ぼくの空

1.孤島の空

 空を飛んでいた。
 どことも知れない孤島の上空を、行ったり来たりしていた。
 見上げれば、宝石をちりばめたような星たちが輝いていた。
 一匹の竜が、隣を飛んでいた。竜は何も言わず、こちらを見ることもなかった。ぼくはただ、置いていかれないように隣を飛んでいた。
「どこへ行くの?」
「どうして行ったり来たりしているの?」
「何かを待っているの?」
 何を尋ねても、竜は口を閉ざしたままだんまりを決め込んでいた。

 水平線の向こうが、ぼんやりと明るくなり始めた。もうすぐ夜が明ける。
 薄明りの中に、ぼくは透明な影を見た。と、隣を飛んでいた竜が、その影に向かって一直線に飛んでいった。
 ぼくは竜を追いかけようとして、やめた。別に、誰かに咎められたわけではなかった。けれど、懸命に飛んでいく竜の背に、ついてくるなと言われた気がしたのだ。
 竜は影の元に辿り着いた。影と竜が手を取り合い、頬を寄せ合う様を、ぼくは少し離れた場所から見ていた。ぼくの勘は正しかったのだろう。どう見ても、邪魔をしてはいけないように見えた。
 太陽が水平線から顔を出した。橙色の光が、濃紺の空を染め上げていった。
 竜と向かい合っていた影が、徐々に薄くなっていった。竜は、少し寂しげに影を見つめていた。影は朝日に向かって後退しながら、空へと昇っていった。太陽が完全に顔を出す頃には、影は朝焼けの空に溶けて消えていた。
 影が完全に消え去った後、竜はぼくの方を振り向いた。
「Grazie!」
 辛うじて聞き取れたのは、聞いたことのない言葉だった。どういう意味かは分からなかったけれど、ぼくは照れくさくなって目を逸らした。竜はにこりと笑って、孤島へと降りていった。ぼくはそれを追わなかった。竜に帰る場所があるように、ぼくにも帰る場所があった。そして、その場所はこの孤島ではなかった。ぼくが手を振ると、孤島に辿り着いたジェット機みたいな竜も、手を振り返してくれた。ぼくは孤島に背を向けて、朝日に向かって飛んでいった。

2.草原の空

 空を飛んでいた。
 どこまでも続く草原を、一直線に飛んでいた。空は青く澄んでいて、時折綿菓子のような雲がゆっくりと流れていくのが見えた。
 地に足を着けて走り回ることもできたけれど、今は空を飛びたい気分だった。風が頬を撫でて通り過ぎていく。さわさわと風に揺れる草木の音が、耳に心地よかった。
 ふと地上に目を落とすと。ものすごいスピードで駆けていくものがあった。普段のぼくのスピードでは追い付けそうもなかった。それでも対抗してみたくなったのは、ぼくの中にもまだ闘争心というものが存在したということなのだろう。
 全力で追いかけて、ようやく走っていたものに追い付いた。途中からぼくの存在に気付いていたのか、それまでよりもスピードを緩めていたようだった。でなければ、ぼくが息絶え絶えに追い付いたとき、同じように息を切らしていただろうから。
 ぼくが追い付いたのは、炎のたてがみを持つ馬だった。体が小さいから、まだ成長途中の仔馬だと分かった。仔馬はぼくの姿を確認すると、駆け足をやめてゆっくりと歩み始めた。
「どこへ行くの?」
 できるだけ息を整えてから、ぼくは尋ねた。
「お母さんを探しているんだ」
 仔馬は答えた。
「ちょっと出かけてくると言ったきり、戻ってこないんだ。どこかで見かけなかった?」
 ぼくは首を横に振るしかなかった。随分と長い時間この草原を飛んでいたけれど、走る炎に出会ったのはこれが初めてだった。
 仔馬の表情が曇ったのを見て、ぼくはしまった、と思った。仔馬はずっと不安だったのだ。見ず知らずのぼくにさえ、希望を抱いていたに違いない。
「ぼくも一緒に探してあげるよ。きっと見つかるさ」
 仔馬の不安を拭い去れるように、ぼくはできるだけ明るく落ち着いた口調で言った。仔馬の表情がぱっと明るくなった。

 それからふたりで手分けをして、仔馬のお母さんを探し回った。草原のど真ん中に佇む一本杉を待ち合わせ場所にして、こまめに戻りながら探すことにした。
 それから母馬を見つけられないまま、一本杉に何回戻ったか分からない。そのたびに仔馬がお母さんと一緒にいる姿を期待したのだが、一本杉には誰もいないか、仔馬がひとりでいるだけだった。きっと見つかるなんて言った手前、言葉通り見つけてやらなければならない。ぼくは責任感に駆られていた。

 空が夕焼けに染まる頃、罠にかかった炎馬を見つけた。待ち合わせの場所から、随分と離れた場所だった。仔馬のことを話すと、自分の子だろうと言っていたから、間違いなさそうだった。罠を外して一本杉の場所を伝えると、炎馬は一目散に駆けていった。罠にやられた足の痛みなど感じさせない速さだった。ぼくは必死で追いかけたけれど、炎馬との距離はどんどん開いていった。遂には、炎馬の背中が見えなくなった。
 やっとのことで一本杉に辿り着いた時、そこには確かに炎馬の親子がいた。
 母馬とじゃれあう仔馬の姿を見て、ぼくの胸がちくりと痛んだ。無事に親子を再会させることができて、嬉しいはずなのに。どうしてだろう。

 簡単だった。ぼくには、母と呼べる誰かがいなかった。

 仔馬がぼくに気付いて、大声で「ありがとう」と言った。
 ぼくは痛みを感じさせないように、笑顔を作って手を振った。

 炎馬の親子はどこへともなく走っていった。ぼくはそれを追いかけなかった。ぼくの帰る場所は、この草原ではなかった。途中で馬のいななく声が聞こえた。親子のどちらかが、ぼくにさよならを言っているのだろうかと思った。
 ぼくは炎馬の声に背を向けて、夕日に向かって飛んでいった。

3.雨林の空

 空を飛んでいた。
 雨が降り続く林の中を、ゆっくりと飛んでいた。
 木々の隙間から見える空は、黒い雲で埋め尽くされていた。しとしとと降る雨は、知らず知らずのうちに体力を奪っていった。木の洞や、傘になりそうな大きめの葉で雨宿りをしながら、少しずつ進んでいった。
 雲の向こうで日が暮れたのだろう。少しずつ、辺りが随分と暗くなっていった。そろそろ寝床を探さなければならなかった。明るいうちに探しておくべきだったと後悔してもあとの祭りである。居心地のよさそうな場所には大概先客がいて、余所者のぼくには居場所なんてものがなかった。相席をお願いしても、返ってきたのは
「ここは私の縄張りだ。出ていけ」
 居住者の冷たい目だった。
「俺が先に見つけたんだ。後から来た奴が出ていくのが道理だろう?」
 こころない、冷たい言葉だった。
「嫌なら戦って奪え。それが道理ってもんだ」
 強者の冷たい理論だった。
 既に居る者の立場から考えてみれば、どれももっともな意見なのだろうけれど。

 雨が強くなった。そろそろ寝床を見つけなければならない。ぼくが焦り始めた時だった。立ち並ぶ木々の向こうに、微かな光が目に留まった。
 光の方へ進んでいくと、そこには葉を傘にして空を見上げる火蜥蜴がいた。葉の先から落ちる雫が、時折尻尾の炎に当たってじゅわっと音を立てていた。
 炎が消えれば、死んでしまう。ぞっとした。雨林に迷い込んだ火蜥蜴たちは、こうやって命を落としていくのだろうか。木の洞に隠れようにも、いくら湿っているとはいえ隠れる場所が燃えてしまうかもしれない。それで、森の住民はこの火蜥蜴を拒絶したのだろう。葉の傘では、完全に雨を防ぐことはできない。このままでは、火蜥蜴は死んでしまう。
 ぼくに気付いた火蜥蜴が、ぎゃうと鳴いた。
 弱弱しい声だった。短い脚で懸命に走り、ぼくの目の前までやってきた火蜥蜴に、警戒の色はなかった。 
「きみも、居場所を見つけられなかったのか」
 ぼくが尋ねると、火蜥蜴はこくりと頷いた。
 ぼくは、小さな火蜥蜴と自分の炎が雨に濡れないように、翼で覆い隠した。それから、ぼくの炎を火蜥蜴の尻尾にかざした。弱弱しかった炎が、少しずつ大きくなっていった。火蜥蜴の体が震える。寒さを訴えている。抱き寄せると、小さな体からほんのりと温かみが感じられた。

 ぐったりとした火蜥蜴を抱え、雨を防げそうな場所を探して歩いた。
 しばらく歩いていくと、岩壁に葉で覆われている部分があった。よくよく見ていなければ、それはただの葉の塊だと思ってしまっていただろう。手で葉をかき分けると、そこには休むのにちょうどよさそうな洞穴があった。
 突然、その洞穴の中から何かが飛び出した。咄嗟に身をのけぞらせて避けたものの、飛び出した何かが掠った部分から、生暖かいものが肌を伝うのが分かった。
 洞穴の中から飛び出したのは、長いたてがみを持つ黒い狐だった。空色の瞳がギラギラと輝き、ぼくを睨みつけていた。
 戦うのは避けたかった。ぼく自身、既に疲れ切っている。炎の技は雨のせいで大した威力にならないし、何より手元には今、瀕死の火蜥蜴の子がいる。
「一晩泊めてもらえないだろうか」
「残念だが、この場所は今、私たちが使っている」
 黒狐からは、他の場所で出会ったのと同じ敵意を感じた。当然だ。せっかく隠しておいた安息の場所に、無断で踏み入られたのだから。
「せめてこの子だけでも入れてやってくれないか」
 ぼくは火蜥蜴の子を見せて言った。
「雨に打たれて弱っているんだ」
 狐は目を細め、迷うそぶりを見せた。それから低い声で尋ねた。
「お前の子か」
「違う。ここで初めて出会った」
 ぼくは迷わず真実を答えた。嘘を吐く理由がなかったからだ。
 答えるや否や、狐はぼくの手から火蜥蜴を奪い取った。あまりに鮮やかな手つきで、ぼくは奪われたことすら気付かなかった。
「こいつだけだ。お前は知らん」
「ありがとう」
 礼を言うと、狐は顔を背け、洞穴の奥に入っていった。姿が見えなくなったあたりで、ぶっきらぼうな声が聞こえた。
「入り口の番くらいなら、させてやる」
 暗闇の中から空色の双眸が消え、雨音に寝息が二つ混じり始めた。よくよく聞けば、それだけではない。黒狐と火蜥蜴のものを足しても、二つ三つほど足りなかった。
 入り口は、ぼくが体を丸めてちょうど入るか入らないかくらいの大きさだった。炎で奥を照らしてしまわないように、炎が雨に晒されないように、ぼくは体を横たえた。
 途端に、どっと疲れが襲ってきた。体と瞼が重たくなり、ぼくはいつの間にか意識を失っていた。

 目を開けると、辺りはもう明るくなり始めていた。雨はもう止んでいるようだった。
 洞穴から這い出して、体を伸ばした。雨で冷えたのと、狭い場所に縮こまっていたのとで、体が随分縮こまっていた。
 ぼくが体を動かしていると、洞穴の中から昨晩の黒狐が顔を出した。
「よく眠れたか?」
「おかげさまで」
 相変わらずぶっきらぼうな物言いだった。それでも昨晩とは打って変わって、言葉に温かみがあった。
「あの子は無事?」
「ああ」
 狐は洞穴の奥を指差した。ぼくが中の子を起こさないように尻尾の炎をかざすと、そこには白と黒、二匹の狐の子と一緒にすやすやと寝息を立てる火蜥蜴の子の姿があった。その隣には、少し体が大きい九尾の狐の姿もあった。ぼくがよく知っている九尾狐は金色の毛皮を持っていたけれど、そこにいた九尾狐は冬に積もる雪のような白銀の毛皮を纏っていた。
「子供がいたのか」
「私らの大事な子だ」
 黒狐と話していると、穴の奥から九尾狐が顔を出した。ぼくを見るなり冷たい氷の礫を吹き付けようとした九尾を、黒狐が制した。
「近頃は、寝床を求めるふりをして子を攫う輩もいる。それで警戒していた。お前は、そういうやつじゃなかった。悪いことをした」
 こうべを垂れる黒狐に、ぼくは「いいんだ」と言った。
「あの子はどうする?」
「言った通りぼくの子じゃないから、置いていこうと思う。ぼくはこういう者なんだ」
 ぼくは黒狐に手を差し出した。黒狐は僕の手に触れて、何かを察したようだった。
「ならば尚更、連れて行ってやるべきじゃないのか」
 ぼくを見つめる黒狐は、親の顔をしていた。おやの顔を知らないぼくにも、何となくそんな気がした。確かに、火蜥蜴を連れて安住に地を見つけ、大人になるまで世話をするということもできなくはないだろう。けれど、ぼくは首を横に振った。
「ぼくはこれから長い距離を飛ばなければならない。山を越え、谷を越え、海を越え、遠くまで行かなければならない。拾った手前、無責任な話だけれど、そんな危険な旅にあの子を連れていくことはできないよ」
 それを聞いて黒狐は「そうか」と呟いた。それから意地悪な顔をしてこう言った。
「私があの子を殺しても、文句は言うまいな」
「その時はその時だよ。それに、あなたはそんなことをする方じゃないでしょう」
 ぼくが笑うと、黒狐も「冗談だ」と言って笑った。

「気をつけて」
「ありがとう。元気で」
 火蜥蜴が目を覚まさないうちに、ぼくは狐の住処を発った。
「あの子をよろしく」
と、心の中でだけ告げた。

 雨が上がった後も、そこかしこの木から雫が零れ落ちてきた。それが時折ぼくの炎に当たって、じゅわっと音を立てた。ぼくの炎は、この場所では随分と都合が悪いようだった。
 けれど仕方がない。ぼくの帰る場所は、この森ではなかった。ただそれだけのことだった。それに。

 ぼくにはあの黒狐や白銀狐のように、大切に想える誰かがいなかった。
 あの火蜥蜴がそうではないのかと問われると、それは違うと思う。ならば見殺しにすればよかったではないかという話だが、それも違う。本当に無責任だが、見殺しにしたくなかった。ただそれだけだった。
 たったそれだけだというのに、胸にぽっかりと穴が開いたような気分になった。
 心の空白を振り切るように、ぼくは朝日に背を向けて飛んでいった。

4.海原の空

 空を飛んでいた。
 見渡す限りの海の上を、潮風に吹かれながら飛んでいた。快晴の空にはキャモメの群れが飛び回り、獲物を見つけるや否や水面目がけて突進する様が見受けられた。随分と高いところから狙いを定めて飛び込んでいるようだけれど、同じくらいの高度からでは何も見えなかった。もう少し水面に近付いてみよう。ほんの気まぐれだった。
 水面近くを飛んでみても、波立つ水面に荒く映るぼくがいるだけだった。いや、最初はそうだったが、いつの間にかぼく以外の誰かがぼくの真横にあたる位置にいるように見え始めた。海色の小さな背中だった。真横を見ても、誰もいない。そこでようやく気付いた。海色は飛んでいるのではない。水中を、飛ぶように泳いでいるのだ。障害のない空を飛んでいるぼくと遜色ないくらい、海色は速かった。
 視界の先に、白い氷河がみえた。着地して休むには十分な大きさだった。
 視界の端に、海色が映った。水中から獲物を狙うバスラオの如く飛び出してきたのは、先ほど見た子ペンギンだった。
 子ペンギンは空中で両手をばたつかせた。空を飛ぼうとしているのだろうか。その羽ばたきは、小さな体を海面から遠ざけた。ほんの一瞬だけ、飛んでいるぼくと同じ場所にまで浮き上がった。しかし、重力には勝てなかった。ゆっくりと降下し、水飛沫を上げた。

 氷河の上に降り立ったぼくのところに、先程の子ペンギンがやってきた。
「驚かせてごめんね。空を飛ぶ練習をしていたんだ」
 頭を下げる子ペンギンに、ぼくは「大丈夫」と言った。本当は翼にぶつかりそうだったけれど、咄嗟に旋回して避けたので怪我はなかった。
「君は泳ぐのがうまいんだね。海の中を、飛んでいるみたいだった」
「泳げてもだめさ」
 ぼくは褒めたつもりだったのだけれど、子ペンギンはそっぽを向いてしまった。
「僕は、君みたいに空を飛びたいんだ」
「無理だよ」という言葉を、ぼくはすんでのところで呑み込んだ。子ペンギンの瞳は本気だった。彼が飛べないことが事実だとわかっていても、それを否定してしまうのは心が痛む。
「飛んでみるかい?」
 ぼくは尋ねた。ぼくが子ペンギンを抱えて飛べば、空を飛ぶことだけはできた。だが、
「いい」
 子ペンギンはすぐに否定した。
「自分の力で飛べなければ、意味がないもの」
 ぼくには、この子ペンギンが可哀想に想えてならなかった。空を飛べるキャモメに生まれていたら、そんな夢を持つことも、飛べずに悔しい思いをすることもなかっただろう。しかし、それはキャモメが「飛べる」からであり、飛べない者が空を飛びたいと思うのは、むしろ自然なことなのかもしれない。
 飛べるといいね、とは言わなかった。無理だ、とも言わなかった。頑張れ、とも言わなかった。
 何も言えなかった。何と言ってよいやら分からなかった。
 自分にはできることが、子ペンギンにはできない。できる者には、できない者の気持ちは分からないのだから。今ここでぼくが何を言ったって、子ペンギンを傷つけはしても、慰めにはならないと分かっていた。
 何も言えないぼくを見て、子ペンギンは言った。
「分かっててもさ、夢見ちゃったんだから仕方がないでしょ」
 飛べないことを知ってなお、よほど空を飛ぶことに憧れているのだろう。子ペンギンの表情は、子供とは思えない哀愁を感じさせた。

 しばらく休んでから、ぼくはまた飛び立った。ペンギンはまた海に潜り、助走をつけ始めた。十分スピードが上がったら、空目がけて飛び出し、懸命に両手をばたつかせる。が、やはり飛ぶことはできずに落ちてしまう。その一連の動作を、ずっとずっと繰り返していた。
 何度目か分からない着水を決めたとき、子ペンギンは何かの気配を悟って水を蹴った。直後、子ペンギンがいた場所を、一匹の鮫がものすごいスピードで駆け抜けていった。
 獲物を逃した海のギャングは、体を反転させて子ペンギンを見つけた。赤い瞳がギラギラと輝いていた。尻から水を噴射し、一気にスピードを上げて子ペンギンに襲い掛かる。
 子ペンギンは必死に逃げた。海で最も速く泳げるとされる鮫を相手に、子ペンギンは負けじと逃げ回った。すんでのところで噛み付かれそうになるのを何度か繰り返し、それでも諦めずに逃げた。鮫ほどのスピードは出せなくとも、機動性においては、子ペンギンが鮫を上回っていた。
 それでも、差は徐々に縮まっていった。接近を繰り返すごとに、鋸のような歯が子ペンギンを噛み砕こうとする。このまま逃げ回っていても、いずれは食われてしまう。子ペンギンは意を決して、頭を上に向けた。これで最期になるかもしれない、直線勝負に出た。
 一直線に昇っていく子ペンギンを、鮫も一直線に追いかけた。子ペンギンは振り向かなかった。そして、水面近くまで昇ったところで、全力で水を蹴った。
 ザバッ。
 水飛沫を上げて、子ペンギンは空へと飛び上がった。その後を追って、鮫も水上へ顔を出した。
 飛び出した勢いそのままに、子ペンギンは両手をぴんと伸ばした。子ペンギンの体は放物線を描きながら上へ上へと昇っていく。鮫も同じ軌道を辿り、子ペンギンに近付いていく。牙が迫る。噛み付かれる。生暖かい息を感じた時、子ペンギンは両腕をぐんと一振りした。
 そのひと振りが、子ペンギンを体一つ分前へと推し進めた。鮫の牙が空振りし、鮫はそのまま海へと落ちていった。息をつくのも束の間、子ペンギンの前には真っ白な氷河の大地が広がっていた。飛んできた勢いのまま、腹から氷河に着地した。氷の床を滑り、少しせりあがっているところでようやく止まった。
「ぼく、今、飛んだ?」
 氷河の上に降り立った子ペンギンは、きょろきょろと当たりを見渡した。追いかけてきた鮫は、もういない。胸を撫で下ろし、座り込んだ。今までよりも、随分と長い時間、空を飛んでいたような感覚だった。それまで感じたことのない手ごたえのようなものが、子ペンギンの胸に湧き上がっていた。
 その一部始終を見ていたぼくは、気付かれないように、子ペンギンの背後にそっと降り立った。
「見てたよ。ちょっとだけだけど、飛べたんじゃないかな」
 びっくりして振り返った子ペンギンは、ほっと息を吐いて言った。
「……あれじゃまだまださ。言っただろう? 君みたいに自由に空を飛べるようにならなきゃ」
 否定する子ペンギンだったが、その頬はほんのりと朱に染まっていた。
ああ、この子は褒められ慣れていないのだとぼくは思った。おまけに、自分を中々認められないのだろうと。
「ストイックだね」
「笑うかい?」
「いいや、笑わないさ」
 ぼくは子ペンギンの頭に手を置いて言った。
「夢を持つことは、大事なことだから」

 子ペンギンと別れたぼくは、海の上を飛んでいた。
 あんなことを言ったけれど、ぼくは何か夢を持っていただろうか。考えてみたけれど、何も浮かんでは来なかった。ぼくも偉そうなことは言えたもんじゃない。
 氷河の上に留まって、子ペンギンが夢を叶えられるか見守ることもできた。それをしなかったのは、あの氷河がぼくの帰る場所ではなかったからだ。
 子ペンギンは、また「空を飛ぶ」練習を始めた。その努力が実ることはないかもしれない。けれど、きっと今日のように子ペンギンを生かすことはあるのだろう。そう考えると、少しだけ救われたような気持ちになった。
心が軽くなったぼくは、水平線に向かって、まっすぐに飛んでいった。

5.廃墟の空

 空を飛んでいた。
 荒廃した土地の遥か上空から、地面を見下ろしながら飛んでいた。
 かつてそこには街があったのだろう。黒く朽ち果てた建物がいくつも連なっている場所だった。壁が崩れて中が見えているのはまだマシで、骨組みだけ、あるいはそこに建物があったであろう痕跡だけしか残っていない場所さえあった。誰かが住んでいるようには思えなかった。
 そのうちの一つに、ぼくは目を留めた。街の中でもひときわ大きなお屋敷だった。ところどころ崩れている部分はあるものの、そこかしこに補修の後が見られ、未だにその原型を保っていた。
 気になったのはお屋敷だけではなかった。その玄関口で、誰かが手を振っているのを見たのだ。
 高度を下げて近づいてみると、それは灰色のぬいぐるみだった。つぎはぎだらけで、縫い目の部分から中身の綿が飛び出していた。黒ずんだ金属のチャックでできた口は開いていて、ぬいぐるみはケタケタと笑っていた。
「よお。よく降りてきてくれたな。久しぶりのお客様だ」
 ぼくが地面に降り立つと、ぬいぐるみは嬉しそうに話しかけてきた。
「はじめまして。君はここで何をしているの?」
「よくぞ訊いてくれた」
 ぼくが尋ねると、ぬいぐるみは腕を組み、ふんぞり返って答えた。
「俺はな、ここでご主人様の帰りを待っているのさ」
「君のご主人様?」
「おうともよ。ご主人様は大事な用事があって、俺にこの屋敷の留守を任せて出ていったんだ。きっと帰ってくるからって、笑ってくれたっけ」
 ぬいぐるみの表情があまりにも誇らしげで、ぼくは感心してしまった。このぬいぐるみは、「ご主人様」のことをとても慕っているのだ。
「あんた、どこかでうちのご主人様を見ていないか? こういう人なんだが」
 人形は破れた体の中から、一枚の写真を撮り出した。すっかり色あせた、精悍な顔立ちの男が写っていた。
 今までいろんな場所を旅してきたけれど、ぼくの記憶にその男はいなかった。
「ごめんよ、見たことが無いや」
 ぼくが答えると、ぬいぐるみは一瞬ぽかんと口を開けていたが、すぐに笑顔を浮かべた。
「そうか。ああ、いや、気にするなよ。お前は悪くないんだからさ。たまたま知らなかっただけなんだから」
 そう言って写真をしまいこむぬいぐるみの表情は、どこか寂しげだった。一目見ただけで、作り笑顔と分かる表情が張り付いていた。
「そうだ。久々の客なんだ、うちに泊まっていかないか? 部屋はみんな綺麗にしてあるからさ」
 この場所はぼくの目的地ではなかった。でも、ぼくにだって休息は必要だ。それに、おそらくぬいぐるみは寂しかったのではないかと思ったのだ。「綺麗にしてある」という言葉が、自分でそれをやった証拠だ、自分以外にやる者がいなかった、というのは考え過ぎだろうか。
 こんなことを考えるのは、ずっとひとりで飛んできたぼくの寂しさを紛らわせようとしているだけなのかもしれないけれど。
 ぼくが思った通り、屋敷には誰も住んでいなかった。だだっ広い屋敷のだだっ広い部屋に案内され、そこでぬいぐるみと夜遅くまで話をした。
 主人がいなくなった後、召使だった者も次々と屋敷を後にし、最後にぬいぐるみだけが残されたという。ぬいぐるみは誰もいなくなった屋敷を、今までずっと守ってきたのだ。壊れた所は補修し。家の中は日を分けて掃除をし。ご主人様がいつ戻ってきても良いようにと、ぬいぐるみは長い間手を尽くしてきたのだ。
「帰ってくるといいね」
 ぼくがそう言うと、ぬいぐるみは「ああ」と答えた。その時の希望に満ち溢れた顔といったら。暗いだの不気味だの言われるゴーストタイプとは思えないくらい、屈託のない笑顔だった。
 ぬいぐるみの話をたくさん聴いた後は、ぼくが旅の話をした。色々なところを巡ってきたぼくの話を、ぬいぐるみは目を輝かせて聴いてくれた。けれど、「ご主人様」の話をしていた時の方が、もっと良い顔をしていた。
 お互い話をしているうちに、いつの間にか眠ってしまったようだった。目を開けた時には、部屋の窓から眩しい朝の光が差し込んでいた。
 その日、ぼくは屋敷を出た。ぬいぐるみはもっと居てくれても良いと言ってくれたけれど、ぼくには帰るべき場所がある。今はその途中。十分に休んだのだから、これ以上長居する理由はなかった。
 ぼくを見送るぬいぐるみは、やはり寂しそうな顔をしていた。けれどきっと大丈夫だろう。これまでずっと一人で屋敷を守ってこられたのだ。きっと、「ご主人様」が帰ってくるまで達者でやっているはずだ。そう思うことで。後ろ髪を引かれる思いを断ち切った。

 その日の夕方、一人の男がぬいぐるみのいる屋敷を訪れた。ぬいぐるみが持っていた写真に写っていた、あの男だった。
 男の姿を見るや否や、ぬいぐるみの瞳が大きく見開かれた。
「やあ、ただいま」
「帰れ」
 にこやかに手を上げる男を睨みつけ、ぬいぐるみは吐き捨てるように言った。
「どうしてだい。私は約束を果たしに帰ってきたんだ」
 ぬいぐるみを抱き上げようと伸ばされた男の手を、ぬいぐるみは払いのけた。
「二度とその姿で、ここに来るんじゃねえ」
 その言葉を聞いて、男――に「へんしん」していたぼくは溜息を吐いた。初めて屋敷を訪れた時の姿に戻ったぼくを、ぬいぐるみはぶん殴った。思い切り振りかぶった割に、力のこもっていない貧弱なパンチだった。
 ぬいぐるみは俯いて、片手で目をこすった。チューリップの花のような形の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「本当は知ってるんだ。俺のご主人様は、とっくに死んじまったんだろうって。もう二度と、ここへは帰ってこないんだろうってさ」
 ぬいぐるみの頬を伝う涙に、ぼくはそっと触れようとした。ぼくの指が拭い去る前に、涙は布地に綿が詰まった肌に吸い込まれていった。濡れた肌は、しばらく渇きそうになかった。
「ありがとよ、励まそうとしてくれて」
 それからぬいぐるみが泣き止むまでの間、ぼくはぬいぐるみの横に腰掛けて、背をさすり続けた。ようやく落ち着いた時、ぬいぐるみの表情はどこかすっきりとしていた。憑き物が落ちたようだった。本当に落ちていたら、動かなくなってしまうのかもしれないけれど、少なくともその心配はなさそうだった。
「また来なよ。今度は本当の姿を見せてくれよ」
 そう言って、ぬいぐるみは手を振った。今度こそ、本当にお別れだった。

 ぼくは屋敷を後にした。このままここで暮らすこともできるけれど、ぼくが帰るべき場所はここではないからだ。それに、もう一度戻って来られるかどうかわからない。戻ってきたときに、まだこの街が存在しているのか、ぬいぐるみがここにいるのかさえ分からない。だから、約束はしなかった。ぬいぐるみの主人のように、意図せず約束を破ってしまうのは嫌だった。それでも、またこの場所に来たいと思っていた。きっとまたこの屋敷を訪れて、あのぬいぐるみと他愛もない話をするのだ。想像だけが膨らんで、ぼくの胸を満たした。
 次は、本当の自分で居られるだろうか。回り始めた思考が、ゆっくりと停止する。
 本当の自分は、どんなだっただろう。

6.暴風域の空

 空を飛んでいた。
 風の強い場所だった。ちょっとでも気を抜けば、どこへ飛ばされるか分かったものじゃない。それに、そこかしこから大きな岩が飛んで来るこの場所を、無傷で飛ぶのは難しそうだった。風の流れを読み、岩を避け、とにかく常に周りを気にしていなければならないので、いつも以上に神経がすり減ってしまいそうだった。
 がつん、と嫌な音がした。痛い。そう感じる前に、目の前の景色がぐるぐると回り始める。自分が落ちていると気付くのに、随分と時間がかかった。がつん。今度は腹に鈍い痛み。がつん。必死に動かそうとした翼にも。痛い。痛い。痛い。次々と襲い来る痛みが、意識を失うことさえも許さない。がつん。一際大きい岩が、今度こそぼくの意識を刈り取ろうとした。

 誰かがぼくの手を、がっしりと掴んだ。
 失いかけた意識が、一気に引き戻された。
 丸っこくてたくましい体に、橙色の鱗。頭には小さな突起と二本の触覚。紛れもなく、それは海龍だった。
 海龍は僕の手を握ったまま、スピードを上げた。吹きすさぶ風を、飛んでくる岩をすり抜けて進んでいく。躱しきれない岩が何度かぶつかりそうになったけれど、そのたびに海龍が破壊光線や龍の息吹などで叩き落とした。おかげで、ぼくには岩も、砕けた破片も、一切当たることはなかった。
 降り注ぐ岩は、海龍にとっても致命的なはずなのに。いくら海龍の力が強いといえども、怪我をしたぼくはお荷物でしかないはずなのに。海龍はぼくの手を離そうとはしなかった。身を挺して岩を打ち砕く海龍の瞳に、迷いの色はなかった。
「どうして、助けてくれたの?」
 ぼくが尋ねると、海龍は前を向いたまま悲しげな顔をした。
 その黒いつぶらな瞳を見て、ぼくは悟った。
 この海龍にとって、誰かを助ける理由など存在しないのだ。助けたいと思ったから、あるいは、自分でこんなことを言うのはおこがましいけれど、助ける価値があると思ったから、そうしたのだ。たとえ本当はそうでなかったとしても。ぼくが海龍に対して利ではなく害をもたらす存在だったとしても。海龍は自らの信念を貫き通しただろうと。
 海龍は、目に映るもの全てに価値を見出している。ぼくが「なぜ」と問うことは、海龍が見たぼくの価値を否定したことになるのだ。だからこそ、海龍は傷ついたのだ。
「ごめん」
とぼくは呟いた。海龍は気にするな、とでもいうように一声鳴いた。
 自己中心的な奴だと思った。自意識過剰なやつだとも思った。
 同時に、この海龍は本当にいい奴なのだ、とも思った。
 ここに着いたばかりの頃の不安が、今は一欠片も残っていなかった。心がじわりと温かくなって、ずっとこの海龍と一緒にいられたら、なんてことを考える余裕さえあった。

 しばらく飛んでいると、強かった風がだんだん収まってくるのが分かった。飛んでくる岩の大きさも数も減り、随分と飛びやすくなった。
 繋いでいた手を放して、ぼくは地面に降り立った。海龍は降りてはこなかった。ぼくの無事を確認して、背を向けようとした。
「ありがとう!」
 風の音にかき消されないように、大きい声でぼくは叫んだ。
 ぼくの声が聞こえたのかどうなのか、海龍は振り向いて、にこりと笑った。
 その笑顔の眩しい事と言ったら、嵐の中に顔を出した、太陽のようだった。

 そのまま、海龍は元来た方へ飛んで行ってしまった。またどこかで、この暴風域に迷い込んだ誰かを助けて回るのだろう。またこの場所を飛んでいたら、あの海龍に会えるだろうか。そんな考えが浮かんだけれど、当然ここはぼくの帰る場所ではなかった。
 海龍の無事を祈りながら、ぼくは暴風域を背に飛び立った。

7.砂漠の空

 空を飛んでいた。
 辺り一面の砂色の丘を、風に乗って飛んでいた。吹き荒れる砂嵐が、目や翼に当たって痛かった。あまり長い時間飛んでいたい場所ではなかった。
 気が遠くなり始めた時、視界の向こうに砂以外の色が飛び込んできた。オアシスだ。少ないが、水も緑もある。休むにはもってこいの場所だった。
 早く休みたい。傷ついた体を癒したい。しかし、進んでも進んでもオアシスには辿り着かなかった。今見ているのはただの蜃気楼で、本当のオアシスはもっとずっと先にあるのではないかと思い始めた。
 不安は杞憂に終わった。焦る思いが、到着までの時間を長く感じさせているのだろう。水辺に寄って、手を差し入れてみる。ちゃんと冷たい。幻などではなさそうだった。喉を潤し、体を横たえようとした時、突然空が暗くなった。日が陰ったわけではなく、ぼくの周りだけが暗くなった。体に黒い痣がある火竜だった。
 火竜はぼくに襲い掛かってきた。同じ姿をしているから、闘争心を掻き立てられたのかもしれない。
 冗談じゃない。ぼくに戦う気なんてものは一ミリも存在しなかった。
 ぼくはすんでのところで突進を躱した。火竜は地面すれすれで上昇して、墜落を免れた。このまま地面にいては格好の的になってしまう。ぼくは砂を巻き上げながら飛び立った。ぼく目がけて炎が飛ぶ。これも避ける。避けたところで息を呑んだ。目の前に火竜がいる。はめられたのだ。
 生憎、ぼくには戦いの才能がない。パワーもスピードも技の威力も、どう足掻いても敵わない。すぐに肩を掴まれ、地面に叩き付けられてしまった。
「やめろ」
 低い声がした。頭の中に直接響く声。
 人型の生物が、空から音もなく降りてきた。ぼくを抑える力が緩み、火竜がぼくから降りてこうべを垂れた。
 一目見て分かった。明らかに、他の生物とは違う。迫力も、内に秘めた力も、何もかも。どう足掻いても敵わない。火竜を相手取った時以上にそう思った。
 人型の周りには、他にも多くの生物がいた。種を背負った蛙、巻き尻尾の亀、赤い頬の電気鼠……みんな、体のどこかに痣があった。
「お前は誰だ」
 人型はぼくに尋ねた。
「ぼくはぼくさ」
 ぼくは答えた。それ以外に答えようがなかった。
「確かに、お前はお前だ。だが、なぜその姿をしている」
 見透かされているようで、気分が悪かった。だが、答えられない。その問いに対する回答を、ぼくは持ち合わせていない。
「お前は偽物だ」
「ぼくはぼくだって言っただろ。偽物じゃない」
 意地を張って答えると、人型は静かに目を伏せた。これ以上の話し合いは無意味だとでも思ったのだろうか。ぼくが飛び立とうとすると、「まあ待て」と人型は言った。
「私も、ミュウというポケモンの偽物なのだ。最強のポケモンとなるべく、人間に作られた身なのだ。偽物でも、生きている。このポケモンたちもそうだ。私が作りだした偽物だ。だが、生きている」
 痣のある生物たちを手で示しながら、人型は言った。「生きている」の部分に、力がこもっていた。
「そして、お前もそうだ。偽物だが、生きている」
「ぼくは偽物じゃない」
「本物か偽物かは問題じゃない。私も、コピーたちも、そしてお前も、生きているのだ。姿など関係ない。お前はお前の命を大事にすることだ」
 言って、人型は空を見上げた。釣られてぼくも空を見た。ぼくには何も見えなかったけれど、人型はそこに何かを見ているようだった。
 同じ姿になれば、見えるのだろうか。姿を変えようとして、やめた。たとえぼくが人型の姿をとったとしても、その体はぼくのもので、人型のものではない。人型にしか見えないものが、ぼくの目に映るはずがないのだから。
 視線を下ろした人型が、ぼくに尋ねた。
「お前には、お前の行くべきところがあるのか」
「そうだ。今までずっと、そのために空を飛んできた」
「私たちは生きる場所を探して旅をしている。他の者に干渉されぬ場所を。それぞれが生きたい場所を」 
 人型の体から、力が発せられるのが分かった。誰かを傷つける力ではない。優しく包み込み、運ぶ力。痣の生物達の体が光り、浮き上がる。優しく、かつ強力な「サイコキネシス」だ。
 ああ、もう行ってしまうのか。そう思うと、ぼくはどうしようもなく、これから去り行く者たちを引き留めたくなった。しかし、それをしてはならないことは分かっていた。引き留めるということは、そこに縛り付けるということだ。尤も、引き留めようとしたところで、ぼくは返り討ちに合うだけなのだろうけれど。
「もう二度と会うことはないだろう。だが、私はお前のことを忘れない」
 人型が、最初に飛び立った。続いて痣のある生物たちも、みんな飛んで行ってしまった。みんなが空の果てに見えなくなるまで、ぼくは見送り続けた。最後に、ぼくに襲い掛かってきた火竜が、こちらへ向かって手を振っていた。
 
 ひとりに戻って、改めて飛んでいった者たちに想いを馳せた。行くべき場所が分からないからこそ、彼らは安住の地を探しているのだ。彼らには、安息の地がまだない代わりに自由がある。一つの場所に囚われない、自由がある。そう考えると、ぼくは帰るべき場所に縛られているのではないかと思ってしまう。
 その場所を思い出そうとした。残念ながら、その風景は浮かばなかった。
 ぼくが帰るべき場所など、本当にあるのだろうか。
 不安に駆られるぼくの目の前を、見えない何かが通り過ぎていったような気がした。

終章 ぼくの空

 空を飛んでいた。
 真っ白な雲の絨毯の上を、行く当てもなく飛んでいた。

 ぼくは何にでもなれた。そしてそれゆえに、何にもなれなかった。
 ぼくには帰る場所さえなかった。

 自己嫌悪に陥ったぼくの心にふと、これまで出会ってきた者たちとの思い出が蘇った。

 孤島に住まう竜は、かたわれ時に不可視の同胞と談笑していた。
 草原に住まう火馬は、親子で元気に駆け回っていた。
 雨林に住まう狐は、家族を守りながら暮らしていた。
 海原に住まうペンギンは、空を飛ぶ努力をしていた。
 廃墟に住まう人形は、帰らぬ主人を待ち続けていた。
 暴風域に住まう海龍は、迷い込んだ者を助けていた。
 どこへ住んでいるか分からない人型は、多くの仲間と共に安住の地を探していた。

 みんな、それぞれの場所で順応して生きていた。
 否、順応できる者だけが残っていくのだ。順応できない者は、淘汰されていくのだ。雨林で出会った火蜥蜴も、ぼくと出会っていなかったらあのまま死んでいたかもしれない。あるいは、別の誰かに縋って、生きていたかもしれない。

 何にでもなれる自分は、何にもなれないと思っていた。しかし、それは違った。
 何にでもなれるということは、どんな環境にも対応できるということだった。
 何にでもなれるということは、何者になるか自分で選べるということだった。
 この世界の全てが、ぼくの帰る場所なのだ。
 どこへ行ったっていい。どこへ帰ったっていい。何になったっていい。自分のままでいたっていい。それができるように、ぼくの体はできていたのだ。
 ぼくにはその自由が与えられていたのだ。

 自由であるというのは、ぼくにとっては少し不自由に思えた。
 帰る場所があれば、何も考えることなくその場所へ向かえばよかった。
 けれど、その場所もいつなくなるか分からない。その場所が突然失われてしまうことだってあるだろう。
 その点、ぼくは姿を変えることでどこにだって順応できた。
 それが、他の者よりも優れている、とは思わなかった。生きる場所が分からなかったり、失ったりしたとして、それが死に直結するわけではない。新たな生きる場所、帰る場所を探し、そこに順応して生きる。誰かと協力して、苦境を乗り越えて生きる。そういう強さを、皆持っていた。そしてたまたま、ぼくもそういう力を持っていた、それだけのことだった。

 生きているということは、それだけで自由であり、不自由なのだと知った。

 今まで巡ってきた場所を、ひとつひとつ巡ってみようと思った。これまでに出会った者達を、ひとりひとり訪ねていきたいと思った。
 どの場所も、今いる場所からはかなり離れていた。また「へんしん」して飛んでいかなければならない。どれくらい時間がかかるかもわからない。
けれど、不安はなかった。どの場所も、この空で繋がっている。どこへだって飛んでいける。そのことをぼくは知ることができたのだから。

 穏やかな風が、肌をくすぐって通り過ぎていく。その風に乗って、どこかから火竜の吠え声が聞こえた気がした。