涙でくしゃくしゃになる。
(マドカはずっと、オレのこと“特別”って思ってくれてたんだよな。やっと、それが分かったのに……)
 コウジも、アキヨも、マイヤも、ハッサクも。彼らのパートナーポケモン達までもが、ライムにつられるように涙が止まらない。
 マドカにとって、ライムは特別だった。ライムにとっても、マドカは特別だと気付くことができた。それなのに、こんな幕引き、聞いていない。バッドエンドのエンドロールなんて、だれも望んじゃいなかった。
(オレを……ひとりぼっちにすんなよ……)
 ライムの涙がマドカの頬に触れた時。まるで反応するかのように、「うぅ」と低い声が聞こえてきた。同時にマドカが重たい瞼をゆっくりと開き、意識を取り戻したことを登場人物達に告げる。
 頬にはいつかと似たような、痺れるような感覚。でんきタイプのポケモンが流した涙は、電気の成分が入っているからか、ほんの少しだけビリビリしていた。
「エモォオオッ!」
 間髪入れずに、ライムがマドカに勢いよく飛びつく。今度は突き飛ばすような『アクロバット』ではなく、自ら包まれに行く勢いで。“エモンガとしての”ライムが目の前にいること、そして入院着の袖から伸びている自分の手を見て、マドカも状況を理解した。元の姿に戻ることができたのだと。
「あれ、ライムがいる……あたし__」
「ハッピーエンド、っていったところかな」
 涙ぐみながら、コウジはへへっと笑っている。アキヨとフーちゃんは涙だけでは足りず、鼻水までダラダラとこぼしながら泣いて喜んでいる。ハッサクとマイヤも、マドカをライムもろとも抱きしめて、よかった、よかったと繰り返しながら嬉し涙を流していた。





『Ending-roll』





 マドカが退院してから初めて登校した日、アキノは泣きじゃくりながらマドカに飛びついた。元気な姿で学校に復帰できて、本当によかったとわんわん泣いていた。
 フーちゃんもつられるように、目に涙を溜めている。フーちゃんにお世話になったマドカは「ありがとう」と告げた。人間の身体に戻ったことで、もうポケモンの言葉は聴こえない。しかし、フーちゃんが「どういたしまして」と言っているんだろうな、ということは分かった気がした。
 ちなみに委員長の姿は教室にはない。マドカとライムのテスト妨害、そして今回の事件のことが生徒会を通して教師達に知れ渡り、停学処分を食らっているのだという。

 そんなこんながあったが、プレイヤ学園は学園祭の準備に向けてさらに忙しさを増していた。コウジとアキヨもまた、学園中を駆けずり回っている。特にコウジは、生徒会長という立場から多くの生徒からのヘルプ要請が立て込んでいた。
「生徒会長、これが飲食店のチェックシートです!」
「ありがと。アキヨさんはオレの気付かないところまで気を配ってくれるから、助かるよ」
 そこを上手くサポートするのがアキヨの仕事。目を細めてコウジが微笑むものだから、アキヨは胸をキュンとさせている。
 今回の騒動で秘密を共有していた2人は、距離がぐっと縮まった。コウジはアキヨを時期生徒会長に推薦したいと密かに考えていて、アキヨはコウジの凛々しさにドキドキすることが増えたとか。イイカンジになっている2人の姿は、スダチとフーちゃんをニヤニヤさせている。

「はい、じゃあ今のところもう一度!」
 マイヤはポケウッド俳優を目指す子ども達のための演劇スクールを開いている。ポケモン達の先生はタロッコだ。むにむにした肌触りのよさと、いろんなポケモンに変身できるユニークさから、スクールの子ども達のちょっとしたアイドル的存在になっている。ハッサクも映画監督の仕事の傍ら、マイヤのサポートをしている。
(愛しいパートナー。私もハッサクさんも、そしてコウジもマドカも頑張っているわ。空の上から、見てくれてる?)
 家のリビングには、マイヤのエモンガの写真が今も飾られている。その隣には、今を生きている家族全員の集合写真。生命が終わった家族がいたとしても、その魂は今も生きている家族達と共にある。



 さて、マドカとライムがその後どうなったかって?



 結論から先に言うと、無事にテストを受けることができた。万全の状態でテストに臨むことができたマドカとライムは、バツグンのコンビネーションを披露できた。マドカはライムと最高の芝居ができたことを、心から嬉しく感じている。ライムもまた、役者として一皮むけたことで芝居の楽しさ、それをマドカと分かち合えることの喜びを知ることができた。
 そして今日、制作映画のポスターが出来上がったところだ。ポスターは学園中のいたるところに貼られていたり、町の人々に配られたりしている。
「今年のプレイヤ学園の学園祭の映画、オシャレ!」
「この女の子とエモンガ、かわいいっ!」
 ランドセルを背負った学校帰りの子ども達が、食いつくようにポスターを眺めている。白地に黄色や緑といったシトラスカラーのドットデザインは、とてもオシャレに仕上がっている。中学生が作ったとは思えないほど、クオリティが高かった。
 ツインテールに髪を結った少女が、エモンガを引き連れて子ども達を通り過ぎる。あのセーラー服、プレイヤ学園の制服じゃないか。それに、あのエモンガ。子ども達は、ポスターと少女、そしてエモンガを交互に見ては目と口を丸く開いていた。
「学園祭が楽しみだね、ライム!」
「エモッ!」
 にしし、と笑いながら、マドカとライムはお互いに腕を突き合う。その瞬間、ほんの少しだけ『せいでんき』がバチッ、と走った気がした。



―Fin―