約束

屋サン
「波音」「マスク」「神経衰弱」
編集済み
1

 去年はお盆も正月も帰れなかったなあ、と勝浦千恵は思い返した。
 コガネシティを出たのが朝6時で、高速バスで4時間、路線バスに揺られて1時間ちょっと。山登りを始めたところに現れた道路上のイシツブテを避けさせるために時間を費やして、お昼前には着く予定が少し遅れてしまった。
 両脇から森に迫られる道をエンジンを唸らせながら登って、開けたところで坂はお終い。遮られていた真夏の太陽の光がバスの中を照らして、思わず目を細めた。のどかな盆地の田園風景が、小さい頃の記憶と一緒で安心する。あとは川沿いの緩やかな道を進んで、三つほどバス停を通り過ぎれば、私の目的地だ。
 乗客がほとんど降りてしまったバスの車内、一番後ろでずっと老婆二人がぺラップよろしくおしゃべりしている。「うちの裏山にポケモンが棲みついちゃって、昼間っから縄張り争いが五月蠅くて敵わないのよ」「そりゃあよくないよあんた、こないだも山沿いの勘太郎さんの離れに雷が落ちたって。誰かが電気を出すポケモンを逃がしたからって、役所のトレーナー総出で山狩りしてたよ」
 陽光にか、それとも車掌さんにも聞こえるだろうおしゃべりにか、とにかく安眠を妨害されたらしいイワンコが、カバンの中から顔を出して鼻をひくつかせた。しょぼしょぼした目であたりを見回したあと、面白いものもなさそうだという顔をして引っ込む。もう少しでバスから降りるよ、と小声で語り掛けた。
 がたがた、とバスが揺れる。
 周りの景色は、森を抜けてからほとんど変化がない。道路沿いに店や民家、遠く目をやれば青々とした稲の絨毯、木々のひしめく山の連なり。焦げ茶色の地面がもぞもぞしているのはディグダが耕しているんだろう。入道雲の浮かぶ青空の中を大きく羽根を広げて飛んでいるのは獲物を探すオニドリルだろうか。
 ぼんやり外を眺めているうちに、私の降りるバス停のアナウンスがかかって、降車ボタンを慌てて押す。久々に払う運賃を今一度計算した。チャイムで一瞬途切れたおしゃべりは、まだまだ続いている。「そういやカヨさんところのキュウコン、亡くなっちゃったんだってねえ」「あんたそりゃあ一年も前の話だよ、ボケてきたんじゃないのかい」
 さあ降りようと荷物とお土産を手に持ったところで、片手に持っていたスマホが鳴った。
 画面を見れば「勝浦千代」の文字。妹からの電話だ。「もうちょっとでバス降りるからあとでね」って言おうと通話ボタンを押したとき、ちょうどバスが止まった。空気の抜ける音と一緒に扉が開く。慌てて立ち上がりながら耳に当て――ないで、すぐに終了ボタンを押した。
 何故って、かけてきた本人が窓の向こう、バス停で待ち構えていたからである。
 運賃箱に小銭を入れ、車掌さんにお礼を言いながら降りる。真夏の太陽に盆地の熱気とが合わさって、クーラーで冷えた体が少しふらふらした。
 ソーナノみたいなニコニコだったらまだ少し可愛げもあろうに、イタズラ成功を隠し切れない妹の顔は、ゲンガーに例える方が正しかろう。
「なんで切っちゃうのよう、お姉ちゃん」
 拗ねたような声の演技に、「あんたねえ、」と喧嘩腰で、
「バスに乗ってるのに電話かけないでよ、メールもアプリもあるでしょうが」
「でも、タイミングぴったりだったでしょ?」
 間が悪いと思ったら実際は狙ってたってことか。このイタズラっ子め、と頭をがしがし撫でてやった。
 ひとしきりがしがしされた後、
「お帰りなさい。お母さんも待ってるよ」
 妹の言葉に、ただいま、と返した。
 そう。
 帰ってきた。ここは、私の、故郷だ。 

*

 バス停から見た景色は、高校を出て大学に入るときもそうだし、産まれた頃からもたぶんずっと変わらない。
 あの時は同級生や近所の人たちが集まって、見送りをしてくれた。向こうに行っても勉強頑張るんだぞ、しっかり体調管理しなさいよ、と口々に語り掛けてくれる言葉に、目頭が熱くなったことも、はっきりと覚えている。

 その場に幼馴染の彼が――宮寺俊二がいなかったことも。
 それがどれだけ、空虚に感じられたかも。


2

「暑かったでしょう、今年の夏は全国で猛暑ですって」
「そうそう。バスの中がクーラー効きすぎててさ、外と中の気温差がキツいのなんのって」
 ご飯はもう食べたの、食べてないなら簡単なもの作るから待ってなさい、と久しぶりに帰ってきた娘に世話を焼こうとする母の姿になんだか困ってしまった。大学通いの一人暮らしの、部屋に帰っても誰もいない状況とのギャップが大きすぎる。妹曰く、私がいなくなってからだいぶ物憂げだったというから、反動だろうなあってちょっと思った。
 小腹が空いてるくらいだしお米と梅干があればいいよ、なんて返したら、あんた一人暮らしで偏った食生活してるんじゃないでしょうねなんて変な勘繰りをされた。過保護じゃなかろうか。
 食事と聞いて鼻が効いたか、イワンコがカバンからのそのそと顔を出す。
「あら、まあ!」お母さんが驚いた声を出した。「ポケモンじゃないの!」
「うん、まあ」バッグに入れっぱなしじゃ苦しかろうと思い、床に出してやった。嗅いだことのない匂いに警戒してか、その辺りをくんくんする。「教授に、ちょっと託されちゃってさ」
 この子アローラのポケモンだ、お姉ちゃんずるーい、と妹が拗ねた顔をする。いいだろー、とニヤついてみせた。電話の件の仕返しだ。
 お母さんがしゃがんでイワンコの頭を撫でてやる。私みたいなのも拒まないおとなしい子だ。この子のごはんも作ろうか、玉ねぎ入れないでね、となんでもないやり取りをする間、若干無遠慮に顔やお腹を撫で回す手も抵抗せず受け入れた。
 ふっと、お母さんの口から出た言葉。
「あんたがポケモン連れてるのなんて10年ぶりかしらね」
 ずきり。
 昔のことを思い出して、けれど気にしてないふりをした。
「そうだねえ」
 外でオニスズメが、木から飛び立つ音がした。

*

 イワンコは決まって、撫でられている間は人形のようにじっとしている。
 初めて会った時もそうで、教授室に私が入ってきたことにもまるで気付かないように、ずっと目の前、机の上で教授の手に体を任せて大人しくしていた。
 その姿から目が離せず、扉のところでずっと立ち竦んでいた私に、教授は「まあ入りなよ」と笑いかける。おずおずと席についた私に、何の脈絡もなく、
「勝浦くん、キミ、昔はポケモントレーナーになろうとしてたんだって?」
 どうしてそのことを、とか、何で私なんですか、とか、色々聞くべきだったのをどうしてか忘れてしまった。
 いや、原因は確かにそこにあったのだけれど。
 私が何も反応しない理由を知ってか知らずか、机の上に視線を移す。
「他のポケモンにも全然警戒したりしない、大人しい子でね」むしろ心配なくらいなんだ、と付け加えながら、次の言葉を口に出す。
 どんな言葉が来るか予測はしていた。
 断ろうと思った。
 私には無理です、って。

 けれど、結局。
「この子をキミに預けたいと思うんだ。どうかな?」
 その問いかけに、迷いながらも首を縦に振ったのは、どうしてだろう?


3

 軽食ができるまで少し時間があったので、帽子をかぶって日焼け止めもばっちり塗って、ちょっとだけ外を歩いた。イワンコは妹に任せてある。いつも使っているフリスビーを渡すと、それを片手に勢いよく近所の空き地に走っていく姿が、何だか懐かしい。
 外を歩くには少し厳しい暑さだが、ちょっと屋外へ出ていたい気持ちの方が強かった。バスのクーラーで冷えた体をこれ以上冷やすのは躊躇われた。

 ぶらぶらと足の向かった先は、石碑の立つちょっとした広場だった。
 「波音を訪ねてみても稲ばかり」。
 そんな俳句だか川柳だか分からない五七五は、ぎりぎり教科書に名前が載らないくらいの歌人が、歩き旅の途中にいつしか山間の村に迷い込み、一晩を農家の納屋で過ごした次の日、出立のときに詠んだ一首だという。
 今になってよくよく考えれば、これって馬鹿にされてるよなあ、と思いながら、町の象徴みたいにその歌を刻んだ石碑を見つめる。私が生まれたころにはもう幹線道路が整備されて、道沿いは多少栄えたものだが、そこを離れた山沿いの、この石碑が立つちょっとした広場の周りなどはたぶん、詠まれたころとさほど変わってはいまい。変わったところといえば、住む人間の平均年齢と、稲作を減らした後の畑の数とが増えたことくらいだろう。

 私の背丈くらいの石碑の、その台座の部分に腰掛けて、ぼんやりとあたりを眺める。
 やっぱりこの風景は、何も変わってない。バスと並走する川の流れも、畑仕事をする人やポケモンの姿も、山の木の一本一本でさえ。私が物心ついたときから、遊びの待ち合わせをここでして、その時にここから見た風景と、何も。
 ――あの約束が、もう破れて消えてしまったことすらも。
「……ほんと、バカなんだから」
 どこか大きく変わっていれば、思い出さずにも済んだのかも、なんて。
 肌をいたぶるような晴天が、どこまでも明るい。

*

 寂しがりやで生意気で、変に大人ぶるところが小憎らしくって、けれど放っておけない、それが宮寺俊二という同郷で一つ年下の男の子だった。
 小学校が同じなのもあったけれど、一番に関わりがあったもの。それがポケモンバトルだった。
 こんな山間の田舎では、畑仕事を手伝ってくれるポケモンたちが力比べをしたり相撲をとったりする程度にしか、ポケモンを戦わせるというものに縁がない。その中では珍しくトレーナー志望だった者同士、というのもあっただろう。
 ご隠居――名うてのトレーナーだったらしいが、寄る年波に勝てず過労で神経衰弱に罹ったらしく、しかしそれでもバトルから離れられないで、療養も兼ねてもっと山奥で暮らす間も近くの子供にバトルのいろはを教授している御年80の老爺だ――の厳しい指南も乗り越えて見せて「旅に出ても危険はあるまい」と太鼓判を押してもらった二人でもある。

 それでも10歳と言えばまだまだ子供だ。
『ゆーびきーりげーんまん、嘘つーいたーらハリーセン百匹飲ーます』
 9歳の彼と小指を結びあって、石碑の前で――そう、子供らしく、こんな約束をしたんだっけ。
「来年旅立つまでに、俺はご隠居の修行を受けて強くなる。お前は旅に出て強くなって、一年後またここに帰ってこい。そしたらポケモンバトルだ。いいか、約束だからな。絶対だぞ。破ったら絶対許さないからな――」

 ……ごめん。
 私には、無理だった。


4

 日が傾いて空が真っ赤に染まった頃、お父さんが帰ってきた。
 お前ちょっと痩せたか、お父さんそういうのセクハラになるんだよ、なんて会話が、遊び疲れて昼寝をしていたイワンコを起こしたらしく、とたとたと駆けてくる。お父さんは多少面食らった様子だったが、すぐに打ち解けた様子。

 トマトに、かぼちゃに、トウモロコシ。近所の畑で取れた野菜を使い、お母さんが腕によりをかけて作った夕食が、遠くに行っていてもここが我が家なのだなあ、と実感させてくれた。私はお母さんに似ず料理が下手くそで、才能は全部妹に行ってしまったらしい。料理下手じゃお嫁に行けないぞ、とお父さんが冗談交じりに言う。いいもーんお父さんと違って料理のできる旦那さんもらうんだもーん、不貞腐れてそう返せばみんな笑った。
「そうそう」
 お父さんが寄合で聞いてきたらしい話を持ち出した。
「川向かいの本郷さんのところの娘さん、来年10歳で旅立つんだと」
「あら、秀才だって聞いてたけど、トレーナーになるのねえ」
 10歳ですぐに旅に出ようというのは、子供のうちでもほんの一握りだ。
 ぐい、とグラスを傾けて、
「千恵も昔、トレーナーになりたいって言ってたのにな」
 あー……。
「……もう10年前だよね。私も若かったわー」
 隣町の――帰るときに上がってきた山道の麓だ――中学高校を卒業し、大学にまで進んだ私にも、確かにそんな時期もあった。一握りになりたいと、なってやると、そう信じて夢見て旅立って。
 何を若いもんが偉そうに、そう言って膝を叩くお父さんは相当酔いが回っているようだ。こうなると少々面倒くさい。いち早く察知した妹がそうしたように、私も自分の部屋に籠ることにした。

 綺麗に掃除された部屋のベッドに、水ポケモンよろしくダイビング。太陽の匂いがする布団が、とても優しい。
 仰向けになって天井を見上げる。お風呂に入ってから寝ないとお母さんに叱られるだろうな。そう思って起き上がるには、些か体力が足りなかった。5時間以上もバスに揺られていたのだから、飛び込んだ時点でこうなるに決まっていた。
 微睡み。ひとつ欠伸をしたところまでは覚えているけれど、そのまま眠りに落ちてしまった、のだと思う。

*

 からからと車輪の回る音。
 マスクをした術衣の人たちに囲まれた私は重い身体のままベッドに横たわっていた。違う、ベッドじゃなくてストレッチャーだ。
 夢、というより昔の記憶。すぐにそう理解した。旅立ってから半年くらい後。ただレコーダーのように過去を再生しているだけだから、焦る心配もない。
 お母さんのヒステリックな声。
「先生……! 千恵は、千恵は助かるんでしょうか……!」
 落ち着いて、という、冷静な男性の声が続く。
「確実なことは言えませんが……とにかく全力を尽くします」
 そうだ、コガネの大学病院の先生。あのときは随分お世話になった。
「どうか、娘をよろしくお願いします」
 お父さんの声がこんな風に震えているのを聞いたのは、これが最初で最後だったと思う。見舞いに来たお父さんは心配こそしていたものの、冗談を飛ばして快活に笑ういつもの調子だった。

 ……なんで。
 なんでわざわざこんなことを思い出したんだろう。
 ポケモンに――それも野生じゃない、トレーナーのだ――大怪我を負わされたときの記憶なんて。


5

「そりゃあ千恵、恋ってやつだよ」
 モモンチューハイを噴き出しかけた。
 店員さんお冷頂戴、と気を利かせてくれたのが亜美で、私の反応を見てけらけら笑っているのが歩実だ。どちらも高校の同級生で、三人でよく放課後に遊びに行った仲。ちょうど帰省のタイミングが合ったので、隣町の居酒屋で一緒に呑もうとなったわけだ。
「ち、ちち違うよ!」冷水を飲んで少し落ち着いてから、私が反論する。
「躍起になって否定するってことは」亜美が便乗してきた。
「違うってば!」私の顔はレディバの羽みたいな色になってるだろう。「昔仲良かったのに、全然音沙汰ないから、ただ心配っていうか……」
 どうしてこんな話になったんだっけ。昔歩実が私の住む集落に住んでたっていう話があって、なんやかんやで俊二のことに派生した気がする。昔はよく一緒に遊んでたんだけどね、なんて口に出したのがまずかった。根掘り葉掘り聞き出されたあとの最後のとっておきが、私の頬をだいばくはつさせかけたわけだ。
「ええ~、もっとお金持ちのイケメンとか大学にいるんじゃないの?」と亜美。
「10年越しの恋だよ? 都会のボンボン程度で醒めるはずないじゃん!」と歩実。
「いやだから違うんだってば」やばい、このまま泥沼にはまりそうな気がする。
 けらけらと笑って見せたあとで、歩実はこう言った。
「わざわざ連絡先送ってよこしたんでしょ、その宮寺クンは。もじもじしてる暇があったら告白メールでも送り付けてやりなさいって!」
 そうそうメールといえば最近迷惑メールがさ、歩実あんた話をコロコロ変えるよね、そんな他愛ないやり取りに笑って、話題はいつしか別の方向へ。

 ひとしきり喋って、飲み屋の前で別れて、タクシーを拾った。
 運転手との会話も尽きてしまったあと、暗い山道を登っていく間、さっきの歩実の言葉がずっと頭の中で反芻されていた。
 ――わざわざ連絡先送ってよこしたんでしょ。
 そう。あれは2ヶ月前だ。割れそうな勢いでアパートの部屋の窓を叩くオオスバメのその脚に括りつけてあったのは、一枚のメモだった。
 流石に驚いた。そのオオスバメは、私がトレーナーとして旅立ったとき連れていた最初のポケモンの、元・スバメだったからだ。遠距離を飛んで来たらしいオオスバメを布団にくるんで休ませつつ、そのメモを開いてみた。
 書かれてたのは一行だけ。
 メールアドレスだった。
 それが俊二の――トレーナーを諦めた後、スバメを託した彼のものであることは疑いようもなかった。
 咄嗟に文字を打とうとして、手が止まって。煩悶に手を震わせながら漸く送ったメールは、たったの一行。

『もう、集落には帰らないの?』

 5日後に返信が来た。

『今更、どんな顔して帰りゃいいっていうんだよ』

*

 それは退院して家に帰ってきたちょうどその頃に起きた。
 コガネの裏路地で黒い服を着て歩いていたらロケット団に間違えられて、恨みを持つ人間に怪我させられたなんて、請われても知らせるべきじゃなかった。それを聞いた俊二はカントーまで出向き、「ロケット団に関係した者を徹底的に排除せよ」と主張する活動家を襲撃し、警察に捕まったのだ。
 ラジオ塔占拠の直後で、ロケット団がいかに悪だったかということを糾弾する中での出来事というのもあり、かすり傷程度しか負わせていないにも関わらず、彼の行動は厳しい批判に晒された。報道はしきりに彼を追及し、集落内でも宮寺家は彼をよく知らない人から冷たい目で見られることが増えた。
 損害が軽微だったこともあり重い罪に問われることはなかったが――暫く後になって、彼はポケモンを連れて出奔し、行方をくらました。

 全部、私のせいだった。

 同級生と呑んでいる間も、お母さんの夕食を食べているときも、石碑の前で座り込んでいたときも、久しぶりに家に帰ってきたときも、バスから外を眺めていたときも、いや、それより前から、10年前からずっと、その事件は私の心に影を落とし続けた。
 10年前のことじゃなくて、10年間のことだった。
 ずっと気にし続けているなんて、周りに気を遣わせるのもなんだし何よりみっともない。けれど確かに、この事件は、拒絶しないまでも積極的にポケモンと関わらないこの10年間の、始まりだったのだ。

 入院中に見舞いにきた彼に、スバメのボールを渡して、トレーナーを辞めると伝えた時の、困惑と絶望に溺れそうな目に、今でもまだ見据えられ続けているようなそんな感覚は、今でもなくならない。


6

 空は夕暮れ。周りを山に囲まれた土地は早く暗くなる。
 もう一度石碑の前に来て、台座のところに座り込んだ。連れてきたイワンコが足元に寄ってくる。頭をがしがししてやった。
 明日のバスで、コガネに帰らなくちゃいけない。

 私はあの時の決断を間違っているとは思わない。
 ポケモンとは生き物であり、同時に大きな力だと、そう思っている。その力をぶつけあうバトルへの情熱を、今でも卑下しようとは思わない。野生のポケモンが脅威になることもあるから、強さが必要なのも否定しない。
 けれどトレーナーを辞めてしまったのは、私がどこか、冷めた大人になってしまったからだと思う。
 ポケモンの力で私が怪我をして、俊二が誰かを傷つけて、そんなことのためにポケモンの力はあるんじゃないって思ったのも確かで、自分が受けた痛みをポケモンに味わわせたくないというのもあるけれど。
 それ以上に、あの事件を経験して、バトルで強くなることに何の意味があるんだろうと、一度でもそう思ってしまった。
 罪悪感と後悔は、私を自虐に走らせた。そして私は、立ち止まってしまった。
 強さを求めバトルを究める、一心不乱に走り続けなきゃいけない中でのタブーだった。
 テレビに出るような彼らは挑戦し続ける天才なのだ。俊二もたぶん、そうだったのだと思う。単に私がそうじゃなかっただけで――

 そこまで考えて、あれ、と思う。
 ここに帰ってくれば俊二に会えるかもしれないなんて、どうしてそんな期待を抱いたんだろう。
 冷静になって考えてみれば、お盆の1週間だけしかここにいない私と、どこにいるかも分からない俊二とが出会うなんて、あり得ないことだ。

 物思いに耽る私は、背後から飛び掛かる何かに気付かなかった。

 はっと振り向いたときには、覆いかぶさるような影が、ちりちりと静電気を散らしながら落ちてきていた。
 何よりもまず恐怖が勝った。裏路地で襲われたあの感覚が支配して、微動だにできなかった。
 そのくせ頭だけはよく働いた。「電気を出すポケモンが逃がされて……」という老婆の噂話が今更に思い出された。

 まぶたをきつく閉じた。
 来るべき衝撃を予想して、死ぬかもしれないな、と思った。
 走馬燈が見えた気がして、みんなの声が思い出されて――

「やめろおおーーー!!」

 ……おかしい。
 声変わりした俊二の声が聞こえるなんて。


7

 どういう顔をすればいいのだろう。
 色々な感情がごちゃ混ぜになって、中には確かに嬉しさとか安堵もあるのだけれど、恥ずかしさが邪魔をした。襲われると勘違いして泣きそうになったのもあるけれど、例えばだ、「実はイワンコの正体はポケモンにされてしまった俊二で、ピンチに応じて元に戻った!」とか、そんな童話的なことまで考えてしまったのである。……ああ恥ずかしい、実に恥ずかしい。そんな少女漫画みたいな出来事、現実に起きてたまるものか。ちなみにイワンコは台座の上で呑気に寝ている。
 19歳になった俊二は私より背が伸びて、立派になったと思うのだけれど、「本当にすまんかった!」とぺこぺこ頭を下げる様子が何だか情けなく見えてしまって、同時にとても居心地が悪い。そっぽを向く私に、彼はぎこちなくこれまでの説明を始めた。

 こういうことらしい。
 落ちて来たポケモンは勝手にボールから飛び出しては人に飛びつく悪癖を持ったエモンガで、噂話とは無関係。飛びつく前に静電気を外に出していただけで攻撃ではなく、むしろ安全に接触する前準備。駆けつけた俊二が急ぎボールに戻したので接触は免れた。
 俊二は出奔したのではなく、事件後にご隠居に「性根を叩き直せ」と弟子を紹介され、離れた地方の秘境で修行していた。ご隠居があの事件の後ほどなくして亡くなったから、私には伝わらなかったという。それから各地を旅して、私と入れ違いで去年に一度戻ってきた。とはいえ集落に居づらいことには変わりなく、今でも各地を転々としていて、今日は偶然近くに立ち寄ったということらしい。
 オオスバメはその弟子に預けた。電波の届かない秘境でその翼が配達役として重宝されたからだった。私の許に辿り着いたのは又貸し状態のときらしく、私の姿を見てつい寄ってしまったようだ。あのアドレスは俊二のものではないという。
「え、じゃあ私誰にメール送ったの」
「それは分からない、ともかく俺にはご隠居の弟子から伝わった。最初はお袋かと思ったんだよ、そのつもりで返したらお前だった」
 確認してみれば確かにアドレスが違う。
「そこはよく見ろよ」ツッコまれた。
「うるさい、バカ俊二」ムキになって返す。
「いやこれに限ってはお前の方が馬鹿だろ」
 ぐ、生意気な。年上の私にも遠慮のひとつもないあたり、根本は変わっていないのだろう。確認しなかったのはお互い様だ。

*

「約束のことなら、気にしなくていい」
 暫くの沈黙の後、俊二が口火を切った。はっとして視線を向ければ、逞しくなった顔。
「全然連絡しなかったのも、俺の安っぽいプライドだ。それこそ頂点に立つくらいしないとって思い込んでた。お前がトレーナー辞めたときから、二人分強くならなきゃいけない気がしてさ」
「そんなの、背負い込むことないのに」
「お互い様だろ。――いいんだよ、そのくらい勝手でも」
 少しアクが強くなったけれど、子供の頃の笑顔は健在だった。
「そりゃトレーナー辞めるって聞いたときはショックだった。子供なりに恨みもした。警察にもお世話になったし、そこから旅をしたのも楽じゃなかった。けど――そのおかげで俺は強くなれたんだ。お前に人生狂わされたなんてこれっぽっちも思わねえよ。俺はお前が思ってるほど弱くねえ。だから気にしなくていいんだ。だって、幼馴染の仲だろ?」
 何だか、色々悩んでいたのが馬鹿らしくなる言葉だった。
「ふふっ」思わず笑いが零れる。
「な、何だよ」
「何でもない。昔から偉そうなところは変わってないなって思っただけ」
 絶対許さないなんて言った口で、何恥ずかしい言葉を並べてるんだか。
 でもそのおかげで、少しは楽になれた気がする。

 小指を突き立てて、ずいと押し出した。
 苦し紛れじゃない。
 今度は本当に、破らない約束をしたかった。
 小指の意味を理解した俊二が、照れくさそうに小指を絡める。

「――」

 星空の下。
 何を契ったのかは、誰にも内緒のままでいい。