傲岸不遜独奏曲

この作品はR-15です
1.ラジオ放送

『……セキエイリーグ、チャンピオン・ドラゴン使いのワタル、対、挑戦者・コガネ出身のショウジ選手の対戦。ワタルはエースのカイリューを倒され、残り1体という状況です。現在対峙しているのは、ワタル側最後の1体ギャラドス、対するは挑戦者のジュカインです』
『素早いですね、ギャラドスが翻弄されてますよ』
『ショウジ選手のチーム内、フーディンと並んで素早さトップタイですからね……おおっと、ここでギャラドスのこおりのキバにがっちり捕まったー!』
『効果抜群ですが……おっ』
『おおっとジュカイン、するりと抜け出し、反撃のリーフブレード! これは痛烈な一撃ッ!』
『これはギャラドス、痛い一撃です。いかくで攻撃力を下げられなかったのも痛い』
『手に汗握る攻防が続いています、セキエイリーグより中継です。現在チャンピオン・ワタルのギャラドスの攻撃を、挑戦者・ショウジ選手のジュカインがヒットアンドアウェイで回避しています。ワタルは残り一体……おおっと、ギャラドスのあの構えは!』
『ポリゴン2を沈めたはかいこうせんでしょう』
『溜めて溜めて……撃ちました! おおっと、ジュカインぎりぎりで回避!』
『冷静さを欠いていますね、ペルシアンのちょうはつが効いているんでしょうか。……あのペルシアンはアローラの個体でしたね、珍しい』
『攻撃後の隙を一気に畳みかけます! リーフブレード! ダブルチョップ! 最後はおいうちで弾き飛ばしたッ!』
『これは、ギャラドス七転八倒していますが、立ち上がりますかね』
『カウントがかかります、5、6、7……起き上がりました! 続行です! ここまでかなり様子見していた様子のジュカイン、かなり攻めの姿勢になっています。ワタルの残りポケモンはギャラドス1体。エースのカイリューは既に倒れています』
『カイリュー対カイリューを思い返すと、同じカイリューでもここまで差を見せつけるかというくらいの強力な個体、まさにエースでしたからね。ジュペッタのサポートのおかげで倒せたのは大きいです』
『おおっと、これまで回避中心だったジュカイン、積極的に攻めています! セキエイリーグよりチャンピオン戦をお伝えして……』
『一転攻勢、ラッシュで決めにいきそうですよ!』
『ジュカイン、ギャラドスに対して攻める攻める攻める! これで決まるか! どうか!』
『これは……!』
『得意のリーフブレード! 決まったッ! ギャラドス、倒れました、起き上がる気配ありません……戦闘不能! 勝者、ショウジ選手です! チャンピオンを下し、見事頂点を勝ち取りましたッ! 若き新チャンピオンの誕生です! …………』


2.留守録

 ……ええと、お久しぶりです、ショウジ先輩。お元気ですか? 僕です、ウエダです。
 先輩が交換してくださったジュカインのニーナのおかげで、僕、大事な試合に勝つことができたんですよ。できれば先輩にも、僕の成長と、ニーナの活躍とを、是非とも見て頂きたかったんですが……。
 勝てたのは、先輩のおかげといっても過言ではないと思います。前に僕に、『相手の動きをちゃんと見て、防御したり回避したりを優先で、欲張って攻めるんじゃない』ってアドバイスしてくださったの、本当に助かりました。正直ごり押しと言えばごり押しだったんですが、隙を突いたニーナのリーフブレードがよく効いたみたいで。おかげで他のポケモンにも余裕を持って対応できましたし、本当にニーナのおかげですし、ニーナを育て上げた先輩のおかげだと思います。
 やっぱり先輩はすごいですよ。ポケモンの知識も、僕なんかとは比べ物にならないくらいすごいですし、歴戦の貫禄があるバトルも、ちゃんと覚えてます。ジョウトどころかカントーまで名を轟かせたって言ってたのも納得ですよ! な、なんだか無節操に褒め言葉並べたみたいになっちゃいましたけど、本当にそう思ってるんですよ……?

 それでですね、連絡したのは感謝を伝えたいのと、もう一つあるんです。
 どうにも、最近ニーナが調子が悪いみたいで。どうしてかなあ、と思っていたんですけれど、たぶんホームシック的な何かなんじゃないかと思いまして。だから一回、先輩のところに戻そうと思うんです。
 僕自身、ちょっと忙しくなりそうで行けそうにもないので、代理人に託すことにします。彼女なんですけれど、幼馴染なんだって言ってましたし、顔を見れば分かるんじゃないですかね?
 先輩が今どこに住んでいらっしゃるのか分からないので、待ち合わせ場所とかも決めづらいんですけれど、もしまだコガネシティの近くに住んでおられるんなら、しぜんこうえんの南側の入り口のあたりでどうでしょう? 連絡待ってます。…………


3.新聞記事

〔朝刊〕
 【コガネ大通りで通り魔】
  死者5名、重傷7名以上
   犯人は未だ逃走中

 昨日午後1時頃、コガネ市○○区××1丁目の路上で、包丁を持った男が通行人らを次々と刺す無差別殺傷事件が発生した。警察発表では、5人の死亡が確認され、7名が意識不明の重体、10名以上のけが人を確認しているという。トレーナーが繰り出したポケモンにも斬りかかって傷を負わせており、現在被害の確認を急いでいる。男は北の方角へ走って逃走し、現在でも追跡が進められている。
 コガネ署によると、男は昨日、コガネ市○○区内の路上で近くにいた男性(30)の肩を深く刺した。男性が抵抗し取り押さえる前に刃を抜き、そのまま別の人間に斬りかかった。説得を試みた女性にも応じず、またポケモンによる制圧も潜り抜け、次々と襲い掛かったという。警察が駆けつける前にそのまま走って北へ逃げ、警察官が跡を追ったが、路地に逃げ込まれて見失ったという。事件発生前に大声が上がるようなトラブルがあったという証言は今のところない。
 男は身長170センチ、やせ形で、黒のジャンパーとジーパンを着用していた。目撃者によれば、雄叫びを上げながら疾走し、逃げる人間に容赦なく刃を突き立てたという。腕を刺され軽傷を負った女性(35)は、「目が血走っていて、とても正気には見えなかった。刺すことに一切躊躇していなかった」と話した。
 警察は今朝、この事件の容疑者としてコガネ市在住の庄司宗憲(しょうじ・むねのり)容疑者(17)の逮捕状を取ったと発表し、捜索を進めているとしている。

〔夕刊〕
 【通り魔の犯人 自殺か】
  自宅アパートの中で頸動脈切断
   手持ちポケモンと心中未遂?

 昨日発生したコガネ市路上の無差別殺傷事件で、指名手配されていた無職・庄司宗憲(しょうじ・むねのり)容疑者(17)が、自宅アパートで心肺停止状態で発見され、間もなく死亡が確認された。死因は頸動脈を切られたことによる失血死とみられている。コガネ市路上から逃走した際の服装そのままであった。近くにあったモンスターボールから、腕の刃に血の付着したジュカインが発見され、このジュカインが何らかの理由で容疑者を殺害したものとみて、調べを進めている。
 コガネ署によると、今日午前9時頃、指名手配から約1時間後にコガネ市△△区の容疑者自宅アパートを強制捜査したところ、庄司宗憲容疑者がうつ伏せで首から血を流した状態で発見された。発見時点で既に心肺停止状態であり、血はほとんど止まっていた状態だったという。部屋に設置されたPCには、昨日の日付で遺書と思われるワードプロセッサーのファイルが残されており、事件との関連を調べている。
 ジュカインは、推定18年齢、メスであり、おや名およびIDは容疑者のトレーナーカードと一致しているという。
 捜査員が現場に到着したとき、部屋は誰かが暴れたように荒れ、カゲボウズの大群が窓の外に張り付いていたと話した。警察は、被害者が何らかの恨みを抱えて犯行に及んだ可能性が高いとみて、容疑者の交友関係についても捜査を始めるとした。


4.遺書

 この書置きを目にするであろう、顔も名も知らない人へ。
 全くもって、嫌な人生でした。私は、完璧主義な癖に何もできず、人を馬鹿にする癖に自分が馬鹿にされることを何より嫌がり、自分が一番下にいるくせに人を見下していないと気が済まないような、悪辣で、卑劣で、愚鈍で、高慢な、そんな自分自身というものに、愛想を尽かしてしまったのです。
 私はもう、世の中の誰とも関わりたくはありません。ポケモンでも人間でも、誰かと共に在るということに、絶対に耐えられないと思うのです。世の中の全てとの関わりを立って、私の心を乱さないように、誰の手も届かないような場所で一人になりたいのです。何もおふざけや気まぐれではありません。まして狂気でも……いや、今の私の心境は、狂気の涯、以外の何でもないのですから、これほど合致した言葉は他にありますまい、と思います。
 何が私を狂わすに至ったか、すなわち、私の類稀なる自尊心と、それを守らんとする虚栄と、傷つけられたと感じたときの激憤と、全て足蹴にしてやらねば気が済まない嗜虐心と、足蹴にされることを避けたいと思う恐怖とを、私は他人の存在のあるところでは常に感じて生きて来ました。そうして後悔ばかりを抱えて生きて来ました。他人を最後まで信じられなかったのは、相手も自分と同じで私の自尊心を踏みにじらんとしているからだという疑いを常に持っていたからでした。他人の同情の一切を断ったのは、その裏に痛烈な侮蔑を見たからでした。一度決めたことを変えられなかったのは、意志薄弱な奴だと嗤われたくなかったからでした。端的に言えば、もう、そんなことに疲れたのです。全部投げ捨ててしまいたいのです。完璧でないのだから、何の意味もないし、大事にも思えないのです。これまでの罪が全部霞んで見えるほどの大きなことをやらかして、それだけを悔いればいいような人生は、誰のどんな人生よりも、よっぽど楽だと思うのです。暗室の燭台に燻る火よりも、祭りの夜に上がる花火の方がよっぽど綺麗です。
 こんな長々しい書置きを書かねばならなくなった理由なんて、ただ暗い穴を覗き込んで底に何が見えるかを調べる好奇心より他に知りたい動機があるとも思えませんし、その好奇心を持続させるような文を書く文才を持ち合わせていないため、読みづらいことこの上ないでしょうが、どうか、投げ捨ててしまわないよう、不幸にも発見してしまった第一人者としての義務で以て、最後まで読み通して、穴の底から這い出さんとする黒く悍ましい何かを、下らないと言って穴の底に叩き付けて下さるのなら、あなたが勇気のある善良な人間であり、そんな人間の存在が証明されることに他ならないのですから、私としても、慣れない長文を書いた甲斐があるというものでしょう。
 このようなことをつらつらと書き連ね続けても、退屈するばかりで、一向に本題に入らないことに、倦厭するばかりだとは判っているのですが、私の十余年の生涯を全て語りつくすような覚悟なしに、こんな書置きを残すような真似をしようとは、平生の私は思いもしないでしょうし、いざ覚悟を決めてみると、今まで生きてきたのと同じくらいの年月を費やして、本当に全てを一から十まで書き尽くしてやろうなどという、正気とも思われないような気分に陥ってしまいますので、こうして空虚で意味のない言葉を書き連ねるうちに、どこをどう摘み上げて書くべきか、思案しているのだと、どうかご斟酌して下さいませんでしょうか。

 ついさっき、私は善良さの存在を証明したいなどと書きましたが、後で訂正しなければならないと思っています。いかにも社会のため、世のため人のため、という綺麗事をでっち上げたようで、その実、私自身のためでしかないのですから。
 そう、私のためです。私が恐怖から逃れたいがために書いているのです。誰が見るとも分からない、誰にも顧みられないかもしれない文章だとしても、私は、書いて、書いて、とにかく手を動かし続けなければならないという、強迫観念に晒されているのです。もしもどこかで手が止まってしまったなら、それこそ、例えば、街中に繰り出して次々に、無差別に、手当たり次第に、すれ違う人を八つ裂きにしたいというような、陰惨で暴力的な衝動を解放しかねないのです。そうして人でも人以外の生物でも、何かを刃物で突き刺す感覚を、指をキーボードにひっきりなしに叩き付ける感覚で、代償しているに過ぎないのだと思います。
 こんなことを書き連ねていると、「なんだお前は誰かを刺殺したことがあるのか、でなければ生き物を突き刺す感覚など知れるわけがない、この殺人鬼め」という罵声が飛んでくる気もするのですが、私の今までの人生で、そのような経験はないのです。むしろ、昔から、そんな勇気を欠片も持たないような、意志薄弱な人間でしかありませんでした。思えば、「自分が何をしたいか」というように、自分の意志に従って物事を決めるのではなく、「何をしなければ他者に嗤われるのか」という風に、自尊心を守るための最善策はどれか選ぶように物事を決めていたように思われます。
 私の生まれた家庭は裕福過ぎずさりとて貧乏でもなく、ありていに言えば普通の家庭で、父母共に役所勤めでしたから、強いて言えば少しカタいというくらいでした。特に父は、根無し草の旅のトレーナーなどには、いくらか当たりが強かったように思われます。子供の時分などには、10代の少年のポケモンと共に歩む冒険物語など、禁じて読ませないことはしませんでしたが、あまり良い顔をしてはいなかったと記憶しています。
 思えばこのころから、私はとっくに底意地の悪い人間であったのだろうと思います。敢えて、父の嫌がるような、トレーナーとして旅に出て、ポケモンバトルを生き甲斐として暮らすような生き方を選ぼうとしたのですから。
 きっかけらしいきっかけと言えば、父に連れられて買い物にでも出たときであったろうと思うのですが、今では判然としません。街を歩く中で、帽子をかぶり、リュックサックを負い、傍らにポケモンを連れた(何だったか忘れましたが、四足のだったと思います)女の子のトレーナーとすれ違いました。恐らくは子供心に、そのポケモンは何だろう、という興味に惹かれ、振り向いて彼女の行く方向を目で追っていたのですが、不意に父が、
「興味があるのか」
 と、表情のない顔で問うてきました。
 私は完全にすれ違ったトレーナーに気をひかれていたので、びっくりして、つい聞き返してしまいました。というのも、父の話を聞かないとは何事だ、という拳骨が飛んできそうな気がしたのです(その実は、今まで一度も拳骨どころか、怒鳴り散らされたことすらありません)。さっと血の気が引いて、頭の中がじんと痺れたような感覚に陥りました。
 父は相変わらずの無表情のまま、
「ああしてポケモンを連れて旅に出て、色んな場所を巡るというのに、憧れるのか?」
 ともう一度訊きました。
 私は正直でした。もっと言えば馬鹿正直でした。
「うん」
 と短く答えました。答えてから、ああ間違ったと肝を冷やしました。平生の父がトレーナーに良い印象を持っていないということを、すっかり頭から離してしまっていたことに、答えてしまってから気付いたのですから。私はこうした問いにも、学校のテストのような正解があるものだと決めつけていました。だから、今の私の回答は落第の回答で、正解は父親に合わせて「そうでもない」と答えることだったのです。
 嗚呼、それを聞いた父の反応が、どんな形で返ってくるか分からずに、震えながら待った一瞬の、気の遠くなるほど長かったこと!
「……はっはっは! そうかそうか、それもいいだろう!」
 父は破顔一笑し、私の頭をくしゃくしゃ撫でました。そうして、また歩き始めました。私は少しその場に立ち尽くしてから、走って父の背中を追いかけました。
 その立ち尽くしている間に、一つの感情が私を支配していたのです。それは怒りでした。表出すればオコリザルすらも慄然とさせかねないほどの、場違いな憤怒でした。何故怒りを抱いたのか、それはこういうことでした。平生の父、トレーナーを嫌う父が、何の下心もなくあんな反応をするはずがない。きっと心の内では、私を嘲弄しているのだと、だからああして笑ったのだと、そう考えたのです。「浅ましいものに憧れる浅ましく幼い考えだ」「夢ばかり見て現実から目を逸らす軟弱者だ」と幼い時分の私がここまで考えたわけではありませんが、そういう風に、誰かが私を貶す声を聴いたのです。その時の声は、父の声の反響でした。つまり、父の快活な笑いを、快活を装った陰湿な嘲笑だと感じた私は、父の笑いに、そしてそんな父のために脳髄を痺れさせ頭を真っ白にしたことに、屈辱すら覚えたのです。
 私はこんな風に、他人の言葉を素直に受け入れられない性質でした。褒め言葉をかけられても、その裏に何かあるのではないか、嫉妬めいた皮肉ではないだろうか、と疑ってしまうのでした。そのくせ叱られたり注意されたりしたことはずっと根に持ちました。論理的にそれが正しいと知りながらも、恥をかかされたと感じた時の不快、恐怖、怒り……そうした負の感情から、どうしても逃れられないのでした。そうして暫くは、自分を害した(と私が思った)者を、とにかく自分から遠ざけてばかりいたのです。君子三日会わざれば、という諺の如く、実は私にはお前に注意されるまでもなくやれることはやる潜在能力はあるのだから、私を害す権利などお前には微塵もないのだ、と言ってやりたいがために、あるいはそう言って逆に屈従させてやりたいがために、そうしたのでした。
 これは後になって判ったことですが、父は確かにバトルを生業にするトレーナーを嫌がってはいましたが、子供の私がそうしたいと思うのであれば、それに対しては嫌な顔をせず、応援するつもりだったということでした。自分は一か所に留まって仕事をする安定を求めたが、そればかりが人生ではない。歩みたい道があるのなら、親としてできるだけ背中を押そうと、そういう心持ちだったというのです。
 そうしてみると、両親は間違いなく善良な人間でしょう。そんな両親から、どうして私のような者が産まれたのか、不思議でなりませんが、ともかくも、この怒りから生まれた反発が、私がポケモントレーナーになろうとしたきっかけでした。そうして、私はずっとそれを曲げませんでした。一度こうだと決めたら変えることができませんでした。トレーナーになりたいと言っていたのに、後になって取りやめるなどすれば、「一貫性のない、意志の弱い人間だ」という誰かの声に嘲弄され、私を苛むに違いなかったからです。このように嘲笑されることを何より恐れたからです。誰かを嘲っているうちは、そんな心配をしなくて済むのです。自分を嘲弄した父に、父が嘲弄したポケモントレーナーとして大成することで、父を嘲弄し返してやるまでは、絶対に折れてなるものか、という、陰惨で陰湿な負の感情から、ポケモントレーナーを志したのであって、ポケモントレーナーになりたくてなったのじゃないのです。何だかんだ言ってポケモンが好きなのだろう、などというのは、詭弁でしかありません。

 そんなことが始まりでしたから、私はポケモントレーナーとして強さを追い求めなければなりませんでした。強くなりたい、のではなく、強くならなければまた誰かに(敢えて父に、とは書きません)嘲弄されてしまう、そう考えたのです。つまりこの世の、私の弱点を暴き出して嘲笑する可能性のあるもの全ては敵でした。自分が足蹴にしなければならない敵でした。そうでなければ私を足蹴にしてしまう敵でした。
 だから他人に頼るということがどうしてもできませんでした。それは自分の弱点を晒すことだと、信じて疑わなかったのでした。たった一つでも、ほんの僅かでも、弱点なり隙なりを見せれば、ビークインがこうげきしれいを出したときのように、自分の自尊心は群がられ、齧られ、跡形も無くなると、そう感じていたからです。自分の弱点を捉まえて針で突いてくる輩に出くわさないために、人の多い所ではぎょろぎょろと辺りを見回して警戒し、部屋で一人になったときようやく安心する、という生き方は、物心ついたときからずっとでした。つまり、猜疑心のみが、私の生きる指針であったのです。
 ですから、せっかく通わせてもらったトレーナーズスクールも、半年と経たずに辞めてしまいました。勉強ができなかったからではありません。在学中は誰より優秀でした。授業の内容など遅れて感じられ、鼻で笑って教室を抜け出してやろうかと思うほどでした。そんな一人抜け駆けした状態であれば、集団で何かをするということに、毎度毎度反発を覚えるのも自然かと思います。寄り集まっていれば強くなったように思える集団心理、口先だけで喚くスポーツマンシップや同情や哀憫、そうしたものが悉くつまらなく、まやかしじみていて、何の意味もないものだと、悟ってしまうものです。勝てないのなら、何の意味もないのですから、そうした人の情というものも、弱さに対する言い訳でしかなく、そんな言葉を弄しているようでは強くなれるはずもない、と強がりさえしたのでした。結局のところ、自分は選ばれた特別な人間で、周囲の愚昧な人間と同調しているようではだめだ、という認識もあったのでした。必然、思ってもいないことを口に出して、虚勢を張るようなこともしょっちゅうしていました。態度や舌鋒は大顎を見せつけて威嚇するクチートのようでしたが、その内側は抵抗する力のないトランセルで、身動きの取れない蛹であることがばれたくないがために、それはますます酷くなっていきました。だから当時の私は、周囲から相当嫌われていたと思います。
「ショウジ、お前、秀才なんだろう。俺とバトルしろよ」
 こうして声をかけてくる同級生は多くいました(自分で言うのもなんですが勉学では噂になる程度には私は優秀でした)。生意気な奴の(つまり私の)鼻っ柱をへし折ってやろうという心算だと解釈した私は、
「いいよ」
 とだけそっけなく返して、バトルコートに先に向かいます。トレーナーズスクールといっても、全員が全員自分のポケモンを連れているわけではなく、半分は私のように学校の授業用に育てられたポケモンを借りていました。他人のバトルを見て学びなさい、という教師の言葉を真に受けて、コートの周りには決まってギャラリーがいました。
 ほとんど、私は勝ちました。何故なら、負けてはならないという底意地、というより、負けたときに味わうであろう辛酸とそれを増幅させるであろう周囲の目に対する恐怖は、一切の容赦というものを許しませんでした。ポケモンの基礎的な知識のみならず、このスクールにいるポケモンのわざや特性や個体の癖のようなものまで、記憶に刻み付けた私は、バトルの鬼となっていました。ふぶきを覚えたポケモンがあられを使って来たら、すぐに別の天気わざで上書きしましたし、じゃれつくで何度も攻撃してくるポケモン相手なら、ゴツゴツメットを持たせました。相手が捕まえたてのピカチュウやイーブイであっても、容赦なくじしんやインファイトで沈めました。可哀想などという感情よりも、負けるわけにはいかないという恐怖の方が、よっぽど強かったのです。
「……対戦ありがとう」
 そう言って握手するときの相手方の顔は、決まって引きつっているように見えました。つまり相手は、私の鼻っ柱をへし折ろうとして、反対にへし折られたから、そうした表情をするのでした。そうでもなければ、可愛がっていたポケモンに対しても容赦ない私に、畏怖を覚えた表情でした。私はその顔には恐怖を感じませんでした。むしろほっとしました。なんだ、意地を張った割に大したことないじゃないか、と嘲って、痛快さすら感じました。そうして後から、相手や周囲からの報復を恐れ、がたがた震えたのです。
 だから、気持ちいバトルなどというのは、一度もしたことがありません。いつも重圧に抗い、相手を敵視し、徹底的に負けを見せつけることしか、私の頭にはありませんでした。当然、そんなバトルから、友情など生まれるはずもありません。友情というのは誰かに心を許すということで、つまりそれは、自分の弱点も晒してしまうということです。弱点を見せないために虚勢を張り、虚勢を見破られないために虚勢を張り、ということを繰り返す様子は、ハサミばかりを大きくして動けなくなるキングラーのようであったでしょう。近づいてくる者にその大きなハサミを振りかざし見せつける者と、仲良くなろうなどという人間など、存在し得ないのです。そうしてそれを、私は、自分の示威が効いたのであり、すなわち、自分は羨望されるべき、畏敬の念を抱かれるべき優れた人間なのだと錯覚し、ますます周囲を見下したのです。
 ほとんど勝った、と言うからには、負けたこともあるのだろう、と思われるでしょうが、ありました。一度だけ、負けました。私より年下の、秀才でも何でもない、どこか別の地方から修行の旅で立ち寄ったという、ただの女の子でした。私のウツドンを彼女のガバイトが沈めたとき、不敗だった私を負かした彼女への称賛がわっと湧きました。私は不快よりも、恐怖を感じました。そうしてそれは怒りになりました。歓声はもとより、ポケモンと共に喜ぶ彼女の様子すら、私への侮蔑となりました。「あんなに威張ってた癖して、あっけなく負けやがった、この高飛車野郎」という声が、混ざっていたように聞こえた私は、ボールを地面に叩きつけて走って去りました。書いても仕方のない事ですし、これ以上は書きません。

 友人の一人もできない私でしたが、一人だけ、どうにか人付き合いを続けている者が一人いました。
「えー、結局スクールやめちゃったんだ」
 私がスクールを辞めた時、冷淡なんだか驚嘆なんだか分からないこんな反応をした、長谷部ユキというのがその幼馴染の名前でした。近くに住んでいたのもあって、よく互いの家に上がり込んだものですが、まあ、ある種の腐れ縁のようなもので、私がこんな性格であることを知ってか知らずか、家族以外で一番顔を合わせた人間でありました。
「いいだろ、そんなことはどうでも」
 私の返しはだいたいこんなものでした。彼女はトレーナー志望ではありませんでしたし、当然ポケモンに関する知識も薄かったのですから、喋ってやっても分からないだろうと考えていたからです。それに、スクールで起こったことを一々説明してやるなどという面倒なことをしてやる義理もありませんでした。どうしてわざわざ、自分の醜態を自分の口から出して、自分の弱点を相手に教えてやらねばならないのでしょうか。どうしてわざわざ、そこを基点にして私を蔑む衆愚にそれを許さねばならないのでしょうか。だから私は、詳しいことを教えずそっぽを向くのでした。
「ショウジ君、絶対主席で卒業してやるって言ってたのに」
「……うっさいなあ!」
 キャスター付きの椅子ががちゃんと言いながら床に倒れました。さっと立ち上がった私に、彼女は幾許か驚いた様子を見せましたが、怖がりはしませんでした。こうして私が食ってかかるような真似をしても、怯えることのない強い子供でした。あるいは私がそうして虚勢を張っていることを見破っていたのかもしれません。
「別にあたし、ケンカしにきたわけじゃないんだよ? ただ『そうなんだ』って思っただけだし」
 私も別段、怯えさせるためにそうして怒って見せたわけではありませんが、そうして澄ました態度で居られるのもまた癪なものでした。私は悪態を吐き続けました。
「どうせ俺のこと嘘吐きだと思ってるんだろ。一番で卒業するって言ってたのに一番に落第したんだから」
「思ってないよ? スクールがどんなところかも、あたし分かんないんだもん」
 彼女に対してはそう敵意を抱かなかったのは、こういう所でした。彼女よりもポケモンのことにかけては確かに知識を持っていました。スクールの実状も、彼女は知らず私は知っていました。それはアドバンテージであり、私に優越感を抱かせるには充分な条件だったのです。自分より劣った者に対して劣等感を抱く理由はありませんから、当然、敵視する必要もなかったのでした。それに彼女は、私を煽てるのが上手かったのです。
「ね、それよりもポケモンの話してよ。あたしいつもショウジ君からポケモンの話聴くの楽しみにしてるんだから」
「……しょうがないなぁ」
 私はまた踏ん反り返った態度に戻って、その日図鑑を眺めて覚えた知識を、彼女の前で講授するようにして披露してやるのでした。
 私はこれを読むあなたが、私とユキとの関係を見て、思春期を過ぎた頃に互いを意識して恋仲になるような真似を想定する、下卑な人間でないことを祈ります。顔を合わす以上の仲にはなりませんでしたが、敵視して遠ざけるような不仲にならなかったというだけの、それだけの関係でした。私は結局のところ、好くとか、付き合うとか、愛するとか、そういう観念を持ちえませんでした。恋仲の果てに結婚などするということは、正気の沙汰ではないと切って捨てました。どうして誰かを傍に近づけて、弱みを見せなければならないのでしょうか。どうして世間一般の人間は、そうして相手に弱みを晒して、よくも平気でいられるのでしょうか。理解できないから、むしろ徹底的に敵視したのです。

 『手っ取り早く強くなるためには、強いポケモンを捕まえればいいではないか!』
 突然何を書き出すかと思われるでしょうが、スクールを辞めてから、どうすればポケモントレーナーとして大成できるかということをずっと考えた結果、こういう結論を導いたのです。
 また、ちょうどいいポケモンが近くにいたことも影響していたと思います。自転車で走って行ける距離にある林の中に、野生化した1体のジュカインがいたのです。無用に立ち入らない限りは攻撃性も低く、しかし縄張りを荒らす者は容赦なくリーフブレードを叩きつけて撤退させる、非常に手練れのポケモンでした。誰かが逃がしたキモリが繁殖したものの、その珍しさゆえに人間に乱獲されながらも、そのジュカインは並外れた経験値の蓄積ゆえに捕獲されなかった、というのがもっともらしいですが、詳しいことは今はもう分かりません。
 私は、座学の成績と、同級生とのバトルの経験で、すっかり鼻がダーテングのように伸びていたのでしょう。ジュカインを捕まえられないのは、捕まえに行く奴らが無能だからだ、自分になら可能に違いない、と思ったのでした。小遣いでモンスターボールを買い溜め、遊びに来た年上の従兄のハッサムを連れて(盗み出したも同然でした)、その林に踏み込んだのでした。ジュカインは草タイプで、主力のリーフブレードも草タイプだから、虫・鋼タイプのハッサムなら負けることはないはずだ、と睨んだからでした。それ以上に、私は、このジュカインを捕まえ、その強さを見せつけてやれば、皆私の前に平伏して靴でも舐め出すだろう、そういう卑俗な考え方が、私を支配していたのでした。私が12歳の時でした。
 結果はご想像の通りです。スクールで育てられたポケモンなどとは比べ物にならないくらいのパワーとスピードに、覆し難い経験値の差を見せつけられたハッサムは、3回か4回リーフブレードを受けて倒れました。
 ハッサムをボールに戻したとき、そのジュカインは私に攻撃してくることはありませんでした。噂では人間にも攻撃した事例があるということでしたから、最大限の警戒をしていたのですが、ジュカインはじっと私を見つめた後、次のポケモンを繰り出してくるでもなく自ら攻撃してくるでもない私を、もはや敵ではないと決めつけて、人の入れないような奥に去ってしまったのです。
 屈辱的でした。敵としてすら見られていない、ただ道を塞ぐ細い木をいあいぎりで切り倒しただけだ、といったような、澄ました、超然とした態度は、大いに私の自尊心を傷つけました。自尊心をポケモンに踏みにじられた屈辱は、従兄含む家族からの叱責など意に介さない程度には激烈でした。
 その日から私は、小遣いが渡される日にはすぐに自転車に乗ってフレンドリィショップへ走り、全額をモンスターボールに換えて、ひたすらジュカインの捕獲を試みました。今思えば、ただただ溝に金を捨てるだけの愚行だったと言えるでしょうが、当時の沸騰した頭では気付くのはどだい無理な話でした。あっさりハッサムを倒してしまったジュカインを、弱らせずに、バトルもせずに、しかも最安のモンスターボールで、偶然と奇跡に願いながら執拗に追い回して捕まえようとするなど、正気の沙汰ではなかったでしょう。
 この時点で、私は「このジュカインを捕まえないことには先には進めない」という考えに凝り固まっていました。あれだけ追いかけていたのに、中途で捕獲を諦めるということが、屈辱的だったからに他なりません。私がボールを投げ続けるのを止めた時、あのジュカインは私を下に見たまま、その認識を変えることはないと想像したとき、ひどい苛立ちを覚えずにはいられなかったのでした。何度もそのジュカインの前に立ちましたが、彼女(そのジュカインはメスだったのです)は私を傷付けることは一切しませんでした。今考えれば、無用な諍いを起こさない生きるための術であって、私を弄んで揶揄っているのではないことくらい理解できます。しかし当時は、相手にするにも値しないように見られていることに、足蹴にされている心情が優先し、反対に足蹴にしてやらねば気が済まなくなったのです。私はとにかく、勝つか負けるか、でしか物事を考えられない性分でした。完全な二項対立、完璧な排中律で以て、このジュカインに勝てなければ、それまでの一切が台無しになると、そう信じていたのです。それに、かつてのスクールの同級生に何かの弾みでこのことを、私が到底不可能な可能性に賭けて林の中を駆けずり回っている醜態を知られてしまったとき、自分は一体どんな目に遭うだろうか、と考えたとき、諦めるという選択肢は、自然と私の中から消えていたのです。
 しかしこうして書き連ねていると、私がギャンブルに嵌まらなかったのは実に幸運だったと言えるかもしれません。小遣いでモンスターボールを買い込むなど、可愛いものだったと今なら言えます。所持金を全て使い果たしてしまっても、恥辱の念に圧され、身を持ち崩していたに違いありません。善良で間違いのない人間である両親を破滅させてもなお止めはしなかったでしょう。あるいは破滅させて初めて、自分のしでかしたことに申し訳なさを覚えるのかもしれません。いや、どうでしょうか。両親を破滅させるのが申し訳ないというより、そのことによって担保されていた生活の安定性や世間体というものを失う原因が私であるということを、両親や世間に責められれば、私は自分が原因であるのに、自尊心を傷つけられた気になって、暴れ始めてしまいかねない、と想像したからでしょう。投げても投げても捕まらないジュカインを、諦められずに追いかけていたという事実が、私の偏執的な性質をよく示していると思います。
 最終的には、私はそのジュカインをボールに収めました。けれどそれは、捕まえた、というにはあまりにも無様でした。
 私はいつものように、ボールを買い込み、自転車に乗り、いつものように追いかけてボールを投げては避けられ、ということを繰り返していました。何度目だったかなど覚えてはいません。ただ、雨の多い季節で、その日も暗雲が空を覆っていました。私は、雨などに構っている暇はないとばかりにボールを投げつくしていました。
 私はその時持っていた最後のボールを投げ、ジュカインは悠々とそれを見切って回避しました。ボールは木に当たって跳ね返り、どこかへ消えてしまいました。私はボールを投げることにばかり重きを置いていたので、その足元に張っていた木の根に気付かず、足を引っかけて転びました。斜面を転げ落ちて、私は泥だらけになりました。そうして折悪く、暗雲から雨粒が落ち始めました。
 私はいつの間にか、声を上げて泣き始めていました。周りに誰も居ないことを幸いに、顔を思い切り崩して、わんわんと言いながら、情けなく泣きました。生意気にも、「どうして自分がこんな目に遭わなければいけないんだ」と恨みもしました。それが自分の選択に起因した結果であったとしても、誰かが悪いのだ、誰かが私を貶し、嘲り、嗤うために工作しているのだ、と敵意を抱いてしまう癖がありました。つまり、自分が恥をかく、自尊心を傷つけられることに対して、とにかく冷静さを失い、過剰反応して、外部に対し攻撃的になるのでした。擦り剥いた肘や膝などの痛みは、大した問題ではありませんでしたし、独りぼっちの寂しさなどは、全く意に介しませんでしたが、何度追いかけても上手くいかないことへの鬱憤と、服を濡らして体温を奪っていく雨は、とにかく状況の惨めさを増加させたことは間違いありませんでした。
 どのくらい、そうしていたでしょうか。
 ふっと顔を上げると、追いかけていたそのジュカインが目の前に立っていました。木の葉に当たって落ちてきた大きい雫が、頭の稜線から鼻先へ滑り落ちるのも構わずに、じっと私を見つめていました。暫くそのまま立っていましたが、やがて私の方に手を差し伸べて来ました。私はへたり込んだまま、下から恨みがましい目で見上げただけでした。転んで泣いて立ち上がれない、5歳や6歳の子供のように扱われたようで、ひどく憐れまれた気がして、屈辱的だったのです。それくらい他人を不憫に思う感情があるのなら、さっさと私の投げるボールに入ってくれればいいものを、そうでないなら突き放して関わらないでいるべきだ、と、叫んでやりたい気持ちでした。
 やがて業を煮やしたと思しきジュカインは、私の手を強引に取って、吊り上げるように立たせました。私は袖で涙をぬぐったあと、もう一度睨みつけてやりました。彼女はじっと私を見据えていました。微動だにせずに、見つめていました。彼女の目に宿っていた感情を、憐憫と侮蔑としか理解し得なかった私は、相手に下に見られているという事実を、受け容れ難く感じたのです。その目は、スクールの同級生たちから、あるいは街を歩く人達から、あるいは父から、向けられることを、一等恐れ、一等嫌った目でした。「この泣き虫の腰抜けめ」と、ジュカインにそう言われた気がしました。そして私は、脳髄を沸騰させました。我を忘れるほどの怒りを覚えました。これまでで一番の、峻烈で激烈な憤怒でした。
 私は、瞬間的で峻烈な感情を前にしては、理性など何の役にも立ちはしないと思っています。博愛だとか、慈悲だとか、そんなものは全部嘘っぱちです。全部自分の感情のためです。後々己を不快にしないために今の不快を我慢するための言い訳にすぎません。善行によって崇拝される者たちだって、下劣で卑俗で我慢ならない物にぶつかったとき、私と同じように怒るに決まっているのです。ただ、彼らの前に偶々それが現れなかっただけで。所詮、人間は感情の奴隷なのです。それは私だけではなく、人間そのものの資質なのです。皆同じです。所詮人間なんてそんな卑俗な存在なのです。でなければ、私はあんなことをしなかったでしょう。
 私は、ポケットの奥に隠し持っていた、たった一つだけ持っていたハイパーボールを、本当の意味での「隠し玉」を、ジュカインに向けて投げました。至近距離だから、回避することができなかったのか、それとも敢えて避けなかったのかは、今ではもう分かりません。ジュカインは赤い光に吸い込まれ、ボールに格納されました。
 真にトレーナーとしての矜持があれば、否、人間としての良心、当然の道徳があれば、ジュカインが近付いてきた隙を狙ってボールを投げるような真似はしなかったでしょう。道義を無視した不意打ちでした。善性を踏みにじった悪行でした。そうしたものを踏みにじってでも、ジュカインに舐められたままでいることに、耐えられなかったのだろうと思います。
 ボールは3度揺れて、最後にはぴたりと落ち着きました。
 その時の私の感慨は、成したことに対してあまりにも希薄でした。確かに、乗り越えられなかった壁を乗り越えたという歓びはありましたが、子供らしく跳び上がって喜ぶことも、それを家族に伝えて共有することもしませんでした。ただ粛々と、腰のホルスターにボールを仕舞ったのでした。そこには結局、自分を足蹴にして自尊心を害そうとする相手を下したことに、いくらかの安堵を覚えたというだけだったのです。これで、もうこれ以上醜態を晒すことはない、と思いました。

 しかし、恐らくはあなたのご想像のとおり、そう上手くはいきませんでした。
 まず第一に、私はポケモンの育て方を知りませんでした。そうして知らない状態で、完璧を目指そうとしました。わざわざ完璧でないポケモンを育てるのは、泥臭くて非効率でした。例えばその辺りをうろついている短パン小僧などは、野生のポッポやコラッタを捕まえ、ピジョンやラッタに進化させる体験をします。虫取り少年は何とかトランセルやコクーンに経験値を積ませ進化させようと子供なりに工夫を尽くします。そうした泥臭い、稚拙で、回りくどい方法を、私には必要ないと吐き捨て、私なら必要ないと断じて、すっ飛ばしてしまったのでした。強くなりたいと願うのなら、そんな弱いポケモンに構っている時間など、無駄の極みであると、そう断じていたのです。あるいは私がそんな弱いポケモンを連れることで、私の自尊心が傷つくかもしれなかったからでした。「あいつあんな使えないポケモン使ってるぜ」などと嗤う誰かを、私は勝手に創作し、頭の中に住まわせてしまいましたから、なおのこと、完璧でないものが許せなかったのです。スクールで育てられたポケモンに、戦術的な粗を感じすらしていたくらいですから、すなわち、要求されるハードルは、必然高くなったのでした。
 第二に、私は他人に頼ることがどうしてもできませんでした。ミニスカートや塾帰りなどは、クラスメイトや近所付き合いでバトルをし、その少しずつの蓄積を力に変えていきます。しかし彼ら彼女らのバトルは、例えばひたすらはたくやたいあたりで攻撃し続けたり、なきごえやしっぽをふるを繰り返してばかりで全く攻撃しなかったり、戦術も何もあったものではありません。そうしたバトルもやはり、私はお遊びと断じて忌避しました。さりとて、熟練のエリートトレーナーなんかに喧嘩をふっかけることもできませんでした。どんな相手であれ、負けた時の屈辱を考えると、誰ともバトルができなかったのです。負けもまた経験であり、何故負けたのかを分析することもまた成長であるということを、理解こそすれ、自尊心が邪魔をして実戦には移せませんでした。つまり私は、自分と程よく張り合えて、しかも私より程よく弱いような相手しか受け付けられなかったのでした。
 第三に、そのジュカイン(私はそのジュカインを「ニーナ」と名付けましたから、これから先そう書くことにします)も、数多のハンターを返り討ちにした野生の一匹狼とはいえ、経験値を多く積んだだけの完璧ではないポケモンでした。バトルに必要な能力がとびきり高い理想的な個体というのが、バトルの世界では求められていることくらい、ご存じかと思います。そんな個体を見つけるために、ひたすらにタマゴを孵し続けるトレーナーもいるとはいいますが、それもまた、時間がかかるだけの無為な作業だと判じた私だからこそ、強いポケモンを捕まえればいいという思考に至ったのでしょうし、頑固で融通の利かない私のことですから、ニーナをひたすら強くする、理想個体ではないなら理想個体を育てる以上の努力でそれを埋め合わせる、という思考に陥るのは必然でした。
 最後には、とにかく私には焦りがありました。11歳からトレーナーとして旅に出ることが許される状況において、すでにその歳を過ぎていた私は、出遅れていると感じていたのです。こうしてぐずぐずしているうちに、スクールの同級生が旅に出てバッジを手に入れたりしているかもしれない、ニーナより強いポケモンを連れ実戦の知識も蓄えて私より強くなっているかもしれない、そうなったら私は逆立ちしても勝てないで、その同級生に「あんなに秀才ぶってたくせに、まだ旅立ってもないノロマじゃないか」と嗤われてしまうだろうと思いました。そのうえ誰にも頼らずに強くならなければならないという重責を勝手に自分に与えていました。そうしたことを考えずにはいられないで、いつもイライラしていました。
 だから、ほんの少し気に食わないことがあればすぐに怒りのメーターは振り切れました。そうして私は、彼女に始終手酷い言葉を投げました。
「どうして俺の思う通りに動かないんだ、この愚図!」
「俺の言うことに従わなかったらダメージ受けるんだ、思い知ったろう!」
「いいから従え! 俺はお前のトレーナーだぞ!?」
 こんな調子でした。傍から見れば虐待に見えたでしょうし、実際ユキにはそう見られていたのだと思います。けれどユキは結局、暫くは何も言わないままでした。いよいよ私の罵倒が酷くなってきて初めて、そんなのじゃポケモン可哀想だ、などと口出しをしてきましたが、ポケモンのことを何も知らないくせに、と私が癇癪を起こしてからは、口出ししてこなくなりました。それで私の言動はますます粗暴になりました。ニーナを捕まえた林の中で、ひたすらふたりきりで、ポケモンバトル関連の本から得た訓練法ばかりを試していたのでした。
 その訓練法というのも、結局は本からの受け売りを、子供らしい安直な思考で改悪したものでした。具体的に何をどうしたかなど、今ではもう覚えてはいませんが、とにかく独学で、仮想敵をどのポケモンとして置くか、そのポケモンがどんなわざを、どんな戦法を使って来たときにどんな対応をすべきか、ということを、少ない経験だけを当てにして考えつつ、具体的にどう動くべきかを教えようとしました。そんなものは口で伝わるものではありません。それに実戦経験の乏しい自分とニーナが、独学で強くなろうなど、無策無謀にも程があったでしょう。必然、私とニーナとの間にすれ違いが生じ、私の思う通りに動かないのでした。今ならば、赤子から知育玩具を取り上げて指数関数を教え込むような飛躍した方法だと言えますが、沸騰した頭では気付きようもなかったのでした。
 何が一番癇に障ったか。それは、こうした罵詈雑言を投げつけたときのニーナの顔でした。顔全体では不満を示しながら、その目はまた哀憫の色を見せたのでした。捕まえた時、雨に濡れながらこちらに向けてきた目と同じでした。その度に私は屈辱を覚えました。あの時、ニーナを捕まえたときの屈辱をまざまざと思い返しました。一度きり弱みを見せたことが失敗だったのだと思いました。そうしてまた罵倒しました。私の方が上なのだと知らしめようとしました。泣いて許しを請うて足元に縋り付くまでは許してやらない、あるいは自分の思う通りの動きを見せないのであれば承知しない、というのが、私のその時の二者択一でした。
 そうしてニーナは、最後には私の理想の動きをしてみせました。細かい粗を見つけて、完璧じゃないからもう一回やれ、何度でもやれ、そう叫んでやることもできないくらい完璧でした。そうして私は、ようやく満足し、慰められたのです。しかし同時に、憤懣をも抱え込んだのでした。今の今まで理想通りの動きをしてこなかったのは、こいつが私を揶揄っているからに違いない、できるのにわざと間違って、私が真っ赤になって怒るのを嘲笑し、それに飽きたからようやくやってみせたのだ、と思いました。だから、成功させたニーナが少しでも喜ぶような様子を見せればまた罵倒しました。私は眉に皺を寄せてニーナを睨み、ニーナは無表情で、その日の特訓を終えるのでした。

 彼女が私に付いて来た理由を、今なら明白にここに書き出せる気がします。彼女と出会った時、それからずっと言うことを聴かない彼女に怒鳴り散らし、当たり散らし、怒りばかり感じていた頃には考えもつかなかったことです。
 彼女は野生の中でひとりでした。同種族は皆いなくなり、またそこに棲む他のポケモンたちにとっては、彼女は異物でしかありませんでした。野生化してから殆ど根絶やし状態になるまでに、彼女はお客様から仲間に格上げされることなく、孤独だったのだろうと思います。それは彼女を追って林の中を駆けずり回っていた私が、その目で見たことでした。他の野生のポケモンは、私を避けるのと同様に彼女を避けましたし、例えば彼女を庇って前に出てくるようなポケモンもいませんでした。それに彼女に比べれば、周囲のポケモンたちのレベルは低いと一目見て分かりましたから、つまりは孤高ですらあったのです。
 彼女は何かとの繋がりに飢えていたのです。誰かから承認を受けたいという欲求に、塗れていたのです。
 私が彼女を追いかけたという事実がそれを満たしました。他のポケモンに目もくれず、何度も執拗に、自分を追いかけてくる私という人間が、敵となるようなポケモンもおらず、経験値を積むこともできず、力を誇示できなかった彼女にとって、唯一、自分の身体能力を活かし得る相手だったのです。だから、あの雨の日、転んで泣きわめく私のところへやって来て、私を立たせすらしたのは、つまりその時、完全に私を自分に屈従させたという多幸感に、達成感に、酔いしれていたからにほかなりません。彼女はあのときようやく、自分の力を誇示できたのでした。誇示できる、相手を見つけたのでした。だから私のボールに入ったのでした。自分の力を見せびらかし、「どうだ他のポケモンにはできないだろう、ましてやお前にはできないだろう」と偉ぶることは、彼女にとっての麻薬でした。私の近くにいれば、その麻薬は絶えず供給されると、彼女は一瞬で理解したのでした。そうして私の拙い面罵を、心の内で嘲っていたのでした。
 だから結局、彼女は最後の最後まで、私を下に見ていたのでした。屈辱的!

 こうして書き連ねてみると、私の今までの人生はこうも暗いことばかりだったのかと思われてくるのですが、事実もう、こんなことばかり思い出して、嬉しかったことや楽しかったことなど、その時の感情と一緒に出来事を思い出すことができなくなっているのです。一世一代のバトルに勝ったこともあります……ただ、そうした明るい思い出も、もう私を慰めるには不足なのです。過去の栄光に縋って現在の苦しみを無視したところで、見ないようにしているに過ぎず、苦しみはなくなりはしないのです。いっそ書き連ねていくことで、自分の苦しみを増してしまったような気さえします。
 ですが最後まで書き続けることにします。結局、自分自身からはどうあっても逃れられないのです。これだけ傲慢で人でなしな自分が嫌なのだとしても、死んでしまわない限りは、逃れられないのです。ですから死ぬ前に、書くべきことは書いておこうと思います。

 15のとき、私はある人物に会いました。ウエダ君、と、私とユキはそう呼んでいました。上田と書くのか植田と書くのか、はたまた別の字なのか分からないので、カタカナにしておきます。私達よりも年下で、ユキの紹介で知り合ったのでした。ちょうどコガネシティのポケモンセンターのカウンターにいた彼と、回復しようとドアを潜った私とが鉢合わせしたとき、ユキが彼の傍らにいたのでした。
「やあどうも!」
 会う度いつもそんな風に声をかけてくる彼のことを、トランプのジョーカーに描かれた道化師のような奴だ、と思いました。さも他人の機嫌を取るのが得意だと言わんばかりに愛想を振りまいていましたし、冗談で人を笑わせることもありました。私はそのいちいちに裏を感じずにはいられませんでした。内心では「人を誑かすなんてちょろいちょろい」と思っていそうな彼に、不快の念を覚えたのです。快活で人のいい人間にそういう印象を抱くほど、私は捻くれた人間だったのです。こういった手合いには、スクールでもなるべく関わらないようにしてはいたのですが、顔を合わせ、挨拶までしておきながら、そのまま去ってしまうなどというのは、他人に対してびくびくしている意気地のない奴だということを示すだけで、そうは思われたくはなかったので、どうにかこうにか話をしたのでした。
 私はこの頃には、幾分かは自尊と虚栄とを抑え込むことができるようになっていました。多少なりとも、自分を客観的に見つめ、劣っている部分を劣っていると自己暗示をかけなければ、周囲に適応できなかったからです。ただ山の中で無意味な特訓を続ける生活から、他人とバトルができ、勝っても相手を馬鹿にすることなく、負けても癇癪を起こさず、見せかけだけでも気持ちいいバトルだったと思っているように振る舞えるまでに、3年もかかったのです。
 聞けば彼もまたポケモントレーナーで、ジム巡りの旅をしている最中だということでした。実は同じくコガネシティの出身で、10になる前にワカバタウンに引っ越し、ジョウトの東の端から旅を始め、既に3つ目のバッジに挑戦するところだということでした。ちょうど戻ってきた彼のポケモンを見せてもらいましたが、なるほど、よく育っているうえ、トレーナーにきちんとなついているようでした。私はそのポケモンたちを見て、ひどく劣等感を覚えたのです。同級生どころか、敵とも見ていなかった年下のトレーナーが、旅立って間もないうちにもう3つもバッジを獲得し、これだけのポケモンを育成しているという事実に、怯えさえしました。実際私は、彼の中にチャンピオンを超えるものを見たのです。
 その時に私は、負けたくない、虐げられたくないという一心で虚勢を張りました。
「このポケモンにはこれを覚えさせた方が良いよ」
「この個体、素早さが高いみたいだし、こういう戦術をおすすめするね」
 そういって、いかにも自分はポケモンマスターのような知識も経験も豊富な人間のふりをしました。素麺と冷麦の違いは何かと訊かれれば、使っている小麦粉の種類だと自信満々に宣う食通よりも、なおタチの悪い虚栄でした。今思えば、なんという不躾なことをしたかと恥じねばなりません。ですが、そうしてでも、私は年上として、先輩として、何とか威厳を保ちたかったのです。「先輩、年上なのにその程度なんすか」などと、年下に嗤われるような事態を、何としても避けたかったのです。
「へぇー、そうなんですか! ありがとうございます! やってみます!」
 そう言う彼の目はどこまでも実直でした。私と違って、どこまでも正直でした。私は自分の愚かさを悔いながら、何とか笑顔を取り繕って見せました。素直な尊敬が向けられることに、半ば酔っていたのです。本来ならば、下手に出て相手を立てる彼の人付き合いの上手さに、度肝を抜かれ二度と彼の前に顔を出せないような羞恥を覚えて然るべきところを、私は彼の言葉を額面通り受け容れ、そうして彼を私より劣った、無知で無学で無警戒な奴だと見做したのでした。
 それからも何度か、私とユキとウエダ君とは、顔を合わせることがありました。とっくにバッジを取って旅に出てもいい頃合いなのに、わざわざコガネのポケモンセンターに来ていることに、最初私は、私を尊敬しているからだという、何とも身の程知らずな考えを抱きながら彼らと付き合ったものでした。私があの場で気まぐれで見せた、本でちらりと見た程度の、あるいはほとんどでっち上げの知識を、彼は信じている、そう思っていたのでした。そうして私はますます鼻を高くしました。騙されやすい馬鹿な奴だと卑下しさえしました。そうして後に引けなくなりました。後になって、あれは勢いで言った何となくのアドバイスなんだよ、などと、体面を考えれば言えるはずもないのですから、何の益にもならないようなアドバイスをし続けたり、時にはほらも吹いたりしました。そうして私は、ずぶずぶと深みに嵌まっていったのです。

 そうしてある日、私はユキと会いました。ウエダ君はおらず、二人きりでした。思春期の男女が二人きりで、という状況に、何かを期待する私ではありませんでしたが、事実、その内容も色恋沙汰では全くなかったのでした。
「ニーナを、ウエダ君に預けるのはどう?」
 あまりにも唐突な提案のようでしたが、彼女なりの理由はありました。
 私とニーナとの関係は、数年経っても悪くなる一方でした。罵倒こそしなくなりましたが、ほとんど向き合うことを止めてしまったのです。必要に駆られてバトルをすることがあっても、称賛の言葉一つもかけませんでしたし、向こうも求めもしませんでした。ただ機械のように繰り出し、機械のようにボールに戻す、それだけでした。別居寸前の夫婦と喩えるのも、間違いではなかったでしょう。
 この時には、もう既に、私はニーナを連れていることに嫌悪を覚えていたのです。既に彼女は私にとって、自分の今までの失敗の、あるいは、どうしようもなく悪辣な性格の、象徴のようになっていました。顔を見れば、私がニーナに向けた罵倒を思い浮かべました。戦いぶりを見れば、こいつに関わったせいで自分はこんなに苦しむ羽目になったのだという黒い情念を復活させました。それは私の完璧主義の延長線でした。つまり、何かに成功しても、あの時ああしていればもっといい成果が得られたに違いない、ということを考えずにいられないのでした。どんな大きな大会でどんな強者に勝ったとしても、そのバトルの中のたった一つの失敗を引きずらずにはいられませんでした。そうしてニーナを見るたびに、そうした失敗を悉く思い出し、不快の念を覚えずにはいられなかったのです。自分自身が、完璧ではない自分自身を、徹底的に敵視し始めていたのです。
 そうしてずっと、ニーナを逃がすという選択ができなかったのは、捕まえるときに要した労力を無駄にする、あるいは与えられた屈辱を与え返していないからでした。ニーナを捕まえるときと同じでした。あれだけ追いかけておきながら、今さら逃がしてしまうということは、その努力を、時間と費用の投資を、無駄にしてしまうということでした。自分はできる奴だ、特別な人間なのだという自己暗示をかけながら、そうした矛盾する行動を取ることは、どうしてもできなかったのです。逃がそうとする度に、「あのときああだったのに、今さらそれを覆すというのか」という誰かの声を聴きました。「一度取った立場を貫き通さない嘘吐きめ」と蔑まれました。「途中で投げ出すような軟弱者め」と罵られました。そうして、逃がすこともできず、そんな声を発させるニーナを憎み、進むことも退くこともできなくなっていたのです。
 ユキはそのことに気付いていたのでしょう。だから、私とニーナを少なくとも一度別々にして、私に心を落ち着けて欲しかったのだろうと思います。それに、ウエダ君がニーナの才能を見抜いていて、彼ならば信頼できるし、バトルの才能を今の私の生活の下で発揮するのではなく、今まさに成長中の彼の許で発揮するほうが、ニーナにとってもよかろう、というのです。それは確かに彼女の親切でした。そうして私はその親切に、悪意で返したのです。ニーナに対する罵倒を知っている彼女が、ニーナに可哀想という念を向けたのだと思いました。それはすなわち、手酷く扱った私への報復の意味合いがあるのだと思いました。私は癇癪を起こし、言い合いを始めました。
「今までニーナの酷い扱いを止めもしなかったくせに、偉そうに言うな」
「止めたけど言うことを聞かなかったじゃない」
「止まらない程度にしか止めなかったんじゃないか、そんなの止めたって言わない」
 ユキはしかし、なかなか引き下がりませんでした。顔見知りが苦しんでいるのを、助けたいと思う真心だったのでしょうが、真心すらも、私は信用できなかったのです。許容するだけの余裕も存在しなかったのです。所詮、私がこの先自棄を起こしたとき、私がユキに逆恨みを向けることを、ユキが怖がったからでしかなくて、私の事情など何にも考えていやしないのだと思い込みました。それに、「自分の手持ちを易々と売り渡す意志薄弱な奴だ」あるいは「他人の言うことにへこへこと頭を下げる不甲斐ない奴だ」という誰かの声を聴いてから、ますます私は強情になりました。とにかくあれこれと理由を付けて断ろうとしました。後から思えば、それは一から十まで筋の通らない言い訳じみたものでした。
 しかし数日後には、私はウエダ君にニーナを渡すことを決めました。それは、頼まれたからでも、ニーナのためを思ったからでもありませんでした。単純で幼稚な、自分のものを取られたくないという意地と、ずっとこのニーナを傍に置く苦しみを味わい続けるのとを、天秤にかけたとき、もうすっぱりニーナとの関係を清算してしまう道を選んだ方が、幾分か楽になるだろうと思ったのです。そうして同時に、自尊と虚栄で以て、所詮完璧でないポケモンだ、自分にはもはや不要だ、役に立たない、などとニーナをこき下ろしました。そうして同時に、こんな奴に目を付けるなんて、ウエダ君も所詮その程度だったか、と冷笑すらしていました。つまり、自分がニーナを手放すことを、合理化し正当化したつもりになったのでした。
 彼は律儀な人間でした。
「流石に、ただ預けてもらうだけだなんてできませんよ」
 しかし彼のパーティメンバーを崩すわけにもいかず、またポケモンを受け取ればニーナの二の舞になると踏んだ私は、ちょうど彼の抱えていたポケモンのタマゴを要求しました。彼は了承し、交換が成立しました。
 交換の後に彼らと別れ、一人になったとき、私は自分でタマゴを要求しておきながら、屈辱を覚えたのです。紛れもない逆恨みでありながら、激烈さは群を抜いていました。私が自分の手持ちにすることを認め、恥辱を押してまで捕まえ、苦心して育てたポケモンを、戦えもしないタマゴなどと交換するとは! そうして何故、ウエダ君も私の提案を断らなかったのか! トレードのレートとして合っていない提案を突っぱねず、むしろ自分が得をするのだと舌なめずりをして、私が損をするのを心の内で嗤っていたに違いない! 私はウエダ君のことを強欲だと心の内で非難しました。今でもまだ、そのタマゴは孵していません。それ以降、直接彼に会うことすらもしませんでした。……憎々しい彼のことを思い出すタマゴを抱えて歩くなど、誰ができるものか!

 そうして彼は私を、私がしがみついていた目標や夢のようなものを、易々と超えてしまったのです。詳しいことなど、書かずとも理解できると思います。

 そうして、彼のポケモンに焦点が当てられた番組も流されたりしました。無論、ニーナのことについても流されました。コメンテーターは、他のポケモンと同じように、ニーナのことも褒めました。「このポケモンを育てたトレーナーは実に優秀ですよ」などと、私の存在を仄めかしましたりもしました。
 本当はああして紹介されるのは、ウエダ君ではなく私であるはずだったのに、という嫉妬めいた後悔もありました。どうして大したことも無いはずのあいつが頂点に立っているのだ、という不合理への不満もありました。私というものがありながら彼に完全に魂を売ったのか、とニーナを責めもしました。
 しかし一番つらかったのは、その称賛でした!
 今まで私は、自分の周囲のごく狭い範囲で自尊心を守り続けられればよかったのです。むしろそのために、虚勢がばれないためだけに、交友関係を極限まで絞ったのです。しかし、彼は一躍トップクラスに躍り出ました。そして、彼と並んで立ったポケモンたちに混ざるニーナも同じくでした。そこで私が抱いたのは、耐えられないほどの、狂気に走りそうなほどの恐怖でした。ニーナのことを褒められれば褒められるほど、注目されれば注目されるほど、私は責められている気分になったのです。何故なら彼女は、私の悪辣さの象徴であり、幼稚で非情な性質の象徴だったからです! 完璧ではない、私の弱点を、全世界に知らしめてしまったのです!
 そうして私は、私の弱点に寄って集って責め立てる声を、多数の声を幻聴したのです。成功を収めた彼に、道化師などという謂れのない嘲笑を向けたのは誰か。こんな才能のあるポケモンを、ずっと手許に置き続けて才能を殺していたのは誰か。何より、そんな才能あるポケモンに対し、罵詈雑言をぶつけ、不快を抱かせるだけの置物としていたのは誰か! こうしてニーナのことを知った人間は、いずれ私がニーナにぶつけた罵倒を、ニーナの扱いを知るだろうと思いました。ウエダ君もまた、私が彼に虚勢を張り、騙し続けていたことを悟るだろうと思いました。私がいくら隠し通そうとしても、どこかの誰かが暴き出すだろうと思いました。そうして、隠し通そうとした事実を、叩くだろうと思いました。私が世間を徹底的に敵視したように、ウエダ君も世間も、私を徹底的に敵視するだろうと恐怖しました。「弱い者にも手心のない人でなしだ」と言われることを恐れました。「虚勢ばかり張る嘘吐きだ」と罵られることを恐れました。「父親を感服させることもできない親不孝者」「秀才でも何でもない劣等生」「自尊心の無駄に高い高飛車野郎」「友人を一人も持てぬ異常人格者」「1匹のポケモンを追い回す偏執狂」「上手くいかないことがあるとすぐに泣き出す弱虫」「それを隠そうとするために罵倒を繰り返す口汚い小童」……。いかにそんな罵声を抑え込もう抑え込もうとしても、次々と湧き出て止まりませんでした。自分の矮小さを、突き付けられてしまったのです。そうした矮小な自分を隠して隙の無い人間を演じることの、どう足掻いても不可能なことに、絶望してしまったのです。
 そうした世間から来るであろう非難の、その幻聴は、私がずっとずっと、屈辱的だと怒り、踏みにじられたくないからと虚勢を張り、嗤われることを避けてきた努力というものを、その一切合切を、完璧に、無為なものにして、私の唯一の拠り所であった自尊心を、蹴飛ばし、踏みつぶしてしまったのです! 私が誰より優れていて、称賛されるべき、凡俗とは違う、完璧な人間、そんな人間ではあり得ないということを、明るみに出されてしまった! それどころか、自分が愚昧と嘲った誰よりも、低俗で、卑劣で、どうしようもない人間であることを、今まで気付かないフリをしていたその事実を、誰あろう、私自身が、私自身に突き付けてしまった!

 私は、私自身が完璧でも何でもない人間であることを、とっくに気付いていた! それこそが私の弱点だった! 弱点を見せないように、どれだけ虚勢を張ったことか!
 それが、どれだけの苦痛だったか! 心臓を握り潰し、五臓六腑を焼き、血管に熱水を流し、リンパ腺に毒を通し、皮膚を零下に晒し、爪を引き剥がし、脳髄を食いちぎり、肉という肉を引き裂き、骨を悉く撃砕し、神経に楔を打ち込むような、苦痛! 苦悶!
 そうして全部無駄になった! 私の人生の一切は無駄だった!
 どうして、自分だけがこのような苦しみを味わわねばならないのか! 私よりも役に立たない、愚鈍で、幼稚で、価値のない人間など掃いて捨てるほどいるというのに、なぜ自分だけが! どうしてそんな衆愚どもに、踏みにじられ、嬲られ、屈従させられねばならないのか! どうしてそんなことを恐れながらびくびくと生きていかなければならないのか! 下らない! 糞食らえだ! 全くもって糞食らえだ! 心にもない世辞を繰り返すのが偉いというのか! プライドを切り売りするのが賢いというのか! 物事の本質が見えていもしない、エゴと印象とその場の感情のみでしか動けない、そんなものが世間一般で、民意で、権力があるだなんていう妄言を、一体どこの誰が信じられるというのか! そんな群衆から脱け出そうとする者を徹底的に叩いて押しつぶしてしまう集団心理! ああ醜い! 醜い! 理性的なんて嘘っぱちだ! どいつもこいつも「こう」なのだ! 誰も自尊心を傷つけられながら、我慢なんてしていやしないのだ! たまたま一致したエゴに正義なんてお題目を付けて、自由だ平等だと駆けずり回り、非力な個人を叩きのめすことの、何が美しいのか! どこが崇高なものか! 感情が靡けば正義を悪に悪を正義に変え、満足するまで散々に叩く奴らを、一体どうして信用できるというのか! そんな奴らのどこに価値があるというのだろう! 狂っている! 全くもって、この世の中は、狂っている!
 私を蔑む全ての人間に呪いあれ! 全ての人間に災いあれ!



 ああ……どうして、こんなに苦しいのに、誰も助けてくれないのだろう……。















5.

 留守録の件はどうしようもないから、心にもない世辞を言ったのだということにしておく。ついでに、そういう無垢な称賛があいつを追い詰めたのだという筋書きにしたのだから、問題ないだろう。
 少しばかり熱の入り過ぎた文章になったのは否めないけれど、あんな事件を起こす奴だから、これくらいがちょうどいいのだと思うことにしよう。自己顕示欲の強い奴らしく長々しく書いて、その中で徹底的に「嫌な奴」なキャラクターを作らせて、読んだ人間の感情を逆撫でしてしまえば、同情する人間もまさかいないと思う。こんな奴なら、あんな事件を起こしてもおかしくないと思われるはずだ。アイデンティティークライシスで世間に傷を負わせた人間として、むしろ徹底的に非難されるに違いない。
 それに、彼のポケモンで、フーディンのテレポートであいつの部屋に忍び込んだし、文書のタイムスタンプもポリゴン2で偽造したし、忍び込んだ痕跡が分からなくなるくらいにカイリューのぼうふうで部屋を散らかしておいたし、なんならジュペッタに野生のカゲボウズを大量に呼び寄せさせていかにも恨みを抱えていたような工作もしておいた。
 何より、アローラペルシアンのさいみんじゅつで眠らせたジュカイン、ニーナの腕の葉に、同じように眠らせたあいつの、庄司宗憲の頸動脈を切って、血をべったり塗り付けて、部屋にほったらかしておいたのだから、あの文章を書いた後であの事件を起こして、良心の呵責に耐えかねて、返してもらったニーナに介錯してもらった、あるいは、ニーナが主を咎めて私刑を下したのだ、と、そう判断されるに違いない。
 ニーナとあいつの関わりと、通り魔殺人との動機を、繋げずに考える人間なんて誰もいないだろう。
 本当は、事件を起こしたタイミングも、ただの偶然なのだけれど。

 本当に使えない奴だった。あのジュカインが強いポケモンなのは知っていたから、あいつに捕まえさせて、育てさせて、彼の――上田ウエダ章司ショウジ君の戦力にしたら、後は用なんてなかった。大人しくしていればいいのに、あんな事件を起こすなんて。
 あんな男とポケモンを交換して、そのポケモンと頂点を取ったなんて、章司君の一生の汚点になってしまう。もとから、同郷で、いつも上から目線で接してきたあいつなんか、嫌いなんだ。口先ばかりで何もできやしなかったあいつなんか、頂点を取った章司君の足元にも及ばない。
 けれど事実は変えられない。ポケモンに刺青のように彫られたIDとおや名は変えられない。ニーナがあいつが捕まえたポケモンであるという事実は、消したくても消せない。
 だったらせめて、「栄光を勝ち得て帰ってきたけれど、それを歓迎しなかった主人」像を作り出しすしかない。チャンピオンを勝ち得たポケモンを恥の象徴と思う暴挙も、あいつが狂って自壊したというシナリオなら納得させられるだろう。いかにも、自尊心が高くて高慢なのを苦にする人間らしく、世間全体に恨みを抱いて暴挙に出る人間らしいじゃないか。
 章司君が、あるいは章司君の彼女である私が、あいつに何かしたから暴れた、あんな事件を起こした、なんていう筋書きが描かれる可能性自体が、章司君の汚点なんだ。そんな可能性は、絶対に潰さなきゃならない。
 だからこうした。遺書めいたものを偽造した。他殺にしろ自殺にしろ、ニーナがあいつを斬ったという証拠を偽造した。あたしたちがあいつの凶行に何か関係があるんじゃないかっていう疑いを、避けられるように工作した。章司君は何も知らなかったし、私は何も知らなかったフリをすればいい。私達以外に知り合いなんていなかったんだから、これで真相は闇の中。
 ちっとも悪いなんて思ってない。
 お互いに愛し合っている、あたしたち二人のためなんだから!
 章司君は完璧じゃなきゃいけないんだ、絶対そうだ! 一切の汚点なく、チャンピオンにまでなったんだから、それを穢すなんて真似、あたしが絶対許さない!
 彼のためなら、何だってやってやる!

「ユキ、どうしたんだい?」
 上田章司から唐突に声をかけられて、長谷部由希ハセベユキは我に返る。10年前からずっと変わらず向けてくれる、無垢で優しい笑顔がそこにはあった。
「ううん、何でもないの。……好きよ、章司君」
「何だい、突然に?」
 由希はにっこりと笑顔を浮かべ、
「何でもないのよ……何でもね」