怪盗ヒルダは方舟の夢を見るか

P.K.モンドリアン
イラスト
編集済み

ぽちゃん
ぴちょるん
ぽっぷちゃるん

あめがふる
あめがふるふる
40のひると
40のよるに

ぽしゃん ぴしゃん
ぼしゃん びっしゃん
るぅーん ずぅーーーん
ぐぼぉぉぉおん ずぉぉおおおおおん

こぼれるみず たたきつけるみず あふれだすみず かきまぜるみず
やがてのみこむ ちのおもて
いえも まちも やまさえしずんで

ぐおおん ずおおおん どうどうどおおおう
ゆああああう ゆおおおおう ゆあゆあおおうううう

40のひる 40のよる
きえたたいよう いっそうのふね
それだけが たったそれだけが
うみのおもてを ただよって



“わたしとあなたは契約を結びましょう。わたしは再び、水によって世界をまっさらにすることはしません。さぁ、見なさい。これがわたしと、あなたとの間に、永遠に立てる契約のしるしです”



すべてがさった まっさらなそらに
架かるまばゆい ななつの光――
――――――――――――
―――――――――
―――――――
―――――
―――





――
―――
――――うぅぅぅうぅん――
 ‎―うぅぅぅうぅん――
 ‎うぅぅぅうぅん――
 ‎ うぅぅぅうぅん―――――――



 眠らぬ街に響くサイレンは始まりの合図。
 サーチライトは目を閉じ。開き。
 誘うように、愉快に、回る。


 ――うぅぅぅうぅん―
 ‎ うぅぅぅうぅん―――

 
 『正面に20。6時に15。9時に7。3時に10……随分愛されちゃってるねぇ、ヒルダ』
‎ 「ったく、おまわりも暇だよなぁ。あいつらに定時退勤って思考はねぇのか? 月もこんなに綺麗なんだ、帰って奥さんとラブラブしてえだろうにさぁ」
 ‎『誰のせいだと思ってんの?……あとあいつら、どーすんの』


 うぅぅぅうぅん――
 ――‎うぅぅぅうぅん――


 月影とネオンに挟まれサーチライトにまさぐられ、窮屈そうに横たわる午前0時の黒闇。
‎ さえ。


 ‎「無い道は作ればいいんだぜ、ジン」


‎ そわそわしていた。
 人の、野次馬の、おまわりの、
 不安と怖れと、後ろめたい期待と、


 ‎抑えがたい、熱に。



 「行くぜ、相棒」
 ‎‎『あいよ、相棒』



 うぅぅぅうぅん――――
 ‎うぅぅぅうぅん―――
 ‎
 ‎うぅぅぅうぅん――
 ‎うぅぅぅうぅん―――――




 ‎夜が、開く。





∵∴∵怪盗ヒルダは方舟の夢を見るか∵∴∵





○1 Wednesday

 《明日のヒウンシティも終日晴れ。尚次の日曜をもちましてヒウンは連続晴天記録を更新します。もはやシャワーズさえ干からびそうな今日この頃。リゾートデザートからの黄砂を伴った風も収まることなく、都心を中心とした水不足がますます心配されます……っと、ここでヒルダに動きがあったようです! 現場にマイクをつなぎますっ!》
 《眠らぬ街にまたも彼女がやって来たーっ! 今宵の舞台はヒウン美術館、獲物は「預言の画家」ソフィ・ヌーレの曰くつき絵画です! ご覧くださいこの人だかり、予告時刻は過ぎましたが、現場は警察とオーディエンスで溢れ返っています!》

 鳴り止まぬサイレン。
 ‎繰り返されるアナウンス。
 ‎美術館をぐるり囲む男達は、定時退勤などどこ吹く風と真黒き闇を睨みつける。

 「お前達はーっ! 我々警察に包囲されているーっ! 大人しくーっ投降せよーっ!」

 ‎出てこない。犯行予告からかれこれ15分。潜入を許した、との情報は既に手にした。予告通り盗まれた。とも。
 KEEP OUTの向こう側、沸く野次馬とマスコミがうるさい。目と耳を背けながら指揮官は声をかける。
 「……おい。奴ら、まだここにいるんだろうな」
 「入れはしましたが出していません! ヒルダは間違いなく、この建物のどこかにいるはずでありますっ!」
 敬礼。続く勇み声。見張りのひとりが指揮官に告げる。それ、自信満々に言うことじゃないだろう……喉まで迫った小言を、ため息に代えて吐き出した。指揮官――‎ボブヨシはそれができる男だ。
 ‎「分かった。しかし隙あらば――いや無くとも――奴らは逃げ出す。引き続き警戒を怠るな。可能なら四方だけでなく地下にも」
 「ここにいるぜぇ!」


 光が、捕らえた。


 6階建てのやかたの頂。
‎ 目蓋もたげたサーチライトの
 蠱惑な瞳に映る、黒。


 「待ちくたびれたぞヒルダぁーっ!!」
 ‎メガホンを抜ける怒鳴り声。
 《怪盗が現れたぁーっ!!》
 ‎イッシュに轟く生中継。
 ‎「悪かったなおやっさーぁん! こいつが想像以上に重くてさぁ!」
 ポニーテールはビル風と戯び、海風にベストが旗めく。すべてが、黒。剥き出しの‎片腕が、背の半分はある額縁を担いでいた。嘘のように、軽々と。
 ‎響動めき。それは地上から。冷静沈着なボブヨシさえその響きの内に加わる。突如正義と化した光が絵の全貌を明らかにした――前方、たわわと実る黄金オボンの実。後方、青空を横切る虹。
 《ご覧ください、彼女の華奢な右肩に盗まれた絵画がしっかりと抱えられております……ってキャー!! ヒルダ様がこっち見てる手ぇ振ってるー!! ヒルダ様ーっ! 私、ヒウンテレビ局のレポーターですけどぉ、それ以前に貴女の大大大ファンなんです頑張ってー逃げ切ってー! そして抱いてー!!!》
 KEEP OUTの向こう側、響く黄色い声がうるさい。KEEP OUTのこちら側、コモルーは唸り。イノムーは鼻息荒く。ジャローダは舌をちらつかせ。指揮官はおもに間もなく険を貼りつけ。
 ‎「いいかヒルダ、そこから動くんじゃ……おいっ!」


 ‎ず
 ‎ど
 ‎んっ
 ‎!!!!!

 ‎飛び降りた。
 ‎嘘のように揚々と。
 ‎ヒウン美術館正面玄関。20近くの警官とその精鋭を前に、ホットパンツから両脚を魅せて。後追う結い髪が、はらり。すべて地上に達した頃
 ‎「――待ってたんだろ?」
 ‎にやり。浮かぶ不敵な笑みの
 ‎「来てやったぜ」
 飛び出した八重歯が、‎ぎらり。

 ‎「せ、先鋒かまえーっ!」
 言われなくてもやっていた。茂る青草〈グラスミキサー〉街の煌きを閉じ込めた〈あられ〉ふたつ絡めた〈たつまき〉を前に浮かべるは楽しげな笑み
 ‎刹
 《いやーっ! ヒルダ様ーっ!》
 那
 ‎飛び込み。姿を消す。も。渦を突き抜け。飛びかかった。黒い旋風の如き躰が。
 ‎「泥棒になぁ! ブツ差し向けちゃいけねぇぜ!」
 ‎そして返す。盗んだ霰をジャローダに。青草をイノムーに。凍てつく草葉。飛びすさぶ六花。抜群の技に臥す精鋭ら。勢いそのままに黒は飛び入る――男達の懐へ。
 ‎‎風。風。引っ掻く。噛みつく。「うわあっ!」腕に。肩に。冷えた鼻先に。黒。「痛でえっ!」黒。ベスト。結い髪。唇だけが紅柔べにやわで。「来るなぁっ!」
 残光は追う。四散する警官の中、跳び跳ねおどる肉体を。軽やかに傷つけた。華やかに痛めつけた。正義の光サーチライト‎さえ虜にし、味方につける粋な漆黒。急ごしらえのランウェイを走るは犯罪者でも泥棒でもない、今宵の主役。
 ‎「ひ、怯むなーっ!」
 指揮官のその声目掛け、飛ぶ。捨てた警官の顔を踏みつけ。ひらり。重力なんて無視した女の、両脚はいかつい肩へ。
 ‎「ひ、るだ……ぁっ!!」
 ‎バランスを崩し倒れる寸前。肉薄する面。艶やかな紅。空いた片手が象る、銃。
 ‎
 ‎「ばーん」
 ‎
 八重歯が、笑う。

 ‎「ひょふぉふぉふぉふぉひょん!」
 ‎その頭上から飛び出す影は漆黒よりも黒い、と錯覚するほど鮮やかで。彩りさざめく古代鳥シンボラーの、派手な尾掴み女は、翔ぶ。《怪盗ヒルダ、逃走成功ーっ!!》
 ‎「あばよ、おやっさーん!」 ‎
 ‎捨てられた警官らが立ち追わんとせん、その前を。ずどんっ! 塞ぐ白い影。‎「サーン! 後は任せたぜーっ!」。‎サンと呼ばれた白い影――コジョンドは「かひーんっ!」‎高らかに夜に鳴いた。‎流し目は早くも警官を捉え。吸い、吐き、構え、まなこを、細め。
 《怪盗ヒルダ、逃走成功ーっ!!》
 テレビをラジオをネットを沸かす声さえ耳に入らない。やばいな。これは手こずるぞ。迅速且つ正しい判断を下したボブヨシは、すかさずパトカーへ引き返す。荒々しく無線を手に取る。もたぐ。そして、叫ぶ。
 ‎「ホシは3時へ逃走した! 追えっ! 怪盗ヒルダを逃がすなーっ!」





 古代鳥は羽ばたく。極彩色をビルに絡ませ。尻尾に女と絵画を乗せ。
 「この辺りでいいよ、イン」
‎ 「ひょふぉんっ!」
 その身から離れネオンに溶ける鮮やかな尾羽。黒い影。古代鳥は飛行を続ける。「ひょふぉふぉふぉんっ!」。鋭声は警官の注意を惹くに十分だった。
 女は路地裏へ滑り込む。あとはよろしく。紛い物の煌き放つ表通りに、挨拶と額縁を残し振り向けば

 「『ばーん』はちょっと演りすぎじゃね?」

 その豊かな黒髪は赤へ
 口端から覗く八重歯は牙へ
 ‎柔肌は毛深き黒皮へ
 ‎姿を変え。

 『ヒルダならするかなぁ、と思って』
 ‎対峙。隈取の如き面持ち。連獅子にも似たたてがみ。もはやその姿は女でない、幻影の獣――ゾロアーク。
 「言われてみれば、な」
 対峙。宵闇に揺るポニーテール。乾いた風にそよぐベスト。纏う黒も担ぐ額縁も、紛うことなき本物の。


 『お疲れさん、相棒』
 「待ちくたびれたぜ、相棒」



 その名はヒルダ。
 この頃流行りの女怪盗。







∵∴∵ここで無粋な人物紹介∵∴∵
ヒルダ: 怪盗。ポケモンと話せる。容姿はBW主人公(女の子)参照。
ジン: ゾロアーク。ヒルダ一味。鬣が両目にかかりがち。
サン: コジョンド。ヒルダ一味。目閉じがち。
イン: シンボラー。ヒルダ一味。ひょふぉふぉふぉん。







○2 Thursday

 からっぽのアトリエでは白いレースのカーテンが風に揺れていたという。
 乾ききらぬカンヴァスと1通の手紙、一片の風だけを残し女――ソフィ・ヌーレは去った。イッシュを。生きていれば27になる画家は繊月のように細く、陽炎のように儚く、暁のように美しかったといわれている。だが彼女を語るうえで欠かせないのは、美に纏わる賛辞でなくこの言葉だろう――『預言の画家』。

 預言の画家。
 ヌーレ家に生まれた画家は誰もがこう呼ばれるのだ。
 彼らはカンヴァスヘ描く。否、描き写す。ヌーレ家の者にだけ託される「預言」という名の映像ビジョンを。そうして描かれた絵画は、幾度となく時代を動かした。ある絵は財宝の在り処を示し民を富ませ。ある絵は森焦がす大火を示してポケモンを救い。
 その筆1本で政治、経済、宗教あらゆる方面に影響を与えるヌーレ家は、多くの権力者から作品を――或いは命そのものを――狙われることとなる。また商業用絵画を描かない彼らは常に経済的支援を必要とした。彼らが預言を描き続けるためには、命と生活を保障する強力な後ろ盾が必須だったのだ。「そんな訳ありなヌーレ家を、ウォットン家は代々支えてきたというわけですね?」

 つんとすました調度品に囲まれ、真ん中には背の低いテーブル。赤いソファのあちらとこちらに、インタビュアーと彼は居た。画面の隅には躍る赤文字。『緊急特番 ウォットン氏に訊く』。
 「訳あり……ですか。おっしゃるとおり。充足から芸術は生まれません」
 男はソファにゆったりと沈む。広く優雅な掌が傍らのエーフィを撫で。
 「それに私達のささやかな行為は、彼女らの絵に惚れた弱みにすぎないのです」
 ワインレッドのストライプスーツ。漆黒のシャツ。黄金のチーフ。淡い茶髪を切り揃え、僅か下がった瞼からは憂いを帯びた翡翠が覗く。捨てられたイーブイみたいな表情とも、妖しさと高貴さが同居する面持ちともいわれるそれは紛うことなくミスター・ウォットンその人の顔だ。
 ヌーレ家の末裔ソフィのパトロンであると同時に、ヒウンアーティスト協会顧問でもある巨大財閥社長、ミスター・ウォットン。時に美意識高い系と揶揄されるものの、その不思議な感性、考えは常に人の心を捉えて離さない。そして彼自身もまた、芸術に捕われたひとりの男だった。
 「『絵を描きます。探さないでください』。カンヴァスの隣へ置かれた手紙にはそう綴られていました。それからというものソウル・フレンドである私さえ、彼女と全く連絡が取れない状況です。またソフィ自身、努めてニュースでも見ない限り今回の事件を知ることはないでしょう……彼女はメディア嫌いですから」
 夜の底から響くような彼の声が電波に乗ってヒウンを流れる。テレビ。ネット。そしてラジオ。インタビュアーの質問が次いだ。『なるほど。彼女の描いた現状最後の作品が、今回ヒルダに盗まれたという訳ですね―ざ、ざざ――絵画が示す預言の内容を、あなたはご存知なのですか?』。
 ざざ。ざーーー。混じる雑音。舌打ちと共にチューナーを弄り、周波数を再び合わす。干乾びた風が路面を舐めるスリムストリートはアジトを構えるにもってこいだ。ラジオへ到着したため息が、廃ビルの一室を震わせ。
 『盗まれた絵はシンプル、ゆえに難解です。今のところ誰も――私さえも――その内容を知りません。とはいえ歴代の画家と同じく、ソフィも預言に関する一文を絵画の中に書き込んでいるようです。が……(ここでまた耳朶へ蕩ける甘ったるいため息)専門家の解析によると、記されているのはどうやら海底神殿時代の文字。現代それを読み解ける者は、おそらく、誰も』


 「ニンゲンだけが文字を読むなんて思っちゃあ、大間違いだぜ」


 覗く八重歯は斜陽を浴び、赤く不敵に煌いた。
 背後に控えたシンボラーが近寄る。見下ろす。背を丸めた女とパソコン、ラジオ、昨夜盗んだばかりの絵画を。
 「イン、いけるな?」
 「ひょっふぉん……」
 弱い羽音が耳をくすぐり、次瞬絵画に肉薄する古代都市の守り神。独楽に乗ずるふたつ目が、くるくる、ぐるぐる、隈なく絵画を見回し探し、拾い出し、組み立てていく、海底神殿時代いにしえの文字を。
 「ひょふぉふぃあふぃいふぃふぉい……ふぇんふぉいひゃふぁ……ふぉひゃふぇん」
 その鳴声の一節一節を、パソコンが拾っていく。画面中央で回転する赤青黄トライカラー。サイト名はバーグル翻訳――600万を越す宇宙言語や暗号、各種族の儀礼に精通するそれは、彼女だけが開けるページだ。 
 ‎Translate――Translate――言葉は時を――次元を越え――そして

 Bugle translate:その実を齧りしとき、天より宝注がれん。

 「ビンゴっ!」
 薄闇を切るガッツポーズ。
 「やったぜみんな、こいつぁ大当たりだ!」
 怪盗のかけ声に
 『やったじゃんヒルダっ!!』ジンが飛びつき
 「ひょっふぉふぉん!!」インが羽ばたき
 扉へもたれた白い影は胡坐を微塵も崩さない。
 「その実を齧りしとき、天より宝注がれん……翻訳の通りだ。絵画は財宝にまつわるものらしい」
 飛びついたジンと舞い降りたインを撫で、ヒルダは説明を続ける。星でも飛び出しそうなウインクのおまけつきで。
 「預言までされてんだ。きっとヒウン市民全員で分けてもお釣りがくるようなお宝に違いないぜ」
 『いつかの絵みたいに、でしょ?』
 「あぁ」
 至近距離のによによが並び合わさりいち。にい。さん。ぷつん。ラジオを切った指はそのままカンヴァスをイーゼルへ置き直し、中央の黄金を指差す。
 「とはいえお宝をいただく為にはこの実が必要みたいだな。まずは鍵を見つけるとこから、ってか……」
 『でもこれってオボンじゃん。ヤグルマの森にでもいけばそこら中に』
 『そこら中にあるオボンがそれなら、ここらは今頃巨万の富を築いていると思うが』
 ぐるり絵を囲む2匹と1人に扉へもたれるコジョンドが指摘。『そんな言い方しなくてもいーじゃん』。ぶすくれるジンの肩へぽん、と手を置き
 「サンの言うとおりだな、ジン。おそらくこの実はそこら辺のオボンと違う。でもってオレ達は、この特別なオボンを探さなきゃいけない。そして」
 もたぐ口端から八重歯がちらり。
 「いつだって、絵の中にヒントはあるんだ」

 むーん……
 カンヴァスを睨む瞳が並び合わさりにい。しい。ろ。風景画とでもいうべきそれの、右ではオボンが茂り戯る。預言ではこの実を齧るとき、お宝を頂戴できるらしい。左下には印象派の色彩を思わせる花と草原。死の香りを一縷も発さぬ糸杉の上、のんびりお散歩するは白雲だ。調和。平穏。生まれたての世界みたいな光景を、空からやさしく見守る、虹。

 女の虹彩が、揺れた。

 「バグ。虹が主題あるいは重要なモチーフとして登場する話を検索。画面上にピックアップしてくれ」
 ぶちんっ。灰白のスクリーンはニンゲンの指示を拒否するように赤青黄へ切り替わった。トライカラーは渦を巻き、混ざり、分解し、
 『翻訳の次は検索ですか……相変わらずポリ使いが荒い』
 集積し終えたドットの形はバーチャルポケモン――ポリゴンZ。
 『あっバグだ。昨日はありがとー』
 『まったくですよ。贋作絵画を制作したのも、美術館のセキュリティを突破したのも二次元こちらに住むわたくしだなんて……あなた達、ポリゴンZを便利屋かなにかと勘違いしていませんか?』
 画面のこちらでジンが手を振れば、あちらで洩れる電子のため息。怪盗に化けたゾロアークが本物そっくりの小道具片手に大暴れしていた頃、絵画を盗むヒルダのサポートに徹したのは他でもないバグだった。
 『そんなことないよー。バグは素敵なトモダチだよ』
 『えぇそうです、そうですねぇ。そんな素敵なお友達と無駄話してる間に、5,120,000 件の検索結果がヒットしました。中でも有名なのは虹を従えた伝令の女神、いかずちの矢を放つ虹の弓、虹を渡って下界に来た夫婦神の話、虹を契約のしるしとした方舟伝説――』
 「それだ。方舟の話を選択」
 告げる口調の迅速さに
 『果断だな。根拠は?』
 遠くからサンが思わず問うと
 「俺の……勘だ」
 扉へ向けた表情かおはにやり。
 『まったく信用なりませんね……』
 『ダメだなぁバグ。こういう時は嘘でも「最高に信頼できますね」って言っとかなきゃ』
 笑みはすぐさま失笑に変わるも、本人達は気づかない。失礼きわまりない会話をひと通り繰り広げた後、こほん。咳払いをひとつ落とし、ポリゴンZは語り始める。
 『むかしむかし――』



むかしむかし。ニンゲンもケモノの数もまだずっと少なかった、むかし。
頭の良いニンゲンはいつしか悪知恵を手に入れ、思いつく限りのわるいことを行っていました。
そんなニンゲンのようすを見下ろし、神様は言いました(この神様は、ニンゲンを始めとした世界を、たったひとりでつくったのです)。「ああなんということだ。わたしの作った世界が、悪いことで満ちてしまった。そうだ。わたしは一度この地を、水によってまっさらにしよう」。
 
神様はひとりの正直な男を選び、彼に言いました。「わたしはこの地をまっさらにする。ニンゲンもケモノも、いっしょにだ。ただあなたは、わたしの前にただひとり、正直だった。だからあなたは、いとすぎの木を使って方舟を作りなさい。そして家族と共に、舟にはいりなさい。それだけではありません。すべてのケモノから、それぞれ2つずつを舟に入れて、あなたと共に、その命を保たせなさい。まっさらになった世界で、ふたたび栄えるためです」。彼は正直な男だったので、神様の言うとおりにしました。

さて方舟が完成し、男と家族とさだめられたケモノがみな乗船すると、神様がみずから船の扉を固く閉じました。まもなく、ぽつり。ぽつり。と、雨が降り、降り、止むことなく降り、それはすぐ洪水となりました。ぐぷっ。ごぽごぽ。水。水。水。家も。町も。山さえ沈んで。どこもかしこも、雨。と。水。ぐぼおん。ずおおん。太陽は顔を見せません。それは40の昼と夜のあいだ、地をすっぽり覆いました。方舟は、どこまでも深い水のおもてを、ゆああんゆおおんと漂うのでした。

太陽がふたたび顔を見せたのは、だれもがその光を忘れた頃です。
まっさらになった世界を、踏みしめました。男と、家族と、共に方舟に乗ったケモノだけが。
新しい世界。まっさらな世界。神様はその世界と、男が捧げたいけにえを見て、言われました。「わたしとあなたは契約を結びましょう。わたしは再び、水によって世界をまっさらにすることはしません。さぁ、見なさい。これがわたしと、あなたとの間に、永遠に立てる契約のしるしです」
男と家族とケモノは、空を見上げました。そこにはまばゆい七色の光が、一条の束となって、空に架かっていたのでした――



 『とまぁ、これが方舟伝説のざっくりとした内容ですね』
 『お宝どころかちょっと切ないお話なんだね……』
 「ひょっふぉい……」
 どこかの世界の昔話に、羽は畳まれ鬣は哀愁さえ漂わす。一方隣でぶすくれるのは怪盗だ。オボンが出てこないじゃねぇか……。止めどなく垂らすぼやきに
 『知りませんよそんなの。神にでも聞いてください』
 画面の奥からぴしゃりとお返事。
 『神話や伝説には教訓的な意味が含まれるとよく聞く。もしかするとこの伝説も寓話の一種なのでは?』
 『そこまでは図りかねます。わたくし教会の牧師ではありませんので』
 推測をこれまたいなす生意気なドットの集積。きょーかい……まじないのように文字もんじを舌で転がすと、女は伸びをし呟いた。
 「行くか。その、きょーかいってとこに」
 カンヴァスに落とす視線は絵画の奥、糸杉の林の先まで見通すようにまっすぐで。
 「バグ」
 『あなたに指示される前に、ヒウンシティ内の宗教施設を全てピックアップしましたよ。中でも大きいのはここ――』
 既に然るべき画を映すパソコン、バーグルアースに夥しく刺さるピンは赤。そのひとつを選択、拡大、ほどなく画面全体に大都市の一角が映る。十字の形をした屋根から、伸びる吹き出しに記された名は
 ‎「ヒウン州立ヘンリー教会――」





 ラジオは切れてもインタビューは続く。
 「ソフィ氏がこの事件を知るとどう思われるでしょうか、ミスター・ウォットン?」
 「喜ぶと思いますよ」
 凡庸な質問へ返す言葉のあまりの突飛さに。インタビュアーは凡庸な顔へ、凡庸すぎる驚きを浮かべた。
 「それは……えっと、どういう」
 「審美眼。あなたもご存知でしょう? 怪盗というものは総じて良い眼をしています」
 僅か上ずる男の声音。楽しそうに揺れる肩はおそらく無意識だろう。独自の理論を展開する芸術の守護者に、インタビュアーもたじたじだ。
 「そこらのコソ泥に売り捌かれるより、確かな審美眼を持った者の手に渡る方がよっぽど良い。それに」
 満足げにソファに沈む、男の口許が
 「ソフィはとびきり好きなんです。おはなしの中にしかいないような、美しい存在が」
‎ 少しだけ、弛んだ気がした。







◎3 Friday

 固く閉ざされし門扉より漏れ出づるはオルガンの旋律。
 ネオンの華咲く歓楽街を左へ曲がった、そこ。来る日曜を前に、ヘンリー教会では備えの祈りが捧げられていた。

 オルガンの旋律。
 信者の賛美が夜を震わす。
 会堂は薄暗く、互いの顔を見分けられる程度だ。壁に架かった白十字だけがアッパーライトに照され光る。蒼く。しずかに。死者のように。

 オルガンの旋律。
 賛美。祈祷。旋律。
 ミドラの音した対旋律オブリガードは天の織り成す金糸のようで。その音階へ足取り合わせ、祭服に身を包んだ男が十字の下から進み出る。講壇を降り。こうべを垂れる宗徒へ近づき。だが視界に映すは会堂の隅、麻布で頭髪隠し、胸に童抱く少女のみ。
 
 「神はきよき心を望んでおられる」
 差し伸べる、節くれだった手。
 「さぁ女よ。そなたの罪を包み隠さず述べるが良い。神は――」
 「違いますっ!」
 荒げた声をすぐさま潜め。
 「弟……なんです」
 振り向き顔を覗かせる童は、夜を透かした髪色に、抜け殻のような瞳。
 「ほう。そなたか」
 さわり。童の青いTシャツを何処からか風が揺らす。坊や、きみは何をしたのかな? からっぽの目を覗き問えば「暴食、色欲、強欲、憤怒、怠惰、傲慢、嫉妬」。

 「ほう」
 角ばった指が、ゆっくりと顎を撫でた。本来ならば『では悔い改めよ。そして安心しなさい。そなたの罪は赦されたもう』と辞句が続く。しかし。

 「それだけかな?」

 やおら開きし男の手より

 「……なに?」

 ゆあり
 ゆあふう
 生まれる
 風が。

 「きみの――いやきみ達の、犯した罪はそれだけかね?」
 風立ちぬ。ふあり。ふあゆう。遅れ両手もろてより揺蕩う雲は奇跡か。癒しか。裁きか。それとも。
 「偽証はよくない。きみ達の罪は、」
 風吹きつける。猛く。烈しく。今や両手より溢れこぼれ、二人の間で形を成す雲――否、真綿。‎吹き荒ぶ白に埋れる男が、残す。言葉と訳ありな笑みを。
 「あの絵を盗みだしたこと、そうだろう?」

 斬っ!

 風が。
蔦が。
 真綿が。
  散った。
 隈取の如き面持ち。連獅子にも似た鬣。真綿と蔦の端くれを、赤い爪から薙ぎ払った。童は既に姿を変え、風に向かいて唸り構える。
 「悪りいな。相棒」
 『よせやい、相棒』
 つむじ風に乗りほどけた麻布。靡く怪盗ヒルダの髪は夜を吸って夜より黒い。
 吹き巻く風の合間から、一度四散した白雲は寄り、集まり、形と成り。「ふぅおもふぃん~っ!」。かぜがくれポケモン、エルフーン。止まぬ旋律を翔けるが如く。
 「もう一度〈くさむすび〉ぃっ!」
 「ふぉもっっふぃん!」
 ずががががっ! 可愛らしい鳴き声と裏腹、床を突き破り迫る蔦。刹那ひらめく結い髪。鬣。1人は長椅子へ身を翻し、1匹は宙へ跳躍し、た、まま、狙い定める。大口開く。牙を剥く。裂く。空白を。
 「ふいもっふっん!」
 『……ちぃっ!』
 口にいり込む真綿の切れの、苦みは味覚か悔しさか。嘲笑うような鳴き声は再び吹き巻く風の中から、囮をわざとめかしく残しいたずら小僧は風に隠れる。「バキュウゥリアッ!」。吼えた。〈きあいだま〉。が講壇を砕き、長椅子を木っ端微塵にし。「もふっふぅりあっ!」。ただ鳴き声だけが捕まらず。空を掴むとは正にこのこと。今や罪人のみがのさばる教会、自動オルガンの止まぬ旋律。
 「野郎っ! 正々堂々勝負しやがれっ!」
 ずばりぁあんっ! 常人ならぬ身体能力で蔦を避けつつ怒鳴る相棒を
 『いいよ、ヒルダ』
 ゾロアークは制し。
 目を閉じ。

 撃てない。
 ならば。
 狙わぬだけ。

 だんっ
 床に前足を着き
 「ゥーバアァゥゥゥ……」
 力込めれば立ち沸く。昇る。次瞬
 相棒の髪色にも似た、
 「ッキュウウゥアッ!!!」
 〈あくのはどう〉が大気を染めた。
 禍と化した上昇気流に風隠れも意味を為さない。「ふぃもっふぁあん!?」。お尋ね者のいたずら小僧が乾いた風から姿を見せる。刹那、焔。怒りの如く燃え盛る〈かえんほうしゃ〉はエルフーンを懲らしめる、のみで飽き足らず揚々と燃え移った――壁に架かりし真白き十字へ。
 「あ……やべっ」
 ぶすっ、ぷすすん、一瞬にして燃え終り真黒き炭となった十字が軋み、傾き、ぐああん。ごおおん。終末のように迫る。床に。

 どああああああん――――

 避ける怪盗。震動。灰燼かいじんすす。ぬるい風。綿埃。不様にも焦げた材木へ、祭服の裾を挟まれた、男。


 「なーんかぜんぶ知られてるみたいだし、まどろっこしい聞き方しなくてもいいよなぁ?」
 祭司でも牧師でもない彼が顔を上げれば、女と獣が良からぬ笑みを浮かべているところだった。ちりちりになったエルフーンはもう戦えない。案の定胸ぐらを掴まれ
 「おい。あの実の在り処を教えろ」
 「なっ、なんの話かうげぁぅあっ!!!!!」
 「あっれれぇ? 嘘つきは良くないんじゃなかったっけなぁ?」
 げしげし。と。踏まれる背にはガラの悪い効果音でも付きそうだ。「ばっきゅうあぁ『手加減しなよ、ヒルダ』」「してるぜ、十分」。何やら会話めいたものさえ繰り広げられる、夢のような光景――否これは夢だ、悪夢だ、こういう時は眠るに限る。と、さっさと決めつけ彼が気を失いかけた、その時。


 「離しなさい」


 夜の底から響く、声。
 振り向く。そこには、傍らにエーフィを連れた男。
 「離しなさい」
 繰り返す。有無を言わさぬその口調に
 「――離すと思うか?」
 にやり。女の怯む筈がなかった。
 僅か下がった瞼が弧を描き、完成するは男の諦念めいた表情かお。左手を、ひらり。動きに合わせエーフィが足を一歩、前に
 どおおおおおお――――
 「おいっ!」
 輝く額のサイコパワーに気がついたのは少し後で。真黒き十字が軋み、傾き、ぐああん。ごおおん。復活のように浮かぶ。宙に。
 その機を彼は逃がさなかった。自由になった祭服を手繰り駆け出す。『待てえっ!』。「お前が待てよっ!!」。逃げる男。追いかけるジン。置いてかれる怪盗と。
 空っぽの会堂に、ふたり。


 「……誰だテメェ」
 深呼吸。緊張と昂りを抑えるように。エーフィも、この男も、只者ではない。
 ワインレッドのストライプスーツ。漆黒のシャツ。黄金のチーフ。淡い茶髪を切り揃え、翡翠の瞳に帯びるは憂い。
 「君が盗んだ絵画の作者の、ソウル・フレンドだ」
 捨てられたイーブイとも、妖しさと高貴さが同居するともいわれる面持ちが言葉を紡ぐ。
 「ソース・ブレンド? それがオレになんの」


 がくんっ


 視界が、世界が、歪み、色づく。
 「な、ん……これ……っ」
 たったひとつの色


  緑に。


 「……や…………っ、」
 緑。緑。緑。緑。倒れた十字も。スーツも。シャツも。チーフも。毛並みも。大気さえも。
 「てめ……っなに、しゃ……」
 拒もうと振りかざした掌も。まばたきで追い払おうとした、瞼の裏も。咄嗟塞いだ鼓膜の奥も。脳も、いつの間にか横たう身体、も、じわり、じわり、嬲るように、まさぐるように、侵す、緑、緑、それはやがて心臓にこびりつき、いつしか肺を満たし、始める、緑、苦しい、くるしい、息が、できない、緑緑やめろ、やめ、て緑緑緑、口から零れるそれは言葉か、泡、沫か、分からない、緑緑緑緑わから、ない、緑緑緑緑緑、みどり、み、ど、緑緑緑緑緑緑り、も、う、緑緑緑緑や緑緑緑緑緑緑緑め、



 君の欲しいものは 私の家にある



 閉ざされた色彩の中で意識を手放していく。









Φ4 Saturday

 「だーーかーーらーー!!!」


 情け知らずの陽光が、スリムストリートを焦がしていく。


 「『そおす・ぶれんど』って名乗ったんだよあの男はぁぁあ!!!」


 もはや風さえやる気のない朝。
 廃ビルにこだまする、怪盗の叫び。


 電話帳。住所録。パソコン。ヒウン住宅地図。捜索のため総動員した諸々が床へ散乱し、隅には眼精疲労にてノックアウトした女が転がっていた。
 あれからジンに回収され、ヒルダが目を覚ましたのはアジトの中。次瞬飛ぶポッポを落とす勢いで目当ての資料をかき集め、ドンファン猛進とページを繰り続けたのだが――

 『4時間18分に及ぶ検索の結果、ソオス・ブレンド氏なるものはイッシュ地方に存在しないことが判明しました』
 Not Found。黄色い瞳。600万を越す宇宙言語や暗号、各種儀礼に精通するポリゴンZの失望がスクリーンを飾る。それは電話帳、住所録、ヒウン住宅地図の出した答えと全く同じものだった。
 「判明したぁ? 単に見つけられなかっただけだろうがこのネット野郎っ」
 『ネットにおいて「見つからない」は「存在しない」と同義ですので』
 届く声音は淡々と。重い眉間を押さえ座ればもっきゅ、もっきゅ、孤軍奮闘に目もくれず朝飯を食らうジン。イン。サン。心のなかで静かに尋ねる。なぁお前ら、オレのナカマだったよな……
 もっきゅっきゅ。盗りたてのオレンを飲み込み
 『トウフ・ブエンリョとかオッス・ムメンキョの聞き間違いじゃないの?』
 問えば瞬時に
 『検索終了。ネット上にそのような人物は存在しません』
 バグの返答。アジトを満たす5つの「はぁ……」。
 『やはり勘に頼ったのが不味かったか……』
 「おいサン、聞こえてんぞ」
 『だいたいフィーリングで動きすぎなんですよあなたは……天才だから許される所業なんでしょうけどね。「無計画」って言うんですよ、そういうの』
 『または無軌道』
 『あるいは無鉄砲』
 『のーぷふぁん』
 「な”ーっっ!!! テメェらよってたかってオレをいじめて楽しいか!? あぁ!!?」
 ばたんっ。派手な音立て倒れるも今度は大の字で。だらしなく四肢を伸ばしながら彼女は想いを馳せる。昨夜へ。


 “君の欲しいものは 私の家にある”――


 鮮明に覚えている。思い出すだけで、また閉ざされそうな緑の中。
 その声も。顔も。憂いを帯びた瞳の色まで。
 なのに。


 「あーもーどこにいるんだよソース・ブレンドぉ……」
 澱む視界をかいなで覆い。
 怪盗ヒルダの小さな呻きに、答える者は誰もなかった。




∴∵∵∵∴∵∵∵∵∵∵∴




 闇は空へ指を広げる。星の代わりに瞬くネオン。つんとすました家具達も、窓辺から忍び込む夜にゆくり絆されてゆく。
 気高き白亜の壁――それがこの邸の特徴だ――は暫し黄昏と会瀬を交わし。屋敷の主ミスター・ウォットンは赤いソファへ深く、深く身を委ねていた。

 ――見物に行っただけなんだ。噂の彼女が現れたと聞いたから。

 薄紅に染む天井をぼおつと見つめる翡翠の瞳はしかしそこに映さない。なにも。
 眼差しを透けるは昨夜の始終――黒き十字。伏した女。その瞳に宿る、焔。

 ――言うつもりはなかったんだ。あんなこと。なのに。

 恐怖。混乱。怒り。憎悪。女の瞳で閃いた幾瀬もの感情は、火の片よりも鮮やかで。
 “君の欲しいものは、私の家にある”。美に捕われた男を魅了するには、その耀きだけで充分だった。

 ――見たい。もう一度、あの顔を。眼を。

 骨ばった指がなにとなくなぞるローテーブル、付けっぱなしのラップトップに彼女のニュースは入らない。指はそのまま隣、新たに盛りつけた果物かごを手繰り、やがて掌へそっと乗せた。
 絵画の主役を務める黄金。
 怪盗が、いま一番欲しいもの。

 ――会いたい。

 それは屋敷の主として、またヒウンアーティスト協会顧問として、なによりヌーレ家のパトロンとして抱くべきでない願望。だが、モラルと反比例するように沸き上がる情動、へ、くつくつと、憂いは久しく忘れていた笑みに姿を変える。
 しかし。ここですかさずため息。ひとつだけ、引っかかっていた。果たして伝わっているのだろうか。彼女に。記憶違いでなければ、ソース・ブレンドと溢していた気が……


ぶちんっ


 ラップトップのニュースサイトは突如全てを遮断した。次いで雪崩れ込む赤。青。黄。トライカラーは中央で渦を巻き、混ざり、分解し、

 〈はじめまして、ミスター・ウォットン〉

 集積し終えたドットの形は

 〈わたくしの名は『バグ・システム』。怪盗ヒルダの友人です〉

 バーチャルポケモン――ポリゴンZ。

 驚きも束の間だ。薬指がスクリーンを撫で
 「はじめまして、ミスター・バグ。君と握手できないのが残念だ」
 笑みは未だ崩れていない。男は直感する。
 「それで、怪盗ヒルダの友人が私に何のご用かな?」
 これは冗談などではない。

 〈残念ながら、怪盗ヒルダはあなたのことをソース・ブレンドと認識しています。ソウル・フレンドなどというお洒落な言葉は彼女の脳を通過しません〉
 そうか……予想通りの窮状にウォットンは頭を抱える。だが続け告げられた提案は、あまりにも予想外だった。
 〈お望みであれば果実の在処をわたくしからお伝えします。もちろん、正確にね〉

 警戒。
 その色さえ、見せず。
 「取引かい?」
 問いかける口調は敢えて、ゆったりと。祈りの形に組んだ手へ、顎を乗せ画面を見下ろし。
 〈申し上げたでしょう? わたくしはバグ・システム。誰も意図せぬことを行ってしまうのが、バグというものです〉
 無機質な黄色い瞳は何も語らない。しかし
 〈ただ、哀れなバグ・システムの願いをひとつだけ聞いてくだされば――〉
 求める。トライカラーの集積はキーボードへ形を変え。気づけば画面へ文字が並んだ。

 翡翠が、見開かれる。
 宵闇へこぼれ落ちそうな程に。




∴∵∵∵∴∵∵∵∵∵∵∴




 もはや誰も、奥方とラブラブしたいなどと思ってはいなかった。代わりヒウン警察本部を、ただひとつの欲望が包む。早く、早く家に帰って、ベッドでぐっすり眠りたい……
 情報部門に音沙汰はなく、一味のアジトも見つからない――防犯カメラの目はネット野郎が、私服警官はジンの幻影イリュージョンが欺いていたのだ――今日も無駄足で戻ってきた男らの、長机から椅子から響く、派手ないびきの大合唱。
 そんな本部室から少し離れたところ、給湯室にボブヨシはいた。疲労困憊な部下らを心配しつつ、職務放棄はさせられない。佇む彼はこの度の盗り物劇の一部始終を思い出していた。予告通り犯られた水曜。ヘンリー教会の小火――一味が関わっていると判明したのは翌朝だった――が木曜。金曜、今日と動きはないが、劇はこれにて終了なのか? 否、そんな。これは頼れる刑事の勘だ。
 時計を見遣る。午後11時。いつもなら奥さんとラブラブしたい時間帯。厳つい肩を上げ。下ろし。ついでにため息も吐きかけた、背に。
 「指揮官っ!」
 「なんだ、給湯器なら故障してるぞ。厨房に――」
 「これを……っ!!」
 浴びせられた部下の声と、叩きつけられたうすい紙切れ。



 明日の夜、
 ウォットン邸に在ります黄金のオボンを
 頂戴しまーす。

                      怪盗ヒルダ







○5 Night Day


――――うぅぅぅうぅん――
 ‎―うぅぅぅうぅん――
 ‎うぅぅぅうぅん――
 ‎ うぅぅぅうぅん―――――――


 『「なんでもかんでも壊しまくるなよ。奴の家はイッシュ遺産級だ」って言ってたけどさ、』
 「ひょふぉふぉん」


 ――うぅぅぅうぅん―
 ‎うぅぅぅうぅん―――


 『そんなの、ポケモンのボクらじゃ分かんないよねー』
 「ひょっふぉふぉん」


 うぅぅぅうぅん――
 ――‎うぅぅぅうぅん――


 『まっ』
 「ひょん?」


 うぅぅぅうぅん――――
 ‎うぅぅぅうぅん―――


 『テキトウにいきますかー』
 「ひょっふぉい!」


 ‎うぅぅぅうぅん――
 ‎うぅぅぅうぅん―――――……



 《明日のヒウンシティも終日晴れ。尚本日をもちましてヒウンは連続晴天記録を更新するわけですが……午後8時となった今も、ヒウンシティ上空に雲はかかっていません。都心を中心とした水不足がますます心ぱ……っと、ここで中継車よりリポートです! 現場にマイクをつなぎますっ!》
 《眠らぬ街にまたも彼女がやって来たーっ! 舞台はミスター・ウォットン邸、獲物は先日盗まれた絵画のモチーフ「黄金のオボン」です! ご覧くださいこの人だかり、現場は警察とオーディエンスで溢れ返っています!》

 鳴り止まぬサイレン。
 ‎繰り返されるアナウンス。
 ‎ウォットン邸をぐるり囲む男達は、定時退勤などどこ吹く風と真黒き闇を睨みつける。

 「お前達はーっ! 我々警察に包囲されているーっ! 大人しくーっ投降せよーっ!」

 KEEP OUTの向こう側、沸く野次馬とマスコミがうるさい。目と耳を背けながらボブヨシは声をかける。
 「……おい。中の様子はどうだ?」
 「ウォットン氏の私兵ですか! 正直、我々でも勝てそうにありません! 鍛え抜かれた男共に、百戦錬磨のポケモン達! まったく羨ましい限りでありますっ!」
 警官のひとりが告げる。通報後の打ち合わせ時、屋敷の主から慇懃無礼に言い渡されたのだ――中は私共でやりますよ。ささやかながら護衛がおりますので。ご理解の乏しい方に、愛しい芸術品を壊されても困りますしね。
 金持ち風情め。警察の力など要らんって訳か……喉まで迫った悪口を、ため息に代えて吐き出した。指揮官はそれができる男だ。
 ‎「分かった。しかし隙が無くとも奴らは侵入する。引き続き警戒を怠るな。可能なら四方だけでなく上空にもぉぁぁあっ!!」
 指揮官は、見た。夜空から地めがけ落ちる星、星、星――は黒白グレーの羽に嘴に形を変え「ぱぁらぷぱろっ!」「ぱぁらぷるぱろっ!!」耳をつんざく鋭声。鳴き声。急降下する鳥共の。
 「マメパトですっ! 大量のマメパトがこちらにっ!」
 「くそっ……どういうことだっ、どの方向からだっ!?」
 「2時、4時、8時……だめですっ! 全方向からああぁああっ!」
 ばざばざっ! 羽。羽。舞い落つ。遮る。視界を。カメラを。人の群を。
 《ご覧いただけてるでしょうか!? まるで街中のマメパトがこぞってこの場所にってキャーッ!!》
 「ぱぁらぷぱろっ! ぱぁらぷぱろっ!」
 「こちらウォットン邸前! 警官及びマスコミ、市民がマメパトの襲撃に遭ってぁぁああっ!!」
 「ぱぁらぷるぱろっ!! ぱぁらぷるぱろっ!!」
 ばだばだっ! 爪。爪。嘴。掠める。頬を。額を。剥き出しの腕を。
 「ぱぁらぷるぱろっ!!! ぱぁらぷるぱろっ!!! ぱぁらぷるぱろっ!!!」
 「うわあああ痛てえええつっつくなああああ」
 《私関係ないじゃない巻き込まないでーっ! いやあっ新しいヒールなの糞を落とさないでぇーっ!!》
 「落ち着けお前らっ! これも奴のおうぃぇあっ!!」
 右足へ絡みつく違和感に、指揮官が見ればにんまり笑ったベトベター。きーきー! ちーちー! 唖然としたまま振り向く視界を飄々と渡るコラッタ。ズバット。ゴルバット。
 「下水に棲むポケモンが……なんでっ!?」
 もはやぶっ飛びかける思考の隅、既にぶっ飛んだマンホールから続々とヒウン下水道の住人が溢れ出す。今や外はお祭り騒ぎ。彼も、彼らも、飛んでる奴らも、約束したのだ。ちょっぴり力を貸してくれりゃ、お宝お裾分けしてやるぜ――



 「ふぁあん……」
 「心配ないよ。少し騒いでいるだけだ」
 『憂いを帯びた』といわれる翡翠も彼女にとっては慈愛の眼差し。広い掌で撫でられれば、心までふわり温まりそうで。きっと槍が降っても変わらぬだろう、纏う主のいつもの空気に。「ふぃああんっ」。藤色をした毛並みは満足そうに輝いた。
 ローテーブルのラップトップ、Fnキーを1度、2度。「そちらはどうだね?」。フロアの通信機へつながったそれに、屋敷の主が声をかける。
 《報告遅れましたっ! 只今1階にてシンボラー及びコジョンドと交戦中! 侵入経路は裏の厨房と思われますっ! どちらも予想外の強さでまるで歯が……ひょやあうっ!!》ぶつんっ。じーじー。切れる風の
 ……そういったことは、早く言ってほしいものだ。ぼやきはエーフィの耳にだけ届き、間もなく部屋の黒闇へ溶ける。照明は既に落としていた。それでも。
 ――近い。直観。取り出すボール。白光。彼の持つ、もう1匹。
 「そろそろ出番だ。頼むよ」



 “なんでもかんでも壊しまくるな”?
 知るか、そんなこと。

 「ひょふぉっふぉふぉふぉんっ!!」
 極彩色をさざめかせ、独楽の如き体躯より伸びる翼をしならせ唸らせ、あまねく切り裂く〈エアスラッシュ〉。鋭利な風は通信機を切断した、だけ、で、なく。絵画も。壺も。像も。わざまで。イッシュ遺産級のあれやこれやを、木っ端微塵にしていく。風
 の合間を器用に縫った、しなる右翼を凝視す強面、その歯列へ漂う凍てつく夜気を、貫く、拳はコジョンドの、突き、がオニゴーリの頬へめり込む。めぎりっ。勝利の感触に、にやり。と、笑む白影の背にいつの間にやら寄り添うこれも白い影サーナイト。捉えた。そう言わんばかりの顔で放射す〈サイコキネシス〉は辺りをねじ曲げ粉砕す、るも、流し目は微塵も歪まず。にやり。また。だんっ。床に足着き、力込めれば立ち沸く。昇る。次瞬口端から牙ちらつかせ。
 「ッキュウウゥアッ!!!」
 相棒の髪色にも似た〈あくのはどう〉。



 すあああん
 ずおおおん
 ずあずおおおおおん
 音と振動は、腹の底のみならず地下室まで震わせる。
 「あいつらうまいことやってるかなー」
 誰もいない闇に、ひとり。気絶させた男を転がしこぼせば
 『お前の相棒だ。問題なかろう』
 声、もうひとつ。高くない天井へ触れながら、サンはぶっきらぼうに返す。
 「なんだ、妬いてんのか?」
 答えない。隣でカンヴァス担ぐ女は、その顔へワルい笑みを咲かせているに決まっていた。そのまま無言を決め込むと
 「……知ってんだぜ」
 彼女の口から
 「いつだってしんがりなのも、ドアの前から動かないのも、オレ達を思ってのことだって」
 ぽつり
 「ほんと、ありがとな」
 ぽつりと。

 『……巷ではそういう発言を、死亡フラグと呼ぶらしいが』
 「つまり、オレが死ぬってこと?」

 答えない。代わり浮かべた、闇さえも惚れそうな艶笑。流し目は天井を捉え。吸い、吐き、構え、眼を、細め。

 ひらり

 跳ぶ。




 ず

 ど

 ん

 っ

 !!!!!!!!!!




 絨毯は破れ
 床板は裂け
 3階は断末魔を上げた。
 ミスター・ウォットンの前で。

 ぱりばら。けぶる。屋敷へ轟く大音声の、余韻が。ばらぱり。りぱらん。舞い、光る。ネオンのみ照らす主の居室に。
 赤いソファの正面、ウォットン邸の真中に開いた空洞の向こう。幾星霜をかけ積もり、たった今解かれ自由に游ぐ塵芥の、奥。


 怪盗ヒルダは姿を現す。


 〈とびひざげり〉は地下から3階までを貫いた。降り散る埃をはたき、呟く。『またつまらぬものを蹴ってしまった……』。
 イッシュ遺産級の邸宅を破壊された主の表情かおは、やはりいつもと変わらない。足下の藤色がソファに飛び乗り、ウォットンへ身を寄せる。

 対峙。

 「久しぶりだね」
 ワインレッドのストライプスーツ。漆黒のシャツ。黄金のチーフ。淡い茶髪を切り揃え、翡翠に帯びるは至上の悦び。

 対峙。

 「あぁ。72時間ぶりの感動的な再会だ」
 ネオンに艶めくポニーテール。透き間風にそよぐベスト。静かにしかし爛々と光る男の瞳へ、突き返すは不敵な笑み。

 ほらよ。言葉と共に、肩に担いだカンヴァスを下ろす。布など払わなくとも解る。その向こうには戯る果樹と七色の虹。
 「残念だね……君になら譲ってもいいと思ったのだが」
 空洞の、こちら。暗色に混ざるため息は甘ったるい。
 「悪りぃな。オレん家にこの絵は眩しすぎる」
 空洞の、あちら。答える吐息はどこか苦い。
 「そうか。では遠慮なく返してもらおう」
 「っと。返しに来たわけじゃないぜ」
 夜を切り、指す。ローテーブルの上、ラップトップの横、たわわ盛られた果物かごの
 「そのオボンと」
 まんなかへ鎮座まします
 「交換だっ!」
 黄金色した宝の果実を。





●6 Sunday

 「そのオボンと」
 ‎声を合図に
 ‎「交換だっ!」
 ‎闇も驚く俊敏さで
 地を蹴り、跳んだ。〈とんぼがえり〉は
 ‎
 届かず

 中空で一時停止。
 し、
 落ちる。重力はサンを容赦なく下へ――空洞へ――叩きつけた。
 「サンっ!」
 がらんどうへ駆け寄りしゃがみ込めば、ずおおおおん――。何かの崩れる鈍い音が丁度鼓膜を震わせて。

 「手っ取り早く済ませたかったんだ。エーフィは夜の戦いが苦手でね」
 藤色は微か輝き、額の珠の残光が明りなき居室をよぎる。格闘タイプ最高クラスのスピードを持つコジョンドの、それすら僅か上回った〈サイコショック〉。婀娜な妖波に屋敷の主は淡々と言葉を乗せた。
 「それと、悪いがこちらに交換の意思はないよ」

 「じゃあなんで『ここにある』なんて言ったりしたっ!?」。眩暈のしそうな深淵から目を離し、男をきっと睨みつける。
 ‎筈の。
 ‎眼を。



 塗り替える、緑。



 ‎緑。緑。緑。緑。見上げる男も。ソファも。ネオンも。藤も。大気も。果実さえも。
 すべてが、染まる。サイコパワーの生み出す緑に。苦しい。まるで水面みなもへ突き落とされたかのような。息ができない。まるで世界が一瞬にして、緑の波に飲まれたような。
 「私は……知りたいんだ」
‎ ぐぶぐぷっ、ごぽんっ。緑。泡沫の果てより連なる。声だけが。
 ‎「君がどういう動機で『盗む』のか。美意識からか? 或いは他の理由からか? 君と私はソウル・フレンドになりえるか? そして」
 寄せては返す綾波の向こう。
 男の口端は、確かに、上がった。
 「『なぜ君がポケモンと話せるのか』――これはどちらかというと、君の友人が知りたいことらしいが」
 !

 とろりとした緑がシナプスを舐めた。

 「ネットやろ……ぅか……っ!?」
 緑、ますます勢いを増す。ぐぶぐぷっ、ごぽんっ。あの夜のように、意識を攫い、心臓を肺を侵し始める、緑。緑。緑。分厚い波の向こ緑う、主が手招きすれば緑緑ソファの後からぬっと現れ緑緑緑るソルロック。
 「だから少……覗かせ…もらうよ……」
 緑緑緑。緑緑緑。もはや音さえま緑緑ともに拾わぬ耳へ、緑、最後に届いた声は緑緑緑どこ緑でもやわ緑緑緑緑かな緑緑緑緑緑
 「きみのかこ……きみ…こころ…………」


 ぐぶぐぷっ ごぽんっ


 頭蓋から溢れ出す
 記憶に置いてきた筈の、
 緑――――










 ――――いちゃん、おにいちゃんっ


 繰り返す、繰り返す、その叫びは落葉へ還り。
 再び歩みを、始める。思索の原から小川を‎渡り、今踏みしめるは矢車ヤグルマの、分け入っても分け入っても緑、翠、みどり、一歩、また一歩、伝う足裏の感触は、葉とも草とも土ともつかぬ、敢えて云えば地の奥深く、鈍く蠢く生命のような、噎せ返る程の鬱蒼に、朧な黒ごと溶けてゆきそうな、


 ――いかないで、いかないで、


 ‎森は包む。幼い少女を。やさしさの息吹でなく。数多の枝葉を意地悪く重ね、木洩れ日さえ見せようとせぬ、昏い吐息でもって。


 ――あたしをおいて、いかないでっ


 歩みを、進める。泥濘みなどない、筈の、その一足ひと足がのろくなっている、気が、する、怠い、気怠い、一歩が重い、踵から根でも生えたかのように、ゴーストに生命を吸われたかのように、


 突如降り注ぐ木洩れ日が
 ‎容赦なく身を撃った


 ‎それが視界を蝕む。一瞬。五感のひとつを潰された隙に、風。の。そよぎだけでない

 ――来ちゃダメだ

 不自然な草野の音と


 ――ボクに着いて来ちゃ、ダメだ


 振り返る少年の
 結い髪と瞳へ宿る穏やかな


 ――……コ、


 哀しいほど穏やかな
 ‎緑に


 ――……サヨナラ!


 背が戦慄くのさえ、忘れ。







 来るな?
 サヨナラ?





 ふ





 「っざけんなぁぁあぁぁあぁあ!!!!!!!!!!」
 醒める。醒めないはずの眠りから。破る。破れないはずのサイコパワーを。
 怪盗ヒルダが覚醒したのは、珍しくソルロックが読心に難渋する最中で。途切れた緑。波打つ驚き。ラップトップのため息はどこの誰にも聞こえない。
 「動機を知りたい? 心を覗く?」
 ゆらり、立つ。 怒り。 怒り。
‎ 「黙ってりゃあ好き勝手しやがって」
 ふらり、歩く。 怒り。 怒り。
 ‎「『なぜ盗む』だぁ?……そんなに知りたいんなら教えてやる」
 ひらり。怒り。空洞など、いとも簡単に飛び越えて。
 ‎瞳に燃えるたったひとつの感情が心の底まで焼き焦がす。ソルロックがようやく覗く女のそれは、黒く、黒く、夜半より黒く、
 美しく。

 「オレはなあ!!!」

 ウォットンは動かない。否、動けない。
 ‎想定外の事態と予想外の美に、見開く翡翠へ満ちるは恍惚。
 「美意識も過去も関係ねぇ!」
 それもその筈。一歩、また一歩、足を振り上げ下ろすたび怪盗の背後から伸び、繁り、今や天井で折れ曲がる巨大な、禍々しき漆黒。
 「ただ、盗みたいから盗む!」
 黒。壁へ、床へ、釘づけとなった男の顔へ、滴り、飛び散る。血潮のように。夜より昏い漆黒の束の、成長は止まず寧ろ天井を押し上げ始め。もう3階には収まらない。みし、めしりっ。張りつめた緊張に天板が小さく喘いだ、瞬間。
 「それだけだっ!!!!!」
 ずどんっ!
 ‎漆黒は屋根をぶち抜き空へ。

 〈ナイトバースト〉は、ヒウンの夜に吸い込まれた。






7 Rainbow Someday

 お祭り騒ぎの玄関に、漆黒の花火が上がる。

 「な……なんだあれっ!?」

 誰もが一瞬動きを止めた。黒は間もなく月影へ散るも、人々の注意を惹くには十分で。
 「もう私兵あいつらだけに任せておれん……我々も行くぞ! 着いてこーいっ!!」
 指揮官を先頭に、衆人が屋敷へ押し寄せる。警察、マスコミ、市民、ポケモン、「通さないと言ったはずだ!」「うっせぇこちとら有事だあっ!」配置された門兵も加わり四つ、《ここで事態は急展開かっ!? 私たちも後を追いますっ!》「ご用だご用だー!」いや五つ巴「カメラを止めるなーっ!」が、入り「きーきー! ちーちー!」交じり、戦い、《なんということでしょう! 前庭では大混戦、てんやわんやの真っ最中です!》乱れる、「ぱぁらぷるぱろっ! ぱぁらぷるぱろっ!! ぱぁらぷるぱろっ!!!」さながら夏のカーニバルのように――




 喧騒は、遠い。
 満ちるは破壊の後の静けさ。
 風が撫でる。乾いた、渇ききった風が。空へ土へ通ずる穴を縦横無尽と抜けるそれに、フロアランプの首は折れ、散らばる本の頁が捲れた。
 半ば屋外と化したミスター・ウォットンの居室。土埃を攫った風から
 現れる女も、彼女を支える獣も、黒。


 『お待たせ、相棒』
 「信じてたぜ、相棒」


 にこり。にかり。笑みとぶつける拳はふたつ。空へ千切れた漆黒の残滓がジンの背に舞い戻っていく。あの時相棒の危機を察知した彼が、跳び上がりながら〈ナイトバースト〉を放ったのだった。
 グーをぶつけた獣と女はそのまま正面の壁を見遣る。ずたずたになった壁面と原形留めぬ調度品の中、赤いソファとローテーブルだけがほぼ無傷で。つぶった目蓋を男が上げれば映る盛りかご、ソルロック、ラップトップ、そして愛猫。すぐさま悟る。ソファに横たうポケモン達の、残り少ない力に守られたのだと。
 「……ありがとう」
 そう呟き。手を伸ばし。


 ‎広い掌がかごに近づく。
 ‎果実を手に取る。


 ‎女に、差し出す。
 ‎

 ‎怪盗は手首を握り
 ‎「ほらよ」
 ‎座った男を立ち上がらせる。
 ‎

 その手からオボンを頂くことも忘れなかった。一瞬大きく開いた翡翠も、すぐさま凪へと形を変えた。
 「――結局、君のすべては分からなかったということか」
 その翡翠が、‎ヒルダを射止める。
 続きこぼれた嘆息と、諦めにも似た自嘲に
 「知ってるか?」
 返した笑みは
 「女を一番綺麗に見せるのは、謎らしいぜ」
 ‎ネオンよりも、月よりもさやかに見えた。

 「さて、と」

 そろそろやるか。あいつらも頑張ってくれてることだし。頷くジンとヒルダの下で、暴れるインと白い影。持ち前のさいせいりょくで事なきを得たらしい。本物のコジョンドの、〈とびひざげり〉が眼下を掠める。
 今は怪盗の手にある、オボン。宙へかざすと果皮は艶めき、かぐわしい香気を乾いた闇へと発散させる。
 「どうするつもりだい?」
 ‎「絵にかいてたんだよ。『その実を齧りしとき、天より宝注がれん』ってな」
 問えば答え。そうか。と呟く男の前で果実へそっと、くちづけ。その場にいる誰もが仰いだ、夜空の、月に八重歯を煌かせ
 女は、


 その実を
 がりりと
 噛んだ。





ぽちゃん





ぽちゃん
ぴちょるん
ぽっぷちゃるん

 「冷たっ! 今度は何だぁ!?」
 「おい……上だ、上を見ろっ!」
 「ぱぁらぷるぱろっ! ぱぁらぷるぱろっ!」

ぽしゃん
びしょるん
ぼっぷしゃるん

 「きーきー! ちーちー!」
 「べとべとべたああっ!!」
 〈ご覧ください、ヒウン市民の皆さん! たった今、夜空から……っ!〉


 『雨だぁ……!』


あめがふる
あめがふるふる
忘れたひると
忘れたよるに


 漆黒、ではない、あわやかな黒雲から幾重にも注ぐしずくは、白亜の壁を洗うだろう。傘を忘れた人々へ、笑みをともない降り落つだろう。渇いた風から砂を払い、みずみずしくよみがえらせるだろう。ビルへ路面へ激しく打ちつけ、つもった埃を浄めるだろう。干乾びた下水道をとうとうと流れ、やがて海へと還るだろう。粟立つ波間に砕け溶け、船をすこしく浮かせるだろう。街の獣のいのちをつなぎ、対岸の森に棲む獣を何ごとかとざわめかせるだろう。その到来を待ちわびていたヒウンシティをうるおし、いやし、あり余るほどの水をもってみたすだろう。

 「雨雲はかかっていなかったらしい」
 夜の底から響く、声。しとど濡れたエーフィの二又の尻尾が揺れる。
 「……そっか」
 女の八重歯を煌かせた月は雲に隠れもう見えない。うすら明るむ街の、雫へ丸くぼやけたネオンに
 「これが預言のお宝ってわけだ」
 どこまでもまっすぐな笑みが重なった。


ぽしゃん ぴしゃん
ぼしゃん びっしゃん
るぅーん ずぅーーーん
ぐぅぅぅうん ずぅぅぅうん


 「か い と う ヒ ル ダぁぁぁあっ!!!」
 聞き覚えのある怒声に皆が振り向けば、穴へ手をかけ這い上がろうとするキノガッサに指揮官ボブヨシ。
 「窃盗! 器物損壊! 公共物破壊! 今日こそおとなしくお縄にうあげっ!?」
 その警帽を、めごすっ。軽やかに踏みつけコジョンドは夜へ跳んだ。追うシンボラーがキノガッサに〈エアスラッシュ〉を贈りつけるのも忘れない。
 「じゃーな、おやっさーん!」
 警帽傾け見上げれば、さよならは雨降る夜空から。シンボラーの尾羽に掴まり、しなやかな風に髪を靡かせ、怪盗は大きく、大きく手を振った。
 「くそっ、なにが『じゃあな』だっ! 待てーヒルダーっ! 逃がさんぞーっ!!」
 目を回す相棒の赤い爪を握り、体躯は再びがらんどうへと姿を消す。派手な着地音が一瞬響くも、やがて忙しげに遠退いていった。


 雨漏りだらけの邸宅に男がひとり残される。ワインレッドのスーツから重い雫を滴らせ、おもむろに進む部屋の奥。布も含めカンヴァスは無傷だ。彼のポケモン達が守った、もうひとつのもの。
ぶつんっ ‎
 〈残念ですね。あなたには失望しました。ミスター・ウォットン〉
 「勝手に失望したまえ」
 ぞんざいに返事をするも、続く呟きはラップトップへ宛てられたもので。
 「……不思議な少女だった」
 〈随分と魅力的でしょう?〉
 電子の声音はどこか楽しげだ。無抵抗に男は肯き
 「あの瞳には大きな、そして複雑な感情が同居している。心が時折抑えられないほどの」
 言葉を、紡ぐ。熱っぽい唇から。
 「何が少女をそれほどまでに突き動かしているのか、盗みという行為に走らせているのか……心を覗けば少し分かるかもしれないと思ったのだが」
 〈その言い訳は美しくありませんねぇ〉

 雨は降る。
 降り続ける。

 「……君の言う通りだ」
 振り返る翡翠の空は晴れやかだ。
 「ただもう一度、あの美しい瞳を見たかっただけかもしれないな」







 ――――うぅぅぅうぅん――
  ‎―うぅぅぅうぅん――
  ‎うぅぅぅうぅん――
  ‎ うぅぅぅうぅん―――――――


 眠らぬ街に響くサイレンは終わりなき合図。
 ‎サーチライトは目を閉じ。開き。
 誘うように、優雅に、回る。


 ――うぅぅぅうぅん―
 ‎うぅぅぅうぅん―――
 うぅぅぅうぅん――
 ――‎うぅぅぅうぅん――


‎ 雨雲とネオンに挟まれサーチライトにまさぐられ、窮屈そうに横たわる午後8時半の黒闇。
 ‎さえ。


ぽしゃん ぴっしゃん ぼしゃん びっしゃん


 ‎そわそわしていた。
 人の、野次馬の、おまわりの、
 不安と怖れと、後ろめたい期待と、


ぼしゃん ぴしょるん ぼっぷちゃるん


‎ 抑えがたい、熱に。


ぽちゃん ぴちょるん ぽっぷちゃるん 
ぽしゃん びしょるん ぼっぷしゃるん

うぅぅぅうぅん――――
‎うぅぅぅうぅん―――
るうぅぅぅうぅん――
‎うぅぅぅうぅん―――――



雲間から覗く まっしろな月に
架かるまばゆい ななつの光――
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∵∴∵怪盗ヒルダは方舟の夢を見るか おわり∵∴∵