二つの物語

Reversible
イラスト
0.
 ここは一つの始まり。そしてもう一つの終着点。
 最初は意味が分からないと思うけれど。
 最後まで行けば、こんなことがなぜここに書いてあるのかが分かるはず。

 願わくは、あなたがもう一度、この場所に戻ってきてくれますように。


























1.
 その不可思議な光景は、ラキの目の前で起こった。
 ラキは今、一本の立派なオボンの木の前に立っていた。幾度となく雨風に晒され、それでもなお、今までしぶとく生き抜いてきた木だった。数分前に降った雨のおかげで、葉や実は目で見てわかる程度に濡れていた。‪雨も降ってないのにパラパラと音がしてるのは、雨の雫が木から滴り落ちているからである。多少雲はあれど、空は晴れていた。‬ときどき強い風が吹いて、吹き飛ばされた飛沫がラキの服を湿らせた。青く晴れた空には、視界の端から端まで大きな虹が架かっていた。その虹を潜るようにして、向こうに見える森から入道雲が生えていた。
 それだけなら、何ら気に留めることもない。よくある夏の一コマを切り取っただけの景色である。だが、その不思議なできごとは本当に、ラキの目の前で起こったのである。
 ラキの手が届きそうなところに、いくつものオボンの実が実っていた。ちょうど食べ頃の、黄色い果実である。その一つが、今にも落ちようとしている。しかし、落ちない。千切れるか否かのぎりぎりで茎にしがみついているとか、風に煽られて落ちてしまいそうだとか、鳥ポケモンに突かれたり、虫ポケモンに齧られたりしているとか、そんな次元の話ではなかった。その実は、確かに茎から一センチほど離れていた。普通なら、重力に引っ張られて地面に落ちるはずである。しかし、落ちない。
 不思議に思ったラキは、その実に手を伸ばした。しかし、その手は空を切った。ラキが掴もうとした実が、ひょいとその身を引いたのである。もう一度手を伸ばすと、今度は元いた方にひょいと逃げた。何度か手を伸ばしてみるが、そのたび実はひょいひょいとラキの手をすり抜ける。まるで、オボンの実が意思を持って動いているか、あるいは目に見えない何かがオボンの実をもって動いているか。ともかく、ラキをからかっているかのようだった。
 とうとう諦めたラキは、両手を顔の前に挙げて首を横に振った。
「もういい。やるよ」
 逃げ続けていた実が、少しだけラキの方に近付いたように見えた。本当に?とでも尋ねているのだろうか。
「そいつはお前にやる。その代わり、しっかり味わって食べるんだぜ」
 ラキがそう言うと、喜んででもいるようにきのみがぴょんと跳ねた。それから木の実の頭に、何かが齧ったような跡がついた。一口、また一口。齧ってはその美味さに酔いしれているのか、あるいは強い酸味に体を震わせているのか。木の実はそれを齧る誰かの挙動を表すかのように動き続けた。苦笑しながら見つめていたラキは、もうこの光景を不思議とは思わなくなっていた。
 思えば、ここに来てこの木を育て始めてから、不思議なことばかりだ。露地栽培のオボンの収穫時期は秋から冬。にもかかわらず、本来ならまだ実が青いはずの、夏の盛りのこの時期に、この木には黄色く熟れた実がいくつも実っている。季節ごとの雨風や気温に直接さらされる屋外で、こんな光景を拝める場所はほとんどないと言ってもいいのではないだろうか。
 落ちそうで落ちなかった木の実は、すっかりその形を失っていた。代わりに、木の実があった場所には長い尻尾を持つ桃色の生物がぼんやりと姿を現していた。小さくて、触れると消えてしまいそうな姿は、さながら妖精のようだった。
「どうだ?美味かったろう」
 空と同じ色の瞳を細めて、その生物は頷いた。
「俺たちが手塩にかけて育てた、世界一のオボンだからな」
 満足げに破顔して、いつかと同じようにラキは空を見上げた。
 桃色の生物は毎日のように現れた。そして、ラキが木の元にやってくると、これ見よがしに木の実を茎から一センチほど離して見せるのだ。見るに見かねたラキは、桃色の生物と約束をした。
 木の実を食べていい代わりに、この木を育てるのを手伝うこと。
 ラキが木の世話を出来ない時は、代わりにこの木の世話をすること。
 災害やきのみ乱獲しようとする者たちから、木を守ること。
 ただし、お腹を空かせたポケモンたちには、きのみや貯蔵してある食べ物を少しだけ分けてやること。
 桃色の生物は約束をよく守った。元々この木に住まう存在とも、ラキと桃色の生物は、共に助け合い、この木を育て続けた。
 それからというもの、このオボンの木は決して枯れることなく、弱ることなく、病気にもかからず、毎年たくさんの実をつけた。ラキはこの木の元を訪れる人々やポケモンたちと、この木の恵みを分かち合った。
 後にその木は、多くのポケモンが訪れ、時には世にも珍しいポケモンが姿を見せる木として知られるようになるのだが、それはまた別のお話。

2.
 その木には、毎日のように誰かが訪れた。世話をしているラキはもちろんのこと、野生のポケモンであったり、旅人であったりした。食べるものを求めてやってきたり、休憩のために立ち寄ったり、雨の日には雨宿りをしに来たりした。誰かが来ずとも、前述の通りこの木に住み着いている存在もいるため、この木は常に誰かと一緒にいると言っても過言ではなかった。
 ある日のこと。ラキはオボンの木の下で目を覚ました。ちょっとだけ昼寝をするつもりが、よほど疲れていたらしい。気付いたら夜になっていた。そして、目を疑った。
 木が動いている。ただ風に揺れている訳ではない。歩いている。
 ラキが育てているオボンの木は、年中実がなっている以外はごくごく普通の木のはずだ。それが夜な夜な歩き回っていると来たものだから、ラキは驚かずにはいられなかった。
 しかし、目を凝らしたラキは違和感を覚えた。動いている木の頭には、ほとんど葉が茂っていない。ラキの木にはたくさん実っているはずの、きのみらしきシルエットもない。そして何より、寝ぼけていて気付かなかったが、ラキが育てている木はラキの背後にあった。見上げると、葉が茂り多くの実をつけている。
 よくよく見ると、動くそれは、ろうぼくポケモンのオーロットだった。その周りには、大勢のゴーストポケモンたちが集って何やら騒いでいた。傍にはラキの木から取ったと思しきオボンの実がいくつも転がっていた。事実、ラキが寝る前に見た時よりも、月明かりに照らされる木に実って見えるきのみの数が減っていた。木を守っているはずの存在は、眠っていて気付かないのか、気付いてはいるが怯えているのか、ゴーストポケモンたちに太刀打ちできずに眠らされているのか。
 お化けの一匹が、起き上ったラキに気付いた。小さな切り株のような顔をしたお化けだった。短く悲鳴を上げて、オーロットの後ろに身を隠した。
「何やら楽しそうなことやってるな」
 体を起こし、お化けたちを見回して、ラキは言った。お化けたちは様々な表情でラキを見ていた。怯える目。好奇の目。宴会を邪魔する者をよく思わない目。いつもなら、ここでラキは、勝手にきのみを食べているポケモンたちに憤慨するはずだった。のだが。
「俺も混ぜてくれ」
 その一言で、ラキを睨みつけていたお化けたちの表情がパッと明るくなった。
 そこから先はどんちゃん騒ぎだった。ゲンガーが影に潜っては飛び出す曲芸を見せたり。シャンデラが作り出した炎の輪を、炎が苦手なはずのバケッチャが飛び抜けたり。パンプジンが自慢の歌声を披露したり。お化けたちはラキの木からきのみを勝手にとっては口に放り込んでいたが、ラキは特に何も言わなかった。
 途中でオーロットがラキの隣にやってきて、木でできたカップを差し出した。中には何かの液体が入っていて、仄かにアルコールの匂いがした。オーロットはもう一つ同じものを持っていて、それをラキが持つカップにぶつける仕草を見せた。
「いいねえ。乾杯だ」
 こつんと音を立てて、二つのカップがぶつかった。口に含むと、爽やかな香りがふわっと広がった。オボン独特の酸味に、渋み、苦み、甘みが次々にやってくる。酒っぽさをあまり感じない、しかし心地よく酔えるオボンの果実酒だった。
「いつの間にこんなものを作っていたんだ」
 ラキが尋ねると、オーロットは困ったように頭を掻いた。伝える手段がないのはもちろんなのだが、どうも後ろめたい部分があるようにラキは感じた。
「まあ、こんだけうまい酒を飲ませてくれたんだ。今回は水に流そうじゃないか」
 ラキはカップに残っていたオボン酒を一気に飲み干した。それからしばらく、他のお化けたちの宴会をうっとりと眺めていた。
 知らず知らずのうちに夜は更けて、いつの間にかラキは眠り込んでいた。
 次にラキが目を覚ました時には、周りにはもう誰もいなかった。オボンの木を見上げて、またしても声を上げてしまった。動く木や幽霊たちが食べていったはずのきのみが、元あった通りに実っていたのだ。
 オーロットの特性の一つに、「しゅうかく」というものがある。自分が食べたきのみを復活させるというものである。自分以外が食べた分まで復活させることができるのか、復活させるきのみを自分以外の木に実らせることはできるのか、ラキは知らなかった。あのオーロットがやったのか、はたまたこの木に住まう存在がそうしたのか。ラキには分からなかった。分からなくてもよいとさえ思えた。
 それからというもの、満月の夜になるとラキの木の下で、不思議な宴会が開かれるようになった。ラキも酒瓶を片手に木を訪れて、そこに集まった者たちと酒を酌み交わしているとかいないとか。

3.
 その木の根元には一つだけ、小さな石碑があった。石碑と言っても、その辺に転がっているいい形の石を拾ってきて、そこに名前を彫っただけの簡単なもののようだった。
 石碑には縦書き横並びで、「ラキ」「マヤ」と刻まれていた。
 初めてこの石碑を見た時、ラキは驚いたものだった。自分と同じ名前の誰かが、この木に関わっている。隣に刻まれた「マヤ」というのは、「ラキ」の家族だろうか。それとも、この木の傍で生きている、あの生き物のことだろうか。あるいは、全く別の存在だろうか。もしかしたら、このふたりは一緒にこの木を育てていたのだろうか。今は、この木の下で眠っているのだろうか。
 ラキは運命を感じずにはいられなかった。ただ、だからといって、それを鵜呑みにしようとは思わなかった。石碑に名が刻まれた「ラキ」には「ラキ」の、「マヤ」には「マヤ」の人生があったであろう。それと同様に、ラキにはラキの人生がある。その中で偶然そうなってしまうのなら仕方がないが、石碑に偶然刻まれていただけの名前に運命を左右されることを、ラキはよしとはしなかった。
「『ラキ』さん、『マヤ』さん、あんたらの木は、立派に育ってるよ」
 じょうろで水をやりながらラキがそう言うと、柔らかい風が吹いて、オボンの木がざわざわと音を立てて揺れた。
 石碑に名が刻まれた『ラキ』と『マヤ』は今もなお、この木を見守り続けている。そんな気がしてならなかった。

4.
 時が止まったオボンの木がある、という言い伝えを聞いて、興味を持たずにはいられなかった。一人の木を育てる者としてもそうだが、もう一つ、大切な理由がある。彼のおじが、かつてその木を育てていたというのだ。ラキの手元には今、古びた地図があった。それは件の木の場所を示しているらしかった。
 果たして、その木は確かに存在した。
 緩やかな風が、ラキの頬を撫でて通り過ぎていく。足元の草を揺らし、その木をも掠めていったはずである。にもかかわらず、その木は動かなかった。風に揺れるはずの青々と茂った葉も、いかにも食べごろといった感じの黄色い木の実も、何もかもが、時を止められたかのように静止していた。
「これはすごい」
 葉に触れてみたが、動かない。実をもぎ取ろうとしても取れない。何をしても、その木は動こうとしなかった。
 ふと顔を上げると、そこに小さな若草色の生き物がいた。木の枝に腰を掛け、あの桃色の生き物と同じ空色の瞳でラキを見つめていた。その姿は、この木に宿る妖精のように見えた。
「おじさんがこの木を育てていたんだって聞いて来たんだ」
 古びた地図を見せて、ラキは言った。
「俺はラキ。ラキっていうんだ」
 若草色の妖精は空色の瞳をいっぱいに見開いた。それから嬉しそうに枝から飛び降り、宙に浮いたまま小さな手で木を支える太い幹に触れた。
 ざわざわと、ラキの頭上で音がした。風に揺られた木の葉が、互いに擦れる音だった。
 今度はラキが目を丸くする番だった。それまで何をやってもうんともすんとも言わなかった木が、周りの風景と同じように動いている。陽光を浴びて、風に揺られて、笑っているようだった。若草色の妖精は喜びに満ちた表情で、木の周りを飛び回った。
「この木を、おじさんの木を守ってくれて、ありがとう。ここからは俺も、この木の世話するよ」
 ラキが礼を言うと、飛び回っていた妖精はラキの方を向いて、ニコリと笑った。

 それが、ラキとオボンの木との出会いだった。










5.










 長い長い年月が流れた。
 
 







 ラキは相変わらず、オボンの木を育てていた。
 オボンの木の側には相変わらず、誰かが居た。
 何も変わらない日が相変わらず、続くと誰もが思っていた。  

 その日、空が赤く染まった。
 原因はわからないが、オボンの木がある草原で火が起こり、辺り一面に燃え広がったのである。
 今、ラキはそのオボンの木の下にいた。手に持った鎌で木の周りの草を刈って、火を遠ざけた。ラキの腕には、飛んできた火の粉による小さな火傷の跡がいくつもできていた。それでも、この木を燃やすわけにはいかない。ただその一心で、草刈り鎌を振るい続けた。燃え移るものが無ければ、火が木に届くことはない。飛び散る火の粉さえも木に当たらないようにとばかりに、ラキは草を刈り取っていった。雨の日も、風の日も、雪の日も、日照りの日も、よほど体調や都合が悪い時以外は毎日のように通い続けた木である。これからも共に生きようと、誓った木である。
 しかし、状況はよくなるどころか、むしろ悪化しつつあった。少しでも前進するはずだったラキは今、少しずつ後退しつつあった。
 突如、何か大きな力が、ラキを火の壁の外に吹き飛ばした。
 目を白黒させつつ、ラキはすぐに起き上がった。木の側に駆け寄ろうとして、何かにぶつかった。火と木を遮るように、透明な壁がそこに現れたのである。
 そして悟った。自分は今、決して木の側に戻ることはできないのだと。誰がそんなことをしたのか、ラキは知っていた。だからこそ、余計に何故だと問いたくなった。
 火の壁は更に勢いを増して燃え上がった。まるでオボンの木が、そこに住まう妖精が、ラキに「今すぐここを去れ」と言っているようだった。
「だめだ!俺は!この木と共にあると誓ったんだ!」
 ラキの叫びも虚しく火の壁は燃え盛り、消える気配すら見せなかった。ダメだと言っている。自分に生きろと言っている。そう感じたラキは。
「だったら、これだけは言わせてくれ」
 しっかりとオボンの木を見据えて言った。
「ここで待っていてくれ。そしていつものように、この木の世話をしてやってくれ。俺はきっと戻ってくる。俺でなくとも、俺の志を受け継いだ者が、きっとここにやってくることだろう。その時はどうか、俺か、その誰かを、温かく迎え入れて欲しい。かつてのお前が、俺にそうしてくれたように。その誰かは、きっとこの木を育ててくれる。お前とも、仲良くやっていけるはずだ」
 火の壁の向こう、茂る木の葉の陰で、誰かが頷いた。本当にそうだったのか、ラキには分からない。しかし、ラキには確かにそう見えた。
「さよならなんて、言わないからな!」
 ラキは踵を返して走り出した。辺りは一面火の海だというのに、ラキの後ろから突風が吹いて、一本の道を作り出した。ラキは風に導かれるように、どこまでも走った。走って、走って、走り続けて。炎を蹴散らす風がなくなった時には、あのオボンの木はもう、どこにも見えなかった。










 そしてまた、長い長い月日が流れた。









6.
 時が止まったオボンの木がある、という話を聞いて、心が踊らずにはいられなかった。世界にも類をみない木で、誰が手を掛けても動かなかったそうな。ラキがその木の場所を尋ねると、その噂を口にしていた人は「どうせ無駄だと思うよ」と言いつつ、快く教えてくれた。
 果たして、その木は確かに存在した。
 それはまぎれもなく、ラキが育てたオボンの木だった。
「これはすごい」
 思わず声が漏れた。言伝にあった通り、その木は、その木だけは、周りから隔絶されていた。草原の中に一本だけ立っている、という意味でもそうだが、それだけではない。風が吹いているというのに、その木は――青々とした葉も、黄色く熟れた木の実も、ピクリとも動かない。
 ラキはそこに、若草色の小さな妖精の姿を見た気がした。時を駆け、時を操る力を持つとされる妖精だった。瞬きをする間にその姿は消えてしまったから、本当にそこに妖精がいたのかは分からなかった。ただ、木の時間が止まっているのは、その妖精のせいだと思った。
「この木を守ってくれて、ありがとう。俺も共にこの木を育てよう」
 その木の根元にしゃがみこんで、ラキは親しみを込めてその木に触れた。
 脈を打っている。ラキの手はその鼓動を感じながら、愛おしそうに木の幹を撫でた。
 そしてその時、止まっていた時間が動き出した。
 柔らかく吹く風に合わせて、木の葉が、枝になっている実が揺れた。
 まるでラキを待っていたかのようだった。
 ラキはその木の下に石碑をつくった。いずれ自分が死んだら、その場所に埋葬してほしい、ということではない。それは自分はここで死ぬのだという、覚悟。残された命が尽きるまで、この木を最後まで守り抜くのだという、決意。
 石碑には、自分の名前と、共に木を守ってくれる者の名を刻んだ。
 どんな存在も、いずれは死の瞬間を迎える。生きている間はもちろん、その後もこの場所でオボンの木を見守り続けるという想いを込めて、その文字を、深く、深く刻み込んだ。
 ラキは更に、その木の場所を記した地図を作った。もしも自分がこの木の世話を出来なくなった時に、誰かに代わりをしてもらうためである。それがラキの家族なのか、親族なのか、はたまた全く知らない誰かなのかは分からない。それでも、妖精が守ったこの木を失ってはいけないという使命感が、ラキにそうさせたのだった。
 自宅で机に向かうラキを、若草色の妖精はこっそり眺めていた。そして、満足そうに笑って、オボンの木の元へと飛んでいくのだった。

7.
 ラキには一人、妹がいた。名はマヤといった。しっかり者で、木の世話ばかりに精を出すラキに代わって、家事のあれこれをこなしていた。ラキは家のことを何もしないという訳ではないが、割く時間の割合が極端に木の世話に偏っているのである。とはいえ、ラキはたった一人の妹を、オボンの木と同様に、いや、それ以上に大切にしていた。二人が暮らしている集落では、法律さえ許せばそのまま結婚してしまうのではないかとからかわれるくらい、仲の良い兄妹だった。
 兄ほどの木の実狂いではないとはいえ、マヤ自身も、オボンの木を育てること自体は反対しなかった。むしろ、ラキの都合が悪い時には、代わりにマヤがオボンの木の世話をしたものだった。その最中に、マヤもたくさんの不思議に出会ったらしい。木の世話を終えて家に帰ってきたマヤは、その日に何が起こったのかを嬉しそうに話すのだった。
「素敵な木ね」
 ある時、マヤはラキにこう言った。ラキは自慢げに、
「そうだろう。俺たちの、世界一の木だよ」
と返した。するとマヤはわざとらしく、
「兄さんを木に取られてしまったみたい。嫉妬してしまうわ」
などと言って頬を膨らせるものだからどうしようもない。
「おいおい待ってくれよ。『俺たち』というのには、お前も入っているんだぜ」
「ふふふ、冗談よ」
 こうしてラキをからかうマヤもまた、ラキにとってはオボンの木に集う者たちと同様に愉快な存在だった。

8.
 その木の側には、必ずと言っていいほど誰かがついていた。ラキもその一人だったが、四六時中木についているというわけにはいかない。無論、木に住まう存在があるということもそうなのだが、その木に引き寄せられるように人間やポケモンが毎日やってくるのだ。
 ある雨が降った日の翌日。ラキがこの木の元を訪れると、木の下に別の木が生えていた。前日は全くそんなものはなかったものだから、ラキは自分の目を疑った。しかし、何度まばたきをしても、目を開けるとそこには確かに木があった。背丈はちょうどラキと同じか、少し高いくらい。枝は幹の両側に一つずつと、それより細いT字型のものが木の頂上にひとつ。左右の枝の先にはそれぞれ三つずつ、緑色をした球状の葉のようなものが三つずつついていた。根も正面から見て左右に二本ずつと少ない。明らかに普通の木ではないようだった。木の根元は、カラカラに乾いていた。さすがにこのままでは、どちらの木も枯れてしまう。そう思ったラキは、持ってきたじょうろで小さな木の根元の土を湿らせた。
 その時、奇妙なことが起こった。小さな木はラキの目の前で跳ね上がり、一歩後ろに着地して元通りに立った。これでは意味がないと、もう一度、小さな木の足元に水をかける。小さな木はまた飛び上がって、今度は横っ飛びに逃げる。何度か繰り返しているうちに、どうもこれは普通じゃないぞと思ったラキは、今度は小さな木の幹に水を浴びせかけた。
 途端に、小さな木は「うっそ~!?」と声を上げて震えあがりくるりと半回転した。その幹に二つの目と一つの口を認めて、ラキはなるほどと手を打った。
「何だい。お前さん、ウソッキーかい」
 それは木ではなく、まねポケモンのウソッキーだったのだ。大方、雨宿りのためにオボンの木の下にやってきて、そのまま固まっていたのだろう。本来の木にとっては必須の水も、岩タイプのウソッキーにとっては天敵なのである。
「気付かなかったとはいえ、済まないことをした。お詫びに、実を一つもっていきな」
 ラキはオボンの木から実を一つ取って、ウソッキーの手となる部分に乗せてやった。ウソッキーは、今度は喜びに飛び上がり、おいしそうにオボンの実を齧り始めた。
「美味いだろう」
 ラキがそう言うと、すっかり木の実を食べ終えたウソッキーはうんうんと頷いて見せた。よほど口に合ったらしい。もう一つ寄越せとせがむような目でラキを見た。
「今日はこれでおしまいだ。一度にたくさん取ってしまったら、他の皆の分がなくなるからな」
 ラキは木を指差していった。正確には、木に群がって木の実を突こうとしてる鳥ポケモン達を。
「こらっ!その実を突くんじゃない!そこはまだ熟れてないんだ!食べるならこっちにしろ!……こらっ!お前はもう、一つ食べただろう!一日にひとり一つずつだ!欲張るなよ!」
 慌てて木に駆け寄るラキの背中を眺めながら、ウソッキーはくすくすと笑いをこらえるのだった。
 その後、雨が降った後には度々、このウソッキーが姿を見せるようになった。ラキが紛らわしいからやめろと言っても、大概そいつは木に化けている。なので、ラキは気づかないふりをして水を少しかけてやるのだ。来なかった時にはまあ、どこか別の場所で雨宿りに成功したということなのだろう。

9.
 その不可思議な光景は、ラキの目の前で起こった。
 ラキは今、一本の立派なオボンの木の前に立っていた。幾度となく雨風に晒され、それでもなお、今までしぶとく生き抜いてきた木だった。数分前に降った雨のおかげで、葉や実は目で見てわかる程度に濡れていた。ときどき強い風が吹いて、吹き飛ばされた雫がラキの顔にかかった。青く澄み渡る空には、視界の端から端まで大きな虹が架かっていた。その虹を潜るようにして、向こうに見える森から入道雲が生えていた。
 それだけなら、何ら気に留めることもない。よくある夏の一コマを切り取っただけの景色である。だが、その不思議なできごとは本当に、ラキの目の前で起こったのである。
 ラキの手が届きそうなところには、いくつかオボンの実が実っていた。ちょうど食べ頃の、黄色い果実である。その一つが、今にも落ちようとしている。しかし、落ちない。千切れるか否かのぎりぎりで茎にしがみついているとか、風に煽られて落ちてしまいそうだとか、鳥ポケモンに啄まれたり、虫ポケモンが齧ったりしているとか、そんな次元の話ではなかった。その実は、確かに茎から一センチほど離れていた。普通なら、重力に引っ張られて地面に落ちるはずである。しかし、落ちない。それまで理とされてきた法則を無視して、その実は浮かんでいた。
 不思議に思ったラキは、その実に手を伸ばした。しかし、その手は空を切った。ラキが掴もうとした実が、ひょいとその身を引いたのである。もう一度手を伸ばすと、今度は元いた方にひょいと逃げた。何度か手を伸ばしてみるが、そのたび実はひょいひょいとラキの手をすり抜ける。まるで、目には見えない何かが木の実を持って、ラキをからかっているかのようだった。
 とうとう諦めたラキは、両手を顔の前に挙げて首を横に振った。
「いいよ。やるよ」
 逃げ続けていた実が、少しだけラキの方に近付いたように見えた。本当に?とでも尋ねているのだろうか。
「そいつはお前にやるよ。その代わりに、しっかり味わって食べるんだ」
 ラキがそう言うと、木の実がラキにお辞儀をするように傾いた。それから木の実の頭に、何かが齧ったような跡がついた。一口、また一口。齧ってはその芳醇な味わいに酔いしれているのか、あるいは思わず口をすぼめてしまう酸味に体を震わせているのか。木の実はそれを齧る誰かの挙動を表すかのように動き続けた。苦笑しながら見つめていたラキは、もう不思議とは思わなくなっていた。
 思えば、ここに来てこの木を育て始めてから、不思議なことばかりだ。露地栽培のオボンの収穫時期は秋から冬。にもかかわらず、夏の盛りのこの時期に、この木には黄色く熟れた実がいくつも実っている。ハウス栽培なら分からなくもないが、雨風や気温に直接さらされる屋外で、こんな光景を拝める場所はほとんどないと言ってもいいのではないだろうか。
 落ちそうで落ちなかった木の実は、すっかりその形を失っていた。代わりに、木の実があった場所には長い尻尾を持つ桃色の生物がぼんやりと姿を現していた。
「どうだ?美味かったろう」
 空と同じ色の瞳を細めて、その生物は頷いた。
「俺たちが手塩にかけて育てた、世界一のオボンだからな」
 満足げに破顔して、いつかと同じようにラキは空を見上げた。
 桃色の生き物は数日に一度、その木の元に現れた。そしてそのたびに、木の実をもぎ取ってはラキを驚かせようとするのだ。そして、ラキをからかった後は決まって、そのために使った木の実をおいしそうに頬張るのだった。ただそれだけなら、ただの木の実泥棒になってしまう。だが、桃色の生き物は誰に言われずとも対価を支払った。嵐が迫った時にはバリアーを張って木を守り、鳥ポケモンが木の実を狙いに来たり、虫ポケモンが葉を齧りに来た時には持ち前の念力で撃退した。その代わりに、おなかをすかせたポケモンたちには、きのみや貯蔵してあった食べ物を少しずつ取って分け与えた。
 ラキと桃色のポケモンに守られて、オボンの木はすくすくと育った。毎年多くの実をつけたので、ラキや桃色のポケモンが食事に困るようなことはなくなった。そして、その木の元にやってくる人々やポケモンたちに、自然の恵みを分け与えた。
 後にその木は、たくさんのポケモンが集い、時には世にも珍しいポケモンが姿を現す木として知られるようになるのだが、それはまた別のお話。

























10.
 ここまでが一つの物語。
 そしてここは折り返し地点。
 マスクネームを思い出して、もう一度読んでほしい。
 向かい風を追い風に変えて、もう一度読んでほしい。

 そこにはもう一つの物語があるはずだから。

 いや。
 一つとは限らない。
 作者が意図した物語が幾つであろうと。
 読者の数だけの解釈があり。
 読者の数だけの物語がある。
 語らい、混ぜ合うことで。
 世界は無限の広がりを見せる。

 もう一つの物語を見つけるために。
 あなただけの物語を見つけるために。
 通ってきた道を振り返って。
 もう一度、この物語を読んでほしい。

 ここは一つの終着点。そして、もう一つの始まり。