スピードマスターTORA

君はステキなEX
「波音」「マスク」「神経衰弱」
編集済み
 明らかに変質者だ、と思った。
 なぜか私の前に立ちはだかった、痩せ形の高身長の、おそらく、若い男。ピンクの縁のサングラスに、派手な金髪。目元まで隠れそうな長い前髪。銀のジャケットに両手を突っ込み、ぴっちりとしたジーパン、靴は新しめのコンバース。正直、いつの時代のファッションだと叫びたくなる。そんな奇抜過ぎる格好の人物が今、私と正対している。
「君に聞きたいことがある」
 高圧的な物言いに、正直イラッとした。私はこれから学校で、遅刻寸前なわけで、とっても急いでいるのですが。そういうことは、よそでやって欲しい。
「今日は、2018年の9月10日。合ってる?」
「そう、ですけど」
 なぜそんなことを聞くのかは分からないが、反射的に答える。
 するとなぜか男は肩を揺らして笑い初めた。クックック、なんて笑い方、本当にする人いるんだ。どん引きだよ。
「成功だ。奴より早く、この日にたどり着いた。これは運が良い」
「あの、用がないなら行きますね。急いでるんで」
「ちょっと待って」
「何なんですかもう」
 私の苛立ちがピークに達し思わず叫ぶも、彼はまるで意に介さない。
「もう一つ。君、昨日……いや、一ヶ月前に、透明な石を拾わなかったかい?」
 その言葉を聞いた瞬間、彼の真意が読めた気がした。彼のそばから立ち去りたい理由が増えた。嫌な予感がする。
 スマホを取り出し、時間を見れば、8時24分。ホームルームまであと6分。もう立ち止まってはいられない。
「いや、知らないですね。力になれなくてすみません。それじゃ」
 彼を無視して走った。
 だが彼は私と併走してついてくる。警察呼んだ方がいいのかな。
「君の身を案じて、助言だけはしておこう。あり得ない場所に植物が生えているのが見え、聞こえないはずの波音が聞こえたら、すぐにその場から逃げるんだ。そしてこう叫ぶといい。『助けて! スピードマスターTORA!』と」
 ちょっと待って。誰だよスピードマスターTORAって。

 つい気になって振り向いた時には、既に彼の姿は無かった。




 授業を受けながらふと、昨日の……いや、正確に言えば、ここ一ヶ月のことを思い出す。
 時代錯誤なあの不審人物(彼がスピードマスターTORAなのだろうか?)の読みは、確かに当たっている。

 9月9日、日曜日の夜。私は不思議な石を拾った。

 夏休みのある日のことだった。趣味で小説を書いている私は、SNSでコンテスト企画の開催を知った。共通のお題に沿って小説を書き、その面白さを競う、というものだ。投稿期間は一ヶ月。始まるや否や、沢山の力作が投稿された。
 作品達に対して、ああでもない、こうでもないと言い合ったり。タグを使って交友関係を増やしたり。まさにお祭り、年に一度の大イベントだった。私も参加しようと息巻いていたが、結局何も思いつかず、生活の忙しさを言い訳に、ほとんど手つかずの状態でイベントの最終日―――9月9日を迎えた。
 馬鹿じゃん!
 私は頭を抱えた。
 パソコンを開いてみたものの、意味のある言葉は一文字も打っていない。やはり何も思い浮かばないのだ。
 自分は所詮、こんなものか。
 5時を回り、気晴らしにコンビニまで散歩しようと決めた。
 その道中、きらりと光るものが道路脇に落ちているのを見つけた。

 最初、見るだけにしよう、とは思ったのだ。
 だが、それはその辺に落ちている石にしてはあまりに異質で、好奇心から放ってはおけなかった。
 まず、その透明感と輝きの鋭さ。日常生活ではまずお目にかかれない。ダイヤモンドか水晶か分からないが、何かの宝石のようだった。次に、尋常じゃなく大きなそのサイズ。だいたいソフトボール大くらいある。角が取れて綺麗に磨かれていたなら、まるで絵に描いたような占い師の水晶玉だ。
 誰かが落として行ったのだろう、と思う。たぶん、凄くお金持ちの人。
 ただ、周囲には誰もおらず、まだ誰も見つけていない。悪い人に盗られる前に、警察に持って行った方がよさそうだ。うん、そうだ、お巡りさんに任せよう。幸い、交番はコンビニへ向かう道中にある。
 ひょいと持ち上げると、思ったよりも軽かった。実はそこまで高いものじゃなかったりして、と考えを巡らす。
 こんな経験も、小説にしたら存外面白くなったりするのだろうか。不思議な石の話。アリかもしれない。今回の企画のネタとしては、十分使えそうなインパクトはある。だが、話を話としてまとめる時間は、もうないだろう。
「あーあ、もっと時間があればなぁ」
 叶えることの出来ない願望が口をついて出たその瞬間、手の中の石が光を放った。
 あまりに眩しく、目を塞ぎ、目を開ける。
 すると、空は昼に戻っていた。

「暑っ」
 まず感じたのは、刺すような日差しと、こもった室内のような湿気。
 次に、最近聞こえなくなったはずの蝉の声。
 夏を感じる。
 ちょっと待って。それは、なんかおかしくない?
 透明な石を脇に抱えながら、慌ててスマホを取り出す。
「うそ」
 思わず声に出してしまった。今日の日付は、2018年8月11日。企画投稿が始まった日だった。
 時間が、巻き戻っている。

 事態の異常さに恐ろしくなったが、他の人たちはそのことに一切気付いていないらしい。
 こっそりとあれこれ試してみたが、自分が特に何かを変えようとしなければ、全く同じことが起こる。
 例えば、お盆の日の親戚の集まりで、従兄弟とやった神経衰弱。配置がちょっと面白かったので、何となく覚えていた。綺麗に並べられた配置のど真ん中の列が、上から順にめくっていくだけで揃っていく。巻き戻る前は、左右真っ二つだ、みたいな話をしたなぁ。
初手で覚えている限りの組み合わせを開いてやったら、案の定従兄弟には驚かれた。カンニングしてないか、ちょっと怪しまれもしたけれど、勘だと言って誤魔化した。
 企画に投稿される小説も、時間が戻る前と同じだった。投稿日時も同じ。内容も同じ。ただ、私だけが倍の時間の猶予を与えられていた。
 アイデアが出ず、舞台に上れない悔しさ。あれを今度こそ味わってはならないと、一か月かけて必死に考え、作品を一つ形にすることができた。締め切り数時間前までしっかり推敲に推敲を重ねた。結果はどうなるかは分からないが、自分なりのベストは尽くしたつもりだった。
 きっとどんな結末であれ、悔いは残らないだろう。

 そう思って、晴れやかな気持ちでベッドに入った9月9日。
 興奮のあまり眠れず、次の日は結局寝坊してしまったのだが。

 透明な石は結局、自分の部屋に隠し持ったままにしていた。
 超常現象を引き起こす物騒な石を、どこか適当なところに投げ捨てる訳にもいかない。かと言って、誰に相談していいものかも分からない。結局誰にも言えないまま一ヶ月が過ぎてしまった。
 巻き戻った時間を消化しきった次の日に、彼は現れた。あの、妙に派手な出で立ちの男である。
 石のことを聞いてきた、ということは、やっぱあの人が持ち主なのかな……。
 朝は咄嗟に嘘をついてしまったが、冷静に考えると彼にちゃんと説明した方がいい気がしてきた。でも、あまりに怪しすぎる。不審者に隙を見せたら最後、取り返しのつかないことに巻き込まれるかもしれない。誘拐とか。そもそもどこで会えるかも分からないし。
 授業が全て終わるころになて、ようやく結論が出た。いつ彼に出会ってもいいように、明日からは出かける時には持ち歩いておこう。学校指定の鞄は大きいから、あの大きな石でも入るはずだ。

 そんなことを考えていると、いつの間にか教室には誰もいなくなっていた。
 寝不足が祟っているのだろうか、ぼうっとしてしまった。やっぱり朝から意識がはっきりしない。今日は早くかえって寝よう。そうしよう。

 ザァ、ザザァ。

 ふと、何か音が聞こえるような気がした。
 目を閉じて、耳を澄ませる。うっかりとまどろみに落ちてしまいそうな、波の音。どうして、こんな教室の中で聞こえるのかな。
 ふと、あの不審人物の言葉が蘇る。聞こえるはずのない波音を聞いたらどうすべきか。彼の助言が正しければ。
 嫌な予感がして、私は目を開けた。
 机の角から、妙に鮮やかな植物が生え伸びている。
「何これ」
 生えるはずのない場所に植物が生えたら。

 すぐにその場から逃げるんだ。

 教科書やノートがいくつか残っているが、たぶん回収している暇はない。すぐに立ち上がり、教室のドアまで離れて様子を確認した。
 鮮やかな植物は次々に生えて行き、少しずつこちらへ向かってくる。まるで、透明人間が足跡だけを残して迫ってくるかのように。
 植物が迫ってくるにつれ、波音も大きくなってくる。遠ざかれば、小さくなる。森と海。全く別のイメージが同時に襲ってくるそのちぐはぐさが、何より不気味だった。
 あれに捕まったら、どうなるのかは分からない。だが、この世のものとは思えないような病的な美しさに惹かれてしまえば、うまくは言えないが、「連れていかれて」しまうのだろう。細い植物達に触れれば手足に絡み付き、波の引き際に巻き込まれるように草葉の陰に引きずり込まれていく想像が、脳裏をよぎった。
 植物の追いかける速度は、人間が歩く程度。逃げられないこともない。
 ここは3階。階段を下りて外に出よう。外ならもう少し逃げやすいはずだ。助けを呼べるかもしれない。
 廊下に出て、後ろを確認しながら早足で階段を目指す。植物との距離は付かず離れず。大丈夫、まだ大丈夫だ。
 階段まで走り抜けた。階下を目指し一歩降りようとしたその瞬間、全身に鳥肌が立った。踊り場に、一本の植物。先回りされている。奴の方が一歩上手だったことを思い知り、ぞっとする。
 この植物達がどこまで賢いのかは分からないが、少なくとも下の階に逃がさない方が都合がいいと分かる程度には知恵が働くようだ。それに、道を塞ぐにはたった一本で良いことも。
 階段がダメなら、渡り廊下を抜けるしかない。隣の棟に移れば、もう少し違うルートを考えられる。一気に距離を離すべきだと判断し、ドアを開けると同時に全力で走り抜ける。
「はぁ、はぁ」
 少し息が切れてきた。いつまで続くか分からない鬼ごっこをやり遂げるには、決して立ち止まってはいけない。体力が尽きてしまっては終わりだ。引き離すことに成功したことを確認したら、ペースを落として次の経路を考える。
 ここまで、誰ともすれ違うことがなかったのは、幸か不幸か。それとも、それも私の想像すら及ばない、植物達の狡猾な罠なのか。
 階段を下り、2階。そのまま1階まで降りる。
 外へ出られる、と安心しかけたその時、血の気がさあっと引いた。
 ドアが、植物で覆われている。
 植物は更に自分の領域を増やしていき、壁を、地面を、天井を伝って、少しずつ近づいてくる。
 振り返れば、通路があるはずの空間も、植物の壁に置き換わっている。階段を見上げても、同じように植物。植物。植物。植物の波が、目の前に迫る。
 植物の形がねじ曲がり、トンネルを造ったかと思うと、頭のてっぺんが尖った、羽の生えた緑の子人のような生物が姿を現した。まるで妖精のようだが、今の状況では命を奪いにきた死神にも見える。
 逃げ道はない。
 どうして私がこんな目に遭わなければいけないのか。
 あの石を拾って、時間を巻き戻したから?  歴史を変えた、報いってやつかな。
 ただちょっとした後悔をやり直しはしたけど、些細なことじゃないか。ちょっとくらい許してくれてもいいじゃない。
 ふと、不審人物の顔が思い浮かぶ。あんたもそう思うなら、この状況を何とかしてよ。彼の助言を思い出し、名前を呼ぶ。
「助けて、スピードマスターTORA!!」
「オーケー」
 耳元で、あの不審人物の声が聞こえた。振り返るよりも早く、周りの景色が移り変わった。

 一瞬で違う場所に移動したらしいことは、何となく分かった。
 窓一つない無機質な白い壁に、続く廊下。急に訪れた静寂。完全に管理された、快適な温度と湿度。何かの研究所か、あるいは宇宙船の艦内のようだった。
「危なかったね、お嬢さん」
 不審人物の声が、耳元で聞こえる。
「その手、そろそろ離してくれませんか」
 私が助けを呼んでから、彼はずっと私の肩に手を置いている。私が嫌悪感たっぷりにお願いすると、ようやく彼は離れてくれた。
 彼の姿は朝見たときと同じ、ピンクの縁のサングラスや銀のジャケット。この場所で見ると、違和感は少ない。
「おっと、これは失礼。体に触れないと一緒に時間移動ができないものだから」
「時間移動?」
「そう。時間移動。君は今、僕と一緒に僕たちの時代へ……君からすれば遥か未来へ飛んできたということだ」
 ますます頭が混乱する。段々現実感が無くなってきたぞ。まぁ、あの植物の時点で相当なものだが。

 ふと、子供が何人か、廊下の向こうから走ってくる。どこかへ向かう途中らしかったが、彼に気付くと目を輝かせて寄ってきた。
「あ、虎徹のにいちゃんだ」
「おかえり」
「やあ、みんな。ついさっき、この子を時空の迷宮から救い出したところさ」
 そう言って、また彼は私の肩に手を置く。今度はすぐに離してくれたが。
「さっすが、虎徹のにいちゃん!」
「頑張ってね」
「あぁ。期待してくれよ。このスピードマスターTORAが、どんな問題も解決してみせるさ」
 子どもたちに手を振って見送る。彼らの姿が見えなくなる頃になって、ようやく私は口を開いた。
「あの、助けて下さって、ありがとうございます」
 色々聞きたいことはあったが、まず最初に言うべきはお礼だと思った。ドッキリでなければ、本当に私は命を救われている。
 彼はサングラスを外し、微笑みを浮かべた。顔立ちは整っており、その甘いマスクは芸能人と言われても納得するほどだった。今着ている衣装も、何かのドラマの撮影と言われれば、納得してしまうだろう。
「どういたしまして。でも、どうしてもっと早く助けを呼んでくれなかったんだい。僕の名前を呼んでくれさえすれば、それを伝って一瞬で駆け付けられたと言うのに」
 彼は少し不服そうな顔をする。だが私にも、不満はあった。
「叫ぶの恥ずかしかったから」
 スピードマスターTORAって。言えと言われたから言ったが、そのネーミングセンスについては疑わしいものがある。ヒーローショーで、子供たちと一緒にヒーローの名前を叫ぶような気分だ。さっきの子どもたちにも慕われはしていたものの、虎徹……恐らく本名の方で呼ばれていたような気がするんだけど。
「どうして、そんな変な名前なんですか」
「変な名前とは失礼な。こう見えても、僕はこの世界の命運を背負ったヒーローなのだよ。ヒーローにはふさわしい名前が必要なのだ」
 その割にその名前では呼ばれていなかったことについては、言及しない方がいいかもしれない。
「早速だが、客室に案内しよう。付いてきてくれ」
 そう言うなり、彼は歩き出した。
「……会った時から気になってたんですけど」
 歩きながら、ふと尋ねてみる。
「その恰好って、一体……」
 この時代に来た時は、こういうのが未来のファッションなのかと思った。だが、そういうわけでもないらしい。さっきの子どもたちは自分の時代とほとんど変わらない、スポーツウェアのような服を着ていた。
「時間旅行をする時は、その時代に合わせた服装をするのがモットーでね。2010年代は、1980年代のリバイバルブームだと聞いて、こういう格好を選んでみたのだが、どうだろう」
 私は首を捻った。10年代のことも、80年代のことも、ものすごく誤解している気がする。
「……そんな恰好してる人、あんまりいないと思いますよ」
「そうなのか!?」
 本気で驚いているさまに、私は呆れる他なかった。

 案内されたのは、だだっ広い会議室のような空間で、正面に大きなモニターがあった。
 適当に座って、と促され、沢山ある席から一つ選んで座る。
「早速で申し訳ないけれど、説明させていただこう。こちらを見てくれ」
 彼はモニターの電源をオンにする。それを見るなり、私は反射的に叫び声を上げそうになった。
 映っていたのは、廃墟だった。瓦礫に次ぐ瓦礫の山。ぼろぼろになった高層ビル。それなりに時間が経過したのだろうか、その隙間を縫って小さな植物が所々に顔を出している。
 その中で異質なのは、宙に漂う緑の人形のような存在。あれは生き物なのだろうか? 何かを探すようにゆっくりと動き回っていた。
「これが今の地球の姿さ」
 スピードマスターは声の調子を落として語る。
「君が生きているよりもっともっと先の時代。人類はどこからともなく飛来してきた謎の生命体によって、壊滅状態に追い込まれた」
 そんなSFみたいなことがあるのだろうか。にわかには信じられない。
「それってもしかして、あの動いている緑色の奴のせい……ってことですか」
「そう。分裂生命体ランクルス。僕たちは奴らをそう呼んでいる」
 モニターの中のランクルスの一体が、不自然に長い腕を振り上げる。それに合わせて、瓦礫が宙に浮き上がった。
「奴らは超能力のような力を使い、人間文明を瞬く間に破壊していった。あれはまさに地獄絵図だったよ……」
 悔しそうに、拳を握りしめるスピードマスター。
「為す術の無くなった人類はシェルターを作り、奴らから身を隠してここまで生き延びてきた、というわけだ。
 奴らの一体一体の力は強く、その上兵隊も無数にいる。このままだと人類に勝ち目はない。
 だが命がけの調査の果てに、一つの光明が見えた。
 彼らは過去のある時点、ある場所に、地球を侵略すると決める為のマークをつけていたようだ。だから、それを事前に阻止することができれば、奴らの地球侵略を無かったことにできる」
 過去を書き換えて未来を変え、人類を救おうということなのか。なるほど、確かにヒーローである。
「身内の話になるのだが、僕の父は小型タイムマシンの開発を行う研究者だった。マーク探しには、幾度とない時間と空間の移動を伴う。父の研究は、途端に人類の最重要課題になった。どんな時代でも自由に行き来できるよう、人ひとりが持てる程度のサイズにまで小型化を進め、2年の歳月をかけてようやく完成した。名前を金剛玉一号と言う。見た目は手のひら大の水晶やダイヤモンドに似ている」
 はっとした。金剛玉一号の見た目には、心当たりがある。
「それってもしかして……」
 私が言うと、彼は黙って頷いた。
「君の思っている通りだ。その話も後でするよ。
 ……父は金剛玉一号を使って、侵略マークの設置位置・時間の特定を始めた。だが、時間旅行には忌まわしき罠が潜んでいた」
 彼は部屋の隅にあった棚を開き、何かを取り出して戻ってきた。そして、私に一枚の便せんを渡した。彼に促され、中を開ける。
「『虎徹、気を付けろ。ティンダロスの猟犬は、異臭を放たない。鋭角も関係ない。ただ深い森と波の音を引き連れて、時間旅行者を追い回すのみ』……」
 私は一枚目の手紙を読み上げる。恐らく、彼に宛てた手紙だろう。未来へ逃げる直前に見た、あの妖精のような存在を指しているのだろうか。
「ここに書いてある猟犬って、何でしょうか」
「架空の神話に出てくる生き物だよ。一度獲物を定めると、時空も空間も飛び越えてどこまでも付け狙う。それになぞらえて、父はあの存在のことをそう名付けた。時間旅行を行い、歴史を変えた者は、この存在によって命を狙われることになる。それがこの世の理だったってことさ」
 彼はモニターの電源を切り、椅子の一つに腰掛けた。
「父は僕の目の前で、奴に飲み込まれた。父に植物が絡みつき、小さな妖精のような姿をした生き物が現れた。そいつが父の体に触れたかと思うと、その時にはもう父の姿も、植物の姿も無かった」
 彼の父は、一体どこへ連れて行かれたのか。人智を遥かに超えた所業を想像すると、恐ろしい気分になる。
「その時、因果律におかしな問題が発生してしまったみたいでね。地球上の様々な時代に、金剛玉一号の存在が散らばってしまったようなんだ。君が拾ったのも、その一つだ」
 話についていくので精一杯だったが、何となく分かった気がする。
 原理は不明だが、彼の父が時空を超える植物に飲み込まれたことで、タイムマシンが様々な時代に存在するようになってしまった、ということだろう。

 彼は右手を上げ、私に見せるように指を二本立てた。
「僕の役目は二つだ。一つは、父の意志を受け継ぎ、ランクルスの付けたマークを消去すること。もう一つは、あちこちに散らばった金剛玉一号を回収し、時間旅行の被害者をこれ以上出さないこと」
 彼の眼差しが、ゆっくりとこちらに向けられる。
「一つだけ、君に同意してほしいことがあるんだ」
 彼は、静かに言い放つ。
「僕の持っている金剛玉二号は、時間の巻き戻しそのものを無かったことにする機能が付いている。これを今から君に使う。そうすれば、君は元の時代に帰ることができる。もうあの植物に追われることも無くなる。
 ただしそれは、君自身が時間旅行をして手に入れたものも、記憶も、全てリセットされると言うことだ」
 私は時間旅行で手に入れたものについて、思いを巡らせる。投稿期間に間に合った、一本の小説。
「リセットを、受け入れてくれないか」

 ザァ、ザザァ……。

 ふと静かな部屋に、寄せては返す波の音が聞こえた。全身の毛が逆立つ。タイミングが悪いな、と彼は悔しそうに呟いた。
「すまない。本当ならゆっくり考えて納得して欲しいんだが、時間がないみたいだ」
 彼の視線は、私の後方に向けられていた。私もゆっくりと振り返る。
 部屋の壁の一部から、植物が生え出ていた。そしてそれは、目で見て分かるほどのおぞましき速度で成長し、自分の領域を広げていく。
「私が元の時代に戻ったとして、あなたは大丈夫なんですか?」
 彼はずっとこんな調子で、どこまでも追われ続けているのだろうか。彼の戦いは、恐らく苦難に満ちており、果てしないものなのだろう。それを思うと、少し哀しくなった。
「僕は時間を超越するスピードマスターだぞ。こんな奴なんか、すぐに巻いてみせるさ」
 当たり前のように言う。心外そうな顔をしていたので、きっと大丈夫なのだろう。余計なお世話だったようで、少し安心した。
 ふぅ、と大きく息を吐いた。心の中では、答えは最初から決まっている。
「いいですよ。リセットしてください。元々、自分の都合のいいように過去を書き換えるなんて、ちょっと悪いなって思ってたんですよ。何も無かったことになるだけで済むなら、それが一番いいです」
 書き上げたものだって、やり直しがきかない訳じゃない。
「ありがとう。……すまない」
 彼はなぜか、申し訳なさそうに礼を言う。
 リセットを頼むとき、彼は弱気な顔をした。変な人ではあるけれど、本当は優しい心の持ち主なのだろう。世界の為という大義名分があったとしても、たった一人の、それも本人ですらすぐに忘れてしまうような気持ちを無下にはできないのだから。
 そんな弱気な彼を少しだけ、助けてあげようと思った。
 こいつを、ヒーローにしてやろう。
「助けて、スピードマスターTORA」
 恥ずかしげもなく、私は彼の名前を口にする。
「オーケー」
 彼は頷く。自信満々な、ヒーローの顔に戻った。
「さあ、目を閉じて」
 波の音が強くなる。自分が飲み込まれそうなほどの音が迫った時、彼の手がそっと、私の肩に触れた。

 大きな音が鳴っていた気がするが、何の音だったのかはもう思い出せなかった。

「さて」
 スピードマスターは一人、伸び迫る植物をじっと眺めていた。
 あの子を助けられて良かった。こいつに追われるのは、自分一人で十分だ。
 植物が近くまで迫り、妖精が現れた。父はこいつをティンダロスの猟犬と呼んだが、その容姿は、それとはまた別の架空の物語に登場するキャラクターに酷似している、と思っていた。丁度、彼女が生きる時代の物語。
「バイバイ、セレビィ。できれば二度と会わないことを願っているよ」
 その名前で奴を呼び、次の時代へ飛び立った。未来をこの手で救うまで、負けるわけにはいかない。
 スピードマスターTORAの名に掛けて、どこまでも鬼ごっこにつきあってやる。




 夕暮れ、コンビニでお菓子とジュースを買う。
 時計を見れば、9月9日、18時。
「もう夜かぁ」
 日が落ちるのも早くなったなぁ、と、すっかり秋模様の空を眺めながらため息をつく。
「とにかく、やれるだけやってみるか」
 大きく伸びをして、呟いた。
 締め切りまであと6時間。間に合うかどうかは分からない。それでも、諦めて何もしないよりは随分ましに思えた。ほんの少しでも、時間はまだ残っているのだ。
 覚悟を決めて、私は家路を急ぐ。