telepathy

水ガラス
イラスト
 海が砕ける音がする。風が小さく鳴いていた。カイナシティは広い海水浴場で名の知れた街だけど、そこから少し離れた森の奥、名前も付いていない小さな崖のそば。大人しかった海は途端に五月蝿く喚き出す。

 ノノカもこの景色を「見て」いる。ノノカに連れられ、どんなポケモンがいるかもわからないこんなところにまで入り込んでしまった。まぁ、どんなのが来ても僕が返り討ちにしてやる。

 ふと、ノノカはいつも持っているメモ帳とペンを取り出して、なにかを書いて僕に見せる。

『とてもきれいだね』

 そんなありふれた感想を言うためだけに、わざわざ紙に書き出したのか。だが、彼女にとっては、これしかない。
 僕は静かに相槌を返した。同調以外にもっともっと、いろんなことを伝えたかったけれど、僕にとってもこれが精一杯だった。


 7月は下旬に入り込んで、テッカニンの声も様になってきた。僕とノノカが海の家に戻った時には、男勢は別に普段と変わらなかったけど、ルリに関しては、そりゃあもうなんというか、空気の抜けたプリンっていう具合にぐったりとしていた。この旅行の発案者のクセして、机と同化するくらいほっぺたを押し付けている。

 一番最初にユウトが気付いてこっちに手を振る。決して声を出して呼びはしない。ノノカは狭い店内を周りに気を遣いながら進む。僕もそれに続いた。二、三秒を置いて、ルリも、そしてユウトの隣で黄昏ていたマコトも気付いたらしい。

 ルリが詰めて座り、ノノカはその隣。さらに隣に僕。ノノカが席に着くやいなや、ユウトはペンを出して、自分のメモ用紙に数文字書く。

『何頼む?焼きそばとかあるけど』
『サイコソーダ』

 ノノカはそのメモ用紙に、ユウトのペンでそう書き返した。ユウトは一瞬ノノカの顔を覗く。頷いて、あっちの方の店員さんに向けて声を出す……あぁ、呼んだのか。店員さんも反応している。

「あー、疲れた……今日はもう絶対何もできない」
「まだ12時にもなってねぇぞ。いくらなんでも早すぎじゃないか?」
「だってさぁ……マコトも見てたでしょ、あれ」
「見てた見てた。お前、パラセクトみたいな奇声あげてたよな」
「そこ掘り返さないで……ってかどういう意味よそれ!全く……トレーナーもサメハダーも一生許さない……!」

 マコトとルリが、会話をしている。けど僕には、「何を」話しているかまではわからない。語調的に、ルリがすごいことに巻き込まれたんだろうけれど、さっきまでノノカと一緒に行動していた僕は、海水浴場で何があったかは全然知らない。あとでユウトに教えてもらおっと。

 多分今、ノノカも同じだろうから、ノノカにも教えてあげようかな。

「あっ、そうだ。ノノカは……」

 ルリはそこで止まる。気付いたように、自分用のメモ用紙を出した。

『ノノカちゃんは森の方行ってたんだよね、どうだった?』
『とっても綺麗だったよ。海も砂浜とはちょっと違う感じがした』
『すごい!あたしも後で行ってみようかなぁ〜』

 その『会話』とは別に、ユウトは僕の方を向いている。頭の方に手を伸ばしてきたので僕は机に乗り出す。

「ガー公も楽しかったか?」
「わぁん!」

 こうやって、ノノカの気まぐれ散歩の後には恒例がある。僕のリサーチでは、この頭なでなでと声かけは、ノノカが危ない目に遭わないように僕が守っていたかどうかを聞いているのだと思う。でも当然だとも!僕はノノカの『チューケン』なのだからな!人間のモジだってそのために勉強したのだからな!
 それよりもっと撫でろ!できれば顎!顎お願いします!

 店員さんが来たのでユウトは手を引っ込めた。僕も首を引っ込めた。

 ユウト、ルリ、マコトの分はあらかじめ聞いてたらしく、スラスラと注文を行う。

 ノノカが僕にメモを見せる。

『焼きそば、いい匂いだね』

 ふむ、さっきからいい匂いが店の中を歩き回っていて気になっていたけど、隣の席のあれが原因か。美味しそうだ。あれを食べたら当分ポケモンフーズは食べられないかもしれない。
 僕は強く頷いた。ちょっと食べたいかもしれないことも目で訴える。
 ノノカは僕のオーダーに気づいてくれたようにうんと応えた。

 しばらくして、テーブルには2瓶のサイコソーダと2皿の焼きそばが運ばれて来た。

「うっひゃ〜!超美味しそう!」
「……太るな」
「うっさい!」

 マコトのほっぺたをルリが引っ張る。マコトはこれだから女にモテないのだ。かわいそうに。
 まだ朝10時を過ぎたくらいだからか、ノノカとマコトはお腹は空いてないらしい。朝ごはんも食べたからね。お昼になったら食べるつもりなのかな。
 サイコソーダの瓶の蓋を開けたら、しゅわしゅわの泡が入道雲みたいに立ち上る。一口飲んだノノカは、炭酸の、あの鼻に抜けるピリピリ感を楽しんでいる。僕は一度もらって懲りたけど、人間は辛いものといい、あーゆーものも好きになれるのは凄いと思う。
 マコトも、なんか似たような反応をしていた。柄にもなく幸せそうな顔をしているところを、隣のユウトに面白いもののように見られている。

 さぁ、ところでですよノノカさん。僕は焼きそばが食べたいのです。この甘い香りにふさわしき旨さがあるかは、僕がこの舌で確かめねばならぬと思うのです。

 ノノカは僕の方を見て、ハッと気付いた様子。手で「ちょっと待ってて」というジェスチャーの後、周りのみんなをジロジロと見た。
 焼きそばはルリとユウトが頼んでるから、どちらかから分け前をもらうことになる。ノノカはすこし困った表情をしてしまった。ルリの方はテレビでやってる食レポよりも美味しそうに食べてるし、ユウトは……頼みにくい気持ちも分かるかもしれない。
 これはせがんだ僕も反省案件かな……。二人は食べてる最中だし、メモを見せるのも憚られるのかも。

「ん?ノノカちゃんやっぱ食べたいの?」

 ルリが気の利いた言葉を投げかける!けどそうじゃない!食べたいのは僕なのだ!あぁー、ほら、また困り顔に……。
 ノノカ、もう大丈夫。僕は匂いで我慢するから……。
 困り顔が伝染(うつ)ってルリもてんやわんやだ。

「ガー公、一口いるか?」

 おおっ、ユウト流石!気がきくなー!

「わん!」

 やっぱりモテる系の男は違う!チラッとノノカに目配せを送っている。ノノカも気づいてもらえてホッとしているみたいだ。
 僕は持って来てくれた紙皿の上に乗せられた焼きそば見つめる。ソースの匂いがこんな近くに……もうたまらん!急かされてるわけでもないのに早く早くと口に運ぶ。

 ……熱っ、熱っ、……!

 ……これはっ!美味い!
 お肉の柔らかさと玉ねぎのシャキシャキが癖になりそうだ。幸せな気分……これでポケ豆があれば完璧。

 ユウトにも、もちろんノノカにも、後でお礼を言わなきゃだ。そう思いながらノノカの顔を見たら、すこし辛そうな顔をしてた。炭酸、そんなにピリピリしたのかなぁ。

 そこから、僕たちは12時を過ぎたくらいまでまた思う存分遊ぶことになった。ルリに関しては、さっきまであんなにへばってたのに、焼きそばを補充して完全回復していた。ユウトから教えてもらったけれど、サメハダーはさすがに怖いと思う。

 遊ぶと言っても、水着を着て海に入るくらいなものだ。ノノカは、何か遠慮したらしく浜辺のパラソルの中でみんなのことを見守っている。ついでに僕も見守り組だ。これは水が嫌いだからというわけではなく、ノノカを守るため。致し方なしなのだ。
 嫌いだけど。

 ノノカはさっきのサイコソーダの残りを持ってきてて、時折飲んでいる。炭酸はもう結構抜けてしまってるみたいだけど、それでも甘さを楽しんでいるみたいだ。


 ビーチボールを顔面にくらったマコトが日陰に逃げに来た。ルリのあのボールには明らかな殺意がこもっていた気がする。

 濡れた体から海水がポタポタと垂れる。ノノカのことをまるで見ようとしない。……いや、チラチラと様子を確認しているな、これは。

「……なぁ」

 マコトはついにノノカに話しかける。ノノカはユウトのスーパーキャッチに気を取られて気づけない。あれはすごい。バシャーモもびっくりのジャンプだ。

 マコトは僕の方を見た。指でノノカを指して、意図を示す。
 はいはい。

 僕はノノカの膝をポンポン、と叩く。

 ノノカが反応したので、前足でマコトの方を指した。
 マコトはノノカの方をじっと見ている。ノノカは戸惑った。こんな場所じゃメモで会話ができない。メモでできなくても手段はあるのだけれど___

「……んと……」

 マコトは両手を顔の前に持って来て、そこからどうすればいいのか分からないように顔をしかめていた。
 手話がやりたいのだな。

「えっと……」

 結局、如何にもこうにも分からなかったらしく、ノノカ、マコト、海の方を順に人差し指で指して終わった。何がしたいんだこいつ。

 ノノカは分からないらしく、苦笑いでそれを示している。誰だってそうなる。意味不明だ。
 マコトはそれを見て頭をぐしゃぐしゃっとかきむしった。そして、途端に急に悩み出す。
 だからマコトも早く手話を覚えるべきだと思っていたんだ。ルリでさえ形の上ではある程度できるのに、なんでこいつだけ物覚えが悪いかなぁー。かくいう僕も全然わからないのだけども。

 マコトは、決心したようにノノカの方を見た。そして、おずおずと手をノノカに近づける。何を……。
 その時、僕はチラとやな予感がした。『これは、ノノカに迫る危機かもしれないぞ』と警告アラームが鳴り響く。やばいっ!

「わんっ!わんっ!」

 吠えられたマコトは決まり悪そうに手を引っ込めた。そう、それでいい。ふふん、お前の好きにはさせないぞ。マコト手は、あと少しでノノカの手に触れそうなくらいのところまで近づいていた。

 マコトは諦めてまた海の方を眺めた。ノノカは終始何がどうだかわからなかったらしく、腑に落ちない顔で膝を抱えた。
 その顔は少し寂しそうにも見えた。今度はむしろ、ソーダのピリピリが恋しくなったのかもしれない。

 少ししてから、ノノカはマコトの方を向いて、肩をつついた。

「うぉっ!?」

 驚いた様が無様だ。マコトは顔を赤くしている。今度はノノカから話がしたいらしい。

 ノノカは、手話が伝わらないこの状況なので、砂浜に文字を書く。マコトはどうしてこれが思いつかなかったのだろう。

『また森に散歩に行ってきます』

『一人で行ってくるけど、遠くまでは行かないので大丈夫です』

 砂浜から見る海より森から眺める海の方が気に入ったのかもしれない。

 マコトは、ノノカの文字に合わせて、下に。

『分かった。気をつけてな』

 と書き添えた。

 ノノカは立ち上がると、僕の頭を撫でた。僕もなしで行きたいみたいだ。ノノカの気まぐれ散歩には、たまにそんなことがある。一人だけだと、僕に気を遣わずに歩けるからいいのだろうか。

 ノノカはゆっくりと海水浴場から遠ざかっていく。その姿は少しずつ小さくなって、やがて人の群れとパラソルに紛れて消えた。


 マコトはまだ動かない。さっさとリベンジを仕掛ければいいものを、またルリの『きあいだま』を受けるのではないかと思ってか一歩も動かない。

「なぁ、ガー公」

 音の聞こえる僕は反応できる。

「あいつら二人って、なんかお似合いだよな」

 けど、何を行っているのかはわからない。一応、『ガー公』と名前を呼ばれたことだけはわかる。

「わんっ」

 相槌だけ打っておこう。
 大きい沈黙が続く。子供や大人がはしゃぐ声が、その間だけやけによく聞こえた。潮の引く音もよく聞こえた。キャモメの鳴く音も、これもよく聞こえた。

「あのな、ガー公」

 もう一度僕に話しかけているみたいだ。

「子供の頃、ノノカが入院したときのことって覚えてるか」

「信号無視の車に轢かれたって、あったじゃん。あの時さ、ノノカ、頭に包帯をぐるぐる巻いて、口になんかマスクみたいなもんつけててさ……俺怖かったんだ」

「生まれて初めて、『人が死ぬんじゃないか』って思った。しかも、ノノカが何かしたわけでもなかったのに」

「酷いと思った。けど、よく考えりゃ、きっと俺のせいなんだ。あれは」

「俺な、どうすりゃいいのか分かんなかったんだよ。生まれつき耳が聞こえないってどんな気分なのか、怖いことなのかもとは思えるんだけど、でも分かんなくてさ……」

 多分ノノカのことを言っている。想い出を話しているような……自分の悩みを言っているような……マコトは、自信がないときはいつも、そんなあやふやな話し方をする。

「だから何もできなかった。何かしてやれなかった。もっとこう、ノノカの周りに気を遣ってあげられたかもしれない、何かしてやれたかもしれないって。ずっとそればっかで」

「俺らがワイワイ話してるのも、あいつには聞こえ出ないんだろ?それってめちゃくちゃ寂しいと思うんだ」

「でも俺、何してやればいいのか分かんねぇ。手話だって、日常会話はまともにできねぇーし」

 そういえば、マコトはいつも寂しそうにしているノノカを、何度も、申し訳なさそうに見ていた。こいつなりにノノカのことをいろいろ考えてたんだろう。そのことについてかもしれない。

「なのにあいつ、俺に何も言ってこねぇし、むしろニコニコ笑ってて……それ見てるだけで、なんか悪いことしてる気分になってさ」

「でも、俺の方から一方的に気を遣ったら、それこそノノカに迷惑だろ?だから、なにをしてあげりゃいいのか分かんないんだ。聞いても、何にも言ってくれないんだ」

「どうして、たかが耳が聞こえないだけで……こんなに気持ちもまともに伝えられなくなっちまうんだろうな……」

 僕の頭を撫でる。自分が無力で仕方ない、って顔をしていた。それが歯がゆいって顔もしてた。

 イラッときた。僕はノノカのためになりたい。その気持ちはマコトと変わらない。だけど、こいつの方が、ノノカにできるたくさんあるはずだ。何しろ、マコトは人間だ。ポケモンと人間で難しいコミュニケーションを、僕はそれなりに頑張ってるのに、人間同士のコミュニケーションに、何でそこまで悩んでいるんだ。
 役立たずだと自分を僻むような声で話すんじゃない。やろうと思えばやれることはあるだろうに。

「わんっ!わんっ!ぐるる……」

 僕は腹を立てて吠えた。そんなにノノカのことばっか考えるくらい大事に思ってるなら、たとえ迷惑だと思われてでも気遣えばいいじゃないか。いっぱい考えて、いっぱい話をして、いっぱいノノカを笑わせてみろ。この意気地なしが。

「……だよな。あぁーあ、だらしねぇ。こんなことをガー公ごときに相談していた俺が情けない。やるべきことはわかってんだもんな、ぐずぐずと燻ってばっかじゃおれらしくもない。伝えたいこと、きちんと伝えなきゃな」

 少し声の調子がいつものに戻った。自信を取り戻したらしい。まぁこいつがしんみりしてる姿なんてそう長く見たくもない。こいつはふてくされつつも元気があるのがいいのだ。分かったならあっち行け!『きあいだま』の一つや二つ受けて来い!

 小さな悩みの雲が、マコトの口から全て吐き出されて、ふわふわと空の彼方へのぼっていった。それと関係はあるのか何なのか、雲行きが少しずつ悪くなっていたらしく、空は薄暗い灰色に覆われていた。ピチャリと音がし始めた頃に、ようやく天気が変わったことに気づいた。



「今日という日をこれほど呪ったことってないわ!」
「近場でカイオーガでも出たんだろ」
「なるほど」
「なるほどじゃないでしょ!早く海の家に雨宿り!」

 ノノカいわく、ユウトのポケナビでは今日は一日中晴れと天気予報で言っていた筈だ。唐突に天気が変わるのは、まぁそう珍しいことでもない。どこかでトレーナーがバトルしてたら、急に晴れたり急に雨が降ったりなんてことはしばしばある。

「マコト、ノノカは?」
「あぁ、森の方にもう一度行くってそれっきりだ。俺、ちょっと探してくるよ」
「服は?」
「シャツ適当に羽織るだけでいい。すぐ戻るから、ユウトとルリは待っててくれ」
「わかった。気をつけて」
「おう」

 海の家についた。マコトはアロハシャツを上から羽織ると、すぐさま、一人だけで海の家を出て行く。つまり……。

「わんっ!」
「ガー公……オッケー。一緒に探すぞ」

 タッタッと、迷いなくマコトについて行く。マコトじゃ多分、ノノカのいるところは分からないだろう。だけど、僕ならだいたいわかる。



「ガー公はあっちを頼む!」
「わんっ!わんっ!」
「あぁ、気をつける!心配するな」

 僕についてこい!って伝えたつもりだけど、やっぱり通じないなぁ……。仕方ない。
 雨が降っているせいか、森はさらに視界が悪い。日が差してた頃に比べて一層地面が暗く、水たまりもできつつある。雨も容赦なく降っている。炎タイプにはかなり手厳しい。

 匂いと記憶を頼りに森をずんずん進む。落ちていた枝を降り、草の根をかき分けて、行くと、じきに遠くに薄暗い海が見え始める。道は間違えてなかったらしい。同じような、うるさい海が見えた。
 それにつれて、聞こえるものがあった。不思議にも思いながら近づいて行く。



 雨は少し激しくなった。波の水しぶきと、木の葉の擦れる音も、その聞こえるものを少しずつかき消すが、確かに僕の耳には聞こえてくる。

 泣いていた。ノノカが泣いていた。さっき、僕と一緒にあの景色をみた崖の近く、一本の木の近くに腰を下ろして泣いていた。

 今にも消えそうなか細い声の嗚咽をあげていた。

 何がどういうことかわからなかった。僕には最初、ノノカの泣く理由が全然理解できなかった。

 歩いていた足が止まる。道に迷って心細いとか、雨が降って帰れないとか、そんな涙じゃないことは直感でわかった。

 頭が記憶を整理して、今日のノノカの顔を思い出して行く。状況を飲み込んで、飲み込んで、いよいよ僕は理解り始めた。

 ノノカは「ずっと」寂しかったのだ。森にいても、海のにいても、浜辺にいても。なぜ今更になって気づいたんだろう。


 ノノカの性格はみんなよく分かっていた。人に優しく、誰かに頼るのが苦手で、気を遣わせてしまうのを申し訳なく感じてしまう。つらくてつらくて泣きそうでも、周りに迷惑だけはかけたくない。
 ユウトとルリに、普段は筆談で話をするよう頼んだのはノノカだ。マコトを仲間はずれにしたくなかったのだ。
 けれど、それのせいで、少しだけ自分が仲間はずれになることは増えた。
 ノノカは気にしてないと文字で教えてくれた。その文字は強がり嘘だったのかもしれない。

 人に気を遣いすぎて遣いすぎて、ノノカの心はどんどん心がすり減っていた。ノイローゼ……っていうやつなのかもしれない。一人で苦しんでいたのに、僕は全然気付いてあげられなかった。


 ノノカの頬からは、暗い雲を溶かし、燻んだ銀の欠片のようになった水滴が、自重で次々降りていく。
 僕はそれを、黙って見ていることしかできなかった。僕だって、何もできないんだ。
 ノノカと一緒で話ができない。
 ノノカと一緒で言葉が分からない。
 ノノカと一緒で気持ちが伝えられない。
 これだけノノカと一緒なのに、僕はノノカの気持ちも分かっていなかった。
 同調以上のことを今まで全然できていなかった。マコトと一緒で、何もできなかった。

 草を分ける音には気づけなかった。マコトには、こいつがノノカの隣に座った時に初めて気がついた。

 マコトは、ノノカの手を握った。ノノカはここで気がついたらしい。マコトは、ここまで来ておいて、すこし気恥ずかしそうに、目線だけはそらしている。

「……ごめん。その……俺、人の気持ちとか、鈍いから全然わかんねぇーんだ」

 語り出した。聞こえもしないのに。誰もその言葉は分からないのに。

「幼稚園のころ、初めてノノカに会ってさ、先生に、障害で耳が聞こえないって言われて、びっくりしたんだ」

「俺、その時からずっと、生まれた時から耳が聞こえないってどんな気分なのかってずっと考えて来たんだよ。子供の頃とかだと、耳栓とかしてさ……でもあれ、なんかちょっとだけ聞こえるんだよな」

「何も聞こえない……目を閉じていたら何も分からない……そんなのが生まれた時から当たり前でずっと続いているなんて思うと、ゾッとした」

「結局、どんなものか分かりようもなかったんだ。どんな気持ちでノノカが今まで生きてきたのかとか、俺が見てる世界をノノカにはどう見えてるのかとか」

「だけど、俺は知りたいんだ。知ろうとするのをやめちゃいけねぇと思うんだ」

「何年も考えてこれなら、この先、一生考えたって答えは出ねぇかもしれねぇ。けど、分かってやりたいんだ」

「いつもいつも、ノノカが何かを伝えたがってる気がして、俺がそれに気づいてあげなきゃって……」

「だから……その……聞かせてくれ!」

 マコトは、ようやくノノカの目を見た。

「難しい言葉は要らないんだ」

「そこに思いがあって、伝えたい気持ちがあったらお前はいつだってそれを形にすればいい」

「思い通りにならなくて悩むことだって、うまく言葉にできなくて苦しむこともある」

「それでも俺は教えてほしい」

 手を握り、前のめりになる。髪に乗った雫が跳ねた。

「お前だけが知ってる世界で、取るにも足りない小言も愚痴も、俺はいくらだって聞いていたい」

「だから聞かせてくれ!お前の話を聞かせてくれ!」

「俺が好きなお前の思いを、もっともっと俺に話してくれ!」

 マコトの言葉が……特に最後の言葉が、ノノカには聞こえているかのように見えた。その瞬間だけ、森の時間が止まったように長かった。

「って……俺の渾身の告白も聞こえてないんだよな……あはは……」

 って、こいつは付け足して自嘲気味に頭をかいた。また目を逸らしてしまう。こいつの悪い癖は、最後までちゃんとできないことだ。

 ノノカは、それからマコトにギュッと抱きついた。

「えっ、ちょっ……ど、どうした!?」

 マコトは急なことで動揺している。鈍感め。ノノカは何も言わない。何も言えない。けれど、強く抱きしめていた。しばらくして、ノノカの腕から解放されたマコトは、顔を真っ赤にして呆然としている。
 ノノカは、土色の、雨で柔らかくなりつつある地面に指で文字を書く。

『これが私のきもち』

 たった8文字に、それこそあふれ返るほどの意味が込められていた。


 海の家に戻った。ノノカの希望で、戻るまでノノカはマコトに手を繋いでもらった。それを見られて、待ち人2名に茶化されたマコトの姿は、海の家に着く前に予想できた。

 雨が強くなりつつある。僕らは止むを得ず、まだ2時半くらいらしいけど帰ることになった。最後まで粘ったのはルリで、「トランプあるから七並べとか神経衰弱とかやって止むの待とう!」って内容を話してたらしい。お泊まり会じゃないんだぞ。予報じゃ夜まで雨だってポケナビで言ってるって話を聞いて引き下がったらしい。

 3人は水着を、ノノカは濡れた服を着替えて、荷物をワゴン車に詰め込んだ。


 海水浴場を離れる前に、ノノカはマコトの袖を引っ張って、売店のキーホルダーを恥ずかしそうに指差した。

「なぁ、ノノカがお土産買うらしいからちょっと待っててくれないか?」
「あっ、私も買う買う!」

 ミロカロスの可愛いやつを選んで買っていた。ルリはサメハダーのデザインの入った帽子を買っていた。人間って、半日経てば怖さを忘れるものなのか。

 お土産を買い終えてからはそのまま帰宅。まだ夕方にもなっていない分だけ、あって、そこまで疲れているわけでもなかった。ワゴン車は、カイナシティの市街を10分、20分と通り過ぎ、110番道路へと入ってゆく。波音はどんどん遠ざかっていた。

「うっわー、騙されたぁーっ!」
「どうした」

 運転席と助手席で話が始まる。多分またルリが何かやらかした。

「ほらこれ!夜どころかお昼の3時には止むんだってさ!雨!」
「よくあることだよ。天気予報なんてそんなものだと思うけど」
「だとしてもさすがにこれはないってー……あぁーもうっ!やっぱ大富豪しとけば良かったー……損したー」
「仮に止むと知っててもトランプして海の家に居座るのはどうかしてるだろ」

 助手席側はふてくされたようにポケナビをいじる。

「あっ、じゃあさじゃあさ、明日はどこ行くか決めようっ!もっかい海とか?あっ、ムロの方とかどう?」
「俺は、海はもういい。自然の空気は十分吸えた気がするし」
「僕もいいや、せっかくなら他のところも回りたい」
「なぁーっ!一斉に反対とかっ!ノノカちゃんは海もう一度行きたいよね!」

 助手席側はこちらを振り返る。
 マコトは質問内容をメモ用紙に書いてノノカに見せる。ノノカはそれに返事を書いた。

「ノーだってさ。今度はえんとつ山の方に行きたいんだと」
「そんなぁー……でもえんとつ山だと灰被っちゃわない?」
「海でも潮風とかで結局だろ」


 そんな会話をしながらも、ワゴン車は110番道路を超えていく。ホテルはキンセツシティでとってあるらしい。きのみの畑が遠巻きに見えた。

 ヒメリ……タポル……オボン畑が見えたところで、雨雲の中から光の筋がチラチラと差し始める。

 そこからは、驚くくらい早く、雲が消えていった。



 虹だ。
 虹が「見える」。

 僕が窓にひと鳴きしたら、みんなそっちを見た。

「……おっ、でかしたなガー公」

 車は減速して、路肩に止まった。みんな車から降りて、空にかかった大きな橋をみる。

 遠景の入道雲が、サイコソーダの泡みたいにしゅわしゅわと膨らんでいる。きのみ畑は、葉に溜めた雨水が陽の光を反射しているらしく、キラキラと宝石のように光る。
 きっと、こんな景色はここにしかない。どんなに高い山にも、どんなに深い海にも、この輝きは作れない。


 ノノカはまた、メモ帳とペンを取り出して、なにかを書いて僕に見せてくれた。

『すっごくきれいだね!』

 そんなありふれた感想を言うためだけに、わざわざ紙に書き出したのか。けれど、紙面いっぱいに書かれた文字には、彼女の目いっぱいの気持ちがこもっている。

 僕は一言鳴き、頷いた。
 同調以外のことはいつか伝えられるようになりたい。だから今は、今の精一杯を伝えよう。