Butcher

Midnight Axxxxl
「波音」「マスク」「神経衰弱」
この作品はR-15指定です
 ―― XX:XX:XX ――

「おやおや、かわいそうに……今時、無理心中かねぇ?」

 波音に紛れて、僅かながら聞こえてきた泣き声を頼りに歩み寄った老人は『それ』を見て深々と溜め息を吐いた。真っ暗闇で常人には見えにくいが、老人の両手はぬらぬらと、鮮やかな赤に塗れている。今しがた仕事を終えたばかりで、家に帰ろうとしていた最中でのことだった。

「浮浪者にしちゃあ、綺麗な服着ているところからすると……大方悪い男に捨てられて、身を投げようとしたってところかね?全く、どこの誰だか知らないが、命を粗末にするのはいただけないね。しかも赤ん坊まで道連れにしようとは、ちっとも褒められたものじゃあない」

 青白く、目を閉じた娘の腕に抱かれながら泣いていた小さな赤ん坊を取り上げても、娘は老人に何も言わない。否、言いたくても言えないのだ。娘の命は、老人が歩み寄るずっと前に事切れていたのだから。

「おお、よしよし、よしよし。生まれたばかりだっていうのに、こんなところに置いていかれて……お前さんも大変だったねえ。老い先短いと思っていたが、人生、何が起きるか分からないからこそ面白い。偶にはふらっと寄り道するのも、なかなか悪くはないもんだ」

 未だ泣き声を上げる赤ん坊を抱えつつ、老人は懐から一つのボールを取り出す。そこから現れたベトベトンは、今日の仕事が終わったにもかかわらず再び呼び出されたことに最初不機嫌な様子を見せていたが、横たわる娘に気付くとすぐさま目の色を変えた。

「これで少しは、腹の足しにもなるだろう。折角の『食事』だ。残すなよ?」

 老人に促されるより早く、爛々と目を輝かせたベトベトンがもの言わぬ娘に覆い被さる。その直後、じゅう、と溶けていく音が闇夜に響いたが、運良くそれに気付けた者はいない。誰もが寝静まっている頃、やがて咀嚼し尽くしたベトベトンが体を動かすと、そこには骨のひとかけらも残されていなかった。地面には猛毒の体液が染みこんでいるばかりで、よほど頭の足りない愚か者でもなければ当分は近寄ってくることもないだろう。

「あんたが要らない命なら、儂がありがたく貰ってやるよぉ……ひひっ、ひひひっ!」

 老人はただ一人、まるで悪魔のように嗤い狂っていた。






 ―― 06:06:06 ――

 ……なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
 椅子に縛りつけられた男は、心の中で憤怒と恐怖が綯交ぜになりながらもぎりぎり発狂するまでには至らず、何度も身を捩っていた。気がついた時には頭から何か被せられているのか、視界は狭く、顔面も全体が汗でじっとりと湿っている大変不愉快な状況にあった。
 誰が、何のために自分をこのような目に遭わせているのか?
 見当もつかないが、とにかく犯人と顔を合わせたらどうにかしてやらなければ気が済まない。鼻息荒く、理不尽な仕打ちに対する苛立ちから昂っていると、視界の片隅で一瞬何か動いたのが見えた。

「ぐえっ、……ひ、ひいぃっ?!!」

 何者かによって、乱暴に被せられていたガスマスクを外された拍子に怒鳴ろうとした男の目に映ったのは、大量のベトベトンが部屋中を埋め尽くしている地獄染みた光景だった。ヘドロをとことん煮詰めたような、汚臭以上の何かが充満している部屋の空気を吸ってしまった男は涙目で咳き込む行為に精一杯で、自分のすぐ隣に立つ者の正体を突き止めることもままならない。

「おやおや。今日の獲物は随分と、活きがいいようですねえ」

 軽やかな声につられて顔を向ければ、この異常事態にもかかわらず動揺すらしていない、人間らしきものが立っていた。中性的な顔立ちに体の線が極力出ない、緩めの服装をしていることもあって性別の判断はつかない。しかし、そんな些事など今の男にとってはどうでもよく、みるみる内に頭に血が上っていく。

「だっ、誰だ、てめぇは!」
「人に誰か尋ねる時は、自分から名乗るのが世間の常識なんでしょう?とはいえ、わたくしはあなたのことを既に知っている身。今更、自己紹介も不要ではございますが」

 男の頭に、少なくともこの人間に関する記憶は一切ない。
 そもそも、お互い呑気に自己紹介などしている場合でもないだろうと再び怒鳴り散らそうとしたところで、男の背中に悪寒が走った。隣の人間は、自分に向けてどこか薄ら寒くなる笑みを浮かべていたからだ。

「な、何だよ……おまえっ、一体、何が目的なんだよぉっ?!」

 わけが分からなくなった男は、半狂乱になりながら叫び声を浴びせるが然して何の効果もなく、相手はにたにたと笑いながら突如ガスマスクを投げ捨てた。宙を舞ったそれは地面に到達する前にベトベトンたちが奪い合い、その内彼らの体液に消化されて跡形もなくなってしまう。いよいよ、男の身体は恐怖から小刻みに震える。覚えていたはずの怒りも忘れ、これから自分がどうなってしまうのか、考えたくもないのに考えてしまう。

「恐喝、窃盗に飽き足らず。必死に許しを乞うた者に、憂さ晴らしの暴力を振るい続けたあなたは……何と罪深き、生命か」

 悲痛な声を滲ませて、相手が片手を掲げた。その手には、鈍く輝きを放つ肉斬り包丁が握られている。
 堪らず男は悲鳴を上げるが、それを聞きつけて助けに来てくれるような者は現れない。

「良心を手放したあなたは、もはや、人間の皮を被ったけだものに過ぎない。人にもポケモンにも満たぬ畜生を、この手で屠る……これこそ、わたくしが敬愛する師より受け継いだ、大切な仕事なのです」
「ひぃっ……!!」
「はて、何を驚いているのです?あなたはこれまで、たくさんの命に残虐な真似をしてきたではありませんか」
「し、ししっ、知らないっ!お、おっ、俺は、何もっ!!」
「まあ、……あなたは、まだ持った方ですよ。このやり方だと、大抵の獲物は極度の神経衰弱を経て、わたくしと口も利いてくれなくなるのです。けだものとは、喚き立てるものでしょうにねえ?最も、わたくしは仕事仲間である彼らと長年過ごしてまいりましたので、彼らの体臭について多少耐性があるようですが」

 ぴたり、と頬に刃物を押し当てられた男の顔が一気に青褪める。それとは対照的に、刃物を握っている当の本人はうっそりと微笑みながら、男の方へと歩み寄る。
 男は逃げられない。逃げ出すことも赦されていない。

「世間から見れば、わたくしが師から受け継いだこの仕事は決して理解されないものでしょう。それでも構いません。誰かからの理解なんて、師も、わたくしも、最初から求めておりませんから」
「ま、待てっ、待ってくれぇ!おっ、お、おお俺には、まだ、やり残したことがっ、」
「ああ、……かわいそうな児。元は少なからず在った良心も、あなたがこうまで罪を重ね続けた今や、戻ってはこないでしょう。わたくしも心から残念でなりません。ねえ、分かるでしょう?苛む苦痛から解き放ってさしあげたいのですよ、わたくしは」

 男の頬から一旦離された肉斬り包丁が、今なお微笑みを絶やさない何者かの手で握りなおされる。そして遂に切っ先が向けられ、男はかつて自らが虐げた誰かと同じく、涙を流しながら必死に命乞いをしはじめた。

「た、たたっ、た、たすっ、たすけ、」
「あは、あははははっ。ここにきて、どの口がそんなことを言っているのですか?」

 男の願いは届かない。
 なぜならば、ここに存在するのは悪魔のように嘲う何者かだけなのだから。

「そう怖がらなくても、大丈夫。『下処理』は、すぐに終わりますから……ね?」






 ―― 00:00:00 ――

 そうして振り下ろされた刃に、また新しく、血飛沫が舞った。