無数の星の中で

ストーリーテラーK
「波音」「マスク」「神経衰弱」


 ☆


 海水を含んだ砂粒がはじける。うっかり口に入れてしまって、ペッと吐き出したところに星が飛んできた。なんとか両手で受け止めたものの、勢いに押されて尻から後ろに倒れた。海水がズボンにもパンツにも染みてきてケツが冷たい。ひええ、不快。
「あははは、蓮のばーか。尻もちついてやんの」
「くっそ、やったなあ」
 おれは飛んできたヒトデマンともう一体近くで寝そべっていたヒトデマンをそれぞれ掴んで京太に投げ返した。必殺のスピードスター(物理こうげき)だ!
 しかし寝ていたほうは動きが鈍くて京太まで届かない。べしゃ、と砂の上に落ちるとずぶぶぶんと潜ってしまった。残った一体(こっちはむしろノリがよくて、ずっとおれたちに付き合ってくれている)も京太に簡単にキャッチされてしまった。
「あ、砂が目に入った」
 よし、今のうちだ。京太が投げてこないうちに新しいヒトデマンを探す。いない。
「ああもう、メノクラゲでいいや」
 潮の浅いところで身動きが取れなくなっていたメノクラゲを見つけて、持ち上げようと手を伸ばす。だけど触ったら刺されそうな気がして躊躇した。
「え、メノクラゲ? やだ、やだ、そんなの投げないで!」
 京太が目を瞑ったままあらぬ方向にヒトデマンを投げつけた。ノリノリで高速回転しながらヒトデマンが飛んでいった先には、知らない男の人がいた。

「ごめんなさい……」
「いいんだよ、僕は大丈夫だ」
 京太の投げたヒトデマンは、男の人には当たらなかったが、近くに置いてあった画材にそれなりの被害を与えた。その人は絵を描いていたのだ。
「あれ、ヒトデマンは」
 一緒に謝っていたはずのヒトデマンはいつの間にか海に向かって走り出していた。星型の生き物が不便そうな脚で逃げていく姿は、ちょっとギャグだ。
「あいつ、陸を走れたのか」
「はは、今度は走るヒトデマンでも描こうかな」
「そういえば、おにーさん、何描いてたの」
 京太が聞くと男の人はキャンバスを見せてくれた。そこにはミナモシティの空と海と砂浜、そしてヒトデマンを投げ合うおれたちが描かれていた。絵の中からおれたちの声やヒトデマンの飛ぶ音なんかが聴こえてきそうだった。
「すげえ! プロい!」
「まあ、プロだからね」
 後で知ったことだけど、男の人――玲司さんはホウエン地方で今、一番有名な画家だった。主にポケモンコンテストで活躍したポケモンを描いていて、この人の存在もあって、ミナモシティのコンテストに出たがる人も多いのだとか。
「美術館に僕の絵が展示されてるんだ。よかったら見に来るかい」
「行く行く!」
 デパートで買い物中だった母親二人を呼び出して(なんでこんなに泥だらけなの! と二人揃って怒られて)一旦ホテルに戻って着替えてから美術館に向かった。
 おれたち――正確には母親たち――は明日から三日間開催されるポケモンコンテストを観に、ミナモシティに来ていたのだった。父親たちはハジツゲタウンで留守番。おれも京太もコンテストにはそんなに興味がないから、明日も泥んこのヒトデマン合戦と相成ることだろう。
 美術館の前で玲司さんと会うと、母親たちは目を白黒させて恐縮した。

 美術館に入るとまず玲司さんの作品を探した。が、見つからない。
「ねえねえ、玲司さんの絵はどこ」
「こらっ京太。行儀よくしてなさい。こういうところで大きな声出さないの」
 京太の母親が声を潜めて早口で叱る。仕方ないな、と玲司さんは笑って、おれと京太だけ先に行かせてくれた。玲司さんは勝手知ったる様子で順路と書かれたプレートを無視して、隠された扉を開いて、立入禁止の階段を上り下りして、控えめな照明の下を先へ先へと進んでいく。特別扱いされている感じと、秘密基地を冒険しているみたいな感じがしてわくわくした。
 途中でいきなり目の前に大きな絵が現れた。玲司さんが立ち止まったので、おれたちも倣ってその絵を見た。
 暗闇の中で、泉を覗き込む男。景色は何も見えなくて、男だけが闇に浮かび上がるようだった。男は暗い水面に映る像をじっと見つめている。男の存在感のせいだろうか、なぜか惹かれるものがあってその絵から目を離せない。
「泉に映った自分に恋してしまう呪いをかけられた、美しい少年の神話を描いたものだよ」
 静かな口調で玲司さんが解説してくれる。
「決して触れられない美少年に焦がれ続けて神経衰弱に陥ったとか、抱き締めようとして溺れてしまったとかいわれている、悲しいお話さ」
 水中の自分自身と目を合わせている男の表情が切なそうに見えた。京太が「玲司さんが描いたの」と聞くと、とんでもないと首を振った。
「四百年くらい昔の画家のものだよ。ここは特に人気のコーナーなんだ」
 そこにはその画家の作品が集められていた。泉の男の絵のほかにも、対象にパッと光を当てたみたいな、登場人物がリアルに描かれている作品がたくさんあった。背景は暗いものが多いけど、人物が――特に人の肌が明るいから、なんだか体温を感じる、不思議な絵ばかりだった。
「なんか、迫力あるな」
 つぶやくと、うん、と京太が頷いた。
「この画家の絵がわかるのか。君たちはいい子だな」
 突然わしわしと頭を撫でられてびっくりした。玲司さんはとても嬉しそうだった。
 そこだけ順路通りに歩いていくと、途中で古いノートが展示されていた。京太と一緒にガラスケースに貼りついて読もうとしたけど、外国の文字がびっしりでとてもだめだった。
「これ、何のノート」
「それは……その画家が、警察や裁判所にお世話になった記録だ」
「警察?」
「裁判所?」
 乱暴者だったんだ、と玲司さんは言った。諍いや乱闘騒ぎを何度も起こして、何度も捕まって。やがて人殺しまでして果てには死刑を言い渡された。だけど逃亡中でさえ、絵を描くことはやめなかった――凄まじい人生を送っていた人なんだ。
「へえ、ドラマみたい」
「そうだね。そんなエピソードもあって、この画家は世界中で人気があるんだ。映画が作られたり、お金の肖像になったりね」
 さっきの、見ているこっちがぎゅっと切なくなるような泉の男の絵が、人を殴ったり傷つけたりしたのと同じ手によって生み出されたものだなんて、信じられない。振り返ってもう一度作品たちを眺めてみると、一点一点に赤黒い魂みたいなものが宿っていて、今にもこちらに迫ってくるような、そんな感覚に陥った。

 さらに少し歩くと照明が一気に明るくなって、空間がぐんと広くなった気がした。そこから先が玲司さんのエリアだった。
「あ、おーばこーすけ」
 急に大きな声を出した京太の口を塞ぐ。京太はふがっむがっと少し暴れた。ちょっとそこら辺にはいないような綺麗な男と凛々しいポケモンの絵だった。大羽浩介とミロカロスのカラだ。
 このペアのことはコンテストに詳しくないおれと京太でもよく知っている。そもそも遠路はるばるミナモシティまでやってきた最大の目的は、この大羽浩介とカラだった。母親たちは彼らの大ファンなのだ。
 甘いマスクを持ち、しかしそれに似つかわしくない強引なやり口で一瞬にしてステージを自分のものにしてしまう大羽浩介。一般に美しいといわれるミロカロスだけど、それ以上に男性的な雄々しさ、逞しさを漲らせたカラ。両者ともその荒々しいギャップが人々を虜にしてやまないのだ――と、ここまでが京太の母親がエキサイトしたときに語っていた解説。おれの母親にいわせると、マッチョな男の人の肉体に思わずどきどきしてしまう感じ、らしい。
「カラ、むきむきだよな」
 玲司さんの絵を見て改めて思う。ミロカロスといえば神秘的で儚げなイメージだけど、カラは違う。元の美しさに加えて、太く隆起した強靭な身体を持っていて、生命力に満ち満ちている。麗しきマッチョ。
「ヒンバスのころは、それはもう見るからに貧相で弱々しかったんだよ」
「え、玲司さん、ヒンバスのころから知ってるの」
「僕と浩介、それとカラは幼なじみなんだ」
 どうりでカラの絵が多いと思った。もちろんほかのポケモンの絵もあるけど、コンテスト以外のシーンまで描かれているのはカラだけだった。
 作品を見渡すと、気づいたことがあった。さっきの画家と絵の感じが似ているのだ。まるでそのポケモン自体が光っているかのように、肉体がことさらリアルに表現されている。触れたら鼓動や体温が伝わってきそうだった。
「小さいときからあの絵を見てきたからね。似せようと思ったこともあったし、思わなくても自然とそうなってしまうんだ」
 好きなんだなと思った。だからおれたちにもあの画家のコーナーを見せてくれたのだ。
「君たちも明日のコンテスト、観るんだろう?」
 はじめは観ないつもりでいたけど、玲司さんの絵を見ていたら本物のカラを見てみたくなってきた。京太も同じようだった。
「僕の友人のショー、絶対に観においで。これを逃したらきっと二度と観られない。……そんなショーにしてくれるはずだから」


 ☆☆


 翌朝。ベッドがいつもと違うなと思いながら目を覚まして、ミナモシティのホテルに泊まっていたことを思い出した。母親が何か喋っている。電話だ。たぶん、隣の部屋の京太の母親と話しているのだろう。
「うん……もちろん私も行く……うん、うん」
 母親の声はひどく落ち込んでいる様子だった。電話の向こうからおれの耳まで、京太の母親がわんわんと泣いている声が届く。泣いている? 不吉なものを感じて、嫌な感じに頭が覚醒した。
「ねえ京子、落ち着いて? ね? ……うん、わかった」
 電話が終わるとすぐ、どうしたのと聞いた。知りたくなかったけど、聞くしかなかった。
「お母さんたちが見たかった、ミロカロスのカラなんだけどね。……ゆうべ、亡くなったんだって」
 なくなった……カラが、死んだ――?
 何かの間違いとか、悪い夢だと思った。だけど、午後からコンテスト会場をそのまま葬儀場にしてお葬式が行われるとか、京太の母親と二人で参列してくるとかいった話を母親から聞かされているうちに、本当のことなんだなと諦めたみたいにわかってきた。
 とんとん、と部屋の扉が叩かれて、開けにいくと京太が立っていた。目の周りが赤く、疲れた顔をしていた。あれだけ自分の母親が泣いていたのだ。京太もそれにびっくりして泣いたんだってすぐにわかった。
「京太くん、おはよう。お母さんは落ち着いた?」
 椅子に腰かけて、母親が淹れた熱いお茶を舐めるみたいにほんの少し飲んでから「わかんない」とだけ言った。
「今日はお昼食べたら、二人で一緒に近くのサファリでも行っておいで。お母さんたち、後で迎えにいくから」
 それより玲司さんのことが気にかかった。大羽浩介だけでなく、カラのことも幼なじみだと言っていた。玲司さんは間違いなくカラのお葬式にいるはずだ。
 おれも行く、と言うと母親は驚いた顔をしていたが、京太も行きたいと言ったので結局みんなで行くことになった。

 モモンの白い花には浄化の意味があるのだと、係の人から受け取るときに教えてもらった。解毒に使われるモモン、そして白という色は、昔から死者の穢れを取り祓うといわれています、純粋な魂だけを神様にお届けするのです――細長い柩の中はすでに白い花でいっぱいで、浄化どころかカラの姿まで消えてなくなってしまいそうだった。
 いつもはポケモンがパフォーマンスをする舞台の上に、祭壇が作られていた。美術館で見た玲司さんの絵が中央に立てられている。パワフルで、豪快で、勇ましいカラ。だけど目の前で眠っているミロカロスにはもう、あの絵のような強さ、逞しさはなかった。大きく膨らんでいたはずの筋肉もまるで空気が抜けたみたいに跡形もなく消え去っている。そこに横たわっていたのは、ただの美しいミロカロスだった。
 玲司さんは大羽浩介と二人で、参列者に頭を下げていた。おれと京太に気づくと、玲司さんはありがとうとお礼を言っているみたいな優しい表情を見せてくれた。玲司さんのことが気になってここまで来たのに、おれたちは慌ててぺこりとお辞儀することしかできなかった。カラのことより、幼なじみを亡くした玲司さんの悲しい笑顔に胸が痛んだ。京太がじわっと泣き出して、おれもつられて少し泣いた。

 献花を終えておれと京太はロビーの椅子に座っていた。トイレに行った母親たちを待っている。なんだか重たいと思ったら、京太がもたれてきていた。すうすうと寝息を立てている。おれも少し眠かったけど、周りがざわざわしていて中途半端に起きていた。すごい人の数だ。おれたちが会場に着いたときにはすでに外まで長蛇の列ができていた。まだまだ、祭壇のあるステージまで伸びる列は途切れそうにない。中にはコンテストで着るような華やかな衣装で参列する人やポケモンもいる。
 会場や衣装のことは、カラにとってこれが最後の舞台だからと大羽浩介が希望したらしい。ミナモ大会の開催を延期させるほど、彼らの影響力は絶大だった。そのことに感心する人もいれば、悪態をつく人もいた。
 ロビーにいると、大羽浩介やカラの話があちこちから聞こえてくる。
 大羽浩介は玲司さんの描く絵をいたく気に入っていて、絵が完成する前から次の作品を注文しているという。カラは見た目に違わず横暴で、機嫌を損ねると平気でほかの参加者を攻撃していたらしい。このことは母親から聞いたことがあった。わがままな王様。だけど技のキレは随一で、誰もが息を呑むほどだったそうだ。緻密で繊細な表現をするカラと、気性の激しいカラ。その二面性が、カラの人気を底上げしていた。
「事故なの? 私は突然死って聞いたけど」
「やばい薬を注射してたらしい。あの筋肉の付き様、普通のミロカロスじゃなかったしな」
「テレビ局が来てたね。カラのドキュメンタリー、きっとやるよねえ」
 眠かった。頭に入ってくる言葉が次第に意味を持たなくなってくる。目を閉じると自分がうんと疲れていたことに気づいた。母親に腕を引っ張られて、外を歩いたような気がする。次に気がついたとき、おれはホテルのベッドにいた。


 ☆☆☆


 次の日、おれと京太は特にあてもなくミナモシティを歩いていた。母親たちはサファリに行っている。ひどく落ち込んでいる京太の母親の気分を紛らすためにおれの母親が言い出したのだ。本当はおれたちも誘われていたけど、二人で遊ぶからと言って断った。だけど来たときのようにヒトデマンを投げ合う気分にもなれなくて、なんとなくお互い無言でいた。
 結局行き先が見つからず砂浜まで下りた。しばらくじっと海を見つめていると、波音に混じって声が聞こえてきた。言葉はわからないけど、たぶん、遊ぼうぜと言っている。声が近くなってくる――あのヒトデマンが、砂の上を器用に走ってくる。
「……ぶっ、あはは」
 おれも京太もたまらず噴き出した。ヒトデマンが人間みたいに脚を前後にうねうねやりながら走ってくるのは、やっぱりおかしかった。顔がないから、ものすごく真面目にやっているように見えて余計に変だった。
「なんでっ、そんな、走り方なの、あは、あはは」
「スピンで飛んできたほうが早いんじゃねえの、ははは」
 ヒトデマンはばかにされて怒っているようだった。赤いコアがものすごい勢いで点滅してぷんぷんしている。それがおかしくてまた笑った。
「はあ、面白かった」
 昨日から立ち込めていた靄のようなものが晴れた気がした。わきわきっ、とヒトデマンの手足がうねっている。右へ左へと跳ねている。遊びたくてたまらないらしい。だけど。
「ごめん。おれたち、玲司さんのところに行かなくちゃ」
「蓮?」
 京太が不思議そうにおれを見てくる。
「玲司さん、カラがいなくなって寂しがってると思う。おれたちが行って、さっきみたいに笑わせたら、きっと喜んでくれるんじゃないかな」
 おれたちはヒトデマンと別れて美術館まで走った。美術館の最上階、天井裏みたいな部屋にアトリエがあるのだと玲司さんは言っていた。玲司さんに会って何をするかまでは考えていなかった。とにかく会って、元気をあげたかった。

 人の目を盗んで立入禁止の階段を上り、とにかく上を目指した。道に迷うことはなかったけど、駆け上がってきたから息が上がっていた。その部屋のカギは開いていた。隙間を作って、中を覗くと、こちらに背を向けた玲司さんが大きなキャンバスに向かっていた。カラと大羽浩介の絵――ほとんど完成に近い気がする。
 何か喋っている。ほかに誰かいるのだ。そう思った瞬間、奥にいた人物がガタンと机を叩いて怒鳴った。
「約束しただろう! 俺を、殺すって……!」
 ヒッ、と声にならない声が出た。おれか、京太か、あるいは両方から。
「誰だ!」
「君たち……」
 玲司さんが驚いて振り返る。奥にいるのは大羽浩介だ。
「ガキは帰れ!」
 大羽浩介のあまりに恐ろしい形相に竦んで動けなかった。京太がおれの腕を掴んでいる。震えている。大羽浩介はおれたちを無視して玲司さんに向き直る。
「カラが死んだら殺してくれって言ったよな。カラは、死んだよ。俺が殺したんだ。なあ玲司、俺のこと、殺してくれるって、言ったじゃないか……」
 殺す? 殺した? どうして? 誰が、誰を? 思いもよらない緊迫した状況に身体だけでなく脳みそも動いてくれない。
 玲司さんは何も言わない。こちらからでは顔も見えない。しばらくすべての時間が止まったように固まって、それから。

 玲司さんは手元にあったナイフを握った。大羽浩介の顔が、目が、輝いた。やめろ、と叫ぼうにも喉からは空気すら出てくれない。玲司さんはナイフを振りかざして、そして。
 ――大羽浩介に突き刺した。

「なん、で」
 雄たけびのように大羽浩介が叫んだ。狂ったように大声を上げていた。
 キャンバスに――そこに描かれた血を流さない大羽浩介に……大羽浩介がこよなく愛する玲司さんの絵に、ペインティングナイフが刺さっている。
 玲司さんは暴れる大羽浩介に飛びついた。上に乗って、ばたつく脚を脚で押さえて、手首も捕まえて、動けなくした。
「今、ここで、お前が俺を殺さなきゃ、だめなんだ! でないと、そうしないと……」
 嗚咽。大羽浩介のものと、玲司さんのもの。それからびっくりして泣き出した京太のもの。
「それはもう、何回も聞いたよ。この世界は、素晴らしいもので溢れているんだろ」
「そうだ。素晴らしいものが無数に輝いている。だからいけないんだ」
「カラが、その中の星の一つになってしまうことが?」
「……うん」
「僕はね、それでもいいと思うようになったんだ。カラは本当に素晴らしかった。それでいいじゃないか」
「よくない! 輝くだけじゃ、だめだ。もっと特別にならないとだめだ。この俺を殺すくらいの、ストーリーがなくちゃ、だめなんだ。ただの星になんか、させたくないんだ……」
 掴んでいた手首を放して、玲司さんは大羽浩介の身体を包むように抱き締めた。大羽浩介はとけない氷のようにそのままの姿勢でいた。
「そんなストーリーがなくても、良いと言ってくれる人はいる。価値をわかってくれる人はいる」
「でも」
「それに何より、僕は、浩介を失いたくない。浩介は、僕があの泉の男のようになってもいいの? 絶対に触れられない、抱き締められない浩介の絵ばかりたくさん描きながらおかしくなっていっても、それでも僕に浩介を殺せって言うの?」
 大羽浩介がしがみつくように玲司さんを抱き返した。
「い、いやだ」
 氷のとける音がした。慟哭。氷は涙になって流れていった。ごめん、と大羽浩介が何度も何度も口にする。
 床で抱き合いながら涙を流す二人と、力が抜けてその場に座り込んで泣くおれと京太。そんな四人を、絵の中のカラはいつくしむ目で見つめていた。


 ☆☆☆☆


 カラの寿命のことは二人とも前々からわかっていたという。
 告知を受けたその日、大羽浩介は玲司さんを呼び出した。「カラが死んだら、俺を殺してくれ」――そして、苛酷な特訓を強いていたことや違法な薬物を与えていたことを告発してほしい。そうして俺に殺された、カラの生涯を世に知らしめてほしい。
 二人とも、幼いころから美術館のあの画家の絵に親しんできた。あの画家のエピソードとそれが生み出す人気を知っていた。だから玲司さんはとっさに悟った。根も葉もない虐待や薬物の噂話、さらには自らの命まで利用して、この友人は劇的な物語を作ろうとしている。カラの一生、大羽浩介の一生そのものが、まるで一つの作品であるかのように。後世まで語り継がれる存在になるために。
「だけどね、僕はその後すぐに、彼の本当の意図に気づいたんだ」
 玲司さんは潮風の中を歩きながら大羽浩介を愛おしそうに見つめた。おれと玲司さんよりうんと先を歩いている京太と大羽浩介は、何をやっているのか知らないけど突っつき合ったりじゃれ合ったりしている。意外と子供っぽいところがあるみたいだ。大羽浩介のこんな姿、きっとどんなファンも知らないだろう。
「浩介はこう言ったんだ。……俺を殺して、告発して、それからお前は逃げろ。逃げて、逃げて、俺とカラの絵を描き続けるんだ」
 人殺しの画家。逃亡中も、絵を描き続けた画家。それじゃあまるで――
「浩介が作ろうとしていたストーリーは、カラのためよりむしろ、僕のためだった。僕をあの画家にしたかったんだ。浩介は最後までそんなことは言わなかったけど、僕にはわかる」
 わかっていながら、玲司さんは大羽浩介と約束をした。それが彼の希いならばと聞き入れた。自分の生涯を捧げて、彼の作り上げる「人殺しの画家」という作品になろうと決意した。

 だけどある日、玲司さんは心変わりをする。
 偶然見かけた砂浜で遊ぶ子供の姿を、自分たちの子供のころと重ね合わせた。海遊び、川遊びをしていたころが懐かしい。ずいぶん遠いところまで来てしまった。もう、あの子たちのように遊ぶことはないだろう。近いうちに、自分の手で彼を殺めてしまうのだから、それこそ永遠に。
 ……もし、彼の希いを叶えてやらなかったら、自分の希いは叶うだろうか。浩介の語るストーリーを完成させるよりも、僕は浩介と一緒にいたい。叶うのならば、もう一度無邪気に遊んでいたあのころに戻りたい。
「カラは、待ってくれていたのかもしれないな」
「どういうこと」
「君たちと出会ったから、僕は浩介を殺さなかった。カラが先に逝っていたら、浩介との約束を果たしてしまっていた」
 砂浜で遊んでいた子供というのは、ヒトデマンを投げ合っていたおれと京太のことだったのだ。
「じゃあカラは、安心して旅立ったんだね。玲司さんの心変わりを感じたんだよ、きっと」
「うん、きっとそうだ」
 玲司さんは空を見上げて微笑んだ。

 早く早くと京太に急かされて、おれと玲司さんも砂浜に下りた。大羽浩介があの一番ノリのいいヒトデマンを持ち上げて高い高いをしていた。ヒトデマンはきゃっきゃと嬉しそうに声を上げている。
「え、僕もヒトデマンを投げるの」
 玲司さんが言うと、大羽浩介が拗ねたように口を尖らせた。
「なんだよ、俺と遊びたいんじゃなかったのかよ」
「……こうちゃんのばーか」
 玲司さんが大羽浩介の胸をつつくみたいにやわく拳で叩く。そこに、隙ありと言わんばかりに京太がヒトデマンを投げつけた。すかさずおれも別のヒトデマンを掴んで投げる。おれたちのヒトデマン合戦に空気を読むとか気を遣うとかそんなルールはない。自然と、おれと京太対、大羽浩介と玲司さんというチーム分けができた。
 おれたちがヒトデマンを投げていると、なんだなんだ、どうしたどうしたというふうに次々とヒトデマンが近づいてくる。何か楽しそうなことをやっているぞと海の中で噂になっているのかもしれない。
「あ、メノクラゲ踏んでるぞ」
「えっ」
 大羽浩介に言われて驚いた玲司さんがバランスを崩した。大羽浩介が抱き留めようとするも、二人そろって海水に濡れた砂の上に転がってしまう。
「今だっ」
 おれは容赦なくヒトデマンを投げつけ、京太は積み木みたいにせっせと二人の上にヒトデマンを乗せまくった。おれたちの連携技、りゅうせいぐん(物理こうげき)だ!
「おい、やーめろっての、ちょっ」
 大羽浩介が玲司さんを庇うように払っても払っても、ヒトデマンたちは面白がって勝手に集まってくる。泥でぐちゃぐちゃになって、玲司さんはツボにはまったのか転がったまま笑い続けている。
 もうなんだかめちゃくちゃだ。大量のヒトデマンの中で、おれたちはみんな泥んこになりながら笑っていた。