乱鴉

この作品はR-15です
 乱鴉らんあが空を埋め尽くしていた。
 常識的な感性をまだ保てていたならば、きっと恐ろしかったろう。壮絶に焼けた夕空の中に黒く灼けついたからすらは狂ったように飛び交っていた。歪で醜悪な声の無数はひとつの渦を成していた。煮詰まり淀んだ空気の凪。ああ。瞼が重い。不明瞭な視界の中で、鴉は悪意の具現のようで。ここが地獄だと言われれば納得してしまうかも知れない。だが、そうでないのが確かなのは、伏した少年の腕の中には、相棒のつるりとした頭や尾や手足や胴体が、多少の傷あれ健全に収まっており、そしてそのそれぞれが辛うじて上下を繰り返しているからだ。
 今、山際に死にゆく落日の手前を、ある男が塞いでいた。
 猫背気味の広い肩背は悪趣味なジャケットに包まれていた。
 癖の強い頭髪の、高架下のペンキの落書きみたいな不自然極まりない白さは、鴉の黒によく映えていた。
「死神」
 徐々に覚醒へ向かう意識が、印象をそのまま呟かせる。
「神か」
 呼応し、ハ、と彼は笑った。
 ダン! と傍らのポケモンが地を蹴った。ドクロッグの膨張した喉から毒液の煮える音がゴプゴプとするのはそれこそ地獄を思わせる。狂い飛ぶおびただしい黒が突如統制を取り戻し、サッとさざめいて左右に割れた。ドクロッグによる『クロスチョップ』は、鴉とは別に地上に群れていたもの――人の形した枯草色の一体を、なす術もなく吹き飛ばした。
 地をゴロゴロと転がり、止まる。
 野生のノクタスはもう動かない。
 一撃で伸された仲間を見、取り囲んでいた十数体の案山子かかしのような仙人掌サボテンのようなポケモンは、カラカラカラ、と不気味な笑い声を響かせると、ゆらりと体を反転させた。
「ワイルドエリアのど真ん中で昼寝たぁ、肝が据わってやがる。もうじきグラエナも起き出してくるぜ」
 立ち去っていく群れの足元で、倍ほどの数のサボネアが目玉を好奇に光らせている。それもじきに背を向けて、ぴょこぴょこと親たちの後を追っていった。
 どうやら助けられたらしい。
 気を失う直前のことを、覚えていない訳ではなかった。だが今は思い出したくもない。何度も叩きつけられた体はどこもかしこも酷く痛む。モンスターボールの強化プラスチック片が無数転がっているのを見れば、敗戦の苦味は否応なしに口内に蘇っていった。目の前が真っ暗になるほどの失意が少し失神したくらいで癒えるはずもなく、無意識に握りしめた砂は、手応えもなく指の間をさらさらと通り抜けていく。
 見殺しにしてくれてもよかったのに、と、少年は吐き捨てようとした。
 だが、思い直した。それをこの男にぶつけるのは到底お門違いというもので、そのくらいの良識は、十余年の人生の中でこの少年も身につけてきていた。
「……ありがとう、ございました」
 振り向いた男の三白眼気味の目元は不健康に落ち窪み、どこか骸骨じみても見える。三十代半ばくらいの、いかにも柄の悪そうな男だった。
「あ?」
「助けてくれて」
「生きててガッカリしたくらいだ。こいつらは皆食いもんに飢えてる」
 右腕が、気怠げに天を指し示す。
 このガラルで鴉と言えば一般的にはアーマーガアを想像する人が多いのだろうが、飛び交っているのは比較して小さな鳥影だった。
 ヤミカラス。
 呟きが漏れる。不吉な鳥。運輸サービス業者『ガラル交通』のそらとぶタクシーの操舵手として名高いアーマーガアとは対照的に、忌み嫌われる存在として語られがちなポケモンだ。
 鴉たちはやかましく騒ぎながら、未だ縦横無尽に狂っている。三十は下らないだろう凶兆の大群。大禍時へ向かう火の海の如き夕焼けにノイズと化して乱れ飛ぶ黒。なぜだろう美しいと思った。口を開いて魅入られている自分に、少年はしばらく気付かなかった。
 ヤミカラスの目的が、死にかけの自分やメッソンではないことは、『それ』を目にしてようやく知れた。
 紅蓮の威勢を保つ斜陽の中。
 『それ』を、慈悲深き弔いの一様式であると、一体誰がうそぶけるだろう。
 鴉と呼ばれるものに特有の、未だ艶のある濡羽色だった。濡羽色が濡れているのは、何も水技によるものではない。二メートル超の巨体の、自重に潰され折れ曲がった翼の下、砂漠に落ちる影の内に、体液は黒々と染み込んでいる。血は流れ出ると黒く見えるのに、所々皮を毟られ抉られた肉は、羽毛に冴えて随分と赤く映えるのだった。
 屍へ、鴉たちは代わる代わる、降りたり昇ったりを繰り返している。
「アーマーガアっつうと、ガラルの空の覇者とまで呼ばれるポケモンだろ」
 余所事風情な、自問らしき男の呟き。空の覇者はベタリと地へ臥した顔をこちらに向けていた。瞳の赤。もう二度と光を通さぬ赤。側頭へひらりと降り立った一羽のヤミカラスが、その赤へまっすぐに嘴を突っ込み、少年は思わず目を伏せた。
「覇者ともあろう者が、こんな荒野の真ん中で、むざむざ死ぬとはな」
「……そうだね」
 顔を背けても、脳にまでこびりつきそうな匂いからは、そう簡単には逃れられない。
 不快感を覚えられているのを悟られたくなくて少年はしきりに鼻を擦った。そんな誤魔化しをしなくとも、男も、鴉たちも、少年の様子など気にかける素振りすらない。生存者よりも貪り食われる死体の方がよほど興味を引いている。男の手持ちらしきあのドクロッグだけが、喉の毒袋をまたグボグボと鳴らしながら、毒タイプに特有の厭らしい顔つきで少年の虚勢を見下ろしていた。
「こいつらは、おじちゃんのポケモン?」
「おじちゃんかよ」
 男は眉根を寄せる、表情の作り方は若者めいていた。もしかしたら二十代後半くらいかもしれない。
「だいたいは野良だ。街からついてきた。ボスを欲していたらしいな」
 よく見ると、アーマーガアの死体の側に、一羽だけ白い胸毛を蓄えたのがいる。ドンカラスだ。闇色の中によく冴える白は男の頭髪の面影がある。あれもおそらく手持ちなのだろう。
「だが、連中も夜になる前には街に戻る」
「どうして?」
「アーマーガアの棲息するこのあたりのエリアの空は、ヤミカラスはデカイ顔で飛べねえからな。狭苦しい人間の街でゴミ溜め漁って生きるのが、奴らにとっちゃ一番の安全策なんだろ」
 そう言われると、傷口から次々と肉を毟り取るヤミカラスたちの行動に、怒りや恨みに近いものが透けて見える。
 アーマーガアの死肉を食らうヤミカラスの喜びが、少年には分かる気がした。
「こんなに数がいるのに、敵わないんだ」
「雑魚はどれだけ群れても雑魚ということだな」
 言い捨てた男の声に。
 胸の奥底がふとざわめく。
「雑魚」
「ああ」
 最初は、小さな音だった。
 奥の奥、光の届かない場所で鳴った音は、震えが奥歯を鳴らすときのように、次第に大きくなり、頻度を増し、気付けば途切れなく無限に木霊し、やがて黒いさざなみとなり、それも寄り集まりひとつの巨大な波となった。
「雑魚だ」
 それは鴉だった。
 胸に生まれた数百数千の少年の鴉は、大挙して押し寄せ、へたり込む少年の見開いた瞳のアンバーを、瞬く間に食い尽くす。
 息を、呑んだ。
 「おい!」という声が、心を現実に引き戻す。男が呼んだのは少年ではなかった。顎を上げ、肉片を嘴の奥へ通したドンカラスが、翼を広げ、飛び立つ。それに驚いたヤミカラスたちもまた一斉に高く舞い上がった。
 追い払われたと勘違いしたのか、ギャアギャアと悲鳴をあげながら、鴉たちは激流となって頭上を背後へ飛び去っていく。
 去った南方には夕日に濡れる陸橋がそびえ、その先には彼らが寝床とする街がある。群れが怒涛の勢いで飛んでいってしまうと、嘘のような静寂が夕暮れの砂漠へやってきた。
 少年は呆然と、赤い空を見上げていた。
「さあ、俺は戻るぜ。お前も野宿はよしときな」
 空虚に、声は硝煙の如く。
 ドクロッグをボールへ戻し、ドンカラスの足を掴みかけた男を、待って、と少年は制した。
「おじちゃん、どこから来たの? このへんの人じゃないでしょ」
 そう推察できるのは、言語の若干の差異によるものだ。男の発音はガラルよりはどちらかと言うとイッシュのそれに近い。
 男が顔を向け、脇にドンカラスが控える。
「……」
「……あ、ジムチャレンジに来たの? 結構強そうだし、腕試しとか」
 どこだと彼が言わないので、質問を変える。男はあまり表情を動かさず、「無敗のチャンピオンがいるらしいな」とだけ答えた。
 ガラルでそう呼ばれる人物のことを、ガラル人の多くの例に漏れず、そして多くのガラル人以上に、少年はとてもよく知っていた。
「そう、リザードンの使い手なんだ、めちゃくちゃ強いし派手で面白いバトルをするし、人気も人望も集めてる」でも、残念だったね、と少年は続ける。他者からの注目を得るために煽るような言い方をしてしまうのは、彼の卑屈な癖だった。「ガラルでは推薦状がないとジムチャレンジに参加できないんだ。ジムチャレンジに参加できないと、もちろんチャンピオンとも戦えない」
「厄介だ」
「おじちゃん、俺は」
 心臓が、何故か早鐘を打っている。
「俺は推薦状を持ってる。それも、チャンピオンに選ばれたんだ」
 自身の濡羽色の髪の毛を掻きあげる。
 何故緊張しているのか、何故興奮しているのか、何故この腹は煮えているのか。理解できない自身の動揺を、少年は笑みの裏側に隠した。
「おじちゃんには世話になったし、よかったら紹介してあげてもいいけど?」
 男は僅かだけ表情を動かした。が、それは少年の期待したような変化ではなかった。
 眉間に薄らと皺を寄せた。のみだった。
「誰もお前のことを雑魚だとは言ってねえよ」
 低くそう言い捨てると、男は背を向け、ドンカラスの足を掴んで今度こそ場を後にした。
 残された荒野に、刻々と闇が忍び寄る。
 じっと、座り込んでいた。辺りが暗くなるごとに、その暗さが、体に沁み込んでいく気がする。背後から血の匂いは漂い続けていた。その亡骸を葬る鴉は、一羽たりとも戻ってこない。
 ポァ、と小さな鳴き声がして、デニムジャケットの裾が引かれる。ひとりでに目を覚ましたメッソンはくたびれてこちらを見上げていた。気遣わしげな相棒の声が、擦過傷だらけの身に沁みた。
「選ばれたんだ」
 抱き上げ、抱きしめる。
 メッソンは力無い動きで少年へと頬を寄せる。
「俺は、選ばれたんだから」
 あのチャンピオンに――チャンピオンである、あの『兄』に。







 年の離れた兄と同じ屋根の下で暮らした記憶は、あまり残っていない。ひとつ朧ながら残っているのは、あれは保育園にも上がる前のことなのではないだろうか、駆け出しトレーナーだった兄の試合を親に手を引かれ応援しにいったことだ。都市で行われたジュニアのバトル大会。相棒のリザードン――当時はヒトカゲだったはずだが、成熟しきった姿以外はまるで思い出せない――と見事に息を合わせ金色のトロフィーを手にした勇姿を、はっきりと記憶しているわけではない。少年が覚えているのは、実家へと向かう電車に揺られながら、しきりに頭を撫でられたことだ。あの誇らしげな兄の笑顔。あのとき兄が言ったこと。
『強くなれよ』
『俺のように』
 今の少年と同じ歳で兄は旅立ち、最初のジムチャレンジから一度もその身に土をつけることなく、チャンピオンの座まで上り詰めた。その無敗記録は今なお更新され続けている。
 しばしば家にも顔を見せるが、兄の姿は、直よりも雑誌やテレビ越しに見かけることの方がずっと多い。
 憧れの兄。出来の良い兄。どこから見ても完璧な兄。
 もはや背を追うことすら叶わない場所に君臨する兄の像は、『兄』から『ガラルの英雄』へと、本当に近づきつつあるのだった。
 それでも、自分の頭を撫でたあの手のひらの感触を、あのとき抱いた幼心の情愛を、自分だけの特別なものとして、弟は今も抱き続けている。
『強くなれよ』
 幼い頃の声ではなく、今の声で再生される、兄がくれたあの言葉。
『“俺のように”』
 絶対王者の弟がポケモントレーナーとして旅立つとき、周囲の期待はそれは甚大なものだった。だが、そんなものよりも、『自分だけの兄』として頭を撫でたあの手のひら、あのたったひとつの笑顔、たった一言の言葉の方が、少年にとっては遥かに重要で、替えの利かない、大事な宝物だった。


 ――自宅前のフィールドで行ったはじめてのバトルで、隣の家に住むなんでもないただの友人に、あっさりと敗北を喫するまでは。


 ふと目を開ける。
 目の前でぷうぷう寝息を立てているメッソンの頭は、赤色灯の回転にぬらりぬらりと照らされている。
 ポケモンセンターの宿所。二段ベッドの二段目で身を起こし、窓の外を窺う。外は少し騒がしく、緊急車両が止まっていることは分かるが、何せ夜は深く、それ以上の情報は得られそうもない。同室に泊まる見知らぬトレーナーたちの中にも首を伸ばしている者が数名いた。
 枕元に置いていたスマホロトムの表面を突つく。液晶が輝き、待受が表示される。ロックバンド『DOGARS』のアー写の毒々しい配色が目に痛い。一昨年のチャンピオンカップのときに記念に配信された兄とリザードンのスナップショットは、長い間待受としてこのスマホに馴染んでいたが、少し前に変えてしまった。
 時刻を見る。深夜も深夜だ。日付が変わっている。勝手に溜息が漏れた。身動ぎするメッソンを抱き直し、もう一度寝直そうとする。
 窓越しに滲んだ赤色灯の光が、下ろした瞼の裏側にくっきりと浮かんだ。
 破片を思った。夕べに投げて破壊されたモンスターボールの破片。そのボールをくれた女性の顔が浮かぶ。まだ実家にいた頃は、大人の魅力を備えた彼女にはいつもそわそわしてしまったものだ。
 彼女は兄の幼馴染だった。兄の話をするとき、彼女はいつもうっとりと夢を見るような顔をする。少年はそれは少し嫌いだった。今は、彼女のその顔だけが、凄く穢らわしいものに思える。
 口癖のように言う。頑張ってね。あなたなら大丈夫。きっとお兄さんみたいに。そんなことを言う人は他にもたくさんいた。どこに行っても兄の話を聞かされる。お前の兄がいかに凄い人物であるか。その弟であるお前に掛ける、この上ない期待のこと。
 無敗のチャンピオンである兄の背を追って旅立つ弟。ワイドショーで垂れ流される他人のドラマをよく噛みもせず流し込み、長すぎる人生の暇を潰しているような連中には、それは都合の良い脚本だろう。
 だが、本当に、心の底から、『伝説を築きつつあるスーパースターを遂に跪かせたのは、彼の弟だった』というシナリオを、望んでいる人がいるのだろうか?
 頑張ってね。
 あなたなら大丈夫。
 きっとお兄さんみたいに。
 外の喧騒は耳障りな音量を保ちながら続いている。
「うるさいな」
 勝手に漏れた独り言に、ぱちりと目を開けたメッソンが、ポァ? と返事をした。
 そのときだった。
 ――瞼の裏の赤色灯の中に、黒い影がよぎるのを見たのは。
 布団を撥ね飛ばす。驚いたメッソンがぴゅっと飛びあがりぎゅっと肩へしがみついた。ぷるぷる震え汗を滲ませる臆病な相棒を宥めつつ、もう一度窓の向こうを窺う。
 ぐるぐると回り続ける赤色灯の手前を、一対の翼が横切った。




 不吉の鳥がするりするりと闇を縫う。黒に溶ける黒。街灯の上に、屋根の上に、赤色灯を回す車両の上に。赤く暗く光る目が、いくつもいくつも見下ろしている。夕暮れと違い、一羽たりとも、あのやかましい鳴き声を立てるものはいなかった。沈黙は一層の不気味さを醸していた。
 だが、そこに群がる人々は、鴉などにはまるで関心を寄越さない。
「可哀想に」「野生ポケモンの仕業らしい」
 ポケモンセンターの自動扉を抜ける。生ぬるい外気が肌を舐める。遅い時間にも関わらず野次馬は結構な量だった。凄惨な光景のすべてを、少年がその目に焼き付けてしまわずに済んだのは、それらの人の背が壁になっていたお陰だったと言ってもいい。
 子供が死んでいた。
 モンスターボールのイラストの描かれたボストンバックの残骸と、靴の片割れが垣間見えた。靴の中身は千切れていた。
 怯えるメッソンを肩に乗せたまま、少年はその輪を外から眺めた。
「推薦状を持っていなかったそうよ」
 警察が黄色い規制線を貼り、目を離せない一点がビニルシートで覆われる。隣で口元を抑え涙ぐんでいるポケセン職員の声。無言で見下ろすヤミカラスの群れ。胃の内容物が勝手に蠢いているような不快感を覚え、空調の効いた屋内へと、少年は踵を返そうとした。
 ポ、と、メッソンが小さく鳴いて前方を指差す。少年もそれをほぼ同時に発見した。
 あの特徴的な白髪が、じっ、と人だかりの向こうを見ていた。
 やがてゆっくりと視線を外し、背を丸めて歩きはじめた。
 そのまま近場のパブの扉を開けた。




「奢ろうか?」
 隣の席にひょいと腰掛ける。白髪の男は露骨に嫌な顔をした。
 パブというやつには、何度か入ったことだけはある。どれも父親に連れられて、だが。綺麗に磨かれたビールサーバーやずらりと並んだワインボトルの輝き。ムーディな照明に飲まずとも呑まれそうだ。カウンターに頬杖をつき、男へと綽々と笑みを向ける。子供扱いはされたくない。
「結構金は持ってる。兄貴が偉くてさ」
「フン」
 一瞥をくれただけで視線を逸らし、特に迷うこともなく、男はペールエールとフィッシュアンドチップスをオーダーした。
 タップから注がれたビールが男の前にやってくる。こういう場所の照明の薄暗さというのは、この宝石のような黄金色が最も美しく見える塩梅に調整されているのだろう。ビクビクしながらカウンターに降りたメッソンが、興味深そうにビールの泡立ちを覗き込む。覗き込んだ液体の向こうから巨大な手が迫ってくると、慌てて肩へ逃げ戻ってきた。
 店員は訝ってこちらを見ている。少年はにこりとして返す。店員の視線は容赦がない。旅立ってこの方、一人前の大人なのだと自負する場面は増えつつあるが、こういう時には己がまだまだ子供であることを嫌でも痛感させられる。
「俺は何飲もっかなー」
「あ?」
「ガラルでは子供もビール飲めるんだよ」
「日常的に飲んでたんだとな。だが大昔の話だ」
「んーん、今でも飲める」
「家の中でママに見守られてるときに限る、だろ」
「なんだ、知ってるのか」
「旅先のことくらい、ちったあ勉強してくる」
 勤勉なんだね、見た目に似合わず、と茶化しても、まるで取り合う素振りもない。パイントグラスを引き寄せる片手にはイカつい金色の腕時計が鈍い光を放っている。
 盛られたフィッシュアンドチップスが出てくると、それを邪魔だとでも言わんばかりにこちらへ寄せてきた。視線で窺う。そのために注文してくれたらしい。店員が水の入ったグラスを少年の前へ置き、目の前から立ち去った。メッソンは再度カウンターへ飛び降り、モルトビネガーの蓋を開けじゃばじゃばと皿へ振りかけた。
「別によ、腕試しに来たんじゃねえんだ」
 虚空を睨むようにしながら、男がグラスを傾ける。
「ガラルの都心。あの街は、かつて『人を喰らう獣』と呼ばれていた。開通した鉄道は、世界初の産業革命を迎えた街へ、次々と人を運んでくる。急速に発展する産業に人間は取り残され、やがて飽和し、汚染された街で人々は飢え、病み、次々と死んでいく、あたかも街に喰われるように」
「それも、随分昔の話だね」
「ああ。今となっては、『人もポケモンも喰らう獣』だ」
 ポケモンも労働力として重用される時代だ。トレーナーはメインパーティから外れるポケモンを派遣して手を掛けずに経験を積ませ、企業は紹介料のみの格安の労働力として借りたポケモンを使役する。トラブルも珍しくはないと聞いた。
 真鱈の分厚い衣を剥ぎ取り中身だけ齧ったメッソンは、目をまんまるにして瑠璃色の瞳孔をきらきらさせる。ポテトをつまんで口に運ぶ。ポケモンセンターのカフェで出る解凍のクソまずいアレに比べれば、まあ悪くはない味だ。
「その街を、実質支配しているのが――」
 こちらへ目もくれない男の言葉の先を、
「ポケモンリーグ」 
 半ば遮るように、少年が引き受けた。
「……だそうだな」
 男はグラスを半分ほど干していた。目元に若干赤みがある。あまり強くないらしい。
「他の地方と比較して、ガラルリーグの持つ権力は絶大だと聞く。リーグが支配する地方というのがどんなもんか見てみたかった。そのためにここに来た」
 ふうん、と呟き、グラスを揺らす。照明が乱反射する。氷がかろんと揺れる。
 そこに自分が映ったならば、その顔は、ひどくつまらなさげに見えるのだろう。
「……で、ガラルはどう?」
 さめざめとした声だった。
 少年はふと口の端を上げ、そこに嘲笑と軽薄を加えた。
「俺の兄貴の支配するガラルは」
 男の視線が、静かに少年の頭へと動く。
 訪れた沈黙に、サクソフォーンの音色が流れ込む。店内を満たすメロウなジャズミュージックに他の客の会話がちらほらと混じる。知らない誰かが兄や兄のポケモンを賞賛していてもまったく驚きはないし、彼らのうちの幾人かの仕事は、上流を辿っていけば頂点の兄へと通じるだろう。少年が旅をしているのは、そういう世界だった。
 お前もか、と、不意に男が呟いた。
 意味が理解出来ず、訊き返そうとした矢先に、「いくつだ」と問われる。「いくつって?」「歳だよ」素直に答えると、男は見定めるように少年を見つめた。
 そして、目を閉じ、ゆっくりと頭を横に振った。
「若すぎる」
「何。本当に飲んだりしないってば」
「腐るには若すぎると言ったんだ。腐りかけてる奴の目だ。俺には分かる」
「……は、」
 かっ、と体の奥が熱くなる。
 茶化せばいいのか、怒ればいいのか。どちらもできなかった。油で濡れた唇と対照的に、得意の口ごたえを捻る頭は錆び付いたように動かない。言い返したい。なのに返す言葉が出ていかない。
(……そうじゃない)
 出ていかないんじゃない。
 端から存在していないのだ。
 喉へ水を通した。視線が泳ぐ。頬を膨らせた内容物を咀嚼するメッソンが、首を傾げて見上げている。そこに食い散らかされている白身魚。油にぎとついた指をシャツで拭う。「カラスみたい」と半笑いに吐いた。屍肉を貪る鴉なら、死臭を嗅ぎとるのも得意だろう。やたら実直な男の言葉の足元を掬うつもりだったが、彼は笑いも怒りもしなかった。
「……そんなの……」
 何故こうも狼狽しなければならないのか。
 ――言い当てられたからだ。
 俺は腐りかけている。
「……まわりが腐ってれば……腐った箱に入れられれば……どんだけ新鮮なオボンでも、すぐに腐るだろ?」
 苦し紛れの回答に、男は何を思ったか。
 大きな手でグラスを持ち上げると、香りを楽しむべきエールビール、残るハーフパイント余りを、一気に喉へと流し込んだ。
「お前、明日俺と来い」
「え?」
「俺と来いつったんだよ。分かったか? 分かったらガキはさっさと糞して寝ろ」
 フィッシュアンドチップスを引きずり戻される。メッソンが抗議の声をあげたが、一気に伸びてきた手にぐしぐしと頭を撫でられると、硬直してどっと滝の汗をかき、体の色を薄くした。







 そのメッソンは今や胸にぎゅうぎゅうとへばりつき、汗をかきすぎて半透明になりかけている。
 どうしてこんなことになったのか。猛獣のようなサンドバギーから振り落とされぬようパイプフレームにしがみつきながら、少年はみるみる遠ざかっていく街の姿から視線を戻した。
 ワイルドエリア散策日和の、さっぱりとした青空である。ぎらぎらと横柄な太陽が眩しい。右隣で背もたれにどっかり身を預け、ステアリングホイールに片手のみを掛ける男の顔には、金フレームのサングラスが存在感を放っている。青空と、流れゆく荒野、悠々とガムを噛みながらエンジンをふかす男の横顔と風に暴れる白髪という光景は、腹立たしいほど様になっていた。
 運転は極めて荒い。この悪路で六十マイルくらい出ているのではなかろうか。進行方向にいたサンドのペアが、一斉に体を丸め転がるように逃げていく。
「ねえ、どこに連れてくの」
 エンジン音に負けぬよう、真横にある耳へ叫ぶ。方角的には昨日出会った場所を目指しているように思われた。男はサングラス越しの目を前方から逸らさぬまま、「聞きてえのはこっちだ」と叫び返してくる。
「はあ?」
「何捕まえようとしてた、昨日」
 少年は顔をしかめる。バレていたのか。まあ、ボールの破片があれだけ周囲に散らばっていれば、およそ察しはついただろう。
「バンギラス」
 素直に答えると、男はピクピクと眉を動かした。
「……手持ちは」
「メッソンとワンパチ……」
「ハッ! 命があってよかったな」
 言われた通りだ。あの怒り狂ったバンギラスが己の手持ちではないアーマーガアを叩き殺し、少年とメッソンを見逃して去っていったのは、幸運だったと言う他にない。
「メッソン、ワンパチ、バンギラス……、か」
 男は独りごち、暫し押し黙った。
 そしてアクセルを踏み込んだまま、勢いよくステアリングホイールをぶん回した。
「ちょ――っ!」
 砂塵を巻き上げ急旋回するバギーカー。内臓がシェイクされ、座席の外側へすっ飛ぼうとする体にボロいシートベルトが食い込んだ。風が壁になって頬を殴る。胸に顔を押し付けたメッソンが、ポアアアアイイィヤー! と絶叫した。




 小一時間走った末にようやく降ろされた。
 湖のほとりだった。数匹連れ立ったオタマロが浅瀬を跳ね、ウパーやヌオーが頭だけ出してこちらの様子を窺っている。運転席を振り返ると、サングラスを額へ引っ掛けた男は顎で前方を促した。ひときわ大きなポケモンが岩のような甲羅を天日に干している。カジリガメだ。
「カジリガメが、何?」
「タイプは」
「え? 水、岩……」
 はっと目を見開いて、少年は再び男を見た。
 男はやや口角を上げ、悪い顔で頷いた。
 彼が下から放ったハイパーボールより昨日のドクロッグが現れる。バギーの前でヤンキー座りする男の隣へ、例のやらしい笑みのまま、同じヤンキー座りをした。
「捕まえてみろ。危なかったら助太刀してやっからよ」
「手伝ってくれるんじゃないの」
「なんで俺が手伝わなきゃいけねえんだ」
 じゃあなんのためにわざわざここまで連れてきたのか。
 文句を言いたい気持ちを堪え、少年はモンスターボールを手に取った。
「いけ、ワンパチ!」
 開放音。光を破って現れたこいぬポケモンはすぐさま標的へ向け走りはじめた。電気を体内に保持する機構を持たず、技に使用する電気は走り回ることでその都度発電しなければならないポケモンだ。速度をつけるごと胸毛から発される小さな稲光を目にすると、水辺のポケモンたちは一斉に水中へ身を隠そうとする。
 カジリガメが接近に気付いた。岩のような甲羅を持ち上げ、のしのしとこちらへ頭を向けた。
「スパーク!」
 アン! と甲高い返事をして、短い手足で標的へと飛びかかる。身体中から電撃を飽和させたまま、カジリガメの頭へと真正面から激突した。
 巨体はびくともせず、逆に頭を振ってワンパチの体を弾き飛ばした。
「あっ……!」
 うまく受け身を取り、跳ねるように起き上がる。前傾し牙を剥きウウウと敵を牽制する。まだ大きなダメージではないようだが、力の差は歴然として感じられた。あまり長くは持たないかもしれない。
 対して電撃を受けたカジリガメは、やや動きが不自然に見える。額のツノ状の突起物を誇示するように頭を下げ、ぎこちない動作で後退し、凶悪な顎を痙攣させ――『麻痺』だ。しめた!
 バックから急ぎ取り出した新品のモンスターボールを拡張し、少年はぶん投げた。
 ワンパチに気を取られているカジリガメの甲羅へ。ボールはヒットし、即座に展開した捕獲網が巨体をボールの中へと吸い込む。落下。中央のスイッチに赤いランプを灯したボールが、一度、揺れ――なかった。
 一瞬でボールから飛び出してきたカジリガメが、怒り心頭の咆哮を発する。
 冷静に(その行動が傍目に見ても冷静だと言えたのかさておき)二球目を拡張し、放る。次は体を収めることすらなく、カジリガメは頭を振って飛んできたものを叩き落とすと、これ見よがしにそのボールを上顎と下顎の間へと挟んだ。
 バキ、バキ、と音を立てて噛み砕かれたボールの残骸が、足元へ吐き出される。格上の余裕を含んだカジリガメの癪な表情。肩に乗っているメッソンが、参戦してもいないのに震えはじめた。
「焦るな、坊主」
 少年が舌打ちする背後から、男は声を掛けてくる。
「ワンパチを活躍させてやれよ、物足りねえ顔してるじゃねえか。こういうのはもっと弱らせてから捕まえるもんだぜ」
「分かってるよそんなの」
 声に苛立ちが混じる。焦りも、その焦りがワンパチの耐久力を信じられなかったことから来ているのも、どちらも図星だった。「アドバイスは素直に受け取らないと大成しねえぞ」お前みたいな不良に言われたくない、と口答えしたくなる自分の矮小さに、ほとほと嫌気が差してくる。兄ならこのくらい簡単にゲットするだろう。一緒に旅立ったあの子だって、もしかしたらそうかもしれない。
「いいか。短絡的に相手をねじ伏せようとするな。相手や味方の特徴をよく把握して、それを活かした攻めを考えろ」
 カジリガメに意識を残しつつ、少年は背後へ目をやった。
 いかついサングラスをギラギラさせながら、男は至極真面目な顔でそんなことを言うのである。隣のドクロッグが、あの半月状の憎たらしい目のままで、グッ、と親指を立てて見せた。
「……特徴ォ……?」
 駆け戻ってきたワンパチが、アン! アン! と威勢よく稲妻型の尻尾を振る。
 カジリガメは未だ麻痺に苦しみつつも、大顎を開け怪獣らしい声で威圧してくる。
 メッソンは少年の頭の後ろに半身隠しながらも、プイィー……! と鳴いて戦闘意欲を見せている。
(このポケモンたちの、特徴……)
 ――素直にアドバイスを聞き入れようとしている自身に気がつき、少年はひとりでに口角を上げた。面白い。いいじゃん、やってやろうじゃないの。
「ワンパチ、」呼名こめいは戦闘再開の合図。臨戦態勢を取ったカジリガメへと、ワンパチは再び突っ込んでいく。「ボルトチェンジ!」
 首を大きくスイングするカジリガメへ、ワンパチは回り込み横から突っ込んだ。同じ手は二度食わない。反撃に遭わぬよう体側から雷撃を叩き込み、稲妻の速さで戻ってくる。
 肩を蹴って飛び出したメッソンと、短い前脚がハイタッチした。
 重い甲羅を背負う敵は見た目よりうんと素早い挙動で迫ってくる。だが、抜群の電気技を二回浴びせてかなり体力は削れたはずだ。大顎の『かみつく』攻撃を躱し、『アクアジェット』で湖へ飛び込む。相棒は臆病なぶん、攻撃は苦手だが回避はうまい。麻痺で素早さの下がったカジリガメ相手に遅れを取ることはまずあり得ない。更にメッソンというポケモンは、体が濡れている間は体色を周囲に溶け込ませることができるという特色がある。
「『みずでっぽう』で狙い撃て!」
 カジリガメの後方の水面がぱっと飛沫をあげる。そこにいるらしい透明なメッソンが、口から鋭い水流を放った。
 背に直撃する。大したダメージは与えられていないがそれでも構わない、倒し切らないように少しずつ。水辺へ走り反撃しようとしたカジリガメをうまく避け、また水中へ身を隠す。カジリガメが見失ったところで、遠方からみずでっぽうで攻撃。カジリガメが体勢を崩しかけて立ち直る。頃合いか。
 少年は指笛を吹き鳴らした。
 メッソンが得意な水のフィールドを出、駆け戻ってくる。カジリガメが追って振り向き、三たびボールを手に弄ぶ少年を視界に映し、警戒心を露わにした。
 メッソンと入れ違いにボールが飛ぶ。
 完全にそれへ意識を集中したカジリガメは、最初と同じく首をスイングしてボールを弾き飛ばして見せた。
 ――今だ!
「ワンパチの特性は――」
 ぱちぱちぱち。死角から静電気音が迫る。重い甲羅を背負ったカジリガメは、前方には動けても、素早く背後を振り返ることは出来ないはず!
「――『たまひろい』だ!」
 一球目のモンスターボールを咥えたワンパチが、飛び掛かり、カジリガメの背中へダイブした。
 捕獲網の光が目に刺さる。ボールは宙で光をすべて吸い込み終えると、――ぼちゃんと水中へ落下した。
「あっ!」
 メッソンと顔を見合わせ、共に駆け寄る。
 揺れも捕獲ランプも水の中。足の届かないワンパチが犬掻きしながら現場で右往左往しているが、もしまた逃げられたら反撃に巻き込まれてしまいそうだ。一定距離から近づきたがらないメッソンと同じ場所で、ワンパチ、こっちに、と手招いた。それを無視して、ワンパチはざぶんと水中へ頭を突っ込んだ。
 顔を上げたワンパチの口に、赤と白のモンスターボールが咥えられている。
 揺れも光りもしない。
 捕まえたのだ。
「やっ――」
 たあ、とガッツポーズを取りかけて、ハッと振り返った。男はヤンキー座りのまま、ドクロッグと似たような半月の憎たらしい目をして、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
 中途半端に上げた手を戻し、咳払いをして冷静を取り繕った。
 飛沫を立てはしゃいでいるワンパチの元にざぶざぶ向かう。よくやったなと頭を撫でて、ボールを受け取る。すると狂喜乱舞するワンパチは少年へ勢いよくまとわりつき、悪いことに水底は些かぬかるみすぎていて、少年はバランスを崩し、ズルッと仰向けにすっ転んだ。
 一瞬包まれた水の中から、青く光る空が見えた。
 波打つ水面ものぼる泡も、太陽にきらきらと輝いていた。
 すぐに身を起こす。飲みかけた水をぴゅっと噴き出す。それを見ていたメッソンが、真似をして顎を上げ、噴水みたいに水を吹いた。
 視界の先で、男とドクロッグが、大口を開けて笑っていた。
 豪快な笑い声が響き渡る。笑う男の目尻に皺が寄るのが、なんだかとても可愛く見えた。笑うとそんな顔になるのか、なんてちょっと嬉しがってる自分が、またおかしく、顔を真っ赤に火照らせたまま、気付けば少年も笑っていた。
「やるじゃねえか」
「当然だよこのくらい」
「あ? 誰のおかげだ?」
「へへ」
 シャツを絞り、男の隣へどしゃんと座る。
 右手のモンスターボールを空へ掲げてみた。新たな手持ち。あんなに強そうなポケモンを、一人で捕獲した、という実感が、心地良く胸を高鳴らせる。
「ありがと。おじちゃん」
 顔を向けると、男ははたと笑顔を引っ込めて、だがニヤつきは隠せぬまま、気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「今日こそは奢りだ」
「あは、仕方ないなあ」
「よっしゃ、街に戻って祝杯と行くか」
「だね。疲れた体には……」
 それを想像し、二人は同時に声を発する。
「サイコソーダ!」「エネココア!」
 顔を見合わせる。
 やはり至極真面目な顔をしている。
「……ちょ、マジなの? エネココア? その顔で? くっ……」
「わ、笑うな。疲れにはエネココアの優しい甘さが鉄板だろうが」
「分かるけどさあ……」
 胸の奥からこみ上げてきた笑いが溢れ、笑って腹が震えるごとに、びしょ濡れで風に吹かれているはずの体がほこほことあたたかくなってくる。交代で赤くなる男のことを、少年はたくさん笑ってやった。こんな愉快な気持ちになるのも、なんだか久々のことだった。旅立ちの敗戦のあの日から見ると、はじめてだったのかもしれない。







 ガラル地方の中央には急峻な山脈が横たわり、世界経済の核として革新を続ける北部と、伝統的な街並みを数多く残す南部との間を隔てている。鉄道が通ってはいるが、都心で行われるチャンピオンカップに出場する目標を考えれば、あの山脈を徒歩で越えられるくらいの実力は不可欠だ。
 このあとはスタジアムの視察のため北部へ向かうのだという男に、一緒に行く? と問えば、あからさまに顔を渋めて見せた。そういう顔が冗談として成立する関係性を、この短期間で築けたのだとも言えるだろう。
 旅をしていると、実に多くの出会いがあり、そして別れを経験する。けれど、別れの寂しさ、と呼ばれるものが実在するということは、少年は今日まで知らず、そして初めて経験するそれは、想像以上に寂しかった。
 ポケセン併設のカフェを立ち、自動扉をくぐる。別れを演出するにしては太陽はまだ充分に高い位置にあった。振り返った男がしゃがみ、少年の足元にいるメッソンへと手を伸ばす。メッソンはおずおずと尻尾を差し出し、手と尻尾の握手を交わした。少し堅くなってはいるが、怯えて汗を掻くようなことはない。
 握手してお別れ、というのは、ちょっと小っ恥ずかしいな、と少年はその光景から顔を逸らした。
 小っ恥ずかしさというのは、寂しさの子供じみた裏返しなのだろう。彼は大人だから、別れも何度も経験してきたろうし、そう寂しくないのに違いない。自分などという存在はきっと、彼にとれば、一日二日行動を共にしただけのちっぽけな通過点にすぎず、この先に出会う人々にどんどんと隅へ押しやられ、じきに跡形もなく消えるのだ。だから、自分も、偶然出会って別れるだけの些細な人物として、この出来事を処理しよう――、と少年は心の中で決意した。それは虚しい決意だが、予防線を張ってさえおけば、辛いことが起こったときの辛い気持ちを軽減できることを、少年は経験から理解していた。
 だが、せっかくこうして身構えているのに、メッソンが済めば当然次に回ってくるはずの自分の番が、いくら待っても訪れない。
 不思議に思って視線を戻す。メッソンの前にしゃがみこんだまま、男は別の場所へと目をやっていた。
 花束があった。
 花束と、サイコソーダのライトブルーのパッケージが、街灯の足元に置かれている。
 昨晩、見知らぬ子供が死んでいた場所だ。
「野生のポケモンが食いさしを運んできたらしい」
 男はぼそりと呟き、腰を上げた。
「棲処を荒らす人間への警告のつもりなのかもな」
「自業自得だよ。推薦状もないのに、ワイルドエリアに入ったんだから」
「紙切れひとつで偉いもんだ」
 唾棄するような男の声へ、
「偉いよ」
 と、少年はすぐに返した。
 寂寥感が、寄せ終えて返っていく波のように、すうと薄らいでいく。
 そして、今度は別の感情が打ち寄せる。
「推薦状があれば、そらとぶタクシーも無料で利用できる。ポケセンの宿所も優待してもらえるし、ショップの道具を割安で買えたりもする。バトルのコツや旅のしかたを指導してくれるサポーターも、紙切れを持ってるトレーナーのために用意されているんだし」
 未来有望な若者を、地方をあげて支援する。一見理想的な制度だ。だが、逆を取れば、推薦状を持たないトレーナーにとっては、広大なワイルドエリアを有するガラルは決して『初めての一人旅』に適した環境ではない。
「よそでは、ジム巡りして何個バッジを手に入れられたとか、そういうのでふるいにかけられるんでしょ? 今のガラルでは、強くなる前、ジム巡りをできるかどうかという段階から、選別されてるんだよ」
 男はやや黙してから、目を伏せ、こんなことを言った。
「……神が、人の形を取っている」
 神。
 体の内側がぞわりとする。
 だが、その形容が的外れだとも言い切れない。
「例えばさ」堰き止めていたものが、次第に溢れ出そうとしている。少年は口の勝手に回るのに任せた。軽蔑されてもいいと思えた。でも、もしかしたら、とも思えた。この男はガラルの人間ではなく、よその地方からの謂わば観光客で、ガラルの『神』なる人物を信奉してはいないのだ。「ポケモンを悪いことに使おうとする奴がいたとしても、推薦状を持ってなきゃ、そもそも強くなることも難しいんだ。推薦状制度は邪な連中に対する抑止力にもなる。それに……」
 路傍の花束の奥にあるものを、少年は睨む。
 それを見放した神を睨む。
「選別しておけば、リーグに歯向かうトレーナーや……栄光の無敗記録を打ち破りそうな邪魔な奴の芽を、あらかじめ摘むことだって出来る」
 顔を上げる。
 見据えている男の目と、正面から対峙する。
「いいとこでしょ、ガラルは」
 片方の口の端を吊り上げる。
 こういう顔をして見せるのが性に合うと思いはじめたのも、旅をしはじめてからだった。
「リーグの運営委員長のことも、それに担がれてる兄貴のことも、もう誰にも止められないんだよ」
 言い切った瞬間、雑踏のすべてが、少年の耳から搔き消えていた。
 男は、少年から目を離さなかった。少年はその目を尋問するような気持ちで見つめた。その目がほんの少しでも、憐れみらしいものを向けてくれば、少年はあっという間にこの人のことを嫌いになって、昨日のことも今日のことも綺麗さっぱりに忘れて、元の自分に戻れそうなものだった。ある種の怪物を懐に隠してへらへらと過ごしてきた元の自分に。男はここまで一貫して、憐れみと呼べる類の感情を少年へ見せることはなかった。それはこの瞬間でもそうだった。冬のガラルの空のようなどこかドロリとした印象の彼の目には、暗かったが、不思議と覇気があった。名前を与えるとすれば、それはまるで『怒り』のような、大きな感情に満ちていた。
 睨み合う時間がしばらく続いて、結局先に屈したのは少年の方だった。顔を伏せる。足元ではメッソンが、不安そうに瞼を下げ、こちらの顔色を伺っている。
「お前はよ」
 迷いのない声である。
「体制を批判してる気になってるかもしれねえが、結局は優秀な兄貴が目障りなだけだろ」
 言葉が心臓を鷲掴む。
 体の中身がすべてひっくり返りそうになる。体の横で両拳を強く握る。伸びっぱなしの爪が手の腹に食い込む。
 ああ、そうだ。
 優秀な兄貴が目障りなだけ。
 無能な弟は喚くだけ。
「ヤミカラスがいくら喚いても、アーマーガアには敵わない?」
 振り絞ったその声が湿り気を帯びるのが最悪だった。それを認めることなどできない。だが覆せない現実を少年は確かに歩んできたのだ。身の内が燃え上がった。青い炎が踊り狂った。少年は再び顔をあげた。目を剥き、鼻を膨らませ、頬を持ち上げ唇の間から並んだ歯を剥き出して、

「でも、昨日のアーマーガアを殺したの、実は俺なんだよね」

 笑う。
 獰猛に。
 悪意を込めて!

 男は黙っていた。眉を寄せ、少しだけ目を細めた。
 ややあって、ふと、緊張状態から弛緩するように、どこか諦念じみた笑みを浮かべた。
「俺はお前みたいな奴は嫌いじゃねえよ」
 伸びてきた手が、がしがしと少年の頭髪を混ぜる。それは大きくて厚い手だった。
「だがな。自慢のポケモンたちの力の使い方だけは、ぜってぇ間違えるんじゃねえぞ」
 手を離し、踵を返し、男は去っていった。
 その背が角を折れて消えるまで、少年は睨み続けていた。別れの寂しさや名残惜しさは、確かにここにあったことがもう信じられないくらい、影も形もなくなっていた。
 ただ。
 まだ無邪気な幼子だった頃、兄に頭を撫でられてどきどきした、あの記憶への感情だけが。
 胸を、引き千切るほどに締めあげる。







 ガラル交通そらとぶタクシーのアーマーガアが、どこからどこへ移動するという依頼以外のことを請け負ってくれることはほぼ無い。彼らが命令に従っているのは会社に所属するトレーナーなのであり、客本人ではないからだ。だが、知能の高いアーマーガアという種族は、従うべき相手を正しく見極める賢明さは、どの個体も基本的には持ち合わせている。
 昨日の昼。兄の名前をちらつかせてサービスをせがむと、籠から降ろされ、代わりに背に乗せられてワイルドエリアの真ん中まで連れて行ってくれた。本来目的地として選ぶことのできない場所で、更に少年の所持バッチ数では出入りを制限されているエリアだ。
 岩タイプのポケモンを捕まえられればそれでよかった。アーマーガアには無論輸送のみを頼んでいたが、彼らが安全運行のためバトルも一流に鍛えられていることも計算ずくだった。メッソンやワンパチの力で敵わなくとも、鋼タイプを持つアーマーガアの力を借りれば、それなりに強力なポケモンでも太刀打ちできると考えたのだ。
 そのエリアでも確認されることがごく稀なバンギラスが目の前に現れたのは、完全に偶然だった。それにアーマーガアが殺されたのも、偶然。経緯を顧みれば、少年に落ち度はあれ、不慮の事故だったと、殆どの人は言うだろう。
 ――だが。客である自分を守ろうとして無残に屠られていくアーマーガアの姿を見て、少年はどこかで湧き上がるような高揚を感じていた。今にも己の命が脅かされるという状況で、目の前で翼を捩じ折られ、足と地面とに挟まれて必死にもがくそれに対して、「ざまあみろ!」という場違いな喜びに少年は体を震わせていた。あの醜く残酷な、目を背けたくなるような感情は、後から考えてみれば、おそらくアーマーガアそのものに対して向けていたものではなかったのだ。アーマーガアの、ガラル交通の、そのバックにいる人物に対して、間接的に復讐を果たす、その興奮。腹を裂かれ、首を牙に突き破られ、息絶えていく濡羽色の巨鳥に対して、――自分のそれではない、別の濡羽色の毛髪を持つ人物の姿を、無意識に重ねていたのである。
 だから、あのアーマーガアを殺したのは、きっと自分なのだ。
 自分でなければいけないのだ。







 ニュースサイトをチェックすると、毎日のように兄の名を見つけることができる。とある大会のエキシビションマッチで見事勝利を収めたという聞き飽きた話題を記事タイトルのみで確認し、アプリを終了させる。スマホロトムの液晶にすいすいと指を滑らせ、ポケモン図鑑アプリを起動。カジリガメのページを呼び出し、能力や覚えている技を確認する。メッソンやワンパチと共に回復を終えたばかりの新入りは、手元に転がした三つのボールの中のひとつで大人しくしてくれている。
 ポケモンセンターの宿所を取り、昨日と同じ部屋に戻っていた。早い時間だけあり、八人共用の部屋には少年以外には誰もいない。ベッドに転がったままカジリガメの育成論を漁っていると、勝手に画面表示が切り替わった。黒地背景の真ん中に、兄の名前が表示されている。久々の着信だった。
『カジリガメを捕まえたそうじゃないか!』
 開口一言、兄は嬉しげにそれを讃える。
 シーツの上に仰向けに寝直し、スマホロトムを耳に当てる。流れ込んでくる声質の太い兄の賞賛に胸がくすぐられるような思いがした。いつの間にかなりの時間が経ったようで、照明を点けていない部屋は大分薄暗くなっていた。窓越しに窺える空は、綺麗な茜色に染まっている。
「よく知ってるね。今日の午前中に捕まえたばっかだよ」
『スマホロトムの得た情報は、こっちからも閲覧できるからね』
 一介のトレーナーの図鑑データくらいの閲覧権限は、兄なら有しているだろう。弟の旅の進捗を気にしてくれているのだと思うと、照れくさいような、誇らしいような気もしてくる。
「兄ちゃん」
 少し甘えた声で、兄に呼びかける。
 こうやって話をしていると、弟としての性分が無意識に呼び起こされてしまうことを、少年は薄々は自覚している。
「面白い人と知り合ったんだ。別の地方から来た男の人。その人が、捕まえるのを見守っててくれたんだよ」
『へえ、そうだったのか』
「バトルもゲットも、俺一人でしたんだけどさ。その人が色々とアドバイスをしてくれたから、うまくいったんだ」
 電波の向こうの見えないどこかで、兄が微笑んだのが分かった。
『お前も良い旅をしているようだな』
 お前『も』。
「……ん」
 曖昧に笑い、自問する。俺は良い旅をしているのだろうか?
 兄に憧れてポケモントレーナーを志した。兄のようなガラルチャンピオンになることを夢見て、ポケモンを貰い、推薦状を手に、片田舎の実家から広大な世界へと踏み出した。それは紛れもない事実だった。建前ではなく本当の気持ちだった。少なくとも、一歩踏み出したあの瞬間は。
 今、良い旅をしているのか?
 隅々まで兄の手の行き届いたガラルの各地を巡るこの旅に、ハッピーエンドが用意されているとすれば、どんな結末だと言うのだろう?
『ところで』
 塞ぎかけた思考を乱暴にこじ開けるかのように、兄の声が差し込まれる。
『昨日、ガラル交通のそらとぶタクシーを利用したそうだな』
 うん、と相槌を打つ。
 それから――目を見開いた。
 バンギラスに惨殺され、凶鳥に貪り食われるあの色が、幕を剥ぐように蘇る。
『お前の利用した個体、運送を終えた報告が入ったあと、まだ支所に戻ってきていないそうなんだが』
「どうして……」
 漏れ出た口を思わず抑える。タクシーの手配はスマホロトムを介して行う。その端末番号、及び登録されたトレーナーカードの情報は、すべて会社に記録してあるに決まっている。
 でも、それを、どうして兄が?
 愚問だった。
『ガラル交通は兄ちゃんの大事なスポンサーなんだ』
 その自称は、決まって兄が、小生意気な弟に対して力関係を見せつけるときに使用するものである。
『知ってただろ?』
 兄があの誇りに満ちた笑顔をする。
 そのとき。
 ――すべての音階が同時に叩かれたような甲高い音が、少年の耳をつんざいた。
 窓だった。粉々になった窓硝子が、雪崩をうって床へ流れ落ちた。数分前夕暮れだった枠の外は夜だった。いや、違う、似た色が覆い尽くしていた。艶のある黒。濡羽色。その中に光る二対の紅月が、硝子を突き破った硬質な嘴が、間から覗く赤い舌が、ただ一人に向かって絶叫した。
 アーマーガア。
 笑い声を響かせるスマホロトムを投げつけ、三つのボールとバッグを引っ掴んで、少年はベッドを飛び出した。
 戸をぶち開ける。何事かと顔を覗かせた職員の横を全速力で駆け抜けた。アーマーガアの体の大きさと窓枠の小ささが功を奏し一瞬だけは距離を離した。だが一瞬だった。それなりのサイズのポケモンも行き来できるよう、ポケモンセンターの廊下というのは幅広く設計されているものだ。窮屈そうに廊下へ躍り出たアーマーガアが、鉤爪を打ち鳴らしながら迫ってくる。
 エントランスへ逃げ込むとほうぼうで悲鳴があがった。ここではだめだ。閉まりかけていた自動扉へ半身を捻じ込んで抜ける。反応して開きかけたその硝子戸を、両に開いた鎧の翼が間髪入れず粉砕する。道行く人々の視線が集まった。少年へ襲いかかろうとするアーマーガアを撃退しようと、ボールを構えたり手持ちへ指示をしたりするトレーナーも数人いた。
(無駄だ)
 支援を振り切るように、街の外、ワイルドエリアの方向へ向け、少年は走りはじめる。
 このアーマーガアは知っている。
 ガラル交通の所有する個体ではない。兄の育成しているアーマーガアだ。メインパーティではなく控えとはいえ、チャンピオンの手持ちポケモンを倒せるほどの実力者が、都合よくこの場に居合わせているとは思えない。実際に入れられた攻撃のいくつかはその強靭な鎧の前にいとも簡単に弾かれた。有象無象へは脇目も振らず、広げられた翼は風を捉え、真っ直ぐに少年をめがけてくる。
「ワンパチ!」
 走りながらボールを開放する。一瞬並走したワンパチは、俊敏な動きで反転し敵へ果敢に飛びかかる。『ほえる』の通じる相手でないのは考えるまでもないことだった。
「『でんじは』だ……」
 せめて麻痺してくれれば。
 だが、願いは願う暇もなく、虚しく打ち砕かれた。ワンパチが技のための電気を充填するかなり手前で、空気をつんざく音すら轟かせて強襲した『エアスラッシュ』が、こいぬポケモンの柔らかな皮膚を切り裂いた。
「ちくしょう」
 走り続けている少年の速度を追い抜いて吹っ飛んできたワンパチの体が、進行方向に落下する。相性が不利でも、急所に入らずとも、覆しようもないレベル差だった。気絶したワンパチをボールに回収する。羽音が迫る。振り向くのが怖い。次のボールを選んで無茶苦茶に放った。
 現れたカジリガメは、先程加入したばかりだが、手持ちの中では一番レベルの高いポケモンだ。
 確認したはずの技名が咄嗟に出てこない。カジリガメは勝手に何かの技を繰り出そうとした。だが遅すぎた。飛来した『はがねのつばさ』は、恐ろしいほどの威力で、愚鈍な標的へと襲い掛かった。
 甲羅が砕けるのが見えた。
 ボールの赤光は砕けた甲羅ごとカジリガメを吸い込んだ。
「ちくしょう」
 がむしゃらに走り続ける。細径に飛び込む。人の群れを押しのける。アーマーガアは音もなく追い続けてきた。もうすぐワイルドエリアに辿り着く。だが街を出てそれでどうすると言うのだ。建物という障壁のないワイルドエリアに入ってしまえば、アーマーガアは本来の力を発揮して、あの嘴や鉤爪は躊躇なく少年を喰らうだろう。
 そのあとどうなるのかなんて分からない。
 どうしてこんなことをするのか。あの死体を見られたのか。盗聴器でも仕込んでいたのか。力無き実の弟を一体どうしようと言うのか。予想がつかない、理解できない、でも、ガラルチャンピオンの怒りに触れたと言う事実だけ、それだけで、理解できずとも十分すぎた。
 終わっていくのだ。何もかもが。
「ちくしょう……!」
 視界が滲んだ途端、足がもつれ、あっという間に石畳が迫り、体が地面に激突する。
 振り向く。
 鎧の鈍い光は目の前だった。
 両腕で思わず眼前を覆った。

 そして、――――風が吹いた。

 旋風が。
 背後から前方へ。
 右を、
 左を、
 上空を、
 弾丸のように駆け抜けた。

 目を開ける。
 黒い影へ立ち向かっていく黒い影。

 ――おびただしいほどの鴉の鳴き声!

「ヤミカラス……!」

 並べればうんと小さいヤミカラスが、群れになって、しきりに乱れ飛びアーマーガアを牽制している。
 信じがたい光景だった。三十を下らないヤミカラスの大群はあのやかましい声で少年を庇うようにがなり立て、アーマーガアは困惑気味に翼を打って後退していく。唖然として少年は空を見た。そこにひときわ大きな翼が飛来した。同じ黒。だが、その黒に不自然なまでによく映える、あの頭髪を想起させる白い胸毛。
 差し出された足を掴むと、ドンカラスは少年を連れ、空高くへ飛び立った。
 地面が離れていく。ヤミカラスに取り巻かれて動けずにいるアーマーガアの赤眼は、こちらを睨み、すぐに建物の影に見えなくなった。やや離れた場所へ向かってドンカラスは高度を下げていく。建物と建物に挟まれたその場所には別の騒音が耳を塞ぎたいほどに反響していた。やかましくも小気味よいエンジン音!
「おじちゃん!」
 サンドバギーの運転席で、白髪サングラスの男が片手を上げた。
 助手席へと放り込まれる。シートベルトを締める間も無く座席へ背中が叩き込まれた。バギーカーは待ってましたと言わんばかりの唸りをあげフルスロットルで発進する。建物間を抜け一瞬で車道を走破し、陸橋をくぐり、ワイルドエリアへと突入した。
「どうして」
 喜びよりも、信じられない気持ちの方が勝っていた。「言ったろ」と、サングラスの下で男が笑う。
「お前みたいな馬鹿が、俺は嫌いじゃないんだよ」
 ガァガァ、と低く鋭い鳴き声がエンジン音を突破してくる。空を追走するドンカラスが何かを訴えかけてくる。今朝と比較にならない速度でバギーを爆走させる運転手の代わりに、少年が背後を振り返った。
「……来てる!」
 夕日に影を伸ばしつつある陸橋の向こうから、その影を幾重に塗り重ねたような濃い黒色が躍り出る。無数の小さな黒点を振り払うようにして、大きな点が迫ってくる。
 無駄だ。助力しようとしたトレーナーたちに対して覚えた絶望が、再び少年の視界を奪い去ろうとする。
「下ろしてよ」
 声が震える。黒い絶望は猛烈な勢いで近づいてくる。ドンカラスの足へ手を伸ばしたのは自分なくせして、今更の懇願だった。だが、これから起こるだろう悲劇は、そんな安っぽいプライドなど、捨て去らせて余りあるほどの恐怖を少年に喚起させる。
「ああ?」
「だめだ、敵わない、逃げ切れっこない、巻き添えにしちゃう」
「勝算があるのか? それとも餌にでもなってやるつもりか」
「でも」
「選ばれたんだろうが、お前は」
 怒りをぶつけるような声で男が叫ぶ。
「ポケセンの前で野垂れ死んでた奴とは違うんだろうが。『神』に、選ばれたんだろうが、お前は!」
「――選ばれてなんかないッ!」
 気付けば少年は怒鳴り返していた。
「俺が推薦状を貰えたのは、俺が『チャンピオンの弟』だからだ!」
 鬱陶しいヤミカラスの追随を遂に振り切ったアーマーガアが、翼を変則的に振るう。男がステアリングを一気に回す。バギーは雄叫び砂煙を上げて旋回し、放たれた風の刃を辛うじて避ける。だが一度限りだった。動きを見切った二撃目が、車体から後輪を切り離した。
 爆発音。座席から放り出され宙を舞う。
「ドクロッグ!」
 光が目の前を走り、地面に叩きつけられる前に受け止められる。ドクロッグの冷たい体は少年を抱いたまま両足で着地の衝撃をいなし、男もまたうまく受け身を取りすぐに起き上がって身構えた。
 どす黒い煙が視界を奪う。ドンカラスが喉から警笛を響かせる。高速で向かい来る野良の子分たちが応える、だがアーマーガアの強襲が圧倒的に早い。
「来るぞ!」
 目を見開いた少年の視界が、一瞬にして、一面の赤に塗り潰される。




 ――目を開ける。
 景色は一変を遂げていた。
 地獄と呼んでも差し支えないような、赤い荒野が全景に広がる。
 空には天頂を中心にどす黒い雲が渦巻いている。
 ガラルを旅してきた。初めての経験ではない。ワイルドエリアに観測される、特別な力を発揮したポケモンが放つ高エネルギー体による景色の変容だ。そして、そのエネルギーを放出した、特別な力を発揮したポケモンとは――
「キョダイマックス……!」
 ――全身を赤く輝かせ、解放した翼の鎧を『ブレードバード』と呼ばれる独立飛翔体として浮遊させた、十倍とも見える巨大化を果たしたアーマーガアが降臨した。
 世界中の悪意と狂気を凝縮したかのような、禍々しいまでの赤と黒。
 サイズだけではない迫力に圧倒される。奥歯が鳴り、足が震えて動けない。へたり込んだまま見上げているだけで気力が吸い取られるような。無理だ。絶対に敵わない。何度でも上塗りされる絶望が、少年のすべてを支配する。『神』に等しいその存在を前に、立ち向かおうとすることすら、冒涜行為のように思えてしまう。
 なのに。
「……面白え」
 隣に立ち上がった男は、サングラスを額に上げ、不敵な笑みすら浮かべるのだ。
「試してみるか。群れて喚くのがお似合いの雑魚が、たった一匹の強者に歯向かうとどうなるか」
 腕を振るう。脇から彼のドンカラスが、一寸の迷いなく飛び出していく。
 そして、ヤミカラスの大群が、ボスの翼へ追随する。
「無茶だ!」
 少年の悲鳴と同時に、アーマーガアはその超巨大な翼を悠々と広げた。
 赤黒い光を放つ六枚の『ブレードバード』が、まっすぐ突進してくる群れをめがけて襲いかかる。あたかもそれ自体が意思を持つかのように縦横無尽に動き回る飛翔体は、それよりもまだ小さなヤミカラスの動きを掻き回し、斬り刻み、次々と撃ち落としていく。
「やめろ」
 震えの止まらない唇が零す。無力だった。その場の誰よりも粗末な声。
「やめさせてくれ」
 風に翻弄される木の葉のように、罪のないヤミカラスは蹂躙され、荒野へ墜落していく。
 それでも、ヤミカラスたちは、まるで親の仇か何かを相手取っているとでも言わんばかりに、空の覇者へ一撃を加えようとする。
 ――どうして?
 その光景が、その光景に重なるものが、憐れで、憐れで、少年の視界は滲んでいく。
「兄貴には絶対に敵わないのに」
 呟きに、隣の男が反応した。
「誰が決めた」
 また一羽が奇声と共に弾き飛ばされる。
 それと入れ替わって向かう一羽が、本体へ『つばさでうつ』をヒットさせる。
 鋼の鎧はびくともしない。
「誰が決めなくたって決まってるじゃないか」
 棚の埃を払うかのような気軽さで、巨大な翼が横に振れる。
 群れは縦に割れて避け、避けきれなかった二羽が、塵みたいに吹っ飛んでいく。
「誰も兄貴には敵わない、誰も勝ったことがない、あいつを倒せる奴なんかいない、誰だって分かってる、俺だって」
 震える手が縋るように砂を握る。やはり指の間から砂はするすると抜け落ちていく。
 後悔に垂れ流れる涙も鼻水も、少年は拭うことすら出来ない。
「なにひとつ兄貴に勝ったことがないんだ、なにひとつだ、何も勝ってるものなんかない、いつだって兄貴の言うことを聞いてきた、俺なんかが兄貴を倒せるはずがない、控えのアーマーガアも倒せないのにあのリザードンに敵うはずがない、全員分かってた、無駄だって、チャンピオンになりたいだなんてこんな旅は茶番だって、最初からなんにも意味がないって!」
 喚きを振り回す少年に、
「――本当に意味がないと思っているのか」
 その刃を受け止め握り込み、男は迫真に問いかける。
「意味がないと思いながら、リザードンに有効な水タイプのポケモンを、最初の相棒に選んだのか」
 頬を叩かれたような気がした。
 絶望の音に掻き消され、聞くことすら忘れていたのだ。脇に転がるバッグの開いた口の中で、残る最後の手持ちのボールが、ガタガタと戦意を主張している。
「意味がないと思いながら、二匹目の仲間は相性有利な電気タイプのポケモンにしたのか」
 少年は震える手でバッグを引き寄せた。
 沈黙する二つのボール。それらの沈黙すら、意気地のない主人のことを無言に奮い立たせるようで。
「無茶をしてまで、ワイルドエリアの荒野で、四倍弱点を突ける岩タイプのポケモンを捕まえたかったんじゃなかったのか!?」
 相棒のボールを握りしめる。
 光を蹴破って飛び出したメッソンは、少年を振り返ることすらしなかった。あの臆病な普段の様子は微塵も感じられなかった。地を蹴る。飛び上がる。自身の何十倍も大きな敵へ。頬を膨らし放つ『みずでっぽう』の水流は、あの巨体を前にまるで爪楊枝か何かのようで、攻撃に些細な意味すらあるのか、ないのか、だが地へ戻ったメッソンは、再び地面を蹴りあげると、より高く、より体に近い場所から、より強力な水流を敵へ浴びせかけようとする。何度でも。何度でも。
 独立飛翔体『ブレードバード』の一機を、満身創痍のドンカラスが遂に『つじぎり』で粉砕する。
 別の一機を、五羽がかりのヤミカラスたちが、互いに揉みくちゃになりながら地へと引き摺り下ろしていく。
 隙をついては繰り出される『ナイトヘッド』が、一羽一羽の破壊力は極僅かでも、着実にアーマーガアを蝕んでいく。
 メッソンの何度目かの『みずでっぽう』が、アーマーガアの喉元を捉えた。殆ど羽毛を湿らしただけと言えるくらいのその一撃が、アーマーガアの臨界点を突破した。
 生物が発したとは信じ難い地鳴りのような咆哮。
 凝縮された風のエネルギーが、天を駆け巡る一陣の龍のように、少年めがけて襲い来る。
「シャドーボール!」
 男の指示と共に前へ出たドクロッグが、両手の内へ濃縮した闇のエネルギー体を、竜巻の中心めがけて撃ち放った。
 キョダイマックスのアーマーガアによる『キョダイフウゲキ』、その巨大すぎる渦にいとも簡単に飲み込まれようとするほんの小さなシャドーボール。だが。エネルギー同士が接触した瞬間、悪意の風とは別種の爆風が、接触点から巻き起こった。
(拮抗してる……!)
 少年は息を呑む。
 瞬く間押しあった風の力と闇の力は、闇が押し負けた。猛烈な渦がドクロッグを襲い、地へ踏ん張ろうとした紺碧の体が、叫びを散らして吹っ飛んでいく。一撃だ。だが、背後で余波を浴びた少年が身を屈めて耐えられただけ、かなり威力を削ぐことに成功している。
 ドクロッグをボールへ吸い込み、男は次のボールを手に掴み、
「ハッ! いいねえ、」
 そのハイパーボールを、大きく振りかぶり、上空の脅威へと投げつけた。

「――それでこそぶっ壊し甲斐があるってもんだよなァ!!」

 割れたボールから溢れ出す光が闇を切り裂く弾丸となる。現れたグソクムシャは、二対の腕、一対の巨大な爪を戦慄かせ、空中で合流したドンカラスの背を蹴って更に加速し、目にも留まらぬ速さでアーマーガアへと迫っていく。
「『であいがしら』ァ!」
 戦闘本能を剥き出しにした男の叫び。
 相性的には最悪に不利なはずだった。だが、――振りかぶり、アーマーガアの腹部へめがけて勢いよく突き立てられたグソクムシャ渾身の一撃は、そこにあるアーマーガアの鋼の鎧へ、一筋の亀裂を生み出した。
(……この人、)
 少年は顔をあげる。
 横に立つ素性も知らない男は、この状況を楽しんでいるとでも言わんばかりに、狂気的に笑っている。
(……強い……!)
「グレイトォッ!」
 アーマーガアが悶えるようにめちゃくちゃに翼を振るう。打ち捨てられたグソクムシャは、『ききかいひ』の特性により男の手中へと戻ってくる。悲鳴のような鳴き声をあげながら、乱暴に呼吸を荒げ翼をせわしく上下させるアーマーガアは、段々と高度を下げている。
 圧倒されている少年の元へ、メッソンが駆け戻ってきた。冷たく柔らかい手が相棒の手を取る。ポァポァ! と、叱責するような鳴き声をあげる。
「お前はよ!」
 羽搏きの起こす乱気流に白髪をせわしく揺らしながら、
「確かに今は、兄貴には遠く及ばないかもしれねえが!」
 まっすぐに強敵を見据えながら、
「ここに!」
 ――ドン! と、握り拳で心臓の上を叩き。
 男は少年へと叫ぶ。
「譲れない、かけがえのないものも持ってんだろ!」

 ――譲れないもの。
 頭を撫でられた幼少期のあの記憶が、花火みたいに、爆ぜた。

 少年は立ちあがった。飛びつくメッソンを腕に受け止め、地獄の中を駆け出した。
 指笛を高らかに吹き鳴らす。二羽のヤミカラスが飛んできて、少年の肩を鷲掴み、暗澹たる空へと飛び立った。
 赤黒く光り輝く宿敵の巨体にぐんぐんと近づいていく。
 その濡羽色に、あの姿を見た。自分と同じ色をした長い髪。多くの賛同者の企業ロゴを誇示する豪奢なマント。時に自分に安らぎを与え、時に自分を抑圧し黙らせる、あの太い声。自信と誇りに満ち溢れたあの笑顔。
 実力。人望。なにひとつ。なにひとつとして、勝てると思った試しがない。

 だとしても。

『強くなれよ』
『俺のように』

 ――ふざけんなッ!
 過去に与えられた呪縛を、少年は全力で否定する。

「俺は!」

 風が頬を打つ。全身の血流が怒りに沸き立つ。

「あんたを!」

 後ろへ引き、殴りつけるように突き出した腕から、メッソンが激流となって飛び出していく。

「“超える”!!」

 見たこともないパワーを纏い、メッソンのあまりにも小さな体は、鋼の鎧の一筋の亀裂へと全力を尽くして突進した。


 ――赤く光る亀裂が、みるみるうちに、アーマーガアの全身を喰い尽くす。
 世界を震撼させるような弩級の悲鳴が、分厚い雲をも吹き飛ばした。







 飛び去っていく一羽のドンカラスの影は、次第に夕闇に呑まれていった。
 それが闇の向こうに完全に見えなくなってしまうまで、少年は見送った。彼の故郷の言葉なのだという別れの挨拶の不思議な響きは、声の主が完全に視界から消え去っても、耳に残り続けている。別れの寂しさというのは、殊の外、湧いてこなかった。固く握り合ったあの分厚い手のひらの、焼けるような熱さの方が、ずっと象徴的に、記憶に刻み込まれるだろう。
 別れる前。力を失い通常のサイズに戻ったアーマーガアが北方へ逃げていくのを見送りながら、「俺の弟弟子おとうとでしの話なんだけどよ」と男は少年に語って聞かせた。
「祖父が島一番の有力者でな。優秀な祖父を持つことにそいつはプレッシャーを感じて、バトルでの『勝ち』に拘ることに、ひどく後ろ向きになってやがった。勝てなくても楽しければいいんだ、なんて、自分に言い聞かせてな。だが、仲間たちと共に旅をし、己や己のポケモンたちと見つめ合う中で、そいつは変わっていった。旅をして、試練に耐え、鍛錬を積んで高みを目指すことに、自分なりの意味を見出したんだ」
 人やポケモンと出会うことで人生が面白くなる、っつうのは俺の師匠の受け売りなんだがよ、と、やや気恥ずかしげな、だが確信を得た表情で続ける。
「お前も、旅をする意味を、自分なりに見出してみろや」
「……それでも意味が見つからなかったら?」
 少年の問いかけに、
「そのときは」
 振り向き、正面から向き合った男は、あの大きな手で少年の両肩を掴み。

「全部、ぶっ壊しちまえ」

 影の差す顔に、瞳を暗くぎらつかせ、笑った。

 とっくに男の去った方角に、背を向ける。闇の迫るワイルドエリアは徐々に輪郭を溶かしつつあり、赤く焼け爛れるような夕焼けも、すっかり威勢を失っていた。先に見える陸橋、その先に見える街へと、少年は一歩を踏み出す。背後から名前を呼ばれたのは、そのときだった。
 共に田舎を出発し、記念すべき人生最初のポケモンバトルで簡単に少年を負かしてみせた、隣家の少女が、顔を華やげて駆け寄ってくる。
「久しぶりー! ってこないだ会ったばっかりか、あはは。あれっ、なんかボロボロだね」
「そりゃあ、日々大冒険を繰り広げてるからさ」
「ふふ、私だって負けてないよっ! 私もサルノリもすごく強くなったんだから。あっ、ねえねえ、昨日のチャンピオンのバトル中継見た? 最後のリザードンのフレアドライブ、もーっすごかったーっ!」
 遥か遠い夜空の恒星のように、彼女の目は、彼女のすべては、いつだってきらきらと輝いている。
「ますますやる気出ちゃったよ! ねえ、よかったらバトルしない? あっでも街に行ってポケセンでみんなを休ませてから、あとー夜も遅いから、やっぱり明日の朝とかかな。どう?」
 顔の前で両手を合わせ、力比べを請いながら、少年へと笑いかける。毎日楽しくて楽しくて仕方ないという顔で。
 砂埃に汚れた頬を、少年はくいと上げた。

『……それでも意味が見つからなかったら?』
『そのときは』

 ――肩に引っ掛けたバックの中身を思う。メッソン、ワンパチ、カジリガメ。そして先程仲間に加えた、新たなポケモンのこと。
 ボールの中で、ヤミカラスは、早く屍肉を貪り喰いたくてたまらないとでも言いたげに、翼を震わせていることだろう。


『全部、ぶっ壊しちまえ』


「……もちろん!」
 溌剌と答え、二人は街明かりへ向かって駆けはじめた。
 笑いあいじゃれあい走りながら、一瞬だけ、男の去った方へと顔を戻した。北の方角はすっかり夜の帳を下ろしている。あの闇の先に、険しい山脈が聳え立ち、その向こうに、人もポケモンをも喰らう、飢えた大都会が待ち受けている。
 自然と笑みが浮かぶ。
 心臓は踊るように高鳴っている。

 ――行こう、ヤミカラス。あの街へ。腐敗しきったあの街へ。

 お前の大好きな腐りかけの屍肉なら、あの街に、いくらでも転がっているのだから。





(投稿:2019/08/28)