鬱金の橘
<序.しのびね>
五月雨の匂い、橘の香り、抹香、それに涙。
《六尾狐》も《ぽっぽ鳩》も《嘘つ木》も、慌ててねぐらへと戻ってゆく。
草の露を散らしつつ大橘の木立まで来てみれば、その木下闇、真黒な着物に身を包んだ幼い二の宮が小さくうずくまっている。
「ひとりで出てはだめですよ。野山は不思議な化生とか、恐しい物怪の棲み処なのだから」
そのような言の葉も、都の後宮で唯一の頼りであった母更衣を亡くし深い哀惜と憂苦とに見舞われている若宮に、易々と届こうはずもない。
野に佇み平生持ち歩いている笙の笛を掲げる。少しでも慰めになるならばと、亡き更衣の好んだ曲を一つ。
若宮は「袖の香ぞする」と古歌を口ずさむなり、鈍色の袖で両の耳を塞ぎ顔を歪めた。
「さみだれも 風もいたづらに しげければ な吹き散らしそ 花たちばなの香」
そのように我儘を言うので、笙の吹口から唇を離した。
「しのび音に 袖ぬらす君の 夢までも 花の香運ぶ 風とならばや」
慰めようと試みるも、若宮は墨染めの袖でしきりに目元を拭うばかり。
濃い常磐色をした大橘の葉の中に花は真白に咲き、雨がしとどに降り注ぐ。
忍音は悲しかった。彼の肩の黒皮衣に頬をうずめ、命も涸らさんばかりに咽び泣く若宮の、太陽のような笑顔が見たくてたまらなかった。
*****
<一.占術比べ>
二の宮が兄親王を差し置いて東宮に立ってから、五年の歳月が流れた。
東宮は常に、黒皮衣の童を侍らせている。これは幼齢ながら陰陽師としての優れた才を表し、またたいそうな笙の笛の名手であり、名を━━忍音という。
葉月十日余り。月明かりの差し込む内裏の庭には、萩の花が零れんばかりに満開で、《蟋蟀法師》の声が蕭条と満ちている。
その一つの殿舎で内宴が行われており、帝たっての希望で、二人の親王がそれぞれ陰陽師を召したのだった。女房に長持を用意させて、その中身を占術で当てよとの仰せである。
忍音は占うまでもなくぴしゃりと宣言した。
「長持が中身は、大橘の黄金の実にございます」
他方、青白い顔をした壮年の陰陽師は脂汗を垂らし加持をしていたが、やがて震えながら奏上した。
「……中身は、《菖蒲鼠》でございましょう」
宴の席に失笑が満ちる。蓋を開かずとも漏れるこの爽やかな香気が、あの菖蒲の紫花に似た鼠の化生のものであるはずがない。果たして開かれた長持には、忍音が告げたのと寸分違わず黄金の実が収まっていた。そちらの勝利が告げられる。
「……嘘だ、でたらめでございますぞ!」
絶叫し席を蹴立てる壮年の陰陽師を、控えていた《剛力》の化生が牽制する。しかし彼はなおも腕を振り回して喚く。
「ばかな、……有り得ぬ……みな騙されているのです、あの狐の児に!」
「氷海どの」「氷海どの、落ち着かれよ」「御前であるぞ」
集っていた高官らの制止にあい、間もなく彼は筋骨たくましい灰色の《剛力》に引きずられるようにして退出させられた。
御簾の向こうの帝より言葉があった。
「占術、見事」
「有難く存じます……」
丁重に手をつきつつ忍音は横目を使う。すると、堅地綾の引直衣に橘の薫物を香り高く焚き染めた二の宮が悪戯めいてにやりとした。その東宮がこともなげに詠んだ歌は。
「橘を 《菖蒲鼠》に たがうとは いかで氷海の 袖や匂ふらむ」
女房たちが声を抑えつつ笑い出す。東宮の期待に満ち満ちた眼差しを受け、忍音もそれに続いた。
「五月雨の 空なつかしみ 袖濡れて あやめも知らず 軒登るかな」
帝も御簾の奥で困ったように笑うようで、氷海をこのたびの占術比べに推挙した兄宮は恥辱に耐えかね退出してしまった。
東宮がことさら満足げな笑みを浮かべるので、忍音も安堵の吐息を漏らす。
*
「……東宮さま」「東宮さま」
「漢籍を講じましょう」「それより見事な小望月でございます、管弦の遊びなど」
「梨がございますよ」「たいそうすばらしい《唐獅子》の屏風が左大臣の殿より届きまして」
「東宮さま」「東宮さま……」
追いかけてくる華やいだ女房、公卿の声。ぱらりと扇を開き、齢十二の東宮は微笑んだ。
「残念だけど━━今宵は忍音に化生の扱いを習う約束があるから」
けらけらと明るく笑いながら、涼風の満ちた夜の渡殿を進み、自らの殿舎へ戻ってゆく。諧謔の煌めく瞳、つややかな童髪、化生に好かれ、聡明かつ華やかな人柄。誰もが後宮の太陽の世話をしたくてならないが、しかしその寵愛は一人の童に向いている。人々は落胆し呆れ笑いを漏らした。
「童との化生遊びに夢中とは、まだまだ稚くておいでだ」
「しかしじき譲位でございますからな」
「先ほどの占術比べでも、兄宮さまをお相手に……」
話が兄宮に及ぶと、人々の間には忍び笑いが満ちる。月の一の宮、太陽の二の宮。野心に溢れる宮廷の人々が表立ってどちらを贔屓するかなど、火を見るより明らかだ。
橘の香の焚かれた寝所には、円座に小さな鈴の化生の《りいしゃん》がちんまりと収まっていた。笑いを堪えつつ入ってきた若宮に同調し小刻みに身を震わせ始める。
屏風の陰に潜り込み、すっかり人払いをしてしまうと若宮は火がついたように笑い転げた。
「氷海どのが《菖蒲鼠》っつった時の、兄宮の顔!」
「兄宮さまが哀れでなりませんね」
その傍に座した忍音が取り澄ましていると、若宮はますます面白がって扇で畳の繧繝縁を叩き回る。この秋に卵から生まれたばかりの《りいしゃん》も一緒にけたけたと笑う。黄金色の胴体が灯台の明かりを受けて煌めきを振りまいた。
「もう私、そろそろ兄宮の生霊に呪われるやもしれん……!」
「調伏し甲斐がありますね」
「やる気を見せんな、やる気を」
ようやく《りいしゃん》のけたたましい笑い声も収まり、若宮は衣を着崩し脇息にしどけなくもたれかかった。そして傍に控える忍音の黒皮衣を扇でつつく。
「さっきは氷海どのに呪術で《菖蒲鼠》の幻影を見せたのか? かわいそうに。急に兄宮に呼びつけられたと思ったら、忍音なんかに恥かかされて」
「そうですか。僕は氷海どのが嫌いなんでいい気味でした」
珍しく好悪を露わにする忍音に、若宮は扇をぽとりと取り落としてみせる。
「……え、私はけっこう好きなんだけど」
「悪趣味ですね」
「あー、あーそういや屏風の礼状を急いで出さなきゃなー、よしひとっ走りしてこいや」
左大臣から届けられた《唐獅子》の屏風を広げつつ若宮がにやにや笑うものだから、忍音は憮然としつつも逆らえない。内裏から六条の左大臣邸まで、実に千六百丈の距離はあるのだが……。《りいしゃん》が愉快そうに震えながら、念力の術で紙と文箱を運んできた。
*
夜更け、廊の床板はひやりと冷たい。若宮の文を仕方なく手に、忍音はそそくさと後宮を駆け抜ける。
その途中で異様なものを見つけた。目を凝らせば、その殿舎の軒に、びっしりと。
「《影坊主》があのように……」
黒布をくくった人形の如き姿をした化生が月影に浮かび上がっていた。それは人の怨恨の権化であるとも、あるいは怨恨を抱く者の家の軒に集うのだともいわれる。忍音にとってはいずれも大差ないが。
「やはり、兄宮の恨みは相当深いか」
ぶくぶくと肥えた《影坊主》が我が物顔で巣食うは、一の宮の住まう殿舎。先ほど帝の面前で恥をかかされたのがよほど癇に障ったか、忍音が観察しているうちにも次々と新たな影が湧き出てくる。知らぬ人が見れば腰を抜かしかねない気味の悪さであるが、幸いにも霊感ある者にしか今のところは視えていないらしい。
忍音が兄宮の殿舎に《影坊主》を見たのはこれが初めてではない。五年前、忍音の仕える二の宮が太子に立った日から、その数が増え続け……今や渡殿の軒までびっしりと覆うほどに膨れ上がっている。『清めの香』が焚かれる東宮の殿舎には近寄れてはいないものの。
「よかったですね、氷海どの。僕が派手にやっつけたお蔭で、兄宮に幻滅せずに済んで」
先刻の占術比べには負けてやるつもりだったのだ。氷海が兄宮の歓心を買って接近すれば、否応なしにこの禍々しい実態を目にしただろうから。
けれど若宮の、不安と期待の揺らめく瞳に出会ってしまうと、どうにもしようがなかった。そして忍音の面倒は増えた。
「戻ったら札を書き足さねば……」
そして内裏の外に再び足を向けようとして、袖の中に先ほどの占術比べの下賜品の感触を思い出し、忍音は大きく嘆息した。褒美にと長持の中身を帝から賜ったのである。
━━そうだった、ついでにこれをどうにかせねばならない。
袖に片手を突っ込み、掴んでゆっくり取り出すと、それはけして大橘の黄金の実などではない。一匹の丸々と太った《菖蒲鼠》が蠢いているのだった。
***
<二.月見の宴>
翌朝、起床したばかりの東宮は《りいしゃん》の胴体を絹の端切れで磨きつつ、つらつらと語った。
「今日見た夢の話なんだが」
「はい、どうでしたか」
忍音はあくびを噛み殺した。一晩じゅう早駆けを続けても疲れることはないし、むしろ夜間のほうが諸々の作業も捗るが、そのぶん昼間の動きは鈍る。しかし夢解きをするのも陰陽師の重要な役目である。
「里の夢だった」
若宮の故郷の黄金国には無数の大橘の木がある。『黄金の実』が豊かに実る地であるゆえに黄金国の名がついたとの伝承もある。
「大橘には実が鈴なりで、空にはあの時と同じで虹が綺麗で」
あの日もそうだった。
「見とれてたら、黄金の実が一つ、ぼとりと枝から離れて落ちた」
神仏のお告げだろうかね、と若宮は話を締めくくりかけて首をかしげた。《りいしゃん》が転がり落ち、忍音の膝元まで転がってゆく。その忍音は青ざめて眉間を押さえていた。
「……今日は殿下は物忌で」
「なんで。今日は左大臣邸で月見の宴だっつっといたよな。大事は大事なんだけどくそ面倒くさいって言ったよな?」
「じゃあ好都合じゃないですか。凶夢を見たんで無理だ、と文を書けばいいんですよ」
「ほう。じゃ、あの夢の凶夢たる所以を聞かせてもらおうか」
若宮は《りいしゃん》を振り振り、夢の解釈を催促する構え。その素直というべきか能天気というべきか判別のつきかねる様子に忍音は常ながら呆れつつ、慎重に言葉を選ぶ。
「大橘の実はおそらく……あなた自身の暗示かと」
「夢では黄金の実は地に落ちた、ってことは……」
若宮も不吉な事までは言い淀み、ぽんと扇で口元を覆った。忍音も言葉を濁す。
「何が起きるかは……ただ、虹が肝かと。虹は《鳳凰》の象徴、とすれば『縁寿の舞』のころに何かしらの災厄が若宮にあるかもしれない」
危険の芽はいち早く徹底して潰しておく必要があるな、と忍音は胸中で呟く。
若宮もさすがに神妙な顔つきで、《りいしゃん》を静かに膝上に置いた。
「……この秋、めでたく私は元服するだろ。ついでに更にくそめでたいことに左大臣の姫君と結婚するけどそれは置いといて」
「はい」
「元服の儀式に続いて、そのまま九重塔で『縁寿の舞』の奉納がある。つつがなく私が《鳳凰》より寿ぎを授かれば、主上は私に譲位なさる御心算だと」
「僕もそう聞いてます」
忍音は頷いたが、若宮はしつこく繰り返した━━この『縁寿の舞』に私の帝位がかかってる。舞に帝位がかかってるんだ。いいかわかってんのか忍音。
「舞の奉納は必ず遂行する。災いとやらは避けられるな?」
「手は尽くします。ひとまず今日は、くれぐれも十五夜の月なんか気にして端近に出ないで……ああ、あなたにそんな風流心を求めた僕がばかでしたね」
「おう忍音、ちょっと辞退の文出すのに左大臣邸までひとっ走り行ってこいや」
若宮が朗らかに笑う。《りいしゃん》がまたしてもその膝から転がり落ち、ころころと笑い声を立てた。
*
左大臣邸の庭園は風雅であった。紅葉は淡い朱にほのかに染まり、穂先の蘇芳色が濃い薄がなびく。萩に野菊、紫苑、吾亦紅、露草、桔梗、女郎花などが咲き乱れ、置かれた露が色とりどりに玉のように光っている。見事な角と珠を持った《脅し鹿》が遊び、池には破れた蓮葉の下に鮮やかな紅に色づいた《あずまおう》が舞い踊るのもおもしろい。
この秋の東宮の元服を契機に、左大臣の末姫がその妃として入内する予定であることは周知の事実。ゆえにこれはいま都で最も権勢を誇る一門が主催する宴である。午前のうちから席が設けられ、次々と名のある公達がめかしこみ立派な牛車で乗り付けた。
着飾った女房たちが酒と料理を運び、笛や琴が奏でられ、庭では武士たちが化生の力比べをして賑わう。客は月が昇るのを待ち焦がれ、東の空がわずかに月明かりに白むのを歌になど詠んでいた。
さて東宮の辞退を伝えるために邸を訪れたはずの忍音はうんざりしていた。
東宮の訪れを心待ちにしていた左大臣はひどく残念がったが、その代わりといわんばかりに使いの忍音を歓待してくれ、昼間からしこたま呑まされた。━━それだけで済めばまだよかったのだが。
「狐の餓鬼め、今日こそ成敗してくれる!」
「……いや、僕も陰陽師の端くれですし、物怪を成敗する側なんですけど」
そして月が出るのを待つ間、宴の余興の一環に、姫君たっての希望で陰陽師どうしによる調伏比べが行われるのも、百歩譲って理解できる。
しかしなぜまたその相手方が、昨晩も占術比べをした氷海なのか。
忍音は周囲を窺いつつ嘆息した。
「……兄宮さまが来ておられるわけでもない。いかなるご縁にて、氷海どのはこちらに?」
「わたしが左大臣どのの宴に招かれるのはおかしいとでも申すか!」
「いえ、よくまあ昨晩あれほど宮中でご自身と兄宮さまの顔に泥を塗っておきながら、のうのうと此方にお出になられましたね、と思ったしだいですけど」
「……ッほんの子狐如きが言わせておけば!」
氷海は地団太を踏み宴席を見回すが、周りの官人たちは忍音の暴言に気づかなかった様子で、二人を訝しげに窺いながらも咎める者はない。
むしろ左大臣も姫君も客人らも一様に、因縁ある二人の調伏比べにたいそう乗り気な様子である。忍音はすっかり肩を落とした。
「腑に落ちませんが仕方ない。お相手してあげますよ」
「このっ……東宮殿下まで誑かして調子づきおって! 化けの皮を今宵ここで剥いでくれる、貴様が悪しき狐だというのは前世のそのまた前世よりわかっておる事よ、この氷海の眼は誤魔化せぬぞ!」
あまりに声が大きいものだから、女房たちが白々しい目を氷海に向け、高貴な身分の官人らもこそこそと笑う。生白い顔を真っ赤にする氷海に、忍音は追い打ちをかけるのを忘れない。
「破れ蓮の やぶれかぶれを あきの月 てりまさりしを 見るが悲しさ」
「ええい黙れ黙れい! 敗れるのは貴様のほうぞ!」
忍音は鼻で笑い、庭に降りていった。
*
武士が引き連れてきたのは《三ツ尾牛》が二頭。夕日を浴びて眼は血走り、鼻息は荒く、蹄で忙しなく地面を削り、三本の尾で飴色の躰をびしりびしりと鞭打っている。
「これを各々一頭ずつ調伏せよ」
上級官人に指示され、忍音と氷海は並び立つようにしてそれぞれ《三ツ尾牛》に相対する。
「子狐め、指を咥えて見ておれ!」
氷海は袖から氷色のぼんぐりを取り出し螺子を外した。中身がくり抜かれ真二つに割れるよう細工された実の中から、彼が式神としている化生が姿を現す。
「出でよ、しらゆき」
現れたのは世にも珍しい、《白九尾》の化生である。氷海がその来歴を朗誦する。
「このしらゆきはァ畏れ多くも主上より直々に賜ったたいへん珍しい唐渡りの卵より生ぜし《白六尾狐》にィこれまたたいへん貴重な氷の宝玉を与えることによりィ━━!」
《白九尾》が氷の礫を吐くと、暴れ牛がたたらを踏んだ。その面に怪光を浴びせかけ、幻術に嵌める。氷海は得意満面である。
「しらゆきにかかれば赤子も同然! 見たか狐の児、貴様など《三ツ尾牛》の二つ角で一突きにされて終いよ」
これに勝る調伏など到底できまいと、氷海はふんぞり返った。しかし━━彼が期待したような嘆声は宴席からは上がらなかった。きょろきょろ見渡すと、どうも月見客の関心は自分でなく、もう一組のほうに向いているらしい。
忍音はとうに《三ツ尾牛》を鎮め終わっていた。
つい先ほどまでいきり立っていた暴れ牛が地に臥して頭を垂れ、穏やかに尾を振っている。忍音は汗一つかかず、ただ笙の笛を吹いている。その傍らには式神らしい化生の姿も見当たらない。
彼が平生持ち歩いている、長短十七の竹管を並べた笙の笛は、翼を広げた神鳥《鳳凰》を象ったものという。天から注ぐ月光の如き音色が響き渡り、客人たちは調伏の鮮やかさもさることながら、巧みな演奏にも感嘆の吐息を漏らす。
「ばかな、有り得ん!」
憤慨する氷海の声に、忍音は吹口から唇を離し顔を上げた。
「あの、氷海どの……」
「此度はいったい如何なる妖術を使ったのだ、ええ!」
「人のことを見ている場合ですか」
黒皮衣の胸ぐらを掴まれそうになり、咄嗟に身を引く。
同時に《白九尾》の悲痛な声が上がった。
式神を指揮する陰陽師の気が逸れ、式神が隙を見せたところを調伏されきっていない暴れ牛が幻術を振り払い強襲したのである。そしてそのまま氷海のほうへと突進してきた。有事に備えて控えていたはずの武士の《火炎犬》や《灰犬》も、肝心な時に限って、猛牛の勢いを恐れてか動かない。
その刃のような角が、低く真っ直ぐ氷海へと向かっており。
「お、お、おおおおお、おか」
氷海は絶叫した。忍音は再び笙の一つの竹管へと呼気を吹き込む。
「おがあちゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああんッ」
*
氷海が目を覚ますと、十五夜の月は山際に昇っていた。
左大臣邸の月見の宴の席である。秋風にたなびく雲の絶え間から月光が清らかに漏れ出て、酒の回った人々は歓談し詩歌を作り、宴もたけなわの様相を呈している。池や遣水のほとりに篝火が無数に灯され、関東地方は御月見山で捕らえたという薄紅色の愛らしい化生が指を振りつつ月下の舞台で舞い踊る。
氷海は飛び起きた。額に覆いかかっていた白狐のひんやりとした尾が除けられ、式神のしらゆきの安堵したような縹色の瞳とまず目が合う。そして女房たちの華やかな笑いを浴びた。
「気がつかれまして」
「氷海どのともあろうお方が《三ツ尾牛》に手こずりなさるとは」
「忍音の術で、あわやというところで暴れ牛がおとなしゅうなりましたのよ」
「ささ、気付けの一杯」
口々に揶揄われると同時に酒杯を押し付けられる。氷海は合点が行かないながらもとりあえず杯を干し、そろそろと辺りを窺う。
「失礼、女房どの、こちらはどなたのお席か?」
「左大臣のお殿さまの末姫さま━━桜花の姫君のお席にございますわ」
月も朧に霞むかと思われるほど、薫物が濃く甘く焚かれている。灯台が何十も明るく灯されて濃紅の敷物が厚く敷かれ、石竹色や山吹色の几帳が幾重にも立てかけられたそこは、まるでそのあたりだけが春の曙に樺桜が咲いたかのような、未来の妃の月見の席なのだった。
一番の上座の几帳の傍にはひどく酩酊した忍音が伺候していた。その几帳の陰の並々ならず高貴な気配こそ、桜花姫その人であろう。
女房の耳打ちを受け、姫君は氷海を傍近く呼び寄せた。
「先ほどは災難でございましたね、氷海どの。大事ありませんか」
それは春の日差しのように澄んだ、《綿羽鳥》も恥じらうがごとき美声。
「ははあ、このたびはこの氷海めをお招きくださり……」
「そなたには前々よりお話を伺いたく思っておりました。一の宮さまはいかがお過ごしでしょう」
几帳越しではあれど直々に声をかけられ、すっかり舞い上がった氷海に、すかさず女房が酌をしてくれる。
左大臣家の末の桜花姫といえば、才色兼備と謳われ、それでいてどこかしら風変わりな姫君との噂がある。それが実際に話してみれば思いがけず口調は打ち解けて親しみやすく、打ち重なる濃淡様々な蘇芳色の裾は春山の連なるよう。甘い薫衣香も極楽浄土の香りかに思われる。
「ところで姫君、もしやこの薫香……草の化生の術にございますな?」
「さすがは氷海どの」
姫君が几帳の下からそっと引き出した袖に絡ませているのは、蔓の形、葉の艶、蕾の色、いずれも優美な《未蕾》という化生である。それが妖しいまでに魅力的な香りを漂わせているのだった。
「これは一の宮さまが、桔梗国の形も香りも殊に優れたものをお譲りくださったのです」
「なんと……姫君は兄宮さまとご縁がおありで」
「大元は一の宮さまの一の妃となる運命にございましたもの。幼き頃とはいえ比翼連理の契りすら誓った仲ですわ」
氷海も訳知り顔で頷いた。左大臣の殿はこの末の姫君を溺愛しており、どうあっても東宮の妃にし果ては国母として栄華を極めるべしと神仏に誓ってさえいるのであった。
「その一の宮さまも、待宵の占術比べでは弟宮さまにひどくやり込めてしまわれたとか」
「は、我が力が足らぬばかりに……」
「これが相手なれば、致し方のうございましょう」
姫君はさりげなく忍音を示すが、当の忍音は半分眠って黙り込み、その顔は月光を受けて青く透き通るようだった。狐に化かされているような気がしつつも、先ほどの調伏の疲れもあろうにと氷海は同情を覚えないでもない。
「されど一の宮さまもおいたわしいこと。……氷海どの、どうかそなたは一の宮さまをお支えして差し上げてくださいましね」
間もなく正式に東宮の縁者となる左大臣の殿とそれに近しい者は、おしなべて東宮を推し立て、その異母兄である一の宮に対する敬意の薄いところがある。とはいえ弟が兄を軽んずるのは孝悌忠信の徳に反することであるし、兄宮のほうが血筋上での身分も軽視し難いことから、陰ながら兄宮に同情を寄せている者は少なくもなく氷海もその一人である。ゆえに桜花姫の言葉は嬉しく身に染みた。
陰陽師の呪具が見たいという姫君に氷海は月の力を秘める黄ぼんぐりを献上したりなどして親しく語らっていたが、にわかに湿りを含んだ大風が吹き出した。秋の野分の襲来である。
十五夜の月は雲隠れし、雨が激しく降り出した。宴に出ていた人々は挨拶もなおざりに牛車で退散するやら屋敷に転がり込むやら、興ざめなことかぎりない。異様に口数の少なかった忍音はこのまま左大臣邸に留まることとなった。
氷海も桜花姫にしきりに促され、横雨が冷ややかに吹き込む中、車に乗り込み自邸へ戻ろうとしたが━━そうもいかなかった。
内裏の方角に、おぞましいほどの妖気が膨れ上がるのを彼は感じ取った。
*
さて、氷海も桜花姫も、あの場にいた誰もが思いもかけない事ではあるが━━望月が東の山から登ったころ、忍音は自分の式神を身代わりに宴に残し、左大臣邸を人知れず辞していたのである。
やがて恐ろしいほどの風が出てきて、野分の襲来に忍音も気づいた。手遅れになる前に内裏に戻れたことに安堵しつつ、強風に怯えて格子もすべて下ろされ人少なになっている後宮の渡殿を小走りに進む。
まもなく東宮の殿舎まで戻ってくると、さすがの忍音も驚愕に目を見開き、立ち竦んで声もなかった。
東宮の住まいが闇の嵐に呑まれている。
視覚を研ぎ澄ませば、その黒い嵐はすさまじい数の《影坊主》が野分の勢いに乗りとぐろを巻いているものと見えた。そのおぞましさには忍音も厭悪の情すら催すが、他方で霊感のない女房らはまるでそれに気づかずただただ強風に巻き上げられる御簾を押さえるのに躍起になっている。
「札を書き足していてよかったが……」
とはいえ今は忍音の元に彼の式神はいない。自分一人の力で若宮を守らねばならない。
意を決し、《影坊主》に取り囲まれている東宮の殿舎に足を踏み入れた。
庇の間を一歩ゆくごとに、影色の湿っぽい布がひたひたと全身に纏わりつくような感覚がある。
無数の瞳が追いかけてくる。
ひたすらに暗黒の海。
忍音の鋭い聴覚に、悪霊が呪詛を注ぎ込む。
━━あな憎し、あな口惜し。
━━劣り腹の宮が何もかも奪ってゆく。
━━あれさえ無くば、我こそが東宮であったのに。
━━あれさえ無くば、姫君と結ばれたものを。
━━あれさえ無くば。
━━あれは…………何処だ?
聞き苦しい怨嗟の声を無視して母屋に入ると、闇の海が唐突に途切れ、橘の『清めの香』が薫る清浄な空間がそこにはあった。忍音はひとまず息をつく。
若宮は呑気にも、畳の上で延々と小さな《りいしゃん》を転がして戯れていた。思わず呆れ顔をした忍音に気付いて顔を上げ、意地悪く笑う。
「おいおい。文渡してこいっつったのは朝なのに、今頃のこのこ戻ったのかよ。むしろよくあの桜花姫から逃げられたな?」
「式神に僕の振りをさせてます。ところで要らん風流心など起こして外には出なかったでしょうね?」
「お前に言われたから出なかったんだけど!?」
喚く若宮の前を素通りし、忍音は全面に『清めの札』を仕込んであった《唐獅子》の屏風を無造作に畳んだ。すると護符で作っていた結界に風穴が開く。
その刹那、突風と共に《影坊主》がなだれ込んできた。東宮の寝所を怒涛の勢いで駆け巡り、何かを探している。怯えた《りいしゃん》が若宮の袖の中に転がり込む。
若宮の頭から爪先までにも《影坊主》は張り付き、まるで造りかけの乾漆像の如き有り様になった。それでも霊感のほとんどない若宮はいまひとつ勘付かない様子で、袖の中で震える《りいしゃん》をかき撫でつつ風の中、不審そうに忍音を見上げている。
忍音は懐から『呪いの札』の束を取り出した。
すると《影坊主》がいっせいに忍音の手元に群がった。呪符をその手から奪い取っては、満足そうに十匹程度ずつ屋敷から飛び出していく。
忍音が厭そうな顔で取り出す大量の怪しげな護符が、暴風に毟り取られるようにして外へと飛んでゆくのを、若宮は頬杖をつきつつ珍奇な物でも見るような目で眺めていた。吹き飛ばされた呪符が一枚、べちょりとその顔面に張り付いたのを、こちらも負けじとうんざりした顔で跳ね除ける。
「……外でやってくんない?」
「はい、もうすべて外に出ていきました」
「……いや、なら最初から外でやれよ」
「それではあの物怪が満足しないでしょうから」
《影坊主》の最後の一匹が呪符で満足して野分の荒れ狂う外へと去るのを確認すると、忍音は緊張を解いて伸びをした。
物怪と聞き、若宮は表情を改めて身を乗り出す。その袖から《りいしゃん》が転がり落ちて、鈍い音を立てた。
「何が起きてた?」
「あの札が身代わりになったので、何も盗られてませんよ」
忍音も若宮の前に腰を下ろした。にわかに顔の青ざめた若宮が袖で口元を覆う。
「盗もうと……しただと? 物怪が……私から……まさか…………」
「ええ。『虹色の羽根』を」
*
忍音があっけらかんとして答えると、若宮はさらに奇妙な顔をした。《りいしゃん》が風に巻かれて低く唸る。忍音は澄まし顔のまま鼻で笑った。
「命でも取って食われるとでも思いました? 残念ながら《影坊主》にそれほどの力はない」
「でも『虹色の羽根』は……」
心なしか震え声で呟き、若宮は懐から慎重な手つきで畳紙を取り出した。そうっと開き、また戻す。
忍音は肩を竦めた。
「別に盗られてないでしょうが」
「ああ、ここにある、にしても……何者だ?」
「見当はつきますが、念のために『呪いの札』を土産に持たせました。呪符は《影坊主》の呪力を制御不能なまでに増大させる。すると、あれに悪事を吹き込んだ不埒者の懐で暴走してくれるって寸法です。ある意味、呪詛返しとでも言えましょうか」
ゆえにすぐ犯人は明らかになりますよ、と安心させるつもりで言ったが、どこか若宮は上の空である。
「官人どもや武士の多くが左大臣邸の宴に出かけて、内裏は人少なだった……私は物忌のため後宮に留め置かれ、そこに……物怪が襲来した。お前は何食わぬ顔で宴を抜けてきた」
「そうなりますね」
「━━まさか、私を囮にして罠を張ったわけか?」
「仮に最悪の状況に転んだとしてもどうせ死にゃしないんだし、別にいいじゃないですか」
軽い調子であしらったが、反応がなかった。野分が恐ろしく轟いている。
ぎょっとして振り返ると、若宮の瞳の奥で疑念の炎が揺れていた。
仰向けにひっくり返った《りいしゃん》が、どろどろと聞いたこともない不気味な音色で低く振動している。その真っ黒な割れ目から忍音は視線が外せなくなった。がつんと頭を殴られたような衝撃に、心臓が早鐘を打つ。舌が回り出す。
「すみません、失言でした、そうですよね、『虹色の羽根』は命に等しく大事です。羽根があったからこそ、《鳳凰》に選ばれたからこそ、あなたは東宮に立つことができたのだから。由緒ある血筋の女御様からお生まれになった兄宮を差し置いて、あなたが……そう、たしかにそうだ」
半ば自分に言い聞かせるように。
「『虹色の羽根』が奪われればあなたは終わり。東宮位から降ろされ、ことによっては流罪だ……城都の守護者たる《鳳凰》への礼を失することは帝に対する侮辱……親王でも、いや親王だからこそ許されない、そうですね……」
身を裂くような吐き気に悶えつつ言い訳と謝罪を繰り返す。
「あなたが一人で残ることの危険をきちんと説明しなかったことは謝ります、でも大丈夫ってわかってたし、確実に東宮に仇なすものを仕留めようとして、だから、いや、すみませんでした、その」
不意に、若宮が堪えきれずに噴き出した。
それまでの濁音が嘘かのように、《りいしゃん》が強風に巻かれて澄んだ声で笑い転げている。忍音は顔を上げた。思いきり顔を顰める。
「……は?」
「ああ、さすがにお前に利用されたのにはくそ腹が立ったが」
そう言いつつも、若宮はひとしきり腹を抱えて大笑いしていた。いつもの太陽のような笑い声に、困惑していた忍音の心が落ち着きを取り戻してゆく。
ようやく笑いが鎮まったかと思うと、若宮は閉じた扇を振って気安げに忍音を呼び寄せた。
忍音は渋々にじり寄る。すると朗らかな笑顔の若宮は、扇で忍音の顎をぐいと持ち上げた。
「━━━━次、ふざけた真似をしたら殺す」
《りいしゃん》が不気味に唸る。忍音は呆気にとられて、生まれてから十二年間ずっと仕え続けてきた若宮の、そのぎらぎらと輝く瞳を見つめた。
二人の間に暫し沈黙が落ちた。
「……いや、ここは何か言えって」
「えええ……とりあえず、殺生は仏道に悖りますよ」
「えええ……まさかお前に仏道を説かれる日が来るとはな……」
若宮は忍音の顎から扇を離してぱらりと開き、《りいしゃん》に風を送った。小さな鈴の化生が転がり小気味よい音を立てる。
「いいか、私は東宮だ。ゆえに、覚えておくがいい……必ずやこの東宮に対する反逆者を始末しろ……始末すると誓え。それが出来ないなら」
扇を首の前で横に引いておいて、若宮は荒れ狂う風の中で笑っている。その瞳の奥で暗く傲慢の炎が揺れる。若宮の心には五年前に母更衣を亡くした時から寂寥が吹き荒れている。
忍音は頭を下げた。覚悟ならばとうの昔に決まっているのだから。
「…………わかりました。では、誓約の証として」
平生持ち歩いている笙の笛を取り出した。ぎょっとする若宮の目の前で、歯を立てて笙の帯を食いちぎり、根継に齧りつき、立ち並んでいた竹管のうち一本だけを強引に取り外す。
無残な姿になった笙のほとんどを床に捨て置き、漆塗りの一本の竹管を、恭しく若宮に差し出した。
しかし若宮は笙の残骸を見やって顔を顰めた。
「お前、それ、母君の笛では……」
「笙に擬した式神の器です。本体はこの管一本のみ、これを管狐が棲み処とします」
有無も言わせず、若宮の手の中に竹管をそっと握らせる。
「さす竹の 君がよ恃み 吹き乱す 野分しのばむ ねの絶ゆるまで」
母から継いだ笛すら壊して式神を預けようという忍音の剣幕に、若宮も気圧されるようにして竹管を懐にしまった。
「下露に なびかましかば なよ竹も 荒き風には しをれざらまし」
皮肉らしく笑い合う。
そのとき、若宮の腕に鈴紐を巻き付けていた《りいしゃん》が警戒音めいた鋭い声を上げた。暴風に乗り、煙の臭いが嗅ぎ取れる。
兄宮の殿舎の方角で女房の悲鳴が上がった━━二人はほくそ笑む。ここからが正念場だ。
***
<三.黄金の実>
━━深更の野分に乗じ、物怪騒ぎにて後宮は一の宮の殿舎が炎上。
━━穢れを忌み、東宮は本日にも左大臣邸を訪問、暫し滞在の事。
その報を忍音は、夜明けごろに改めて左大臣邸で聞いた。一晩身代わりにしていた式神は入れ替わりに若宮のもとへ向かったはずだ。
「左大臣の末姫さまがお召しでございますわ」
朝早くに姫君付きの女房に告げられ、その案内に従う。
荒れ果てた秋の庭の風情も見事だった。暴風雨も物ともしない立派な左大臣邸を巡りに巡り、東の対屋に住まう桜花姫の前に忍音は参上した。《未蕾》の甘い香りが頭痛がせんばかりに濃く、紅匂襲の袖が簾の下から溢れんばかりに覗いている。春霞のかかるような簾越しに姫君と対面する。
まず忍音は嗅覚の麻痺するかと思われるほど強烈な香りに辟易しつつも、丁重に頭を下げた。
「昨晩の宴ではすっかり酔ってしまい……たいへん失礼を致しまして」
「じきに東宮さまがこちらへいらっしゃいますわ。その前に忍音、そなたと話をしておきたいのです」
女房による取次もなく、桜花姫その人が声をかけてきた。
姫君が扇をぱちんと鳴らすと、女房たちが衣擦れの音も静かに退室してゆく。しかし忍音は物陰に複数の武士が息を潜めているのを悟っていた。都の警備を司る近衛までもが左大臣の要請で集められているのかもしれない。けれど、東宮に睨まれたほど怖くもない。
何も勘付いていない振りを装って忍音が畏まっていると、姫君がどこか緊張を孕んだ声音で問いかけてくる。
「東宮さまがこのお邸へおいでになられる由、そなたも聞いていますね?」
「は、後宮にて物怪騒ぎがあったとか」
「左様。何者かが畏れ多くも一の宮さまを呪詛したと。さて……そなたは童ながら優れた陰陽師とのことですが、むろん犯人に心当たりはありますね……?」
忍音は胸中で失笑した。
しかしそれもおくびにも出さず、簾越しに桜花姫を見据える。
「━━氷海どのからお聞きになったのですね?」
単刀直入に告げると、図星であったらしく御簾の奥で仄かに身じろぎする気配がある。
「……後宮の焼け跡にて、そなたの手による『呪いの札』が見つかったそうですが?」
「にもかかわらず、姫君はこの僕と話をしようなどとお考えになったわけだ?」
この対屋の周辺に人を集めたとはいえ、姫君直々に親王呪詛の犯人を詮議しようというのだから、この姫君の変わり者という噂もあながち誤りではない。むしろその大胆さも妃の器に相応しいというべきか。
若宮のため、何をしてでも、この桜花姫を丸め込む。
忍音はにたりと笑みを浮かべた。
その態度のわずかな変化に勘付いたか、桜花姫の声色が厳しさを帯びた。
「近衛も呼んであります。そなたに逃げ道はありませんよ」
その言葉を受け、物陰に潜んでいた男たちがぞろりぞろりと姿を現す。よく馴らされた《灰犬》や《剛力》といった化生も引き連れ、いつでも忍音を捕縛できるように取り囲む。
それでも忍音は泰然と首を振った。そして周りの者たちにもよく聞こえるよう、声を張り上げる。
「それほどまでに姫君は、兄宮さまを愛しておられるわけだ!」
近衛たちの間に動揺が広がり、簾の向こうで姫君が愕然とするのがわかった。
「……なんですって?」
「さあ近衛の皆さま、とくと御覧ください。これが桜花の姫君の不義の証です」
忍音は懐から無造作に文の束を取り出し、部屋じゅうに投げ上げた。つづら折りにされた文がはらはらと広げられながら、そのなまめかしい墨の跡を晒して床に落ちた。
檜皮色、胆礬色、丁子色、燻色……色とりどりに艶な檀紙にいずれも一の宮の筆跡で、桜花姫への恋心が綴られている。
近衛の中には恋文を拾って読み上げる者もある。簾の向こうで姫君がやにわに立ち上がった。
「━━無礼な! 何を……! この者が幻を見せているのです!」
「いいえ、まごう事なき兄宮さまの御真筆。左大臣の末の姫君は、密通相手の兄宮さまと共謀し、氷海どのを使い、東宮殿下とこの僕を陥れんとしておられます」
近衛たちの間に動揺が広がる。怒りを漲らせた姫君は顔を見られるのも構わず簾を薙ぎ払い、母屋じゅうに撒き散らされた文を目にし、忍音をねめつけ、またしても言葉を失った。
それを見上げ、忍音は表情もなく告げる。
「いかがですか。姫君」
桜花の姫君の見開かれた瞳の中に、“兄宮”の姿が写り込んでいる。
「僕と取引をしましょう」
“兄宮”そのものの声で、“兄宮”そのものの優美な微笑を浮かべてみせる。
「兄宮さまとの恋を表沙汰にされたくなくば、ひとまず近衛の方々を下がらせなさいますよう━━話はそれからです」
*
近衛たちにきつく口止めをした上で、桜花姫は彼らを化生の一匹も残らず退出させた。
ほんとうに二人きりになってしまうと、とうとう簾の奥から出たまま几帳に隠れることもせず、姫君はその容貌を忍音の前に晒した。
「その姿を……声を……やめなさい」
頬と目元が上気してたいそう赤く、背丈よりも長い黒髪がはらはらと紅の裾に零れかかる。なよやかな体は衝撃に今もふらついている。忍音は最低限の礼儀をもって床に視線を落とした。
「なぜです。あなた様が恋い慕う殿方のお姿をこうしてお目にかけて差し上げて」
「やめろと言っているの!」
震える声で叫び、《未蕾》の這う袖で顔を覆う。
「……やってくれましたね、あのような、恥知らずな文まで捏造して……!」
袖の端から覗く顔が怒りと恥辱に歪んでいる。
忍音は素直に幻影をかなぐり捨て、黒皮衣の肩を竦めた。
「氷海どのでもなければ、僕の幻術を見抜ける者はありません。諦めて取引に応じていただきましょうか」
「許さない……、この……悪鬼が!」
けれど忍音の見立てによれば、桜花姫が一の宮に恋慕していることは真実である。さらにこの姫君は自身の立場というものも劣らず重視しているから、その隙をつかない手はない。
「姫君。兄宮さまをお想いになるなら、御父君の左大臣の殿にお伝えくださいますよう。兄宮の生霊が東宮を苦しめ、忍音はその生霊を成敗しただけである━━と。何とぞ」
淡々と容赦なく告げ、それでいて額を床につける。
東宮の元服、そして『縁寿の舞』の儀式までの辛抱である。それまでつつがなく事が運ぶなら、若宮のためならば、何をしようと構わない。額づいたまま念を押すように歌いかける。
「思ひ立つ 未蕾の 桜木も 春日に添へば 花咲きぬべし」
姫君は暫し黙りこみ、低頭し微動だにしない忍音を睨みつけていた。
「あたくしは……あの東宮さまが嫌いですわ」
やがてそう辛辣に吐き捨てた。
でしょうね━━忍音はひたすら床を見つめつつ、胸中で苦笑を漏らす。
「あの方はあたくしより年下だし、母君のご身分も高くない……。けれど何より、あの方はあたくしなど何とも思っておられないのだわ。このあたくしを父左大臣の殿の後見を得るための道具としかご覧にならない。違いますか?」
「……東宮殿下は恋の道には未熟でいらっしゃいますがゆえ」
恐縮しきって応えると、忍音の目の前にぴしゃりと扇が叩きつけられた。飛び上がりそうになるのを堪え平伏し続ける。桜花姫は拳をわななかせた。
「わかっております! あの方は東宮のお務めをご立派に果たそうとなさっているだけ。同様にあたくしにも左大臣の姫としての責務がある。ゆえに、何もかも我慢した。あたくしがきっとお支えし、非の打ち所なき帝にしてみせるのだと」
「恐れ多いことです」
「それでもなお、……あたくしは…………」
姫君の震える声が歌を紡ぎ出す。
「忍びねの 思ひ籠めたる 橘の 香をばおほへよ 未蕾の袖」
━━こつん。
忍音の後頭部に、小さく丸いものが当たった。
何が起きたか理解できなかった。
視界が回る。一瞬、世界が縮んだかと思うと、無限に広がった。
訳もわからぬまま呑み込まれる。
《未蕾》の甘い香りのせいで鈍った本能が、足掻かねば、と囁く。
しかし十二年ものあいだ人として生きたせいで肥大した理性が、姫君の前で許可なく動くことを禁じる。
「…………あたくしは」
桜花姫は震える指先で、つい先ほどまで忍音の姿があった床からそっと黄金色のぼんぐりを拾い上げた。氷海に献上させたそれは、いつも東宮が故郷から運ばせ左大臣邸にも土産に送らせてくる大橘の黄金の実にも似て見える。
「お慕いしているのです、一の宮さまを…………」
喜色を抑え切れず、黄金色の実に封じられた忍音に艶然と微笑みかけた。
*
晴れた夜空に十六夜の月が昇っていた。桜花姫が几帳の下から差し出したのは、なにやら大層な護符に幾重にも包まれた小さな球。
「これを預かっていただきたいのですけれど」
氷海はぎくりとしつつ、それを恭しく押し頂く。
「これは……ぼんぐりにございますか」
「つまらぬ悪霊を家人に捕らえさせたはよいのですが、陰陽の方にお預かりいただくべきと申しまして」
桜花姫がのどかに笑うものだから、氷海は一も二もなくぼんぐりを懐にしまい込んだ。あまりに札の呪力が強いためか球はぴくりとも動かず、内部に封じられている化生の気配すら感ぜられない。ぼんぐりには橘の薫物の名残があったが、それも姫君の袖に這う《未蕾》の甘い香りに覆い隠されてしまった。
火災の翌晩、左大臣邸にて氷海は再び桜花姫とまみえたのであった。一の宮や女房たちを救出し、式神の氷の術で焼亡を最小限にとどめたのみならず、さらに親王呪詛の犯人たる忍音を告発した功績はたいそう大きく、氷海は一晩で大いに面目を施した。
「東宮さまも一の宮さまも、今後はそなたがよくよくお護りくだされば心強いかぎりです」
「無論でございます! この氷海、誠心誠意勤めさせていただきまする」
この秋まもなく譲位がある。帝や桜花姫のためにも何としても親王たちの心の支えになろうと意気込む氷海であった。
その様子に、几帳の陰の姫君はうっそりと笑う。
***
<四.縁寿の舞>
内裏の正殿にて、東宮は帝やおもだった公達が見守る前で『虹色の羽根』を取り出した。
五年前に《鳳凰》から賜ったその羽根は玉虫色の光を放ち、公卿らはいずれも恐れをなして平伏する。
御簾の向こうの帝の声は疲れを滲ませつつも、安堵した様子があった。
「瑞光、翳り無し」
帝の言葉に否やを唱える者はない。こうして『虹色の羽根』が輝きを失っていない様を見せつけられれば、東宮が公明正大なる神鳥の寵愛を失っていないことは明らかである。
「━━ゆえに此度の親王呪詛、東宮に咎無し」
臣下がみな退出すると、父帝が東宮に声をかけてきた。
「元服や譲位の時機を延ばすこともできますよ」
「……いえ、どうか予定の通りに」
若宮は努めてまじめに帝位への意欲を示した。その畏まった様子に父帝はそっと嘆息する。
「五年前、母更衣が亡くなられた時。あなたを臣籍に下すつもりでいました。それがあなたの幸せになれる唯一の道と考えて」
「なまじ私が『虹色の羽根』を賜ったばかりに、陛下をもお悩ませしてしまいましたね」
「《鳳凰》に選ばれたあなたには安心して帝位をお任せできますから」
そう言われて、若宮はちらりと笑みを浮かべる。東宮に立つ前からもずっと父帝は若宮にこまやかな愛情を注いでくれた。そして今や兄宮を差し置いて帝の心得などを直々に教わっているのが、まるで夢の中の出来事のようにも若宮には思われた。
「帝王たるもの、民の幸せ、国の安寧を第一に考えねばなりませんよ。どの臣が信頼に足るか、あなた自身でよく判断なさい。そして……一の宮のことはあなたも気を配るよう」
輝く『虹色の羽根』を懐にしまうと、竹管に指が触れた。若宮は頭を下げてその場を辞した。
*
夜長を降り明かした長雨がやみ、朝日が鮮やかに差して庭の草木に置いた露が零れるほど濡れかかり、軒に張り渡した《糸丸》の巣が破れ残っているのについた雨滴も白い玉を貫き通したようになっているのだった。
少し日が高くなり、露が零れ落ちる萩の枝がひとりでに揺れるのを、東宮は《りいしゃん》と戯れながらぼんやりと眺めている。
「下草の 露の玉の緒 乱るるに 小萩がうへぞ ながめわびける」
そのようなつまらない歌にも返事をしてくれる者は今はいない。
『殿下、すべて忍音のせいになされませ』
その声は若宮の懐の竹管から響いてくるのだった。それに封じられている管狐のものである。たおやかでどこか懐かしい声。
『あの子は必ずお傍に戻ってまいりましょう。今はご自身のことにだけ御心を傾けなさいますよう』
「……忍音は、どこに」
その問いかけには管狐も口を閉ざす。
雨上がりの庭を眺めながら、物思いに沈む。
幼いころ、病弱な母に付き添って下った黄金国で忍音と共に遊んだことが徒然に思い出される。
春は桜の下、夏は橘の下、秋の紅葉、冬の白雪……。忍音がどこからか見つけてきた輝く葉を五つ、若宮が綴り合せて金の冠を作り、彼に被せてやったことを思い出す。若宮も野の草花の冠を髪に挿し、帝とその臣下のごっこ遊びに付き合わせた。あまりに畏れ多いと、母に窘められたことも覚えている。
学問を怠けてこっそり野に抜け出したり、寺の屋根に登って黄金の鳳凰像に触れたり、池に飛び込んで金の《鯉大将》を探したり。どのような無茶な要求も彼は叶えてくれたし、無謀な冒険にも付き合ってくれたし、若宮が大人たちに咎められることのないよう必ずうまく手を回してくれた。彼も若宮と同い年の童に過ぎないというのに。
今や忍音は若宮に黙って消えた。
これすらも彼の策略のうちなのか、若宮には考えもつかない。ただ騙されたとは到底信じられず、どうしても今に華麗な帰還を成し遂げる予感しかせず、それゆえ彼が残した式神の言葉に突き動かされるようにして儀式の準備を進める。
風の冷たさは肌に纏わりつくようで、秋は深まりゆく。《小燕》も《大燕》もすっかり渡り去ってしまった。辻々に《やんやんま》が舞っている。焼けた後宮の改築も済み、稲刈りの時節も過ぎて、一の宮を呪詛した悪狐・忍音の噂もあっという間に過ぎ去る。
やがてその時が来た。
*
高い空に鰯雲が満ち、金風が紅葉を吹き散らしては都に錦を織り上げ、川の水を紅に染め上げる。
内裏の正殿で元服の儀式は華々しく行われ、冠をつけ黄丹の束帯姿の東宮は石帯に《りいしゃん》を巻き付かせた。そのまま輿で都の丑寅の方角にある鈴の九重塔へ向かう。夕方の淡く滲むような長い日差しの中、金の鳳凰像が飾られ五色の糸を垂らした輿が、苔に紅葉の散り敷く石畳の小路を進む。
「永久の天の空に現れ座す掛巻も恐き大神を奉請て━━」
紅に蘇芳、朽葉、黄、青と華やかに衣を重ねた五人の舞姫がそれに続く。守り預かる『透明な鈴』を打ち振り、祝詞に和して小路に霊妙な音を響かせ、いずこかに棲まう《鳳凰》に新たな帝王の器の登場を報せる。
「━━虹霓の羽置立て透き鈴持ち乙女ら舞ひて種々の供物置高成て神祈に祷給へば━━」
献物や折詰の料理、籠詰めの菓子を積んだ牛車が続き、《火の馬》に跨った武士、またそのようなめでたい行列を見物する人々たちの車も賑々しく出衣をして集っている。
「━━速納受て鋳顕給ひて禍事咎祟は不在物をと祓ひ給ひ清め給ふ由を所聞食と白す」
*
鈴の音を響かせつつ、東宮と五人の舞姫は四つ腕の化生の《怪力》に抱えられ、鈴の九重塔を登っていった。古い時代に姥目の森の檜で造られた塔は今なお芳醇な木の香りに満ちていた。方々の寺から高名な僧侶が集められ、《鳳凰》を招く儀式の成功を願う祈祷の声が各階で荘厳に唱和する。
屋上の舞台に立つことが許されるのは『虹色の羽根』を持つ東宮と、東宮の携える化生である《りいしゃん》、それに五人の舞姫のみ。すぐ下の階には警護の武士たちが待機する。
九重塔の屋上からは、金襴緞子を広げたような都が西日に照らされるのが一望できた。
舞台の手前にあつらえられた祭壇には、白銀山の霊水、新米の俵、酒に餅、塩、檜皮国の木炭、それに東宮の母方の実家である黄金国から送られた大橘の実が山と積まれ、《鳳凰》への献物とされた。大粒の黄金の実は夕陽に煌めき、爽やかな香気を放つ。
五人の舞姫が粛々と舞台に上がると、東宮は呼吸を整えた。《りいしゃん》の澄んだ鳴声が心を落ち着かせる。懐の竹管にそっと手を触れる。
五年前に《鳳凰》から与えられた『虹色の羽根』を両手に捧げ持ち、祝詞を奉納する。
それを契機に『透明な鈴』が打ち鳴らされ、塔の軒に吊るされた鈴が共鳴し、清浄な鼓動を都の秋空に響かせる。天女の遊ぶが如き五人の舞姫による『縁寿の舞』を東宮は見守った。
東の空に大きな虹が架かった。そちらから黄金の燐光を散らしながら、西日を浴びて、五色の翼を持つ《鳳凰》が天をゆったりと渡り来る。
五年前、東宮が忍音と共に見た姿のままに。
遥か塔の下、都の人々にもその姿は見えたらしく、歓声の湧き上がるのも聞こえる気がした。
その身の丈は十尺ほどもあろうか。斜陽の中で生命力に満ち溢れ、眩く照り輝く大鳥の化生であった。
ひとり、またひとりと舞姫が舞台の端へと下がる。
入れ替わるように舞台に上がった東宮が《鳳凰》の来臨を迎えようとして━━━━
《鳳凰》に矢の雨が射掛けられた。
*
時は少し遡る。
氷海は朝廷の信任厚い陰陽師として、東宮の元服の儀を見守ったのち、地上で警護の任に当たっていた。ぼんぐりから《白九尾》のしらゆきを出し、鈴音の小路や鈴の九重塔に《菖蒲鼠》の一匹も入り込む隙のないように警戒している。
やがて塔の上で『縁寿の舞』が始まったらしく清らかな鈴の音が響いてきた。氷海と同じく地上で警護をしていた武士が、不意に空を指し嘆声を上げる。
「虹だ!」
「ついに《鳳凰》が……!」
小路にざわめきが満ち、見物客も武士も天を拝み感涙に咽ぶ。
しかし━━その中で氷海は一人だけ空を矯めつ眇めつして、首をひねっていた。
「のう、しらゆき。虹など出ておるか?」
傍らの式神に問いかけると《白九尾》も首を傾げる。氷海は壮年ながら視力の衰えを感じたことはない。なのに、周囲の人々がみな口を揃えて虹が見えると言っているのに、自分にだけは見えない。
同じようなことが、前にもあった。氷海の肌が粟立つ。
そう、あれは、占術比べの時。
他の誰もが、大橘の黄金の実だと言った。
けれど氷海には《菖蒲鼠》にしか見えなかった。
愕然として、氷海は九重塔を見上げる。
「…………まさか」
どっと脂汗が噴き出す、口がからからに乾く。
しらゆきが氷海の襟首を咥え、背中に投げ上げた。咄嗟にその白い毛皮に掴まると、氷海を乗せた《白九尾》は九重塔に向かって大きく跳躍した。
空の幻影に気を取られていた武士たちの隙をつき、《白九尾》は警護の人垣を軽々飛び越え塔一階の軒に着地、そのまま上階へと飛び移り塔を風のように駆け登ってゆく。
━━まさか、忍音が戻ってきたのか。東宮に危害を加えるつもりか。
塔屋上の舞台まで舞い上がると、しかしながら氷海にもすぐには状況が呑み込めなかった。
びいん、びいんと重籐弓の弦が震え、征矢が流星の如く放たれ、《鳳凰》の腹や頸に深々と突き刺さる。おぞましいことに身分低い武士たちが神聖な舞台に踏み込み太刀を抜いている。落暉に煌めく羽毛が無残に散り、《鳳凰》の喉からはおよそ神鳥とは思えぬけだものじみた咆哮が上がった━━否、これは果たして真実の《鳳凰》であろうか。
その五色の翼の幻影がほのかに揺らぐのを、氷海は見逃さない。巨大な鳥の化生に向かって吠える。
「貴様、忍音か……っ?」
《白九尾》の背から叫ぶと、傷ついた《鳳凰》はびくりと身を震わせた。怒り狂ったようにその嘴をぐわと開いたかと思うと、紅蓮の炎を氷海めがけて吐きかけた。
しらゆきの重心が崩れ、その背から氷海が舞台へと転がり落ちる。
その拍子、懐から、桜花姫から預かった護符まみれのぼんぐりが転がり出、《鳳凰》の放った火焔に舐められた。札が焼き切られる。
紅焔は次々と武士を焼き払う。奇襲を仕掛けたはずの武士たちは早々に腰を抜かし、屋根から足を踏み外して塔の下へと真っ逆さまに落ちたり、そうでない者は階下へと転がり落ちるように逃げてゆく。重厚な衣装を纏う舞姫たちが炎に巻かれて泣き叫ぶ。さながら焦熱地獄の有り様。
氷海は舌打ちした。一の宮を後宮の火災から救い出したように、東宮や舞姫たちをこの化け物から守らねばならない━━。
「……これは《鳳凰》にあらず、幻影なり━━この陰陽師、氷海が調伏してくれる!」
名乗りを上げ、しらゆきの名を叫ぶ。
《白九尾》の放った冷気が、偽りの《鳳凰》を舞台の端まで押しやる。
報復とばかりにそれが吐いた炎は、炎そのものは先程から見るかぎり幻覚ではないらしい。けして広くない舞台を駆ける《白九尾》を追う炎熱の余波が、勢い余って、茫然自失として立ち竦んでいる東宮に向かってゆく。
殿下、と叫ぶこともままならず、氷海は息を呑む。
しかし━━あわや炎が東宮を呑むかという寸前。どこからともなく現れ出た小さな獣の影が、東宮に突進し、東宮ごと梯子の下に転がり落ちたのを、氷海は視界の端に捉えた。
*
梯子の吹き抜けから落ち、階下に叩きつけられ、全身の激痛に東宮は呻く。その袖にしがみついた《りいしゃん》が、怯えたようにちりりと小刻みに震えている。
しかし頬に感じた黒皮衣の感触に、若宮は痛みを忘れてしまった。咄嗟に口走ったのは何よりも親しんだ名。
「しの━━」
『重いです。どけ』
「うわっ悪い」
耳が捉えたのは化生の鳴声、しかし若宮の頭はそれをひどく聞き馴染んだ人の声と認識する。不気味な感覚にぎょっとして若宮はへたり込んだまま後ずさる。
憮然として身を起こしたそれは、どこからどう見ても黒い子狐に相違ない。その双眸は浅葱色、臙脂の眉を引いてあるその目元に、たしかに若宮のよく知る面影がある。
恐る恐る手を伸ばし、子狐の首元の黒皮衣に触れた。これも知っている感触である。改めて名前を呼んだ。
「……忍音?」
『ああ酷い目に遭った。元服なさったのか、おめでとうございます』
子狐は無造作に宙返りしたかと思うと、若宮が瞬きした後にはもうそこには、水干に黒皮衣を重ねて纏った忍音の姿があった。
若宮は床に座り込んだまま、呆気にとられて声も出ない。
「なに見とれてるんですか。逃げないと死にますよ」
忍音が冷めた声で言うなり、二人の頭上から轟音が響き、天井が軋む。このすぐ上で化生どうしが激しい術の応酬をしているのである。この階に詰めていたはずの武士たちはすっかり遁走してしまったらしく、あたりには人影がなかった。
揺れを物ともせず梯子へと向かう忍音に、若宮はよろめき立ち上がり追い縋る。
「おい、待て、何が……?」
「警護の侍どもが兄宮か桜花姫の手の者だったんじゃないですか。畜生。おおかた、僕が後宮から消えたんで、実力行使で《鳳凰》さえ討ち取ってしまえば、あとは権力と財力しだいで兄宮が東宮位を奪還できるとでも考えたんじゃないですか。ふざけやがって」
忍音は淡々と毒づき、階下へ続く梯子に足を掛けようとした。若宮はその黒皮衣の襟首をつかんで引き留めた。体を向き直らせる。
「そうじゃない、どこに行ってた……いま上で何が起きてる?」
「僕にも何もかもわかるわけじゃない。自分で考えたらどうですか?」
忍音は若宮から顔を逸らしたままだった。
嘆息し、躊躇いがちにその手で若宮の手を取り、そっと襟首から離させ下ろさせる。
「……考える能すら無いのなら、僕の言う事を聞いてください。時間がない。管狐が氷海どのの式神に勝てるかわかりません」
「管狐だと?」
「そう。お渡しした竹管の中にいた」
忍音は若宮の袍の懐を指し示し、なお激しく軋む天井を仰いだ。
「相も変わらず氷海どのは手強い。それでも、『縁寿の舞』は完遂しなければ……」
忍音は若宮に背を向け、秋風吹きすさぶ塔の端の勾欄まで歩み寄っていった。空の残照が消えかかっていた。若宮の袖で《りいしゃん》がよく通る声でりんと鳴き、それに促されるように若宮は浮かんだ疑問を口にする。
「……《鳳凰》が、お前の式神?」
「月見の宴では管狐に僕の振りをさせたと言いましたよね。同様に今は《鳳凰》に化けてもらっています」
短い秋の日は瞬く間に暮れる。
大気が急速に冷え、ぱらぱらと霰が降り注ぐ。《白九尾》の術だろう。
寒さのせいか否か。若宮は全身を震わせた。眩暈とともに血の気が引き、歯がかちかちと鳴る。《りいしゃん》が耳障りな音を立てて振動する。
「……本物の……《鳳凰》は…………」
「来るわけが。ないんですよ。最初から」
鈴の九重塔の下のほうは騒然としている。けれど屋上で化生同士の激しい闘いがあり、塔じたいもぐらぐらと揺れるような始末であるから、誰も登ってくる気配はなかった。
「━━なぜ?」
若宮が縋るようにその手に握りしめているのは、眩く輝く『虹色の羽根』である。
しかし俯いたままの忍音が首を振ると、幻影は掻き消えた。それはただの『黄金の実』に過ぎなかった。
若宮が悲鳴を上げ、それを取り落とす。大橘の果実はその手を離れ、ぼとりと落ちた。
*
紺青に澄んだ美しい宵の空を背に、彼は微笑する。
「時じくに なほし見が欲し 花橘 天の光に 笑み栄ゆるを」
━━あなたに笑っていてほしかったから。
じりじりと後ずさる若宮の目の前、その手から零れた黄金の実がごろごろと転がっていった。緩慢な動作で忍音はそれを拾い上げた。赤い唇をつけ、生温かい皮ごとかぶりつく。牙で黄金の果肉を喰い千切り、噛み砕き、呑み下し、手首を伝う汁を啜り、爪を舐め、口元を拭う。若宮を庇い傷ついた体がおよそ楽になる。
伏せていた眼を開きまたしても力なく笑った。
塔の鈴の余韻が残っていた。若宮の頭も虚ろになり、忍音の言葉だけが何度も何度も反響し、耳鳴りがする。まるで自分も《りいしゃん》になってしまったかのようだった。心に灰のように溜まったものを、若宮は辛うじて掻き集める。
「橘の かをる夜風に なる鈴の 夢さへさむる 音の涼しさ」
哀れな作り物の東宮は忍音に怯え、恐慌状態に陥り、立っていることすらできず、顔面に絶望を張り付けている。
母更衣の死以来、唯一の頼みとしていたものを失くし、若宮の瞳の奥の炎が灰燼に帰す。それを忍音は淋しく見守った。風は灯火を吹き消し、鈴の音は夢を醒まし、橘の実は落ちたのである。
それでもなお、若宮ならば必ず絶望の淵から蘇ると信じている。だからせめて灰までも吹き散らすことのないようそっと囁きかける。
「引き返すことは出来ません。この国は既にあなたを中心に動き出しています。それにこのままではあなたは偽りの東宮ということが露見し捕らえられ、廃位ののち流刑に処されるでしょう━━しかし、そうはさせない」
「……でも、お前が」
「あなたももう元服なさったのだから。……どうか自身で決断を」
けれど若宮には迷う暇すら与えられなかった。
一瞬、闇の空が聖なる光に白み、獣の絶叫が響いた。
弾かれたように忍音が外を振り返る。ごうと風を切る音。
若宮もそれを見た。
氷漬けにされた黒い大狐が、九重塔の天辺から大地へと、真っ逆さまに転落していった。
━━ぼとり。
忍音の血を吐くような悲鳴は若宮には聞き取ることができなかった。
涼しげな顔をした《白九尾》がふわりと吹き抜けから降り立つ。
そして梯子を転がり落ちるように降りてきた、半身を火傷に覆われた氷海が苦々しい顔で告げるのを聞いた。
「東宮殿下、いえ……橘宮さま。あなた様はその悪狐と共謀し、この五年という歳月……主上を、一の宮さまや桜花の姫君を、我ら臣下を…………騙してこられたのですな」
空気ごと凍ってしまったかのようだった。
《白九尾》が低く唸る。氷海の眼差しはどこまでも冷徹だった。
「謀反、露見……厳しい御沙汰がありましょう。抵抗なさるな」
《りいしゃん》を抱きしめた若宮はへたり込んだまま動けず、忍音がゆらりと前に出る。
「相も変わらず、氷海どのは陰陽の才が無い。あなたがくそご丁寧に御成敗くださったのが何だったかわかっているのか。《鳳凰》ですよ。逆賊はあなただ」
忍音の声音は苛烈を極めていた。
氷海も深く息を吸い込み、ぽつりと零した。
「残念だ、忍音よ」
《白九尾》の顎から迸る青白い冷気の束を、忍音は前に跳んで躱した。そのまま氷海の懐へ飛び込み、獣の腕を振りかぶる。
その脇腹に氷の礫が突き刺さる。
忍音の躰は勾欄に叩きつけられ、あえなく崩れ落ちた。
顔を憎悪に歪めた氷海が塔の端まで歩み寄ると、足を上げ、黒皮衣の肩を踏みにじり、苦々しく吐き捨てる。
「子狐の分際で、人の姿のまま命を終えようとする、その心意気は褒めてやるが……畜生はしょせん畜生よ。やれ、しらゆき」
けれど式神が応える暇もなかった。《白九尾》の姿はとうにその空間から消え失せていた。
ぎょっとして氷海が足元を見下ろすと、低い欄干に凭れかかるようにしてくずおれたままの忍音が、にたにたと笑いながら氷色のぼんぐりを指先で弄んでいる。
「き、貴様━━━━!」
直前に懐へ飛び込んでいたその一瞬の隙に氷海のぼんぐりを叩き落とし、その勢いのまま《白九尾》に叩きつけて封じ込めたのだ。氷海は火傷の痛みも忘れ、掴みかかるが、悪狐の身のこなしに敵うはずもない。
「かあさんの、かたき」
がりりと、球に牙を突き立てる。やめろ、と氷海が手をついて懇願する。構うことなく噛み砕いた。飛び散った白ぼんぐりの外殻が唇の端を切った。けれど涙と笑いが止まらない。
*
灯火もなく静まり返った塔の九階、濃く繁く光る星々に若宮は手をかざす。闇に染まった手、これが自分の手であろうか。自分は誰で、なぜここにいるのか。思考を転がせばわかってしまう。自分は偽りの東宮で、父帝も兄宮も桜花姫も臣民も騙し、居るべきでない場所に踏み込み、聖なる九重塔を穢した。それを理解した上でなお受け入れ難い、なぜ自分はここに、こんなことに。
黄丹の袍の袖から《りいしゃん》が滑り落ちた。たりん、たりんと跳ねるように、欄干に背を預けるようにして蹲ったまま動かない忍音の傍まで転がっていった。
紅白の鈴紐が、恐る恐るその細首に回され、絞め上げようとするのを、座り込んだ若宮はぼうっとしてただ眺める。
━━━━『すべて忍音のせいになされませ』。
彼の式神━━実際には彼の母親でもあった管狐に言われたことが心の中にまざまざと蘇る。そう、すべては、忍音が悪いのだ。この悪狐に騙されたから自分も今の今まで自分が正当な東宮だと思い込んでいた。結果、皆を騙す羽目になってしまったが、自分に非は無い。
若宮の心の叫びに共鳴するように、その叫びの正しさを肯定するが如くに、忍音の首に巻き付いた《りいしゃん》の鈴紐にはさらに力が込められ、その黄金色の胴体がりりりん、りりりりと高く細かく震える。なにかが軋むような厭な音がする。
「お前さえいなければ……」
父帝は、母更衣が亡くなった時にひとり遺された若宮を臣籍に下すつもりだったと言っていた、もしそうだったならばどれほど気楽な暮らしができただろう。兄宮に恨まれることもなく、好き合ってもいない姫君と婚約を結ぶこともなく、人々の物見高い視線に曝される必要もなかった。
「お前さえ……いなくなれば」
しかしもう引き返せない。《鳳凰》の権威を抜きにしても、左大臣をはじめとした様々な政治勢力はすでに二の宮を中心に動き出している。今さら兄宮に帝位を譲れば朝廷は混乱に陥るだろう。
殺生は仏道の悪だが、これは人に非ず畜生なれば、罪も軽いに相違ない。
帝王たるもの、民の幸せと国の安寧を第一に考えねばならぬのだから。
ここで彼を殺し、すべてを彼の所為にすれば、よいのではないか…………?
もがいた黒狐の爪が、鈴の化生を叩き落とす。《りいしゃん》は幽かな音を響かせて吹き飛び床を転がり、やがて勢いを失い、うんともすんとも言わなくなった。
咳き込みえずく彼を若宮は無感動に見下ろしていた。
黒皮衣に覆われた白い首に赤い痕が月影にくっきりと浮かんでいる。
それに躊躇いなく闇の指が沿わされた。
今度は彼も抵抗をしなかった。
腕に力を込め、塔の低い勾欄にその躰を押し付け、ずり上げる。膝に当たる檜の欄干は氷のように冷たい。海老反りになる彼を追い身を乗り出す、半ば宙に投げ出させるように。絞め殺せずともここから突き落しさえすれば、さしもの妖狐も只では済まぬと、ふたりは知っている。
汗で凍える掌の下で、激しく脈打つ彼の喉が震えた。
「生ひ立たむ ありかも知らぬ 橘を おくらす露ぞ 消えむそらなき」
若宮は一瞬目を瞠った。自分を殺そうとする相手をなぜ心配する?
けれどすぐ、溢れ出た哄笑が止まらなくなった。彼を突き落とそうとしながら、狂ったように笑い続ける。
いつだって若宮は自分の事ばかりで、忍音は若宮に尽くしてばかり。後宮の鬱屈した暮らしの中でいつの間にか忘れていた決意を思い出す。
だから唇に歌を乗せた。
「橘の 生ひ行く末も 知らぬまに いかでか露の 消えむとすらむ」
最後にもう一度、黒皮衣に頬をうずめる。
懐かしいやわらかな感触。
懐かしい橘の香り。
魂の抜けたようになっていた氷海が、ああ、とようやく虚ろな悲鳴を上げる。
「なりません、橘宮さま……そちらへ行っては」
しかし氷海の目の前で、勾欄から身を乗り出した若宮は忍音もろとも、夜へ落ちていった。
*
黄金の陽炎が翼となって城都の夜空に広がった。
血の滴るような紅葉を吹き散らしながら、ゆっくりと降りてゆく。
鈴を打ち鳴らすような羽ばたき、笙の笛の音に似たさえずり。
金冠の輝かしい神鳥の背に、橘の薫り高い二の宮━━東宮は跨っている。
鈴の九重塔の周りに集まっていた人々が、我先にとその場に額づく。牛車に乗っていた者は老若男女構わず皆降りた。月のように青白い顔をした兄宮も。女房たちに車から引きずり降ろされかねない格好の桜花姫も。
「東宮、万歳」
「《鳳凰》、万歳」「新帝、万歳」「二の宮、万歳」
万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。万歳。
新たな帝王の世がここに始まったのである。
*****
<終.たちばなのみや>
二の宮は目を覚ます。忍音の黒皮衣に頬をうずめて、すっかり眠っていたらしい。
五月雨の晴れ間に、大橘の木に実った黄金の実がきらきらと輝いていた。目元を拭い晴天を見上げる。見事な虹が出ていた。そして、そう、その頭上から━━━━━━。
「こうなるってわかってたのか? 陰陽師になれるな、お前」
果たして、笑ったのは幾月ぶりだったろうか。幼い若宮の手の中には『虹色の羽根』がある。
「目指してみましょうか。そして僕は帝となるあなたを影より導くわけですね」
こちらも幼い忍音はさらりとそう言った。天には虹の輪をくぐるように黄金色の燐光を散らしながら、壮麗な神鳥が飛翔しているのだった。
若宮は『虹色の羽根』をまじまじと見つめる。太陽の光の当たる角度でそれは色を変え、いかなる精巧な螺鈿細工よりも美しい。どれほどの黄金にも替えられない、選ばれし者の証。
「じゃあ、私はお前のために、立派な帝にならなきゃな」
忍音はよく理解できていない風を装っていた。若宮はくつくつと笑う。
自分は我儘で、彼には苦労ばかり強いてきたし、これからもきっとそうだろう。
けれどこれで償える。誰かのため、命を懸けても何かをしようと思ったのは、後にも先にもこの時だけだったから。