立ち止まって振り返って
瀬戸田のレモン
イラスト
あつい…
暑い……
あっつ!!!!
ガバリとタオルケットを跳ね除けるように飛び起きると、バサバサバサァァァ!!!と羽毛が飛び散った。
けたたましい鳴き声の主が窓から飛び去っていくと、部屋の中は扇風機の音だけが鳴り響く静かな空間に戻る。
1羽だけ逃げ遅れた奴がいて、そいつと目があえば、よっ!と言わんばかりに片羽を広げて挨拶された。
「毎朝毎朝…私は止まり木じゃないからね!わかってる!?」
早朝からすでにうだるような暑さなのに、うっかり窓を開けて寝ようものなら、近くに住むムックル達が侵入してきてナツミのベッドを占拠していた。
そのムックル達の仄かな体温でベッドの温かさはうなぎ登りだし、あのやかましい鳴き声のおかげで目覚まし時計いらずの寝不足だし、散々な毎日である。
いやそもそも窓を閉め忘れたのが悪いのだが、そうは言ってもこの暑さじゃ仕方ない。エアコンを夜通しつけるのは苦手だし。
はぁ…と大きなため息をついて立ち上がると、大きく背伸びした。
「眠い…」
通年で邪魔しにやってくるムックルズを皆部屋の外へ追い出したことを確認すると、机の上に広げっぱなしのノートに目をやった。
寝不足の原因は、ムックルと暑さだけではない。
「はぁ…結局ノーアイディアだったな…どうしよう…」
真っ白なノートに書きたいのは、次にお店に出す新作スイーツのレシピ。
ナツミはこの町で、小さな洋菓子店を営んでいる。自分とごく数人で回すその店は、本当に小さな店だったが、ナツミにとっては大事なタカラモノで、朝から晩まで仕事のことしか考えていないくらいだった。
だが、この洋菓子激戦区の町で店を開くのは大変で、少し歩けば洋菓子屋とパン屋が見つかるくらいライバルが多い。
毎月のように新しい店は出るわ、撤退していくわで、景色は目まぐるしく変わっていく。一日たりとも気の抜けない日々の連続だった。
彼女の店では、人向けの洋菓子に加えて、ポケモン向けのお菓子も取り扱っていて、実はそちらの方が評判が良かった。
きのみブレンダーで数種類のきのみを混ぜ合わせて作るポロック。
鍋にきのみを入れてかき混ぜて作るポフィン。
ポケモンコンテストで優勝を目指すトレーナーが買っていくこともあって、お店の主力商品にまでなっている。最近きのみブレンダーやかき混ぜる装置の貸し出しも始めてみたら、こちらも評判は上々で、日によっては行列ができることもあった。
常連のトレーナーが、コンテストで優勝したと報告に来てくれたこともある。
「まぁでも私としては…人向けのケーキが売れるようになってほしい…」
そう呟くと、ぼさぼさの髪をとかしながら着替え始めた。
ポロックもポフィンもコンテスト向けに味を調整しているから、わざわざ人が買って食べようと思うものにはなってない。
だから、ポケモン用にお菓子を買うついでに、その他の洋菓子も買ってもらおうと、新作スイーツを考え始めたのである。…全力でムックルに邪魔されているけど。
お店のために何でもかんでも手を出してきたせいか、そろそろネタは尽きかけ、人目を引きそうなアイディアが浮かぶ気配もなく、正直気が滅入っているところではあった。始めた最初は良いけれど続けていくというのは大変な努力と苦労の連続なんだな…と、しみじみ痛感する。インプットがなければアプトプットなど無い、などと言っていたのはどこの誰だったか。
それでもお店を回すのに精一杯で、インプットする余裕など到底なかった。
着替えようとクローゼットを開けようとして扉に手をかけた瞬間、何かが肘にあたって、パサリと音を立てて落ちた。
お世辞にも綺麗とは言えない部屋なので、適当に置いていたノートが落ちたらしい。
それを無造作に拾おうとして、ノートからはみ出た1枚の写真に目を留めた。
「あれ…この写真…」
綺麗な青空に青々と茂った木々と黄色いきのみ。
その真ん中に、白いワンピースを着た少女とにこやかな笑みを湛える老婦が写っている。
ずいぶん昔、まだナツミが少女だった頃に撮った写真に、思わず手を止めてしまった。
「懐かしい…この頃はまだこんなに暑くなかったのよね…」
今は日中出歩くだけでもしんどいが、この頃は夏でもここまで暑いということはなく、よく外で遊んでいたことを思い出した。
目を閉じれば、脳裏にきらめくのは失われた夏の姿。
思い返すのは、当時の思い出。
今にも夏の声が聞こえてきそうで、浅くため息をついた。
「確か…親戚の叔母さん家の近くだったっけ…」
…行けるかな、行きたいな。
なんとなく懐かしさがこみ上げてきて、あの景色をもう一度見たいと思った。
ここ最近忙しかったし、頭もフル回転だったし、暑いし…いや毎年暑いけど…と様々な言い訳を思い浮かべて自分を納得させると、大きく頷いた。
「今日はお店休みだし、リフレッシュくらいしても良いよね!」
いい加減な決意を宣言すると、さっそくお出かけ用の服に着替え、バタバタと行く準備を始めた。
机の上に広げられた真っ新なノートの事なんて、すっかり忘れている。
「ラランテスー!お出かけしよー!」
身支度を整えると、外の木陰で休んでいたラランテスに声をかけた。
ナツミとは長い付き合いの相棒で、お店の方も手伝ってくれるし、新作ポロックの味見に付き合ってもらうこともある。ちょっと短気なところはあるけど基本的に良い姉御だ。
ラランテスは不満げな目線でナツミを睨みつけると、黙って立ち上がった。多分、えぇーこの暑いのにーって文句言ってる気がする。
普段あまりボールには戻さないのだが、移動のこともあるし、最高の相棒をボールに戻すと急ぎ足で自宅を出た。
なお、ただ今の気温、まだ朝にもかかわらず、30度超え。
最寄りの駅から西向きの新幹線に飛び乗ること1時間半。どこまでも続く海と、その向こうに大きな島と、そのさらに向こうに連なる島々まで繋がる橋が広がっていた。
坂の街と言われるだけあって、かなり勾配が急である。昔ながらの一軒家が立ち並び、ナツミが住む町に比べれば田舎って感じの街並みは、何年経っても何度見ても彼女の心を躍らせた。
親戚の家と目的地は、目の前に見える大きな島だ。
ここから島へは、橋か船で渡ることになっている。頑張れば泳いでも行けると思うけど。あとは水タイプのポケモンに乗るって方法もあるが、残念ながら水ポケモンは持っていなかった。
ナツミが選んだのは渡船で、うろ覚えの記憶が確かなら、市民の生活の足と言われていたと思う。1人100円。チャリは10円。所要時間は約10分だ。
海が近く、風も強いせいか、自宅付近に比べればまだ暑さに耐えられるな…と新幹線を降りて早々思った。
「ここからなら、一緒に行っても大丈夫よね。」
青空と眩しい日光に目を細めながら、ボールを投げてラランテスを外に出してやると、ラランテスも眩しそうに腕で顔を一瞬覆った。
「あはは、やっぱり草タイプでもこの日差しは眩しいか。」
思わず笑ったら、渾身のリーフブレードが振り下ろされて、慌てて身をよじって回避した。
いつもラランテスは文句がある時、ツッコミを入れたい時に、ナツミに向かってリーフブレードを繰り出す。
勿論当たらないように、際どい位置で攻撃を出してくれるのだが、容赦のない本当にギリギリなので、いつか当たるんじゃないかと冷や汗が止まらなかった。
「ごめんって!!」
両手を顔の前で合わせて謝ると、頼もしい相棒はツンとそっぽを向いて振り上げた腕をおろしてくれた。
とりあえず機嫌を直してくれようで、ほっと胸をなでおろす。
船はもうこちら側へ向かってきていたから、叔母さんに連絡する暇はなくて、あっという間に船に乗って、あっという間に対岸へ渡ってしまった。
唐突ながらも親戚のところへまず挨拶に向かえば、見る見るうちに懐かしさがこみ上げてきた。
あの古い家も、家の前に広がる庭に植えられた野菜たちも、家の裏手に広がる小さな森も、何一つ変わっていない。
いつからだったか、ここに来ることも叔母さんに会う事もなくなって、大人になってからは一度も来てないんじゃないかなと思いを馳せた。ラランテスなんかはまだ数回しか来たことなかったはずで、辺りを物珍しそうに視線を彷徨わせている。ナツミにはどこの景色を切り取っても思い出が蘇る変わらない景色だった。
唯一変わったのは…
「叔母さん、お久しぶりです。」
「あらあらナツミちゃん、いらっしゃい!ラランテスもよう来たわねぇ。」
突撃訪問だったにも関わらず、にこやかに微笑む親戚は、順当に歳を重ねた顔で迎えてくれた。
目尻にしわを寄せて笑う顔を見ると、あの頃から今日までの年月を思い起こさせる。
「連絡してくれれば迎えに行ったのに…よう場所が分かったわねぇ。」
親戚の家は、久しぶりに来たのに内装も家具もほとんど変わっていないように見えた。
それにしても、風が抜けてすごく涼しく感じる。玄関に置いてあった温度計はヤバイ値を示していたのに、体感気温はもっと低かった。
まぁじりじりと熱せられる庭を見たら、温度計が正しいことがよくわかるけど。
居間から見える景色は、記憶しているものとほとんど変わりがなくて、思わず息を呑んた。傷だらけのテーブルには綺麗に剥かれた桃が並んでいて、それが涼しさを醸し出している。
どうぞ、という叔母さんの好意をありがたく頂いて、パクリと口に頬張れば、甘い果汁と香りで心がとろけそうだった。
「叔母さん…この桃おいしいね…!」
ニッコリ顔で振り向いたら、叔母さんがそうでしょうと笑った。
「それ、貰い物なのよ。うちだけじゃ食べきれないから、ナツミちゃんが来てくれて助かったわ。」
「ラランテスも嬉しそう。叔母さん、ありがとう。」
縁側の方を見れば、庭でラランテスが桃を綺麗にカットして食べていて、そのこだわり具合でどれくらい気に入っているのかが一目瞭然だった。
すぐ裏手にモモンのみがなっているのに、この桃しか食べてないということは…あいつ相当気に入ってるな…
そう心の中で分析すると、もう1個ラランテスに桃を渡した。
家の中に大量にあるという桃は、どうやら先月の豪雨で全部出荷できなくなってしまったものらしい。そういえば、三日三晩続いたあの豪雨で大きな被害を受けたのはこの辺りではなかったか。
当時の事を何気なく聞いてみたら、叔母さんは苦笑して庭を指さした。
「うちはお庭の畑が浸水して少し断水したくらいよ。ナツミちゃんとこも酷かったでしょう、大丈夫だった?」
「あ、はい。家の前の坂道が川みたいになったくらいで、全然何ともなかったです!」
傾斜のきついアスファルトで舗装された坂道に雨水が全部なだれ込んで、ちょっとした川みたいになったところを、楽しそうにマリルが滑っていくのを見た話をしたら、叔母さんも笑っていた。
大変だったけど、その程度で済んだおかげで、今では笑い話だ。
ナツミは満足いくまで桃を平らげると、叔母さんとの世間話に花を咲かせ、いくつかお土産がわりに桃も貰い、あの頃のように口を大きく開けて笑って、束の間の休息を楽しんだ。
広い庭の土をざくざくと踏みしめながら、何度も振り返って叔母さんに手を振ると、目的地目指して思い出探しの旅を再開した。
唯一のヒントは、ナツミの記憶だけで、まだ子供の頃に通った道を、何度も記憶を手繰り寄せながら歩みを進める。
うろ覚えの記憶だけでちゃんと辿り着けるか怪しかったが、幸いなことに景色は当時とほとんど変わっておらず、迷うということはなかった。ただ、手入れされなくなった箇所も多く、それをいいことに繁殖しまくっている雑草で道が塞がっている場所はいくつかあった。この町も人が減っているという事実を突きつけられているようで、ちょっと胸が痛む。
何も言わなかったが、ナツミが歩きやすいように数歩前をラランテスが歩いて、自慢のカマで草木をバリバリ刈り取っていた。頼りになる姉御は今日も絶好調だ。
「懐かしいなぁ…、あの頃はまだラランテスと出会う前だったなぁ…」
見たことのある景色に忘れかけていた記憶が重なって見えた。
―あの日。
叔母さんの家に遊びに行った日。お気に入りのワンピースと白い帽子を被って、まだ見ぬ世界に心を躍らせながら、近くを散策しに走り回っていた。
庭の先に広がる、田んぼや畑、点在する民家をすり抜けた先にあったのが、あの写真の景色で 見渡す限りの黄色い実と輝かしい緑の葉っぱに、一目で心を奪われて立ちすくんでしまったのをよく覚えている。
畑の端っこには、切り株を椅子代わりに座るおばあさんがいて、木々の手入れと収穫はポケモン達が行っていて…何気ないありふれた景色なのに何故か目が離せなかった。
「ただその景色に驚いて何も言えなかったの。魔法にかかったみたいに言葉が消えちゃって。」
目を細めながらポツリと呟くナツミの言葉は、どこか寂しさも漂う。
草ぼうぼうになってしまった道を、ラランテスの鋭いカマが切り開いた。風があるとはいえ、刺すような日差しがナツミとラランテスの体力を容赦なく奪っていく。人も辛いがポケモンにも辛い気候に悪態をつきながら、木陰を探して休憩するたびに、過去がどんどん懐かしくなって二つの景色が重なって見えた。
ナツミは鞄から桃を取り出すと、ラランテスの方に差し出して、フッと微笑んだ。
あの時の、おばあさんと、同じように。
「おばあさんがね、私に気づくと手招きして、畑になっていた黄色いきのみを一つくれたのよ。どうぞって。」
―オボンのみと言ってね。美味しいよ。
おばあさんは、近くにいたカリキリを呼ぶと、よく熟れた実を一つ取ってくるよう、声をかけた。
カリキリから受け取ったオボンのみをナツミに差し出す表情はとても穏やかで、あたたかくて、それだけで幸せな気持ちになったのに、一口かじったオボンのみは天に昇華されそうなほど美味しくて。
思わずはにかんだナツミを見て、おばあさんがふふふ…と微笑んで、もう一つくれたのも覚えている。
「その時の美味しさが忘れられなくて、いつか私の作ったお菓子で誰かを少しでも幸せに出来ればいいなって…思ったのよね…」
そういえばすっかり忘れていた。
現実を見るようになって、現実しか見ていなくて。毎日毎日同じことの繰り返しで、何とかお店を回すことしか考えていなくて。
胸元がチクリと痛んで、鞄をぎゅっと抱きしめて黙り込んだ。家に残してきたノートの事を思い浮かべて、やるせない気持ちになる。
日陰を作ってくれている木の葉っぱがサワサワと風に揺られる音だけが、ナツミ達の周囲を覆っているのではないか、というくらい静かだった。隣にはラランテスがいるはずなのに、ナツミの事を想ってか、微動だにせず風景の一部と化している。その厚意にさらに胸が苦しくなった。
歳を重ねるごとに、色んなモノがこぼれ落ちて消えていってしまう。
それが悪いとは思わないが、こぼれ落ちないように必死に抱えていたモノまでもいつの間にかなくなっていた事に、多少なりともショックを隠せなかった。
肺の中が空っぽになるくらい大きなため息をつくと、頭を振る。
辛いことも楽しいことも全部振り返る、それが思い出と再会するということだ。大丈夫、わかっている。
沈む気分にふたをすると、立ち上がってラランテスに向かって無理やり笑顔でガッツポーズをしてみせた。
逆光になってナツミの表情はよく見えないが、ラランテスにはその立ち姿だけで十分だったらしい。ゆっくりと立ち上がると、再び先導者として歩き始めた。
もっさりした草木を本日何度目かのリーフブレードでひと薙ぎすると、空間がひらけて見事な青空が飛び込んできた。
眩しくて思わず腕で日光を遮るが、前をよく見ようと目を凝らすと、かつて見た、あのオボンの木々が目に飛び込んできた。ずらりと規則正しく並んだオボンの木は、あの時と変わらず青々とした葉っぱを茂らせ、瑞々しく輝いている。
…ただ一つ違うのは。
空席となった切り株を見つけて、ナツミはぎゅっと胸が締め付けられる思いがした。
「ねぇラランテス…、世界は変わっていくね…」
ようやく呟いた言葉は隣にいた相棒に向けたというより、自分に向けた言葉のような気がする。
ここに辿り着くまでに見た、たくさんの変わらない景色と懐かしい思い出たちと、ずっと心の隅で感じていた何とも言えない気持ちと。
色んなものを抱えて、あの時と同じ場所に立つと、広がる景色は同じだけど同じではなかった。
思い出は消えないけれど、消えないだけ。
世界はどんどん変わっていくのに、脳裏に焼き付いていた景色はあの時から全く変わらず、その乖離が大きくなるにつれ、言いようのない淋しさを覚えていた。
「…そこで何をしているんだ?」
唐突に聞き覚えのない男性の声が響いて、慌てて振り返ると、老年のよく日に焼けた男性が不審な表情でナツミの方を見ていた。
見慣れない若い女性が畑の中に勝手に入り込んでるなんて怪しいと思われても仕方がない。しかもナツミはどう見ても、畑にはいそうにない服装をしているから尚更だ。
「あっ…すみません!昔この辺りで遊んだことがあって…懐かしくてつい入ってしまったんです!!」
ペコペコ謝りながら出ていこうとしたら、男性はじろじろとナツミを見て、何か考え事をし始めた。
予想外の行動にナツミも驚いて、思わずその人の前で固まってしまう。
「…それって、いつの話?」
「えぇっと…私が子供の頃…の話です…」
実際には十数年前というか数十年前というか、歳がばれるので具体的には言いたくないが、それくらい大分昔の話で、男性も何かを察したのか深くは聞いてこなかった。
相変わらずナツミのことを凝視しているが、さっきのような不審な表情はしていない。
「…ここの畑は、ウチの母親が世話をしていたんだ。」
ポツリと呟く独り言は、過去を懐かしむような温かい声色をしていた。
あのおばあさんの息子だというこの男性は、近くでカフェを営んでいるらしい。自分の家の畑で採れたものを売ったり、料理にしたりして提供する小さなカフェで、先代だった両親から受け継いで今も細々と営業を続けているそうだ。
そのカフェのことならナツミも聞いたことがあった。ご近所さんがお喋りをしに集う場所にもなっていて、叔母さんもよく通っていたと。
「昔、ここでおばあさんからオボンのみを貰いました。あの時の優しい味が…今の私の原点なんです。」
つい先刻まで忘れていたけれど、というささやかなツッコミは胸の奥にしまっておいた。
そうか、と頷く男性は、優し気な目をしていたけど、どこか寂し気にも見えた。特に話すこともなく沈黙が流れたが、嫌な空気ではなく、ただこの時間と空間を味わっているだけの穏やかなひと時で、何故だかちょっとだけ心地よかった。過去を懐かしんでいるのは、自分だけじゃないと思ったからかもしれない。
おじさんと言うべきかおじいさんと言うべきか悩むこの男性は、畑を見つめながら口を開いた。
「…この畑は手放す予定なんだ。私たちだけじゃもう管理出来なくてね。」
「そう…ですか。」
世界は変わっていく。
ずっとこのまま続いていくのだと勝手に思っているだけで、どんどん世界は、思い出の世界と変化していく。
また一つ消えゆく現実に、寂寥感を覚えずにはいられなかった。
今もなお青々と生い茂る木々はキラキラと輝いていて、いつでもあの黄色い実を沢山つけそうな勢いだった。
ここは来年どうなっているのだろう、と頭の片隅で考えながら、最後の景色を目に焼き付けようと心のシャッターを押しまくる。
そんなナツミの様子に何を思ったのか、男性は手元にあったカードに何かを書きつけ始めた。
好きなだけ畑を見ていけば良いが、と前置きしたうえで、手にしたカードを差し出す。
「良かったら挨拶しにいってやってくれ。…それじゃあ、私は仕事があるので。」
ごうごつした手をあげて去って行く姿に、哀愁が漂っていたのは気のせいだろうか。
後ろ姿を目をぱちくりさせながら見送ると、辺りは再び夏の声しか聞こえない静かな景色に変わっていった。
受け取ったカードには、『カフェ しまなみ』と店の名前と住所が印刷されていた。恐る恐る裏面を確認すれば、ごく簡単な地図がボールペンで書かれていて、親切に現在地にマークを打ってある。
カードを回転させて自分のいる方角と合わせると、どうやらこの先に目的地はあるようだ。ゴールらしき方角には小高い山が見えている。
「…挨拶…?あぁ、そうか、そうね…」
行き先がどこかわかって、ナツミの表情がふっと和らいだ。
控えめに笑い声を上げると、カードをポケットにしまって辺りを見回す。今日は35度を超える猛暑日なのに、とても涼し気な顔でイタズラっ子のような笑みを浮かべてみせた。
「ねぇラランテス、この畑にオボンのみがなってないか探してきて。折角挨拶しに行くのに、手ぶらじゃ悪いわ。」
ピークを過ぎた山の中はとても涼しくて、風が心地よかった。背の高い木々が日光を遮ってくれているし、そこそこ踏み固められた小径は、雑草を切り開くよりは歩きやすい。時折聞こえてくるのは鳥ポケモンの鳴き声かな…なんて考える余裕すら出てくるほどで、暑さでへばっていたラランテスも元気を取り戻したのか、何だか楽しそうだ。
もう目的地は目の前で、最後の数十段の石段が待ち構えていた。
叔母さん家に一旦戻ってからここまで来たから、足腰はもうへとへとだったが、気合で一段ずつしっかりと踏みしめて登りきる。
石段の先には十数基の石の塔が立ち並ぶ空間があって、空気が少しひんやりしていた。定期的に手入れされているのか、足元は綺麗に落ち葉が掃除され、ところどころ花が添えられている。
誰もいないのに、自然と背筋が伸びた。
辺りには小さなポケモン達の住処があるようで、オタチやスボミーがチラチラ突然の来客の様子をうかがっている。それが可愛くて、でも決して驚かさないように、ラランテスと共にゆったりとした動作で先へ進んでいけば、探していた区画を見つけて、立ち止まった。
ナツミはしゃがみこむと、大事に持ってきた箱から、美味しそうなジュレを取り出して今日貰った桃と一緒に並べ始める。
ついさっき叔母さんの家で急遽作った即席の一品だったが、ナツミにとっては、とびっきりのスイーツに仕上がっていた。それは、あの畑で手に入れたオボンのみを使ったからなのか、作っている最中に走馬灯のように浮かんで消えた思い出のおかげなのかは分からないが。
夏らしく爽やかなジュレは、木漏れ日の光を反射してキラキラ輝いている。
「こんにちは、おばあさん。私、あれから洋菓子屋になったの。あの頃の思い出をいっぱい込めたスイーツ、気に入ってもらえるかしら?」
そう言いながら優しく微笑むと、両の手を合わせて静かに目を閉じた。
暑い……
あっつ!!!!
ガバリとタオルケットを跳ね除けるように飛び起きると、バサバサバサァァァ!!!と羽毛が飛び散った。
けたたましい鳴き声の主が窓から飛び去っていくと、部屋の中は扇風機の音だけが鳴り響く静かな空間に戻る。
1羽だけ逃げ遅れた奴がいて、そいつと目があえば、よっ!と言わんばかりに片羽を広げて挨拶された。
「毎朝毎朝…私は止まり木じゃないからね!わかってる!?」
早朝からすでにうだるような暑さなのに、うっかり窓を開けて寝ようものなら、近くに住むムックル達が侵入してきてナツミのベッドを占拠していた。
そのムックル達の仄かな体温でベッドの温かさはうなぎ登りだし、あのやかましい鳴き声のおかげで目覚まし時計いらずの寝不足だし、散々な毎日である。
いやそもそも窓を閉め忘れたのが悪いのだが、そうは言ってもこの暑さじゃ仕方ない。エアコンを夜通しつけるのは苦手だし。
はぁ…と大きなため息をついて立ち上がると、大きく背伸びした。
「眠い…」
通年で邪魔しにやってくるムックルズを皆部屋の外へ追い出したことを確認すると、机の上に広げっぱなしのノートに目をやった。
寝不足の原因は、ムックルと暑さだけではない。
「はぁ…結局ノーアイディアだったな…どうしよう…」
真っ白なノートに書きたいのは、次にお店に出す新作スイーツのレシピ。
ナツミはこの町で、小さな洋菓子店を営んでいる。自分とごく数人で回すその店は、本当に小さな店だったが、ナツミにとっては大事なタカラモノで、朝から晩まで仕事のことしか考えていないくらいだった。
だが、この洋菓子激戦区の町で店を開くのは大変で、少し歩けば洋菓子屋とパン屋が見つかるくらいライバルが多い。
毎月のように新しい店は出るわ、撤退していくわで、景色は目まぐるしく変わっていく。一日たりとも気の抜けない日々の連続だった。
彼女の店では、人向けの洋菓子に加えて、ポケモン向けのお菓子も取り扱っていて、実はそちらの方が評判が良かった。
きのみブレンダーで数種類のきのみを混ぜ合わせて作るポロック。
鍋にきのみを入れてかき混ぜて作るポフィン。
ポケモンコンテストで優勝を目指すトレーナーが買っていくこともあって、お店の主力商品にまでなっている。最近きのみブレンダーやかき混ぜる装置の貸し出しも始めてみたら、こちらも評判は上々で、日によっては行列ができることもあった。
常連のトレーナーが、コンテストで優勝したと報告に来てくれたこともある。
「まぁでも私としては…人向けのケーキが売れるようになってほしい…」
そう呟くと、ぼさぼさの髪をとかしながら着替え始めた。
ポロックもポフィンもコンテスト向けに味を調整しているから、わざわざ人が買って食べようと思うものにはなってない。
だから、ポケモン用にお菓子を買うついでに、その他の洋菓子も買ってもらおうと、新作スイーツを考え始めたのである。…全力でムックルに邪魔されているけど。
お店のために何でもかんでも手を出してきたせいか、そろそろネタは尽きかけ、人目を引きそうなアイディアが浮かぶ気配もなく、正直気が滅入っているところではあった。始めた最初は良いけれど続けていくというのは大変な努力と苦労の連続なんだな…と、しみじみ痛感する。インプットがなければアプトプットなど無い、などと言っていたのはどこの誰だったか。
それでもお店を回すのに精一杯で、インプットする余裕など到底なかった。
着替えようとクローゼットを開けようとして扉に手をかけた瞬間、何かが肘にあたって、パサリと音を立てて落ちた。
お世辞にも綺麗とは言えない部屋なので、適当に置いていたノートが落ちたらしい。
それを無造作に拾おうとして、ノートからはみ出た1枚の写真に目を留めた。
「あれ…この写真…」
綺麗な青空に青々と茂った木々と黄色いきのみ。
その真ん中に、白いワンピースを着た少女とにこやかな笑みを湛える老婦が写っている。
ずいぶん昔、まだナツミが少女だった頃に撮った写真に、思わず手を止めてしまった。
「懐かしい…この頃はまだこんなに暑くなかったのよね…」
今は日中出歩くだけでもしんどいが、この頃は夏でもここまで暑いということはなく、よく外で遊んでいたことを思い出した。
目を閉じれば、脳裏にきらめくのは失われた夏の姿。
思い返すのは、当時の思い出。
今にも夏の声が聞こえてきそうで、浅くため息をついた。
「確か…親戚の叔母さん家の近くだったっけ…」
…行けるかな、行きたいな。
なんとなく懐かしさがこみ上げてきて、あの景色をもう一度見たいと思った。
ここ最近忙しかったし、頭もフル回転だったし、暑いし…いや毎年暑いけど…と様々な言い訳を思い浮かべて自分を納得させると、大きく頷いた。
「今日はお店休みだし、リフレッシュくらいしても良いよね!」
いい加減な決意を宣言すると、さっそくお出かけ用の服に着替え、バタバタと行く準備を始めた。
机の上に広げられた真っ新なノートの事なんて、すっかり忘れている。
「ラランテスー!お出かけしよー!」
身支度を整えると、外の木陰で休んでいたラランテスに声をかけた。
ナツミとは長い付き合いの相棒で、お店の方も手伝ってくれるし、新作ポロックの味見に付き合ってもらうこともある。ちょっと短気なところはあるけど基本的に良い姉御だ。
ラランテスは不満げな目線でナツミを睨みつけると、黙って立ち上がった。多分、えぇーこの暑いのにーって文句言ってる気がする。
普段あまりボールには戻さないのだが、移動のこともあるし、最高の相棒をボールに戻すと急ぎ足で自宅を出た。
なお、ただ今の気温、まだ朝にもかかわらず、30度超え。
最寄りの駅から西向きの新幹線に飛び乗ること1時間半。どこまでも続く海と、その向こうに大きな島と、そのさらに向こうに連なる島々まで繋がる橋が広がっていた。
坂の街と言われるだけあって、かなり勾配が急である。昔ながらの一軒家が立ち並び、ナツミが住む町に比べれば田舎って感じの街並みは、何年経っても何度見ても彼女の心を躍らせた。
親戚の家と目的地は、目の前に見える大きな島だ。
ここから島へは、橋か船で渡ることになっている。頑張れば泳いでも行けると思うけど。あとは水タイプのポケモンに乗るって方法もあるが、残念ながら水ポケモンは持っていなかった。
ナツミが選んだのは渡船で、うろ覚えの記憶が確かなら、市民の生活の足と言われていたと思う。1人100円。チャリは10円。所要時間は約10分だ。
海が近く、風も強いせいか、自宅付近に比べればまだ暑さに耐えられるな…と新幹線を降りて早々思った。
「ここからなら、一緒に行っても大丈夫よね。」
青空と眩しい日光に目を細めながら、ボールを投げてラランテスを外に出してやると、ラランテスも眩しそうに腕で顔を一瞬覆った。
「あはは、やっぱり草タイプでもこの日差しは眩しいか。」
思わず笑ったら、渾身のリーフブレードが振り下ろされて、慌てて身をよじって回避した。
いつもラランテスは文句がある時、ツッコミを入れたい時に、ナツミに向かってリーフブレードを繰り出す。
勿論当たらないように、際どい位置で攻撃を出してくれるのだが、容赦のない本当にギリギリなので、いつか当たるんじゃないかと冷や汗が止まらなかった。
「ごめんって!!」
両手を顔の前で合わせて謝ると、頼もしい相棒はツンとそっぽを向いて振り上げた腕をおろしてくれた。
とりあえず機嫌を直してくれようで、ほっと胸をなでおろす。
船はもうこちら側へ向かってきていたから、叔母さんに連絡する暇はなくて、あっという間に船に乗って、あっという間に対岸へ渡ってしまった。
唐突ながらも親戚のところへまず挨拶に向かえば、見る見るうちに懐かしさがこみ上げてきた。
あの古い家も、家の前に広がる庭に植えられた野菜たちも、家の裏手に広がる小さな森も、何一つ変わっていない。
いつからだったか、ここに来ることも叔母さんに会う事もなくなって、大人になってからは一度も来てないんじゃないかなと思いを馳せた。ラランテスなんかはまだ数回しか来たことなかったはずで、辺りを物珍しそうに視線を彷徨わせている。ナツミにはどこの景色を切り取っても思い出が蘇る変わらない景色だった。
唯一変わったのは…
「叔母さん、お久しぶりです。」
「あらあらナツミちゃん、いらっしゃい!ラランテスもよう来たわねぇ。」
突撃訪問だったにも関わらず、にこやかに微笑む親戚は、順当に歳を重ねた顔で迎えてくれた。
目尻にしわを寄せて笑う顔を見ると、あの頃から今日までの年月を思い起こさせる。
「連絡してくれれば迎えに行ったのに…よう場所が分かったわねぇ。」
親戚の家は、久しぶりに来たのに内装も家具もほとんど変わっていないように見えた。
それにしても、風が抜けてすごく涼しく感じる。玄関に置いてあった温度計はヤバイ値を示していたのに、体感気温はもっと低かった。
まぁじりじりと熱せられる庭を見たら、温度計が正しいことがよくわかるけど。
居間から見える景色は、記憶しているものとほとんど変わりがなくて、思わず息を呑んた。傷だらけのテーブルには綺麗に剥かれた桃が並んでいて、それが涼しさを醸し出している。
どうぞ、という叔母さんの好意をありがたく頂いて、パクリと口に頬張れば、甘い果汁と香りで心がとろけそうだった。
「叔母さん…この桃おいしいね…!」
ニッコリ顔で振り向いたら、叔母さんがそうでしょうと笑った。
「それ、貰い物なのよ。うちだけじゃ食べきれないから、ナツミちゃんが来てくれて助かったわ。」
「ラランテスも嬉しそう。叔母さん、ありがとう。」
縁側の方を見れば、庭でラランテスが桃を綺麗にカットして食べていて、そのこだわり具合でどれくらい気に入っているのかが一目瞭然だった。
すぐ裏手にモモンのみがなっているのに、この桃しか食べてないということは…あいつ相当気に入ってるな…
そう心の中で分析すると、もう1個ラランテスに桃を渡した。
家の中に大量にあるという桃は、どうやら先月の豪雨で全部出荷できなくなってしまったものらしい。そういえば、三日三晩続いたあの豪雨で大きな被害を受けたのはこの辺りではなかったか。
当時の事を何気なく聞いてみたら、叔母さんは苦笑して庭を指さした。
「うちはお庭の畑が浸水して少し断水したくらいよ。ナツミちゃんとこも酷かったでしょう、大丈夫だった?」
「あ、はい。家の前の坂道が川みたいになったくらいで、全然何ともなかったです!」
傾斜のきついアスファルトで舗装された坂道に雨水が全部なだれ込んで、ちょっとした川みたいになったところを、楽しそうにマリルが滑っていくのを見た話をしたら、叔母さんも笑っていた。
大変だったけど、その程度で済んだおかげで、今では笑い話だ。
ナツミは満足いくまで桃を平らげると、叔母さんとの世間話に花を咲かせ、いくつかお土産がわりに桃も貰い、あの頃のように口を大きく開けて笑って、束の間の休息を楽しんだ。
広い庭の土をざくざくと踏みしめながら、何度も振り返って叔母さんに手を振ると、目的地目指して思い出探しの旅を再開した。
唯一のヒントは、ナツミの記憶だけで、まだ子供の頃に通った道を、何度も記憶を手繰り寄せながら歩みを進める。
うろ覚えの記憶だけでちゃんと辿り着けるか怪しかったが、幸いなことに景色は当時とほとんど変わっておらず、迷うということはなかった。ただ、手入れされなくなった箇所も多く、それをいいことに繁殖しまくっている雑草で道が塞がっている場所はいくつかあった。この町も人が減っているという事実を突きつけられているようで、ちょっと胸が痛む。
何も言わなかったが、ナツミが歩きやすいように数歩前をラランテスが歩いて、自慢のカマで草木をバリバリ刈り取っていた。頼りになる姉御は今日も絶好調だ。
「懐かしいなぁ…、あの頃はまだラランテスと出会う前だったなぁ…」
見たことのある景色に忘れかけていた記憶が重なって見えた。
―あの日。
叔母さんの家に遊びに行った日。お気に入りのワンピースと白い帽子を被って、まだ見ぬ世界に心を躍らせながら、近くを散策しに走り回っていた。
庭の先に広がる、田んぼや畑、点在する民家をすり抜けた先にあったのが、あの写真の景色で 見渡す限りの黄色い実と輝かしい緑の葉っぱに、一目で心を奪われて立ちすくんでしまったのをよく覚えている。
畑の端っこには、切り株を椅子代わりに座るおばあさんがいて、木々の手入れと収穫はポケモン達が行っていて…何気ないありふれた景色なのに何故か目が離せなかった。
「ただその景色に驚いて何も言えなかったの。魔法にかかったみたいに言葉が消えちゃって。」
目を細めながらポツリと呟くナツミの言葉は、どこか寂しさも漂う。
草ぼうぼうになってしまった道を、ラランテスの鋭いカマが切り開いた。風があるとはいえ、刺すような日差しがナツミとラランテスの体力を容赦なく奪っていく。人も辛いがポケモンにも辛い気候に悪態をつきながら、木陰を探して休憩するたびに、過去がどんどん懐かしくなって二つの景色が重なって見えた。
ナツミは鞄から桃を取り出すと、ラランテスの方に差し出して、フッと微笑んだ。
あの時の、おばあさんと、同じように。
「おばあさんがね、私に気づくと手招きして、畑になっていた黄色いきのみを一つくれたのよ。どうぞって。」
―オボンのみと言ってね。美味しいよ。
おばあさんは、近くにいたカリキリを呼ぶと、よく熟れた実を一つ取ってくるよう、声をかけた。
カリキリから受け取ったオボンのみをナツミに差し出す表情はとても穏やかで、あたたかくて、それだけで幸せな気持ちになったのに、一口かじったオボンのみは天に昇華されそうなほど美味しくて。
思わずはにかんだナツミを見て、おばあさんがふふふ…と微笑んで、もう一つくれたのも覚えている。
「その時の美味しさが忘れられなくて、いつか私の作ったお菓子で誰かを少しでも幸せに出来ればいいなって…思ったのよね…」
そういえばすっかり忘れていた。
現実を見るようになって、現実しか見ていなくて。毎日毎日同じことの繰り返しで、何とかお店を回すことしか考えていなくて。
胸元がチクリと痛んで、鞄をぎゅっと抱きしめて黙り込んだ。家に残してきたノートの事を思い浮かべて、やるせない気持ちになる。
日陰を作ってくれている木の葉っぱがサワサワと風に揺られる音だけが、ナツミ達の周囲を覆っているのではないか、というくらい静かだった。隣にはラランテスがいるはずなのに、ナツミの事を想ってか、微動だにせず風景の一部と化している。その厚意にさらに胸が苦しくなった。
歳を重ねるごとに、色んなモノがこぼれ落ちて消えていってしまう。
それが悪いとは思わないが、こぼれ落ちないように必死に抱えていたモノまでもいつの間にかなくなっていた事に、多少なりともショックを隠せなかった。
肺の中が空っぽになるくらい大きなため息をつくと、頭を振る。
辛いことも楽しいことも全部振り返る、それが思い出と再会するということだ。大丈夫、わかっている。
沈む気分にふたをすると、立ち上がってラランテスに向かって無理やり笑顔でガッツポーズをしてみせた。
逆光になってナツミの表情はよく見えないが、ラランテスにはその立ち姿だけで十分だったらしい。ゆっくりと立ち上がると、再び先導者として歩き始めた。
もっさりした草木を本日何度目かのリーフブレードでひと薙ぎすると、空間がひらけて見事な青空が飛び込んできた。
眩しくて思わず腕で日光を遮るが、前をよく見ようと目を凝らすと、かつて見た、あのオボンの木々が目に飛び込んできた。ずらりと規則正しく並んだオボンの木は、あの時と変わらず青々とした葉っぱを茂らせ、瑞々しく輝いている。
…ただ一つ違うのは。
空席となった切り株を見つけて、ナツミはぎゅっと胸が締め付けられる思いがした。
「ねぇラランテス…、世界は変わっていくね…」
ようやく呟いた言葉は隣にいた相棒に向けたというより、自分に向けた言葉のような気がする。
ここに辿り着くまでに見た、たくさんの変わらない景色と懐かしい思い出たちと、ずっと心の隅で感じていた何とも言えない気持ちと。
色んなものを抱えて、あの時と同じ場所に立つと、広がる景色は同じだけど同じではなかった。
思い出は消えないけれど、消えないだけ。
世界はどんどん変わっていくのに、脳裏に焼き付いていた景色はあの時から全く変わらず、その乖離が大きくなるにつれ、言いようのない淋しさを覚えていた。
「…そこで何をしているんだ?」
唐突に聞き覚えのない男性の声が響いて、慌てて振り返ると、老年のよく日に焼けた男性が不審な表情でナツミの方を見ていた。
見慣れない若い女性が畑の中に勝手に入り込んでるなんて怪しいと思われても仕方がない。しかもナツミはどう見ても、畑にはいそうにない服装をしているから尚更だ。
「あっ…すみません!昔この辺りで遊んだことがあって…懐かしくてつい入ってしまったんです!!」
ペコペコ謝りながら出ていこうとしたら、男性はじろじろとナツミを見て、何か考え事をし始めた。
予想外の行動にナツミも驚いて、思わずその人の前で固まってしまう。
「…それって、いつの話?」
「えぇっと…私が子供の頃…の話です…」
実際には十数年前というか数十年前というか、歳がばれるので具体的には言いたくないが、それくらい大分昔の話で、男性も何かを察したのか深くは聞いてこなかった。
相変わらずナツミのことを凝視しているが、さっきのような不審な表情はしていない。
「…ここの畑は、ウチの母親が世話をしていたんだ。」
ポツリと呟く独り言は、過去を懐かしむような温かい声色をしていた。
あのおばあさんの息子だというこの男性は、近くでカフェを営んでいるらしい。自分の家の畑で採れたものを売ったり、料理にしたりして提供する小さなカフェで、先代だった両親から受け継いで今も細々と営業を続けているそうだ。
そのカフェのことならナツミも聞いたことがあった。ご近所さんがお喋りをしに集う場所にもなっていて、叔母さんもよく通っていたと。
「昔、ここでおばあさんからオボンのみを貰いました。あの時の優しい味が…今の私の原点なんです。」
つい先刻まで忘れていたけれど、というささやかなツッコミは胸の奥にしまっておいた。
そうか、と頷く男性は、優し気な目をしていたけど、どこか寂し気にも見えた。特に話すこともなく沈黙が流れたが、嫌な空気ではなく、ただこの時間と空間を味わっているだけの穏やかなひと時で、何故だかちょっとだけ心地よかった。過去を懐かしんでいるのは、自分だけじゃないと思ったからかもしれない。
おじさんと言うべきかおじいさんと言うべきか悩むこの男性は、畑を見つめながら口を開いた。
「…この畑は手放す予定なんだ。私たちだけじゃもう管理出来なくてね。」
「そう…ですか。」
世界は変わっていく。
ずっとこのまま続いていくのだと勝手に思っているだけで、どんどん世界は、思い出の世界と変化していく。
また一つ消えゆく現実に、寂寥感を覚えずにはいられなかった。
今もなお青々と生い茂る木々はキラキラと輝いていて、いつでもあの黄色い実を沢山つけそうな勢いだった。
ここは来年どうなっているのだろう、と頭の片隅で考えながら、最後の景色を目に焼き付けようと心のシャッターを押しまくる。
そんなナツミの様子に何を思ったのか、男性は手元にあったカードに何かを書きつけ始めた。
好きなだけ畑を見ていけば良いが、と前置きしたうえで、手にしたカードを差し出す。
「良かったら挨拶しにいってやってくれ。…それじゃあ、私は仕事があるので。」
ごうごつした手をあげて去って行く姿に、哀愁が漂っていたのは気のせいだろうか。
後ろ姿を目をぱちくりさせながら見送ると、辺りは再び夏の声しか聞こえない静かな景色に変わっていった。
受け取ったカードには、『カフェ しまなみ』と店の名前と住所が印刷されていた。恐る恐る裏面を確認すれば、ごく簡単な地図がボールペンで書かれていて、親切に現在地にマークを打ってある。
カードを回転させて自分のいる方角と合わせると、どうやらこの先に目的地はあるようだ。ゴールらしき方角には小高い山が見えている。
「…挨拶…?あぁ、そうか、そうね…」
行き先がどこかわかって、ナツミの表情がふっと和らいだ。
控えめに笑い声を上げると、カードをポケットにしまって辺りを見回す。今日は35度を超える猛暑日なのに、とても涼し気な顔でイタズラっ子のような笑みを浮かべてみせた。
「ねぇラランテス、この畑にオボンのみがなってないか探してきて。折角挨拶しに行くのに、手ぶらじゃ悪いわ。」
ピークを過ぎた山の中はとても涼しくて、風が心地よかった。背の高い木々が日光を遮ってくれているし、そこそこ踏み固められた小径は、雑草を切り開くよりは歩きやすい。時折聞こえてくるのは鳥ポケモンの鳴き声かな…なんて考える余裕すら出てくるほどで、暑さでへばっていたラランテスも元気を取り戻したのか、何だか楽しそうだ。
もう目的地は目の前で、最後の数十段の石段が待ち構えていた。
叔母さん家に一旦戻ってからここまで来たから、足腰はもうへとへとだったが、気合で一段ずつしっかりと踏みしめて登りきる。
石段の先には十数基の石の塔が立ち並ぶ空間があって、空気が少しひんやりしていた。定期的に手入れされているのか、足元は綺麗に落ち葉が掃除され、ところどころ花が添えられている。
誰もいないのに、自然と背筋が伸びた。
辺りには小さなポケモン達の住処があるようで、オタチやスボミーがチラチラ突然の来客の様子をうかがっている。それが可愛くて、でも決して驚かさないように、ラランテスと共にゆったりとした動作で先へ進んでいけば、探していた区画を見つけて、立ち止まった。
ナツミはしゃがみこむと、大事に持ってきた箱から、美味しそうなジュレを取り出して今日貰った桃と一緒に並べ始める。
ついさっき叔母さんの家で急遽作った即席の一品だったが、ナツミにとっては、とびっきりのスイーツに仕上がっていた。それは、あの畑で手に入れたオボンのみを使ったからなのか、作っている最中に走馬灯のように浮かんで消えた思い出のおかげなのかは分からないが。
夏らしく爽やかなジュレは、木漏れ日の光を反射してキラキラ輝いている。
「こんにちは、おばあさん。私、あれから洋菓子屋になったの。あの頃の思い出をいっぱい込めたスイーツ、気に入ってもらえるかしら?」
そう言いながら優しく微笑むと、両の手を合わせて静かに目を閉じた。