消えなかったもの

おみあし
「波音」「マスク」「神経衰弱」
編集済み
落ち着いて聞いてほしい、僕の担当医はそう切り出した。

「君達は本当によくやってくれた。あの大きさのヤルキモノが大暴れしていたんだ、きっと恐ろしさもあっただろう。でも君達は怖気づかず、一歩も引かず、鋭利な黒光りする爪と乱発されるパンチを受けてもなお、町の人々の安全を優先させた。本当に、心から感謝する」

医者は白いネットと包帯で固定された僕の額を手の甲で撫でた。そんなにダメージは与えられませんでしたけど、と謙遜しようと気道を開けたところ、喉と肺を無数のナイフで刺されたかのような痛みが走り、話すことも笑うことも出来ない。医者はそれを感じ取ってか、もしくはこれから僕が得るであろう絶望と虚無を案じてか、ごつい手で腕をさすった。

「蓄積したダメージと長時間のバトルで君達は急所を突かれた。気づいた時にはこの白いベッドに横になっていたというのが君の記憶の限界だろう。...いいかい、私の目を見て、よく聞いてほしい。君達は致命的ダメージを受けたことにより、脳の一部が大きく破損している。物理的にでは無いことが唯一の救いだろうと思う。そしてその影響によって君は...徐々に記憶を無くしてゆくだろう。あの子の、あのキルリアとの思い出を。そしてあの子自身はもう......失ったよ。君との思い出を」

その時僕の生体反応はほとんど機能しなかった。瞬きもせず、見開きもせず、虚ろに開いた瞳が医者の瞳を見ていた。ただその景色がぼんやりと滲んで、僕は故障した蛇口のように涙を流していた。

痛みが定期的に走る頭の中には、赤い目のキルリアが浮かんでは消え、浮かんでは消えていた。



やたらと生ぬるい体温計を脇に挟んで、澤口雅は手元の狭いテーブルに置かれた数枚の書類に目を通していた。どれもこれも画数の多い漢字と画数の少ないカタカナが溢れかえっていて、何度も戻っては読みを繰り返しているのでなかなか終わらない。まったく、こんな頭の使う小難しいものを強制的に読ませるなんて。

痛みの抜けない肺で深層水のようなため息をついた時、くぐもった音が雅の左耳に侵入し、慌てて体温を確認する。問題は無いようだ。

集中治療室で目が覚めたあの日から、どんな空気も味と音と色をなくしてしまったままだ。キルリアとはまだ会わせてもらえていない。往診に来る医者や看護師と顔を合わせる度彼女の事を訊くのだが、皆一様に「大丈夫」と言うだけで、雅が期待するような答えを持ち合わせていない。

正直なところ、自分に関しての記憶を完全に失ってしまった相棒を見るのは自らを苦しめることになるのだと、そして彼女自身も苦しめることになることを心のどこかで理解はしている。起床してから夜のしじまに飲み込まれるまで一時も忘れることはないのに、それがいつか何もわからなくなってしまうことをとても恐れている。とうとう日ごとに精神的にも身体的にも弱り果てていく患者を見て、医者はひとつの可能性を提案してくれた。

「読み終わったかい」

「先生...はい、一通りは。先生...これは本当に可能なんですか。先生の腕を疑っているわけではないんです、でも、もし本当に可能なのだとして、成功する確率はどれくらいですか」

雅は矢継ぎ早に往診に来た医者を問い詰めた。数センチ開けた窓から草の匂いがしていた。

「うーん、確率は分からない。なぜならつい最近やっと確立された技法だからね。でも最善を尽くせると私は宣言できる」

医者は丁寧に切りそろえられた襟足を触った。

「ただその説明をした時にも言ったが、君の記憶が現存している時間には限りがある。もし君が覚悟を決めて、サインをする力があるのなら、私は今日すぐにでも開始するつもりだ」

雅は視界の右端に置かれた安物のボールペンを見る。これを握れば、僕の記憶はなくなり、代わりに彼女の記憶を。


「やります」



手術室はよくテレビドラマで見るような光景ではなく、空きがある病室そのもののような簡素な作りだった。ただ白紙のようなベッドの代わりに、深い茶色の革張りのような椅子が置いてあるだけだ。違和感があるのは、そのまわりに異常さと畏怖感を覚えさせるほどの大量の電子機械が置かれていることである。そのうちの一つは骨格のみのヘルメットのようなものがあった。

「君の記憶を彼女の記憶にする気は無いか」

医者の言葉を聞いた時、雅は耳を疑った。記憶を移動させる?そんな映画みたいなことが出来るのだろうか。

「...出来るものならしたいですよ。彼女は僕の大切な......ポケモンなんです」

「それが出来るんだ。つい最近の話だ。海外で臓器移植をした。患者は若い女の子だった。提供者は脳死判定を終えた患者で、いい齢で天寿を全うしてからの脳死だったらしい。手術は成功した。だが不可解なことが起きた。その女の子は生まれてから一度もポケモンと触れ合う機会がなかったにも関わらず、タマザラシに異常な愛情を示した。おかしいだろ。調べてみたところ、なんと亡くなった患者は生まれつきタマザラシを育てていて、進化もさせず脳死する直前まで一緒にいたそうだ」

話の本筋が見えてきた時、雅ははっと医者の顔を見た。ひどく頼もしい笑顔だった。

「それから詳しく調べ、効果的でかつ被験者に最低限のストレスでできることが分かったんだ」

「記憶を抽出し、注入する方法がね」



痛かったら言ってください、となんとも緊張感の抜ける掛け声で雅の手術は始まった。医者によれば、ただ眠っているだけでいいらしい。大勢の看護師、助手、そして若手の医者たちに囲まれながら、雅は目を閉じた。体が海洋の中心にゆっくり沈んでいく感覚がした。目を閉じるとやはり彼女の面影が目の前をちらついて、これから手術をするというのに少し笑ってしまった。目が覚めた時、彼女は僕を覚えてくれている。そう思うだけで声が出そうだった。

僕はなにも怖くないよ、キルリア。

この幸せで困難もあって、順風満帆じゃなかったけど、それでも美しい思い出は二人のどちらかが持っていればそれでいいよ。

そして僕の目が覚めた時、僕らの出会いを教えて。


「おやすみなさい、キルリア」



***



197「タオル」
キルリアが未だに手放せないものがある。それは僕が小さい頃に使っていたバスタオルだ。若者といっても僕ももういい大人なんだし、そんなボロきれ見られちゃ恥ずかしいだろといっても手放そうとしない。
「雅の子どもの匂いがする」
とか言う。そしてくるまる。
どれどれと匂いを嗅ごうとすると、おじさんの匂いが移ると喚いて走り回る。
そこまで歳じゃないだろ。失礼な。



162「マスク」
一度町の公害が酷くなり、マスクなしでは外を歩けない日々があった。キルリアに言うと、
「ベトベトンのせいね」
となぜか技の素振りをしだした。まさかやっつけに行くんじゃないか、と冷や汗をかいていたら出かける用意を始めたので絶望した。
頼むから外に出る時くらいしっかりマスクをしてほしい。



123「立体駐車場」
ここ数週間前に新しく出来たという商業施設に出かけた。あまり出番のないマイカーを出動させる時、キルリアは決まって助手席に乗る。そしてナビを滅茶苦茶に触る。
ミナモデパートの創業者が絡んでいることもあって、建物の周辺は大勢の交通整備人が四方を囲んでいた。
誘導されたのは車用のエレベータがある立体駐車場だった。
物珍しさに僕もキルリアも開いた口が塞がらない。



***



「...丈夫、大丈夫か」
「先生、患者が落涙により脱水症状を訴えています。なにか飲ませますか」
「……ああ。………ああ、飲ませてやれ」
「はい」



***



85「神経衰弱」
近所をぶらつくのが日課な僕らは、ある日真新しい百円ショップを見つけた。
中心地ではないので、新店オープンといってもそれほど人とポケモンでごった返してはいなかった。
「雅っこれ買って、家帰って神経衰弱やろう」
キルリアがはしゃいだ声で走ってきた手にはプラスチック製のトランプがある。ええ、この前買ったやつがあるじゃないか、電気ポケモンシリーズの。
「違う、見てっこれ」
頬を紅潮させて指し示す先には内容物、そして、キルリアのイラスト。
窘めることも忘れて僕らは手を取りあって小躍りした。



69「スクイーズ」
一度キルリアをからかって滅茶苦茶に怒られたことがある。
スクイーズと呼ばれる、パンやドーナツの感触にそっくりなおもちゃだ。僕はそれを丁寧に紙袋に入れて、キルリアにプレゼントした。
それを開けた時、確か…キルリアは満足気に匂いを嗅いで、そしてばれたんだった。



51「温泉」
友人に温泉招待券をもらった。もちろん、ポケモン同伴可の施設だ。
キルリアはとても温泉が好きで...。
...あれ、そうでもなかったかな。
でもすごく喜んでいた。僕もリラックスしたので、いつも飲まないチューハイなんか頼んでしまった。



***



「......そうか。もう少しか」
「このまま順調に行けばあと二、三十分かと」
「......なあ、君の、君達の幸せは、とてもありふれていて、どうしようもないくらいに美しい。今になると、君がこの手術を受け入れた理由も少しわかる気がするよ」



***



37「波音」
あんまりよく覚えていないけれど、のどかな夜だった。
やっと勝ったバトルのご褒美に豪華なホテルに泊まった時のことだ。
「いい女はこういう夜、ちょっと海風と波音を感じたいって言うんでしょ」
得意気になった君は、そのまま走り出して...。
......君って誰のことだっけ。
なんだ■懐かしい気がする。

28「オセロ」
オセ■の駒がひとつないって大騒ぎしたね。
あれはいつだった■な。

22「プレゼ■ト交換」
二人■出会った日付、忘れてたわけじゃ■いんだよ。

16「言葉」
僕が一生懸命勉強したポ■モン語、やっと■てよかった。

13「■■」
君の言葉がわかるようになったから。

■「前髪」
小さい時は前髪が長かった■■。

■「ルビ■」
君の瞳を初めて■■、本当に感動した■だ。

3「初勝■」
強くなったね。

2「君■名前は」
■■■■。

1「■」
愛し■■るよ。



***



「先生、これで手術はすべて終了しました。……患者は麻酔が切れましたが……まだ…」
「バイタルに問題は無い。きっと今に覚める、…一人にしてやろう」
「…はい。お疲れ様でした」



***



目が覚めてからというもの、どうにも落ち着かない。おそらく小さな頃から大事にしているあのタオルが手元に無いからだろうと思う。

僕は大切な記憶を抜く手術をしたらしい。

らしい、というのは、抜いた記憶そのものをもう持っていないのでそれが本当に大切なものだったのかも分からないからだ。

そしてその記憶を、なぜかキルリアというポケモンに移植したらしい。

手術を受けるまで僕とそのポケモンがどんな関係だったのか、医者に訊いても教えてもらえないままだ。どうにか知れたのは、僕もポケモンも同じタイミングで大怪我をして、同じ病院に入院しているということくらいだ。

そのポケモンともうすぐ対面できることになっている。

正直、楽しみなところと不安なところがある。医者の説明では、僕の抜いた記憶が今そのポケモンに入っているわけで、僕にとっては初対面でも向こうからすると何かしらの記憶があるということだと思う。

こんこんというノックと車椅子の音がした。来た。

今さら面会を辞退したいとも言えないまま、僕は緊張で汗だくになったベッドシーツを強く握った。

「澤口さん、こちらがキルリアちゃんですよ」

クリーム色のカーテンの端から、エンドウ色の髪の毛が見えた。

キルリアは僕を見た途端、その大きな赤い瞳を潤ませた。

「君が…キルリア」

「...ルル......」

「君は...綺麗な瞳をしているね。まるでルビーみたいに」

ふふ、と僕は笑った。

「君の言葉が分からないんじゃ意思の疎通も出来ないか。僕がポケモン語を習得するまで、少し待っていてくれるかな」

キルリアの大きな瞳から真珠が落ちるのを、僕はなぜだかひどく懐かしみを感じて笑っていた。

そして僕ら二人、初めての生活が始まったんだ。