反耕期

みちしるべ
イラスト
【反耕期】

「ワン・ツー・スリーでっ! めっちゃおーいしーい“おうごんのみ”のおでましやーっ!」

 メインストリートからよく見える位置に取り付けられた巨大な液晶にでかでかと黄金色のきのみが映し出され、薄暗くなってきた通りがにわかに金色に照らされる。ふらふらと家路を歩く通行人たちが引っ張られたように顔を上げるが、馴染みのあるコマーシャルだと気付いてすぐに視線を逸らしていく。

「おうごんのみと言えばもちろん! 123ばんどうろの“ひふみきのみ農園”で決まりやで! お問い合わせはこちらっ!」

 電話番号がでかでかと映し出されると同時に、一人の女性がワイプで現れて「待っとるでー!」と笑った。終始ノリの良いテンポであったコマーシャルが終わり、テレビ番組の宣伝コマーシャルに移り変わるのを見届けたハルヤは液晶から目を離し、周りの雑踏に紛れて家路を歩き始めた。

 生まれ育ったホウエン地方を出てからはや二年余りが過ぎる。勢いのままに飛び出した故郷がときたま恋しくなる頃ではあったが、実家の光景が脳裏をよぎるとそんな気持ちも消え失せてしまう。誰にも聞こえないため息をつき、ハルヤの足はごみごみした路地を歩く。
 ジョウト地方の中央都市にして最大規模を誇るコガネシティ、その一角にある住宅地にハルヤはたった一人で暮らしている。大勢の人が行き交うメインストリートから路地を一本でも行けばたちまちその往来は鳴りを潜め、静かで陰気な雰囲気が広がる。電灯も薄暗い闇の中に紛れるようにとぼとぼと歩くハルヤの足は安アパートの玄関をくぐった。
 電気をつけて広がるのは、二年もの時が経っても相も変わらずこざっぱりとした部屋。コガネステーションから徒歩約一五分、六畳一間で家賃は月額四万円、敷金礼金保証人不要。旅行者同然の荷物でやってきたハルヤは、とにかく居場所が欲しいという焦りにも似た一心で即決した。
 部屋には家具らしい家具もほとんどなく、家電もこぢんまりとしたものしか置かれていない。シングルベッドと背の低いテーブル、チェストにテレビ、一人暮らし向けの冷蔵庫。誰が見ても一目で貧乏だとわかる質素な部屋。ベッドに飛び込むように寝転がって嘆息したのとほぼ同時に右ポケットが震えた。
 液晶にはメールの通知。指紋認証でロックを外して内容を確認しようとした途端、手のひらのスマホがぶるぶると振動して電話の画面に切り替わった。発信元の「ショウジ」の文字を見て、やれやれといった様子でため息をついた。

「もしもし」
「もしもーし? メール見たか、見てへんやろ? どーせハルヤのことやから文章打ってもシカトし“はるや”ろ、ハルヤだけになー! あーおもし」

 けたたましい音量とまくし立てるテンポ。咄嗟に耳からスマホを遠ざけたが、それでもスピーカーから部屋中に響き渡るコガネ弁。耐えかねたハルヤの指は赤いボタンに自然と触れていた――が、電話の向こうにいる相手は当然それを許してくれるはずがなかった。まるで通話をブツ切りされることさえも読んでいたかのような、日常的にリダイヤル連打で悪徳業者を追いつめることに慣れているかのような、神速のリダイヤルが右手の中で震えだす。

「も」
「ハルヤ、今暇か、どーせ家に一人で暇やろ? 今日はもう仕事終わったはずやもんな、ええやろ? ええわな、ええっちゅーに決まってるわな! ほな今から行くさかいに、待っとれよー!」

 しもし、と続ける間もなく、タネマシンガンの如くスピーカーから吐き出されるコガネ弁。そして手持ちの弾を打ち尽くすなり今度はあちらからブツ切り。こちらに発言権も選択肢も一切与えない恐ろしい手口――ではあるものの、実はショウジはいつもこんな調子なのだ。先ほど届いた自分宛ての空メールを開いて、ハルヤは殺風景な部屋で苦笑していた。



 ショウジとハルヤが知り合ったのは一年ほど前のことになる。故郷を飛び出して一人で生計を立てていくためには当然仕事にありつかなければならないのだが、まだ若い上にコガネの雰囲気になじみ切れていないハルヤにはなかなかその縁がない。何とかありついたのは単価が安い歩合制のポスティングであった。
 来る日も来る日も手渡される広告の山を背負って自転車を乗り回し、少しでも多く稼ぐために近所の住宅地から駅の向こう側の団地、郊外の住宅地にまで足を運んだ。
 ある日の仕事中、コガネデパート裏の商店街付近を自転車で走っていると、突如として前輪がガクガクと不自然に振動しはじめた。即座にパンクしたと理解したハルヤはどうにかブレーキをかけながら路肩に寄せようとしたが、広告の重みでバランスを崩し、派手な音とともに転倒してしまった。左腰から突き刺すような痛みを感じつつもどうにかまずは立ち上がらねば、と体を起こしたとき、目の前の建物から飛び出してきたのがショウジだった。

「あんさんだいじょーぶか? ケガはあらへんか、かなり派手な音してたからえらいたまげたわ。あーららチャリンコも大丈夫かいなこれは……ともかく立てるんなら一度ウチまで来たらええがな」
「え、あ……ありがとう」

 まだ事故のショックでぼんやりしているハルヤをよそに弾丸のような勢いで捲し立ててくる、自分と同い年くらいに見える少年――ショウジ。「広告っちゅーことはポスティングかいな。さ、チャリンコは持ってくからはよはよ」と地面に散らばった広告の山を手早く拾い集めて屈託なく笑うその姿に何となく安心したハルヤは、好意に甘えてショウジの飛び出してきた建物に足を踏み入れた。
 そこは、お世辞にも広いとは言えないスペースに所狭しとフレームやらホイールやらが並ぶ自転車店であった。値段と売り文句がでかでかと書かれたポップ同士が重なってしまうほどに商品がびっしり並べられたその光景にしばし言葉を失っていると、広告が詰まったカバンを背負い、前輪を浮かせながら自転車を押してショウジがやってきた。

「あんさんのチャリンコ、前輪がパンクしとったわ、あらかた道端の小石でもふんだんやろ、ツイてなかったなー残念賞やでほんま。まあワイは見ての通り自転車屋や、あっちゅうまに直したるから少し待っとき」

 自転車を停めたショウジは店のレジ裏からキャスター付きの椅子を持ってきてハルヤの近くに転がすと、工具箱を手に自転車に向き合った。ありがとう、とハルヤがぽつりと呟くと、「人に礼ゆーときはもっと大きな声でハキハキ感謝の気持ちを込めてするもんやで!」と大声で笑われた。
 
「酷いこけ方したんやろな、スポークも何本かイってしまっとるわ。このモデルのホイールならいくらでも替えはあるし前輪まるまる変えたるわ」
「えっ、でもそんな……」
「なんや、おカネの話か? んなもん心配せんでええよ、タダで替えたるわ!」
「あ、ありが」
「人に礼ゆーときは?!」
「っ、っ、ありがとう!」

 それでええんや、とショウジは白い歯を見せた。そして自転車に向き直ったかと思うと華麗な手さばきで工具を操り、あっという間にボロボロの前輪を取り外した。「よー見ると微妙に歪んで軸もブレとるわ、こりゃ交換して正解やったわ」と呟きながら前輪を投げ捨てるとほぼ同時に小走りで店の奥へ駆けていき、すぐに新しい前輪を手に戻ってきた。
 
「よーしやったるで。ところであんさんここら出身の人間やないやろ、訛りの感じからして……せや、ホウエンの出身やろ?」
「っすごい、当たってる」
「せやろせやろ! コガネ弁ほどあからさまやないとはいえ、ホウエンの訛りも結構わかりやすいからなー。それにしてもホウエン出身でコガネに出てきてポスティングって、失礼やけどもしかして結構苦労してはるんやない?」
「……なんでも当てちゃうんだな」
「わしはエスパーやからな。ほらよー見てみ、この糸目がケーシィに似てるやろ? テレポートは使えへんけどな、そんなもん使えたら自転車屋の商売あがったりやっちゅーねん!」

 あーっはっはっは、と一人で勝手に笑うショウジを見て、ハルヤも自然と笑顔になっていた。「こんなに笑うのなんていつぶりだろう」と呟くと、「えらい苦労してはるんやな、ため息ばっかついとるんちやうの? ダーメダメダメ、ため息は幸せが逃げるんや、笑う門には福来るんやで!」と自転車に向き合ったままのショウジから返ってきた。

「ワイはショウジって言うんや、あんさんは? トシいくつ?」
「俺はハルヤ、今年で一八になる」
「おー同い年やんけ! えらい辛気臭くてジジ臭い感じがするけどな、ワイとは大違いや……って流石にジョーダンやって、そんな悲しそうな顔すんなや! ほら終わったで!」

 ぽんっ、と音がして目をやると、ショウジは自転車のサドルを叩きながらにかっと笑っていた。会話に夢中だったせいでよく見ていなかったが、恐らく故郷の自転車屋よりも随分と手際が良かったようにも思える。それはショウジの腕の良さだからだろうか、はたまた退屈させない話術のせいだろうか。どちらにせよ自分とは大違いのショウジのスキルに、ハルヤは心中で最大限の称賛を送っていた。

「ところで、本当にタダで直してもらっていいの?」
「かまへんかまへん、困ったときはお互い様、袖振り合うも他生の縁、っちゅーわけや。あ、せやせや! せっかく触れ合った袖、同い年やしカネの代わりにこんなんはどうや?」

 店内へと駆け戻る背中にハルヤが首を傾げていると、携帯端末を片手にショウジが戻ってきた。にかっと笑みを見せるショウジに、ハルヤはその意図を理解して携帯端末を取り出す。

「せっかくやからな、あんさん友達少なそうやしここで仲良くなっとこうや。まー、ゆーてワイも店のこととか色々忙しくてあんまし友達おらへんけどな」
「ああ、ありがとう」
「ついでに、もし出来るんやったらこの店の広告を配ってほしいわ、ちょっこーっとでもお安くできれば嬉しいやさかいに」
「んー……なんとか掛け合ってみるよ、お世話になったからな」
「さっすが! 腕の見せ所やで、話が付いたら連絡したってくれや!」
「うん、それじゃ、また」

 よし、と気合を入れ、前輪だけ真新しい、ちょっぴり不格好な自転車にまたがる。右足で地を蹴ってタイヤを転がしつつ後ろを振り返ると、ショウジは大きく手を振りながら「前見ろや前ー! 気をつけてなーハルヤ!」と大声で叫んでいた。
 怪我の功名、かな。コガネに来てから仕事以外で一件も増えなかった連絡先を思い、ハルヤはスピードを上げながら笑みを作った。

 その後営業所に帰って話してみると、広告の件は思ったよりもあっさり承認された。「前輪を新品にしてもらったわけやし、その礼っちゅうことでちびーっとだけ安く受けてやろうやないか」と担当の職員は背もたれにどっかり腰掛けながら呟くように言い、続けざまに首だけハルヤの方に向けて「コガネサイクルはんからええように使われとるんか、それともなんや仲良くなってきたんかいな?」といたずらっぽく笑った。どっちなんでしょうかね、と答えたハルヤの表情はすっかり緩んでしまっていた。
 ショウジにメールでその旨を伝えると、送信してから一分ほどで着信が返ってきた。

「メール見たで、さっすがハルヤ、あんさんならやってくれると信じとったわー! ホンマやったらもうちびっと色付けてくれると嬉しかったんやけどな、タイヤの修理代やと思えばこれでぜーんぜん万事オールオッケーや! ありがとうありがとう、もう今広告作っとるところやから出来上がったらまた連絡するわ、そんなわけでよろしゅう頼むわー! ありがとなー!」

 こちらの返答も何も受け付けない、密度の濃いラッシュ。会話、とは到底言い難い、ブレスが全く聞き取れない、押しつけがましささえ感じる言葉の羅列。それでいて一息で“ショウジらしい”と思わせてしまう不思議な雰囲気。 いったい誰に似たんだろうな、今度は両親とかにも会ってみたいな。消えた液晶画面に反射するハルヤの顔は、昨日までとは別人のように溌溂とした笑顔をしていた。



「ぴんぽんぴんぽんぴーんぽーん! ハルヤ、おるんやろー?」

 ぼんやりとショウジと出会った日のことを思い起こしていたハルヤであったが、ドアの向こうから聞こえてくる声にはっとして我に返った。時計はもう七時を回っている。近所迷惑になってなければいいんだけど、と思いながらインターホンのついていないドアを開けると、ショウジのにかっとした笑みが待ち受けていた。

「おーハルヤ、急に連絡してすまんかったなー」
「いいよいいよ、まあ上がってくれ」

 これ以上喋らせ続けるといつまで経っても玄関に立ち止まったままだ。この一年間でショウジの扱い方を随分と心得たハルヤは座布団を差し出し、テーブルの上に用意されたお茶を注ぐ。まいど、とショウジは一口でぐびぐびと飲み干した。

「で、今日はなんかあったの?」
「テレビでやっとるひふみきのみ農園のコマーシャルあるやろ。ウチでもよくホウエンから取り寄せてお世話になっとるんやけどな」

 ひふみきのみ農園、と聞いてハルヤの顔がわずかに曇ったが、いつもの調子でガンガンまくしたてるショウジは気づいていない。どうか面倒ごとにだけはならないでくれ、と心中で願いながらハルヤは話の続きを聞く。

「この前ホウエンから来たっちゅー長い髪一本結びしたおっさんのチャリンコ見たついでにその話したらな、“そうか、こっちではおうごんのみって呼んでるんでしたね”っちゅーたねん。どういうことなんやって聞いたらや。ホウエンではおうごんのみのことを“オボンのみ”っちゅーらしいやん。へーって思ったわ」
「あー……確かにな、初めてジョウトに来たときは少しびっくりしたよ」

 大したことじゃなくてよかったとハルヤはほっとしていた。ただでさえ例のコマーシャルを仕事帰りのクタクタな状態で見てしまっただけに、今日は故郷のことをこれ以上思い返したくはない。
 ショウジは実家の店である“コガネサイクリング”の広告をハルヤの勤め先で配り始めてからも、度々連絡をよこしては一方的にまくしたててから満足してブツ切りしたり、時には今日のようになんでもない話題を持って家に遊びに来たりしていた。始めは勢いに戸惑っていたが、慣れてしまってからはあまり気にならなくなった。だからこうして、くだらない話をだらだらと続けることは嫌いではない。故郷の、ホウエンの話題に深くつながらない限りは――。
 
「ほんでな、気になって調べてみたんよ。そしたらびっくり、お隣のエンジュではコガネと違うコマーシャルをやっとったんや! 確かにエンジュとコガネは雰囲気も使っとる言葉もちょっぴり違うから納得やけど、まさか地方の街一つの違いのためだけに別バージョンを用意しとるとはなあ。そのバージョンを動画サイトで見つけてきたから、ちょっと見てーな!」
「う、うん」

 ハルヤは、ホウエンに関わる話題をあまり出してほしくないことを言っていない。理由はいくつかあるが、そんなことを口にすれば「なんでなんで、なんでや? 自分の生まれ育った故郷やろ、ふるさとやろ、ふるさとがそんなに嫌いか? 嫌いやからわざわざこの年で一人出てきたっちゅーわけか? ワケがあるんなら話してみ、ワイが力になるから、遠慮せんと話してみてーな……」という展開になることが容易に予想できるのが一番である。
 余計なことは口にせず、なるべく波風立てずに合わせる。これがショウジとの関係を維持しつつ自分の身を守るための術なのだ。ハルヤが覗き込んだ液晶画面には、先ほど見たコマーシャルに映っていたのと同じ女性がエンジュ着物で映っていた。

「ひぃ・ふぅ・みぃで、みんな大好き“おうごんのみ”のおでまし。おうごんのみと言えばもちろん、123ばんどうろの“ひふみきのみ農園”、お問い合わせしておくれやす」

 コガネとは言葉遣いも雰囲気も全く違っているコマーシャル。金の簪を輝かせ、片手にオボンを持ち、もう片手でくるくると和傘を回している女性を見て、「何着ても似合うんだなあ……」と呟いたハルヤに、「なんや惚れたんか、ハルヤも隅に置けんなあ。でも高嶺の花やで、コマーシャルに出るようなべっぴんのタレントさんなんてワイら庶民には手が届くわけないやろ、夢の見すぎやで」とショウジはにかにかしていた。
 
「こんなに違うもんなんだな、街一つ違うだけでも」
「せやなあ。そーいえばハルヤはエンジュに行ったことはあるんか?」
「いや、ない。ほとんどコガネから出てないし、行ったことあるのはせいぜいヒワダあたりくらいだ」
「ヒワダ? あんな田舎町になんの用があったんや」
「ちょっと泳ぎに行こうかなって。コガネの海は汚いし、誰もいない静かな場所がいいなってさ」
「相も変わらず変わりモンやなあ」

 はっはっは、とショウジに合わせてハルヤも笑う。変わり者はお互い様だろ、と心中で軽く毒づきながら。
 ショウジは動画の再生が終わった後も、関連動画を漁りながら「コガネとエンジュ以外のバージョンは見つからへんな……訛りが強いのはここらだけやもんな、あとはみんな共通なんかなー」と独り言に耽っている。ハルヤは無視してお茶を啜っていたが、あーっと叫んだショウジの声で咽る。

「な、どうしたんだよ」
「これ地方によってコマーシャルのバージョン違うんやな、コガネとエンジュ以外が全国共通なんやろと思ったら、ジョウト共通やねんて。せやから探したら出てきたんよ、ホウエンバージョンのコマーシャル!」

 ホウエン、という言葉にハルヤは顔を顰めるがショウジには伝わらない。何をそんなに大声なんか出したんだ、と聞くと、ショウジは液晶に映る動画のサムネイルを突き付けてきた。

 美しい女性が映っていた。

「な、な、な?! ごっつべっぴんさんやろ、いやージョウトの子もかわええなーと思ってたけど、いやー……これは……流石にホウエンの農園だけあって近所のコマーシャルには力入っとるんやなあ、いやーこれは……参ったなあ……」
「……」

 ハルヤは閉口していた。ついさっきまで自分に“高嶺の花に手なんか届きっこない”などと偉そうに笑っていたくせに。まったく困ったやつだ、と小さく呟くと、「見よ見よはよう見よ! どんなべっぴんさんなんか動いとるとこ見てみたいわ、な、な、な!」と耳を塞いで蹴っ飛ばしたいほどの勢いと声量でショウジが迫ってきた。わかったわかった、と場を落ち着かせるために宥め、ハルヤは仕方なく液晶に目をやる。

「いち・にの・さん。123ばんどうろの恵み、オボンのみが収穫期です。お求めは“ひふみきのみ農園”へ。お待ちしております」

 女性がにこっと笑って動画が停止し、関連動画一覧がその笑顔を覆い隠した。ふーうと長い溜息をついてショウジの方に目をやると、いつもの調子はどこへやら、虚ろな目をしている。ハルヤが目の前でぶんぶん手を振ってみるが、わずかに開いた口からため息が漏れるのみ。どうしたんだこいつ、とハルヤが困惑していると、「せや!」と突然ショウジが立ち上がって声を上げる。

「ハルヤ、明日ホウエンいこ、な!」
「……は?」
「ワイはどーしても、あのべっぴんさんに会いに行きたい、お話ししたい、語りたいっ、ワイの想いをっ! もはやいてもたってもいられんわ、何から何までちょうどエエねん、もう決めたで!」
「ちょ、ちょっと待て落ち着け」

 オフになっていたスイッチが突然入ったようにいつもの調子に戻ったショウジは携帯端末を握りつぶしてしまうのではないかという勢いでつかんだ。やれやれ、と呆れるだけで終われたらどんなに幸せだっただろう。今後確実に起こるであろう厄介事を想像し、ハルヤは物憂げな顔で俯く。
 ショウジは暫く独り言を唱えながら携帯端末を操作していたが、やがてぴたりと動きを止め、とあるサイトを開いた。僅かなロード時間の後に開かれたサイト――“ひふみきのみ農園”の公式ホームページには、籠いっぱいのオボンのみを抱えて笑う二人の女性――エンジュとコガネのコマーシャルに出ていた女性と、ホウエンのコマーシャルに出ていた女性がでかでかと掲載されていた。
 震える人差し指が「コマーシャルについて」と書かれた見出しに触れると――

「ハルヤ、ハルヤ! とんでもないことや、コマーシャルに出とったべっぴんさん、なんと二人とも農園の従業員さんやないか! なんてこった、タレントさんじゃないっちゅーことはや、ワイらが農園まで直接出向けば、お会いできるっちゅーことやろ、なんてこった、すべてがワイに味方しとる、タレントさんやったら最悪遠目から眺めるくらいしかでけへんと思っとったけど、全然お話しできるやんけ、もうこれは善は急げやなげほんげほん」

 どこに句点があったのかわからないほどの勢いで捲したててむせかえるショウジ。ああもうおしまいだと頭を抱えるハルヤ。どうしよう、これまでにないくらい最悪の展開だ。ホウエンを飛び出してきてから二年目にして、遠ざけていたものが返ってきてしまう――
 
「ハルヤ、明日からホウエン行くからな、仕事場に急遽休むって連絡入れとかなあかんな、今やったらまだギリギリ間に合うやろ、な」
「ダメだって、いくらなんでも急すぎる。迷惑かかるって、それに理由は」
「エエねんたまには休んでも、第一ハルヤは碌に休んでへんやろ、ワイはよー知っとるで。たまには羽を伸ばすもんやって。それとも仕事場が怖いんか? ワイが一発電話入れたるわ、労基に訴えるって怒鳴り込んでやるから携帯貸しーや」
「……わかったわかった、まずは電話してみるから待てって」

 ――しまった、確かにこれまで碌に休暇も取らずに仕事に打ち込んできたが、それが裏目に出てしまった。こうなってしまうともうショウジに逆らうような真似をすれば更にややこしくなってしまう……頼む、誰も出ないでくれ――
 ハルヤは祈るように携帯端末の連絡先を立ち上げ、スカスカの連絡先から“コガネポスティング”を選択する。すぐに電話機能が立ち上がってコール音が響き、スリーコールの後に「おうどうしたんだハルヤ」と聞きなれた声。自然と心中で舌打ちしていた。
 
「すみません、ちょっと急用ができて、明日からちょっとお休みしたいんですけど……」
「なんやえらい急やなあ、そういうのはもっと早くから言うもんやって、自覚はないの?」
「申し訳ありません……」
「……ま、でも普段から殆ど休み取らへんもんなあ、それに盆シーズンや、広告も殆ど入っとらへん。なんとかしたるわ」
「えっ?!」
「たまには羽休めも大事やさかいに。ほな、ゆっくりしいや、お疲れさーん」
「……ありがとうございます、失礼します」

 予想していた展開がことごとく裏切られた。普段であれば手放しで喜ぶところなのだが、事情が事情なだけにハルヤの心は沈んでいた。
 やったんやな、休みが取れたんやな、とショウジは興奮気味にハルヤに詰め寄ってきた。もはや観念して共にホウエンへ行くしかない。ハルヤは腹を括った。

「ああ、びっくりだよ。まさか休みがもらえるとはね」
「なんにせよこれで万事オッケーや、お盆にオボン巡りとはまた面白いことになってきたわな、もう今すぐにでも飛び出したい、明日には出発やで! カネはあるか?」
「まあ少しは。リニアに乗るくらいはあるよ」
「結構結構や、まあ最悪ワイがお店で稼いだお小遣いがあるから大丈夫やな」
「お小遣い? ショウジはあの店の従業員じゃないのか」
「あー、なんや、ちょっと興奮して言葉間違えただけやさかいに、稼いだお金はゲーセンにだいぶ持ってかれてお小遣いっちゅーくらいにしか残ってへんって意味合いや、それでもリニアとホウエンの遊び代くらいは余裕で残っとるから大丈夫や!」

 ショウジはそう言いながら携帯端末をポケットに突っ込み、お茶を残らず飲み干してから玄関へと駆けた。壁掛け時計はいつの間にか九時を指している。ついつい長居してもーたわ、と言いながらショウジはスニーカーのつま先で地面を叩いた。

「ほな、帰ったらリニアの時間調べてまた連絡するわ、あーでも向こうで使えるチャリンコが要るわな、それも明日までに手配しとくから、明日はまずウチの店まで来てーな、きっとびっくりしはるで! ほな!」

 ドアの閉まる音のあとに、自転車の走っていく音がだんだんと小さくなって消えていった。まるで嵐のような二時間が嘘のように静かになった部屋で、ハルヤはベッドに一人横たわる。
 明日からどうなるのだろう。二年前に飛び出したきりのホウエン地方に、突然帰ることになってしまった。リニアに飛び乗ればすぐにでも帰れた場所。それをしてこなかったのは、俺の意地と、そして抗議。こんな慣れない土地の安アパートで一人きりで生きていく、それを厭わないくらいの固い決意で飛び出して、遮断してきた場所に、今更――どうなるんだ、いったい?

 震える携帯端末の通知からメールを辿ると、“七時に店の前に集合”と短いメールが届いていた。いつの間にかもう十時を回っている。もう眠らなければ、ただでさえ気が重い“帰省”にずっしりと重い身体が付いて回ることになってしまうだろう。
 どれほど長い帰省になるかわからない。休暇日数を指定していない分できればすぐにでもコガネに戻りたいところではあるが、何が起こるかわからない。手持ちのカバンにできる限りの着替え類を準備して歯を磨き、電気を消してベッドに横たわった。
 ぶるぶる、と聞こえて携帯端末を取ったが、通知は来ていない。振動の感じる方には、震えるモンスターボールが置かれていた。ああそうか、とハルヤはモンスターボールを手に取り、あの日の出来事を思い出す。
 
 大都会の雰囲気に疲れて、週末に取った連休でやってきた田舎町の洞窟。人間の生活と隔絶された、誰もいない洞窟の奥でひっそりと遊泳を楽しんでいた時に出会った、海からのはぐれもの。
 直感でシンパシーを感じた。コガネ弁が飛び交う大都会に一人きりでやってきた余所者の自分と、淡水で生きている水ポケモンだらけの洞窟に一匹で迷い込んできた“彼女”。どことなく悲しげな歌声は、故郷の大海原に恋い焦がれているかのように聞こえた。感じたシンパシーが正しければ、自分の中にも故郷を恋焦がれる気持ちがあるのだろうか――?
 気づけば彼女の長い首に寄り添っていて、気づけば顔が触れ合っていた。そして、気づけば彼女はモンスターボールの中に自然と収まっていた。お互いの寂しさを満たしてくれることを期待するかのように、ハルヤと彼女――つながりの洞窟のラプラスは出会ったのだった。
 
「心配してくれるのか、ラプラス。俺が故郷に帰りたがらないのを、お前は誰よりも知っているもんな。……実は俺にもわからないんだ、本当はお前みたいに故郷が恋しいから、ショウジの押しに負けて明日からの旅を選んだのかもしれない、でもやっぱり今はホウエンに行きたいとも思ってないのが強いんだ、わからない……。それでももう決まったことなんだ、行った先に答えがあると信じるよ、ついてきてくれ」

 ハルヤの手の中で、ゲットした時と同じようにモンスターボールが強く揺れて星が飛び出した。これは、俺についてきてくれるってことなのかな。頼むよ、ラプラス……行きたいのかどうなのか、俺自身にも本心がわからない故郷への旅を、どうか支えてくれ――




 翌朝、リュックを背負ったハルヤはコガネサイクリングの前に居た。まだ朝も七時前とあって付近の人通りはまばらで、どの店もシャッターが下りている。少し早かったかな、と体を伸ばしていると、裏口からショウジが出てきた。

「おはよーさん、来てくれたんやな。さっそくやけどチャリンコ準備したからハルヤの分、持ってーな」

 ショウジが取りだしたのは、驚くほどに小さくなった折り畳み自転車であった。フレームは細かく折られ、前輪と後輪がほぼ重なって一輪車のようになるまで変形してしまっている。。

「すごいな、こんな折り畳みのやつがあるのか」
「コガネサイクリングの目玉商品や、今回のホウエン旅行の一番の目的はもちろんあのべっぴんさんに会いに行くことやけど、この自転車を広告して回ることもあるからなぁ。さ、行こか」
 
 ぐっと握りこぶしを作ったショウジの目はいつもよりも輝いて見えた。ポスティングを安価に頼んできたときと同じように、なかなか強かである。何か一つ行動を起こすのにも、本目的一つだけでは終わらない。そんなところにショウジの強さや魅力があるのだろうな、とハルヤは想像以上に軽い自転車に驚きながら頷いた。
 
「……って、あかんあかんすっかり忘れとったわ!」
「何か忘れものか?」
「いやいやちゃうねん、昨日はべっぴんさんに舞い上がっててすっかり忘れとったけど、ホウエンってハルヤの故郷やろ、つまるところ実家があるんやろ? そしたらハルヤはワイに付き合っとらんと実家に帰省した方がええやんけ、すまんなあ……」
「ああ、いいんだよそれは」
「なんでなんで、なんでや? 自分の生まれ育った故郷やろ、ふるさとやろ、ふるさとがそんなに嫌いか? 嫌いやからわざわざこの年でコガネまで一人出てきたっちゅーわけか? なんや、わけがあるんなら話してみ、ワイが力になるから、遠慮せんと話してみてーな……」

 ほら見ろ、昨日予想した通りの展開になった。ハルヤは心中で苦笑し、「まあ大したことじゃないんだ」とショウジを宥めた。

「まあ、ワケがあると言えばあるんだけどさ。大したことじゃないし、ともかく今回は実家に寄らなくていいよ」
「せやか。それならええんや」

 裏口の鍵を閉め、ハルヤとショウジは駅に向かう。盆シーズンの朝は出勤する人もまばらで閑散としていた。やっぱり自転車でスイスイっと走ればよかったかもな、楽やしなと話しているうちに、二人はコガネの中心地に位置するコガネステーションへとたどり着いていた。
 リニア線の開業当時はカントー地方のヤマブキとコガネを結ぶだけの路線であったが、現在はシンオウ地方とホウエン地方にまで路線が延長されている。「あらかじめ昨晩に予約取っといたわ、なんとかギリギリ二人分取れたわ」とホウエン行きのチケット二枚を見せびらかしながらショウジはにかっとした笑みを浮かべた。

 ホウエン地方方面へのホームに上がると、「まもなく二番線にホウエン方面行き、各駅停車カイナ行きが参ります」とアナウンスが響き渡った。いよいよ、二年ぶりにホウエンへと向かう時が来たのだ、とハルヤは唾をのむ。大丈夫だよ、と言いたいのか、左腰のボールが力強く揺れた。
 
 二人が席に座った後も短い停車時間の間に次々と人が乗り込んできて、座席はほぼ満席状態となった。「リニアは間もなく発車いたします」とアナウンスが流れてからほどなくして発車ベルが鳴り響き、続けざまに飛行機が離陸した瞬間のような、足元から地面がなくなったかのような浮遊感を感じたかと思うと、ホウエン行きリニアは地面を滑るようにコガネの街を発車した。

「このリニアはホウエン方面、各駅停車カイナシティ行きです。途中の停車駅は、アサギシティとカナズミシティです」

 郊外の住宅地もまばらになってきたあたりで自動放送によるアナウンスが流れ始める。それを聞き流しつつ窓の外の景色に思いを馳せていると、突然隣から軽快な“アオイのあいことば”の音楽が流れ始める。何事かと思って見ると、ショウジが苦笑しながら携帯端末を操作していた。

「いやーすまんわ、リニアに乗るのなんか久しぶりやったからマナーモードにするの忘れててな、はっはっは……」

 どうやらショウジに電話がかかってきていたらしい。今から“べっぴんさん”に会いに行く割に、コガネテレビのアイドル的存在であるアオイのテーマ曲を着信に設定しているなんてどうなってるんだか。ハルヤが呆れながらその様子を見ていると、マナーモードを設定するよりも早く二度目のアオイのあいことばが流れ始めた。まるで通話をブツ切りされることさえも読んでいたかのような、日常的にリダイヤル連打で悪徳業者を追いつめることに慣れているかのような、神速のリダイヤルが、ショウジの右手の中で軽快なメロディーを奏でている。

「だーもうしつっこいっちゅーねん……すまんハルヤ、ちょっくらデッキに出てくるわ」

 ショウジは周りの旅客にすんまへんすんまへんと謝りながら携帯端末を手にデッキへと出ていった。忙しい奴だ、と苦笑しながらも、ハルヤはその液晶画面に映っていたものを思いながらため息をついた。
 数分後に戻ってきたショウジは「いやー困った困った、なんかすごいしつこくってな、今日は休むっちゅーたのに……」と笑っていたが、いつもににかっとした笑顔ではなかった。そうか、と返したハルヤは、ショウジが席に着いたタイミングで切り出した。

「さっき見えたんだ、電話の相手は親だったんだろ」
「う……ハルヤ、よー見とるやんけ」
「どうしたんだよ、たまには俺にも話してくれよ」
「……わかった、話したるわ……。コガネサイクリングは、ワイと両親、家族三人でやっとる店なんや。ワイはずっと昔から家業を継ぐ気満々なんやが、両親は貧乏な自転車店なんか継がずに、もっと金に困らない仕事についてほしいらしいんやわ……」
「……うん」
「それでもワイは自転車店を継ぎたい、けれども両親はそれを認めてくれない……昨日、“お小遣い”ゆーたやろ、両親もタダ働きさせるわけにはいかへんからおカネ払ってはくれるんやけど、所詮はバイト程度……まるで、“こんなお小遣い稼ぎなんかしとらんと、勉強してお偉いさんになって幸せになってくれや”なんてゆーとるみたいにな」

 コガネ郊外を走っていたリニアは長いトンネルへと入り、海底を潜りながらアサギシティへと向かう。ほんのり暗くなった車内で、ショウジは俯きがちに続きの言葉を紡ぐ。

「せやから、この旅行はワイなりの“抗議”でもあるんや。口で言ってわかってくれへんならもう強硬手段で、“家出”っちゅー形で抗議したろうと思ってな。家出と呼ぶにはあんまりにも短期間やけどな、少しでもワイの気持ちをわかってもらえたらええなあと思ってな……すまんな、ハルヤを巻き込んでしもうて……」
「……そうだったのか。この一年つるんできたけど全然知らなかった、お前も色々あったんだな」
「ワイもハルヤと同じくらい、自分のことを話してこなかったからなあ」

 苦笑するショウジの顔にはにかっとしたいつもの笑顔が戻ってこない。それを目の当たりにしてようやく、ハルヤも自分のことを打ち明ける覚悟をした。それはショウジの顔にいつもの笑顔を取り戻したい気持ちであると同時に、つながりの洞窟の奥底でラプラスにシンパシーを感じたように、ショウジにも自分と似通った部分を感じ、共感したからであった。

「……なんとなく察しはついてるだろうけど、実は俺もホウエンから家出してコガネに出てきてるんだ」
「うん、せやか」
「俺もショウジと似てるのかもしれないな、状況は逆なんだけどさ。実家は家業をしてて、俺にそれを継げって迫ってきた。でも俺はその家業が嫌いでさ、昔から姉ちゃんたちが手伝ってるのを見ても、かえって反発して逃げてたんだ。そしたらあるとき親と大喧嘩になってさ……」
「ハルヤも色々大変やな。どこでも親と子の思惑は違うもんなんやなあ……せやけど、ワイとハルヤってやっぱり似た者同士やったんやな、道理で気が合うわけやな!」
「……かもね」

 ショウジの顔には、いつものにかっとした笑顔が戻ってきていた。そうだ、それでいい。辛気臭い顔はショウジには似合わない、それは俺だけでいいんだ。ハルヤの顔も自然とつられて笑っていた。

「お互い訳あり同士、これからも仲良くしよーな」
「もちろん」
「ありがとな。ワイもあんま長く居座るつもりもないし、きのみ農園でべっぴんさんを拝めたらすぐ帰るさかいに。ハルヤの実家がどこかわからんけど、なるべく避けれるように寄り道なしに農園まで向かうからな!」
「……うん、よろしく頼むよ」

 ――ごめんなショウジ、多分それは無理だな。俺もできればそうしたいんだけどさ。

「まもなく、アサギに到着いたします。連絡船はお乗り換えです」

 物思いに耽っていたハルヤを、自動放送の音声が引き戻した。いつの間にかリニアは長いトンネルを抜けて、港町アサギシティを高架橋から見下ろしていた。朝日はまぶしく海面を照らし、無数のキャモメたちが飛び交っているのがリニアからでもよく見える。「アサギでは停車時間中に車販があるって昨日調べたんや、カッチカチアイスでもどや?」とショウジがにかっと笑った。
 それにしても、リダイヤルの早さまでショウジとそっくりだったな、流石に親子だなあ。「いいね、食べてみよう」と口では答えつつも、心中で昨晩の高速リダイヤルと先ほどのリダイヤルを比べながら、ハルヤもにかっと笑い返した。
 


 二人がプラスチックのスプーンも通さないほどカッチカチに冷凍されたアイスと格闘している間にリニアはアサギからカナズミへと滑り、どうにかカップの淵の方からスプーンを差し込んで美味しくアイスを食べ終わる頃には、車内アナウンスが終点カイナへともう間もなく到着することを告げていた。ムロ・トウカ方面への定期便“ピーコ丸”への乗り換えアナウンスに懐かしさを憶えつつ、もうまばらになった乗客に混じってハルヤは降り支度を整える。
 カイナステーションから街に出ると、そこは煉瓦で綺麗に舗装された道路がまっすぐ海へと延びる活気ある港町であった。駅前の通りには色とりどりのテントがずーっと道沿いに並んでいる露店が視界の果てまで続いており、少し遠方に目をやると造船所らしい大きな建物でゴライアスクレーンが稼働していた。吹き込んでくる風も、どことなく潮の香りがする。ここに来たのも久しぶりだな、とハルヤの心は想像していたよりも遥かに落ち着いていた。やっぱりなんだかんだ言って俺も故郷が恋しいのかな、とショウジに目をやると、見るものすべてが新鮮なのか目を爛々と輝かせながらきょろきょろとしていた。

「あー、あー、やっぱりよその土地はエエなあ、新鮮やわ、永遠にここに居れそうな気がするわ……おっと、今回の目的を忘れたわけやあらへんで、はよキンセツへ向かわんとな、待っとれよべっぴんさん、今会いに行くで!」

 言うが早いかショウジは荷物から折りたたまれた自転車を取り出し、ハルヤもそれに続く。「ええか、ワイのやってるように組み立てるんやで」とは言ったが、ショウジは目にもとまらぬ早業であっという間に一輪車同然のサイズだった自転車を組み上げてしまった。教える気あるのかよ、とふくれたハルヤにショウジはにかっと笑い、素早く二台目を組み上げた。
 その曲芸同然の早業に、道行く通行人も思わず足を止めて物珍し気に見物していた。その数はだんだんと増えていき、二台目を組み終わる頃には二人の周りには人だかりができていた。驚くハルヤをよそにショウジはこれはチャンスとばかりに大声を張り上げ、いつの間にか持参していた広告を配り始める。

「ご覧いただけましたでしょうか、これこそジョウト地方はコガネシティが誇る自転車店、“コガネサイクリング”の目玉商品である、“へんそく折り畳み自転車”でっせ! “変則的”な折り畳み機構でフーディンもびっくりのコンパクトさを実現、どこでも片手で持ち運べる驚きの軽量さも実現やで! そして遠出に嬉しい、“変速”機能付き、ギアチェンジで一本道も坂道もスイスイっとあっちゅうま! お求めはコガネサイクリングまで直接お電話、もしくはこれからホウエンでもガンガン売り込んでくつもりですんで、おもろいなーと思ったらぜーひぜひ検討してくれると嬉しいですわ!」

 饒舌に商品を語るショウジに、人だかりも「あれ欲しいかもな」「面白そうだな」と口々にし始めた。流石のショウジだな、これで家業を継がせようとしないなんて勿体ないよ、とハルヤが感心していると、「さ、ほな行くで! キンセツ!」と既に自転車に跨ったショウジが急かしていた。

 人だかりに別れを告げ、“へんそく折り畳み自転車”がカイナシティの郊外へと快調に転がっていく。あれだけの折り畳み機構を採用したにもかかわらずフレームはしっかりとしていて、普段ハルヤが仕事で使っている自転車と遜色ないほどであった。ギアチェンジもチェーンが外れることなくしっかり機能し、二人はあっという間にカイナシティを抜けて110ばんどうろへと漕ぎ出していた。
 港町カイナシティと大都会キンセツシティを繋ぐ110ばんどうろは上下二つにルートが分かれている。地上をゆく旧道は曲がりくねっていて草むらが多く、野生ポケモンが多く生息している。その上を行く新道は自転車専用のサイクリングロードとして整備されており、旧道よりもスムーズに都市間を移動できる。二人は当然新道を選び、カイナシティ側の入り口ゲートをくぐる。盆シーズンとあってかサイクリストの数はあまり多くない。「レジャーとしてのサイクリングならもっと田舎の方に行くんやろなあ、まあ急ぐワイらにとっては好都合やな」とショウジが漕ぎ出そうとすると、ロード入口にいたサイクリストに声をかけられた。

「キミたち、なかなかいい自転車に乗ってるね。ここらじゃ見ないブランドだ」
「せやろせやろ、よーわかっとるやんけ、流石サイクリストやな。これはコガネサイクリングの目玉商品、“へんそく折り畳み自転車”やねん!」
「へえ、これ折り畳みなのか……すごいね。ところで、自転車を乗りこなす腕前に自信はある?」
「へ? あーまあ、仕事で自転車いじくるから自転車のことはよくわかっとるつもりやで」
「実は今俺たちの間でちょっとしたレースをやっててね、曲がりくねったこのサイクリングロードをいかに速いタイムで抜けられるか計測してるんだよ。時には対向のサイクリストもやってくるから、いいタイムを出すためにはある程度運も絡んでくるんだけどね。どう、やってみるかい?」
「もちろんやったるわ! コガネサイクリングを広告する上で、ぜーったいてっぺん獲ったるで!」

 ここでも自分の店を売り込むチャンスとばかりに燃えるショウジに、「俺は自転車に乗りなれてるけどそんなにスピードに自信はないし、ゆっくり追いかけてもいい?」とハルヤが問うと、ショウジはにかっと笑って「任せとき!」と答えが返ってきた。
 携帯端末でキンセツ側に連絡を取ったあと、笛の合図でショウジは勢いよくサイクリングロードへと漕ぎ出していき、あっという間に小さくなっていった。「こんな感じで反対からもレースを楽しんでる人がいるから、勝手で申し訳ないけど気を付けてね」と謝るサイクリストに頭を下げ、ハルヤも低速ギアでサイクリングロードへと漕ぎ出した。

 新道――サイクリングロードはアスファルトで綺麗に舗装されており、自転車を転がせど転がせどまったくタイヤが引っかかることなくキンセツへと延びていた。ある程度旧道に沿う形で建設されているため直線がずっと続くわけではないが、それがある程度のスピード抑制効果を生んでいるのだろう。もっとも先ほどのサイクリストたちのように、その制限の中でスピードを競い合うような人間もいるようではあるが。
 背負っているのはいつものような重い広告ではなく、数日分の着替えだけが入った軽い鞄。天気は快晴で蒸し暑いが、地上から高いこともあり風も心地良い。こんなに気分よく快調に自転車を漕ぐのなんていつぶりだろうな、とハルヤは上機嫌で自転車を転がした。時折後方からやってくるタイムトライアルに挑むサイクリストを道端で退避し、久々のホウエンの景色を眺めながらゆったりとキンセツシティを目指していると、新道の高架下でポケモンを戦わせている男女に目が留まり、思わずハルヤは自転車を道端に停める。
 バトルは今まさに佳境といった様子で、少年のヌマクローが窮地に追い込まれた中で激流を起こし向かっていくも、少女のジュプトルがそれを“リーフブレード”で鮮やかに打ちのめした。少女が嬉しそうにジュプトルとハイタッチするのとは対照的に少年はヌマクローをボールへと戻し、悔しそうに110ばんどうろをカイナシティの方へと引き返していく。

 ――俺も旅に出ていれば、あんな風なことを体験していたんだろうか。ポケモンと一緒に力を合わせて冒険して、時に誰かと戦って、勝ったり負けたり……。

 ハルヤが家を飛び出したとき、コガネで生活するという選択肢の他に当然、“ポケモンと共に宛てもない旅に出る”という選択肢もあった。けれどもハルヤは当時、同年代の中でも珍しく手持ちのポケモンを持っておらず、その選択肢は潰えた。
 サイクリングロードは当然野生のポケモンに出会うことはない。出会ってもせいぜい上空を飛ぶ鳥ポケモンくらいであり、滅多なことでもない限りは降りてくることもない。二年前の雨の日、キンセツ郊外で拾ったボロボロの自転車に乗り、誰もいないサイクリングロードを突っ切ってキンセツからカイナへと向かった日のことをハルヤはよく覚えている。

 ――あの頃と比べると、今はラプラスが一緒にいてくれるから、どこかを冒険しても平気だ。つながりの洞窟までの道中のように、むしよけスプレーをいっぱい持っていなくても平気だ。天気も雨降りじゃないし、自転車もピカピカ、そしてその自転車をくれた友達もいる……何もかも、あの日とは全然違うなあ。だから今、あんまりホウエンに居るのが嫌じゃないのかもしれないな……。

 昨晩は、実家どころかホウエンに戻ることでさえ大きな抵抗があったが、今実際にこうして来てしまえば、そんなことなどすっかり忘れてしまっていた。断固とした思いで出てきたつもりであったのが、実際はそれほど故郷を捨てきれていなかったからなのか。はたまたショウジが居てくれるから、気分が晴れているからなのだろうか。

 それでも。
 実家だけは、実家だけはまだ……。

 時計に目をやると、もう正午を過ぎる頃であった。そろそろ急がないとな、ショウジが待っている。この後の予定をどうしていくかも話さなければいけない――。
 自転車に再び跨り、ハルヤは入道雲がもくもくと沸き立つキンセツシティの方へとギアを上げた。



 数時間後、ハルヤとショウジは118番道路に跨っている海峡を渡っていた。ラプラスの長い首の向こう側にはようやく対岸が見え始めてきて、ショウジが露骨に胸を高鳴らせている様子なのに対し、ハルヤは言いようのない不安な動悸を強く感じていた。
 あのあとショウジはサイクリングロードを全速力で突き進み、これまでの挑戦者の中で最も早いタイムを叩き出していた。周りのサイクリストたちがみんな驚く中、ショウジがカイナでやったように商品の宣伝をしたところ、「その自転車、キンセツのカゼノさんのお店において欲しい!」との声が殺到し、二人はキンセツに着いてすぐにその店を訪問した。店に入るなり脱兎の勢いで店長を掴まえたショウジが、口約束ながらも僅か十数分で商談話を取り付けたのは言うまでもない。

「いやーそれにしてもカゼノはんは話の分かるお方やったな、いきなり押し掛けたワイのことをちゃんと受け入れて真面目に話聞いてくれたし、今度家出が終わったら親父踏まえてチャリンコの取引話をするって約束もでけたわけや。男前やで!」
「……すごかったな、ほんと」
「な。……突然やけど、ハルヤはもし家出が終わったとしたらどうしたいんや?」
「……は、えっ?」
「ワイはまあ言ってしまえば一時的な抗議、いわばプチ家出やけどな。この家出が終わったら、まっさきにカゼノはんの話して、みんなでキンセツに来て正式な商談にこぎつけて、それを以ってしてワイが自転車屋を継いでいくことを正式に認めさせたるつもりや。ほんでもってあのべっぴんさんにその話を売り込んで仲良くしてもらうんや、完璧やろ、な?」

 俯きがちにラプラスの甲羅の模様を眺めていたハルヤが突然の質問に狼狽えるのを無視し、ショウジは自分勝手ともとれる希望を語り始めた。それは簡単に家に戻るつもりもない、家業を継ぐ明るい未来も見えず、好きになった女性もいない、何も持ち合わせていない俺への当てつけなのか。鈍いショウジにもわかるくらいのふてくされたトーンで、「俺にはまだそんなことは考えられない」と返す。

「せやけど、いつまでもこのままってわけにもあかんやろ。ハルヤにも、もし家出が終わって実家に帰る日が来ればこんなことがしたい、って希望はないんか?」
「……」
「まあ確かに事情も全然違うし、このまま実家と絶縁して生きていくんでもエエとは思うけどな。せやけどハルヤは今こうしてホウエンに、生まれ故郷におる、ワイっておまけがくっついとるけどな。過程はどうあれ二年間断ち切っとった土地に来たっちゅうことは、何かしら思いがあるんとちゃうのん?」
「……ここに来たのは、“べっぴんさん”目当てのショウジに勢いのまま引きずられたからだ」
「まあせやな、せやせやそれもある。せやけど、めーっちゃ急な話やったし、おカネの必要なことやけん、嫌なら断れたやんけ。違うか?」
「……ショウジには、あのとき助けてもらった、あれから仲良くしてくれた、恩があるから」
「嘘こけ、もうそれは広告代でちゃーんと返してもらったってわかっとるやろ。仲良くするのにお駄賃が要るなんてさみしーこと言うなや、泣くでホンマ。まあなんにせよ、や。もうすぐ念願のきのみ農園や、緊張するなあ、な、な?」

 ラプラスの背中から見る海峡はもうすぐ終わる。小さな砂浜の対岸の先には森と草むらが広がっていて、その真ん中を突っ走っている道路は視界のずっと奥の方で北と東に向かって二つに分かれている。北へ向かう道の先は分厚い雲が、東へ向かう道の先は切り立った崖が待ち構えているのが見え、分かれ道をどちらに向かうかで運命は大きく変わりそうだ。
 まるで俺の未来を暗示しているかのようだな――。久しぶりに見る景色を目の前にハルヤは小さくため息をつきながら、甲羅の突起をつかんでラプラスを降り、数十分ぶりの大地を踏んだ。がっしりとした甲羅から柔らかな砂に足の裏の感触が変わる。こんな感覚ももう二年前のあの日以来か、とハルヤは118ばんどうろを複雑な面持ちで睨んだ。
 ばしん! と鋭い痛みが背中に走り、「何するんだよショウジ」と口走りながら振り向くと、そこにはヒレを掲げて笑っているラプラスが居た。ショウジはハルヤから数歩離れたところでにかっと笑みを浮かべている。「いたずらやと思うとるんか、ほんまにワイやないで。ほら、ワイの足跡なんかないやろ?」というショウジの言葉通り、本当にラプラスがハルヤの背中を打ったらしい。

「ハルヤ、ラプラスはきっと“大丈夫や”言うてるんやと思うで、ワイにはそう聞こえる。事情はよく分からへんけど、ハルヤはなんか怖がっとる――きっと、この辺に実家があるとか、なんか家出に関わる嫌な出来事があったりとかするんやろ?」

 どくんどくんと打ち続ける心臓にナイフを突きたてたような、鋭くて冷や汗を感じる指摘。ここまで来てしまったのだ、もはや逃げることはできないのか。ハルヤは数秒迷ったのち、黙って首を縦に振った。

「ハルヤはワイの勢いのままここまで来てしもうた、それでもええ。それでもそれでも、ここまで来てしもうたんや。自分のなんか嫌な思い出のある場所へ、不本意ながら来てしもうた。さっきも言うたけど、やろうと思えば避けられたはずなのに、や」
「……」
「勢いのままにやとしても、ハルヤは何かしらの決心をしてここに立っとるはずなんや。無自覚やとしてもきっとそうなんや……せやから、人間よりもずーっと鋭い感覚を持ってるラプラスはそれを感じ取って、文字通り“背中を押して”くれとるんちゃうか?」

 ラプラスの方に向き直ると、ラプラスはにこやかで清らかな笑みを浮かべながら一度だけ頷いた。太陽のような明るい微笑みだった。微笑みながら、ラプラスは前ヒレで空を叩くような素振りをしてからうんうん頷き、一人でに腰のモンスターボールへと戻っていった。空っぽになった海を見つめながら、「なんでみんなそんな知ったような口をして……」とぽつり。心の中のひとりごとのつもりが、いつの間にか呟きとなって外に出てしまっていた。はっと口を押さえたハルヤにショウジがにかっとする。

「はよ行こか、目指すは123ばんどうろやでー!」

 ショウジは右手の握りこぶしを力強く天に向かって突き上げ、いつもの三割増しのペースでずんずんと東に向かって歩き始めた。まだかすかに背中に残る痛みをじんじんと感じながら、ハルヤもそのあとを小走りに追う。
 草むらの間を縫うように伸びる土くれ道を十分ほどゆくと、もうラプラスの背中から見えていた分かれ道に行き当たった。風雨に曝されてすっかり傷んでしまった木製の立て看板には、「北:119ばんどうろ、おてんき研究所とツリーハウスの村“ヒワマキシティ”はこちら」とうっすら書かれている。その横にはまだ真新しい様子の立て看板がもう一本立っており、きのみがたくさん描かれた賑やかなイラストのど真ん中に「東:123ばんどうろ、“ひふみきのみ農園”はこちら!」と書かれている。ハルヤの背中の痛みはすっかり消えていたが、代わりに胸がずきんとした。吐く息が固形をしているかの如く重苦しい感覚。横をちらりと見ると、ショウジは大きく深呼吸していた。

「ーっ……しゃ、よっしゃ、よっしゃよっしゃ! 遂にここまで来たなあ……まだ一日と経ってへんけど、いやーこんな手間で来れるんやったらもっと早く来るべきやったな、ちょっぴり損した気分や、せやけどここまで来たんや、もう覚悟を決めて、どっかーんと一発かましてやらなアカンのや! なあ、ハルヤ、行くでーっ!」

 吸い込んだ一息で句点なしに叫び倒したショウジは勢いそのまま東へ走り出し、念願の“123ばんどうろ”へと踏み出した。覚悟を決めるってなんだよ、お前と俺とじゃ覚悟を決めるにしたってその重さが段違いなんだ、わかってくれよ。いや、もしかして。さっきから口ぶりが変だ、まさか、ショウジはわかっているのか、わかっていて俺を焚きつけるのか、煽っているのか。俺にはもう何もわからない――
 ハルヤはずっしりとした一息を何とか吐き出し、北の森へとまっすぐ伸びていく高い草むらの道を見つめる。今すぐそっちへ走り出したい、ショウジにはついていけない、逃げたい、東には行きたくない。だって、そっちには、そっちにあるのは。

“ぐわんぐわんぐわん!”

 今度は左腰に痛み。はっと目をやると、腰に付けたラプラスのモンスターボールがすごい勢いで揺れ、ハルヤの身体を揺さぶっていた。やめさせるためにボールに手をかけると、開閉スイッチも押していないのにひとりでにボールが動作し、ラプラスが118ばんどうろに現れた。どうしたんだよ、と震える声で尋ねようとしたそのとき、ラプラスの前ヒレは再びハルヤの背中を打っていた。ぐうっ、と思わず呻きながらラプラスの方を見ると、ラプラスはその長い首をハルヤの肩に預け、さながら抱きしめるように身体を寄せた。

「ラプラス、ラプラス、俺に逃げないでがんばれよって言ってくれるのか? ……ありがとう、……うん、わかった」

 にわかにふっと熱くなった目頭。いやいやまだだ、今からそんな弱気でどうするんだ、ここまで来てしまったんだろう、ハルヤ――
 熱い感情を瞳の奥底へと押し込み、だらんとしていた両腕でラプラスの首を抱きしめ、静かに目を瞑った頭を撫でてやる。二年前のあの日のこの場所よりも体はずっと逞しくなり、寂しかった腰にはラプラスが寄り添っている。そうだ、今の俺は違う。あの時言えなかった思いの丈をぶちまけることだってできるんだ――

 ショウジはもう随分と遠くにいて、後ろ向きに進みながら千切れんばかりに両腕を振り回している。その必死の熱量にちょびっとだけ噴き出した後、額をくっつけあいながらラプラスをボールに戻し、ハルヤは東に向けて一歩を踏み出した。そこはもう“123ばんどうろ”――二年前のあの日、もう帰ってなんか来るもんかと捨て台詞を吐いた道路であった。

 港町ミナモシティと中央都市キンセツシティを結ぶ短絡路を担う123ばんどうろは、諸所に切り立った崖が立ち並ぶ過酷な道であり、殆どミナモ側からの一方通行となっている。そのため交通路としてはあまり機能していない寂れた通りなのだが、付近一帯が年中雨に悩まされるのに対して非常に日照時間が長く、土の質も良い。極めつけに切り立った崖を活かして段々畑をつくることができるため、この土地はきのみ栽培に非常に適している。そこに目を付けた一人の男が、118ばんどうろに接する西側の土地一帯を開拓して作り上げたのが、二人が目指していた目的地である“ひふみきのみ農園”である。
 農園の入り口に建つ立派な二階建ての建物の玄関口で、ショウジは息を切らし気味にハルヤを待っていた。「いや……ちょっと気張りすぎてもうたわ、こんなカッコでお会いさせていただくわけにはいかんし、ちょっと休むわ……」と肩で息をするショウジをちらと見て、ハルヤは二年前となんら変わらない“実家”を睨むように眺めた。玄関の横に置かれた豊作祈願のトロピウスの置物も、「ひふみきのみ農園従業員詰所」と書かれた案内板も、倉庫に置かれたスコップや手押し車も、自分が飛び出してきたときと何ら変わらない。仄かに懐かしさを憶えつつも、ハルヤの心は空を覆う灰色の雲のように沈んでいた。

 ハルヤはまだ迷っている。
 事情を察しているのかよくわからないショウジやラプラスに背中を押される形で帰ってきたこの地。二度と帰ってくるものかと吐き捨てた割にはここは懐かしく、恋しさもある。
 けれども、まだ気持ちに整理がつかない。今突然帰ったところで、親は自分に何と言うだろうか。自分は親に何を語るだろうか。親は自分を受け入れるだろうか――?

“ぴんぽーん!”
「こんちわー! コガネからやって来ましたショウジと申しますーっ!」

 甲高い電子音に「え」と発する間もなく、先程まで肩で息をしていたショウジがインターホンに向かって胸を張っていた。おいおいおい、と口の中が動揺してもごもごしている間に、「はい」と野太い声がスピーカーから返ってくる。その声の主を、ハルヤは誰よりも知っている。二年の間遠ざけていたとはいえ忘れるはずもない、間違えるはずもない。
 
 電流が奔ったような感覚と同時に背筋が凍るように冷たくなり、足の裏が震えていた。二年前までの、脳味噌の奥に封印していた記憶がフラッシュバックし、心臓が口から飛び出すのではないかというくらい激しく脈打ち始めた。そして、ショウジが止める間もなく、ハルヤはその場から全速力でダッシュしていた。
 
 パニック、錯乱したまま走ったハルヤは元来た道を引き返すわけではなく、広い広いオボン畑をがむしゃらに突き進んでいた。収穫期を控えたオボンたちはみな黄金色の果実を付け、葉は青々と茂っている。時折長く伸びた枝にぶつかりながらも、ハルヤはとにかくその場に居たくなくて、まだ会いたくなくて、大きく手を振り回して、ホウエン一と称される広大なオボン畑の中を走り続けた。
 いつの間にか空は灰色から黒へと変わり、この土地には珍しく雨の気配を匂わせていた。迷いと不安を抱えていながらも決心を固めていたハルヤの心情が、いざその場に立つと一瞬にして逃げ腰に代わってしまったかのように表情をがらりと変えてしまった空。始めはぽつぽつ、といった様子であったのだが、やがてハルヤとほぼ同じタイミングで大粒の涙をこぼし始めた。ざあざあ、という響きの中で、ハルヤの嗚咽がかき消されていく。

「何をそんなに泣いているんだ、お前は」

 数分前、二年ぶりに聞いた野太い声。腕でぐいっと涙をぬぐってゆっくり振り返った視線の先には、長い髪の毛を侍のように一本結びにした恰幅のいい男――“ひふみきのみ農園”の開拓者にして、ハルヤの父親がびしょぬれで立っていた。髪の毛には滲んだ視界でもわかるくらいに白髪が混じっていて、記憶違いかもしれないが少しやつれたようにも見える。「別に」とやっと絞り出した裏で、「老けたな、親父」と少し胸が痛くなった。ほんの少し見ない間に、こんなになっちゃって――

「……少し話すか」
「……うん」

 父親に促され、ハルヤはひときわ大きなオボンの木の根元に座り込む。ぷちっと音がして見上げると、水しぶきと共にオボンのみが降ってきた。「まだ少し収穫には早いが、十分に熟れてるから食べられるはずだ」とオボンを丸かじりしながら父親が隣に腰を下ろした。

「早いものだ、お前が家を飛び出したあの日からもう二年くらい経つか」
「……多分そう」
「……そうか。確かあの日もこんな雨降りだったな」

 時折葉の隙間から落ちてくる大粒のしずくが、食べかけのオボンに落ちてしぶきを上げる。前に食べた時よりも瑞々しく感じるのはそのせいだろうか、前に食べた時よりも元気になっているような感覚があるのは気のせいだろうか、懐かしさが補正をかけているのだろうか。前歯に硬い種を感じてそれを吐き出したとき、父親が言葉を続けた。

「どうしてだ?」
「……」
「どうしてあの時ここを逃げ出したんだ、と聞いている。咎める意図はない、わからないから聞いているんだ」
「わからない、だって? 冗談はやめてくれよ……この二年で耄碌したのか、忘れたのか?」
「なに?」

 まさか息子からそんな言葉をかけられると思っていなかったのか、ドスの効いた“なに?”という短いフレーズが父親の口から放たれる。二年ぶりに体感する、心臓をわしづかみにされているような威圧感。赤くなった目からまた涙が逆戻りしてきそうだ。
 ぐわん、と左腰に感覚。言うまでもなく、ラプラスのボールが揺れていた。そうだ、ラプラスが背中を押してくれたんだ。成り行きだとしてもここに来てしまった以上、父親――家を飛び出すきっかけを作った相手に会ってしまった以上、全部吐き出すしかない――!

「親父はいつもいつも、俺の意思を全然考えてくれずに農園の仕事を押し付けるだけだっただろ! 確かにこの家に産まれた以上仕方ないことだし、姉ちゃんたちが手伝ってる中俺だけが手伝わないっていうのは変だ、俺も申し訳ないとは思ってたんだ、それでもやりたくないことを無理強いしてきたのは誰だと思ってるんだよ!」
「……誰のおかげで、温かい家があると思っている。誰のおかげで、うまいメシにありつけると思っている。誰のおかげで、キンセツの学校に通えていたと思っているんだ、ハルヤ?」

 痛いところを突かれ、ハルヤの眉が下がる。親に扶養され、言わば生殺与奪の権利を握られている“こども”にとっては、それを言われてしまうと反抗できなくなってしまう。論破することはできなくなってしまう。
 だとしても。俺には温かい家を飛び出して、自分の稼ぎで飯を食って、仕事をしながら生きていく選択肢を取るだけの思いがあるんだ。左腰のボールをぐっと握り、ハルヤは負けじと叫ぶ。

「子供の面倒を見てやってるから、親は子供に何をしてもいいのかよ、自分の思うような道を無理やり進ませていいのかよ、親がレールを敷いたら、その上に子供を乗せて無理やり進ませていいのかよ! 子供は親の奴隷じゃない、傀儡じゃない、俺だって意思をもった一己の人間だ!」
「……ハルヤ、お前の意思は、なんだ」
「……あの時の俺は、きのみの世話なんて泥臭い仕事が嫌だった、それを無理に押し付けられるのはもっと嫌いだった。だから、この農園の仕事なんて嫌だ、したくない――だったんだけど」

 勢いに気圧され、沈みがちに聞いていた父親の目つきが変わる。ハルヤの顔つきが凛々しく変わる。雨の音はいつのまにか聞こえなくなり、葉先から垂れるしずくが水たまりに落ちてぴちょり、と音をたてた。その余韻を打ち消すように、ハルヤは自分の最後の思いをぶつける。

「家出先で仕事をしてみて、汗だくになって走り回ってみて、そういうのも悪くはないのかも、ってちょっぴり気持ちは変わった。俺にだって親父とお袋、姉ちゃんたちへの恩返しがしたい気持ちはあるさ。まだ前に無理強いされたことに関しての気持ちの整理がついてないけど――」

 今なら、家に戻って、仕事を手伝ってみてもいい。
 大きな大きな決断。それを口にするかどうか迷い、長く息を吐いたとき。横に居た父親の目は、うっすらと光っていた。それは決して雨垂れなどではなく、紛れもなく瞳の奥からあふれ出した思いそのものであった。自分の子の意思を無視し、自分の思う通りに動かすことこそが正解なのだと信じて疑わなかった男の心が動いていた。ハルヤが固まったままでいると、微かに震えた声で父親がつぶやく。

「いいんだ、その続きは。俺はお前を、お前たちを、俺の思うように歩ませようと無理強いをし続けてしまっていたんだ……本当にすまない。ハルヤ、せめてお前だけでも、自分の選んだ道を進んでくれればいい……お前が自ら、汗だくになる仕事を悪くないと思えた、それだけでも父さんは満足できたんだ」
「親父……」

 いつの間にか雨は止み、雲の切れ間から暖かな太陽の光が差し込み、瞬く間によく知られる123ばんどうろへと変わっていく。樹の下から出てみると、遠い空には七色のアーチが輝いていた。
 手の届きそうなくらいの高さによく熟れた大きなオボンのみを見つけて手を伸ばすと、まるでハルヤが手に取るのを待っていたかのように、果実は枝から独りでに落ちて手のひらに収まった。親父、と声をかける。

「オボン、美味しかったよ。久しぶりだからかわかんないけどさ、前よりも瑞々しくて元気が湧いてくるような感じがした。頑張ったんだよな、すごいよ、親父」
「……ああ」

 不意に足音が聞こえてきてそちらを見ると、ショウジがにかっとした笑みで歩み寄ってきていた。ハルヤもにかっとした笑みでオボンを掲げて手を振る。「今日は友達も一緒に泊まっていけ」と、父親は初めて笑った。

 ああ、やっと、前に進めたんだ。
 くるんくるんと嬉しそうに回りたがっているラプラスのボールを撫で、ハルヤは瞳からしずくをこぼしながら、遥か彼方の虹の橋をずっと見つめていた。



「それにしても、ショウジが俺を嵌めてたとはなあ……」
「嵌めたとはなんや、手助けしてやった、やろ。ここまでうまくいくかはわからへんかったけど、結果的にハルヤは親父さんと仲直りできたわけやし、しかも自由な生き方を公認で勝ち取れたわけや。これ以上のことがあるんかいな?」
「……そうだな、ありがとう」
「礼には及ばんわ、よかったなあ、ハルヤ」

 翌日の帰路のリニア特急で、二人はカッチカチアイスをつつきながら談笑していた。窓の外の景色はびゅんびゅん遥か後ろへと流れていき、もう二人はホウエン地方を抜けてジョウト地方へと帰ろうかというくらいの場所まで戻ってきていた。

 あの後話を聞くと、ショウジはハルヤの実家の事情を知っていて、突発的に見えて実は計算的にホウエンへ行く提案をしていた。コガネサイクリングにやってきた“長い髪の男”とは即ちハルヤの父親であり、ショウジはその自転車のメンテナンスをしたときに「実は君と同じくらいの年の息子がいるんだが、二年ほど前に家を飛び出してしまってね……どこへ行ったんだか、話すらできなくて困っているんだ」という話を聞いていたのだった。すぐにハルヤのことだと知ったショウジはそのことを話し、早ければ翌日にでもきのみ農園までどうにか連れて行ってみせると話を付けていた。
 
「ハルヤの親父さん、元々はジョウトの人間やったんやな」
「え、そうなのか……知らなかった」
「せやからお盆のシーズンになるとウチでチャリンコ整備してから実家へ帰っとるらしいわ。お盆のシーズンはオボンのシーズンでもあるから、あんまし長居できないのが辛いってゆーとったわ」
「確かに夏場になるとちょっと家を空けてたな、そういうことだったのか」
「ワイの親父に聞いたら、ハルヤの親父さんはむかーしトレーナーとして旅しとって、コガネサイクリングの自転車を旅しながら宣伝してくれたらしいねん。せやから今回のことはいわば恩返しみたいなもんやな」
「まさか俺たちの親同士にそんな繋がりがあったなんてな、世間は狭いなあ」

 種別が特急のリニアは、行きに停車したアサギを一秒とかからずに高速で通過し、車内にはコガネに間もなく到着する旨のアナウンスが流れ始める。あっという間の出来事だったな、こんなに着替えもいらなかったよとハルヤが荷棚から荷物を下ろしていると、ショウジがにかにかしながら自分の荷物を開いた。中に入っていたのは数日分の着替えではなく、コガネサイクリングの広告の束。「随分と配れたけど余ってもうたわ」と笑うショウジ。

「最初からこうなるのを見越してたのかよ、かなわないな」
「二年の家出やから一日でカタが付くとはあんまし思っとらへんかったけど、すんなりいってくれてホンマによかったわ。おかげさまで汗まみれの服を着まわさなくて済んだし、広告もぎょうさん配れたわけやし! 何もかもが全部思い通りやったわ!」
「“べっぴんさん”に会いに行く割に“アオイのあいことば”を着信に設定してたのも、最初から相手が俺の姉ちゃんだってわかってたからか。仲良くなろうだなんてのも俺を無理やりホウエンに連れ出すための口実だったってことかよ?」
「せやせや。ハルヤの姉ちゃんは紛れもなくべっぴんさんやしできればお近づきになりたかったけど――コマーシャル見たときに二人とも薬指に指輪はめとったの、ワイは抜かりなく見とったんやで」
「……流石だな、参った。全部俺を嵌めるための演技」
「嵌める、やないってゆーとるやろ、オイッ!」

 あははは、と二人して笑っている間に、リニアはスピードを落としてコガネシティ郊外に進入した。そろそろ降りる支度をしないとな、と二人は袖を通さなかった着替えと広告の入った荷物を手に席を立ち、乗降口前のデッキに移動した。程なくしてリニアはコガネステーションへと到着し、まばらな降車客と入れ替わりに帰省客を大勢乗せたリニアは、終点キッサキへと向けて滑り出し、あっという間に見えなくなっていく。その尾灯を見送りながら、ハルヤが口を開く。

「ショウジ、俺は本当の意味で自由になれたわけだけど、実家に帰るつもりもなければ、このままコガネで仕事を続けるつもりもなくなっちゃった」
「ほー。なんや、やりたいことができたんか」
「うん。俺さ、ラプラスと旅をしてみようと思うんだ。ただの旅じゃない、この“へんそく折り畳み自転車”に乗って、“ひふみきのみ農園”のオボンを持って、色んな場所でこの二つを“広告”して回りたいんだ。これなら無理強いされるわけでなく今まで支えてくれた家族に恩返しができるし、ショウジの店の売り上げにもう貢献できるし、俺の経験もちょびっとだけ使えるかなって」
「ええやんけええやんけ、めっちゃええやんけ! コガネからおらんくなってまうのはちょっぴり寂しいけど、別に今生の別れやあらへんもんな、いやー素晴らしいことや!」
「だろ、我ながらいいことを思いついたなーって。よーし善は急げだ、帰ったらすぐに荷物まとめて、仕事を辞める手続きと、家を引き払う手続きしなきゃな!」

 誰かの調子が移ったかのように勢いと早口をいかんなく発揮するハルヤは改札を小走りに走り抜けてショウジを急かした。まったく調子のいいやっちゃ、とにかにかしながらショウジはハルヤの後を追い、メインストリートへと向かう。もはやハルヤの表情には、昨日までの物憂げな雰囲気は一パーセントたりとも含まれていなかった。
 二人の家はそれぞれに反対方向。帰路が別々に分かれるタイミングまで来てハルヤは唐突に思い出した。「そうだ、ショウジの家出のほうは何も解決してないじゃん! 大丈夫なのかよ、今度は俺にも手伝わせてくれ!」と真面目な面持ちになったハルヤに、ショウジはにかっとした表情で向き合っていたが、やがてジャポのみが弾ける様に爆笑し始めた。

「あーハルヤすまんな、あれも実は演技やったんや、あらかじめ乗る列車を親に伝えてそれっぽく電話かけてもらってただけんや、すまんな! ワイと両親の間には確かに家業を継ぐ継がないの確執があったんやけど、それはもうとっくに解決済みやわ」
「え、うそ、マジかよ……俺とお前はお互いに親から理解されてないって共通項があると思ったのに、騙しやがったな!」

 ハルヤの右裏拳をひらりとかわしたショウジはにかっとした笑みを浮かべた。お前ってやつはまったく、と毒づくハルヤの表情は満面の笑みであった。

「結果的にいい方向に転がったんやから結果オーライや、お咎めなしや! あーそうそう、実はアオイちゃんとは親戚関係やから、着信に設定してるのだって下心とかやあらへんのや、これも騙されとったか? へへへ、いつどこへ向けて旅立つのか知らへんけど、決まったらぜーったい連絡せえよ! ほな、また! またなーおつかれさんっ! 気を付けてな!」

 言いたいことを言いたいだけ言って、ハルヤを騙していたことをにかっと笑い飛ばして、反論の機会を与えないままにショウジは踵を返して家路を駆けていく。ちくしょう、絶対旅に出た後になってから連絡してやる――ああでもそれやるとあの面倒な着信が飛んでくるだろうな、旅先であれを受けたくはないな……ちくしょう、どうやっても敵う気がしないや。ハルヤは小さくなっていく後ろ姿ににかっと微笑みかけ、家路を歩みだす。
 左腰のモンスターボールが、嬉しそうにいつまでもぐわんぐわん揺れていた。