これから旅立つ君たちへ

ククク…奴は博士の中でも最弱…
「波音」「マスク」「神経衰弱」
「何を書かれてるんです?」
 いつのまにか夜が明けて、ブラインドの隙間から陽の光が射し込んでいた。楽しい時間はすぐに過ぎる。没頭すると周りも時間もそっちのけにしてしまうのは、ボクの悪い癖だ。
「ソフィー君、キミも徹夜かい?」
「いえ、私は先程まで仮眠を。それで、それは……」
「ラブレターさ。愛する5人にね」
 ボクの助手であるソフィー君は、表情筋をピクリとも動かさずにブラインドを開けた。徹夜明けの目にはスピードスター並みの威力。ボクは思わず眉をひそめた。
「……紅茶とコーヒー、どっちにします?」
「相変わらずキミにはジョークが通じないなぁ……コーヒー、ブラックで頼むよ」



「それで、決まったんですか? その、5人目は」
 ソフィー君はビーカーに入った黒い液体を青いマグカップに注いでボクに渡した。
「前から言ってるけどビーカーでコーヒーを淹れるのはやめ……ふぅ、やっぱりキミの淹れるコーヒーは美味しいねぇ」
「話、そらさないでもらえます?」
 さすがにそろそろ怒られそうだ。表情筋は動いてなくても、目は確実に怒っている。ボクもどうやら徹夜明けでおかしくなってしまったらしい。
「……おっと、最後の仕上げを忘れていたよ。ソフィー君、右の棚の上から3番目、左の端にある瓶を取ってもらえるかい?」
「はい。これは……香水ですか? 何に使うんです?」
「ボクは、ラブレターを出す時に、封筒に必ずこの香水をかけるのさ。良い香りだろう。後輩が、この香りが好きでね」
「それって……!」
「そうだ、キミが淹れてくれたコーヒーのお礼に、少し昔話をしようか。キミの尊敬する研究者と、もっと尊敬するボクの話さ」



 自慢じゃないけど、ボクは地頭が良かった。要領も良くて顔も良い。気に入られたい人に気に入ってもらえる、そんな愛嬌の良さもあった。だからだろうか、結構何でも思い通りに事が進んだ。今思うと、おそろしい子どもだったと思う。自分が思っていたよりも、人生は簡単にうまくいくと思っていたのだ。
 ボクはトレーナーになるよりも、働いた方が確実だと知っていた。だから、トレーナーになった友達を馬鹿にさえしていた。ボクが子どもの頃はここに研究所は無くて、パートナーポケモンは親と一緒に草むらまで捕まえに行った。草むらから出てきた最初のポケモンをパートナーにするのが習わしだったのだ。大抵の人がホルビーかヤヤコマかコフキムシをパートナーにして旅に出て、野生のポケモンに勝てずに帰ってくる。本当にトレーナーとして成功できるのは30人のクラスで5人ほどだった。その中でも、バトルに勝ち続けてお金がもらえる人なんて、ほんの一握り。ボクは、それよりも確実な道に進もうと思ったのだ。
 ボクは小学校を首席で卒業し、周りの人にすすめられるままに研究者の道を選んだ。中学校に行く手もあったが、何事も早いに越したことはない。何を研究したいのかは決まっていなかったが、誰かのもとで学びながら考えてもいい。そのためには、まず研究者としての資格が必要だった。研究をするには、ポケモン研究の第一人者であるオーキド博士の講座を受けて、試験に合格しなければならない。その試験はかなり難しいとの噂で、講座を受けに来る人のほとんどが大学を出た大人だと聞いた。実際、小学校を卒業してすぐのような子どもはボクしかいなかった。でも、ボクは何も心配していなかった。勉強するのは嫌いじゃなかったし、勉強さえすれば確実な道に進めるとわかっていたからだ。
 カントー地方に渡り、何回か講座を受けた頃、ボクはある人に出会った。その人はポケモン研究の第一人者であるオーキド博士にかなり強くダメ出しをしていた。オーキド博士よりも高齢でかなりの知識があり、研究者として成功している。ボクの目には、その人がとても魅力的に映った。
「あの……」
 なりふり構わず声をかけた。振り向いてもらえる自信があった。なんといってもボクは地頭が良い。高確率でうまくいくと思った。
「ボクを博士の助手にしてください! 博士のような研究者になりたいんです!」
「君は……」
 博士はボクの目をじっと見つめた。近くで見ると、随分と大きな人だった。
「私は君を良い研究者にはできない。私は研究者だ、研究者を育てる教育者ではない。私のもとで何を学ぶか、明確な何かがないと、君はただの優秀な助手になってしまうよ」
 博士はニコリともしなかった。
「まぁ、いい。何を学ぶか見つかるまで、私のもとにいてもいい。ただ……」
 ボクは博士の瞳を見ることができなかった。あまりにも純粋で、真っ直ぐで、今までの自分を全て見透かされているように感じた。この人にボクのやり方は通用しない。
「君を良い研究者にするのは、私ではない。君自身だ」



 講座を受け試験に受かってからは、シンオウ地方にある博士の研究所に転がり込み、博士の研究を間近で見せてもらった。研究のやり方は手伝いをしながら見て盗んだ。博士が自分で言ってたように、彼は教育者ではなかった。寡黙なうえに、研究に一直線な博士とはコミュニケーションを取ることも難しい。でも、博士との時間は本当に楽しかった。一緒に学会に出席したり、新種のポケモンが見つかるとその地に出向いたり、博士はいつもボクの知らない世界に連れて行ってくれた。正直ボクはこのままずっと、助手として博士の近くにいてもいいと思い始めていた。挑戦しなければ失敗もしない。博士の手伝いをしていれば、良い研究者にはなれなくても、優秀な助手にはなれる。それでもいいんじゃないかと思い始めていたのだ。
 ボクが博士の研究所に来てから3年が経った頃、彼女は突然現れた。ブロンドの長い髪と黒いワンピースが風に揺れ、ほんのりバラの香りがした。ボクよりも1つか2つ年下だろう。彼女はボクには目もくれず、博士のもとに行きこう言った。
「あたし、ポケモンについてもっと知りたいんです! だから、研究所貸してください!」
 博士があんなに目を見開いたのを見たのは、後にも先にもこの時だけだった。



 彼女が来てから、ボクの歯車は狂い始めた。ボクは助手としてかなり優秀だったし、博士との付き合いも彼女よりは長かった。一方彼女は抜けているところがあり、整理整頓が壊滅的で、研究所をゴミ屋敷にしたり、大事な書類を床に散らかしたりして、よく博士に怒られた。彼女がボクよりも優れていることといえば、記憶力の良さぐらいだろう。書類を散らかしてもどこに何があるのかわかっていたし、その日の予定も一瞬で暗記していた。一度どっちが博士の講演会について行くかでもめて、トランプの神経衰弱で勝負したことがあるが、ボクは両手で数えられるぐらいしかカードが取れなかった。
 ボクと彼女は博士の研究のためにこの土地のポケモンを調べ、ポケモン図鑑の完成を目指していた。近年、他の地方からのポケモンの進出や新種のポケモンの発見により、今まで使っていた紙媒体のポケモン図鑑が当てにならなくなってきたのだ。しかし、多くのポケモンと出会うには、研究所にいるよりも各地を巡った方が効率が良い。そこで、ボクと彼女は試しに機械化してもらった仮のポケモン図鑑を持ち、トレーナーとして旅に出ることにした。彼女は幼いころから共に暮らしているというパートナーのフカマルを連れ、パートナーのいないボクは博士のポケモンをボックスから選んで連れて行くことにした。
 研究者として、助手として、ボクは確かに優秀だった。でも、トレーナーになった途端に何もかもがうまくいかなくなってしまった。ボクにとってポケモンは研究材料であり、共に過ごす対象ではなかった。さらに、トレーナーとしての経験不足や周りに頼れる人がいない状況に、相当参ってしまっていた。それでも研究はやらねばならない。ボロボロのプライドを胸に、ボクは無難に調査を続けていた。
 あの日ボクはポケモンセンターで調査報告書を書いていた。いつもと違ってポケモンセンターの中が妙に騒がしかった。何故かみんなテレビを食い入るように見ていた。どうやらポケモンバトルの実況中継らしい。有名人がバトルしているのだろうか。
 覗いてみようと立ち上がった時、ワッと歓声が上がった。どうやら勝負がついたらしい。
「あんちゃん、見てみろよ。新しいチャンピオンの誕生だぞ!」
 自分の目を疑った。見覚えのある立ち姿。ブロンドの長い髪に黒いワンピース。笑顔で周りに手を振っているのは――

「シンオウ地方、新チャンピオンは、カンナギタウンのシロナだーッ!」

 彼女と、進化したパートナーのガブリアスだった。



 彼女はボクが無難に調査をしている間に、リーグバッジを8つ集めてポケモンリーグに挑戦し、その頂点であるチャンピオンになっていた。しかも、ボクなんかよりも遥かに多くのポケモンと出会い、図鑑もほぼ完成させていたのだ。
「博士、この図鑑はまだ完成とは言えません。完成させるには、この地方の神話や言い伝えを調べなければならない。あたしはチャンピオンの座を守りながら、研究を続けたいと思います。ね、ガブリアス?」
 ボクには彼女が眩しく見えた。彼女とガブリアスの間には、確かな信頼関係があり、愛があった。それに対してボクはどうだ。博士から借りたポケモンとの間に信頼も愛もなく、ただの研究材料として扱っていた。
 彼女の兄弟子だったボクは、研究者としての自分に見切りをつけて、故郷であるこの街に逃げ帰って来た。結局ボクは、良い研究者にも、優秀な助手にもなれなかったのだ。



「でも、今プラターヌ博士は……博士になったんですよね?」
「カロス地方ではパートナーは自分で捕まえるのが習わしだったし、ポケモン図鑑を持っていなくても旅ができた。だから、カロス地方には研究所がなかったんだ。つまりボクはとんでもなくラッキーだったのさ」
 冷めたコーヒーを飲み干して、ボクはポケモン図鑑を手に取った。
「カロスのポケモンを調査して生体の傾向をまとめ、カロスだけのポケモン図鑑を作ることにした。なんてことはない、ナナカマド博士の助手として、ボクがやっていたことさ」
「……なんというか、地頭が良いって言ってましたけど、今すごく納得しました」
 ソフィー君は小さくため息をついた。耳が痛い。
「ハハハ……でもボクは、すぐには研究を始めなかったんだよ。彼女と同じものを見たいと思ってね。トレーナーとしてカロスを巡り、様々なポケモンと出会いつつ、土地ごとの味わいに気付いて食べ歩きも楽しんじゃってね」
「博士……」
 視線も耳も痛い。
「それで、気付いたんだ。ポケモンと共に過ごし、お互いを思いやって培った、あたたかな結びつき。愛と、信頼。絆。それが彼女にはあったんだ。当時のボクには無かったものさ」
 ボクは香水を5枚の封筒に吹きかけた。ふんわりとダマスクローズの香りが広がる。
「これは、彼女がくれたものでね。普段使わないから、こうやって封筒にかけているんだ。これから冒険に出る子ども達が、彼女のようにポケモンを信頼し、愛してくれるように願いを込めてね」
 数年前、彼女はチャンピオンの座を降りた。真っ直ぐと未来を見つめる少年に、真剣勝負で負けたのだと言っていた。10年以上守り抜いてきたチャンピオンの座を奪われたのにもかかわらず、彼女は随分と嬉しそうだった。彼女は根っからのチャレンジャーなのだ。チャンピオンで納得するような人ではない。今度は他の地方の神話や言い伝えも調べたいと言っていた。
 今頃彼女はイッシュ地方のサザナミタウンで波音を聞きながらバカンスを楽しんでいることだろう。いや、海底遺跡の調査だったか……? 一緒に来ないかと誘われたのだが、子ども達の旅立ちと重なるから断った。どっちにしろ、部屋をとんでもなく散らかしているのは間違いない。
「さて、昔話はこれくらいにしよう。今回旅立つ5人の内、4人は1つの町から1人ずつ決めたんだ。そして、例外である5人目は、まだカロス地方に足を踏み入れてもいない。この子には、この世界がどんな風に映るんだろう。そこに、興味があってね――」








 わたしの名前はプラターヌ。カロス地方のポケモン博士さ。
 この世界には様々なポケモンがいる。これからキミも多くのポケモンと出会うだろう。
 そして、共に過ごし、成長していくことだろう。



 これから旅立つ君たちへ。
 君の冒険に限界なんてない。
 自分の限界を決めているのは、いつも自分さ。