英雄もどきの全力演技

【一】


 いつも夢見ていた。自分ではない仮面を身に纏い、異なる存在を演じる。きらきらと熱く輝かしい世界。役者の揃った決められた話の中で、物語を完成へと導く。出来上がった作品を観せ、観客を喜ばせる。俗に俳優と呼ばれる職。それは選べなかった未来。
『真実と理想の使者、ルカリオキッド、参上! 止めるんだ、ハチクマン!』
『やはり邪魔するのは貴様か、ルカリオキッド! ファファファ! もう我輩はハチクマンではない。ブラックホールの力を吸収して生まれ変わった、ギャラクシー・ハチクマンだ!』
 闇が立ち込める視界。唯一光る幕の中で、世界は躍動していた。銀幕には仮面を着けた少年と青年の姿。少年は戦隊ヒーローを、青年は悪役を彷彿とさせる衣服を身に纏っていた。広い渓谷の場。吹き荒れる風にマントをはためかせ、互いにモンスターボールを握る。びしっと相手を指してポーズを取り、軽やかな投球。手持ちのポケモンを繰り出した。
『どんなに強くなろうと、お前の悪行を許すわけにはいかない! ゆけっ、ルカリオ!』
『ゆけ! ゾロアーク! あの時の敗北の味、今度は貴様にも味わわせてやろう!』
 両者の掛け声が開戦の合図。ルカリオは蒼の力を、ゾロアークは黒の力を掌に集束。蒼の“はどう”は圧縮された球となり、黒の“はどう”は破裂間近の風船のように膨らむ。片方は光弾として、片方は弾けて波状となって撃ち出された。衝突、爆発、霧散。相殺で白煙が立ち込める中、ヒーローと怪人の指示が飛び交い、ルカリオとゾロアークの肉体がぶつかり合う。同時に、ヒーローと悪役が視線で火花を散らしていた。
 『ハチクマンの逆襲』シリーズの正統な後継、リターンズの続編として打ち出された『帰ってきたハチクマン』の公開日。キャストを変更した事で不安の声も上がっていたが、それは世間の杞憂でしかなかった。臨場感溢れる音と大画面上で繰り広げられる演出に、観客のボルテージは否が応にも上がっていく。熱狂に包まれゆく館内を余所に、映画の展開は山場だと言うのに、明日太は一人立ち上がる。ちょうどルカリオの全力の拳がゾロアークを捉え、戦闘不能に追い込んだ場面だった。姿勢を屈めて他の観客の邪魔にならないようにしつつ、席を離れてシネマを後にする。扉の外で足を止め、外の明るさに目を慣らしていると、背後から迫る人影があった。
「明日太くん、最後まで観ていかないのかい?」
 イッシュ地方にある映画撮影施設、通称ポケウッド。そのスカウトマンが爽やかな笑顔を向けてくる。白い歯を見せる彼こそが、明日太を役者の道に引き入れた張本人に他ならない。彼の存在があったからこそ、明日太は若くしてスターと呼ばれる人気俳優までのし上がる事が出来た。
「いえ。僕はただ、あの作品で何か忘れている事があった気がしただけで、確認のために。もう全てを観たいという未練はないですし」
「なるほどね。既に次回作を見据えてるわけか」
「次回作、そういえば台本も既に頂いていましたね」
「その言い方だと、読み込みはまだって感じかい? まあ、新作を一本公開したばかりだ。銀幕はいつだってキミを待ってるぜ!」
 外の世界は相変わらず眩しい。溌溂とした印象のまま去るスカウトマンの背を、明日太は黙って見送った。当初の目的を達した以上、映画館に長居は無用となる。かと言って、今から帰るにはバスの時間まで長い。待合室のソファに腰かけて、肩から提げていたバッグの中を覗く。いつでも台本はチェックできるように持ち歩いている。帰路に着くまでの時間潰しにちょうど良いと、ぱらぱらと流し見てみる事にした。
 タイトルは『創成の英雄たち』という伝記物。イッシュ地方に存在する伝説は民話も含めていつか存在するが、その中でも特に有名なもの。新しい国を作った双子の英雄と伝説のポケモンに纏わるものである。明日太の配役は双子の弟の方。おもむろに台詞の部分だけ指でなぞっていく。
『イッシュ地方は全体的に真冬並みの気温が続くでしょう。続いてのニュースです。ソウリュウシティで起こった謎の襲撃についてですが――』
 他に誰もいない待合室は、テレビから流れる音声が聴こえる以外は静かだった。意識を妨げる存在はなく、思わず集中してしまう。台本を握る手にも力が入る。流し読みのつもりが、ついつい穴が空きそうな勢いで熟読。
「ねえ! お兄ちゃん、ルカリオキッドでしょ!」
 故に、目の前の少女に全く気付かなかった。静寂に包まれていた空間に、明朗な声が木霊する。現実に引き戻された明日太は、伏せていた目を上げた。感じたむず痒さを顔に出さぬよう、精一杯の笑顔と共に。
「ルカリオキッドは仮面で顔が見えないはずだよ。どうしてそう思うの?」
「わたし、ファンなんだ! 仮面を着けてたってわかるもん! それとも、話しかけちゃだめだった?」
「ごめん。そういうつもりじゃないよ。ただ、びっくりしただけなんだ」
「そう? それならいいんだ。ねえねえ、ルカリオキッド。いつものポーズ、やって!」
 少女の眼差しは熱く、目をきらきらと輝かせている。幼い子供の訴える視線には敵わない。死なばもろとも、旅は道連れ。などと物騒な言葉を頭に浮かべ、携えていたボールからルカリオを出す。映画館から支給されるポケモンではない。昔からいつも一緒だった相棒。いきなりの呼び出しにも、明日太のジェスチャーと目配せで状況を把握してくれる。周囲に人がいないのを確認したところで、揃って大きく息を吸う。
「真実と理想の使者、ルカリオキッド、参上!」
 ポーズも声量も、銀幕に映るそのままに。明日太とルカリオは息を合わせ、少女に向けてかっこよく腕を突き出す。催促されると恥ずかしいものだが、やってみると不思議と気分は悪くはなかった。目の前の少女が、満開の笑顔を咲かせていたから。
「わあ、やっぱり本物だ! ありがと! またここに来たら、お兄ちゃんに会えるかな?」
「うん。君がそう望むなら、だけどね」
「やったー! じゃあ、また来るね! ルカリオキッドのお兄ちゃん、ばいばーい!」
 本物だと言われた事も。ヒーローを象徴するルカリオキッドだと言われた事も。かつて別の形で呼ばれてきた時に比べればずっと、心は痛くなかった。健気に手を振る少女に、明日太も遠慮がちに手を振る。本物だと良いねと言いかけて、その口を噤んで。見届けた後で、少しだけ痛んだ胸をぎゅっと掴んだ。


【二】


 今まで明日太が演じてきたのはどれも虚構の登場人物ばかりだった。だが、今回は実在した人物がモデル。作中の人物は監督たちが考えたキャラクターだろうと、最低限の知識を付けたい思いはあった。善は急げと、明日太は休日を利用して図書館へと足を運んだ。
 季節外れの寒さで冷え込むためか、暖を取ろうと集う人は少なからずいた。お陰で少しばかり図書館は来訪者が多い。目当ての本が誰かに先に借りられてなかろうかと不安が過ったが、司書に尋ねたところ、無事残っている事はわかった。
 目的の物はもちろん、イッシュ地方の神話に関する書籍。その筋に明るいジムリーダーがソウリュウシティにいる噂も聞いてはいたが、生憎と台詞を覚えたりする役作りもあって忙しい。明日太は遠くまで足を運ぶ気はなかった。だからこそ、書物という媒体に頼った。発想までは良かったのだが。
「まさか、英雄に関する記述があそこまで少ないとは思わなかった」
 図書館からの帰り道。溜め息は白い湯気となって吐き出され、空へと上りながら消えゆく。気晴らしにルカリオを侍らせていた明日太は、肩を落として気落ちした様子を見せていた。とぼとぼと歩く横で、ルカリオは顔を覗き込むようにしてうろうろ。主人の元気のなさにどうして良いかわからず、ルカリオは優しく体を触る事にした。ぽんぽんと背中を叩いたかと思えば、今度は擦ったりする。これが思いの外成功で、明日太の顔にも僅かに明るい色が戻った。
「慰めてくれてるの? ありがとう。大して気にしてないよ」
 その言葉は嘘だ、と言わんばかりに、ルカリオは首をぶんぶんと横に振る。言葉が通じ合う存在でない以上、思いを伝える手段の乏しさは付いて回る。だが、ルカリオも伊達に明日太と付き合って来たわけではない。歩幅を合わせ、遠慮気味に主人に体を密着させる。それはリオルの時から見せた、甘える時の癖。胸の棘を意識してか、進化してからは久しく見なかった。明日太も思わず頬が緩む。相変わらず棘が刺さらないように控え目なのを、いじらしく感じながら。
「ちょっとだけ、嘘吐いた。でも、大丈夫。お前が――ううん、お前達がいてくれるなら。俺はきっと、自分を上手く欺くことくらい出来る。だけど、お前達に頼るのは――」
 右手でルカリオの頭を愛撫する。直に触れられるルカリオは、気持ちよさそうに一鳴き。いつもの主人に戻ったと見上げてみれば、その実は違っていた。上の空の意識はここではない遠くに行ってしまいそうで。明日太はどこか儚い笑みを浮かべていた。ルカリオはただ、より大きく主人にもたれる形で帰り道を歩く事にした。

 勉強が不発に終わったからと言って、やる事がないわけではない。早速稽古や撮影が始まるため、悠長に休日を過ごしている暇はない。明日太自身も頭では分かっているつもりなのだが、肝心の台本に手が伸びなかった。一度は開こうとした手を止めて、手慰みにライブキャスターを触り始める。
 母親にプレゼントで貰って使い始めてから、いつの間にか登録している人の数も増えた。ポケウッドで知り合う人が増えて、多くの繋がりが生まれた。順に名前を遡って行く度に、懐かしい思いが込み上げてくる。下の方に行けば行くほど、仕事として関わる人から、友人として付き合っていた人の名前へと変わっていく。輝かしい思い出が掠れ、想起と共に手が止まった。
「そういえば、最近連絡取ってない人が多いな」
 いつからか、映画で関わる人との繋がりばかりが多くなっていた。夢を追いかけるために、それ自体悪い事だとは思ってはいない。それでも、大事にしたいと思っていた付き合いはあった。仕事上の関係はいずれなくなったとしても、友人としての付き合いだけは、ずっとこれからも変わらず残していきたい。以前は――否、今もその思いは変わらないはずなのに、気が付けば音沙汰もなくなっていた。
 手放したくない繋がりがあるのに、その思いは日常に揉まれて薄れていってしまう。嫌な意味で大人になろうとしているのだろうかと、少年は皮肉交じりにひとりごちる。電話帳のほとんど最初の辺りは、仲の良かった人で埋まっているに違いない。そこまで辿るのが今の自分では怖くなって、明日太は機械を自分から遠ざけた。
 現実から目を逸らしたところで、次の現実が待ち受けている。無造作に投げ出した台本を拾い上げ、ベッドで横になったまま目を通す。度々飛び込んでくる「英雄」の二文字に、ちくりと刺さるものがあった。神話上の存在で、大まかに記された偉業以外にこれと言った細かい伝承もない。それでもイッシュ地方では知らぬ人はいないくらいに有名になっている。当の本人が自分に纏わる現状を知ったらどう思うのだろうと、つい考え込んでしまう。
「英雄なんて――」
 ただの偶像だと言いたい。それが冒涜だとわかってはいても。演者の心構えとして正しくはないと理解してはいても。他の人が出来なかった事を出来ただけで、何も知らずに祭り上げられる。英雄視への反発めいた感情がふつふつと湧き上がるのを、明日太は止める術を知らなかった。


【三】


 いつもの夢を見ていた。自分ではない仮面を押し付けられ、違う存在と重ね合わせられる。きらきらと凍結した輝かしい世界。役者の揃った決まりのない戦いの中で、物語を終焉へと導く。育て上げたポケモンを出し、自分を苦しめる。対峙する強大な力に、自ずと体を強張らせる。それは選びたくなかった未来。

 気が付けば、汗びっしょりで飛び起きていた。何度も見ているはずなのに、未だに慣れる事がない。仰いだ天井はいつもと同じ。氷で模られた世界ではない。不意に痛んだ胸を押さえて、動悸が治まった辺りでベッドから降りる。気分転換に外の景色を眺める事にした。窓の外に広がる星空が、凛とした空気に良く映える。黒の天幕に広げられた宝石の輝きはどれも美しいものばかりで、一つ一つが激しく存在を主張している。星自身が命を燃やす、という名の代償と共に輝いているのだと思うと、何故か他人事ではない気がした。
 早めに寝たせいか、時間は深夜にもなっていなかった。きれいな夜空を一人で見ているのがもったいなくて、一抹の寂しさも抱いて、気が付けば机に置いていたボールの開閉スイッチを押していた。濃灰色のキツネが飛び出してきて、明日太の膝の上に飛び乗った。リオルが進化して大きくなってからは、ここがゾロアの特等席。お気に入りの場所をゲットして、満足げに尻尾を揺らす。夜に突然呼び出しても機嫌を損ねるどころか、むしろ主人を独占出来ると嬉しそうだった。
「本当のおやのところに戻りたいって、思ったりはしない?」
 このゾロアは明日太が捕まえたポケモンではない。元々別におやがいた子を譲り受けた。捨てられていたわけではなく、純粋に託された。事実だけで言えばそうなのだが、明日太には自信がなかった。果たして自分のところにいて幸せなのだろうかと。あるべき場所に戻るのが一番なのではなかろうかと。星見のお供に呼んでおいて、撫でようと伸ばしかけた手が固まった。
 子狐は夜空に甲高い鳴き声を上げた。憂いの色はない。無邪気な笑顔を浮かべ、懐に飛び込んで頬ずりをしてきた。首周りのたてがみが肌に触れる度にくすぐったくて、お返しにとくすぐり返しながら引き離した。ゾロアの素直さが温かくて、どこか眩しくて。ふと心から零れそうになった感情が、偽りや幻想でない事を祈るばかり。
「気持ちは伝わったよ。言葉はわからないから憶測なのがもどかしいくらいに」
 甘えたい盛りのゾロアの頭を撫でて、腕の中でそっと抱き留める。一段と肌寒くなってきた夜に、温もりが心地よい。空で瞬く星を見つめている内に、ゾロアは静かに寝息を立てて眠りに就いてしまった。鼻先を悪戯っぽく触ってやると、むずむずとさせながらも幸せそうに眠り続ける。警戒心の欠片もなく、全身を委ねてくれている姿に、自ずと心が温かくなる。
「一緒にいてくれるのは嬉しいはずなのにさ。俺の都合で振り回すおやになるのが、無理させたり傷つけたりしてしまうのが、どうしようもなく怖かったんだ。きっと俺は、頼りない主人だから」
 常から余計な事ばかり考えて、大切な事を見失っていた。本当はずっと簡単な事だった。好きならば好きだと伝えれば、ポケモン達も等しく、もしくはそれ以上に応えてくれる。例えば無傷では済まないバトルを繰り返しても、嫌な顔をせず一緒に強くなってくれる。自分が信じなければ、相手が信じてくれる事はない。ずっと共に過ごす中で、わかりきっていた事だったのに。すっかり臆病風に吹かれていた。
「今の俺は俳優だけど、優秀なトレーナーを演じるのは怖いんだ。俺にはそうである資格がない気がするから」
 迷いが生じたのは、夢を見始めた頃だった。息も凍り付くような極寒の空間。空気が張り詰めるのは凍てつく風のせいだけではない。威圧感を放つ存在が中心にあった。対峙するだけでも息が詰まりそうになる。それでも背負ったものがあって、退くわけにはいかない。旅の途中で縁を結んだ仲間と共に立ち向かった。だが、圧倒的な力の前に為す術もなく、完敗を喫した。その夢に過ぎないはずの、断片的な思いを閉じ込めた記憶が、こびりついて離れない。それが病巣となり、心に影を落としていた。
 ふと視線を落とすと、月明かりに照らされたライブキャスターが目に入る。同じ星や月の下に、声を聴きたい相手がいる。答えを求めたい相手がいる。逸る気持ちは心を酷く傷つけるというのに、反して体は思うようには動いてはくれなかった。画面をなぞる指は震え、電話帳を遡ることなく手を下ろしてしまう。ルカリオの入ったボールが揺れた気がしたが、明日太に確認するだけの余裕はなく。
 新しい映画の撮影も始まるというのに、いつまでも不安に駆られていてはいけない。己を律するように、繋がりの象徴たる機械から手を放し、浮かない顔の少年はベッドに倒れ込む。いつもはボールに戻す甘えん坊の子狐を伴って、優しく包んでくれる布団に顔を埋める。きっと明日は良い日になるだろうという、根拠のない、都合の良い希望に縋るように。今この時くらいは久しぶりに温もりだけを享受している内に、するすると現実から零れる意識を手放して、まどろみの中に落ちていった。


【四】


 『創成の英雄たち』にはハチクも出演が決まっていた。明日太にとっては思いがけず、『ハチクマン』に引き続いて共演という形になる。新しい作品で顔合わせする事になっても、ハチクは変わらず出演陣やスタッフに対して気さくに振舞っていた。
 これから撮影が始まるという前準備の段階。期せず明日太とハチクは同室となる。楽屋で言葉を交わした後も顔色が優れない明日太を気にかけて、ハチクの方から歩み寄ってきた。
「明日太、どうした? 今日は元気がないようだが」
「今のまま演技を続けるのが怖いというか、ちょっと悩んでいる事があって。ハチクさん、一つ聞いても良いですか?」
「うむ。私が答えられる事であれば、何でも答えよう」
「ハチクさん、以前はジムリーダーで、その前は元々役者だったんですよね。どうしてまた戻ろうと思ったんですか?」
 セッカシティのジムリーダーが役者復帰を果たしたという報道に、世間は一時騒然となった。撮影中の怪我で一線を退いた際に惜しんだファンは多かった。ジムリーダーに着任してからも人気は衰える事なく、復帰の朗報に歓喜の声が上がった。だが同時に、怪我を心配する声も多く、明日太も他ならぬその内の一人――幼少期にハチクの出演する時代劇を観て、感銘を受けたという――ファンだったのだ。
「簡単な話だ。先のプラズマ団騒動の折に、人々は不安に駆られた。ポケモンとどう向き合うのが正しいのかと。ポケモンを解放するのが正しいのではないかと。彼らは良くも悪くも、私達人間に対してポケモンへの再認識の機会を与え、爪痕を残していった」
「私は私なりに考えた。私の出演する映画でポケモンとの繋がりを見てもらえば、良いきっかけになるのではないかと。楽しんでもらうのが一番なのだが、同時に安心してもらえればと思ってね」
「ハチクさんの心意気、尊敬します。でも、だからこそ、僕にはわからなかったんです。怪我を負った過去がある中で、なお役者として前を向けるのかと」
「レンブ殿にも同じように心配された事を思い出すな」
 おずおずと問う明日太の表情は夜明け前の空のようだった。失礼を承知で聞いているのは自覚していた。自分の中のもやもやを解消するためとは言え、相手の過去を掘り返す話に付き合ってもらっている。自責の念が湧かないと言えば嘘だった。
 顔を曇らせがちな少年を慮ってか、暗い気持ちを払拭するような快活な笑い声が、二人きりの広い楽屋に響いた。ハチクはおいしいみずのペットボトルを片手に、アイマスク越しに笑みを覗かせる。その目は明日太を真っ直ぐに見据えていた。正面から顔を合わせられない明日太とは、正反対だった。
「恐れがなかった、とは言い切れない。それでも私は、ポケモンと共に生きる事への憧れを広め、可能性をもっと広げたかった。ジムリーダーを務めた事でより実感するようになったのはあるだろう」
「ポケモンと共に生きる事への憧れ、ですか。確かに僕たちの生活にはポケモンは欠かせない存在になってますもんね。プラズマ団のせいで、一度はずたずたにされかけた関係ですが」
「ああ、その通り。そして私は、ポケモンとの共生への可能性と同時に、自分の可能性も広げたかった。大人になると堅実になって、野心を失っていく事が多い。諦める事を覚えてしまう場面に出くわす。だが、私は私の可能性を捨てたくはなかった」
 一度は辞めた道を歩むのは、決して楽ではない。「そうしたい」と思う心だけで突っ走る事が難しい事は、明日太にも理解出来た。だからこそ、信念を持って役者に戻るハチクの姿に心を動かされ、憧憬の眼差しで見ていた。昔銀幕で見た時から変わらないかっこいい姿に、否が応にも見惚れる。ハチクと向き合っている時だけは、年相応の輝きを放っていた。熱い視線を感じてか、ハチクは目を輝かせる少年へと柔らかく微笑みかけた。
「きっともう、君の中で悩みに対する答えは出ているのではないか? 大丈夫だ。君は私以上に可能性に溢れている。何より私達は一人じゃない。共に歩んでくれる存在もいる。必要なのは、一歩を踏み出す勇気だ。その一歩で躓いても良い。転んでも立ち上がって、前に進む事は何度でも出来る。七転び八起きという言葉があるように。私がそうだったようにな」
「貴重なお話、ありがとうございました。やっぱりハチクさんは、僕にとってのヒーローです」
「その言葉は嬉しいが、素直に受け取る事は出来ないな。私より君の方が、よっぽどヒーローだからな」
「僕がヒーローでいられるのは、ルカリオキッドになっている間だけですよ」
 仮面を被った時が、一番自分らしくいられる。かっこいい自分でいられる。誰にも負けず、何でも出来るような気さえする。――いつからだろうか、自分自身がヒーローを目指すのを辞めてしまったのは。何故だろうか、切望するものから目を背けるようになってしまったのは。授けられた答えを反芻し、自分の中で熟考すれど、終着点は未だ遠く。ハチクとの会話で得られたものは、決して少なくはなかったが、立ち塞がる壁を打ち砕くには至らなかった。


【五】


 俳優たるもの、男と言えども顔を整えるための化粧くらいは必須。自分で施せるわけではないが、明日太にとっては不思議と安心できる要素――自分の一部と言えるほどのものになっていた。俳優業に没頭するようになってからは特に、鏡に映る自分ではない自分に、違和感を覚える事はなくなった。衣装と化粧でばっちり決めた時から、演じる役へのスイッチが切り替わる。ただ、今回ばかりは少々上手く行かなかった。正面に見える少年の顔が、あまりにも英雄然としていない。口を真一文字に閉ざし、目つきを鋭くしても、いまいち何かが抜けきらない。もしくは、自分の中に降りてくるものがなかった。
 明日太という少年は、昔から感銘を受けた誰かに憧れ、その在り方を真似る事が多かった。悪を成敗するヒーローに憧れれば、自分も悪を許さないと正義感を持って、いじめっ子達に立ち向かった。博識な研究者をかっこいいと思えば、自身も必死に勉強して賢くなろうとした。
 一番身近で影響も大きかったのは、近所に住む年上の幼馴染だった。いつも誠実で正義感が強く、明日太もその背中を追っかけていた。ポケモンが好きで、バトルに熱い情熱を傾けていた幼馴染に倣って、明日太も同じように勉学に励んだ。共にポケモンを愛し、バトルに興じたりもした時期がある。今の明日太を形作ったものに、その幼馴染が深く関与していると言っても過言ではない。他人の在り方を自分に投影するのが、明日太は得意だったのだ。故に、役者としての才能も充分にあった。
 だが、鏡とにらめっこしても進展はない。気が乗らないとか、集中していないとか、そういう問題ではない。今からこの英雄を演じようというのに、妙な胸騒ぎを覚えていた。それは台本に目を通した時から抱いていた違和感の延長線上にあって、その形をしてより胸中は複雑になっていく。再度鏡に映った姿は、酷く寂しそうな顔をした“自分”でしかなかったとさえ思い知らされる程に。
「明日太ちゃん、せっかくの可愛い顔が台無し! お化粧、気に入らなかった?」
「あ、いえ! そんな事はなくて、すごく綺麗だと思いますし」
 鏡越しに映る男性の視線を感じ、明日太は慌てて笑みを零す。朗らかな笑顔と共に声を掛けた人物は、男性でありながら一風変わった言葉遣いのメイク担当であり、そのフレンドリーさがスタジオでも人気が高い。このポケウッドでも引っ張りだこになっている。そんないつも笑顔で応じるメイク担当が、気難しい顔をしていた明日太を前に、珍しく表情を曇らせた。
「今のが正直な気持ちだったら嬉しいわ。でも、時には自分をごまかさなくても良いのよ」
「自分をごまかす、ですか? お世辞のつもりじゃ……」
「言葉の方はね。だけど、今私に呼びかけられて、急に笑顔を作ったでしょ? そういうところ。明日太ちゃん、とても演技が上手いし、愛嬌もあるし好きよ。でも、こういう大人の世界に飛び込んでから、すごく周りの目を気にするようになっちゃったみたいよね」
 それは魔法の言葉のよう。心にするりと入ってくる優しい声に、耳がくすぐったくなる。張り詰めていた緊張の糸が、少しずつ解けていく。鏡越しに繕った笑顔は、すぐに瓦解した。見抜かれた事にばつの悪さを感じ、さらにぼろが出る悪循環。俳優を名乗っておきながら、自分の感情を演じる事さえ下手になったのかと思うと、明日太は悔しくなった。歯噛みしたい気持ちを必死に抑えて、メイクの言った事が突き刺さって、自分の心が迷子になる。ただ、心配してもらった事に何か返さねばと、必死に空回りする思いを紡ぎあげる。
「僕はあくまで役者として上手く振る舞って、綺麗にやりたいだけです。それに、僕に出来るのはこれくらいなので……せめて、失望して欲しくなくて」
「A hero is a man who does what he can」
「えっ?」
「これね、『英雄とは、自分の出来る事をする人だ』っていう格言なの。明日太ちゃんはもっと、自分の事を認めてあげて、自分に正直になってあげられると良いわね。少なくとも私は、最近の明日太ちゃんを見ていてそう思う。『出来る事がある』のと『出来る事をやる』のとはまた、別の話だからね」
「英雄は強くて優れた人がなるものです。僕はきっと、そんな器じゃ――」
「私の目に狂いはないの。きっとあなたなら、素敵な英雄になれるわ」
 化粧という仮面を巧みに作るプロに、下手なごまかしは通用しないと思い知る。もはや虚像の自分すら見る自信がない少年に、必要以上に告げる事はせず。髪を整え終えた後に、心に影を落とす少年の頭を優しく撫で、メイクの男は去って行った。
 去り際に舞う風に乗って、ふわりと良い匂いがした。手に付けていた整髪料だろうか。体に纏っていた香水だろうか。もしくはそれ以外の何かだろうか。明日太はその背中に追い縋ろうとして、言葉を投げようとして、喉まで出かかったものが詰まってしまう。

 もし今の自分を構成するものが、誰かの借り物でしかないとしたら。本当の自分はどこにあるのだろう。何かを賭けられるほどの大事な思いを、どこかに捨て去ってきてしまったような気がした。それが何なのか、短時間で答えなど見出せるはずもなく。男の話にどこかで聞いた懐かしさを刻みつつ。踏み出す足はスタジオの方へ向かいながらも、心は思考の迷宮へと落ちていった。


【六】


 明日太が楽屋を出て足を運んだ時、撮影現場は既に賑わっていた。キャストもほとんど揃った状態で、双子の兄役である俳優も準備を整えていた。同年代の少年を探すのは難しく、明日太にとっては少し年上の少年が宛がわれる事になった。監督達に挨拶を済ませた後で、主役同士の対面となる。
 英雄の兄役を務める少年――日向とは面識もあって、何度か共演した事もある。だが、兄弟役のような近い役柄で一緒になるのはこの作品が初めて。苦手意識を抱いているわけでもなければ、むしろ弟分として可愛がってもらっているのもあって、明日太も日向の事は好いている。だと言うのに、今日ばかりは何故か顔が強張ってしまう。緊張とはまた一線を画す。言いようのない自らの感情に、明日太は忙しなく振り回されていた。まともに操れない自分の心に辟易する。
「まだ初日だからさ。もっと気楽に行こうぜ?」
 いつもと変わらぬ笑顔が、優しさが、目を焼く程に眩しく感じた。普段なら嬉しい気遣いも、今は毒に等しい。その気持ちをおくびに出さぬように努めるのが精いっぱいで、視点は定まらず虚空を彷徨うばかり。一人気まずさを感じていた折、監督からの招集がかかる。偶然の助け舟が訪れるまで、ぎこちなさは抜けきらなかった。
 いい加減切り替えろ、と自分に喝を入れるべく頬を叩く。ここにいるのは明日太という名の小さな人間にあらず。英雄となった双子の弟なのだ。自身に暗示をかけて、今度こそ紡がれるべき世界観に溶け込んでいく事に専念する。

 時代はイッシュ地方がまだ国としてばらばらだった頃。今はイッシュ地方の伝説として双璧を成すレシラムとゼクロムも、双子の英雄が健在の頃は一体のポケモンだったと言い伝えにはある。
 撮影の最初の方は、英雄が住んだと言われる城周りの描写や、その城下町の様子から描かれていった。今日の撮影の前半はほとんど世界観を説明するのに充てるため、しばらくの間英雄二人に出番はなく、回ってきたのは英雄が凱旋から帰還するという場面からだった。
「双子の英雄がお帰りだぞ!」
「英雄様! 素敵な土産話を期待していますわ!」
 方々から響く黄色い声援。沿道から掛けられる民衆の声に、英雄は揃って手を振って応じる。
『英雄の再来だ!』
『君の姿はあの英雄を彷彿とさせる』
 存在しないはずの幻聴が、エキストラの声に混じって聴こえた気がした。胸を鷲掴みにされそうな魔の手に、明日太は足を止めかける。今は撮影中だと必死の思いで振り払い、予定通りに大通りの道を歩ききった。監督から「自信に満ちた日向くんの表情も、愁いを帯びたような明日太くんの表情も、良いよ!」などと飛んできたが、明日太にはその称賛の声もどこか遠く感じた。特段やり直しを指示される事もなく、順調に次のシーンへと移行する。
「兄上。今回も遠征、お疲れさまでした」
「お前の方もな」
 周囲を砂漠のように深い砂が埋め尽くす地帯。空にはゴルーグが飛び、周囲にはヒヒダルマが石像のように休眠状態となって佇んでいる。その中央に聳える大きな城の中。外を一望できるテラスにて、双子は相対していた。晴れやかな顔を向けてくる日向に対し、明日太は浮かない顔をする。台本によると、ここは兄弟間の差異を描くつもりらしい。
「兄上。私は、本当に必要なのでしょうか」。
「何を言う。お前がいなければ、建国など為し得なかったんだぞ」
「英雄と称えられるべきは兄上です。私はただ、兄上の背中を追っかけて支えようと思った。それだけです」
 恭しく頭を垂れて、視界から日向を消す。台本を読んだ時から抱いていた違和感の正体が、朧げながらわかってきた。自身が演じる双子の弟は、自分にどこか似ているのだと、心の奥底で感じていたのだ。
「そんな支えがあったからこそ、俺は前に進む事が出来た。俺達は揃ってこそ英雄だ。だろ?」
「私は、英雄の影に過ぎないのです。私には私なりの理想がある。でも、私はいつも兄上の姿に重ねられていた」
 英雄と呼ばれた存在は、さぞ素晴らしい人格者だったのだろう。明日太も英雄という存在を知り、その歴史を触れた折に、ぼんやりと思った事がある。だが、そうではない。それは人々が過度に期待して作り上げる幻想に過ぎないのだと思った。否、実感させられた。いつもなら自分とは分離したところで形作られる配役のキャラが、演技を続ける内に乖離すべき自分と接近していくのを感じる。
「兄上にはわかりますか? いつも華々しい活躍をする兄上の陰で、私がどれだけほぞを噛んでいたか。もっと戦い方を学べば良かった。強くなろうとすれば良かったと。あなたを誇らしく思う一方で、羨ましくも、疎ましくも思う自分がいて、そんな自分が腹立たしかった」
 明日太はわなわなと肩を震わせ、息を荒げる。ここまでは監督のディレクション通り。だが既に、明日太自身の感情は、演技は、本人の手を離れていた。幽霊に体を乗っ取られたかのように、制御できなくなっていた。
「どんなに努力しようとも、理想ばかり掲げるやつだと揶揄される。信念を持って頑張ろうとも、兄上と比較される。“オレ”はあなたの代わりでも、おまけでもないのに!」
「カット! 明日太くん、演技に熱が入るのはとっても良いんだけど、ちょっと感情移入し過ぎかな?」
「――っ! 監督、これは――」
 感情移入なんかじゃない。だって、この思いは――
「すいません、熱くなり過ぎました」
 燃え盛るような、全てを焦がす熱い感情が喉元まで込み上げてきたというのに、全てをぶちまけるのはいけないと己を制した。それを際限なく吐き出すのは、胃から逆流したものを吐瀉するのと変わらない。ただひとえに、落胆されるのが怖くて。これは望まれる姿ではないと、繰り返し言い聞かせて、明日太は必死に自分を取り繕った。戻ってきた胃の中のものを、もう一度飲み込んだような気持ち悪い錯覚さえ抱く。自分を“作る”演技は下手なのだと、再三に渡って痛感させられた。
「良いんだよ。役に入り込んでくれる事自体は、台本を考えた私としても嬉しい事だからね。今日の撮影はここまでにしよう。別作品からの撮影の連続で疲れているのもあるだろうからね」
 監督は寛容だった。元より監督自身の推薦があって抜擢されたのもあるからか、明日太の事を高く買っている。判断自体も明日太を配慮しての事に他ならない。こんな事は茶飯事だと笑い飛ばして、皆に撤収を命じた。半端な形で撮影を終える形となった事に責任を感じ、明日太は何度も監督に頭を下げた。だが、監督は変わらず優しい笑顔を明日太に向けて、「気にしなくて良い」とだけ残していった。当の本人は、気にせずにいる事など出来るはずもなく。
 そこから先の記憶は、非常に虚ろなものだった。日向が気を遣って励ましてくれたような気も、メイクが寂しそうに労いの言葉をかけてくれたような気もした。だが、頭が真っ白になった明日太は、その仔細を覚えていない程に意識が曖昧だった。気が付けば衣装を着替えて、化粧を落とし終えて、ただ一人茫然と立ち尽くす。人が出払って抜け殻となったスタジオに足を運び、自らの姿を重ねる。それが空虚だと知りながら、いつか見たドラゴンの姿に近いような気がして、惹かれるものがあった。しかし、長く物思いに耽っていると沼の底まで沈むような気がして、半ば無理にスタジオから足を遠ざけた。


【七】


 酩酊したような足取りで、少年は館内を彷徨う。歩き慣れた道だというのに、施設の出口が嫌に遠く感じた。歩けど歩けど目的地は遥か遠く、迷宮をぐるぐるしているよう。むしろここには出口がないのでは――不安に駆られて変な妄想に憑りつかれかけはしたが、最後の角を曲がって広いところに出る事が出来た。
「お兄ちゃん、また会えたね!」
 季節外れの寒空の下。夕焼けで朱に染まったエントランス。夕陽も来客も拒まない自動ドアの前に、明日太を見てにっこりと微笑む少女が佇んでいた。黒髪のツインテールに白いリボンを着け、全身黒を基調とした華美な洋服を着た少女に、明日太は見覚えがあった。夕焼けで陽炎のようにぼやける景色が、自分の淀んでいた心を写し取っているように見えて、目を背けるように少女と向き合う。
「君、本当にここに来たんだ」
「うん。だって、お兄ちゃんがここに来たら会えるって言ったから!」
 無垢な笑顔が夕陽に映える。頬を紅に染め、ぱたぱたと駆け寄ってくる愛らしい素振りに、明日太も目を細める。せっかく会いに来てくれたものをむげに追い返す事は出来ない。前回と同じように、人気のなくなった待合室へと誘う。いつもなら点けっぱなしになっているテレビが、何故か画面を真っ暗にしていた。
「お兄ちゃん、元気ないね。どうかした?」
「あ、ううん、えっと」
 子供は感情の機微に敏感な事を、時々忘れそうになる。明日太自身も子供ではあるのだが、より純粋無垢な年下の子と比較すると、そういう意味では負けてしまう。心の底まで見透かされているような気がして、はぐらかそうと視線を泳がせる。だが、ひたすらに真っ直ぐな少女の視線に、目を逸らし続ける事は不可能だと根負けした。
 ひとまず少女と視線を合わせて苦笑を浮かべてみるが、無論それで納得するはずもない。少女の瞳に映る自分の姿が、嫌にちっぽけに見えて、複雑そうな表情すら無意味に思わされる。明日太が返答に迷っていると、少女はソファの上で体を滑らせ、明日太の方に近づいてきた。
「本当に言いたくなかったら、言わなくても良いよ。でもね、言いたいのにずっと我慢してると、辛いだけだよ?」
「でも、君みたいな子にこんな事言うのは――」
「あーっ! わたしの事、子供扱いした! 大人みたいな事言うんだ!」
 歓喜から来る大きな声量ではなく、少しの憤りと寂しさの混じった少女の声を、明日太は初めて耳にした。わざとらしく頬を膨らませ、露骨に不機嫌な態度を向けられているのを見て、明日太自身もハッとする。自分も幼い頃は、相手が誰だろうと、あれこれと話をするのを躊躇う事はなかった。大人が忙しいからと制しようとすると、自分にとっては大事なのだと反発した記憶もある。それが、世界を知って見識を広げるにつれて、逆に相手を遠ざける事を覚えてしまった。少女を見ていると、かつての自分を見ているような鏡写しのようで。変わってしまった真実を唐突に突きつけられて、思わず胸が痛んだ。
「大事な話をするのに、大人も子供も関係ないよ。わたしね、知ってるよ。秘密のお話をすると、仲良くなれるんだって。お兄ちゃんが話しづらいなら、わたしの秘密の話を聞いてくれる? そしたら、お兄ちゃんの話も聞かせて欲しいな!」
 無茶苦茶な提案にこそ聞こえるものの、明日太を思っての真意くらいは汲み取れる。少女と話していると、長い間掛けっぱなしで錆びついていた心の鍵が、不思議と開いていくのを感じた。心のままに、明日太は頷いて少女の目線に合わせた。不満げだった少女の顔に、明るい色が戻っていく。
「変に思われるかもしれないけど、わたしね、未来が見えるの。お空で光ってる星を見たりすると、びびっと来るのがあって、先の世界がわかるんだ! エスパータイプのポケモンならそういう子は多いんだけど、すごいでしょ!」
「うん。未来が見える事なんて普通はないから、すごいと思うよ。ちょっと羨ましいくらい」
「えへへー」
 これでもかと大きく手を広げて、少女は明日太に笑いかける。全身で喜びを表現するその仕草が愛くるしくて、明日太も緊張感が解けていた。釣られて微笑もうとしたところで、しかし、少女の顔は外の世界と同じ――落ち始めた夜の帳の色に近づいていった。
「でもね、わたしが見えるのはとっても怖い未来。例えば、いつ死んじゃうかって未来が見えちゃったら、怖いよね。それがいつかわからなかったら、明日が怖くなるよね。今がずっと続けば良いって思うよね。お兄ちゃんはどう?」
「そう、だね。だけど、きっと明日はよくなるって希望を抱いて、生きようとするかも。過去は大事だけど、それで未来を手放すのはまた違うと思うんだ」
「お兄ちゃんは、真っ直ぐ明日を見ていられるんだね。だけど、わたしを育ててくれた人は違った。見たくもない未来がわかるのは気味悪いって言われて、捨てられたの」
「捨て……られた?」
「うん。だけどね、今はもう平気だよ。わたしの事を拾ってくれた人がいるの。その人はとっても優しい人で、いつも大事にしてくれた。その人が大好きだし、お陰で今とっても幸せなの。でも、どうやって伝えて良いかわからなくて、ずっとずっと悩んでたの。これがわたしの秘密」
 目の前でソファにもたれる少女は、忙しなく表情を変えていた。暗い影はすっかりと消え失せ、愛嬌たっぷりの笑みが戻っている。途中は相槌を打つのに精一杯で、少女に何と声を掛けて良いかわからずにいた。だが、話し終えてみれば、少女は先程と変わらず顔を綻ばせている。振り回されているようで、その実、明日太の中ですとんと腑に落ちるものがあったのも事実だった。
 明日太も柔和な笑みを浮かべ、覚悟を決める。映画関係者には思わず口を噤んでしまっても、この少女になら明け透けな自分を見せられる。秘密の共有が何を齎すか、未来が見通せる少女ではないため、予想などできない。だけど、堪えていたものを、隠していた想いを告白すれば、少しは楽になれるのではないか。明日太も少しだけ自分に自信を持つきっかけを、少女に与えられていた事に気付いたから。形にする事さえ臆していた心の結石を、ゆっくりと融かして外に押し出していく。
「僕は最近――いや、ずっと前から、期待される事が怖くなっていたんだ。期待してもらえる事は嬉しいんだけど、僕がそれに応えられるのかって。僕はずっと、誰かのあとを追っかけるだけしか出来なかったのに」
 引き出しの奥に仕舞い込んでいた想いは、少女を糸口にしてするすると紐解かれていく。自分自身さえ忘れかけていた。気付かないふりをして目を背け、やり過ごそうとしていた。抱えてはいけないと自らに封印をかけた。それがいとも容易く溢れ出す事に、明日太自身が一番驚いていた。
 自分の心を偽る演技は思いの外下手くそなのだと、またしても思い知らされる。不格好だと笑い飛ばしたくなるが、存外今の自分も嫌いではないと、内心嘲笑交じりに思った。
「誰かを追っかけるの、悪い事じゃないよ? えっとね、わたし知ってるよ。子は親の背中を見て育つって言うもの。それって、追っかけるのと同じだし、おかしくない事だと思う」
「そうだね。でも、追っかけるだけじゃダメなんだ。それじゃきっと、英雄なんかにはなれない。演技は大好きだけど、好きだけじゃダメなんだ」
「お兄ちゃん、英雄になりたかったの? お兄ちゃんはルカリオキッドだから、とっくにヒーローだよ! それとも、違う?」
 英雄志望に対する否定か、ルカリオキッドだという事への否定か。違うと言いかけて、違わないとも言いかけて、どちらもきっと正しくないと思った。代わりに脳裏に過るのは、『相応しくない』という言葉。誰に言われたわけでもないのに、その言葉が茨のように心に絡みついて離れなかった。英雄が大好きだった。英雄を演じる自分も好きだった。だが、自分に自信がなくなってからは、その思いが変わってしまった。モモンの実を頬張ったつもりが、ドリの実を噛み締めたような気分だった。
「英雄だと持てはやされる事は、悪い気はしなかった。願いを込めて、期待を込めて、そう見てくれた事。それ自体は僕にとっても力になった。けど、同時に重圧にもなった。きっと、僕よりも他に英雄らしく出来る人がいるんじゃないかって。託されるべきは僕なんかじゃないんじゃないかって。僕は演技として自分を偽るのは出来るけど、本当に怖いのは――」
「――ごめん、ごめんね。暗い話をして。こんな事、誰かに言うべき事じゃなかったのに」
 ほんの少しだけ難しい話をしてしまったと思う。それでも、わかろうとしてくれている少女に対して、「君にはわからない」などと口にしたくはなかった。受け入れようとする心さえ拒絶するのは、自分を偽る以上に罪だとわかっていた。代わりに口を衝いて出たのは、己の弱さを曝け出した事に対する非礼のみだった。
「そんな事ない! だって、お兄ちゃんがそうしたいって思って、がんばってきたんだよね? だったら、お兄ちゃんのがんばり、知ってる人だっているはずだもん。わたしがそう。他の人は関係ないよ。だから、お兄ちゃんはお兄ちゃんがしたいようにするのが、一番だよ!」
「あと、謝らないで! だって、わたしが聞きたいって言ったんだもの。それに、これでお兄ちゃんの本音が聞けて嬉しいんだ。わたし、お兄ちゃんのかっこいいところとか綺麗なところとかしか知らないから。秘密の教え合いっこ!」
「僕がしたいようにする、か。……ありがとう」
 問題が解決したわけではない。自分の中で踏ん切りがついたわけでもない。だが、溜まっていた毒を吐き出しただけの成果はあった。心に纏わりついていた憑き物が、ごっそりと抜け落ちたような解放感を得る。晴れ晴れとした明日太の表情がその全てを物語っていた。自分の内から出たもので汚れる事を怖がっていた自分を、少しだけ許せたような気がした。
 新鮮な気分になったところで、頭に激痛が走る。最初は抜けきったが故の気持ち良さから来るものだと考えたが、どうにも様子がおかしい。胸襟を開いた事で、大事なものがすっぽり抜け落ちた喪失感に苛まれた。それが果たして喪失“した”ものなのか、“していた”ものかさえ判別がつかない。思案に暮れていると、少女が心配そうに顔色を窺っているのが目に入った。
「わたし、お兄ちゃんのファンなんだ」
「僕の、ファン? ルカリオキッドのじゃなくて?」
「うん、そうだよ。ルカリオキッドは確かに好きだけど、それとは別。わたしはお兄ちゃんのファン! わたしはずっとお兄ちゃんの事を見てるから、その……無理しないで、元気にしていて欲しいなって」
 理想の英雄からかけ離れた姿をしていても。物語の中のルカリオキッドのようにかっこよくなくても。一個としての自分を見てくれる人がいるだけで、救われるような気がした。ヒーローが救世主の意味も持っているならば、自分にとっては少女こそ救世主だと、明日太は心の中に刻み付けた。

 少女と再会していた頃から忍び寄っていた夜の気配は、すっかり町中に広がっていた。橙色だった空は紅や紫へと染まっていき、まさに千変万化。この時間になると、さすがに少女を一人で帰すのは躊躇われた。ライブキャスターで時間を確認すると、バスを待つより直接送っていった方が早いらしい。明日太は思い立ったようにボールからウインディを呼び出した。
 全身をふわふわの体毛に包んだでんせつポケモンは、呼び出した主人を見て目を輝かせる。かと思えば、すぐにふいとそっぽを向いてしまう。構わなかったら構わなかったで、ちらちらと明日太の方に目配せしていて、どっちつかずの反応を示していた。やれやれ、と苦笑と共に、明日太は歩み寄って声を掛ける。
「しばらく出番がなかったから、ふてくされてるの? ごめんって。今度丁寧にブラッシングするから、機嫌直してよ」
 首元を優しく撫でてやると、ウインディはじゃれるように明日太に顔を擦りつけた後で、満足げに一吠えする。服を着こんでいても、外界の温度は相変わらず低い。炎タイプで温かいウインディの体に触れていると、明日太の方まで心地良くなっていた。一時の触れ合いに興じたところで、少女にも温もりをお裾分けしようと思い、近くに誘おうとする。しかし、少女は静かに首を横に振って、明日太に笑みを零すだけだった。
「お兄ちゃん、たくさんポケモン持ってるんだね」
「そうさ。だって僕は、そう――俳優である前にトレーナーだったから」
 記憶という名の泉に波紋が広がる。考えてみれば当たり前の事を、何故忘れていたのだろう。波紋が結晶を生み、欠けていた感覚を揺さぶっていく。茫然と立ち尽くしていると、少女の屈託のない笑顔に暗澹とした色が滲んだ。それは夕焼けが夜に侵食されて行くかのようで。
「お兄ちゃんはずっと、この世界にいたいとは思わない? お兄ちゃんも、この世界が好きでしょ? 平和だけど退屈しないもん」
「うん、この世界は好きだよ。自分じゃない何かを演じて、なりきる事が出来る。僕にとって最高に楽しい、他に替えの利かない経験さ。でも、いつまでもここに居続けちゃいけない。僕にはもっと、行くべき場所がある。誰かが待ってくれてる、そんな気がするんだ」
「そう、なんだ。そういえばお兄ちゃん、まだちゃんとお名前を聞いてなかったね。何て言うの?」
「ルカリオキッドじゃなくて?」
「それは映画の中のお名前でしょ! そうじゃなくて、お兄ちゃんの本当のお名前」
「本当の名前……僕の名前は、明日太。英雄どころか自分すら演じきれない、ちっぽけな役者だよ」
 望んでいた答えを貰っても、少女の顔が晴れる事はなかった。気に障る事でも言ったのかと不安を抱いたが、直接聞く事に躊躇を感じた。気まずい空気に耐えかねて、ウインディに乗るように促す。だが、少女は近くに住んでいるから良いと、やんわりと断った。明日太が紡ぎかけた言の葉が、白い息となって凍りつく。
「それじゃね、お兄ちゃん」
 前回会った時のように、「またね」とは言わなかった。別れ際、少女はそれでもあどけない笑みを明日太に振り撒いていた。嫌われたのではないのだという安心感と、機嫌を損ねた謎の不安感とが胸中に渦巻く。優しい笑顔が胸を刺す。目いっぱい手を振って姿を消す少女に、明日太は同じように応じる事が出来なかった。
 バス停へと向かう道すがら、映画館から満面の笑みと共に出てくる親子の姿が見えた。観た映画がよほど満足だったのか、子供がしきりに母親に話しかけている。自分も昔、ハチクが主演の映画を見て、同じように母親に熱く楽しく語ったのを思い出した。微笑ましい光景で感傷に浸ったところで、ふと明日太の心が揺れる。それは不快な揺らぎではなく。生き物を拒絶する寒さに満ちたはずの世界が、ほんの少し暖かいような感覚を抱いた。


【八】


 いつか夢に見た。憧れの背中を追って、自分も強くなること。英雄と呼ばれる存在に、手を伸ばす事。それが簡単には届かないと知りつつも。目指すものに向かって走り続ける事自体は、楽ではなかったけれど。自分が心から望む事ならば、楽しいとさえ感じた。それは選びたかった未来。
 いつしか夢は現実になっていた。一時世間を賑わせたプラズマ団の残党が、イッシュ地方各地で悪事を働いている折。熱血漢の幼馴染と一緒になって、打倒していった。最初は幼馴染の手伝いをしていたつもりが、先だって止めようと動いていた。後を追いかけ、跡をなぞる。ある時を境にそれは、追いかける側から追い抜く側になっていた。
 プラズマ団と交戦して活躍を上げる度に、人々から称賛の声を受けた。二年前の英雄の再来だと言われ、感謝された。そこからだった。英雄という名の、自分じゃない誰かの陰を背負わされている気がしたのは。望んでいた英雄の姿に、違う像を重ねられ続けていく。当初の輝かしい思いは塗り潰され、期待の眼差しはプレッシャーという名の重荷に変貌していた。
 大好きだった英雄が、途端に大嫌いになった。人との繋がりはしがらみに感じられ、尽く断とうと思った。全てをかなぐり捨てて、逃げようとさえ思った。だが、手持ちのポケモンとの絆だけは失いたくないと、手放す事だけは止めた。結果、共に別の道を歩む最良の道を思いついた。
 この世界は確かに楽しかった。役に入り込めば、自分じゃない自分でいられる。本当の自分から乖離したところで、ヒーローである事を楽しめる。大好きだった手持ちのポケモンと共に、晴れの舞台で輝ける。その感覚自体は心地良いものであったが、一度生まれた空虚感を満たしきってはくれなかった。どれくらい掌から零れ落ちたのだろうと、失くしたものに思いを馳せるくらいしか出来なかった。
「夢、じゃない。忘れるはずもない、大事な記憶が抜け落ちていたなんて、そんな」
 日々の煩雑さにかまけて、大切なものを見失っていた。過去の記憶と言ってしまえばそれまでだが、今の自分の在り方にも直結する貴重な記憶。それをいつしか忘れていた――否、自ら封印を施していたのだ。自分がこうありたいと思った、ルーツとも呼ぶべき思い出と想い。長い間錆びついていたものを想起させられ、明日太自身戸惑いを隠しきれなかった。
「本当の名前、か。僕は、俺は、どこを歩き彷徨っているんだろう」
 自分という存在が、形骸のような気さえして。気分転換に窓を開けて夜の街に顔を出す。静寂に包まれた外の世界は、鋭い冷気が棘のように肌に突き刺さる。天の悪戯か、先程まで降ってなかった氷雨が屋根や窓を叩く。いくらか撥ねて明日太の体を濡らすが、不思議と不快には感じなかった。
 不意に人肌が恋しくなって、ポケモン達の入ったモンスターボールを見遣る。自慢のエースのルカリオ、甘えたい盛りだけど頼りになるゾロア、構ってくれないと拗ねるウインディ、博士に貰って以来息の合うフタチマル、初めてゲットして進化させたケンホロウ。ボールに入った五体との記憶を思い出しつつ、脳裏にノイズが奔る。六体目、最後の一体が足りない。だが、それもそんな気がするという、曖昧な感覚でしかない。不確かな記憶が、欠落だらけの心を掻き乱していく。胸を掻き毟りたくなるような不快感に苛まれ、頭痛が激しくなって外の世界から離脱する。
 頭を冷やすつもりが、余計に狂わされた。全て気の迷いが生む幻想なのだろうか。何が現実で、何が夢なのだろうか。もはや自分の感覚が信用出来なくなる。逃げるようにして明日太は布団の中へと潜り込んだ。

 悪い夢なら醒めて欲しいと祈るように、世界を拒絶するように、明日太は闇の中で瞼を固く閉ざす。意識はすぐに、暗く重い泥の中にずぶずぶと沈んでいった。


【九】


 はじめての夢を見た。少女が暗がりで泣いている。どうしたの、と声を掛けようとしても、喉から声が出ない。近づいて慰めてあげようとしても、足が地に縫い付けられたように動かない。悲痛な光景を見せつけられているだけの状況に、歯噛みするしかない。
 夢とは言え、もどかしく感じている内に、視界が開けていく。そこは四方を岩の壁に囲まれた洞穴の中。凍えるような世界。地面や壁は白銀の氷で覆われていて、極寒の地である事をまざまざと見せつける。
 空間全てを凍てつかせる冷気。それが絶え間なく漏れている方向に、元凶の姿はあった。灰色の体は恐竜のようで、一対の翼と尾の先がプラグのようになっている。名前をキュレムと言い、伝説のポケモンに該当する。圧倒的な迫力と威圧感を誇るドラゴンの前方、先程まで少女がいた辺りに、少年が倒れているのが飛び込んでくる。離れた位置からでも認識出来る。そこにぐったりと横たわっていたのは、他でもない自分自身だった。
 己の姿を認識した瞬間、世界が歪む。空間に亀裂が走り、その隙間から光が溢れ出した。目も眩むような閃光に包まれ、明日太の意識は引っ張られていく。

 目が覚めると、いつもと同じ天井がある。カーテンの向こう側は未だ薄暗く、暁の頃であるのは時計を見てもわかった。頭が割れるように痛い。その原因は夢の情報量のみにあらず。今まで喪失感を抱いていたものが、一瞬にして噴き出してきたからであった。
 欠けていた断片が繋がっていく。失われていた部分が復元されていく。心を支配していた黒い霧は取っ払われ、完全に噛み合った。今まで夢だと思っていた出来事は、実際にあったはずの記憶の欠片だった。キュレムと対峙した光景を思い出すだけで、悪寒が走る。
 だが、あれが現実だったというならば、今目の前に広がる世界があまりにも平和過ぎる。ベッドから弾かれたように飛び起き、部屋のテレビの電源を入れる。「帰ってきたハチクマン」の興行収入が歴代トップに立ったという早朝のニュースから始まり、ソウリュウシティのイベント会場からの中継、セイガイハシティの歩く水族館――マリンチューブの様子などが報道されていった。映し出される光景はいずれも平和そのものである。
「違う。ソウリュウシティはプラズマ団に氷漬けにされて、セイガイハシティにはあいつらのアジトの船が泊まっていたはずだ。それに立ち会っていたからわかる」
 蘇った記憶が正しければ、自分の知っている世界とは異なる世界。現実と同じように出来ていながら、その実ちぐはぐな世界。ずっと抱いていた違和感の根源に、ようやく辿り着けた。明日太が立っているのは、現実と虚構が入り乱れた歪な世界に他ならない。映画に纏わるものは正しい記憶であるが、プラズマ団が絡む事件はどこかがずれている。自分の足場が不確かなものだとわかっただけで、世界全体が揺れるような気持ち悪さを感じていた。

 何か動かなければと思い立ったところで、不意に少女の顔が脳裏を過る。記憶に合致する夢の中で、不自然な形で本来なかった少女の姿が紛れ込んだ。単なる夢に過ぎないと思いつつも、何かのメッセージではないかと考えざるを得ない。何よりも、昨日の別れがあれでは心残りがあり過ぎる。少女を泣かせたままにはしたくない。すぐに身支度を整えた明日太は、勢いよく家を飛び出した。
 昨晩から空は暗い顔を見せ、ずっと泣き続けていた。傘を持つのが億劫に感じられ、構うものかとずぶ濡れ覚悟で少女のもとへ――行こうとしたは良いものの、はたと立ち止まる。帰りに送りそびれたせいで、少女の家を把握していない。雨に打たれつつ、一頻り考えたところで、残された唯一の答えに行き着く。
「夢が正しいのだとしたら、あの子はきっと」
 ジャイアントホール――そこは大昔に隕石が落ちた際に生まれたクレーターと言われている。夢の中と同様にキュレムに遭遇した場所であり、少女が現れていた場所でもある。夢という確証のない当てではあるが、他に手掛かりはない。善は急げとケンホロウを呼び出し、雨天の中で空の旅を要求した。
 辿り着いたのはカゴメタウン。ジャイアントホールの南西に位置する町である。いつも通り目印となるポケモンセンターの前に降り立つ。こちらに来ても相変わらず雨は降りしきっている以外に、周囲の様子に特に変わったところはない。長距離飛行で疲れたのか、ぐったりしているケンホロウを撫でて労い、ボールへと収容する。ここからは自分との勝負。明日太は光が差す東に向かって駆け出した。


【十】


 絹糸のような雨に煙る森は、来訪者を拒むように立ちはだかる。整備された13番道路を抜けた先からは、洞窟の入り口まで自然の道が広がっていく。鬱蒼と木々が生い茂る森は獣道の様相を呈していた。降りしきる雨のせいで土の地面は柔らかくなっており、酷くぬかるんでほとんど粘土状になっていた。踏みつける度に足を取られる荒れた道だろうと、一切の躊躇いもなく走っていく。
 地面を激しく踏み締める度に、足元で泥の飛沫が撥ねる。靴とレギンスの辺りは瞬く間に茶色に染まり、靴底にへばりついた泥で足は重くなっていく。だが、走る速度は一向に緩めない。時間は有限で、ゆっくりしているのも惜しい。立ち止まっていたらあっという間に大事な時は過ぎてしまう。心のどこかで急かされる気持ちでいた少年は、大地にくっきりとした足跡を残しながら先を急ぐ。重く広がる鈍色の雲は、自身の心に渦巻いた闇の温床のようで。振り払うように一瞥。
「オレはずっと、勘違いをしていた」
 ばしゃっと泥溜まりを踏み抜き、弾かれた塊がハーフパンツまでも汚していく。既に靴は中まで泥が染み込んで、踏み締める度に靴の中で音を立てるくらいまで浸透していた。整える暇のない息は上がりつつある。肺が、足が、音を上げる。重い、苦しい、と軋むように。だが、早鐘を打つ心臓は、ひたすらに「走れ」と叫んでいるようだった。
「周りの人が期待するから、英雄であろうとするんじゃない」
 どれだけ足元が緩く覚束なくなっていても、滑りそうになろうとも、少年は走る。
「オレがそうなりたいと思ったから」
 周囲の目を気にして一歩を無理に踏み出す、「走らなければならない」という強迫観念ではない。少年自身が「走りたい」と望むからこそ、進む道に足跡を刻んでいく。それは他ならぬ己の意志で紡がれる軌跡。
 言の葉を紡ごうとする度に、酸素を求めて肺が痛む。焼け付きそうに痛い。だが、逸る気持ちのままに全力を出す。ありったけの思いを形にする事に、意味があると信じるからこそ。今止まってしまっては、次も同じように走れないと思っていたから。
「英雄になりたいと望んだから、オレは走り続けるんだ」
 体を打ちつける大粒の雨も。足元を乱す泥濘も。行く手を阻むには力不足。
「追いかけるんだ。英雄の背中を」
 少年が見ているのは悪天候でも、悪路でもない。
「俳優も、英雄も、目指すところは変わらない。オレは、みんなの笑顔のために、がむしゃらに走り続けたいんだっ!」
 ようやく辿り着いた己のルーツ。喪失しかけたちぐはぐの記憶の世界で見つけた、一つの求める理想こたえ。時には自分ではない誰かのために頑張れる姿に、あり方に憧れた。途中重圧に負けそうになって、楽を求めて揺らいでしまっただけ。だけど、最初から根幹にある想いは、演技でも嘘でもない。正真正銘の本心だった。目指すべき場所が明確になった以上、愚直に進み続ける。例え何に阻まれようとも。少年が選びたかった未来は、他の因子に邪魔されるほど、脆い覚悟と夢で紡がれるものではなかった。
 だが、心を強く保とうとも、体の方は正直だった。疲労が蓄積されたせいで、膝が笑っていた。生まれたての小鹿のように震える脚を叩き、必死に鼓舞するが、虚勢も長くは続かない。もつれて体勢を崩し、前のめりに倒れ込んだ。野球部も真っ青なダイブを決め、少年の体は地面を滑走する。頭の先から爪先まで、服も無事なところはないくらい、全て泥で染め上げられる。全身に纏った泥は酷く粘っこく、隈なく汚れていた。
 地面に両手を着き、よろめきながらも立ち上がる。吸い込んだ泥と水のせいで服は鉛のように重く、鋼鉄の鎧を着ているかのよう。しかし、少年の闘志は潰えない。装束は汚れようとも、背負ったものが重くなろうとも。口内の泥を吐き出し、一心不乱に走り続ける。途中、何度転んだかわからない。擦り傷はあちこちに刻まれていき、目に泥が入って満足に開けられなくなる。それでも、歩みを止める理由にはならなかった。汚れる事を恐れていた過去の自分が馬鹿馬鹿しくさえ思えた。転ぶ度にハチクの言葉が脳裏を過る。転んでも何度でも立ち上がれ――その言葉を胸に、原動力に、足をひたすら前へ。

 洞窟の入り口に到着した頃には、いつもの化粧と衣装で彩られた小綺麗な面影は、とっくに消え失せていた。脚はおろか腕を上げるのも辛い。全身の気怠さと疲労は、泥まみれになったせいだけではなかった。自身の意識が夢から現実へと近づいているのだと、少年自身は直感で察していた。
 苦渋に満ちた疾駆から解放されたのも束の間、限界を超えた体が大地に伏せる。泥の中へ落ちる感覚も、もはやどこか自分の体ではないようで。気概だけで動かした体も、一人で走り続けるには力が足りない。泥で視界を奪われながら、這いずってでも進もうと藻掻く。その両手が不意に何者かに握られ、引っ張り上げられるようにして立ち上がる。
 ごしごしと目元を拭い、ようやく視界を取り戻す。少年の目の前に、見慣れた影が五つあった。フタチマルとルカリオが未だ主人に向かって手を差し伸べていて、その手は少年と同じく泥で汚れていた。疲弊していたのケンホロウは、それ以上に消耗した主人を気遣わしげに見据える。ゾロアは頭で少年の足をぐいぐいと押していて、ウインディは乗れとばかりに背を向けている。苦手とする雨の中、精一杯やせ我慢しながら。
「そっか。オレはずっと、一人じゃなかった。一緒に歩んでくれる存在がいたんだ。でも、本当はオレが一方的に従わせてるんじゃないかって、自分には主人でいる資格なんかないんじゃないかって、怖くて――」
 ――求めるものが、遥か彼方にさえ感じていた。だが、それは少年だけの勘違い。求めるものは、ずっと前から傍にあった。ただ、当たり前の事に気が付かなかっただけ。未練から断ち切れなかった繋がりに、自ら手を伸ばすのを恐れていた。大人でも、ポケモンでも、年齢や種族が違おうとも関係ない。頼るのを怖がる必要はないと、ポケモン達が身をもって示しているようだった。
 雲から落ちる滴は止み、陰っていた日が姿を現す。久方ぶりに見る眩しさに目を細めながら、少年達は足並みを揃えて光の差す方へ。雨露に濡れ、逆光で輝く仲間たちの姿が、少年には今までになく頼もしく映った。跨ったウインディの背中の上で、もう一度目元を乱暴に擦る。もう目に泥は入っていない。雨も降っていない。ただ、零れ落ちる思いの欠片を、誰にも悟られたくなかった。

 追随する他の仲間と共に、ウインディは俊足を持って洞穴を駆ける。穴を抜けた先にはまた森。その先にまた洞窟があって、少年達は迷いなく飛び込む。探していた少女の姿は、夢に見たのと寸分違わぬ場所にあった。蹲って背を向けている少女に、何と声を掛けて良いのか決めあぐねる。肩で息をしながら手を伸ばそうとするが、汚れた手で触るのも躊躇われた。中々機会を掴めずにいると、先に気付いた少女の方から振り向いてきた。
「やっぱり来たんだね、お兄ちゃん」
「うん。君の事はちゃんと送り届けられなかったけど、今度はちゃんと迎えに来たよ」
 濡れ鼠どころか、泥人形のような自分の姿に、嘲笑の一つも浮かべたくなる。ヒーローを演じる人間が、かっこつけたような台詞を言ったところで、笑われても仕方ないと覚悟はしていた。窺えた少女の反応は、予想とはまるで異なっていた。物悲しげな微笑を少年に投げかける。
「お兄ちゃん、どうしても戦うの? 英雄でいるの、苦しそうにしていたのに」
「うん。辛いと思う。だけど、それ以上に僕がやりたいって思いが先だった事に、ようやく気付けたんだ」
「この世界にいれば、命の危険もないんだよ? 楽しい映画の世界で、ずっと輝いていられるのに」
「大事な人の笑顔を守るために戦うって、僕は誓ったんだ。それなのに、ファンだって言ってくれた君を真っ先に泣かせてごめん」
「大丈夫。僕自身が選びたかった未来のために、君が見えた悪い未来だって変えてみせるさ。僕一人じゃ無理でも、みんながいれば出来る。だから、これからも一緒に戦ってよ! ね、ゴチルゼル」
 明かさなかった名前を告げられても、少女は驚いた素振りを見せない。幼い姿をしていながら、途端にたおやかな立ち居振る舞いを見せた。長い黒髪を静かに揺らし、首を傾ける形で朗色を顕わにした。目に見える姿は違えども、見知った面影に重なる。
「わたし、マスターが倒れてからずっと心配だった。怖かった。だから、他のみんなと一緒に、わたしの力でマスターの見る世界に飛び込んでみる事にしたの。どう思ってるのか、知りたいと思って。むやみに夢に干渉してごめんなさい」
「謝る事なんかこれっぽっちもないよ。ありがとう、優しい夢を見せてくれて。お陰で前に進むための力を貰えたんだ」
「ううん、お礼を言うのはわたしの方。こういう形でしか、言葉で伝えられる機会はないから。捨てられていたわたしを拾って大事にしてくれて、幸せな時間を与えてくれて、ありがとう。マスターの事、ずっとずっと大好きだって言いたかった」
 想像するばかりだったはずの選べなかった未来を、夢という形で体験しただけでも嬉しかった。少女の姿をしたゴチルゼルの思いの丈も、しっかりと胸に受け止める。その上で、少年は選びたかった未来への道を進む。泥で汚れた顔が、今までで一番輝いていた。
「最後にもう一度だけ。お兄ちゃんの名前、聞かせてくれる?」
「僕は――ううん、オレの名前は、キョウヘイ。まだまだ未熟だけど、仲間に恵まれている、英雄に憧れるトレーナーさ!」
 氷結された闇の蔓延る洞窟に、二輪の笑顔が開花した。少女が差し出した手に、キョウヘイも自分の手を重ねようとする。その指が触れようとしたところで、世界は白い光に飲み込まれていった。


【十一】


 重い瞼を開けると、見慣れぬ天井があった。カーテンの向こう側は既に日が昇っていて、少なくとも朝は過ぎている事はわかる。そこで初めて、自分が病室のベッドに横たわっている事、ベッドを囲むようにして六体のポケモンがもたれかかっていた事、自分の体に包帯が巻かれている事に気付く。
 半ば追憶の夢を見ていたお陰か、状況は把握出来ていた。キョウヘイが覚醒すると同時にポケモン達もむくりと起きて、心配そうに顔を覗き込んできたり、頬を摺り寄せたりしてきた。嬉しそうにじゃれてくる一体一体を愛おしそうに撫でていく。瞬間、琴の弦のように張り詰めていた何かが、音を立てて切れてしまうのを感じた。みんなの体を滑らせていった手が、布団の上に力なく落ちる。
 キョウヘイは固まって放心状態に陥る。動かぬ体に反して心は激しく揺さぶられ、何か言いかけた口は震える。だめだ、と抑えこむ心と、我慢するな、と促す心の戦いにケリがついた。途端に目頭が熱くなって、視界がぐにゃりと歪む。少年の頬を大粒の雫が伝い、服と布団に滲んでいった。
「起きていきなり、ごめ……んっ。でも、みんなが無事でっ、よかった。みっともない姿見せたのに、優しいの、ずるい、だろっ。大好きだって言ってもらえて、オレっ、嬉しくて、みんな、ありがと」
 きっと本当は、ずっと前からこうすべきだった。こうしたかった。全てを見られた以上は、ありのままを曝け出して、受け入れてもらいたかった。ようやく大事な気付きを得て、無理に仮面を被って自分を押し殺すのは止める。
 嗚咽を上げてぐしゃぐしゃに泣き濡らす主人の姿を、ポケモン達は見た事がない。どう慰めて良いかわからず、ルカリオとフタチマルがわたわたと慌てる中で、最年少のゾロアが最適解を叩き出す――真っ先に懐に飛び込んで、身を寄せた。間もなく全員がキョウヘイを囲むようにして、抱き合った。ルカリオは夢の中と同じように、背中を擦る。いろんな気持ちがぐるぐると渦巻いて頭は真っ白になっていたが、少なくとも今まで一番温かいと、キョウヘイは泣きじゃくる中で感じていた。

 ひとしきり想いを出し切ったところで、キョウヘイの最後の浄化は終えた。赤くなった目元を袖で拭き、呼吸を整える。目が覚めれば混濁するかと思っていた記憶も、不思議と整理されていた。哀の色を潜め、ポケモン達と戯れながら、最後の最後に悪の組織のボスに投げかけられた屈辱的な台詞が脳内に再生されていく。
『アナタのような端役にはもったいない、とっておきの舞台を用意してあげたのです! 負けて華々しく散れ!』
 プラズマ団再興を目論むボスのゲーチスに、伝説のポケモンであるキュレム。因縁の地での満を持した決戦。とっておきの舞台を用意されておきながら、キョウヘイは無様に負けて散った。それが現実であり、端役だと揶揄されたところで否定出来なかった。きっと敗北直後に目覚めただけなら、胸を深く抉られていただろうと思う。だが、今のキョウヘイにはそんな事実を撥ね退けるだけの意志が宿っていた。追想に耽るのも早々に、神妙な面持ちでポケモン達と向き合う。思いきり泣いた事を恥ずかしく思い、はにかみを添えながら。
「まだまだ英雄には程遠いし、頼りない主人かもしれないけどさ。改めてオレと一緒に戦って欲しいんだ。ポケウッドの俳優である明日太じゃなくて、一人のトレーナーであるキョウヘイとして。手の届く範囲の笑顔を守るために。今度こそ英雄だと言われて胸を張れるように、これからも手を貸してくれる?」
 絶望の淵に立っていた夢の世界。希望の道を歩み始めた現実の世界。夢を力に変えた一人の少年は、短い間に一皮剥けていた。乾いた笑みではない。長い間忘れていた心からの微笑みの花を咲かせ、めいっぱいに輝かせる。銘々に見せる笑顔と元気な鳴き声は、キョウヘイにとって最高の返事だった。
 自分を偽る演技も、無理に気取って誰かを真似る事も、無意味だと学んだ。自分は自分らしく、望むままに目指すのが、きっと一番の近道となる。出来る事をするのが英雄というならば、その出来る事で誰かを笑顔にしたい。そこに俳優だろうと英雄だろうと違いはない。
 本当に怖かったのは、演技で自分を偽る事ではない。自分を偽る事に慣れてしまい、本当の自分がわからなくなってしまう事だった。だけど、最初は嘘で塗り固めたものだろうと、必死に繕ったものだろうと、芯を強く持っていればいつか思いは本物になる。心が折れそうになった事も、挫けそうになった事も、全てひっくるめて自分という存在を形作っている。英雄というものに憧れて、自分が特別な思いを抱いたきっかけを、やっと思い出せた。
 明日に夢見て希望を持ちたいから、明日太という名前を名乗っていた。しかし、今はその名前は必要ない。希望に縋る明日太ではなく、明日への希望を生きる希望に、今日を生きるありのままの自分――キョウヘイとして。自分の心にもう嘘は吐きたくない。今は自分に出来る事をしたいと、少年は覚悟を決める。自分の中での戦いに一区切りはついたが、本当の戦いは始まったばかり。
 節々が痛む体を起こして、キョウヘイは地に足を着ける。休んだお陰で体は回復していて、激しい動きをしても支障を来さない事は実感する。心配そうな目で見つめてくる六体のポケモン達に、会心の笑みで応えてみせた。

 ――全てに決着が着いた時は、今度こそ連絡を取ろう。追いかけたその背中に、いつか追いつきますと伝えるために。待っててください。

 キョウヘイは机の上のライブキャスターを手に取り、大事そうに着け直す。最高の舞台で、最高の全力演技ロールプレイをするために。手を伸ばしたい英雄の背中に、もう一度近づくために。二年前の英雄と、いつも背中を押してくれた幼馴染に思いを巡らせ。“英雄もどき”は本当の意味で、再起の一歩目を踏み出した。