Take to the Future

デスマスのデスマスク
「波音」「マスク」「神経衰弱」
編集済み
 巨大企業コーダイ・ネットワークの代表取締役、グリングス・コーダイ社長が逮捕された。
 この第一報を受けて、世界は混乱を極めた。様々な業界に技術革新を起こしてきた立役者の逮捕は、まさに寝耳に水の出来事だった。と同時に、彼と会社はあっという間に非難の対象に晒された。
 コーダイが世界に与えた影響は、社会的にも物理的にも大きかった。

 一連のニュースは夜の賑やかな繁華街にも流れる。
 居酒屋のカウンターテーブルにデスマスと並んで座る呑んだくれの男は、頬杖をついて揃ってテレビを見上げていた。
 ちょうど特集のタイトルが流れる。『コーダイ・ネットワーク社の闇に迫る!』
「なにが闇だ、くだらねぇ」男は吐き捨てるように言った。「資源を利用することの何が悪い。利益への飽くなき欲望こそが、いつだって世界を動かしてきただろうが」
「です!」
 テレビに意気がる男とデスマスを見て、店の女主人がくすくすと笑った。
「言ってることは最低だけど、ポケモンと仲が良いのは良いこったよ」
「バカ言え、最低なのはセレビィだ。『時の波紋』なんて物騒な爆弾を置き去りにするから、こうして人間が親切に回収して、あまつさえ有効利用してやったんじゃねえか」
「未来を知るために、クラウンシティから住民を追い出して、『時の波紋』を盗んだんじゃなかったっけ?」
「……そういう解釈もある」
 酒を呑んでごまかす男に、女主人はやれやれと肩をすくめた。
「だが、俺はやっぱり気に喰わねぇ。今まで恩恵を大いに受けてきた連中が、問題が起こった途端に、やれ自然やポケモンを利用する人間が悪いだの何だの。社長は確かに手段を間違えたが、俺の研究成果を待っていればこんな事にはならなかっただろうよ」
「でも、テレビの先生だってああ言ってるからねぇ」
 女主人の見上げた先、テレビで偉そうにふんぞり返ったコメンテーター(あくまで男主観)が語っている。
『コーダイ氏がやった事は、セレビィに対する残虐な蹂躙行為です。しかし、責任の一端は進歩し過ぎたテクノロジーにもあります。古文解読のアルゴリズムが無ければ、コーダイのような邪悪な人間に、『時の波紋』を記した古文書は解読できなかった。素材産業の発達がなければ、『時の波紋』を吸収する装置は生まれなかった。今一度、我々はテクノロジーの発展を止めて、ポケモンや自然と向き合う心を養うための時間を作るべきではないでしょうか』
「です!」
 テレビに合わせて鳴くデスマスを横目で見やり、男は苦く言った。
「お前どっちの味方なんだ?」
「でーす?」
「ははは! ポケモンはポケモン、誰の味方でもないってことさね」
 女主人は豪快に笑いながら、他の客から飛んできた注文を書き留めた。
 なにがポケモンはポケモンだ。こいつは何も考えちゃいない、だから俺の味方なんだ。
 そんな言葉を、酒と一緒に呑み込んだ。能天気な顔をしているデスマスの頭に手を乗せて。

 TRRRRR!

 そろそろ会計を済ませようと思った矢先、ジャケットの内ポケットからの着信音が頭に響く。とたんに、男の顔がご機嫌になった。
「俺の意識に侵入を試みているのは誰だ?」
 明るく若い女の声が言った。
『私です。先日のUB事件でご一緒した、ポケモンGメンのアオバです』
 上がりかけた男の腰が、また深く座った。
「あぁ君か」口角がゆるりと綻んだ。「ひょっとして食事の誘いかな?」
『違います。ちょっとした問題が起きまして、博士の力をお借りしたいんです』
 困った問題が起きたんだとさ、どうする?
 ちらりとデスマスに視線を傾ける。パートナーは疑問符を浮かべて首を傾げたが、よく分からないままコクコクと頷いた。
「愛しい君のためなら何でも」
『……前も言ったはずですけど、私ポケモンですよ』
 返ってきた声音から、苦笑いが容易に浮かんだ。



 A DAY LATER

 ヤマブキシティ
 ポケモンGメン司令本部棟
 作戦会議室

 ケルヴィンが到着した時、他の参加者たちは既に集まっていた。
 会議に緊張感を持たせるため、部屋はやや寒く、一切の窓もなく、照明も暗めに抑えられていた。真ん中には大きな円卓が占めて、各席にホログラムの情報端末が用意してある。
 デスマスを頭に乗せて、ケルヴィンは女性の隣に座った。今日は綺麗な白衣を着て、髪型もバッチリ整っている。
 隣の女性の名前はアオバ。紺色の制服を着ていて、白いベレー帽をかぶり、セミロングの流れるような茶髪が美しい。やや控えめなクリッと丸みのある目がこれまた魅力的な女性である。
 だが、すべては不確実な未来同様、幻想なのだ。

「ちょっとした問題だって?」
 ケルヴィンが悪戯っぽく囁くと、アオバも茶目っ気たっぷりに舌をペロリと出した。
「すみません、でも貴方の会社に関わる話だと言ったら来てくれました?」
「元・俺の会社だ」議題を察したケルヴィンは、深くため息を吐いた。「コーダイが逮捕されてクビになった。家も財産も何もかも持っていかれて、残ったのはこの天才的な頭脳だけ」
「でーす!」
 怒ったデスマスに叩かれて、ケルヴィンはうんざりした様子で頭の相棒を指し示した。
「それからコイツも」
「あら、素敵じゃないですか?」アオバは微笑んで言った。「すべてを失った人間とポケモン、新たな物語が始まりそう」
「それはぜひ君と一緒に始めたいね、できれば今夜から」
 くすくす、アオバは戯言を笑って受け流した。

 老齢の男性、フランクリン司令官のしわがれた声が話し始めると、辺りが静まり返った。
「つい先日、グリングス・コーダイと我々は司法取引を交わした。彼の減刑と引きかえに、未発見の巨大資源に関する情報との交換条件だ」
 ケルヴィンは司令官を見つめて目を細めた。
 冷えているにも関わらず汗を流している、呼吸も短くて浅い。明らかに緊張しているが、それは人前で話しているせいではないだろう。
「コーダイは未来視の力を手に入れるため、クラウンシティの『時の波紋』を狙って凶行に及んだ。しかし、それ以外にも『時の波紋』の発生ポイントがあると言う」集まったメンバーの手前にホログラムのモニターが浮かび、世界地図に赤い点で問題の箇所が示されるなか、フランクリンは続けた。「当初コーダイはそっちを狙っていたが、リスクがあまりに大きく、計画を断念したらしい」
 なるほど、という事はあの場所か。推察を終えたケルヴィンの視線は、世界地図のある一点に留まっていた。
 フランクリンは水を含んでから、さらに続けた。
「間の悪いことに、フリーの記者たちが『時の波紋』に関する会社の機密情報を全世界にリークしてしまった。幸い場所までは特定されていないが、発見されるのも時間の問題だろう」
 ケルヴィンは唐突に口を挟んだ。
「本来、『時の波紋』はセレビィの緊急用エネルギー源だ。時渡りと共に発生し、すぐに自然消滅する。だが一定規模を超えると安定力を増し、空間に定着する。人体が波紋に触れると未来視の力を得られる反面、時間エネルギーの極性が反転して、周辺の環境に甚大な被害を及ぼす副作用が確認されている」
「今回ばかりはセレビィに気を使う余裕がない」フランクリンは肩を落としながら言った。「局所集中的に繰り返される時渡りの影響で、大規模な『時の波紋』が眠っていることが分かった。存在が露呈した以上、ロケット団など名だたる組織が必ず狙ってくる。したがって固定化した『時の波紋』に限り、Gメンで対処することにした」
 真っ先にアオバの手が挙がった。
「被害の規模はどの程度?」
「かつてクラウンシティでは、半径10km圏内の自然環境が吹き飛んだ。今回はその10倍以上と見ている」
 辺りがしんと静まり返った。
 想像を絶する威力を耳にしても、どこか絵空事のようで、実感がまったく湧いてこない。目元を曇らせ、アオバも顔を背ける。
 一方のフランクリンは、語気を強めて続けた。
「そこで、コーダイ・ネットワーク社で『時の波紋』の研究にあたっていたケルヴィン博士をチームに迎えることにした。彼の協力のもと、『時の波紋』回収ミッションに取りかかる。何か質問は?」
 ためらいがちだが、再び手を挙げたのは、アオバだった。
「問題の場所はどこなんですか?」
 フランクリンは視線だけ手元の世界地図に落として答えた。
「セレビィの時渡りが集中するポイント……ジョウト地方、ハテノの森だ」





 4 DAYS LATER

 アローラ地方
 アーカラ島

 いくら冷房の効いたバスの中とはいえ、カラッと晴れた青空をひどく疎ましく思っていた。寝不足で疲れているのに、太陽はギラギラ眩しくて。バスは舗装された道を通っているはずなのに、揺れは激しくなるばかり。
 アオバの横に座れた事を足し引きすると、まあまあプラスと言えなくもない……彼女の機嫌が良ければの話だが。

 抱えるボストンバッグの中でスヤスヤ眠るデスマスの寝顔を眺めて、ケルヴィンは呆れがちにチャックを締めた。
「まだ着かないのか?」
「えぇ」
 アオバは窓の外を見つめたまま素っ気なく返した。
 気まずい。このまま沈黙を続けると、先のことが大いに思いやられる。ケルヴィンは負けじと食い下がった。
「知ってるか? アローラ地方ではマラサダが名物らしい」
「私は結構」
「そうか……ディナーは?」
「行きません」
「飢え死にする気か?」
「ホテルでポケモンフーズを齧ってます」
「うえー。あんなの乾パンみたいなもんだ」
 ボストンバッグからニュッと黒い手が出てきて、何かを所望するように待っている。
 ケルヴィンは見下ろして、訝しげに首を横に振った。
「卑しい死人め、持ってきた分はさっき全部食べただろ」
「です……」
 悲しい鳴き声と共に、しょんぼりと手が引っ込んだ。

「いい加減に機嫌を直せ」ケルヴィンは顔を上げて言った。「『時の波紋』を活用することの何が悪い? フランクリン司令官もノリノリじゃないか。人類とポケモン、みんなにとって大きな利益になる」
「たとえば?」アオバは振り向かないまま冷たく言った。
「たとえば、あー……未来視の力があれば、二度と神経衰弱で神経を衰弱しなくて済む」
「私は本気です」
「良かった、俺もだよ。誰だって神経の健康は大切だ」
「そうじゃなくて!」
 思わず声を荒げてしまい、アオバはすぐに口を塞いだ。周りの乗客がジロジロと見てくるなか、ケルヴィンは眉根を寄せて言った。
「痴話喧嘩中だ、見ないでくれ」
 視線は一気に逸れていった。
「……不安なんです」アオバは小さい肩と細い声を震わせる。「アルトマーレを怪盗姉妹が襲った時も同じでした。彼女たちは、アルトマーレに眠る古代兵器を操ろうとした。その傲慢さの代償を払ったのは、当の人間ではなく……私の従兄弟でした」
 流れる街の景色を瞳に宿す。目の前の街を映しながら、見ているのはどこか遠い場所。
 アオバは、そっと瞼を下ろした。

 気まずい空気のままバスを乗り継いで、ようやく空間研究所に到着した。
 玄関で研究員たちから歓迎を受けて、そのまま奥へと案内される。広くとも雑然とした研究室で、バーネット博士が満面の笑顔で出迎えてくれた。
「よく来てくれたね、ケルヴィン博士!」
「お久しぶりです、バーネット博士」
 さっそく握手を交わして、互いの近況を語り合った。コーダイ・ネットワークが潰れて失業していたところ、運良くポケモンGメンに拾われたこと。最近のアローラでは不規則にウルトラホールの出現が観測されていること。話題は次から次へと湧いてくる。

 置いてけぼりのアオバが不機嫌そうに咳払いをしてから、ようやく本題に移った。
「『時の波紋』はわずかに重力の歪みを帯びているから、その規模を測定できれば、『時の波紋』がどの程度の大きさかが分かる」ケルヴィンはグラフや数値が絶えず動き続ける大きなスクリーンを見上げて言った。「空間研究所の多層空間センサーアレイなら、特定の重力異常を探知できるはずだ」
「そのためには重力波の周波数が必要だよ」バーネットはパッドを操作しながら言った。「送ってもらったサンプルデータを分析してみたんだが、どうしてもお目当ての重力異常が見つからないんだ」
「グレイスランド博士の時空変調モデルは試してみたか?」
「先月公表されたゼロの修正モデルを使ってる。精度はこっちの方が高いからね」
「おおっと、獄中の弟子に出し抜かれてちゃあ世話ないな……俺がやってみよう。誰か研究員を一人貸してくれるか?」
「いいよ。ハミルトン君、ちょっと手伝ってくれない?」
 何でしょう、と男性研究員が振り返った。
 瞬間。
 突如、のっぺりとした土器のようなマスクが飛んできて、研究員の顔にカッポリと張り付いた。一同が呆気にとられるなか、最初は悲鳴を挙げて必死に仮面を取ろうとしていた研究員が、徐々におとなしくなっていった。
 ケルヴィンは肩のデスマスの顎をくすぐり、ニンマリと笑った。
「久々の憑依だが、腕は衰えてないな」
「ちょっと!?」バーネットは大口を開けて叫んだ。「貸してってそういう意味!?」
「大丈夫です」マスクをつけた研究員は礼儀正しく落ち着いた声で言った。「ハミルトンさんに危険はありません。ケルヴィン博士と僕の非礼の数々、どうかお許しください。作業が終わり次第すぐに体をお返し致しますので」
 ぽかんと口を開けたままのバーネットの前を過ぎて、マスクの研究員はケルヴィンと並んでコンソールに向かった。

 コンソールを操作するケルヴィンは、やや表情をしかめて言った。
「おそらく時間の干渉波に阻まれてスキャンが届いていないんだろう、ノイズの影響を除去できるか?」
「やってみます」
 バーネットとアオバが見守るなか、黙々と数式を入力する作業が続く。
 やがて彼女たちが暇を持て余してお喋りを始めると、マスクの研究員がさりげなく尋ねた。
「アオバさんと仲直りしないんですか?」
 ケルヴィンは更に顔をしかめて、鼻を鳴らした。
「あいつ、器量は良いが頭はバカだ。恐怖は無知から生まれるが、肝心の事実に目を向けず、知識に耳を傾けようともしない。『時の波紋』は管理可能だ。セレビィだってできる事が、科学にできないはずがない」
「そうかもしれません。でも、それならどうして彼女に惹かれているんですか?」
「言っただろ、見た目が良いからだ」
「それが偽りだと分かっているのに?」
「お前、人間に憑依するといつも無駄口ばかりだな」
「いけませんか?」
 キーボードを叩いていたケルヴィンの手が、一瞬止まった。
「……いや、お前との会話が俺のアドレナリンを高めてくれる。良いぞ、もっと話して俺をイラつかせろ」
「はい、博士」
 仮面では表情を作れないかわりに、肩のデスマスがにっこりと微笑んだ。
「ノイズの影響を除去しました」
「ようし、スキャン完了。データが来たぞ」
 モニターを眺めながら、どんなもんだ、ケルヴィンは勝ち誇った笑みを浮かべたが、すぐに顔つきが曇った。
「妙だな……ハテノの森には小さな重力の歪みしか生じていないぞ、俺たちが思ったより大きくなかったってことか?」
 マスクの研究員も首を傾けている。
「もしかして、亜空間ポケットが発生しているのではないでしょうか」
「非常に稀だが可能性はあるな……調整しろ、再スキャンだ」

 カタカタカタ。
 リズミカルな音を立ててキーボードを打つ作業が続く。傍ら、マスクの研究員は話を続けた。
「博士、やっぱり貴方は不幸だ。しかも望んでそうなっている」
「ひどいな、俺でも傷つくことはあるんだぞ」
「心配なんです。貴方は会社から追い出され、世間からも弾き出された。関係を断ち切られてしまった人間の末路は、よく知っていますから」
 誰のことを言っているのか。ケルヴィンは目を細めた。
「……俺にはお前さえいてくれれば、それで良い」
「それじゃ不十分なんです。僕は常に貴方の味方だ、そして貴方には幸せな人生を歩んで欲しい」

 ピピ。
 言い返そうと口を開いたとたん、電子音が作業の完了を知らせてきた。
「ようやくスキャンでき……」
 やれやれ、やっとか。ケルヴィンは肩をすくめながら言いかけたところで、言葉を失った。マスクの研究員も、バーネットもアオバも、それどころか研究員たちも揃って。
 彼らの視線が集う先。大型スクリーンに映るデータは、信じられない事実を示していた。
「バカな……」ケルヴィンから力のない言葉が漏れる。「これほどの密度と規模が、本当にあり得るのか?」
「でも事実だ」バーネットもおそるおそる言った。「これほどの歪みを、ポケモンたちは、セレビィは気づいていないのかい?」
 アオバは一歩前に出て言った。
「気づいています。ただ彼らは、時間エネルギーに満ち溢れた森としか捉えていません。セレビィには悪いけど、彼らの楽園は危険過ぎます」
 言いつつ、彼女は放心するケルヴィンに目をやった。
 これでもまだ、『時の波紋』を利用しようと思いますか? そう問うているようだった。
「無理だな」ケルヴィンは小さく首を横に振った。「これだけ膨大な時間エネルギーは、仮に保存できたとしても今の技術水準では安定させられない。あっという間に崩壊して、時間爆発が起こるだろう」
「あいにく、そうなりそうです」
 アオバは震えっぱなしの携帯端末を見つめて、険しい顔を浮かべながら言った。
「ハテノの森に向けて、ロケット団が動き出しました」




 2 DAYS LATER

 ジョウト地方
 ハテノの森

 晴れ渡る空、澄んだ空気、爽やかな風、そして飛び交う破壊光線。
 巨大な大樹海に囲まれた透明な湖、その水面が揺れている。遠くの空でパチパチと花火が弾けて、小さな地響きが聞こえてくる。
 久しく争いに無縁だったポケモンたちは即座に身を隠し、その嵐が過ぎ去るのをひたすら待っている。
『敵が西側に戦力を集中させている! 第三と第四の部隊は合流し、戦略座標22-03で食い止めろ!』
『ロケット団の陣営に伝説のポケモン、サンダー、ファイヤー、フリーザーの姿を目視で確認しました! 至急応援を要請します!』
『ポケモンGメン総員に告ぐ! 決してロケット団を通すな、ここが最終防衛ラインだ!』
 飛び交う通信が、前線で繰り広げられる壮絶な戦いを物語っていた。 

 遠く空の彼方から、赤い翼の白い竜が猛スピードで飛来する。背中にまたがる人間は、振り落とされまいと首にしがみつくので精一杯。3時間ものフライトを経て、ようやく湖の畔に着陸すると、ケルヴィンはヨロヨロと地面に倒れ込んだ。
 アオバは人の形に変化して、水々しい音を立てる彼の背中をさすりながら、苦笑いを浮かべた。
「大丈夫ですか?」
「も、もちろんだとも。GSボールは世界で唯一、時間エネルギーを格納できるボールだ」ケルヴィンはゼェゼェ息を切らしながら、的外れなことを説明する。「ゴーディの時空調和方程式を使って、膨大な時間エネルギーを圧縮保存する」
「保存ですって?」
 眉をひそめるアオバに、ケルヴィンは振り返って弱々しい笑みを見せた。
「心配するな、0.1秒後には極性が反転して崩壊が始まる。爆発する前に、反転世界のガスを注入して時間エネルギーを中和すれば、世界は安泰だ。もうロケット団も手は出せない」
「です!」
 ぴょん! 金と銀に色分けされたモンスターボールを抱え、デスマスが彼の懐から飛び出して、心強く鳴いた。
 もちろん成功を疑っている訳ではない。だが、アオバにはどうしても分からないことがあった。
「どうして、考えを変えたんですか?」
「それを今聞くのか?」
 デスマスからボールを受け取り、改造して取り付けた背面のパネルを操作しながら言った。
「科学のフロンティアには、超えてはならない一線がある。今回はそれがここだった。『時の波紋』の力が明るみに出た以上、第二・第三のコーダイを出さないことが最優先だ」
 ぐちぐちといじけた素振りを見せながら、いかにも不本意らしさをアピールする。だが、彼の本意が別のところにあることは、アオバには何となく察しがついていた。
 自然と顔が綻び、気づけば優しい言葉が出ていた。
「ありがとう」
「礼なら終わってからにしろ、失敗して暴発し、世界が蒸発する未来もあり得る」
「科学や未来のことは分かりませんが、私は貴方のことを信じます」
 ああ痒い。他人の信頼は、なんてむず痒いんだ。ケルヴィンは意固地になって背を向けたまま、己の作業に没頭した。
 その間、デスマスは事前の打ち合わせ通りに湖の空へ《妖しい風》を送る。黒い霧の混じった風が、不自然な流れを形成していたら、そこに重力の歪みがあるはずだ。
 アオバは空を仰ぎながら尋ねた。
「ディナーは決めているの?」
 ケルヴィンは人知れず口角を上げて答えた。
「今夜はカロス地方のバトルシャトーという城で、マスクを着けてバトルをする仮面舞踏会が開かれるんだ。穏やかな波音に耳を澄ましながらディナーもできるし、暇ならトランプで神経衰弱もできる。ちょっと遠いが、君とならひとっ飛びで行けるだろ?」
「……欲張りね」
「それが俺だ」
 笑みを漏らしながら、それはアオバの目に留まった。不自然に《妖しい風》が歪んでいるポイントを指差して叫んだ。
「見つけた、あそこ!」
 ちょうどボールの調整も終わったところだ。ケルヴィンはボールを固く握り締めて立ち上がり、湖の真上に位置する歪みを睨みつけた。
 準備はいいか、視線でアオバとデスマスに合図を送る。頷く彼女らの返事を受けて、ケルヴィンは声を張った。
「いくぞ!!」

 大きく振りかぶって、金と銀のGSボールを投げた!
 運動不足のせいで大した飛距離はない。だが、デスマスが《妖しい風》の流れを変えて、歪みに向かうようにサポートする。加えてアオバの目が青く輝き、《サイコキネシス》でボールの位置を微調整する。
 そうして放り上げられたボールは、見事に歪みの中心に届いた。
 瞬間、凄まじい音と光が辺りに溢れかえった。まるで森の悲鳴のようだった。今まで隠れていた『時の波紋』が、大樹海を覆い尽くすほどの巨大な正体を現した。
 アオバは両耳を押さえながら叫んだ。
「どうなってるの!?」
「これでいい! GSボールが、『時の波紋』を吸収しているんだ!」
 なんとか薄眼を開けて、ケルヴィンはパッドの情報に目を通す。数値はどんどん下がっている。
 結果はすぐに現れた。あれだけ激しかった音と光の嵐が、ある瞬間を境にピタリと止まった。畔には太陽光を浴びてキラリと輝くボールが転がっている。
 ケルヴィンはパッドを放り捨てて、興奮気味にボールに飛びついた。ボールに収まったこの爆弾を、おとなしい今のうちに中和しなければ。
 だが、ボールのパネルが示す数値を見て、ケルヴィンは目を見張った。
「時間エネルギーが、安定している……」まるで神を目撃したかのように、溢れ出る喜びと興奮と混乱で、こらえきれずに破顔した。「ゴーディの時空調和方程式だけじゃない、これは……違う、もっと別の何かだ! あれほど巨大で複雑で、不安定だったエネルギーが、こんな……完璧に調和している! こんな事があり得るのか!? 小さなボールの中で、一体何が起きている!?」
 ふと、頭にある考えがよぎった。同時に瞳がエメラルドの輝きに染まる。
 これはもう中和する必要がないのではないか。今ここで起きている奇跡を解明する事ができれば、今まで知ることのなかった時間の世界の謎が明らかになるだろう。科学や文明の大いなる発展に役立つのみならず、新たな科学のフロンティアを開拓できるはずだ。研究は学会に認められ、人々の脚光を浴び、人類の歴史にその名を刻むことだろう。
 科学者として最高の名誉を得られる未来が、今この手の中にあるのだ。

「です!」

 そんな淡い未来をかき消すように、デスマスの黒い手が包み込むようにケルヴィンの手に重なった。
 ハッと我に返り、ケルヴィンは咄嗟に懐から黒い気体の充満するカプセルを取り出して、ボールに装着した。すぐに先ほどの未来は視えなくなっていた。
 これですべてが終わった。ゆっくりと立ち上がり、肩を回して大きく伸びをする。
 呆けた顔をしているアオバに振り返り、ケルヴィンはしたり顔を見せて手を差し伸べた。
「なんて顔してるんだ、今さらデートが嫌になったなんて言うなよ」

 穏やかな風、優しい波音。遠くの戦いも止んで、鳥ポケモンの鳴き声も聞こえる。森は普段の静けさを取り戻していた。大樹の窪みからセレビィがひょっこりと顔を出して、何事かが終わったことを悟った。
 森は何かが変わっただろうか。息を吸い、匂いを嗅ぎ、耳を澄まして確かめる。いや、ほとんど何も変わっていない。
 セレビィは喜び勇んで隠れ家を飛び出して、森の中の空間を優雅に泳いでいった。他のポケモンたちに、嵐が去ったことを告げるために。