仮面舞踏祭の夜

No.104
「波音」「マスク」「神経衰弱」
「私を見つけて。仮面舞踏祭カーニバルが終わる前に」
 仮面を着けた少女はそんなことを言った。
 何を言っているんだと問いかける間もなく、少女はその場からいなくなった。
 足音もなく、背中すら見せず、忽然と姿を消した。
 まるで夢のようなその光景が、本当に夢だったと気付くのは、もう少し先の話である。

 目を開けてすぐに、スケッチブックに鉛筆を走らせた。おぼろげながら記憶に残っていた少女の姿を描き出すためだった。夢だから、とは思えなかった。妙に現実味を帯びた焦燥感が、喉元に指を掛けてせめぎ立てるのだ。彼女を探せ、彼女を探せと急かすのだ。
 線の細い少女だった。若草色の半袖シャツに丈が短い白のスカート、くるぶし丈の黒い靴下に、桃色のスニーカーを着けていた。ボリュームのある茶髪は両肩のあたりで前に、側頭部で後ろ斜め上に跳ね上がっていた。帽子は――被っていたか被っていなかったかをはっきりと思い出せない。ただ、ベレーだかハンチングだか分からない、白い帽子を被っていたような気もする。
 どこかで見たことがある姿だということだけは確かだった。どこだったかまでは覚えていなかった。
 そして。忘れてはいけない。少女の顔を覆い隠していた、あの仮面だ。
 アルトマーレの街では年に一度、仮面舞踏祭が開催される。アルトマーレマスクと呼ばれる仮面を被って素性を隠し、身分も、階級も、年齢さえ関係なく、誰もが平等に楽しむお祭りだ。仮面といっても様々で、素材は主に、紙でできているものと鉄などの金属を用いたものの二種類がある。基本的な形状は目元だけを覆うものか、顔全体を覆い隠してしまうもの。その多くが着ける人の顔の凹凸に合わせて作ってあり、派手なものでは大きな羽飾りが付いたものであったり、細かい装飾がなされていたり、何かの生き物の形を模していたりする。色も様々で、白や黒だけのモノクロ仮面があったかと思えば、目がチカチカするような極彩色の仮面もある。一色だけで彩られたものも、いくつもの色を組み合わせたものもある。
 しかし、少女が着けていたのは、よくあるアルトマーレマスクとは似ても似つかぬ仮面だった。一枚の白い厚紙を顔に合わせて曲げただけの簡単な代物である。申し訳程度に目出し穴が二つ開けられているだけで、それ以外の凹凸は見られない。特徴的な模様が描かれていたり、彫られていたりするわけでもない。シンプルすぎる装いは、探すのが少しでも楽になるようにとの配慮なのだろうか。それとも単に、他の仮面を用意する余裕がなかったのだろうか。確認をする術がない今、真相は闇の中である。
 描いた人相書きを携えて、部屋を飛び出した。
 祭りの最中だというのに世界は平凡そのもので、ゆったりと過ぎていく時間の中を慌ただしく駆けずり回ってる者はただの一人も見当たらない。だから、道行く人の目には異質に映ったことだろう。無理もない。仮面舞踏祭が行われるのは二週間。今日はちょうど、開始から十日目。今日を含めて残り三日で、正体の知れない少女を探し当てなければならないのだから。
 アルトマーレの街はそれ程広くはない。生まれも育ちもこの街なので、家の庭のように走り回ることができる。だが、ここを訪れる人の数は決して少なくはない。その中からたった一人を見つけろというのだ。無茶にもほどがある。せめて、どこで待っているのかくらい、教えてくれてもよかったのに。そう思ったが、それでは探す意味がないじゃないかと気付いてうなだれた。そんなものは、少しでも楽をしたいという欲求によって生まれた幻想だ。
 時間が惜しくて走る。走りつつ、道行く人と、描いた絵を見比べる。
 違う。彼女は黒い髪ではない。
 違う。彼女は長袖のシャツなど着ていない。
 違う。彼女は長い顎髭など生やしていない。
 違う。彼女はそれほどがっちりした体型ではない。
 違う。彼女の仮面には表情など刻まれていない。
 始めの数人を見ただけで、目がクラクラする。こんな作業をあと何度繰り返さねばならないのだろう。運良く次で見つかるかもしれないし、運が悪ければ何百、何千、何万と繰り返しても見つからないかもしれない。歓喜の瞬間はいつやってくるか見当もつかない。それでも、できることといえば一人一人確認していくことくらいしかない。こうなったら仕方がないと腹をくくって、手持ちの絵から顔を上げた。そして――
 見つけた。
 夢で見たのと全く同じ、服装・髪型・背格好。若草色の半袖シャツに、丈の短い白のスカート、くるぶし丈の黒い靴下に、桃色のスニーカー。両肩のあたりで前に、側頭部で後ろ斜め上に跳ね上がった、ボリュームのある茶髪。頭の上に乗っかった、真っ白なベレー帽……は、本当にあったかどうか分からないのだけれども。
 思わず目を疑った。こんなに簡単に見つかっていいものなのだろうか。困惑し、しかし手に持った絵と同じ姿を目の当たりにした喜びを噛み締めながら声を掛けた。
「あのっ」
 少女は立ち止まって振り向いた。瞬間、心を満たしていた興奮の波がさっと引いていくのを感じた。
 少女は確かに仮面を着けていた。しかしそれは、顔の形を象ったアルトマーレマスク。夢の中で見た、湾曲した平板のようなものではない。
「何?」
 尋ねた少女はきっと、仮面の下で怪訝そうな顔していることだろう。仮面のせいで表情はうかがい知れないが、感情は声に滲み出ていた。手に持った絵を見せて話す。どうか間違いでありませんようにと、心中で祈りながら。
「あなたを見つけてと、夢の中で言われたんだ」
「何のこと?」
 即答だった。嗚呼、やはり夢は夢だったのだろうか。それか、よく似た格好をした別人だったのだろうか。現在置かれている状況を説明すると、呆れた声で
「人違いじゃない?」
と言われた。姿は同じ。しかし仮面が違う。中の人は同じという可能性もなきにしもあらずだが、少女の声からは偽りの感情が微塵も読み取れない。
「……唐突にごめんなさい」
 頭を下げることしか、今はできなかった。こうやって、本当かどうかも分からない夢を信じて、誰かの時間を食い潰したことが、恥ずかしくなってきた。顔を上げて、再び走り出す。謎の少女に繋がるてがかりを、一つでも見つけるために。
「ボンゴレおじいさんなら、何か知っているかも」
 背中から掛けられた声に、思わず足を止めた。
「大聖堂でガイドをしているの。今ならそこにいるはずよ」
 少女はすぐ近くに見える建物を指差して言った。石造りの巨大な建物で、アルトマーレに辿り着いたらまず最初に目に付く観光スポットである。現在は博物館として開かれており、二階の窓のステンドグラスが、陽光を反射して輝いて見えた。
「ありがとう!」
 大声で礼を言って、再び走り出した。大聖堂は少女と出会った場所からそれほど離れていなかったため、数分とかからずにその場所に辿り着いた。
 大聖堂の入り口を潜ると、ボンゴレ老人の姿はすぐに目に入った。どんな人なのか、先の少女からは聞いていなかったが、その場にガイドと思しき老人が一人しか見当たらなかったためにそうだと分かった。胴と腕ががっしりと太く、しかし太っているという印象をあまり感じない体型をしており、赤い半袖のシャツに紺のオーバーオールを着けていた。頭は禿げ上がっていて、口の周りには立派な白い髭を携えていた。この建物の中で、その老人だけが仮面を被っていなかった。今は観光客らしき二人を相手に、大聖堂の展示を案内しているようだった。
 待っている間に、大聖堂の中を歩き回って、展示されている品々を見て回った。かつて高名な画家によって描かれた壁画や天井画。遺跡からの出土品。色とりどりのステンドグラス。――何かが足りない気がしたが、それが何だったのか思い出せない。思い出せないなら気に留めることでもないだろうと顔を上げると、老人はちょうど、相手をしていた客を送り出したところだった。
「そりゃ、わしの孫娘じゃないか」
 手が空いた老人をつかまえて絵を見せると、老人は円い空色の瞳を瞬かせた。
「よく描けておる。お前さんが描いたのか?」
 言葉を発するのも忘れて、頷いた。絵を褒められたのは、おそらくこれが初めてだ。今までは、褒めたりけなしたりされる以前に、誰にも見向きもされなかったというのに。
「そうか。これは間違いなく、お前さんの才能だ。大事にしなさいよ」
「ありがとうございます。ところで――」
 舞い上がった心を沈めて、本来の目的を老人に話した。老人の孫娘――名はカノンというらしい――にも出会ったが、探している少女ではなかったこと。同じことを尋ねた時に、ボンゴレ老人のことを教えてくれたこと。誰に尋ねても駄目だったが、この人ならあるいは、という期待を込めて、丁寧に説明した。しかし、老人は首を横に振った。
「カノンに姉妹はおらん。そもそも、カノンがこんな仮面を持っていたところを見たことがないからの。よく似た人も、少なくともこの街にはおらんよ」
「そうですか……ありがとうございます」
 また明日も来ます、と告げて、大聖堂を後にした。
 その後も、てがかりを求めて街中を走り回った。道行く人に、ショップの店員に、役所の職員に。それでも、誰も彼もが知らないと言った。
 結局、この日は夢に現れた少女を見つけることができなかった。
 
「私を見つけて。仮面舞踏祭が終わる前に」
 少女は再びそういった。昨日と全く同じ格好をしていた。髪型も、身に着けているものの色や形も。そして、奇怪な白い仮面マスクも。
 昨日描いた絵を片手に、この日も街を走り回った。道行く人の顔と照らし合わせて、違ったら違ったで、絵の少女の心当たりがないか尋ねる。
 多くが知らないと答える中で、この日は一人だけ証言を残してくれた。同じ服装・髪型の少女が、海の近くを歩いていたというのだ。急がなければ。別の場所に移動してしまう前に。逸る気持ちに連動して、足が勝手に動いた。そして――
 見つけた。
 少女は今、港にいた。イーゼルを立てて、そこでキャンバスに風景画を描いていた。少女が持つ絵筆が動くたびに、白かったキャンバスが空と海の色に染まっていく。キャンバスの向こうに広がる景色が、瞬く間にキャンバスの上に現れた。
 感心していると、少女は一つ伸びをして振り向いた。
 少女が着けていた仮面は、凹凸のあるアルトマーレマスクだった。
「今度は何?」
 つっけんどんに尋ねる少女に、ただ絵を描く様子を見ていただけだと告げた。事実、夢で見た少女を探すことも忘れて、随分と長い時間見入っていたようだった。そのことに気付いてなお、この少女が探し人ではなかったことに対する落胆の気持ちは、不思議と起こらなかった。
「絵、上手いんだね」
「ありがとう」
 事もなさげにそう言って、少女は「そういえば」と切り出した。
「探し人は見つかった?」
「全然。君のおじいさんにも訊いてみたんだけど、ダメだった」
「そう……見つかるといいわね」
 会話はそこで途切れて、気まずい雰囲気が流れた。少女は再びキャンバスに向かい、絵筆を振るい始めた。
「あなたのように、絵が上手くなりたい」
 心に浮かんだ言葉が、口をついて出た。はっとして口を手で抑える。だが、少女は振り向かなかった。
「あなたのそれも、よく描けてると思うわ」
 すっかり絵の方に集中していると思っていたものだから、唐突に飛んで来たその言葉が、てがかりの絵に向けられていると気付くのに時間がかかった。なんと答えてよいやら分からず、とりあえず礼を述べると、
「早く行かないと。日が暮れちゃう」
と諭された。
「またどこかで」
と返事をしたが、やはり少女の視線がキャンバスから動くことはなかった。
 去り際にもう一度、少女が描く絵に目をやった。よくできた風景画だ。その絵を眺めているだけで、岸を打つ波音や髪を揺らす海風を感じられるような気がした。
 ただ、最初に見た時には思いもしなかった感情が芽生えた。絵の中には、生き物の姿はない。少女が見ている景色の中には、確かに誰もいない。だが、どこか寂しい感じがして、目を瞬かせた。何かが足りないという印象が、何回まばたきをしても拭い去れなかった。
 このまま眺めていると、また少女にどやされてしまう。まだそこにいて、絵を見ていたいという欲求を抑え込んで、少女に背を向け走り出した。
 この日もまた、大聖堂を訪れた。ボンゴレ老人に、探し人が来ていないか尋ねるためである。老人はこの日もガイドとして、訪れた客を案内していた。
 手が空いた老人に少女の事を尋ねると、老人はやはり首を横に振った。大聖堂から家までの往路復路でも、探し人は見かけなかったというのだ。
 お礼の言葉を告げて大聖堂を後にしようとすると、老人はこう言った。
「いつまでも夢に囚われてはいけないよ」
 子や孫を諭すような、優しい口調だった。だが、老人の表情は真剣そのものだった。その言葉は漬物石のごとく、心にずしりとのしかかった。
「誰しも夢を見るものだ。だが、夢から覚めれば、それぞれの日常が待っている。わしにはわしの、君には君の日常が。君は夢のお告げを遂げることに夢中になって、本当に大切なことを忘れてはいないかい?そればかりに目を奪われて、君がやるべきことを見失ってはいないかい?」
 分かっている。分かっているけれど。どんな言葉を返しても、言い訳や屁理屈にしかならないような気がした。それでも。
 分からない。分からないなりに、足掻こうとしている。どんな言葉でも飾れない気持ちによって動いている。だから。
「質問に質問を返すようで恐縮ですが。本当に大切なことって何ですか」
 そう尋ねると、老人は口を噤んだ。おそらく、老人は自分なりの答えを持っていた。そして、その答えが誰にでも当てはまるとは限らないことを知っていた。だからこそ、答える事ができなかったのだ。
「それが分からない以上、今はあの夢だけが道標なのです」
 頭を下げて、踵を返す。老人の忠告を胸に刻み、それでもなお、夢に出てきた少女を探すために。
 今日はまだあと半日も残っている。いくら人が多いといっても、何もしないで待っているよりもよっぽど目的に近づけるはずだ。たった一つでもいい。今日が終わる前にせめて一つ、てがかりが欲しかった。

 一日中走り回った挙句、この日もあの少女に辿り着くことはできなかった。

「私を見つけて。真夜中の鐘が鳴る前に」
 少女はやはり、夢に現れた。服装や髪型は、それまでと変わらないままだった。
 言われずとも分かっていた。気付けばもう、仮面舞踏祭の最終日だ。そして同時に、少女を見つけなければならない期限だった。
 正直なところ、半ば絶望しかけていた。街のどこで誰に尋ねても、皆知らないと首を横に振る。たった一枚。描いたてふだと同じ服装・髪型・背格好、そして同じ仮面の持ち主を探せばいいだけだというのに。人間という名の伏せ札トランプは、今も縦横無尽に街中を歩き回っている。そして、その姿形えがらは皆、異なっている。これでは質の悪い神経衰弱だ。種類の違うトランプをごちゃまぜにして、その中に存在するかしないかも分からない、あらかじめ与えられた手札と同じ絵札を、たった一つ見つけなければならないのだから。
 ボンゴレにはやはり、前と同じように諦めろと諭された。
 ボンゴレの孫娘だという少女は、この日はどこにも見当たらなかった。
 他にてがかりというてがかりも見つからず、時間だけが過ぎていった。
 夜は更け、人々は皆、家路についていた。そんな中、一人だけ家にも帰らずに街を駆けずり回っている。言ってみれば、これは絶好のチャンスなのだ。探し人がまだどこかで待っていてくれているのならば、見間違いの対象が少ない方が見つけやすいに決まっている。無論、探し人まで帰路を歩んでいるとすればその限りではないわけだけれども。
 前日、前々日と持ち歩いたせいで、すっかりしわくちゃになった絵を携えて、夜の街を走った。
 違う。彼女は金髪ではない。
 違う。彼女は派手なドレスを身に着けてはいない。
 違う。彼女の髪は腰に届くほど長くはない。
 違う。彼女の腰はまだ曲がっていない。
 違う。彼女の仮面に口は象られていない。
 もう時間がない。十二時までに見つけられなかったら、その時はどうなるのだろうと考え始めた頭を、ひっぱたいて現実に引き戻す。できなかった時のことを考えるのは、本当にできなかった時だけでいい。今は考えている時間すら惜しいのだ。
 十二時を知らせる最初の鐘が鳴った、ちょうどその時。
 見つけた。
 今度こそ、見つけた。
 夢で見たのと全く同じ、服装・髪型・背格好。一枚の板を曲げて作ったような、簡素な仮面。二回目、三回目と鐘が鳴り響く中で、残された力を振り絞って、少女の元へと駆ける。
 少女は気付いていた。こっちだよと示すように、手を振っている。
 少女の元まで、それほど距離はないはずだった。にもかかわらず、一向に辿り着く気がしない。走る速さも、時計の鐘も、酷く遅く感じた。永遠にも思える時間の中を、目指す場所へと一心不乱に走った。
 十二回目の鐘が鳴り終わる頃、やっと少女の元へたどり着いた。走り出してから、時間にしてほんの数秒。たったそれだけで、すっかり息が切れていた。
 少女の手が、背中に触れた。火照った体に心地よい、ひんやりとした手だった。
「探してくれてありがとう」
 息を整えたのを確認して、少女は言った。
 最初に浮かんだのは、疑問だった。
「何故、礼を言うの?」
「あなたが私を探してくれた。そのことに意味があるから」
「でも、期限を過ぎてしまった」
「そうじゃないわ」
 少女は海の方を指差した。なんの変哲もない景色に思えた。しかし、ここに来てようやく、とても大切なものがなくなっていることに気付いた。
「ここにいる人たちは、私たち・・・を覚えていない」
 少女が言いたいことが、おそらく考えと一致しているであろうことを確認して、息を呑んだ。海沿いに立っていたはずの黒い塔がない。その先端に象られていたはずの、守り神の姿がない。
 大聖堂で覚えた違和感の正体も、おそらく同じだ。あそこの床には、古代生物の化石があったはずなのだ。覚えている限り、プテラとカブトプス。少女の絵に寂しさを感じたのも同じ理由だ。あの風景画の中に描かれなかった、そして少女を探す際中に一度も見かけなかった、空に、海に、街に生きるポケモンたち。
 この世界のあらゆるところに生きていた生物たちを、今の今まで忘れてしまっていたなんて。
「仮面舞踏祭はおしまい。もう、顔を隠す必要もない」
 仮面に手を掛け、外す。整った顔立ちが露わになる。全く同じ服装と髪型をしていた、カノンという名の少女も、同じような顔をしていたのだろうか。
「あなたの悪い夢はもう終わり。あなたが私を見つけてくれたから」
 少女の輪郭がぼやけていく。
 待って。行かないで。叫びたいのに、声が出ない。
 手を伸ばした。届かない。目で見た限りは届く距離なのに、掴めない。
 初めて出逢ったときのように。
 彼女の姿はアルトマーレの夜に淡く消えた。

 そして、朝がやってきた。
 そこでようやく気付いた。
 何もかも、夢の中で少女が言った通りだったのだ。
 謎の少女を探して走り回ったことも。
 あの少女や、街の人々と話をしたことも。
 一向に上手くならないと悩み続けていた絵を褒められたことも。
 夢を追ってばかりではいけないと諭されたことも。
 全てが夢だったのだ。
「私を見つけて。仮面舞踏祭が終わる前に」
 そんなことを言う少女は、もういない。夢の中にも、現実にも、もう現れることはないのかもしれない。
 仮面舞踏祭は幕を閉じた。あの奇怪な仮面アルトマーレマスクを着けている者は、もうどこにもいない。あるとすれば、来年の同じ時期か、それとも全く別の場所で、別の目的で被っているときか。
 だけれども。
 もう、あの少女に会えないのだろうか。
 ほんの一夜、しかしとても長い一夜に、何度も夢に現れ続けた彼女に。
 思い出だけを心に残して去っていった彼女に。
 もう、会うことはできないのだろうか。
 すぐ横を、風が通り過ぎていった。
 何でもない、海から陸地に向かって吹く風だった。
 だが、どうも普通の風であるようには思えなかった。
 そこにいるのか、と声を掛けたい衝動に駆られた。
 今一度、姿を見せてくれないかと、声に出して伝えたいと思った。
 結局、確かめることはしなかった。
 けれど確かに、そこには何かがいたように感じた。
 姿は見えずとも、心が、直感が、そう告げていた。
 もう会えない?
 そんなことはない。
 小さな確信が、心の奥底に生まれた。
 もう一度、挑戦してみよう。何度失敗してもいい。
 先が見えない以上、道標は夢だけなのだ。
 夢の中でもらった賞賛の言葉を、今度は現実で聞けるように。
 イーゼルにキャンバスを乗せ、絵の具とパレット、絵筆を肩掛け鞄に詰め込んだ。忘れ物がないことを確認して、部屋を飛び出した。





 ここはアルトマーレ。現実の中に夢幻を抱く街。
 もしもその場所を訪れたのなら、あなたは十分に気をつけなければならない。
 あなたの目に見えるものが、必ずしも見た通りの姿をしているとは限らないのだから。
 夢に出てきたあの少女も。
 そして――





 うみねこポケモンの鳴き声と、波音が静かに響く朝の港。
 晴れ渡る空に、ふたりぶん・・・・・の笑い声がこだました。
 その声が誰のものなのかは、取り立てて語る必要もないだろう。