ここは神様のいない星

すりすりにゃーん
「波音」「マスク」「神経衰弱」
 ソフトクリームの側面が溶けて、地面にしみを作った。隣からは鼻をすすり上げるような音。私はなんだかバツの悪い気持ちになって、手首を伝う甘い液体を服の端で乱暴に拭った。ふたたび高い鼻息。そっと差し出された白い布がまぶしい。なかばひったくるようにしてハンカチを受け取ると、もうなにもついていないように見える手首を、真っ赤になるまで摩擦した。
 公園はのどかなものだった。私と私の付き添い以外にも、幾ばくかの来客が人工の緑と土の感触を楽しんでいたが、喧噪はない。
 公園の天井は高く、そこに空が存在しないことを感じさせなかった。というのも、慎重に組み込まれた散乱光は神経を逆撫でしない程度に明るく、しかも時々、雲が流れて太陽を隠しているふうにかげってすら見せたのである。それでも私は四六時中息がつまったようになるのだ。喉の奥に塊ができて、言葉が出てきにくくなることもある。しまいには勤務時間外は部屋に閉じこもって横たわり、時と場所を選ばず「ぜんぶ偽物だ!」と大声でわめきたい衝動を覚えるようになった。実際、私は衝動を行動に移した。職務中に叫びだした私は、同僚によって俊敏に医務室へと担ぎ込まれた。
 そして遺憾ながら、医者から神経衰弱だと告げられたのである。働きすぎで過敏になっているのだろうと診断され、三ヵ月の休養を言い渡されてしまった。
 この人工世界で気がおかしくならない方がおかしい、というのが私の断固たる主張だったが、周囲はそれを黙殺した。彼らはこの世界で満足していたし、彼らの充足感を乱そうとする異分子を歓迎しなかったのである。かくして私は専属の世話役と共に社会から放りだされ、三ヵ月という非常に長い停止を強いられたのだった。
 ちらりと視線を真横に投げた。プラスチック製のベンチに並んで腰かけた相手は、私より早くソフトクリームを食べてしまっていた。地面に届かない足をぶらつかせている。返されたハンカチをウエストポーチにしまい込むと、立てかけていた骨を手繰り寄せた。……そう、骨だ。さらに言及すると頭蓋骨のマスクに頭部が覆われている。だが、恐れることはない。眼窩からは大きな、どことなく凛々しい黒目が覗いている。その目を覗き込めば理由はすぐにわかるだろう。瞳は私に向けられるたびに憐れみとか、親愛とか、保護欲とか、そういった慈愛に満ちた暖かい色合いであふれるのだ。
 私はこの、慈愛に満ちた付き添いのことをコーディと呼んでいる。本名はコーディアル・ヴィア・ホイットで、私より年かさの男性だが、コーディの首にぶらさがっているパスケースによると「こんにちは わたし コーディ」だそうなので、多少馴れ馴れしくなってもそう呼ぶのがいいと思った。心のなかでコーディと呼ぶことによって彼が気分を害した様子はない。聞こえないから当然ではあるが。いっぽうコーディは人間の言語をしゃべらないため、私のことを独特な音程で呼ぶ。きゅ・きゅーいがコーディによる私の名前だった。私がそのことで気分を害したことは一度もない。本音を言えば、人間が発する私の名前よりずっと詩的な感じがして好ましく思っている。
 溶けたソフトクリームをなんとか食べ終え、私たちは連れだって公園をあとにした。頭上ではまさに光が一瞬の衰退を演出していた。太陽はそこにない。見えないが、天井にあるのは調光装置と散水機、そして冷たい金属だけだった。太陽はどこにも存在しない。
 植民惑星第十二号――エンジュには植民惑星特有の景色が広がっている。つまりは行儀よく並んだ白色の建物群、濡れたようにかがやく歩道、既定の間隔と速度で走っていく自動車たちといったものが。すべてが規則正しく遠くまで延びている。公園と同じく頭上には人工光が照っているが、誰も見上げたりはしない。ここに住む大半の人々にとって当たり前の事象だからだ。
 私とコーディはいつものように決まった散歩コースを進んだ。公園から公立図書館前、ぐるりと周囲を歩いて大通りへ出る。コーディが骨を杖代わりにして歩くと、歩道タイルから音楽が生まれだす。お互いに足取りが軽やかになる。
 だが、あるビルの前で私の足は歩道に縫いつけられてしまった。青い海の映像が、スクリーンいっぱいに映し出されていた。
 銀色の光を反射してひいてはよせる白い泡。延々と続く青い海原は空と同じくらいまぶしくて、常にうねり続けている。波音は聞こえないはずなのに、私の耳にははっきりとその音が聞こえていた。間違いなく、私の世界の海だった。エンジュにはない本物の、塩水でできた母なる海だ。
 映像の最後に「宇宙旅行をしないのは間違い。いまこそ原初の星で余暇を過ごす時」という文句と旅行代理店の名前、アドレスが表示される。先にスクリーンを眺めていた人がおもむろに携帯端末を取り出す。それだけで端末には旅行代理店のアドレスと、いま流れていた広告の詳細が表示されているはずだ。私も端末を持っていたが取り出さずに、ただ映像を見つめていた。
 どれほどそうしていたのか。コーディが強く足を揺さぶった。あの詩的な音階が膜一枚向こう側から聞こえてくる。
 見上げてくる黒い目にスクリーンが反射し、青い星が散っている。彼は辛抱強くこちらの注意を惹こうと努力し続けた。何度も呼びかけ、足を軽くたたき、心配そうに目元をゆがませる。足がふらつく。慌ててコーディが支えてくれる。ようやく私は自分が汗まみれで、荒い息を繰り返していることを自覚した。


 あのあと、コーディは私をじゅうぶん休ませると、エアタクシーを呼びだして自宅まで送り届けてくれた。支払いも彼がしてくれたのだろう。あまりよく覚えていない。
 シャワーを浴びるべきだとわかっていたが、私は服を脱ぎ捨てて裸になると、そのままベッドにもぐりこんだ。眠れるかどうかは別として、なにも考えたくなかった。そんな思いとは裏腹に、思考はあちこちへ飛び交い、深い溝に落ち込んでいく。
 宇宙旅行をしたのはもうずっと昔のことだ。資源の枯渇した故郷を離れ、新天地を開拓するという名目で宇宙船に乗った。去り際に故郷を見ることすらできなかった。だが、移住者には多額の援助金が支払われ、最低限の衣食住が保証されていた。職業選択の自由まで与えられた。その代わり、我々はなにがあっても(たとえこの星が居住不能惑星になったとしてもだ)故郷に帰ることはできない。そういう宣誓の元に特別な処遇を受けたのだ。
 コーディのようなヒトたちはどうなのだろうか。彼らも我々と同じように契約書にサインをし、二度と故郷に降り立てなくなったのだろうか。それとも、彼らは他の富裕層と変わらず、自由に惑星間を行き来できるのか。そうかもしれない。人間よりも彼らの方が優れている。こと宇宙においては。
 クッションを体の上に乗せる。微かな荷重が気分を沈めてくれる。
 ゆっくりと迫ってくる暗闇に集中する。この空間はすべてが偽物だ。暗闇ですら人工物なのだ。光、暗闇、風、雲、雨、なにもかもが調整されている。ここは神様のいない星。永遠のゆりかご。
 少しずつ、頭のなかが空っぽになっていく。
 ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ……。


 今日のエンジュはスケジュール通りの雨模様だ。
 防水性の衣服を身に着け、念入りに骨の先端に撥水シートを広げたコーディが、定刻通り迎えにやってきた。彼はやや強引に私をエアタクシーに押し込むと、行き先を入力して満足そうに鼻を鳴らした。シートから少し体を離して行き先を確認する。
 ハーシェル宇宙空港、と表示されていた。驚いてコーディを見つめたが、彼はすでに私から興味を失っていた。しずくのかかる窓の外を、感慨深げに眺めていたのである。


 空港内は騒々しい。人間と、ヒトが複雑なタペストリーになって動いている。コーディが骨を差し出す。手をつなぐには身長さがありすぎるので、はぐれないために骨の端を掴んだ。
 コーディは自分よりずっと大きなヒトの間をすり抜け、危なげなくどこかへ向かっていく。私は困惑したまま、彼に諾々と従う他なかった。私の方も足元をすり抜ける二股のしっぽを避けたり、ごつごつとした緑色の岩肌をしたヒトとぶつからないように集中していたのだ。どこへ、とか、なぜ、という疑問が浮かぶ隙はなかったのである。
 ひやりとした空気が肌を粟立たせた。気がつくと私たちはエレベーターのなかに立っていた。外が見える造りのエレベーターで、どんどん地上が遠のいていくのが見下ろせる。高所恐怖症ではないものの、ものすごいスピードで遠ざかっていく地面にぞっとして、私は視線を逸らした。強い吐き気がした。まぶたをきつく閉じる。世界が暗転していく。
 不意に、コーディが興奮した声を上げた。握ったままの骨が私の腕を揺さぶる。促され、私も首を逸らした。ゆっくりと、震えるまぶたを開いていく。
――無数の光が散らばっていた。白いもの、褐色のもの、青いもの。暗黒に穴を開けてかがやいている。いまや見渡す限り、上も下も右も左もすべて星々の海だった。
 無音の海。暗黒の海。星の大海。
 私は最前まで感じていた吐き気をきれいに忘れてしまった。
「きゅ・きゅーい」
 コーディが私を呼ぶ。彼は珍しくはしゃいでいるようだ。指さす方を、つまりは真下を見ると、漆黒のなかにエンジュが見えた。
 金属の被膜が青白くかがやいている。そのところどころに緑や、茶色といった別の色が点在している。そのかがやきがエンジュの環境調整パターンの光だとわかっていても、私は錯覚せざるを得なかった。
 その姿はまるで、私の故郷のようだった。
 そうか、そういうことだったのか。
 私はしゃがみこむと、衝動にまかせてコーディを抱き寄せた。熱い涙が頬を伝っていくのがわかった。
「あ、ありがとう、コ、コーディ……」
 久しぶりに聞いた自分の声はがさついていて、硬くて、聞き取りづらかった。だが、コーディは硬い骨のマスクの内側から、優しく私の名前を呼んでくれた。


「きみ、辞めるんだってね」
 デスクを片付けている背中に声をかける。ちらりと振り返ると、小さくはにかんだ。数年前の突然青白い顔で叫び出した頃の面影はなく、快活そうに見える。
「宇宙貿易を始めるんだ。友人と」
「そうか。寂しくなるな」
 こくりとうなずき、最後にフォトフレームを箱にそっと入れた。なんの変哲もない、宇宙から撮影されたエンジュの写真だった。以前そこには故郷である青い惑星の写真が納まっていたのだが、職場復帰後早々にこの写真に取替えられたのだ。なぜかは知らない。ただ、悪くはない写真だと思う。
「それじゃあ、幸運を祈ってる」
「ありがとう」
 元同僚は礼を言い、去っていく。その背中を見送り、伸びをして、私は仕事に戻った。