No rain, no rainbow.
三河屋
イラスト
編集済み
僕は君のようにはなれない。
そんなことならずっと昔から分かっていた、分かりきっていた。
なぜならば、僕は誰よりも臆病者だから。君のように、自ら喜び勇んで世界に踏み込むなんて考えたこともなかったし、そもそも望んでいなかった。
見知らぬものはいつだって怖い。だったら知っているものだけで、見慣れたものだけで満たされた環境でこの先も生きていくのが、僕にとって当然の幸せってやつなんじゃないか。そんな風に思いながら、これまでの日々を過ごしてきたんだ。
……もしも、ここで君が僕の話を聞いていたなら、今頃笑い飛ばしていたかもしれない。
君は快活で、恐れを知らない人だったね。幼馴染の僕には、正直そんな君がとても眩しく見えていた。怖がりで、臆病な僕を何度でも引っ張ってくれる君の存在自体、僕にとっては輝かしい誇りだったんだ。
最も、この思いも君にとっては大袈裟すぎると呆れられたかもしれない。
それでも、君は昔のようにしょうがないなあ、と言いながら僕の手を取って。きっとまた、どこかへ遊びに連れだしてくれたんじゃないかな、って性懲りもなく想像してしまう。
なあ、笑えるだろう?
笑っておくれよ。こうやって、未だ都合の良い夢に縋ろうとしている僕を。
君が相手ならば、僕はどれだけ笑われたってちっとも痛くないから。頼むよ。ねえ、どうして。返事すらしてくれないの。
――どれだけ待っても、君の温かな笑い声はもう、聞こえない。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▽
目の前には、夕刻の太陽に照らされて黄金色に輝く海がどこまでも広がっている。
僕と君が、幼い頃から何度も一緒に遊んだ思い出の場所でもあるここは、僕の周囲に限り不思議と静けさに満ちていた。目を凝らせば、波打ち際ではしゃぐ人々やポケモンの姿もぽつぽつと垣間見えたが、彼らにとって無関係な僕がどうでもいい存在であるのと同じく、僕にとっての彼らもまた、対岸で戯れているだけの存在に過ぎない。
「……せめて、ここじゃないどこかにしてほしかったよ」
恨みがましい言葉とは裏腹に、どうしようもなく声が震えた。
よりにもよって、二人の思い出がたくさん詰まったこの海で眠りについた君の名を呼んでみるが、返事は勿論あるはずもなく。
(今までだったら、必ず返してくれていたのに)
今日以降、僕は当分この海を訪れないだろう。少なくとも、胸の中で渦巻いている感情が落ち着かない内は避けた方がいい。それこそが最善だと思った。
唇を噛み締める。血は出ない代わり、頬が濡れてうっすらと、口の中で塩からい味が広がっていく。
君との思い出が蘇る。
一瞬、君の最期も心に過ぎる。
「なんて、ひどい奴だ……」
――イムア。君は、僕が知る誰よりずっと、ひどい奴だよ。
そう罵るべく、口を開けたが遂には言葉さえ上手く出てこない有様となっていた。
眩しすぎる漣の輝きを目に焼きつけながら、無力な僕はやがて崩れ落ち、一人柔らかな砂浜の上で嗚咽を繰り返すものへと成り果てる。
もはやこの世で、君と僕の時間が重なり合うことはないのだろう。
永遠に。
▼ ▼ ▼ ▼ ▽ ▽
「……本当に、ルルはそれでいいのか?そんな生き方で、心から満足するのか?」
穏やかな日差しの下、かつての君は僕にこう尋ねてきたことがあった。
今でもよく覚えている。パートナーとなったばかりのあの子を腕に抱いた君は、せっかく旅に出る直前だというのにうきうきするどころか、いつになく真剣な表情を浮かべていて。対する僕は、そんな君の様子にひどく戸惑った末、怖がってもいたんだったかな。
「うん。僕はイムアほど旅に関心があったわけじゃないし、ポケモンバトル自体、皆のように自信は持てなかった。だから、生まれ育ったここで暮らしていきたいって願った。それだけだよ。皆が皆、旅人になる必要もないでしょう?」
「必要性はともかく、……ああ、言い方が悪かったな。俺はただ、ルルが自ら外の世界に触れないのはもったいないって思ったんだ。運命、って言ってしまうと陳腐に聞こえるかもしれないけどさ。そう呼ぶに相応しいポケモンと出会えることも、旅に出たらあるのかもしれない。そんな想像をするだけで、わくわくはしてこないか?」
「うーん……いざという時、簡単な指示も出せやしない。万年トレーナー以下の、落ちこぼれな僕に寄り添ってくれるポケモンなんて、生憎想像もつかないね」
「やれやれ。相変わらず、極端に自己評価の低い奴だ……でもさ、俺から言わせてもらえば、競わせることそのものを躊躇ってしまうルルは俺が知る中で最も優しい人間だよ。そういうお前に惹かれるポケモンも、絶対どこかにいる、と思うんだけどなあ」
困ったような笑みを浮かべた君に頭を撫でられたあの子は、僕を気にもせず幸せそうな鳴き声を上げていた。思えばその時、或いは出会った瞬間から、あの子は君にくびったけだったんだろうね。
羨ましい、と思う以前に君とあの子の関係性は、僕の手に届きそうもないものだという意識が芽生えていた。僕と君は違うのだから、それで当然なのだと僕自身も納得していた。
「……僕の意志は変わらないけれど。心配してくれたんだ、ってことは十分に伝わったよ。イムア、ありがとう。ほら、時間も有限なんだし、何もないのなら行っておいで」
「うっわ、清々しいくらいあっさりした対応……せめて、俺が帰ってきた時は盛大に出迎えてくれよ?」
「そうだねえ……うん、忘れていなかったら、ちょっとは頑張ろうかな?」
「おいおい、忘れるなよそこは!ああ、でも。最後に、あと一つだけ」
「うん?」
「俺はてっきり、ルルもトレーナーとして俺と同じように旅に出るんだろうな、と思っていたから。正直言って寂しかったし、幼馴染なのに何で一言も教えてくれなかったんだ、って随分女々しいことも考えてしまった。でも、ルルの人生はルルだけのものであって、ルル自身が選ぶ道だから。説得は、今日この時を以て最後、ってことにしておく」
「……」
「アローラ、ルル。達者でな」
――次に会う時、大物になった俺を見てさぞかし驚くお前の反応、楽しみにしているぜ!
こちらを振り返ることなく、片手だけ振った君は見知らぬ世界へと駆けていく。
遠ざかる背中を見つめながら、僕はいつの間にか伸ばしかけていた自分の手をそっと下ろした。自ら望み、留まることを願った僕には最初から君を止める権利もない。
……でもまさか、希望を携えて旅立った君がこんなにも呆気なく潰えることを、一体誰だったら予想できたのだろう?
海辺に横たわる君は、見つかった時点で既に手遅れだった。
君に一体何が起きたのか、僕も明確には分からない。
しかし見つかった日の前後、あの穏やかな海で珍しくギャラドスを見かけた人がいたことを考えると、君が勇敢にも立ち向かっていった可能性は大いに有り得た。また、残念ながらトレーナーとしての力及ばず敗れた結果、そのまま海に呑まれてしまった可能性も。
簡潔に溺死、と判断された君の肉体が、君の家族によって手厚く葬られた点については恵まれていたのかもしれない。
僕もその光景を見ていた。見ているだけで、彼らと違って単に幼馴染でしかなかった僕は、他に何をすることもなかった。
――ポケモンがついていたとしても、不運が重なればこういった結末を迎えるトレーナー自体珍しくはないのだ、と誰かが君の家族に向かって呟く。
励ますようなそれをちょうど聞いてしまった僕は、場違いにも強い憤りを覚えた。
一片の疑いもなく、旅に出た君はトレーナーとして大成するのだろうと思っていたから。逞しく成長した君が帰ってくる日を、楽しみにしていたから。
そうだ。どんな時も、僕が君を忘れることはなかった。
なのに、……この世のどこにも、君がいない。
お帰りなさい、と言いたかった君はいない。
『置いていかれた』
その感覚にひたすら心を巣食われたのは、幸か不幸か、僕一人だけではなかった。
▼ ▼ ▼ ▽ ▽ ▽
乾いた土の上を、一人と一匹が黙々と歩いている。
一匹は只々まっすぐに、一人は重い足取りで何の感慨も浮かばないありふれた風景を眺めながら、一匹の後ろをついていく。これで何度目となるだろうか。
「アシマリ、転ばないようにね」
傍目から見れば心配そうな、気遣うような声をかけても構わず前を見ているあの子は、果たして自分の声を聞いているのか未だに判断がつかなかった。
一瞬たりとも止まらず、且つ振り返りもせず器用に地面の上を進んでいくあの子は本当に君と息ぴったりなパートナーだったのだろう、と思う度、不毛な疑問が浮かんでくる。
――どうして、君はあんなにも大事なあの子を置いていってしまったの。
(こんなことなら、やっぱり断っておくべきだったのかな……)
本来は、君の家族があの子を引き取るのが自然だったのだろうが、彼らは君を失った悲しみを理由に最初から拒否していた。曰く、あの子を見るのもつらいからこそ、少し時間がほしいんだって。……ずっと、の間違いではなかろうかと僕は勘繰っているけれども。
そうして次の候補に挙げられたのが、何だかんだ最も付き合いが長い僕の家だ。世間から見れば、それは特に問題もない、ごく順当な譲渡だったのだろう。
だけど、然して関わりもなかった場所に放りこまれて。
今日からここが君の家だ、などと言われたあの子にとってはちっとも、順当ではない出来事だったに違いない。
現に今も、家の中よりはこうして外に出ている方が少しはリラックスしているようだが、一切心を開くような素振りは見せてこなかった。
こんなにも一途な子を置いていった君は、僕からすればひどい奴に変わりなくて。それでいて、今でも嫌いになれないのだからとても性質が悪いと思う。
恨めるものならば恨みたい。
しかし、どれほど恨んだところで君が戻ってこないのは変えようがない事実だ。
このようなもどかしさを抱え、生きながらえているのは僕だけなのか。それとも、あの子もひょっとして僕と同じようなことを、一度くらい考えたことがあるのだろうか?
聞いてみたくても、無視されそうな気がして結局声をかけることもままならなかった僕は相変わらず臆病者で、そんな自分にほとほと呆れるばかりであった。
(一緒に居ても、縮むことがない距離を考えると泥沼に嵌りこんでしまいそう)
こんな有様で、僕はこれからもあの子の傍にいて許されるのかな。
いっそのこと、僕なんかより優秀なトレーナーの元へ行ってもらった方が、あの子自身幸せになれるのでは――。
そんな考えに及びかけた矢先、頭上からぽつり、と水滴が落ちてくる。
つられて顔を上げれば、たった数秒の間に勢いが増した雨が降ってきて堪らず駆け出した。先に走るあの子を追いかけ、とにかく雨を凌げそうな場所まで急ぐ。こんな時でも、一人と一匹の距離が途方もなく遠くて、口からは渇いた笑いが洩れた。
……この雨が、僕らの記憶や思い出ごと、洗い流してくれたらいいのに。
▼ ▼ ▽ ▽ ▽ ▽
あの子が見つけてくれたのは、たくさん実をつけているオボンの大木だった。
他の木々と比べて特に葉が生い茂っているおかげか、一人と一匹程度ならどうにか雨宿りも可能らしい大きさで、僕はほっと安堵の息を吐く。見たところ土砂降りではなく、単なる通り雨のようだ。ここで止むのを待っていれば、その内きっと散歩も再開できるだろう。
そんなことを考えながらタオルで濡れた体を拭いていると、背後からがたがた、と何か揺れる音が聞こえた。
嫌な予感がしたのも束の間、後ろから飛び出てきたポケモン――マケンカニが、僕とあの子へ自らのハサミを向けてくる。僕の全く預かり知らぬところだが、ここはあのポケモンにとって大事な縄張りであったらしい。
昔から、僕はポケモンバトルが大の苦手だ。
だから今回も、早々に立ち去ることで難を逃れようとしていたのだが、あの子の考えは僕と相反するものだった。
「アシマリ!」
ボールに戻って、と言うより早く、あの子はマケンカニに向けて強烈な『みずでっぽう』を繰り出す。直撃したマケンカニは更に戦闘意欲が増したのか、ぎらぎらとした眼差しであの子を睨みつけた直後、容赦なく殴りかかってきた。
それでも未だ、あの子には逃げようとする様子が見られない。
マケンカニと負けず劣らず、元々負けず嫌いな性分だったのか。それとも、……これは極めて低い可能性だが、或いは、一緒にいる僕を守るため退けずにいるのか。
(とにかく、今はこの状況をどうにかしないと!)
焦りに支配されそうな僕を置き去りにして、あの子は得意な水タイプのわざで応戦していたがどれも決定打にまでは至らず、徐々に体力を消耗しはじめていた。
必死に考える。確か、マケンカニは格闘タイプのポケモンだったはずだ。
それならば、と更に考えをめぐらせていくと、運良くアシマリにも出せそうなわざを一つだけ思い出せた。一か八か、打開を賭けて腹を括った僕は思いきり声を張り上げる。
「アシマリ!『チャームボイス』!」
聞こえない振りをされるのかもしれなかった。
けれど、あの子は一瞬だけ僕を振り返りながらも、慌てて指示通りフェアリータイプであるそのわざを放ってくれた。
それが自分にとって効果抜群なものだったと分かるや否や、マケンカニは一転して僕らの元を猛スピードで離れていく。脅威と思ってもらえたのなら、暫くここに戻ってくることはないだろう。
「勝った、のか……?」
自分自身、信じられない事象に呆然としていれば、足元で何かが光る。
言わずもがな、それはついさっきまでマケンカニと戦っていた小さなあの子のはずだったのだが、光が雲散するとその姿も大きく変わっていた。
つぶらな瞳が、じっと僕を見上げている。その様子は、まるで僕に何事かを期待しているように思えて。
「……、オシャマリ。ありがとう、」
こんな大事な時にもかかわらず、他に何も言えなかった僕にあの子はどう思ったのか、僕の足へしっかりと抱き着いてきた。しかしバランスをとれなかった結果、僕は地面に尻餅をつく形で情けなくも倒れこむ。
ひとまずの危機を脱して、今更ながら僕は自分の頬が濡れていたことに気付いた。
この木はよく葉が生い茂っているから、僕らのところまで雨粒は落ちてこないはずだ。それなのに、とめどなく溢れてくる滴がどんどん頬を濡らしていく。指先で拭っても追いつかない。抱き着いていたあの子も、僕の異変を知るとどことなく不安そうな表情を見せる。
(だめだ、泣いている場合じゃないだろう)
泣いたところで何も変わらないのに……しっかり、しなくちゃ。
「痛っ?!」
乱暴に涙を止めようとしていた僕の思考は、突如頭に響いた痛みによって強制的に切断された。
誰かが狙ったのかと思えるくらいに、ちょうど僕の真上から落ちてきたそれは目を丸くしていたあの子の元までころころと、軽やかに弾みつつ転がっていく。
雨粒によって一層煌いていた黄色の実へ、痛みの分も合わさりうっかり恨めしい視線を向けてしまったが――ふと、顔を上げた先に広がっていた景色に、僕は息を呑んで見惚れた。
雨上がりの真っ青な空に、大きな虹がかかっている。
それだけではない。燦々と、降り注ぐ陽の光を浴びた緑の葉はどれも瑞々しく艶めいて、生の喜びに満ち溢れていた。
ひたすらに美しい世界があった。
温かさと穏やかさに包まれる場所も、この世には存在していたのだと思い知った。
「……確かに、イムアの言うとおり。僕の選択はもったいないものだったのかもしれないね」
幾分か落ち着いてきた目元を抑えながら、雨露に濡れた実を拾うと僕はゆっくり立ち上がる。
「雨、上がったみたいだし……とりあえず、今日はもう、帰ろっか」
久し振りのバトルで疲れただろう、と改めてボールを差し出した僕は中に入るよう促すが、当のあの子はいつまで経っても入ろうとはせず、むしろ抗議するような声を上げた。
「ボールは嫌なの?」
僕の問いかけに大きく頷いたあの子は、今なお大空に広がっている虹を熱心に見つめる。
確かに、こんな見事な虹を眺めながらの帰り道も、なかなかない機会かもしれない。
「分かったよ。でも、無茶しないでね。きつくなったら、その時はちゃんと教えて」
再び頷いたあの子はよほど嬉しかったのか、雨で濡れた地面の上も構わず意気揚々と滑っていった。
……家に着いたら、まずは風呂場で体についた泥を洗い落とすところから始めることになりそうだ。肩を竦めはしたものの、憂鬱な気持ちは微塵も沸いてこなかった。
▼ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「懐かしい。あの頃の僕は、まだまだ、子どもだったんだね……」
ソファに腰掛け、年季の入った表紙を撫でながらかつての僕が記した過去を反芻していると、するり、と楽しげな表情で難なく隣を陣取った存在があった。
「ああ、これ?これはね、僕がつけていた日記なんだ。ちょうどイムアが亡くなった年……君が僕の家にやってきた頃、始めたものだよ。何となく、書きとめておきたくなってね」
ぱらぱら、と頁をめくっていくと、途中で挟みっぱなしになっていた古びた写真が何枚か出てくる。
タイミングよく僕の頭に落ちてきて、なかなか痛い思いをさせられたあのオボンの実。
家に着いた頃にもうっすらと残っていた、あの美しくも、見事な虹。
それから、当時オシャマリへ進化したばかりだった――今では更に成長した君が、ちょっとぎこちなさそうな顔で映っているものなんかもあった。
「ね、懐かしいでしょう?この虹も、一緒に見たものなんだよ。覚えてる?」
念のために尋ねてみると、勿論、とでも言いたげに頷いた君が日記に記された僕の文字を優しく手でなぞっていく。
何と書いてあるのかまでは分からないだろうけれど、あの頃について君なりに思うところもあったのか、普段以上に穏やかな眼差しをしていたことを君は気付いていただろうか。
「……ところで、虹には月虹、って呼ばれるものもあるんだって。読んで字の如く、月の光によって見える虹らしいんだけど、そろそろ出る可能性が高い日もやって来るらしいんだ。夜中を過ぎちゃうかもしれないけれど、君がよければ、一緒に見にいってみない?」
僕の提案に勢いよく頷いた君は、満面の笑顔を浮かべて僕に凭れかかってくる。
「そんなくっつかれたらくすぐったいでしょう、アシレーヌ。ほんとうに、……君は、お転婆な子だなあ」
失礼な、という意味でおそらく甲高い鳴き声を上げられたが、ささやかなお詫びとして僕も優しく撫でてあげると途端に上機嫌になった君に思わず笑いが洩れる。
時が経っても、僕自身のポケモンバトルの腕前が上達するような奇跡は起きなかったが、意外と好戦的な君は自分から他のポケモンへ挑みにいくことで、僕の心配を他所にすくすくと育っていった。
(何があっても、前に進んでいくところは特に、誰かさんとそっくり)
なぜ僕が笑っているのか、予想もつかない君は首を傾げて不思議そうにしている。
そんな君に、何でもないよ、と答えながら僕はかつての日記を本棚へと戻した。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
……ねえ、イムア。僕はやっぱり、君のように眩しくはなれそうもない。
そんなことならずっと昔から分かっていた、分かりきっていた。
なぜならば、僕は誰よりも臆病者だから。君のように、自ら喜び勇んで世界に踏み込むなんて考えたこともなかったし、そもそも望んでいなかった。
見知らぬものがいつだって怖かった。目を閉じて、耳を塞いで、未知から遠ざかることが自分の幸せなのだと信じきっていた。
だけどね、今は違うよ。
僕と同じように、君を覚えているあの子が僕の隣にいるから。
あの子が僕とともにいてくれる限り、僕は大丈夫。
ちょっぴりいじっぱりなところもあるけれど、臆病者な僕にとって、あの子はとっても心強い存在なんだ。
いつか、君とまた逢えたなら。
君とあの子のことについて、たくさん話せたら嬉しいと思う。君の代わりに、……なんて、大仰に言うつもりはないのだけれど。できる限り、僕が見聞きした世界を君にも伝えられたらいいな、と思う。
それまでどうか、君にはあの虹の向こうででも、のんびりと待っていてほしいものだ。
君を失った悲しみや、寂しさは一生尽きない。
けれども、僕らがこの先味わう喜びや楽しみもまた、決してゼロではないと信じている。
また君に出逢う時を楽しみに――僕はあの子とこれからも、何てことない日常をたくさん積み重ねていく。
僕らが一緒に生きていく理由は、きっと、それだけで十分だった。
そんなことならずっと昔から分かっていた、分かりきっていた。
なぜならば、僕は誰よりも臆病者だから。君のように、自ら喜び勇んで世界に踏み込むなんて考えたこともなかったし、そもそも望んでいなかった。
見知らぬものはいつだって怖い。だったら知っているものだけで、見慣れたものだけで満たされた環境でこの先も生きていくのが、僕にとって当然の幸せってやつなんじゃないか。そんな風に思いながら、これまでの日々を過ごしてきたんだ。
……もしも、ここで君が僕の話を聞いていたなら、今頃笑い飛ばしていたかもしれない。
君は快活で、恐れを知らない人だったね。幼馴染の僕には、正直そんな君がとても眩しく見えていた。怖がりで、臆病な僕を何度でも引っ張ってくれる君の存在自体、僕にとっては輝かしい誇りだったんだ。
最も、この思いも君にとっては大袈裟すぎると呆れられたかもしれない。
それでも、君は昔のようにしょうがないなあ、と言いながら僕の手を取って。きっとまた、どこかへ遊びに連れだしてくれたんじゃないかな、って性懲りもなく想像してしまう。
なあ、笑えるだろう?
笑っておくれよ。こうやって、未だ都合の良い夢に縋ろうとしている僕を。
君が相手ならば、僕はどれだけ笑われたってちっとも痛くないから。頼むよ。ねえ、どうして。返事すらしてくれないの。
――どれだけ待っても、君の温かな笑い声はもう、聞こえない。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▽
目の前には、夕刻の太陽に照らされて黄金色に輝く海がどこまでも広がっている。
僕と君が、幼い頃から何度も一緒に遊んだ思い出の場所でもあるここは、僕の周囲に限り不思議と静けさに満ちていた。目を凝らせば、波打ち際ではしゃぐ人々やポケモンの姿もぽつぽつと垣間見えたが、彼らにとって無関係な僕がどうでもいい存在であるのと同じく、僕にとっての彼らもまた、対岸で戯れているだけの存在に過ぎない。
「……せめて、ここじゃないどこかにしてほしかったよ」
恨みがましい言葉とは裏腹に、どうしようもなく声が震えた。
よりにもよって、二人の思い出がたくさん詰まったこの海で眠りについた君の名を呼んでみるが、返事は勿論あるはずもなく。
(今までだったら、必ず返してくれていたのに)
今日以降、僕は当分この海を訪れないだろう。少なくとも、胸の中で渦巻いている感情が落ち着かない内は避けた方がいい。それこそが最善だと思った。
唇を噛み締める。血は出ない代わり、頬が濡れてうっすらと、口の中で塩からい味が広がっていく。
君との思い出が蘇る。
一瞬、君の最期も心に過ぎる。
「なんて、ひどい奴だ……」
――イムア。君は、僕が知る誰よりずっと、ひどい奴だよ。
そう罵るべく、口を開けたが遂には言葉さえ上手く出てこない有様となっていた。
眩しすぎる漣の輝きを目に焼きつけながら、無力な僕はやがて崩れ落ち、一人柔らかな砂浜の上で嗚咽を繰り返すものへと成り果てる。
もはやこの世で、君と僕の時間が重なり合うことはないのだろう。
永遠に。
▼ ▼ ▼ ▼ ▽ ▽
「……本当に、ルルはそれでいいのか?そんな生き方で、心から満足するのか?」
穏やかな日差しの下、かつての君は僕にこう尋ねてきたことがあった。
今でもよく覚えている。パートナーとなったばかりのあの子を腕に抱いた君は、せっかく旅に出る直前だというのにうきうきするどころか、いつになく真剣な表情を浮かべていて。対する僕は、そんな君の様子にひどく戸惑った末、怖がってもいたんだったかな。
「うん。僕はイムアほど旅に関心があったわけじゃないし、ポケモンバトル自体、皆のように自信は持てなかった。だから、生まれ育ったここで暮らしていきたいって願った。それだけだよ。皆が皆、旅人になる必要もないでしょう?」
「必要性はともかく、……ああ、言い方が悪かったな。俺はただ、ルルが自ら外の世界に触れないのはもったいないって思ったんだ。運命、って言ってしまうと陳腐に聞こえるかもしれないけどさ。そう呼ぶに相応しいポケモンと出会えることも、旅に出たらあるのかもしれない。そんな想像をするだけで、わくわくはしてこないか?」
「うーん……いざという時、簡単な指示も出せやしない。万年トレーナー以下の、落ちこぼれな僕に寄り添ってくれるポケモンなんて、生憎想像もつかないね」
「やれやれ。相変わらず、極端に自己評価の低い奴だ……でもさ、俺から言わせてもらえば、競わせることそのものを躊躇ってしまうルルは俺が知る中で最も優しい人間だよ。そういうお前に惹かれるポケモンも、絶対どこかにいる、と思うんだけどなあ」
困ったような笑みを浮かべた君に頭を撫でられたあの子は、僕を気にもせず幸せそうな鳴き声を上げていた。思えばその時、或いは出会った瞬間から、あの子は君にくびったけだったんだろうね。
羨ましい、と思う以前に君とあの子の関係性は、僕の手に届きそうもないものだという意識が芽生えていた。僕と君は違うのだから、それで当然なのだと僕自身も納得していた。
「……僕の意志は変わらないけれど。心配してくれたんだ、ってことは十分に伝わったよ。イムア、ありがとう。ほら、時間も有限なんだし、何もないのなら行っておいで」
「うっわ、清々しいくらいあっさりした対応……せめて、俺が帰ってきた時は盛大に出迎えてくれよ?」
「そうだねえ……うん、忘れていなかったら、ちょっとは頑張ろうかな?」
「おいおい、忘れるなよそこは!ああ、でも。最後に、あと一つだけ」
「うん?」
「俺はてっきり、ルルもトレーナーとして俺と同じように旅に出るんだろうな、と思っていたから。正直言って寂しかったし、幼馴染なのに何で一言も教えてくれなかったんだ、って随分女々しいことも考えてしまった。でも、ルルの人生はルルだけのものであって、ルル自身が選ぶ道だから。説得は、今日この時を以て最後、ってことにしておく」
「……」
「アローラ、ルル。達者でな」
――次に会う時、大物になった俺を見てさぞかし驚くお前の反応、楽しみにしているぜ!
こちらを振り返ることなく、片手だけ振った君は見知らぬ世界へと駆けていく。
遠ざかる背中を見つめながら、僕はいつの間にか伸ばしかけていた自分の手をそっと下ろした。自ら望み、留まることを願った僕には最初から君を止める権利もない。
……でもまさか、希望を携えて旅立った君がこんなにも呆気なく潰えることを、一体誰だったら予想できたのだろう?
海辺に横たわる君は、見つかった時点で既に手遅れだった。
君に一体何が起きたのか、僕も明確には分からない。
しかし見つかった日の前後、あの穏やかな海で珍しくギャラドスを見かけた人がいたことを考えると、君が勇敢にも立ち向かっていった可能性は大いに有り得た。また、残念ながらトレーナーとしての力及ばず敗れた結果、そのまま海に呑まれてしまった可能性も。
簡潔に溺死、と判断された君の肉体が、君の家族によって手厚く葬られた点については恵まれていたのかもしれない。
僕もその光景を見ていた。見ているだけで、彼らと違って単に幼馴染でしかなかった僕は、他に何をすることもなかった。
――ポケモンがついていたとしても、不運が重なればこういった結末を迎えるトレーナー自体珍しくはないのだ、と誰かが君の家族に向かって呟く。
励ますようなそれをちょうど聞いてしまった僕は、場違いにも強い憤りを覚えた。
一片の疑いもなく、旅に出た君はトレーナーとして大成するのだろうと思っていたから。逞しく成長した君が帰ってくる日を、楽しみにしていたから。
そうだ。どんな時も、僕が君を忘れることはなかった。
なのに、……この世のどこにも、君がいない。
お帰りなさい、と言いたかった君はいない。
『置いていかれた』
その感覚にひたすら心を巣食われたのは、幸か不幸か、僕一人だけではなかった。
▼ ▼ ▼ ▽ ▽ ▽
乾いた土の上を、一人と一匹が黙々と歩いている。
一匹は只々まっすぐに、一人は重い足取りで何の感慨も浮かばないありふれた風景を眺めながら、一匹の後ろをついていく。これで何度目となるだろうか。
「アシマリ、転ばないようにね」
傍目から見れば心配そうな、気遣うような声をかけても構わず前を見ているあの子は、果たして自分の声を聞いているのか未だに判断がつかなかった。
一瞬たりとも止まらず、且つ振り返りもせず器用に地面の上を進んでいくあの子は本当に君と息ぴったりなパートナーだったのだろう、と思う度、不毛な疑問が浮かんでくる。
――どうして、君はあんなにも大事なあの子を置いていってしまったの。
(こんなことなら、やっぱり断っておくべきだったのかな……)
本来は、君の家族があの子を引き取るのが自然だったのだろうが、彼らは君を失った悲しみを理由に最初から拒否していた。曰く、あの子を見るのもつらいからこそ、少し時間がほしいんだって。……ずっと、の間違いではなかろうかと僕は勘繰っているけれども。
そうして次の候補に挙げられたのが、何だかんだ最も付き合いが長い僕の家だ。世間から見れば、それは特に問題もない、ごく順当な譲渡だったのだろう。
だけど、然して関わりもなかった場所に放りこまれて。
今日からここが君の家だ、などと言われたあの子にとってはちっとも、順当ではない出来事だったに違いない。
現に今も、家の中よりはこうして外に出ている方が少しはリラックスしているようだが、一切心を開くような素振りは見せてこなかった。
こんなにも一途な子を置いていった君は、僕からすればひどい奴に変わりなくて。それでいて、今でも嫌いになれないのだからとても性質が悪いと思う。
恨めるものならば恨みたい。
しかし、どれほど恨んだところで君が戻ってこないのは変えようがない事実だ。
このようなもどかしさを抱え、生きながらえているのは僕だけなのか。それとも、あの子もひょっとして僕と同じようなことを、一度くらい考えたことがあるのだろうか?
聞いてみたくても、無視されそうな気がして結局声をかけることもままならなかった僕は相変わらず臆病者で、そんな自分にほとほと呆れるばかりであった。
(一緒に居ても、縮むことがない距離を考えると泥沼に嵌りこんでしまいそう)
こんな有様で、僕はこれからもあの子の傍にいて許されるのかな。
いっそのこと、僕なんかより優秀なトレーナーの元へ行ってもらった方が、あの子自身幸せになれるのでは――。
そんな考えに及びかけた矢先、頭上からぽつり、と水滴が落ちてくる。
つられて顔を上げれば、たった数秒の間に勢いが増した雨が降ってきて堪らず駆け出した。先に走るあの子を追いかけ、とにかく雨を凌げそうな場所まで急ぐ。こんな時でも、一人と一匹の距離が途方もなく遠くて、口からは渇いた笑いが洩れた。
……この雨が、僕らの記憶や思い出ごと、洗い流してくれたらいいのに。
▼ ▼ ▽ ▽ ▽ ▽
あの子が見つけてくれたのは、たくさん実をつけているオボンの大木だった。
他の木々と比べて特に葉が生い茂っているおかげか、一人と一匹程度ならどうにか雨宿りも可能らしい大きさで、僕はほっと安堵の息を吐く。見たところ土砂降りではなく、単なる通り雨のようだ。ここで止むのを待っていれば、その内きっと散歩も再開できるだろう。
そんなことを考えながらタオルで濡れた体を拭いていると、背後からがたがた、と何か揺れる音が聞こえた。
嫌な予感がしたのも束の間、後ろから飛び出てきたポケモン――マケンカニが、僕とあの子へ自らのハサミを向けてくる。僕の全く預かり知らぬところだが、ここはあのポケモンにとって大事な縄張りであったらしい。
昔から、僕はポケモンバトルが大の苦手だ。
だから今回も、早々に立ち去ることで難を逃れようとしていたのだが、あの子の考えは僕と相反するものだった。
「アシマリ!」
ボールに戻って、と言うより早く、あの子はマケンカニに向けて強烈な『みずでっぽう』を繰り出す。直撃したマケンカニは更に戦闘意欲が増したのか、ぎらぎらとした眼差しであの子を睨みつけた直後、容赦なく殴りかかってきた。
それでも未だ、あの子には逃げようとする様子が見られない。
マケンカニと負けず劣らず、元々負けず嫌いな性分だったのか。それとも、……これは極めて低い可能性だが、或いは、一緒にいる僕を守るため退けずにいるのか。
(とにかく、今はこの状況をどうにかしないと!)
焦りに支配されそうな僕を置き去りにして、あの子は得意な水タイプのわざで応戦していたがどれも決定打にまでは至らず、徐々に体力を消耗しはじめていた。
必死に考える。確か、マケンカニは格闘タイプのポケモンだったはずだ。
それならば、と更に考えをめぐらせていくと、運良くアシマリにも出せそうなわざを一つだけ思い出せた。一か八か、打開を賭けて腹を括った僕は思いきり声を張り上げる。
「アシマリ!『チャームボイス』!」
聞こえない振りをされるのかもしれなかった。
けれど、あの子は一瞬だけ僕を振り返りながらも、慌てて指示通りフェアリータイプであるそのわざを放ってくれた。
それが自分にとって効果抜群なものだったと分かるや否や、マケンカニは一転して僕らの元を猛スピードで離れていく。脅威と思ってもらえたのなら、暫くここに戻ってくることはないだろう。
「勝った、のか……?」
自分自身、信じられない事象に呆然としていれば、足元で何かが光る。
言わずもがな、それはついさっきまでマケンカニと戦っていた小さなあの子のはずだったのだが、光が雲散するとその姿も大きく変わっていた。
つぶらな瞳が、じっと僕を見上げている。その様子は、まるで僕に何事かを期待しているように思えて。
「……、オシャマリ。ありがとう、」
こんな大事な時にもかかわらず、他に何も言えなかった僕にあの子はどう思ったのか、僕の足へしっかりと抱き着いてきた。しかしバランスをとれなかった結果、僕は地面に尻餅をつく形で情けなくも倒れこむ。
ひとまずの危機を脱して、今更ながら僕は自分の頬が濡れていたことに気付いた。
この木はよく葉が生い茂っているから、僕らのところまで雨粒は落ちてこないはずだ。それなのに、とめどなく溢れてくる滴がどんどん頬を濡らしていく。指先で拭っても追いつかない。抱き着いていたあの子も、僕の異変を知るとどことなく不安そうな表情を見せる。
(だめだ、泣いている場合じゃないだろう)
泣いたところで何も変わらないのに……しっかり、しなくちゃ。
「痛っ?!」
乱暴に涙を止めようとしていた僕の思考は、突如頭に響いた痛みによって強制的に切断された。
誰かが狙ったのかと思えるくらいに、ちょうど僕の真上から落ちてきたそれは目を丸くしていたあの子の元までころころと、軽やかに弾みつつ転がっていく。
雨粒によって一層煌いていた黄色の実へ、痛みの分も合わさりうっかり恨めしい視線を向けてしまったが――ふと、顔を上げた先に広がっていた景色に、僕は息を呑んで見惚れた。
雨上がりの真っ青な空に、大きな虹がかかっている。
それだけではない。燦々と、降り注ぐ陽の光を浴びた緑の葉はどれも瑞々しく艶めいて、生の喜びに満ち溢れていた。
ひたすらに美しい世界があった。
温かさと穏やかさに包まれる場所も、この世には存在していたのだと思い知った。
「……確かに、イムアの言うとおり。僕の選択はもったいないものだったのかもしれないね」
幾分か落ち着いてきた目元を抑えながら、雨露に濡れた実を拾うと僕はゆっくり立ち上がる。
「雨、上がったみたいだし……とりあえず、今日はもう、帰ろっか」
久し振りのバトルで疲れただろう、と改めてボールを差し出した僕は中に入るよう促すが、当のあの子はいつまで経っても入ろうとはせず、むしろ抗議するような声を上げた。
「ボールは嫌なの?」
僕の問いかけに大きく頷いたあの子は、今なお大空に広がっている虹を熱心に見つめる。
確かに、こんな見事な虹を眺めながらの帰り道も、なかなかない機会かもしれない。
「分かったよ。でも、無茶しないでね。きつくなったら、その時はちゃんと教えて」
再び頷いたあの子はよほど嬉しかったのか、雨で濡れた地面の上も構わず意気揚々と滑っていった。
……家に着いたら、まずは風呂場で体についた泥を洗い落とすところから始めることになりそうだ。肩を竦めはしたものの、憂鬱な気持ちは微塵も沸いてこなかった。
▼ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「懐かしい。あの頃の僕は、まだまだ、子どもだったんだね……」
ソファに腰掛け、年季の入った表紙を撫でながらかつての僕が記した過去を反芻していると、するり、と楽しげな表情で難なく隣を陣取った存在があった。
「ああ、これ?これはね、僕がつけていた日記なんだ。ちょうどイムアが亡くなった年……君が僕の家にやってきた頃、始めたものだよ。何となく、書きとめておきたくなってね」
ぱらぱら、と頁をめくっていくと、途中で挟みっぱなしになっていた古びた写真が何枚か出てくる。
タイミングよく僕の頭に落ちてきて、なかなか痛い思いをさせられたあのオボンの実。
家に着いた頃にもうっすらと残っていた、あの美しくも、見事な虹。
それから、当時オシャマリへ進化したばかりだった――今では更に成長した君が、ちょっとぎこちなさそうな顔で映っているものなんかもあった。
「ね、懐かしいでしょう?この虹も、一緒に見たものなんだよ。覚えてる?」
念のために尋ねてみると、勿論、とでも言いたげに頷いた君が日記に記された僕の文字を優しく手でなぞっていく。
何と書いてあるのかまでは分からないだろうけれど、あの頃について君なりに思うところもあったのか、普段以上に穏やかな眼差しをしていたことを君は気付いていただろうか。
「……ところで、虹には月虹、って呼ばれるものもあるんだって。読んで字の如く、月の光によって見える虹らしいんだけど、そろそろ出る可能性が高い日もやって来るらしいんだ。夜中を過ぎちゃうかもしれないけれど、君がよければ、一緒に見にいってみない?」
僕の提案に勢いよく頷いた君は、満面の笑顔を浮かべて僕に凭れかかってくる。
「そんなくっつかれたらくすぐったいでしょう、アシレーヌ。ほんとうに、……君は、お転婆な子だなあ」
失礼な、という意味でおそらく甲高い鳴き声を上げられたが、ささやかなお詫びとして僕も優しく撫でてあげると途端に上機嫌になった君に思わず笑いが洩れる。
時が経っても、僕自身のポケモンバトルの腕前が上達するような奇跡は起きなかったが、意外と好戦的な君は自分から他のポケモンへ挑みにいくことで、僕の心配を他所にすくすくと育っていった。
(何があっても、前に進んでいくところは特に、誰かさんとそっくり)
なぜ僕が笑っているのか、予想もつかない君は首を傾げて不思議そうにしている。
そんな君に、何でもないよ、と答えながら僕はかつての日記を本棚へと戻した。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
……ねえ、イムア。僕はやっぱり、君のように眩しくはなれそうもない。
そんなことならずっと昔から分かっていた、分かりきっていた。
なぜならば、僕は誰よりも臆病者だから。君のように、自ら喜び勇んで世界に踏み込むなんて考えたこともなかったし、そもそも望んでいなかった。
見知らぬものがいつだって怖かった。目を閉じて、耳を塞いで、未知から遠ざかることが自分の幸せなのだと信じきっていた。
だけどね、今は違うよ。
僕と同じように、君を覚えているあの子が僕の隣にいるから。
あの子が僕とともにいてくれる限り、僕は大丈夫。
ちょっぴりいじっぱりなところもあるけれど、臆病者な僕にとって、あの子はとっても心強い存在なんだ。
いつか、君とまた逢えたなら。
君とあの子のことについて、たくさん話せたら嬉しいと思う。君の代わりに、……なんて、大仰に言うつもりはないのだけれど。できる限り、僕が見聞きした世界を君にも伝えられたらいいな、と思う。
それまでどうか、君にはあの虹の向こうででも、のんびりと待っていてほしいものだ。
君を失った悲しみや、寂しさは一生尽きない。
けれども、僕らがこの先味わう喜びや楽しみもまた、決してゼロではないと信じている。
また君に出逢う時を楽しみに――僕はあの子とこれからも、何てことない日常をたくさん積み重ねていく。
僕らが一緒に生きていく理由は、きっと、それだけで十分だった。