愛憎の楽園(パラダイス)

 気がついたとき、そこは知らない草原だった。
 見慣れた景色、見慣れた人やポケモンの姿はなく、聞き慣れぬ音、嗅ぎ慣れぬ匂いが体の中で綯交ぜになる。
 振り返れば、幼き頃からともに過ごした友が傍らに立ち、悲しい顔を隠そうと俯いている。表情を変えないまま、彼は私の好物であるチーゴの実を足元に並べた。
「ごめんよ、トート」
 わずかな沈黙を経てそれだけ言い残し、彼は足早に去って車に乗り込む。状況を飲み込むよりも先に、車は発進して人が舗装した道の上を走り、すぐに姿が見えなくなっていく。
 知恵の神から肖って、トートと名前をつけられた。しかし自分のもつ知性をどれだけ振り絞ろうとも、この不安と恐怖を押しとどめる術はない。地に尻をつけているのに、まるで宙に浮いているように身体は妙にフワついて落ち着かない。
 そして地の深い深い底に落ちたようにドサリと体を横にして、誰もいない草原の真ん中で涙がツーっと流れ落ちる。
 ――そうか、私は棄てられたのか。


 イッシュ地方から南西におよそ千マイル。オールトシティから北西にある75番道路は中央をアスファルトで舗装された車道があり、その脇には背丈の低い草むらと雑多に木が乱れ立つ森が交互に現れる。ただ、町と町をつなぐ以上の役割をもたないこの道路はこれといった特徴もなく、観光で栄えるオールトシティから出たトレーナーはあまりの味気無さに呆気にとられるだろう。
 草の海を渡り歩き、75番道路の中でも特別鬱蒼とした雰囲気を放つ森の前までやってきた。レオナ・ハワードは不機嫌そうな顔をして前髪を抑える。涼しげな風も、雲一つない眩い青空も、レオナは特別好きではない。当然雨や雷に比べれば好きではあるが。
「やっと目的地? これだけ日差しが強いと日焼け止めたっぷり塗っても肌が焼けるじゃん。それに折角三十分かけて前髪作ったのに、こうも風がなびくと崩れそうで最悪」
 ショートパンツとキャミソールからすらりと伸びた長い手足は陶器のように滑らかで白い。サングラスを前髪の上に乗せると、横からアッシュグレーのロングヘアーがさらりと流れる。しかしサングラスの下から現れた表情は砂でも噛んだかのように苦い。それをなだめる様に隣を歩くのは、黒髪の東洋男性風な容貌の相棒、フェンだ。
「今日は風が出てるってわざわざ朝に僕が言ったじゃないですか。フィールドに出るし人に会う予定もないのに、オシャレする必要があったんですか?」
「ム、分かってないな。いつどこで素敵な王子様と出会うか分からないじゃん。だからこそわたしはいつでも可愛くないといけないってわけ」
「そうだったんですか? でもレオナは姫ってタイプじゃないでしょ」
 レオナの左拳がフェンの右わき腹を突いた。こぼれた小さなうめき声を漏らすパートナーを、傍らのレントラーが心配そうに見上げた。
「ほらほら、そういうとこですよ」
 喉まで出かかった小言を無理やり飲み込んで、レオナはさらに苦い顔を作った。一つため息をついてから、レオナは髪をバナナクリップでさっとまとめると、ベルトにぶら下げたモンスターボールからキノガッサを繰り出して、左隣の相棒に目配せをする。
「とにかくさっさと仕事を片付けて帰ろう。そしたらセントラルストリートでショッピングだ」
「ウエストゲートにも寄って僕のかりんとうも買ってくださいよ」
 今回の依頼は極めて単純。ゴローニャを捕獲してほしい、とのことだ。どこのバカだか知らないが、こんな山も何もない森のど真ん中にゴローニャを放った人間がいるらしい。
 ここしばらく、人に棄てられるポケモンの増加がちょっとした社会問題になっている。そのポケモンが生まれ育った土地にかえすならまだ百歩譲っても、その地域に生息していないポケモンを平然と逃がしているため、生態系への影響が懸念されている。特に75番道路は国立自然保護区域が近いため、ポケモンレンジャーも相当に気を張っているだろう。本来なら外来ポケモンの対応はレンジャーの仕事であるが、人手が足りないためフリーランスのトレーナーとして活動しているレオナ達の元にも声がかかった。
 森に入って十五分。ふと、フェンの足元で愛猫が鳴く。
レントラーレンさん、もう見つけたの?」
 フェンの呼びかけに対してレントラーは再び鳴いた。レントラーの「声」を聴いたフェンが、レオナに状況を伝える。
「前方の二つ並んだ樹の辺り。今は眠ってるみたいですね」
「相変わらずこういう仕事の時は君らがいると楽ね」
「その代わり、ゲットの方はお願いしますよ」
 レントラーの透視でターゲットを捜索し、ポケモンの言葉がある程度分かるフェンがそれをレオナに伝える。そしてレオナのキノガッサの胞子でターゲットの動きを止め、捕獲する。これがポケモンを捕まえるときの二人の手口だ。
 ターゲットが見える位置まで静かに近づくが、どうもその姿は見慣れないものであった。一般的に想像するゴローニャとは違って、頭部には黒い二本の柱が角のように生えている。木陰にもたれかかって静かに眠っているが、二本の柱の間にはバチバチと電気が流れている。そんなゴローニャの柱に小さな黄色い点が一つ。目を凝らせば、ゴローニャの柱にひっついて電気を食べているバチュルもいる。
「これ、本当にゴローニャですか?」小声でフェンが問いかける。
「本物を見るのは初めてだけど、アローラ地方のゴローニャかな。ま、やることは変わんないけど」
 そしてレオナは手持ちのキノガッサに痺れ粉の用意を指示し、右手に空のクイックボールを構えた。いち、に、さんの合図でキノガッサが動く。物音に気付き目を覚ましたゴローニャに、痺れ粉が散布されたのを確認してクイックボールを放り投げた。
 しかし抵抗するゴローニャが動いたせいで狙いが外れ、ゴローニャに張り付いていたバチュルがクイックボールに吸い込まれる。げっ、と間の抜けた声の向こうで、突然の来訪者に怒りだしたゴローニャが二本の黒い柱の合間からレールガンの要領で岩を発射する。寸でのところで直撃は避けたが、高電圧の影響を食らって痺れたのかキノガッサの動きが鈍い。お互いにキノガッサはたね爆弾を、ゴローニャはロックブラストを構えたままにらみ合う。
「どうします。一度帰って仕切り直しますか?」フェンの問いかけにレオナは笑ってこう答える。
「まさか。昔の偉い人はこう言ったわ。If you can't, you must. If you must, you can.できずとも、やるべきことならやるっきゃないってね」


 オールトシティのイーストゲートにある高層マンション二十三階。エディ・ルーカスの自宅兼オフィスには、バーカウンターが備え付けられている。観光地で賑わうこの町の繁華街とエメラルドグリーンの海を一望出来る素敵な立地の上層階にあるというだけで、この建物の価値は聞かずとも分かるというものだ。依頼をこなしたレオナはフェンと別れ、バーカウンターに突っ伏したまま部屋の奥からやってきた仲介人を待っていた。
「ゴローニャの捕獲、お疲れさん。レンジャーも手を焼いてたらしいから、良い恩を売れたな」
「アローラのゴローニャって知ってるなら最初から教えてよ」
「そいつぁすまん、聞かれなかったもんでな」
 バーカウンターに置かれたハイパーボールを眺め、黒人系のスキンヘッドの男、ここの家主であるエディは楽しそうに笑った。
 オールトシティを中心としたトレーナーのクラウドソーシング業を営むエディとは、レオナ達にフリーランスのトレーナーという稼ぎ方を紹介して以来の腐れ縁である。観光客の迷子ポケモン探しから、人探し、ポケモン捕獲、ポケモンの力を借りての工事、あるいはポケモンバトルの相手など、やる仕事は様々だ。
「フェンは?」
「早起きしたからもう限界なんじゃない。今は家で寝てる」
「なんだい、相変わらず不便な体だな。にしてもお前も元気がないじゃないか。何かあったか?」
 モスコミュール、俺の驕りだ。と、机に突っ伏したレオナの前にグラスが一つ置かれた。顔だけを持ち上げ、レオナはエディを見つめる。
「ねえ、捕まえたゴローニャはレンジャーが引き取るんでしょ?」
「ああ、そうだ」
「あのゴローニャは幸せになるのかなあ」
 エディは目を丸くしてレオナを見つめる。
「おいおい、急にどうした」
「人間の都合で捕まえられたと思ったら、今度は人間の都合で棄てられたり、いつも損するのはポケモン達じゃん。『おや』を選べないポケモンって可哀そうだな、って」
「言いたいことは分からんでもない」
 ウォッカを口に含んで、エディは夕刻のオールトシティを眺める。その目下ではたくさんの人とポケモンが歩いている。『おや』を選べたポケモンは果たしてどれだけいるだろう。
「生憎俺たちはビジネスでやってるわけだから、そこまで面倒を見ることはできない」
「そんなことくらい分かってるけどさ。人間なら親が嫌なら自分から逃げて関係性を断つことはできなくはないじゃん。でもポケモンはモンスターボールっていう物理的な関係性があるからそう簡単にはいかないじゃない。かといえば人間は都合が悪ければポケモンを逃がすことだってできるし。人よりも知能の高いポケモンもいるっていうのに、ちょっと納得いかないっていうかさ。なんだか人間だけズルくない?」
 いつの間にかバーカウンターの上に現れたバチュルとレオナは目が合った。まだ子供なのか、改めて近くで見るとかなり小さいバチュルだ。
 ゴローニャ捕獲作戦時に一度間違えて捕まえてしまったあと、すぐにその場で逃がしたはずだったのだが、知らず知らずのうちについてきたようだ。人間都合で捕まえて、人間都合で逃がした一件。人に言った手前だが、それが我が身に降りかかるとついつい身が縮こまって苦しくなる。
「ねえ、逃がしたはずなのにどうしてついてきたの? 間違えて捕まえちゃったのは謝るけど、もう無理についてこなくてもいいのに」
 小声で話しかけてもバチュルは小首を傾げるだけだ。どれだけバチュルとにらめっこをしようとも、バチュルが何を考えているか感じているかは分からない。あるいは、何も考えていないかもしれないけども。
「フェンがいればよかったのにな」エディは呆れたように言う。
「分かってる」レオナは不貞腐れて答えた。
 それに、とエディは大きな身振りを使って話を続ける。
「例えばだ。今日みたいに仕事でポケモンを捕まえることになった。それで捕まえて欲しくないです、ってポケモンが仮に言ったらお前は仕事を手放すのか?」
 レオナは少し考えて答える。「しないけど」
「はは、じゃあ悩んでも仕方ないだろう」
「そうだけど」という言葉と共に、睨まれたエディは両手を上げてやれやれと首を横に振る。
「ま、最近同じような仕事ばっかだもんな。たまには違うもんでもやれば良い。丁度お前らに頼もうとした仕事なんだが、人捜しとか久々にどうだ?」
 沈黙と逡巡の末、レオナはやる、とだけ答えた。
「その返事を待っていた。期待してるぜ」
 

「仕事内容のおさらいだ。ヒウンシティに本社を構えるリバティ・クルーズ社の社長、ブライアン・ガルシアがヒウン、オールト間を航海中の船の中で突如行方をくらました。コンテナの中を含めた船内の至るところを捜索しても影も形も出てこない。モチロン警察も捜索に動いているが、海域に霧も出ていて捜索は進まない」
「海に飛び込んだか、あるいは何者に攫われたか」
「そうなるな。事実、リバティ・クルーズ社は最近業績が振るわず、資金繰りに苦しんでいるらしい。警察の捜査内容をコッソリ覗いたが、飛び込んだ説が有力とのことだ」
「え? それ昨日聞いてないんだけど」
「おっと、そいつは失礼。ま、投身自殺でないとすれば誘拐だろうがな。依頼してきた家族からは自殺するような人ではない、と言っていたが、金のないガルシアを誘拐するメリットはないし、誰かに恨まれる人でもない」
「闇金みたいなところに攫われて強制労働させられてるとか?」
「漫画の見過ぎだ。六十手前の男にそんな価値はない。それに誘拐されたとしても、船が入港、出向する際に荷物と人員の検査はしている。相当巧妙にやり過ごしたか、海上で船に侵入し、ガルシアを誘拐して海上に脱出したかってことになる。警察が痕跡も見つけることもできないほどの大胆不敵な犯行だ。そんなこんなで本人を連れ帰れば満点、手がかりだけでも金になるってわけだ。以上、何か質問は?」
「他に隠してる情報は?」
「俺が隠したことがあったか?」
 イヤホン越しのエディの声に、レオナは昨日のアローラゴローニャのことを思い出してたまらずため息を漏らす。
「聞かなかったマヌケが悪いってことね」
「おいおい今のは冗談だ。怒るなよ。今回はラプラスも貸してやってるし、こうして遠隔だがアシストもするじゃあないか。海の広大さに気分もリフレッシュだ」
 耳にはイヤホン、頭にはカメラを載せたラプラスがきゅうんと鳴く。
「なあ、フェン。今なんて言ったんだい?」
 それまで酔わないように目を閉じて静かにしていたフェンは、悪戯っ子みたいに笑って「さあ、聞き逃しました」と答える。
 オールトシティ東岸部から海に出ると、遥か彼方のガラルやカロスのある隣の大陸まで人の棲む島は滅多にない。
 やや曇天の空の下、時折通るキャモメやペリッパーと大型船以外にこの大洋を渡ろうとする陸棲生物はそうそういない。特に今日は霧も発生して、水平線もぼやけて見える。風もなく穏やかな海だが、こうも変化がないと退屈だし疲労もたまる。
「しかし、もう出発して二時間弱は経つな。そろそろ小島があるはずなんだがどうだ? ラプラスも休ませてやりたい」
「小島? どこ?」レオナと目があったフェンも遅れて辺りを探すが、それらしきものはない。ただ一点、霧が濃い領域がある他は。
「まさか霧の中に突っ込むとかですかね」
「地図上はそのはずだ。いけそうか?」
「地上ならともかく海の上でリスクあることしたくないんだけど……。まあ仕方ない、お願いね」
 従順なラプラスに乗って一行は霧の中も勇敢に進んでいく。しかし霧の中は進めば進むほど視界が悪くなり、ついには周囲が霧に覆われる。なるほど、警察が音を上げるのも納得だ。
「ウォーグル、霧払い」
 ハイパーボールから飛び出したウォーグルが風を巻き起こして霧を押し返す。が、霧を振り払ったところにまた霧が入り込んでくる。
「霧はあるのにキリがないね」
「バカ、伏せて!」
 フェンに頭を押し付けられて、レオナは身を屈めた。海中から放たれた水色の光線が、ラプラスの背に乗る二人とその直線状にいるウォーグルを狙う。フェンの素早い反応のお陰でウォーグル共々オーロラビームを回避できた。海面に見える影からおおよその敵は絞り切れるが、状況は最悪だ。
「どうした、何があった」イヤホン越しのエディの声だ。
「まっすぐ僕らを狙った敵襲。たぶんドククラゲです」
 ラプラスの狭い背の上ではポケモンを繰り出す場所がない。それに電気技を海上で使ってもラプラスごと巻き添えになってしまう。
「フェン、ラプラスを使ってやってくれ。レオナはウォーグルで陽動を」
「ウォーグル、影分身!」
 しかしウォーグルは指示に従わず風を巻き起こして霧払いの動きを取る。レオナが驚く間もなく、ついに海上にドククラゲが姿を現す。
「今! フリーズドライ」
 ラプラスから発せられた冷気がドククラゲの触手を捉え凍りつかせる。それと同時、海中から新手のカラマネロが現れる。二人と二匹が動き出すよりも先、強力な念波により瞼が重くのしかかる。催眠術、とレオナが認識した頃には瞼は閉ざされ意識は深い闇の底へと誘われた。


 ヒンヤリとした感触、土の匂いでレオナは目が覚めた。先ほどまで海上にいたはずなのに、どうやら今は陽の光が届かない薄暗い場所にいるらしい。
 ──生きている。
 容赦なく人に向けてワザを仕掛けてきたポケモン達に襲われたものの、無事助かっただけでも十分だ。硬い土の上で寝転がったから腰が痛いが、目立った外傷は特に無い。フェンは土の壁に背をつけて俯いていた。先に起きていたのか。ともかく相棒の無事にレオナはホッと胸を撫でおろした。
 前方には鉄格子、床と壁と天井は、少し硬めの土で出来ている。直方体の粗末な牢屋だった。窓はなく、鉄格子の大きな隙間から覗く廊下にランプのような灯りが置かれ、辺りを照らしていた。
 次に上体だけを起こして腰に手を当てる。モンスターボールを携えていたベルトと鞄がない。耳に手を当てれば、エディと連絡をするためのイヤホンがない。
 立ち上がろうと体を起こすと、妙に体がフラつく。倒れそうなところをフェンに支えられた。
「大丈夫ですか?」
「ちょっとね。……にしてもここどこ? なんか“地脈”が嫌な感じ」
 地面や石が内包するエネルギーを、レオナは“地脈”と称している。どこか遠くから流れ込んでくるような刺々しい地脈を感じ、全身が小さな針で突かれるような気持ちの悪さに身を震わせた。
 この“地脈”を感じ取る体質と長く付き合ったレオナは、自らの周囲であれば“地脈”を僅かに乱すことが出来る。地面の土に手のひらを置き、深呼吸を幾度かして悪寒を感じないように周囲の“地脈”を制御し、立ち上がって大きなノビをした。
「今の状況分かる?」
「僕らの手持ち皆と鞄がとられてます。ここがどこかは分かりませんが、何をするにしてももうちょっと情報を仕入れたいですね」
「この鉄格子を壊すくらいなら簡単だけど、無策で出ても仕方ないからね。捕まえたってことはすぐ殺す気ではないのは確かだし」
 レオナはショートパンツのポケットに左手を忍ばせようとするが、唐突に指先が痺れて慌ててポケットから手を放す。その反動でポケットからバチュルが飛び出した。レオナは右手で口を塞ぎ、悲鳴を漏らさないように我慢する。
「まさかこの子あのバチュル? ついてきたの?」
「朗報じゃないですか。彼の力を借りれるのなら立派な戦力ですよ」フェンは他人事のように語る。
 いつどうやって紛れ込んだのかは分からないし、ここまで連れてきたのはわたし達の責任も感じる。でも、ここまで着いてきたのはバチュルの責任だ。昔の人はこう言った。乗り掛かった舟、と。
「ねえ。君もこのままここにいるわけにはいかないでしょ。協力してくれない?」
 掌に乗せたバチュルに向かってレオナは語り掛ける。が、きょろきょろと周囲を見渡す他はうんともすんともリアクションしない。救いを求めてフェンを見る。
「何も言ってませんね」
「ええ……」
「たぶん状況を分かってないんじゃないですか?」
 ずん、ずん、と遠くからこちらに近づく足音がする。バチュルを牢の奥の暗がりに押し込んで、レオナとフェンは音を立てず静かに待つ。その間レオナは改めてショートパンツのポケットに手を入れる。小さく砕いた雷の石や炎の石はここに来る前と変わらず入ったままだ。ありがたいことにこの石がレオナの武器であることは悟られなかったらしい。
 人が来れば逆にひっ捕らえて拷問、ポケモンがくればフェンが話して情報収集。いずれにせよ何者かがこちらに来れば大なり小なり新しい情報は得られる。監禁されたことは初めてではないだけに、スムーズに対策が思いつく自分が怖い。
 ハンドシグナルでフェンと簡単に打ち合わせて少し待つと、仏頂面のドテッコツが牢の前に現れて立ち止まった。鉄骨を担いでいない右腕の肘から肩付近まで、白い傷痕がうっすらと長く伸びている。
「君、その右腕どうしたんだい?」フェンはドテッコツに問いかける。ドテッコツはフンフンと鼻を鳴らして短く応答する。かと思えば、左腕に担いだ鉄骨を地面に力いっぱい突き刺し、まくしたてる様に喚いた。
「ご、ごめん。そういうつもりじゃないんだ。傷跡が綺麗に治るといいね」
 フェンの言葉に更に怒ったのか、ドテッコツは全身を震わせて怒りを伝える。
「ぼ、僕たちはそんな──」フェンの言葉を遮るようにドテッコツは短い脚で鉄格子を蹴りつける。
 ガン、と鈍い音が響き、ドテッコツは喚きながら痛そうに足をさすった。そして捨て台詞のように一言鳴いては来た道と逆方向に去っていった。
「何? 漫才してたの?」
「いやいや。もっと深刻な話ですよ」
 フェンが語るに、ドテッコツは以前は人間と一緒に工事現場で働いていたらしいが、現場で右腕を怪我したことをきっかけに人に棄てられたらしい。詳細は分からないが、この島は我々がそんな人間たちに復讐するためのものだという。
 断片的な情報からではあるが、今の自分たちの状況は類推できる。今いる場所はどこかの島であること。そして、人間に敵意を持つポケモンが複数いる。
 昼も夜も分からない牢の中、しばらくしても二人の前を通りがかるのはポケモンばかり。時折フェンが話しかけても、どのポケモンも何かしらの強い怒りをぶつけてきた。様々なポケモンが鉄格子に八つ当たりをするものだから、苦労せずとも鉄格子の方がひしゃげていずれ逃げ出せそう、そんな気がした。
 それでも今一つこの島に関する新しい情報が入らない。今後の方針を決めきれないまま、翌朝まで相手の出方を待つことにした。
 その日は牢の前を取ったポケモンが粗雑に投げ込んだチーゴの実だけを食べて、レオナとフェン、そしてバチュルは餓えを凌ぐ。岩壁で囲われた牢獄の中、ひんやりとした土の上で横になって静かに時を待つことにした。


 翌朝、昨日のドテッコツが鉄格子の前に現れた。彼は乱暴に扉を開けると、外に出るようにジェスチャーをする。
「こっちに来い、とのことみたいです」フェンが耳元で囁いた。
 言われるままについていき粗末な階段を上る。流れ込む光と風に逆流して歩みを進めると、地上に繰り出した。斑に並んだ果樹達が、潮風に乗せて甘い香りを運んでくる。樹木の下では人がなにやら作業に勤しんでいるが、その服装は疎らだ。シャツにズボンのラフな格好もいれば、船乗りのような服装の人間もいる。スーツ姿のまま農作業をしている人まで。共通点としては、みな服装が汚れており、どこか疲れてやつれた顔をしている。
 異様な光景に現を抜かしていると、ドテッコツが突き飛ばすように背中を押した。それに気付いたスーツ姿の中年の男性がこちらに駆け寄る。
「君たち見ない顔だが、大丈夫かい」
 依然戸惑うレオナが尋ねる。「これは何がどうなっているんですか?」
「今無駄話をしているとああなってしまう」
 男性が示した先で、ヤルキモノが人に向かって鋭い爪を振りおろす。その爪は人に当たりこそしなかったが、まるで次は当ててやるぞと言わんばかりの明確な敵意は見て取れる。
「サボるな、って言ってますね」
 男性はフェンの言葉に少し目を丸くするが、すぐに小声で話しかける。
「ひとまず雑草を抜いたりでもなんでもいい。何かをし始めれば、あとは勝手に体が動く。そのうち時間になれば彼らは昼ご飯を食べるために休憩する。その時に私が分かる範囲でこの島のことを説明しよう」
 不思議なことは続く。言われた通り、ひとまず屈んで雑草を抜き始めると、引力めいた何らかの力によって勝手に体が同じ動きを繰り返そうとする。先ほどの男性も何かをし始めれば大丈夫、と言っていたがこのことを指していたのか。決して抗えない力ではない。しかし、抗わねば単調な草を抜く動きだけを取り続けようとする。まるで昨日霧の中で同じ動きを繰り返そうとしたウォーグルと同じだ。
 そしてこの歪な果樹園をポケモン達は何をするわけでもなくただただ巡回している。きっと手が止まれば、先ほどのヤルキモノのように人に対して脅しのようなものをするのだろう。奴隷に対する躾とでも言わないばかりに。
 出来の悪いB級映画だ。
 額を流れる汗を拭い、レオナは心の中で呟いた。

 太陽が真上に差し掛かった時、ふと体にかけられていた引力が消え失せた。それに伴ってポケモン達はみなどこか違う場所へ集まっていった。
「あまり長くないが、お昼休憩。のようなものだ」
 先ほど声をかけてくれた老人が、形の悪いモモンの実をレオナ達の前に差し出した。
「出来の良いものは彼らが食べて、我々はそのおこぼれを頂くといった感じだ」
「この島は一体どうなっているんですか?」フェンが尋ねる。
「もう想像もついているだろうが、この島ではポケモンが人を支配している。私も含めここにいる人たちは突然攫われたらしくてね。手持ちのポケモンとも離れ離れにされている。君たちも身のこなしからトレーナーのようだけど、そうじゃないかい?」
「ええ、まあ」レオナは牢に残したままのバチュルを思い浮かべる。「あなたもですか?」
「私はね、手持ちのポケモンはいないんだ。一匹だけいたんだけど逃がしてしまってね。ハハ、その罰が当たったのかな」
 男性はどこか寂しそうな表情を浮かべたが、ふと思い出したように尋ねる。「そういえば君たちの名前、聞かせてもらえないかな?」
「わたしはレオナ・ハワード。で、こっちの口数が少ない仏頂面が相棒のフェン。わたしたちはフリーランスのトレーナーです」
「私はブライアン・ガルシア。不幸なただのロートルさ」
 驚いたレオナの口をサッとフェンが塞ぐ。痩せこけているせいか、写真で見ていた印象とだいぶ異なる。
 レオナはフェンの手を口から剥がし、周りに漏れないよう小声で話す。
「わたし達、あなたの捜索依頼を受けてここまで来ました。今すぐにここから出ましょう」
 目を丸くしたガルシアは、そうか。と小さく呟いた後、レオナに問いかける。
「それは私以外もかい? 他の人やポケモンは?」
「いえ、あなただけです」
 それを聞いて、ガルシアは少し困惑の表情を浮かべた。
 あくまでも依頼を受けたのはガルシアだけだ。他の人やポケモンを助けても、レオナ達の懐は変わらないし成功のためのリスクも高まる。
「他の人のことが気になるなら、島を出て警察でもレンジャーでもに依頼しましょう」
 もし警察やレンジャーが来れば、囚われた人たちは救われる。しかしそれと同時にここにいるポケモン達は、きっと害獣として処理されるだろう。ガルシアもフェンも、今のレオナの言葉の裏からそれは察した。
「その前にどうかこの島の人とポケモンを救ってくれ。私ができることならなんでもする! もう君たちしか頼れる相手がいないんだ」
「残念ながら、わたしもフェンもただのトレーナーです。それにあなたを助ける義務はあっても他を助ける義理まではありませんから」
「ならば君には悪いが私は帰れない」ガルシアは毅然とした声で言う。「このままではより多くの人とポケモンが不幸になる。それに何より時間がない」
 剣呑な雰囲気に、二人は息を飲んだ。「何が起こるんですか」
「彼らは反乱を考えているようだ」ガルシアは果樹園隅で集まっている人たちを指す。「小耳にはさんだ程度だが、この島のポケモン達の隙をついて手持ちを取り戻し、仕返しをしようと計画を立てている。こんな環境下で人とポケモンが戦えば、どう転んでも大惨事だ」
 先ほどのヤルキモノが人を襲いかけているところを見ていただけに、この島のポケモンと人間には深い溝があるのは明らかだ。ポケモンは人を本気で襲おうとしているし、それに人が対抗しようものなら最悪命の奪い合いにもなりかねない。
「レオナ、どうするんですか」と、フェンが急かす。
 レオナは深い溜息を吐いた。嫌な役回りだな、と心の中で呟いた。
「仮にあなただけを連れ出すとしても、わたし達も手持ちのポケモンや道具を取り返す必要があります。それまで少し考えさせてください」


 午後の労働を終え、二人は再び牢屋に戻された。フェンが仮眠から目覚めた頃に、島を巡回するドテッコツが木の実を牢屋の中へ放り込んだ。きちんとお留守番をしていたバチュルにも分け与える。
 相変わらず何を考えているかはよく分からないが、餌をあげたり少し遊んであげているうちにバチュルは徐々にレオナに引っ付くようになっていた。しかし懐けば懐くほど、レオナの心には靄が広がる。
 経緯や内実は異なるだろうが、人間の都合で捕まえられ、その後逃がされたという点ではこの島にいるポケモン達とバチュルはなんら変わりない。少なくともこの島にいるポケモン達は人間を憎んでいる。一歩違えばバチュルだって、そちら側についていたかもしれない。
 バチュルがわたしについてくる理由、ひいては人とポケモンが共に暮らす意味を考えないといけないと思った。
「ねえ、フェン」と、レオナが問いかける。「フェンはどうしてわたしと一緒にいるの?」
 普段は見ない相棒のしおらしい表情に、フェンはつい目を逸らした。
「理由がないとダメですか?」
「別にわたしがいなくてもフェンはその気になれば一人で生きていけるでしょ」
 かれこれもう十年近くは共にいるのに何を今更、と思うと同時に、あえて今だからこそ理由を見つけないといけない気がした。
「でも……、そうですね。レオナと一緒にいた方が楽しいから。そんな気がします」
「何それ、告白?」
「ちょっと! 真面目に答えたのがバカみたいじゃないですか!」
 周りに響かないように声は小さく、それでいて振り返っては感情を露わにするフェンを見て、レオナはふふっと笑った。そして、それがレオナなりの照れ隠しだと分かっているフェンも遅れて笑った。
「じゃあ、レオナはどうして僕といるんですか?」
 フェンに問われ、レオナは考える。しかし明瞭な答えは思いつかない。考えたところでわからないし、それが答えなのかもしれない。
「確かに、一緒にいることに理由なんてないのかもね。一緒にいたいからいる、それだけか」
「そうですよ。だから言ったじゃないですか」
 ひとしきり笑いあって、レオナは優しい眼差しからキリリとしたいつもの表情に戻る。
「さて、ガルシアさんを連れてこの島から出る方法を考えないと。まずは色々取り返さなきゃね」
「だったら僕が皆と道具を探しに行きますよ。仮にポケモンと戦闘になっても、近接戦闘なら僕一人でなんとかなるし」
「わたしいなくても平気?」
「地理が分かってないし、はぐれた時に連絡取る手段もないから逆に危険でしょ」
「そうね。でも、くれぐれも気をつけて」
「最後に一つだけ」と、鉄格子の前に立ったフェンは振り返ってレオナに問いかける。「レオナはガルシアさんのお願いどうするつもりなの?」
「そりゃあもちろん、なんとかしてあげたいけどさぁ。でも無責任にはい、って言えないじゃん。やるなら勝算つけてからじゃないと」
「そうですね。でも、レオナにその気があるって分かっただけでも僕満足だな。人間もだけど、ポケモンも苦しそうだった。見てられなかったよ」
 人間に棄てられたポケモン達。彼らの憎悪によって形作られたこの歪な楽園は、かえって憎悪を醸造させているだけのようにしか思えない。
「昔の人はこう言ったわ。愛はつまり憎しみであり、憎しみは愛である」レオナは小さく呟いた。「好きじゃないなら憎めないでしょ? 憎むのだってエネルギー使うじゃん。……皆がそうとは言わないけど、ここにいるポケモン達は元々人間が好きだったかもしれない。だからこそ憎しみから助けてあげたいんだけどね」
 その言葉を聞いて、フェンは口角が上がった。昔から仕事にはシビアな風を装っているけどその心根は優しく、そこに触れた時、よく分からないけどなんだか嬉しくなってくる。そういうレオナの側にいることが、フェンは好きだ。
「そうするためにはまずは僕が頑張らなくちゃね。行ってきます」
「気をつけて。行ってらっしゃい」
 半袖のシャツから覗くフェンの両腕がゴーリキーのように青く変色し、筋肉が隆起する。アンバランスなまでに盛り上がった両腕で鉄格子を無理矢理広げ、乗り越える。鉄格子を元の形になるよう力を加え直した後、元の人間の腕に戻してフェンは足早に去って行った。


 変装して人に紛れるのは得意だが、ポケモン達の中に混じるのは難しい。見つけられて増援でも呼ばれるとフェン一人では対処ができない。兎にも角にも穏便に事を済ますため、フェンは果樹園へと急いだ。
 松明があった島の地下牢と異なり、果樹園は灯りがない。地上に出てフェンは思わず足を止めてしまった。どこかから押し寄せる優しい波の音と、静かに降り注ぐ月灯りだけがこの果樹園を包み込む。普段彼らが暮らすオールトにはない光景で、こういった風雅なものには疎いフェンでも、これが良きものであることはなんとなくわかる。少なくとも近くにはポケモン達の気配もない。束の間の自由と平穏が戻ってきたようだ。
 いやいや、足を止めていられる場合じゃない。今なんとかできるのは僕だけなんだ、しっかりしないと。
 置いてきたレオナも心配だ。看守のポケモンが僕がいないことに気づいたら、レオナに何があるかもわからない。もっとも、レオナなら返り討ちにするかもしれないが。それにバチュルだっているわけだし。
 フェンは少し目をつぶり思案する。自分がこの島の主であれば、ここに攫った人間の手持ちや道具をどこに隠す?
 僕なら。僕ならば、目の届くところに置くのが一番安心する。
 姿形こそ見てはいないが、この島には強力なポケモンがいるとフェンは睨んでいる。強制労働中、ガルシアは体が勝手に動くと話していた通り体に何かしらの負荷がかけられていたが、あれはエスパータイプのワザで間違いない。この広い果樹園で働く人間全員に、決して抗えないほどではないが強力なエスパーワザを仕掛けられるポケモンが、この島を仕切っているに違いない。
 ただ強力なエスパーポケモンでも、ワザをかける相手を認識できなければワザをかけることは出来ないはずだ。
 島の岩壁から果樹園沿いにぐるりと歩いていると、小さな階段を見つけた。昇った先は、丁度果樹園を一望できるようなちょっとした高台であった。そこに何者かがいたかを示すよう、チーゴの実のヘタがまとめて捨ててある。
「なるほどね。レオナが昔言っていた、偉そうなやつは高い所に住みたがる、ってやつかな」
 そして視線の先には小さな洞窟の入り口。この高台の下にまだ何かあるようだ。錆びて歪んだ鉄の扉が開いたまま風に煽られている。キイ、と音を立てながら、こっちに来いと招いている手振りのようだ。フェンは最新の注意を払って、洞窟の入り口に足を踏み入れた。
 扉の奥、小さな階段を降りると入り組んだ道が広がっていた。どうも遠い昔に人がいたのか、岩でできた壁に鉄の扉、電球があったりと人工物と自然物が綯い交ぜになっている。
 ここまでくるとポケモン達が廊下を闊歩している。フェンは気配を消して背後に近寄ると、手持ちの雷獣と同じものに変化させた右手から、強力な電気をポケモンに流し込んで気絶させていく。三匹、四匹と蹴散らし進んでいく中で、急に広い部屋に出た。咄嗟に物陰に隠れ息を潜め、現状把握に努める。
 左手側にはガルシアがドレディアに押し付けられて地面に転がされている。対する右手側にはヤレユータン。それ以上に気を惹くのは、ヤレユータンが体重を預けもたれかかっているバランスボール大のサイズの薄紫に発光する巨大な石。よく見るものと形と大きさが違うが、なんとも立派な命の珠。この島に来てエレナは“地脈”が悪いと言っていたが、あの石の放つ強力なエネルギーに気が当てられていたのだろう。石に明るくないフェンでも、あの石の気にあてられて少しだけ気分が悪い。
『貴様に棄てられて以来、こういう日が来るのを待っていた。久しぶりだな、ガルシア』
「トート、トートなのか! それにこれはテレパシーか……?」
 物陰から見えたガルシアの表情はカチコチに強張っていた。
 ヤレユータントートが放つ威圧感に、ガルシアは怯んだ。心なしか背中にのしかかるドレディアの力が増している。往年連れ添っていたかつての相棒に、なんと呼びかければいいのかまるでわからない。
 少し待って、紡いだ言葉はなんと平凡だと自分で嘆く。
「教えてくれ。お前は何をするつもりなんだ」
『ここに連れ込まれてはや五日も経つというのに、本当に分かっていないのか? 人間とはそこまで知識がないのか。否、この“石”のお陰で私が賢くなり過ぎたのか。まあいい、分からないというのならば教えてやろう。私は人間たちに復讐する。お前に棄てられて私は、私と同じように人に棄てられたポケモン達と共に、人間たちに我々が受けた苦しみを与える。ただそれだけだ』
 ヤレユータンの命の珠を伝ったテレパシーが、物陰に隠れているフェンにも届いてくる。
「私が……、私がお前を苦しめたというなら、何をしてでもお前に詫びる。それでも他の人を巻き込むのはやめてくれ!」
 よく見ると、ガルシアの足元から伸びた草がガルシアを縛り付けている。少しでもガルシアが動けば、余計に草がガルシアの動きを絡めとるだろう。あのドレディアの草結びか、とフェンは心の中で呟いた。
『人間がよく言えたものだ。人間は我々ポケモンを無差別に捕まえ、自分勝手に野に放つ。ただの労働力として捕まえたものの怪我をしただけで野に放ったり、進化して体が大きくなったというだけで野に放つ。我々がしていることはそれと同じこと』
「だから無差別に人を攫ったというのか!」ふり絞った声でガルシアはトートと呼んだヤレユータンに語り掛ける。
『人間がポケモンを無差別に捕まえるのは自由だが、その逆は許されない? そんな思想が人間の驕りだと言うのだ』
 ガルシアは言葉が出なかった。しん、と静まり返った広間の中、ヤレユータンはガルシアに問いかける。
『先程お前は私のためを思って逃した、と言ったな。ならば私はお前のためを思って、お前をこの島で「飼って」やろう』と、テレパシーを放ち、ヤレユータンは物陰をちらと見やる。『だが、その前に鼠を捕まえておかないとな』
 足元に生えていた細い雑草がぞわりと動き出したのを見て、フェンの身の毛がよだった。草結びがフェンを捉えるよりも早く、物陰からドレディアに向かってフェンは飛び出した。
 驚いて重心を後ろに下げようとするドレディアに対し、フェンは右脚をバシャーモに変えてブレイズキックを放つ。
 下顎に強烈な一撃を受けたドレディアは後ろに吹き飛ばされ、そのまま気絶する。が、息をつく間も無く強力な念力がフェンの体を縛り付ける。
『何者だ!』
「フリーランスのトレーナー、フェン。以後お見知り置きを」と、微かに動く口で答えた。
 ふん、とヤレユータンの荒い鼻息と共に壁まで体が吹き飛ばされる。フェンは咄嗟に背中を柔らかくして衝撃を吸収した。
 あの巨大な命の珠の力を受けた神通力がある限り、近接戦闘を主とするフェンではヤレユータンに近づくことすら出来ない。
「フェン君、君は一体!」
 ドレディアが気絶したことで草結びが解かれ、ガルシアは立ち上がって壁際のフェンの元に近寄る。
『ポケモンと話せる変な人間が紛れ込んだ、という報せは受けていたがなるほど。メタモンが人間のフリをするとは珍しい』
 ヤレユータンの言葉に驚き、ガルシアはフェンを見つめる。
 しかしフェンはこの場を切り抜ける方法を考えることで頭がいっぱいだ。人間の体以外は身体の一部しかポケモンに変身できない特異体質のせいで、全身を悪タイプにして神通力を防ぐことは出来ない。ヤレユータンの攻撃を掻い潜って接近戦を挑むのは難しいだろう。
『しかも人間のフリをするどころか、トレーナー気取りとは』
「そ、そうなのかい」
「すみません、何分と企業秘密なもので」
 ガルシアに支えられながら、フェンは立ち上がってヤレユータンを見つめた。
『折角の機会だ。一つ問いかける。なぜ貴様は人間のフリをして、あまつさえトレーナーを名乗る。ポケモンの身でありながら、同志のはずのポケモンをボールに捕らえ苦しめる』
「それは検討の相違です。僕は彼らを苦しめるために捕まえているわけじゃない。共に手を取り合って生きるためです」
『綺麗事なら誰でも言える。トレーナーである以上、いずれ貴様も何かと理由をつけてポケモンを逃す。トレーナーと長くいればいるほど、それは大きな苦しみとなってポケモンを傷つける』
「では僕からも聞かせてください。あなたは……かつてガルシアさんのパートナーだったんですよね。あなたはガルシアさんと暮らしていた時幸せじゃなかったんですか?」そう言って、フェンはレオナの言葉を思い返す。愛はつまり憎しみであり、憎しみは愛である、と。「わざわざ船の中にいるガルシアさんをこの島に連れてくるのは労力がかかることです。あなたの目標を達成するだけであればそこまでやる必要はなかった。つまりあなたはそれ程までにガルシアさんを憎んでいる。そんなに憎しみが強いってことは、かつてそれだけガルシアさんのことが好きだったってことじゃないんですか?」
『何を……!』
 激昂したヤレユータンがサイコキネシスでフェンを縛り上げる。やめるんだ、というガルシアの制止を振り切って、再び壁へと叩きつけた。


 キノガッサにウォーグル、フェンのレントラーにエディのラプラス。そしてフェン。近くに本当に誰もいないのはいつ以来だろう。エディやお義父さん、友達もきっと心配してるかもしれない。きっと今頃エディは二人とも連絡がつかない、と慌てふためいているのだろう。
 時折バチュルを撫でて、膝を抱えたまま、レオナは静かに相棒の帰りを待ち望んでいた。
 この子が背中を撫でてやると一番喜ぶし、控えめな性格であることは分かってきた。なんとなく懐いてきているような気がしているが、結局自分がバチュルとどう向き合えばいいのか。その答えはまだ出ないままでいた。
 どれくらい待っただろう。仮眠を挟んでしばらくし、斜め向かいの空き牢屋に一人の男が入れられた。看守のドレディアが立ち去ってから、レオナは鉄格子に張り付いてその人を見る。
「ガルシアさん!」
 着ているスーツは所々ぱっくりと口を開いていて、血が滲んでいるところもある。目があって穏やかに微笑みかけてきたが、その左頬の痣が生々しい。
「君は無事で良かった……」と、ガルシアが掠れた声で語りかける。「私が何も出来ないばかりに君の相棒を……」
「フェンに会ったんですか?」
 首を縦に振ったガルシアは、フェンの身に何があったかを休み休み語った。
「私がわかるのはここまでだ。彼が今どこにいるのかまでは分からない」
「ありがとうございます。でも、しばらく休めばフェンはきっと大丈夫です。それよりもそのトートっていうヤレユータンのことを教えてくれませんか?」
「そうだな」と、ガルシアはレオナから目を逸らして、遠い日を振り返る。「トートはわたしが幼い頃、父が持ち帰ったタマゴから孵化したポケモンだった」
 決して特筆するようなドラマチックな過去がある訳ではない。トレーナーとして旅に出る事もなく、父の海運事業を引き継いで共に多くの海を渡り歩いただけだった。しかしながら、たった一匹の相棒であるトートと共に過ごした四十年余りという長い年月が特別な意味を産み出したのだろう。
「レオナ君、私の救助依頼を受けたんだったね。その時何か私にまつわる情報を聞いたかね?」
「えぇ」エディの言葉を思い出し、言いづらそうに口を開く。「リバティ・クルーズ社の業績が苦しい、と」
「恥ずかしながら、その通りでね。我が社は資金繰りに苦しんでいる。そんな中、我が社に融資していた金融機関がこう言うんだ。『ところで、ガルシアさんは珍しいポケモンをお持ちですよね』、と。私は背筋が凍ると思ったよ」
「それってまさか」
「ああ。資金繰りに苦しめばトートを担保にしようという魂胆だ。私が至らぬばかりに、私以外を苦しめることになってしまった。……しかしあれは賢い子でね、その事実を知られれば余計な心配をかけるだろう。そうして私が出した結論が、トートを逃がすことだった」
 ガルシアは天井を仰ぎながら、右掌を額に当てる。
「その決断が過ちだった……! それがまさかこんなことになるだなんて。トートを想ってのはずだったのに、私はあろうことかトートをこんなにも苦しめてしまった。いや、それどころか大勢の人を巻き込んでしまった。私はどうすれば良いか……」
「だったら助けてあげましょうよ。そのヤレユータンを助けられるのはあなただけです。この島の人とポケモンを救えるのは、ガルシアさん。あなただけですよ」
「だといいのだがね。それがこのザマさ。私じゃ何もできなかった」
「諦めるんですか? この島の人とポケモンを救えるなら、自分にできることならなんでもする、って言いましたよね。だったらやって見せてくださいよ!」
 俯いていたガルシアははっとしたふうに面を上げ、芯の通ったレオナの眼を見た。
「あぁ、君の言う通りだ。私がここで嘆いても何も変わらないものな」と、言ってガルシアは柔らかな笑みを浮かべた。
 そのとき、どこか遠くで爆発音が響いた。それを聞きつけて、この島のポケモンが何匹かレオナとガルシアの前を通り、果樹園の方へ走り去っていく。
「ま、まさか。もう始まったのか」ガルシアが顔を蒼くする。「彼らは本当に反乱をするつもりなのかっ!」
「何だって?!」
「脱走だ。ここに囚われていたトレーナーが脱走して、反乱を始めたんだ」
 昼間、ガルシアが語っていた言葉をレオナは思い返す。
「それがよりにもよって今だなんて。……このままでは大惨事になる!」
「だったらわたし達も急ぎましょう」
 本当はフェンが戻ってくるのを待ちたかったけど、こうなったらやるしかない。
 レオナは立ち上がり、深呼吸して精神を落ち着かせる。そしてポケットから砕かれた炎の石を取り出すと、ジッと目前の鉄格子を睨みつける。
「な、何をすると言うんだ?」
「鉄格子から離れててください」
 レオナは炎の石を握りしめ、炎の石に閉じ込められた“地脈”を乱す。石の内側でエネルギーが迸るのを感じてから石を指で弾き、鉄格子にぶつける。すると炎の石が持つ炎のエネルギーが外に溢れ出し、火薬が弾けたかのように小さな爆発音が鳴り、鉄格子が歪んだ。
 鉄格子に出来た隙間から、レオナはバチュルを肩に乗せて鉄格子を抜け出した。
「君は今何を」
「石に秘められたエネルギーを無理矢理引き出してます。細かいことは置いといて、とりあえず下がって!」
 先程より大きな破片を選び、ガルシアの牢の鉄格子に向け炎の石を放つ。先程よりも派手な爆発と共に、なんとか手負いのガルシアでも通れるスペースが現れた。
「とにかく行きましょう!」
 先に飛び出したレオナを追うよう、ガルシアは鉄格子を抜けて地下道を走り出した。


 人の怒号、ポケモン達の咆哮。体と体がぶつかる音、或いはワザの衝撃波。そこはまるで戦場だった。
 ボスゴドラが振り回した尾があのドッコラーの体を吹き飛ばす。レオナの近くまで転がってきたドッコラーに目もくれず、ボスゴドラはトレーナーの指示のまま、果樹園を暴れ回っていた。
 辺りを見渡せば、それ以外にも複数のトレーナーがこの島を仕切っていたポケモン達を相手に戦っていた。遠くでは黒煙が立ち込め、果樹園の樹は倒されていた。
 慌ててドッコラーに駆け寄るが、既に意識はない。息はあるが、身体中傷だらけた。
「くっ!」
 レオナは右手を強く握りしめた。
 目測が甘かった。抑圧された人々が反旗を翻す可能性があったことは、昼に既に示唆されていたはずだった。
 この最悪の状況を阻止するチャンスはあったはずだ。フェンが探索に出かけるとき、フェンの制止を断って一緒に出れば良かった。そしてガルシアのヤレユータンを説き伏せられたならば、フェンが再び捕まる事もなく、今みたいに人とポケモンが戦うことを防げたかもしれない。
 人の都合で棄てられたポケモンが人を苦しめ、そしてまた人によってポケモンが苦しめられる。一度でも火がついた憎悪は矛の納める先を失ったどころかより大きく燃え上がり、互いを苦しめ続けるだけだ。
 ボスゴドラと偶然目が合った。ボスゴドラは、足元で介抱しているドッコラーを見て、申し訳なさそうに目を伏せた。
 それでも彼らは戦うのを止めはしないだろう。彼らが信じる人のために。
「レオナ君、これは!」
 息を切らして走ってきたガルシアが、ようやっとレオナに追いついた。惨憺たる状況を見て、ガルシアは言葉を失った。
 ボスゴドラのトレーナーがアイアンテールを指示してヤルキモノを狙う。ヤルキモノもそれに対抗するように、腕を振り上げボスゴドラに攻撃を仕掛けようとする。
 この島のポケモン達も、それに抗うトレーナー達も、ただ自分の身を守るために相手を倒そうとしている。それを知っているだけに、レオナはどちらか片方だけの手助けをしようとは思えなかった。できれば、どちらにも傷ついて欲しくない。
 レオナの石のエネルギーを引き出す能力を使えば遠距離から攻撃は出来るが、乱暴過ぎて戦いの鎮圧には繋がらない。せめて手持ちのキノガッサがいれば、胞子で眠らせて無力化させることは出来たかもしれない。そう思い留まっていた時、肩に乗っていたバチュルがボスゴドラに向かってエレキネットを放った。あまりにも小さくか細いエレキネットは、ボスゴドラに届く前に地面にぺたりと落ちてしまったが、それを見たレオナは天啓にうたれた。
 これだ、と思ったレオナは肩に乗っていたバチュルを右の手の平の上に移動させ、じっと向き合った。
「お願い、力を貸して! この戦いを止められるのはきみの力が必要なんだ!」
 バチュルはコクリと頷いた。きっとバチュルもこの状況をなんとかしたいと思ったかもしれない。そうと決まれば、とレオナはポケットから雷の石を取り出して握りしめる。心を研ぎ澄ませ、左手で握った石の“地脈”の流れを意識する。雷の石の中に閉じ込められた電気エネルギーだけを、右手の平のバチュルへと伝えていく。力を感じたのか、バチュルはぶるぶる、と震える。
「エレキネット!」
 先程とは桁違いの大きさのエレキネットがバチュルから放たれる。ボスゴドラ、それと戦うヤルキモノ、そしてそれを指揮するトレーナーごと一気にエレキネットが包囲する。
「な、なんだこれ! お前、何を」
 エレキネットの中からトレーナーが騒ぎ立てる。接地(アース)しているように放たれたため、直接の攻撃力は大したことはない。しかし足止めには十分な威力だ。
「悪いけど、糸が外れるまでしばらくそこで静かにしてて」
 バチュルを肩に乗せたレオナは、戦場と化した果樹園を駆け出した。
「この調子でどんどん行くよ」
 島のどこに何があるかは分からない。それでもこの島に拡がっている嫌な“地脈”の流れは、進めば進むほど強くなっている。
 きっとガルシアが言っていた、ヤレユータンの持つ大きな石とやらに違いない。戦いを止めるためには行くしかない。

 目に見える範囲の戦闘を鎮圧しながら進んでいると、頭上から聞き慣れたウォーグルの声がする。そしてその真下で鞄を抱えたキノガッサとレントラーが、顔を明るくしてこちらに向かって走ってきた。どこからかラプラスの声も聞こえる。島の外にいるのだろうか。
「皆無事だったんだね。どこから来たの?」
 キノガッサは果樹園の高台を必死に指差した。高台の端には小さく盛り上がった洞窟の入り口があり、開きっぱなしの錆びた扉が傾いて今にも外れそうだ。
「あそこになにかあるのね」
 レオナは取り戻した鞄から、イヤホンを探し装着する。
「エディ、起きてる? ガルシアさん見つけたよ」
「馬鹿、心配したぞ!」
 イヤホンからは鼻水交じりの罵声が響く。再開したポケモン達を軽く撫でながら、手短に現状をエディに伝えた。
「ややこしい事になってやがんな」
「それを解決するためにも、ここからアシストしてもらうから」
「はいよ。とはいえ島の周りに霧があって迂闊に近付けねえ。かろうじて衛生カメラで上から島の様子は観測出来る。カメラ越しに指揮をとるくらいしかしてやれねえ」
「あちこちにエレキネットを仕掛けてきたつもりなんだけど、まだ手が空いてるポケモンやトレーナーかいるか見える?」
「ぱっと見だが……、いることはいる」
「じゃあレントラー、ガルシアさんの護衛をお願い。ウォーグルとキノガッサは果樹園にいる人たちの保護を」
「おいおい、おまえはそれで大丈夫なのかよ」と、心配するような声でエディが言う。
「大丈夫。レントラーとは一緒に来るし、わたしにはバチュルがいるから」
「まさかあのバチュルか? 着いてきたのかよ」
「まあね」
「そうかい」と、エディは通信機越しに小さく唸った。「捕まえ直したってことか?」
「ううん。今は手を貸してもらってるだけ」
「ま、そこまで仲良くなったんなら心配いらねえか」
「あ、そうだ。キノガッサ! このイヤホン渡しておくね。エディから指示を聞いて動いて」
 立ち去ろうとするキノガッサを呼び止め、エレナは耳にはめたイヤホンを指さす。
「おいおい、お前はどうするんだ」
「あの洞窟に行く」と、レオナは高台にある洞窟の入り口を指差した。「あそこから強い“地脈”を感じる。キノガッサ達もあそこから逃げてきたようだし、たぶん親玉がそこにいる」
 衛星カメラからこちらの様子を伺うエディでは、洞窟の中でのアシストは期待できない。それならキノガッサ達を託した方が良いに違いない。
「分かった、後はお前らに任せる。その代わり俺は俺のできる事をやってやる。気をつけろよ」
「ありがとう。たまには頼りになるじゃん」
 イヤホンを外し、緩やかな放物線を描くようにキノガッサに投げ渡す。受け取ったのを見届けてから、レオナ達は再び進み出す。


 洞窟内部に差し掛かると、果樹園同様に戦いの痕跡が見られる。ワザによって抉られた地面、通路に燻る小火、無造作に転がっているトレーナーやポケモン達。足元にだけ気をつけ、レオナは自身の直感を信じて突き進む。
 前方、T字路に差し掛かったところで突如何者かに吹き飛ばされた人とドリュウズが壁に激突した。
「おぉっ!」ガルシアは悲鳴を上げた。
 確かめるまでもなく、両者ともに気絶していた。死んでいるようには見えなかったが、怪我は軽くないだろう。
 前方の角からはまた異なる戦闘音が聞こえる。間もなく静かになると、角から現れたのはフェンだった。
「フェン、大丈夫?」
「万全じゃないですけど、なんとか。体力取り戻すのに時間がかかっちゃって。偶然見張りのポケモンがいなくなったから抜け出してきたんですけど、何事ですか?」
 エレナ達はお互いに持っている情報を交換し合う。トレーナーが脱走した事。果樹園やこの洞窟内で戦闘が始まっている事。牢屋の中で誰かが穴を掘っていたのを見つけた事、ヤレユータンが巨大な命の珠を持っている事。
 今こそエレキネットで果樹園にいるトレーナーやポケモンの動きを止めているが、いつ彼らが抜け出すかは分からない。そうなると果樹園にいるウォーグルやキノガッサ達では対処しきれない。
「最短で事を鎮めるには、やはりそのヤレユータンと相見える他無いってことね」
「僕、道を覚えてるから案内は出来るよ」
 エレナとフェンの覚悟は決まった。二人の視線は自ずとガルシアに向けられる。ガルシアもその意味は理解している。
 決して自信があるわけでは無いが、これは自分にしかできないことなのだ。
「ああ、行こう」
 ガルシアは覚悟を決めた。一度手放してしまったヤレユータンと向き合うことを。


 フェンに案内されて辿り着いたのは、サッカーグラウンド半分くらいの大きな部屋だった。広い部屋の奥では、妖しく輝く大きな命の珠を携えたヤレユータントートが敷き詰めた葉っぱの上に座っていた。まるで待ち構えていたかのようにこちらをじっと見つめる。
『こんなところまで何をしにきた』
 ゆっくりと、ヤレユータンはテレパシーで問いかけてきた。うんざりしたような感情の中、期待していたかのような感情も混じっている。
「トート、君こそ何をしているんだ」
 部屋の隅っこには気絶した人とポケモン達が雑に転がされている。ヤレユータンがやったのだろうか。
『見ての通りだ』ヤレユータンは左手をはっと広げてみせた。『逃げ出した人間とそれを手助けするトレーナーに罰を与えた。それだけだ』
 ヤレユータンの念力で転がされた人間が宙に浮かぶと、ガルシアめがけて一直線に飛んできた。
「危ない!」と叫んだフェンが前に立ちはだかり、飛ばされた人間を受け止め、地面にそっと寝かせる。
 ガルシアはいまだに信じられずにいた。温厚な性格でバトルもほとんどしたことのないヤレユータンだったが、今は眉一つ動かさずにこんな行動を取るだなんて。
『まさかトレーナーのポケモンがボールから抜け出して、穴を掘っていたとは思わなかった。結局人間もポケモンも私を裏切るのであれば、二度と裏切ろうと思わないようにさせるしかない』
「トート、これ以上戦うのはよしてくれ! お互いに傷つけ合ったとして、憎しみ以外何も生み出さない! お願いだ!」
 しかし、ガルシアの嘆願はヤレユータンの心にはまるで響かない。
『なぜ戦うのをやめねばならない? きっかけを作ったのは人間の方だ。我々は居場所を守る為に戦っているだけなのに、なぜ我々だけが非難される? 教えてくれ、なぜだ?』
 ガルシアは思わず答えに詰まった。それでも立ち止まらなかった。
「一石を最初に投じたのは私だ。すまない。君を逃したのは君のためだと思ってのことだった。しかしそれはただの私の勝手な解釈だった。私が君の心を裏切り傷つけてしまった」
 ガルシアは深々と頭を下げる。しかし、ヤレユータンの表情は変わらない。
『私は一度お前に裏切られた。今更そんな言葉を信じると思うか?』ヤレユータンはガルシアを睨む。『所詮ポケモンがどれだけ人を信じ、愛し、尽くしたとて、やがて裏切られる。元より我々は分かり合えるはずなどないのだ。だからこそ我々はポケモンだけの新しい楽園を作り上げる。この島はその足掛かりだ』
 静かに揺れるヤレユータンの瞳の中で、憎悪の炎がめらめらと燃えている。
 感情的になったフェンがくってかかる。「確かにあなたの境遇には同情する。だけどそれを盾に何をしても許されるわけではない。誰かを苦しめて作り上げた世界は楽園なんかじゃないです」
『何も知らないメタモンに、私の憎しみの何がわかる』
「僕はあなたじゃないからわかるわけないじゃないですか。だけどこんな僕でも言えることはある」
 声音こそ静かだが、その奥底で強い意志が根差している。ヤレユータンは初めて押し黙り、フェンの言葉を待った。
「僕は昔人間の実験体だった。その時受けた実験のせいで、人間の姿を取れる代わりに全身を自由に変身することができなくなった。自分が自分でない苦しみに自分で命を断とうともしたこともあります。それでも僕が今ここにいるのは、レオナという相棒に出会えたからだ」
 フェンは隣に立つレオナに目を向け、唇のはしっこでそっと微笑んだ。
「人間もポケモンも、運命を曲げられることはあるでしょう。それでも運命に抗うためには前に進まなくちゃいけない。憎しみに囚われて立ち止まるだけでは運命は変わらない!」
 レオナの肩の上で、バチュルが興奮してぴょんぴょんと飛び跳ねる。
 バチュルだって、レオナの偶然によって運命を曲げられた。それでもなおレオナの元に居続けて力を貸してくれているのは、きっとバチュルなりに自分の運命を進もうとしているからなのだろう。
 憎しみとは自身を過去に縛り付ける鎖だ。しかし憎しみに囚われていると、自身が鎖に縛り付けられていることを忘れてしまう。運命に抗うはずが、いつまでもその運命から逃れる事ができなくなる。
 だからこそ、苦しんでいる者がいるならば、その鎖から解き放ってやらなければいけない。
「わたしの相棒はこう言った。君の運命僕が変える、ってやつね」
 ヤレユータンはふん、と鼻を鳴らす。『所詮貴様らとは相容れるとは思っていない。私は私の望む楽園を作るまで!』
「レオナ君、危ない!」
 突如レオナの影が起き上がり、鋭い爪がその背中を狙ったが、フェンが硬質化した左腕でその攻撃を妨げる。影から飛び出したポケモンは、部屋に転がっている木箱の後ろに逃げ隠れる。
「フェン、ガルシアさん、ありがとう」
 そう言いながら、レオナは氷の石を木箱目掛けて投げつけた。木箱に接触した瞬間、木箱と周囲があっという間に氷漬けになる。堪らず腰を抜かしたヤミラミが姿を現し、そそくさとヤレユータンの側へと逃げ込む。
 その背後では逆側から現れたオオタチとフェンのレントラーがガルシアさんを守るように戦いを始めていた。
『奇妙な技を使う。娘、お前も人間じゃないのか?』
「まさか。流石にわたしは正真正銘の人間よ」それより、とレオナは続けて話す。「頭に血が上ってるように見えて、伏兵使ってトレーナー狙うとか結構狡いじゃん」
『ポケモンがいなければ身を守ることすら出来ない人間が何を言う』
「その命の珠のお陰で暴れてる癖によく言うよ」
 レオナは硬い石を指で弾いたが、光の壁に阻まれた。気付かないうちにレオナに接近してきたヤミラミを止めるため、再びフェンが攻撃を体で受け止める。足が止まったフェンをヤレユータンのサイコキネシスが縛り上げるが、レオナの二個目の石の弾丸から身を守るためサイコキネシスを解除して再び光の壁で身を守る。バチュルが自発的に放ったエレキボールも同じく光の壁に阻まれる。
 地脈を乱し、さらに硬度を上げた硬い石の弾丸すら阻む光の壁が堅すぎる。あの命の珠から凄まじい“地脈”がヤレユータンに流れている以上、ヤレユータンのワザは攻守に渡って強力だ。このままだとまともに攻撃が届かない。それにあんなに膨大なエネルギーを一身で受け止めるヤレユータンの肉体も、タダでは済まないはずだ。
 今ここでヤレユータンを止めないと、それこそ取り返しがつかないことになる。
「バチュル、虫のさざめき」
 光の石を宙に放ると、閃光弾のように石が眩く輝き視界を塗り潰す。そしてそれに重なるように虫のさざめきが聴覚を惑わせる。
 フェンの腕がメタグロスに変化し、動きが止まったヤミラミにコメットパンチをお見舞いする。急所に当たった感触もあった。鋼鉄の拳を受けてヤミラミは唾を垂らしながら壁際まで吹き飛ばされ、ぐったりとうな垂れた。これで戦局は楽になる。
 一方でレオナはヤレユータンの近くまで接近したが、光の石の効力が弱まった頃に突然と身体の自由を奪われた。
『一手遅かったな』
 身じろぎひとつできないまま、身体が宙に持ち上がる。右手に握りしめていた炎の石の欠片がばら撒かれ、地面に散らばった。
『視覚と聴覚を阻めば私が貴様らを見失うと思ったか。この私が接近戦の対策をしないはずがなかろう』
 そのまま念の力でレオナの体が持ち上がり、足が地面から離れる。
「レオナ!」
『おっと、余計な動作をするな。この娘が無事で済まなくなる』
 牽制をされたフェンは指をくわえて眺めるしかできない。
『まずは貴様らを片付ける。それからこの島で起きている争いを収める。我々の持つ力をもう一度思い知らせるまでだ』
「それに何の意味がある……!」力を振り絞り、レオナは目下のヤレユータンに語りかけた。「形の上は人間とポケモンの対立だけど、実際に戦っているのはポケモン同士だ。人に棄てられたポケモンを憂いているクセに、人と仲良くしているポケモンを引き剥がして、そのポケモン達を苦しめる……! あんたがやっていることは救済でもなんでもない! それっぽい理屈をこねて多くの人とポケモンを苦しめているだけだ!」
『言わせておけば!』
 ヤレユータンが激昂し、レオナを締め付ける念力がより強くなる。骨が軋むような圧力で、身体が悲鳴をあげて、今にも意識はどこかに飛んでいきそうだ。脂汗が流れ、苦しい表情は誤魔化せないが、それでもまだ震える唇の端は上がっていた。
「どかーん」
 声に応じ、地面に転がっていた炎の石が火を吹いた。
 サイコキネシスで拘束される前に、“地脈”を予め乱した炎の石をわざと転がしたのだ。ヤレユータンの意識の外から攻撃するために、時限爆弾のように発火するのを待っていた。
 耳をつんざく爆発音と共に、レオナとヤレユータンが吹き飛ばされる。ようやっと巨大な命の珠からやっとヤレユータンを引き剥がしたが、それでもなお命の珠の“地脈”はヤレユータンと繋がったままだ。
 飛ばされたレオナをフェンが受け止め、レオナはフェンの腕の中で背後でオオタチとの戦いを終えたばかりのレントラーに指示を飛ばす。
「レントラー、エレキフィールド!」
 フェンのレントラーを中心に広がり形成されたエレキフィールドは、地表のエネルギーを乱し、命の珠が放つ“地脈”の流れを歪める。これでようやく命の珠とヤレユータンの繋がりが弱くなった。
「バチュル! 全力でぶちかまして!」
 立ち上がったレオナはポケットから電気のZクリスタルをバチュル目掛けて放り投げる。ヤレユータンは慌てて采配をバチュルにかけるが、もはや関係ない。バチュルの身体から溢れんばかりの電撃が放たれる。全力の一撃は集約し、研ぎ澄まされた電撃の矢となって瞬く間に命の珠を粉々に粉砕する。その衝撃に巻き込まれ、ヤレユータンの身体は再び宙を待った。
「トート!」
 ガルシアがフェンの制止を振り切って、仰向けに倒れたヤレユータンの元へ駆け寄る。命の珠の反動が身体に現れているのか、ヤレユータンは思うように身体が動かない。ただ地面に伏せたまま顔を上げれば、懐かしい男の顔があった。散々この島で見ていたはずなのに、どうしてか久しぶりに見たような気がして、妙に落ち着くような気がする。
「すまない……。何もかも私が弱いばかりにお前を苦しめた。謝って許されようとは思っていない。それでもお前の気持ちを何も分かってやれなかったことを、詫びさせてくれ……」
 上半身が起こされる。朦朧としたヤレユータンの意識の中、懐かしい匂いに包まれた。ある時は大都会ヒウンを共に歩き、ある時は共に大海原を渡る。その傍でいつも穏やかに微笑んでいたガルシアの姿を思い出した。決して何か特別な出来事があったわけではない。それでもヤレユータンからすればかけがえのない毎日だった。
 ガルシアが資金繰りに悩んでいたことはヤレユータンも気付いていた。あの時、何が出来るかは分からなかったが頼って欲しかったのだ。長い年月を共に歩んだ友だったからこそ、その苦しみを分かち合い乗り越えていきたかった。だからこそ、棄てられた時は裏切られたと思った。
 そして同じように人に棄てられたポケモン達と接していく中で、人間に対する憎悪が生まれていった。しかし増長する憎悪が善良な人間の存在を心の中から掻き消してしまっていたのだろう。
 命の珠の強大な力に呑まれ、かつて自分が愛し愛されていたものを見失い、憎しみだけを駆り立てられた。
 ガルシアがずっと言っていたように、人間を支配したところで憎しみはより増長する。こんなことに意味はないなんてとっくの昔に分かっていた。憎しみから逃れる方法はいくらでもあるはずなのに、ヤレユータンはそれを選ぶ事ができなくなってしまったのだ。
 ようやくこの出口がない復讐劇が終わったことに、心の中でヤレユータンはホッとした。もしかしたら、最初から誰かに止めて欲しかったのかもしれない。
 心を埋め尽くしていた憎悪と敵意が洗い流され、空っぽになった心は陽だまりのように暖かい愛を求めていた。小さかった頃に野生のポケモンに襲われて怪我をした時も、こうやってガルシアは介抱をしてくれた事を思い出した。
 ようやっとヤレユータンは悟った。ガルシアは今もなお私を心配してくれている。あの日棄てられたと思っていたが、私とガルシアはお互いに違う道を歩み始めただけなのだと。
「もし、良ければ。いや、虫がいい話だとはわかっているが、もう一度やり直させてくれないか」
 ヤレユータンからすれば魅力のある提案だったが、ヤレユータンは首を横に振った。テレパシーで直接思いを伝えたいが、あの命の珠が砕けた今それも叶わないようだ。ふと、あの人に擬態したメタモンと目が合った。視線に気づくと彼はこちらに近付いてくれた。
「私にはこの島にいるポケモン達を守る義務がある。君が望むような答えが返せないが、これが今の私のやるべきことだ。私は君と離れたことで新しいやるべき事を見つけた。君とは違う道を行くことになるが、それは決して心が離れるわけではない。そうだろう?」
 フェンがヤレユータンの言葉をガルシアに伝える。
「そうか」パートナーの新たなる決意を聞いて、ガルシアは穏やかな笑みを浮かべた。「その通りだ。私たちはこれからも友達だ」
 ヤレユータンが差し出した右手を、ガルシアはそっと握り返した。
 遠くからその様子を見ていたレオナは、健闘してくれたバチュルとレントラーに「お疲れ様」と労いの言葉をかけた。そして、屈んでレントラーの背に乗ったバチュルと向き合う。
「ねえ、わたしと一緒に来ない? 今回みたいに色々大変な目に遭うことも多いかもだけど――」
 バチュルはぴょんと飛び上がり、レオナの胸元に飛び付いた。レオナは驚いたが、すぐに笑い声を上げた。
「よろしくね」
 鞄からネットボールを取り出すと、バチュルは自分からボールに飛び込んでいった。ボールはレオナの手の中で優しく三度揺れ、小さく光った。
 多分、きっかけにさして意味はない。人と人とがそうであるように、人とポケモンもただ一緒に居たいと思ったから、共に居る。それだけで十分だと、レオナは思った。


 洞窟から出た頃、島を囲うように現れていた霧はなくなり、水平線の彼方から太陽がひょっこりと顔を出していた。眩しさに眼を細めながら、高台から果樹園を一望する。
 生々しい戦いと破壊の爪痕が大きく残されていたが、トレーナーもポケモンも、今は誰もが静かに眠っている。キノガッサ、ウォーグルとそれを指揮したエディのお陰だろう。
 ヤレユータンは人に逃がされたポケモン達の保護という新しい使命をみつけたため、島から出てやり直すという。そしてガルシアは事業を立て直したら支援する、とヤレユータンと約束を交わした。
 彼らなら、新天地で今度こそ楽園を作り上げることが出来るだろう。
 海原の彼方から、太陽を背に受けキラキラと輝く、不揃いなふたつの点が現れた。
「おーい! 大丈夫かー!」
 近づくにつれて克明になるシルエットから、聞き慣れた声が響き渡る。目を凝らしてよく見ると、それは一隻の船とラプラスだった。その中で見慣れた黒人の男が大きく手を振っている。
 しばらくして島に着いたエディは二人に駆け寄った。
「早いじゃん。いつから来てたの?」
「レオナと連絡がついた頃には既に船の上で待機してたんだ。今回ばかりは流石に心配だったからな。それよりMr.ガルシアはどちらに?」
「ガルシアさんはヤレユータンが回復してから帰るってさ。だから先に他の人たちから救助していってね」
「え? あぁ、そうかい」
「はいはい、分かったらさっさと仕事仕事! 私たちは疲労困憊だから先に休ませてもらうから」レオナはそう言って、エディの肩を叩く。
「おいおい、ちょっと!」
「そういうことで」レオナに続き、フェンもエディの肩を叩いた。
「フェン、お前もかよ!」
 エディはやれやれ、仕方ない。と頭をかきながら、船の中から現れた救助隊と共に島の内部へ乗り込んでいった。
 一足先に船に乗り込んだレオナとフェンは、広々とした船室でゆったりとした椅子に座り込んだ。
「さて、帰りますか!」と言って、レオナは大きく伸びをする。「二日もシャワー浴びてないから気持ち悪いし、きのみしか食べてないからお腹空いた〜」
「僕もかりんとうが恋しいですし、早く帰りましょう」
「そうね。しばらく二、三日はゆっくり羽を伸ばしたいな」
 船の中が少し騒がしくなってきた。島から救出された人やポケモンがこの船に乗り込んできたのだろう。改めて、本当に終わったんだな、と思った。
「あ、そうだ」とフェンが思い出したかのように話し掛ける。「いつものアレ言わなくていいんですか?」
 フェンのニヤリとした笑顔を見て、レオナは小さくため息をついた。そんな風に期待されると、下手な事が言いづらい。初めて会った頃は人の言葉も話せなかったのに、いつの間にやらそんな事まで覚えて。でも、これもフェンというパートナーと長くいたからこそかもしれない。
「昔の映画でこんなセリフがあったわ。Love cannot be found where it doesn't exist, nor can it be hidden where it truly does.あらぬ愛は見出せないが、確かな愛は隠せない
「僕にはちょっと難しいですけど、でもなんだかいい言葉ですね」
「でしょ?」
 船の窓からあの島を覗く。愛と、愛故に生まれた憎しみが作り出したこの愛憎の楽園パラダイスで起きた事は、この先も忘れる事はないだろう。確かな愛がある限り。