キミをみるまえからしっていた

フィソステギア
「波音」「マスク」「神経衰弱」
編集済み
 7月6日 

「ここと、ここ。それと、これはここで」
 手際よく、二本指をうまく使いながら、手の平サイズのカードをひっくり返すと、ハート型の生き物が水槽から現れた。ラブカス、タマザラシ、それだけじゃなくてハトーボーにアマージョ――息子はホウエン以外のポケモンにも詳しい。病室では『ポケモン言えるかな博士』と呼ばれているが、本人ははにかんだ顔をするばかり。
 四方で囲まれたイラストの世界観にいとおしそうな目線を配るのは、外の世界に憧れがあるから。ポケモンカードを買って買ってとせがまれては、一日一パックね、と私は付け加えるも、ついつい三つ買ってきたり。我ながら親バカだなと苦笑するけれど、この子にはそうしたい理由がある。
「カクトくんすごい!」
 一緒に神経衰弱をする子たちが、キラキラした声で、眼差しに星を散りばめる。
 丸椅子を寄せて、シーツの上にカードをばらまけば、そこはもうゲーム会場だ。ポケモンカードに封入されている種類は被りやすいから、万人向けのゲームにも使える。
 記憶力の良いカクトは会場のヒーローで、右に出る者はいない。それでもみんなが付き合ってくれるのは、ポケモンの表情やカードの背景を感じとって、小さな冒険の旅に出発するのが楽しいからなんだろうな、と思っている。
 旅に夢中の子どもたちは、配膳車がカラカラとやって来る音に気付かない。
「おやつの時間ですよー」
 今日はゼリーだ! ブルーアローラのグラデーションは、波音さざめくトクサネ海のように蒼い。子どもたちは興奮を隠しきれず、嬉々とはしゃぎながらベッドに戻った。


『トクサネ宇宙センターによるロケット打ち上げが、2日後に迫りました』

 プレイルームのテレビは、誰も観ていない時間帯限定で、独占してもオッケー。
 カクトはニュースに食い入る。多用される専門用語に対し、テロップでの解説が必死に追いつこうとする。
「父さんたち、成功するかな」
「するよ、きっと」
 私は息子の体育座りを真似しつつ、今頃大忙しであろう夫に思い馳せる。
「カクトも、検査乗り越えようね」
「うん……」
 心なしか、息子の頭は、組んだ両膝に吸い込まれるがごとく、萎んで見えた。

 ベッドテーブル上で、扇型に広げたカードのイラストを眺める。
 すると、気さくそうに手を振る男性が病室に入ってきた。この人は、入院前からカクトを診てくれている主治医だ。
「先生、こんにちは」
「どうも。カクトくん、調子どう?」
「今は、大丈夫」
 『だいじょばなさそう』な声色で、黒目を上下させながら、おずおずと答える。
「お、それってジラー……ンスだっけ」
 それは海底でダイビングしないと出てこないポケモン、とカクトは口を尖らせた。
「『ジラーチ』」
「あっそうだ! ジラーチだ、ジラーチ」
 ははは、と先生は後頭部に手をやる。
「そろそろ覚えてよ~」
「カクト、好きなポケモンはジラーチって、ずっと言ってるもんね」
「ごめんごめん。ジラーチのどんなところが好き?」
「願いを叶えてくれるところ」
「そっか。そっかそっか」
 先生は眩しそうに目を細める。「ちょっとボクにも見せてもらえないかな」と尋ね、頷くのを見てから、カクトが大事にしている一枚のカードをつまみあげた。
「イラストおっきいねえ」
「レアカードだよ」
 カクトは、鼻高々に語尾を上げる。
「レア?」
「なかなかゲットできないの」
「へえ。ありがとね。イラスト上手だ」
「サイトウ・ナオキって人が描いたの」
「へえ~」
 カクトから紡ぎ出される知識の糸に、先生は驚くばかり。
「先生、検査のお話ですか?」
「はい。前日になりましたので、お話させていただきます」
 
 息子は、ポケルス症候群である。
 国の指定難病リストで検索するとヒットする、著しく知名度の低い病気だ。
 ポケモンには元来、戦闘本能が備わっており、ストレス発散を目的としたバトルは競技にまで発展している。
 稀に、ポケモンは『ポケルス』という病を発症するが、これ自体は忌避されるものではなく、ポケモンの成長を促進する役割を果たすため、トレーナーからは歓迎されやすい。
 しかし、そのポケルスこそが、カクトにとっては負担となっている。ポケルスは稀に人間にも感染し、発症するケースがある。
 人間がポケルスに感染すると、本来ポケモンの能力の伸び代を大きくする分に反比例して、人間の身体機能を阻害する。臓器機能が劣化し、異なる病の併発をも招くことがあるが、原因は不明だ。
 ポケルス症候群は、ポケルスがやがて抗体になるのと同様の理屈か、大人になるにしたがって、医学用語だが完全寛解……つまり、完治に近い状態に変わる。
 ポケルス症候群の薬を服用すれば、一応日常生活は可能だし、ポケモンに触れても問題は無い。しかし、定期的な診察や検査が必要となる。
 特に、その症状が表れやすいのが腎臓である。血液中に潜入したポケルスの菌が、腎臓や免疫力に悪影響を及ぼす。
 そのため、薬の副作用が起きていないか、また病の進行度を調べるため、腎臓の一部を採取する検査が行われる。
 検査後は絶対安静。傷口が塞がり、問題無ければ、退院を許可される。

 カクトは小学校を早退しがちだったが、高学年になるにつれ、旅に出たいと言って聞かなかった。ドクターストップで、過度な運動は禁止されている。旅に出れば、どんな危険にも巻き込まれる可能性はある。
 『子どもは10歳になると、自分のポケモンをゲットし、旅に出る』という常識に、倣うことが出来ず、そっぽを向かれてしまった。ポケモンカードを集めるようになったのはそれからだ。
 ポケモンがひしめくこの世界で、一見すると元気だけど、完璧には元気じゃない人々やポケモンが存在する。
 きっと、みんな奥に色々なものを秘めている。カクトが患ったのはそういう、ひとつの宿命だ。


*


 検査前日の夜。
 消灯が近づくと、落ち着かない気持ちが、どんどん昂ぶって来る。
 耳に刺さる赤ちゃんの泣き声は、エネコと間違えやすい。取り残された気分になり、夜の闇が容赦なく覆いかぶさる。  
 顔が固まって、不安は脚にも伝わる。勝手に、命令をきかず、震え出す。違うことを考えるんだと必死に言い聞かせ、ポケモンカード右端の説明文で気を紛らわす。

 1000年間で 7日だけ 目を覚まし
 どんな 願い事でも かなえる
 力を 使うという

 父さんのつとめる宇宙センターがロケット打ち上げを行う日は、7月8日。織姫と彦星の再会を邪魔しないようにと、一日ずらしたらしい。なんでも今年は、ジラーチの復活と、ロケット打ち上げが偶然重なったんだって、父さんから聴いた。
 この街には昔から
『白い岩に100回お願い事をすると、ジラーチが目を覚ます』
 という迷信がある。
 ジラーチはふだん、白い岩のなかで眠っているけれど、千年彗星から力を貰って、七日間の間だけ活動する。
 ボクはカード越しに、ジラーチのゆりかごを想像する。病院の窓越しに見える、月明かりのように、暗い中、薄く、線を引いた光だけが残る世界にいるのかな。
 もし、会いたいという夢が叶ったら。ボクはキミに叶えて欲しい願いがある――。
 その時、止めていた息を根こそぎ吐き出すように、呼吸が荒くなった。
 考えても考えても、不安は追い出せない。検査は上手く行くか分からない。絶対なんてありえない。体の組織の一部を切り取る。怖い、痛い思いをするのは嫌だ。成功しなかったら、また再検査。どうしよう。先生たちはなんでもないことのようにふるまうけれど、ボクにはどうしたって重大な問題なんだ。
 いつになったら病気との格闘は終わるんだろう。ジラーチ、キミなら……キミは強いポケモンだ。よわっちいボクなんかと違って、願いを叶えられるなんて、とても凄い。
 気付けば、ナースコールを押していたのか、看護師さんのくぐもった声がする。
『どうしたの?』
 問いかけてくる声、救いをもとめるように、ボクは心配事を告げた。
 あれだけ丁寧に扱っていたカードを、シーツのどこかに置きっぱなしにして暴れたせいか、折り目がついた。

 よく先生たちが診察の時に腰掛ける、クルクル回るタイプの椅子に、ボクはこころぼそく背筋を丸める。
 ナースセンターの灯りを浴びていると、動悸がおさまってきた。ここなら、赤ちゃんのエネコみたいな声も、そんなに聴こえない。
 看護師さんが背筋をさすりながら、青ざめたボクを優しく覗き込む。
「水でも飲む?」
「おねがい、します」
 軽く頷くと、看護師さんは飲み物をとりに向かう。
 パイプ椅子を前後逆に座った、ボクの先生が、にっこりと口の端を吊り上げて、話を聴いてくれた。うんうん、と相槌を返してくるだけなのが、心底ありがたくて。全部この人にぶちまけてしまえば、楽になれそう。
 ボクは次々と、『不安』を口にする。コップを胸の前に抱えて、ここではない、宇宙の空を見上げて。
「ロケット、上がるかな」
「ジラーチ、会えるかな」
「検査、成功するかな」
 先生はボクの両手を握り締めた。冷え切った指先に温度が伝わって、ほんのりと暖かい。
「カクトくんの頑張りをみんなちゃんと見てるよ。だから、これだけ良い巡り合わせを、カミサマが用意してくれた」
「良い巡り合わせ?」
 先生は自信満々にうなずく。
「ボクを信じてみてよ、カクトくん」


*

 7月7日 

 検査に出る前、息子の表情は諦めか、はたまた覚悟か、何にせよ少し落ち着きを取り戻していた。
『気分が悪くなるかもしれない』薬の点滴を打たれ、車椅子で検査室へと運ばれていくのに、私も同伴する。
 机の上には折れかかったジラーチのレアカードが、こころもとなく置いてけぼりにされていた。あの子が……珍しい。
 このベッドもまもなく片づけられ、帰って来た時には、絶対安静状態の措置が施されているだろう。
 夫が「電話しようか?」と昨晩私にかけてきたが、遠慮するようそれとなく伝えた。今はカクトにプレッシャーを与えるだけだから、終わってからにしようと。
 代わりにお父さんも大一番だね、と励ましの言葉を贈った。夫は「ロケットの打ち上げを見て、カクトには元気になってほしい」という願いをこぼしていた。

 看護師さんが車椅子を押して、点滴を指で持ち上げつつ運ぶ。点滴のチューブは、長く、だらりと垂れ下がっていた。
 検査室に移動する最中、私たちの後方から、切羽詰まり、一刻を争う声が届く。
「すみません、ちょっと空けてもらえますか」
 トクサネはそれほど大きい街ではないから、大型の病院といえば、ここぐらいのもので、人もポケモンも病棟こそ違うが、患者として診てもらっている。だから、ポケモンが運び込まれてくるのは、今に始まった話ではない。
 しかし、担架に乗せられたポケモンが、カクトの細い線のような両目をよぎり、一気に剥き出させた。

「ジラー、チ?」

 息子には、見間違えようも無かった。

 こちらも進もうとした時、車椅子が何かにつっかえる。
「すみません! あれ……」
 看護師さんがすぐさま確認した。車輪にチューブが絡み付き、びくとも動かない。あくせくと、手先を張りつめていくのが余計不安を掻き立てる。
 上から下ってくる点滴は動きを止め、静脈に刺した血管から血液が逆流してチューブを昇っていく――それを見たカクトの顔色が途端に青ざめた。
 チューブを引き抜こうとするも、点滴の水がじゅわっと溢れ出す。検査用の衣服に水滴が乱れ飛んだ。マスクをした診察待ちの患者が、それぞれ奇異の視線を配り始める。
 カクトは、首を振り乱し、見るなよ、と呟く。私は得も言われぬ気持ちに駆られた。
 なんとか、試行錯誤の末にほどけたあと、今度は「私が持ちます」と買って出て、俯くカクトに寄り添いながら進む。不注意にも程があるだろう、と憤りそうになった。


*


「震えちゃってる」
「刺せないから」
「薬入れて」
 声があちこち飛び交っている。
 頭はすっかり冴えていた。光が怖いのは初めてで、思いきり目を瞑る。見てはいけないような気がした。

 ボクが背中を震わせている内に、事は終わったらしい。次、目が覚めたのは、看護師さんが点滴をいじっている時だった。ボクはベッドに戻っていて、いつも遊んでいた周りの子たちがどこかよそよそしげに、たまにこちらの様子をうかがう。
「母さんは?」
「もう帰ったよ」
 突き放すのではなく、優しく告げるような物言いだったけれど、あふれる痛みがもたらす淋しさから、思わず涙を流していた。 
 看護師さんがいなくなった後も、その涙を拭ってくれる人はいなかった。


*

 7月8日 

「カークトッ」
 この間まで細くなっていた喉と食欲がちょっと回復したのか、カクトは例によって何枚かのカードを机に取り出し、淡々と箸でごはんを口元に運んでいた。
 少し食べた方がいいよ、と先生に言われたらしい。午前中、超音波検査での異常は無し。このまま経過次第では、数日後に退院出来るそうだ。
 カクト曰く「だから言ったでしょ?」と得意気に微笑まれたそうだ。たまに寄ってくる病室の子と話しているところを見て、私はいくらか安堵した。同時に、昨日は大変だったなと思い返す。
 カクトの頭の中は、既に憧れのポケモンのことで埋め尽くされていた。
「ジラーチ、大丈夫かな」
「何があったんだろうね」
 千年に一度だけ目覚めると云われるポケモン、息子から何度も聴かされた。強く、気高い姿に魅せられることを、本人は望んでいたのだろう。
 実際に目にした光景は、ポケモンセンター病棟へと運ばれていく瀕死状態、いや瀕死などという表現では生温い。生まれながらにして、死の淵に立たされていた。

「ジラーチに会わせてほしい」
 と、カクトが言い出す。院内でも結構な噂で、ジラーチは今も看病中だという。
 まだ傷口がしっかりと塞がる前は、ベッド以外での不用意な動きには目を光らせなければいけない。背中は昨日ほどではないがまだ痛む、と言っていた。
「お願いします!」
 さすがに、先生は首を縦には振らない。
「カクトくん、それは難しい。ジラーチはね、千年彗星から力を貰うなかで、宇宙ウイルスに感染したんだ」
 細菌やウイルスが、彗星を安全地帯にして、運ばれてきたという。地球上で流行る伝染病は、宇宙からの彗星がもたらした、という仮説もあるほどだ。
「今、カクトくんがジラーチに会うのは」
 状態を悪化させかねない、悪手中の悪手。それに、治療中のポケモンは見世物ではない。勿論、カクトにそんなつもりがないと分かりつつも。
「顔だけでもいいです」
「カクト」
 私はやんわりと諭す。が、息子は譲らない。先生は分かってくれと言いたげに肩を落とし、目線を逸らす。
「ジラーチが次に目を覚ますのは、1000年後なんでしょ?」
 今を逃せば、二度と会うことは出来ない。人間とポケモンの寿命には、大きな隔たりがある。
 カードを折り曲げたから、ジラーチが傷付いた、まるでそう思っているように彼はイラストと向き合う。この子はもしかすると、ジラーチが弱り果てたのを自分の責任に感じているのかもしれない。


*


 先生と母さんに付き添ってもらう、断られたらおとなしく引き下がる、少しでも体調がおかしいなと思ったらすぐに帰る、という条件付きで、ボクはジラーチの様子を観に行くことを許可された。
 まるで昨日までのボクと生き写し。勝手に光と影の『しんぱしー』を感じているだけかもしれないけれど、嬉しいような、ちょっとばかりショックを受けたような、そんな気持ちでいる。
 点滴と足を引きずり、背中の痛みに嘘をついて、ボクはガラス張りの病棟にやってきた。カーテンは締め切られていて、大事そうに病室の内側を隠している。
 先生がジョーイさんに断りを入れて、ジラーチをこの子に数分の間だけでいいから、見せてあげられないかと話す。
「患者は、貴方の思い出づくりのためにいるわけではありません」
 甘い考えを叱られ、ボクは何も言えず、縮こまるしかなかった。
 母さんがジラーチのレアカードを見せて、お願いします、と頭を下げたのだから、ボクは驚いた。机の上に置いて来たつもりだった。ボクもとっさに腰を折り曲げようとして、先生からするどい声で止められた。
「カクトくん、あとで良いよ」
 ボクは口を半開きにして、先生と母さんを見つめていた。ジョーイさんは相変わらず厳しい目付きだったかと思えば、ボクたちが半端な気持ちで来たわけじゃないと納得したのか、病室のカーテンを開けてくれた。

 ボクは引き寄せられるように、ガラスへと手を伸ばす。何日も瞳に刻み、描き続けた姿がそこにある。三枚ある短冊は、全部破れてしまったのかぼろぼろだ。先生と母さんも思わず息を呑んだ。ジョーイさんが首を横に振る。

「ジラーチはもう、願いを叶えられません」

 ボクの心が、音を立てる間もなく崩れていった。
 ジラーチは願いを叶える。とても強い力を持っている。誰も寄せ付けないような、幻の存在。
 でも。
 でも、目の前のジラーチは。ひたすら、つらそうに、お腹を膨らませては、へこませていた。真実の目は点滅しながら、むきだしになっている。
 ジラーチもまた、闘っているんだ。検査の痛みと同じように、宇宙ウイルスがもたらす苦しみと。
 ボクはぴたり、両手をガラスに貼り付けた。点滴のチューブが微かに揺れる。
「ジラーチ、ジラーチ!」
「まだ寝ています。お静かに」
「ごめんなさい」
 視界が揺らぐ。
 ショックを受けるのは、ジラーチに対して失礼だ。ボクはポケモントレーナーじゃない。だから、弱ったポケモンは見慣れていない。ポケモンに触れない生き方をしてきたから、どこかで、ポケモンが傷付くこと自体に、無頓着でいたのかもしれない。
 カードのイラストは、いつもポケモンを綺麗に正しく切り取っている。しかし、絵と現実は、似ているようで似ていなかった。
 強いとか、弱いとか。そんなものは、簡単に当てはまらないんだ。
 寝返りを打ったジラーチと目が合う。
 お互い、情けない姿だね。
 ボクの眉は下がり、口は頼りなく開いていただろう。ジョーイさんはボクとジラーチを交互に見つめて、ひとつの変化に気付いた。あれ、こっちに手を伸ばして、近付いてくる。点滴の針が刺さる甲で、放っておくと溢れ出そうな滴を拭った。
「ジラーチ? 安静にしてないと……」
 ジョーイさんは病室に入って、すぐさまジラーチをベッドに戻そうとする。医療機器を引きずりながら、ジラーチはふわふわ、宙に浮かび上がる。
「ジラーチは、カクトくんの想いを感じ取っているんだ。願いを叶えるポケモンだからこそ、願いを叶えて欲しいという人間の想いを確かめようとする」
 先生に言われるがままに、ボクはジラーチに問いかける。
 そうなのか? 
 キミは出会ったばかりにもかかわらず、ボクと話をしようとしてくれている。全身を焦がすような痛みに耐えながら。
 ジョーイさんはそれ以上止めず、成り行きを見守った。ジラーチと、ガラス越しに、ボクの手とが触れ合う。それは長くも、流星が燃え尽きるような短い時のはじまりだった。
 
 何をどう言えば良いんだろう。それにちゃんと伝わるかどうかさえ、自信は無い。でも、ジラーチは言葉を欲しているように見えた。
「……ボクのお父さん、宇宙センターでお仕事してるんだ。宇宙のポケモンに詳しくて、キミのことも教えてもらった」
 ジラーチはつぶらなひとみを、顔もお腹の方も開いたまま、黙っている。
「ジラーチ。キミに会えたら、ボクの病気を治してほしいってお願いしようと思ってた」
 ジラーチは小首をかしげる。
「でも……。いいや」
 願いを叶えられなければ、理想のジラーチ像とは、確かに異なる。でも、それで好きな気持ちが変わることは無い。
 もし、ジラーチが願いを叶えられる力を持って生まれたなら、ボクは願いを叶えただろうか。そればかりは分からない。
 全ては、立ちはだかる真実次第だから。
 でも、こうして今ジラーチと話せている真実から、勇気を貰っている。現実という壁に立ち向かうためのヒトカケラを。
 ボクは、自ら手を離す。
「もう、いいのかい」
 先生の問いかけに、ボクはうなずいた。ジラーチの闘いを邪魔しないように、ボクはボクの闘いをする。
「ありがとうございました」
 ボクたちはジョーイさんに一礼して、病棟に帰ろうとする。今度はジラーチがガラス窓を叩く番だった。
「どうしたの」
 ジラーチは、星型の被り物に吊るされた、真ん中の短冊を一枚ちぎる。念力を浴びた短冊は、隔てられたボクらを繋ぐようにガラスを瞬間移動した。慌てて差し出したボクの両手に、そっと添えられる。
「え、くれるの……?」
 こくり、とジラーチはうなずいた。
 ボロボロの、風に吹かれたらあっという間に無くしてしまいそうな紙を、ボクはおそるおそる手に取り。宝物にしようと、心に決めた。


*


 ジラーチとの邂逅は、カクトの記憶には永遠に残るけれど、元々疲弊した体には負担が大きすぎた。私はその苦しみ方を見ていると、あの時、一生嫌われてでも止めるべきだったかもしれないと強く後悔した。
 帰ってきてからすぐ、彼は全身の痛みを訴えた。気を紛らわすことも難しいほど、ベッドをのた打ち回る。先生がすぐさま診察にやって来て、カクトは5箇所以上針を刺された。次々と緊急で先生たちが何人もやって来ては、大丈夫だからね、治るからね、と励ましの言葉を贈った。
 ポケモンカードも彼の意識を繋ぎ止めるには足りなかったが、唯一、ジラーチの『たんざく』だけは、絶対に手放さなかった。どんな辛い目に遭っても、ジラーチに会わない後悔より勝ることはないだろう、と思えるほど強く強く握り締めた。
「ジラーチも闘っている」
 カクトは何遍もそう繰り返した。


*

 
『まもなく、トクサネ宇宙センター、ロケット打ち上げの模様を生中継致します』
 院内にもアナウンスが入る頃、母さんはこくこくと眠りに就いていた。痛み止めで辛うじて意識を保つボクは、母さんの膝を何回か叩く。
 この時ばかりは、ナースセンターの看護師さん、お医者さんも集合して、発射時の立ち込める煙を今か今かと待ちわびる。病室の子たちが、一斉にカウントダウンを始めた。
「にふんまえー!」
 ボクはどこか他人事のように微笑んでいると、ちょん、と母さんに頬をつつかれた。
「見ないと、お父さん悲しんじゃうぞ」
 ボクは出来る限り窓側に体を傾けて、首を伸ばしては引っ込める子たちの合間から、ロケットの先っぽが突き出すのを待つ。
「あ、待って電話だ。もう、お父さんこんな時に!」
 母さんはポケフォンを手に取り、窓の方を見逃さないよう注意する。
「うん。見てるよ、カクトも起きてる。あ、ほらほら! 見て見て!」
 アナウンスやら叫び声やらで、もう何がなんだか分からない。

 トクサネ中の視線が、一箇所に集まる。
 大地が、地響きを奏でる。
 病院ごと、宇宙に連れ去られていくかのよう。瞬きの間に、ロケットは通り過ぎて行った。

 病室の子たちは、うっひょー、すげえー、と甲高く叫びながら興奮している。職員の人たちは、良いものを見られたとしみじみしながら、それぞれの仕事に戻っていく。
 母さんから、はい、と携帯を渡される。病み上がりには結構堪える、ガッシリとした声だ。
『カクト、見たか!?』
「うん。見た」
『このロケットは、宇宙まで飛んでいくぞ』
 数え切れない人たちの努力の結晶が実った歴史的な瞬間だ、と父さんは力説する。
「あのさ」
『どうした?』
「ボク、ジラーチと会った」
『すごいじゃん!』
「やっぱ諦めきれないよ。将来は、ポケモントレーナーになる。絶対なってやるんだ。自分のポケモンをちゃんとゲットして、旅にも出る」
 たとえ、大人になってからでもいい。スタートが人より遅れても、ボクのペースで、ボクの足並みでやっていこう。そしていつか、父さんたちのように、何かを成し遂げたい。
 そう願うことは許されるよね、ジラーチ。
『じゃあ、カクトがどこまでも飛んで行けるように、おとうさんは道を示さないとな』
 電話越しに、父さんがニカッと歯を出して笑ったのが分かる。


*

 7月15日

 退院は結局、ずいぶんと長引いてしまった。お世話になった病院は、宇宙センターに負けないぐらい、高くそびえたつ。また通うことになるけれど、ひとまず帰宅だ。
 母さんは重たい荷物を持ちながら、麦藁帽子を被り、タオルで顔を拭いている。
「カクト。ジラーチの白い岩」
 山道半ばで、白い岩に向かって一礼。キミがもう一度目覚める頃には、ボクはもうこの世にいないと思う。
 でも、ボクには、この短冊があるから。
「行こっか」
「うん」
 ボクは、止めていた足を、一歩前に踏み出した。そうやって、果てしない道を、これからも歩いていく。