With love,

ただいま!なつやすみ!まっさいチュウ~!
イラスト
編集済み
(一)


 向かう山のてっぺんには入道雲。そして視線をあげていくと、白の絵筆を叩いたような透き通ったうろこ雲が、千切れ千切れに広がっている。くっきりと鮮やかな青空の中で、入れ替わりつつある夏と秋。もうすぐ夏休みが終わるんだという切なさが、消えかけの花火みたいに、ちりちりと胸の奥で音を立てた。
 小学四年生、夏休み、最後の最後の三日間。
 結愛ゆあは少し緊張していた。そして隣でハンドルを握っている恵太けいたも、どうも緊張しているようだ。前から控えめな人だとは思っていたけれど、ここまで会話に困った記憶はない。それとも、とびきりの話の種になる彼の黄色いパートナーが、今この場にいないからだろうか。
 山道をかけあがっていく軽トラには冷房を効かせる余力がないらしく、車内は暑い。シートはうんと狭いし硬いし、カーナビでテレビも見れないし、足元には砂があがっている。普段は使わないのだろうきつすぎる芳香剤の匂いも、けど、なんだか嫌じゃなかった。ダッシュボードの上に慌てて埃を拭ったような跡を見つけると、十四も年上の従兄の気遣いが、結愛には嬉しくて、くすぐったいのだ。
 恵太の運転は性に見合わず荒っぽい。軽トラはこっちが心配になるようなエンジン音を気張らせながら、木漏れ日ひしめく山道をぐんぐんと登り続けている。
「……すごい道だね」
「あ、うん……」
 悪路に尻がはねあがるたびに抱きしめていたポシェットを、なんとなく開いて中を覗いた。お母さんに持たされたお小遣いの入った財布、ハンカチ、まんまるい黄緑色の物体。そして、ポストカードが入っている。
 ポストカードを手に取って、いつ見ても飽きない景色に再会する。

 風の吹く草原。
 心まで晴れ晴れとするような空。
 重そうに枝をしならせる木々。
 黄金色に輝くオボン。
 いま、その枝のひとつから、太ったひと玉がぷりんと落ちる。
 重みを失った枝葉は上へはじけて、雫がきらきらと舞いおどる。
 そして、雨上がりの空には、大きな虹がかかっている。

 きゅうと胸が締め付けられるようで、それでいて心はバネブーになってわくわく弾んでしまうようで、とにかく大好きな景色だった。春休みの途中に恵太が送ってきてくれたポストカードを、結愛は一学期のあいだじゅう、勉強机の上に飾っていた。その写真を目にするたび、爽快でみずみずしい柑橘の匂いが、ふわっと鼻の中を通り抜けた。
 長い一学期が終わり、夏休みも半ばにさしかかったとき、ふと思いついて、宛名面に綴られたメッセージを読み返してみた。文末に、恵太の名前に添えて変な英語がひっついていることに、その時になってやっと気付いた。

 『With love』。

 loveは分かる。withはなんだろう。家にあった英和辞書を試しに開いてみた。ともに。一緒に。loveと一緒に。つまり――愛を込めて。

「あっ!」

 久々に喉から弾き出された恵太の声は半分裏返っていて、次の瞬間、体がガクンっとつんのめった。
 悲鳴のようなブレーキ音を立てて軽トラが止まる。右手は森。左手も、森。狭い山道をとおせんぼするように、木が斜めに倒れかかっている。
「参ったな、こりゃ」
 手早くシートベルトを外しドアを開け、恵太は座席から飛び降りた。
「行きはこんなのなかったのに」
「ポケモンがやったの? カイロス?」
「リングマかな。最近多いんだ。あいつら、自分のでかさを考えずに木に登って、どんどん枝を折りやがるんだよ」
 勢いよく、ばん! とドアを閉めながら、恵太は荷台に向かって叫んだ。
「ごめん、急ブレーキ。大丈夫だったか?」
「ぴっかあ」
 振り向くと、リアウインドウの向こうに、とんがった耳が二本生えている。
 恵太の姿は、運転席の窓からフロントガラスへと移動していく。結愛も急いでシートベルトを外した。ドアを開ける。ぶあと入り込んできた森の空気は、湿っていて密度が濃くて、独特の匂いに気圧される。軽トラックの座席は高く、乗るときはそうでもなかったが、降りるのはちょっと怖い。
「いいよ、結愛ちゃん、乗って待ってな」
 恵太は彼の胴ほどある木を抱えながら言う。結愛は座席から顔だけ出した。
「けいちゃん、ポケモンは連れていないの?」
「ピカだけ。他の子はみんな仕事頼んでるから……ッ」
 軽トラのエンジン音よりうんと情けないうなり声が、倒木をちょびっとだけ動かした。
 何もせず見守っていていいのだろうか。はらはらと顔を覗かせていると、頭の上のほうで、とんっ、とん、と音がした。体をひねって見上げると、ルーフの上から、黄色い顔がこっちを見ている。とんがった耳。赤いほっぺた。『ピカ』という何とも分かりやすい愛称のピカチュウは、元は助手席に陣取っていて、結愛が乗ることで荷台へと押しやってしまった、もう一匹の同乗者だ。
 にこにこ顔で見下ろしてくるピカのことを、結愛はちょっと面食らいながら見上げ続けた。恵太のうなり声がひときわ高くなる。ピカは手伝わないのだろうか。
「……わたし、手伝わなくても大丈夫かな?」
 空に向かって結愛が訪ねると、にこにこ顔のまま、ピカはこくんと頷いた。

「うん、大丈夫」

 知らない声がした。
「え」
 思わず周りを見回した。誰もいない。あっちでうなっている恵太の声とはまったく違う声だった。小さな男の子みたいな声。結愛はまた空を見上げた。ピカチュウの真っ黒でつぶらな瞳が、にこにこしながらこちらを見ている。
 結愛がなんにも返さないでいると、ピカは『3』を仰向けに寝かせたような格好の口を、もう一度開いた。

「もしかして信じられない? 任せておきなよ、恵太って見た感じは頼りないけど、人間にしては力持ちだからね。ぼく体重六キロくらいあるけど肩に飛び乗っても平気だし、ほら、旅もしてきたし。あと今やってるのも結構力仕事なところあるから」

 ぱくぱくと小さな口のうごきに合わせて、男の子の声が流暢に語る。
 ――確かに信じられない。けど、信じられないのはそこじゃない。

「……しゃ、べ、った……」
 目をまんまるにする結愛の向こうで、よおしこれで通れるかな、と恵太が額の汗を拭った。それから、未だドアをあけっぱなしの結愛を見て、おれ、意外と力持ちだろ、と笑った。
「ピカなんか体重六キロくらいあるけど、飛び乗ってきても平気だし……ほら、旅もしてきたし。あと今やってるのも、結構力仕事なところあるから」
 オーバーオールの木くずを払い、再び運転席へ乗り込む。ばん! ドアが閉まる。ピカの顔がひゅっとルーフの方へと消えて、続いて荷台側で足音がした。結愛もドアを閉め、後ろを振り返ってみた。リアウインドウの向こうから、ピカの顔上半分が覗いていた。くりくりした目はいたずらっぽく光りながら、結愛と視線を合わせている。
「シートベルト締めといてね」
「……ねえけいちゃん、ピカって、喋る?」
 言ってから後悔した。なんて馬鹿っぽい質問をしたのだろう。
 けれど、再び軽トラを発進させた恵太は、困りも、呆れも、馬鹿にしもしなかった。道の先を見ながらふうと目を膨らませて、それから、なぜか、とても嬉しげに歯を零した。
「喋ったか? ……実はおれも一回だけ、ピカが喋ったような気がしたことがあるんだ。信じてくれやしないと思って、誰にも内緒にしてたんだけどね」



(二)



「――ぴぃーか、ぴっかぁ。ぴかぴっか、ちゃっぴー、ちゅう。ぴっ、ぴか、ちゃあー」
 ピカはちょっとお喋りだった。けれどそれ以外には、ピカチュウとして何ひとつおかしいところはない。さっき聞いた声も、多分気のせいだったのだろう。
 しきりに何か言っているピカがご機嫌に手渡してくれたのは、こんがりと焼かれた『オボンのみ』である。オボンは皮が硬くて剥きづらいが、ピカがほっぺたに押し付けながら表面に焼き目をつけてくれると、結愛の力でもぺろりと剥けた。ピカチュウには電気できのみを焼いて柔らかくして食べる習性がある、と恵太が教えてくれた。
 ピカが焼いてくれたオボンを剥いて、ひと房もぎって放り込む。薄皮を歯で噛み切ると、濃厚で甘酸っぱい果汁が、ぱあっと口の中いっぱいに広がる。ぷちぷちと果肉が弾ける食感を楽しんでから飲み込むと、爽やかな酸味の中に、きりっと味を引き締める苦みと渋みが感じられる。結愛が知っているオボンより、まろやかでいて、うんとゴージャスな味わいだ。
「おいしい!」
「それはよかった。なんせ、おれたちが、しっかり愛情込めて作ったオボンだからさ」
 なっ、と、恵太は首を回して声を掛ける。はにかみ笑いする恵太の隣、後ろ足でしきりに耳のあたりを掻いているピカが、ちゃあ、と尻尾を揺らした。そして後ろに並んでいるポケモンたち――ドレディア、ドリュウズ、ジバコイル、ゴチルゼル、ポワルン。先ほど紹介してもらった、どれも恵太の手持ちポケモンだ――が、思い思いに返事をした。
 手のひらにあるずしりと重たい立派なオボンを、結愛はもう一度見下ろした。この薄皮の中にみっちり詰まったつぶつぶは、一粒ずつが、恵太とポケモンたちの愛情なのだ。
「『With love』だね」
「ん?」
「けいちゃん、ポストカードのメッセージのところに、そう書いてたよ。あれ、みんなでいっぱい愛情を込めてオボンを作っています、っていう意味だったんでしょ?」
 恵太はしばらく目をしばたかせて、ああ、と叫んで手を打った。それから、うわっそうか、こっちじゃ使わないよな、おれめちゃくちゃイッシュかぶれしてるな、と恥ずかしそうに顔を覆った。――それがあちらでは手紙の末尾に添える慣用的な結びの表現だということを結愛が知るのは、授業で本格的に英語を勉強するようになってから。もう少し先の話である。



 恵太の農場には、(そこで撮った写真なのだから、当たり前なのだが)ポストカードと同じ景色が広がっていた。
 がっしりと太い幹から、空へ両手を広げるように枝葉を伸ばすオボンの木。重たげにぶら下がっている金色の果実。日当たりのよい斜面に作られたオボン畑は、想像していたよりも遥かに広い。
 そして、ポケモンたちは、みんな働き者だった。
 ぴか、ぴっかぁ、と鳴きながら、ピカが枝の間を移っていく。ふわっふわっと踊りはじめた数枚の葉っぱは、ピカを追いかけるようにして、四方八方へ飛んでいく。ドレディアの放った『マジカルリーフ』は、ピカが選んだ採り頃のオボンだけを次々と枝から切り離す。落下するオボンは紫色の光に包まれ、ゆらゆらと漂ってひとところに向かっていく。ゴチルゼルの『テレキネシス』によって採集コンテナへ集められたオボンたちは、恵太がキズや痛みを確かめたあと、農業用トロッコへと積めこまれる。ジバコイルは三ツ目できょろきょろと安全確認しながら、畑の真ん中に走るレールの上を、トロッコを磁力で誘引して下っていく。
 ――ポストカードに間違いはなかった。声をあげたくなるほど、素敵な場所だ。こんなところに、ずっと来てみたかったのだ。
 結愛は、ポケモンが大好きだ。特に、ポケモンと人間が助け合って生きているようなドラマやドキュメンタリー、漫画なんかは、かじりつくようにチェックしている。人間とポケモンが一緒に働いているさまを見ると、うきうきしてきて幸せで、いつまで経っても飽きがこない。恵太とポケモンたちの『With love』な働きっぷりが見たくて、夏休みも終盤に差し掛かった頃、意を決して恵太に連絡を入れたのだ。
 一緒に選果の作業を手伝った。手も、服も、髪の毛までも、すぐにオボンの匂いが染みついた。
「結愛ちゃんはオボンを育てたことはある?」
「二年生のとき」
「二年生って言うと、きのみプランターで育てるやつかな。植えてから二日くらいで実が出来たよね」
 頷くと、話を聞いていたらしいピカがぴょんっと飛んできて、ぴぃか? と首を傾げた。
「ピカにはそっちの方が馴染みがないよな。結愛ちゃんが育てたオボンは変異種なんだ。おれが作っているのは野生種のオボンで、育つのは少しゆっくりだけど、一度にたくさん収穫できる。収穫した後も枯れずに花を咲かせて、また実をつける」
 農場に着いてからの恵太は、打ち解けたからなのか、ポケモンたちが一緒にいるからかどうなのか、気さくに喋るようになりつつある。
「全然違うんだね」
「トレーナーの間では変異種の方が一般的に流通してるけれど、味は野生種の方が良いし、ポケモンの体に良い成分もたくさん含まれてる。だから贈答用の良いオボンとか、あとポケモンの回復薬の原料になるのは、今も野生種が使われてる」
 平気で難しい言葉を使う年上の従兄の話は、少し分かりにくいところもあるが、一人前扱いされているみたいで悪い気分ではなかった。
 ――変人の偏屈者。親戚一同からの恵太の評価は、結愛の両親を含めてそんな感じ。二十代も半ばになって芽のないトレーナー業を続けるような夢想家は、このご時世、身内の恥だと思う大人が多いからだ。
 結愛が一年生の時、つまり三年前のことだが、本家のばあちゃんが亡くなった。彼の両親が既に他界していることもあり、恵太はあまり親戚の集まりに顔を出さなかったが、その葬式には姿を現した。
 葬式が終わり、大人たちが大酒を飲んでいる間、葬儀場の駐車場で恵太とピカに遊んでもらった。遠く離れたイッシュ地方でポケモンリーグを目指している、噂にだけ聞いていた従兄――密かなあこがれを抱いていた従兄。こっそり応援してくれてたばあちゃんのためにも必ず強くならなけりゃな、と、寂しげな笑顔で言っていた恵太のことを、結愛は想像していた通り、とてもかっこいいと思ったのだ。

 だが、それから一年ほどが過ぎた時、トレーナーブランドのスタイリッシュなスポーツキャップを、恵太は麦わら帽子に被り替えた。

 恵太がトレーナーを廃業し、オボン農家に転身したという報せを受け取った――つまりあのポストカードが届いたとき、結愛はそれなりにショックを受けた。応援してくれた結愛ちゃんには申し訳が立たないけれど今はそれなりに楽しくやってる、という内容のメッセージも、受け入れるまでに一学期分の時間を要した。

「結愛ちゃん、昔トレーナーになりたいって言ってたよな」
 キズの入ったオボンを別の籠へ投げ入れながら、恵太は何の気なしに問うてくる。葬儀場で見てから三年の月日を経た顔は、ちっとも変わっていないようでもあるし、すっかり大人びているようにも見える。
「今もそうなんだな。カバンの中にぼんぐりが入ってなかった? さっき見えた」
 結愛は頷いて、それを取り出して見せた。
 まんまるつやつやのみどぼんぐり。アサギシティのモーモー牧場に社会見学に行ったときに見つけて、こっそり持ち帰ってきたものだ。小学校を卒業して、両親がポケモンを持つことを許してくれたら、このぼんぐりから作ったボールで最初のポケモンを捕まえると決めている。
 いつもは大事にしまっているけれど、今日は恵太に見せたくて持ってきた。つまり、結愛の宝物だ。
「けいちゃんのピカのボールと同じ、フレンドボールができるんだよね」
 結愛から受け取ったぼんぐりを木漏れ日にかざして、恵太は眩しそうに目を細めた。
 名前を呼ばれたピカがぴょんぴょんと恵太の背をかけあがり、肩から首を伸ばしてぼんぐりの匂いを嗅ごうとする。重いよ、と眉を下げつつ、恵太はピカのおでこをぐりぐり撫でた。
「この農場のすぐそばの森、ピカチュウの生息地なんだ。小さいけど群れがある。おれが中学を卒業した年に、この森でピカを捕まえて、それからずーっと一緒。旅でもたくさん助けられたし、今もポケモンたちを率先して仕事を頑張ってくれてる。大事なパートナーなんだ」
 結愛ちゃんも、良いパートナーが見つかるといいね。恵太が照れくさそうに笑うと、話の内容が分かるのだろう、ピカもぴかぴかと鳴きながら照れくさそうな笑顔を見せた。
 ふたりの笑い方がよく似ているのが印象的だった。長い間一緒にいるから、きっとどちらともなく似てきたのだろう。結愛も思わず笑顔になった。



(三)



 晩ごはんを食べながら、旅の話をたくさん聞いた。
 事務所兼自宅、という山半ばの建物の中には、イッシュ地方で撮った写真が飾ってあった。バッジケースの中にはぴかぴかに磨かれたジムバッジが、きっちり八つ並んでいる。その横に、年季の入ったフレンドボールと、淡い青緑色の透き通った石。ライトにかざすと、石の中に刻まれている黄色の稲妻模様まで、はっきり見て取ることができる。
 バトルしているところが見たい、とせがむと、もう長いことしてないからと恵太は苦笑した。ピカが十万ボルトやかみなりを使うところが見たいと言えば、今は電気ショックくらいしか使えない、と返される。バッジ所有者のバトルが見れるかもというささやかな期待が叶いそうもなくて、結愛はちょっぴり残念だった。
「代わりと言っちゃなんだけど、雷が落ちるところは見れるかもしれない。ピカチュウが生息している場所には落雷が多いんだ。寝ている間に電気袋に電気を溜めるらしくて、夜にじっと森を見てると、空から青白い稲光が森に吸い込まれていくのがたまに見える。きれいだよ」
「あっ、知ってる! ピカチュウって、尻尾を立ててまわりを警戒してるとき、ときどき尻尾に雷が落ちたりするんだよね」
「よく知ってるなあ」
 感心したように恵太が頷く。
「結愛ちゃんは、ちゃんと勉強してポケモンのことをいっぱい知ってるから、きっと良いトレーナーになるよ」
 ずっとあこがれていた恵太にそう言われると、嬉しいよりも、なんだかどきどきしたような気持ちで、結愛は頬が熱かった。



 寝る前、貸してもらった二階の部屋から、しばらく窓の外を眺めた。
 星が、とにかく、すごかった。結愛の家の窓から見える何百倍もの星たちが、空いっぱいに、きらきらと敷き詰められていて、感動の溜息を何度もついた。星空に被さってところどころに流れる雲は、たまに薄紫色に光って、夜をひび割るような稲妻が走る。稲光が森に吸い込まれる、と恵太が表現したが、まったくその通りだと思った。遠くに鳴り響く雷鳴も、いつもなら苦手なのだけれど、それをきれいだと言った恵太の言葉が残っていたから、この晩かぎりは怖くはなかった。
 あの森でピカと出会った日の恵太に思いを馳せる。いつか自分も、恵太がピカに出会ったように、最高のパートナーに出会いたい。
 ポシェットの中のみどぼんぐりを、机の上に置いた。電気を消し、ベッドに入って目を閉じても、まだ胸がとくとくと高鳴っている。瞼の裏に、ぱっと現れては消えていく稲光の跡が残っていた。なかなか眠れそうになかった。



 ――なかなか眠れなかったから、からからから、とん、ことこと、というほんの小さな物音で、結愛は目がさめた。
 涼しかったから半分だけ開けて寝たはずの窓が、なぜか全開になっている。寝ぼけ眼でそれを見ていた結愛は、ことことこと、という音が部屋の中からしていることに気付いて、ひょっと目を覚ました。
 机の上に、なにかいる。
 ……瞼の裏の稲光を、なぜだろう思い出した。ぴょこぴょこと揺れている、とんがった耳。ぎざぎざの尻尾。星あかりだけの部屋の中に、黒く濡れているつんとした鼻先。ずんぐりむっくりの短い手足。
 ピカチュウだ。
 みどぼんぐりを不思議そうに転がしたり、すんすん匂いを嗅いだりしている。

「ねえ」

 ベッドの中で、結愛はとびあがりそうになった。

「これって、モンスターボールなの?」

 あの小さな男の子の声。
 ぼんぐりを見ているピカチュウは、口をぱくぱくと動かしている。
 ……夢かな。夢かも。夢であることを確認するために結愛が頬をつねらなかったのは、身動きしたら、起きてるのがバレてしまうと思ったからだ。なぜバレちゃいけないと思ったのかと言うと、そのかわいらしい声が、めちゃくちゃ意地悪そうに聞こえたからだ。
 結愛はもう一度目を閉じた。どきどきしていた心臓は、もはやとくとくどころじゃない。イシズマイを詰め込んで回っている洗濯機みたいなひどい音を立てている。結愛が必死にこらえてじっとしていると、机の上の方向から、ハァ、とひとつ溜息がした。

 そして、――何の前触れもなく、枕のすぐそばに、ぼすんっ、と体重六キロが落っこちた。

「きみに聞いているんだけど」

 耳元で声がした。
 結愛はうっかり目をあけた。
 目の前に、おっきなピカチュウの顔が、でえんと待ち構えていた。
 それもうんと不機嫌なやつが。

「……しゃ、べ、った……」
 数時間前とまったく同じ感想を、結愛はそっくりそのまま呟いた。
 でも――ええと――ちょっと待って――待ってほしい。あのときとは、まったく違う。ピカチュウはちっともニコニコしていない。仰向けの『3』だった口は今は『へ』の字に曲がっているし、くりくりの目はザングースみたいに据わっているし。
「あのさあ。ぼく、質問してるよね?」
 かわいらしい声には、パルシェンみたいに棘が生えているし。
「えっと……、ごめんね。なんだっけ」
「あれ、モンスターボール?」
 ピカチュウの短くてぷにぷにの手が、みどぼんぐりを指さしている。寝起き以上に結愛は頭がこんがらがって、普通に会話をしはじめてしまった。
「みどぼんぐりって言うんだよ。フレンドボールの材料。ピカが捕まえられてるのと、同じ……だよね」
 ――ピカ。この子は本当に、恵太の相棒のピカなのか?
 だって、顔つきが全然違う。昼間はずっと、テレビや漫画で見たとおりのにこにこかわいいピカチュウで、機嫌を損ねるようなそぶりは一度もなかった。今目の前にいるピカチュウは、ふてぶてしくってちっともかわいいと思えないし、これじゃあまるで人間みたいな表情じゃないか――
 と。
 長く人間と一緒にいたから表情が似てきたんだろうなあって、昼間、考えていたような。
 ……いやいや、待て待て、違う違う。けいちゃんはこんな顔しない。
「あの緑色のボールか。ぼくのだけみんなと色が違うから気になってた」
 独り言のように言って、短い腕を組んで、何か考え始める。やっぱりピカなのはピカらしい。
 けれど、ピカだと分かったらそれはそれで、心にアブソルが忍び込んでくるような、得体のしれない不安が過ぎる。――ピカだとしたら、一体、どうして?
「あの緑のボールって、他のと何か違うの?」
「特別なボールなんだよ。フレンドボールで捕まえると、捕まえたポケモンと早く仲良くなれるんだって」
 恵太にそれを教えてもらったとき、結愛はなんて素敵なボールだろうと思った。最初のポケモンとはとびきり仲良くなりたいから、結愛も最初のポケモンはフレンドボールで捕まえると決めているのだ。
 フレンドボールの特別な効果のことを考えると、結愛はいつも幸せな気持ちになる。けれど今は、なぜだか嫌な予感しかしない。
「そのボールで捕まえられたら、好きじゃなくても好きになっちゃうってこと?」
 ぺしっと尻尾で布団を叩きながら、ピカはイライラした声で聞いてくる。
 え、と結愛は少し面食らった。好きじゃなくても好きになっちゃう、そんな考え方はしたことがなかった。けれど、普通より早く仲良くなれるっていうことは、確かにそういうことだと言えるだろう。
「そう……かも?」
 流されるままに肯定すると、
「……ふうん。そういうことだったのか」
 ピカはやはり独り言みたいな調子で、含みを持たせて呟いた。
 くるりとこちらに向いたおしりが、身軽にとびあがる。とんっと机の上に着地して、もう一度ぼんぐりを覗き込む。つるつるの外皮に映った顔を睨むように、じっとぼんぐりを見つめるピカの尻尾は、天井に向かってぴんと伸びている。ピカチュウが尻尾を立てるのは、何かを警戒している証拠だ。
 ピカがイラついている意味が、結愛にはさっぱり分からなかった。そういえば、森にはピカチュウの群れがいると恵太が言っていた。もしかしたら何かの間違いで、この子はピカじゃないのかもしれない。
「……ピカ……なの?」
 だから、聞いてみた。
 ぴくっ、と耳が動く。二本足で立ち上がり、こちらを振り向いたピカチュウの目が、ザングースみたいな不機嫌から、更に細くなっていく。え、待って、怖い、怖い。
 けれど、その次の瞬間、ふんっ、と真っ黒な鼻を鳴らすと、ピカチュウは呆れ気味に笑って。
 そして、肩を竦めて見せた。

「ぼく、ずーっと思ってたんだけどさ、『ピカ』って名前ダサくない?」

 ――え、『ダサい』?
 あまりにも思いもよらぬことを言われ、結愛は呆気にとられてしまった。

「結愛、だったっけ? 結愛は人間のセンスってダサいなあって思ったことない? もしさ、『きみは人間だから今日から人間のニンって呼ぶね!』って突然言われたらどんな気持ち? 恵太は知らないだろうけど、ぼくには群れで生まれたときに長老につけてもらった(ここで一旦ピカチュウの鳴き声に戻って)ぴかちゅあぴいぴかちゃあちゅうぴ・ぴかかぴいぴい・ちゅうちゅうちゃっぴー(ここから人間の声に戻る。結愛は目を白黒させる)っていう名前があるんだ。これはピカチュウの言葉で『森を統べる太陽とイカズチの神の加護を受けた、チャーミングな黄金の子』っていう意味なんだけど。かっこいいでしょ? チャッピー、って呼んでいいよ」

 ほとんど人間みたいな顔で、ピカチュウはぺらぺらと捲し立てた。
 どおん、と遠くで雷がひとつ落ちて、フラッシュを焚かれたように部屋の中が明るくなる。一瞬はっきりと浮かび上がったピカチュウの表情が、結愛にはあまりにもショッキングだった。苛立っている顔。人を小馬鹿にしている顔。
 これが、昼間までにこにこしていた恵太のピカとおんなじピカとは、とてもじゃないが信じられない。
「ピカは……」
 キャタピーが吐く糸みたいなか弱い声が出かかって、止まった。ピカがチャッピーと呼んでほしいなら、そう呼んだ方がいいだろう。
「チャッピーは……人間が嫌いなの?」
「そうだよ」
 結愛がやっとこさ口にした問いを、チャッピーはあっさりと肯定した。
「ぼく、ちゃんと人間が好きなピカチュウみたいにふるまえてるかな?」
 にやり。見下すように笑われる。
 嫌な予感が的中した。アブソルは本物だったのだ。『わるだくみ』を使ったって、ポケモンがこんな悪い顔をしてるとこ、テレビでだって見たことない。
 チャッピーの声の棘の数は、パルシェンの棘から、今やドヒドイデの棘くらいになっている。
「ピカチュウをたくさん集めて発電所を計画が発表されたの、知ってる? ひっどい話だよね、あれ、ぼくたちピカチュウはエネルギーを生む機械ってこと? 人間って本当に、自分たちの都合ばっかり考えるよね。どうしてぼくたちポケモンは、人間のために働いてやらなきゃいけないのさ? 人間は働いたらお金をもらうでしょ、でも恵太はぼくらにお金をくれない。せいぜいごはんくらいのもの。でもぼくらは森の中で、自前でごはんを調達することもできるんだ」
 みどぼんぐりを投げ上げると、尻尾やおでこでリフティングして遊び始める。ぽこん。ぽこん。それは結愛の大事な宝物だ。けど、そうやって蹴り上げられるたびに、結愛の中でまで、本当に、ぼんぐりの価値が軽くなっていってしまうような。
 ――人間とポケモンは、親愛なるパートナーだ。それを否定する人は、これまで、結愛のまわりには誰一人としていなかった。
 人間はいろんな場面で、ポケモンの力を借りて生活している。人間が愛せば愛すほど、ポケモンはそれに応えてくれる。人とポケモンが一緒に働いている光景が結愛は好きで、その共生関係の結晶が、この農場、あのポストカードのような美しい景色なのだと、学校でも学んできた。恵太とピカの姿というのは、結愛にとってみれば理想の形で、最高のお手本のようなものだったのだ。
 でも、よく考えてみたら、それは本当に『共生関係』――?
「でも……チャッピーは、けいちゃんの言うことを聞いてちゃんと仕事をしているよね? けいちゃん、チャッピーのこと、よく働いてくれるって言ってたよ。大事なパートナーだって。チャッピーがけいちゃんのことが嫌いなら、じゃあどうしてちゃんと働いてあげているの?」
「うーん、なんでだろうね、不思議だよね」
 よっ、ほっ、とぼんぐりをつまらなさそうに弄びながら、チャッピーは顔も向けずに言った。
「結愛はどうしてだと思う? ぼくが人間のために働いているの」
 聞き返され、慌てて考える。教科書の『ポケモンのいる暮らし』のページを、頭の中で開いて探した。
「……人間が好きだから?」
「ぼくの話聞いてた?」
 あっ、そうだ。当ててみてよ!
 と、一転、とびきり明るい声で言いながら、チャッピーはぼんぐりをキャッチした。
「結愛さあ、考えてみなよ。『人間が嫌いなぼくが、どうして人間のために働いているのか』。そうだな、あと二回答えるチャンスをあげるっていうのはどう? 当てられたら、これ、返してあげるからさ」
 えっ、と声をあげた結愛が身を乗り出しても、もう遅い。チャッピーは両手でぼんぐりを抱えて、ひらりと窓枠に飛び乗った。
 またひとすじの稲光が吸い込まれていく森を背に、結愛に笑いかける。にたり。
 やっぱり、どう見ても、人間みたいな表情をしている。

「こんなもので捕まえないと仲良くなれないって言うんなら、トレーナーになる資格なんかないでしょ?」

 くるっと一回転したピカの体が、結愛のみどぼんぐりと一緒に、窓枠の下へと吸い込まれる。
 慌てて飛び起きた結愛が窓の下を覗いた時には、特徴的な尻尾も耳も、どこにも見えなくなっていた。



(四)



 当然、あまり眠ることができなかった。
 起きて一階へ降りると、恵太がポケモンたちをボールから出しているところだった。ポワルン、ドリュウズ、ドレディア、ゴチルゼル、ジバコイル。彼の最初のポケモンであるはずのピカチュウがいない。
 結愛と恵太の朝ごはんは、できたてほかほか、甘くてとろけるフレンチトースト。ポケモンたちの朝ごはんは、ポケモンフードとオボンが数個。おそらく毎日変わり映えしないのだろうメニューを見ていると、どうしても昨晩の話が思い出される――恵太はぼくらにお金をくれない。せいぜいごはんくらいのもの。でもぼくらは森の中で、自前でごはんを調達することもできるんだ。
「……夜、ピカもボールの中にいた?」
「ああ、ピカだけはいつも森で寝るんだ。森にはピカチュウの群れがいるって話しただろ。ピカはあの森で生まれたから、きっと親や兄弟もいるんだろうね」
 なるほどね。そして、彼を『ぴかちゅあぴいぴかちゃあちゅうぴ・ぴかかぴいぴい・ちゅうちゅうちゃっぴー』と名付けた長老もいるんだろうな。
 そう考えると何とも言えず、結愛は愛想笑いを返した。
 ピカの話をする恵太の顔は心から楽しそうだった。それがあのニヒルな笑みと重なると、どうしようもなく可哀想に思えて、昨晩のことを話せなかった。


 その日、目に映っているすべてのものが、胡散臭くてならなかった。
 事務所の一室で天気予報士がわりをしているポワルンは、ひどく退屈そうに空を見ている。草原を耕しているドリュウズはいかにものろのろしているし、伸びすぎた枝を剪定しているドレディアも、よく見ると仕事が大雑把だ。オボンを満載したトロッコを上へ下へと動かしているジバコイルも、飽き飽きとした目をしている。漢字練習帳に延々と同じ文字を書かされているときに、自分もこんな目をしているだろうな、という感じに。
 でも、どれもこれも、実は、昨日とよく似た光景で、昨日とよく似た表情なのである。
 みんな昨日は生き生きと仕事をしていたのに、いや、そういう風に見えていたのに。もしかしたらそうかもしれない、という色眼鏡をかけるだけで、こんなに違って見えるものだろうか? ポケモンの表情って人間相手より分かりづらい。ジバコイルの目の感じの違いなんて、どっちを見ているか以外に得られる情報はほとんどなくて、昨日今日出会ったばかりの結愛に本当のところは分かりっこないのだ。では、昨日抱いた印象と、今日抱いた印象と、どっちが本物なのだろう。
 昨日と違って見えるといえば、恵太自身もそうだった。
「やられた。リングマだ」
 農場の森際の端のほうに、太い枝をぼっきり折られたオボンの木が二本あって、恵太はかなり落ち込んでいた。恵太にとってみれば、オボンの木は大事に大事に育ててきた自分の子どもみたいなものだ。それを折られてしまったら、もちろんショックを受けるだろう。昨日までの結愛なら、恵太にまるきり同情して、一緒に落ち込んでいたはずだ。
 にもかかわらず、これ以上被害が出る前に対策しなくちゃいけないなという彼の言葉が、結愛は妙に引っかかった。
「……ピカチュウはよくて、リングマはだめなの?」
 幹を撫でる恵太の背に、気付けば結愛はそんなことを聞いていた。
「え?」
「だって……森に住んでいる野生のピカチュウも、農場のオボンを食べるでしょ? どうしてピカチュウのことは許すのに、リングマのことは許せないの? それはえこひいきじゃない?」
 どうしてこんなことを聞きたくなるんだろう。学校や家でだって、結愛は先生や両親に盾突くような子どもじゃない。いやらしい顔で笑うチャッピーが、結愛に乗り移っているんじゃないか。
 恵太はしばらくきょとんとして結愛を見ていた。
「えこひいきかあ……。やっぱり結愛ちゃんは賢いな」
 納得したように頷いている。変なことを言って怒られるかもしれないと身構えたが、恵太の声は優しかった。
「ピカチュウの群れは確かにオボンを食べるけど、この森にいるのは小さな群れで、個体数も少ない。あと体が小さいから、リングマと違ってきのみを食べる量も少ないよね。リングマは枝を折っちゃうけど、ピカチュウは折らないから、またオボンが実る」
「被害が少ないからいいってこと?」
「それと、ピカチュウに助けられているところが大きいからかな。ピカチュウの群れがいる森には、雷がよく落ちる。だからこのあたりには、電気が嫌いな鳥ポケモンが少ないんだ。いっせいに飛んできてきのみを突きまわす鳥ポケモンってきのみ農家にとっては敵なんだけれど、ピカチュウの群れがいることで、特別な鳥ポケモン対策をしなくて済んでる。ピカチュウたちはおいしいきのみを食べられる、おれは鳥害を防ぐことができる、もちつもたれつってところかな」
 それも、人間の勝手な都合でポケモンをえこひいきすることを言い訳されているようで、結愛はちょっと嫌だった。
 あとからやってきたピカは、折られたオボンの木を見て怒っていた。恵太と仲間たちと共に大事に育ててきたオボンを折られ、ここにいないリングマに対して、真剣に怒りをあらわにしていた。……ようにしか見えなかった。
 そのあとも、真面目に、楽しそうに、仕事を手伝っていた。恵太のポケモンたちの中でとびきり生き生きして見えるピカは、昨晩『チャッピー』と会話をした時の様子とは、まるで別人のように思えた。



 でも、そんなに都合よく、別人になってはくれないものだ。
「どう? 分かったでしょ? ぼくたちはみんな、好きで働いている訳じゃないんだって」
 お昼ごろ、顔を覗き込んできたピカは、すっかり『チャッピー』に戻っていた。
 コンテナに詰められたオボンを荷台に満載して、恵太は出荷に行ってしまった。用意してくれていたサンドイッチを日当たりのいい場所で広げて食べる。間に塗られていたオボンのマーマレードは、昨日食べさせてくれた焼きオボンに近い味がしたけれど、砂糖で煮詰めているはずなのに苦みのほうを強く感じた。
 意地悪く笑うチャッピーの向こうで、恵太のポケモンたちも輪になって昼食を食べている。物珍しそうに結愛を窺ってはくるけれど、チャッピーが人間の言葉を喋っていることに驚いている様子ではない。
 はいどうぞ、と押し付けられたオボンは、こんがり焼かれている。甘ったるい匂いだけで胸やけを起こしそうだ。
「昨日の話、覚えてるよね? 二回目の答えを聞かせてもらおうか」
 ぼくパン大好き、交換ね、と言いながら、恵太の作ったサンドイッチを、チャッピーはちょっと嗅いでからぱくりと咥えた。
「その前に教えて。なんでチャッピーは、人間の言葉が喋れるの?」
「なんでって練習したからだよ」
 もごもごと籠った滑舌で、こともなげな答えが返ってくる。二本足で立ち上がり、両手で支えたサンドイッチを小刻みに口を動かして食べる姿だけ見れば、よくあるかわいいピカチュウなのだが。
「有名なニャースの話知らない? 人間が好きなメスのニャースに振り向いてもらおうとして、独学で人語を習得したってやつ。ぼくも、恵太に一発ガツンと言ってやろうとして、独学で勉強したんだよね」
「なんて言おうとして?」
「こんな地味でつまんない仕事、ぼくはしたくないんだって。オボンなんかもうたくさん、チャンピオンを目指す挑戦者としてのプライドは、いったいどこにやっちゃったんだよ、ってね」
 ぷくりと膨らんだほっぺたが、もぐもぐもぐと動いている。それにしてはオボンのマーマレードをおいしそうに食べるねと言ってやりたい気もしたけれど、怒られたら怖いから黙っておいた。
「チャッピーは、バトルするのが好きなんだね」
 なんとなく投げやりな気持ちで結愛は言った。チャッピーはそれには答えず、食べ終えた手のひらのパンかすを小さな舌でぺろぺろと舐めながら、さあ二回目の答えを、と促してきた。
 人間のことが嫌いなチャッピーが、恵太の仕事を手伝う理由。結愛は農場に来てからのことを思い返して考えた。トレーナーをやめてオボン農家になった恵太。バトルは長いことしてないと苦笑いした。チャッピーはそれが気に食わなくて、チャンピオンを目指していた頃に戻りたがっているらしい。でも、それだけなら、仕事を手伝ってあげる必要なんかないはずだ。
 チャッピーを含め、ポケモンたちはみな、健気に仕事を手伝っている。なぜだろう。チャッピーがバトルが好きというところに、どうもヒントがあるような……。昨晩チャッピーが持っていってしまったみどぼんぐり。事務所の棚に飾られていた、年季の入ったフレンドボール。その横に置かれていたかみなりのいし……。
「……けいちゃんの仕事を手伝っていれば……かみなりのいしを使ってもらえて、ライチュウに進化できるから?」
 思いつきのあてずっぽうだった。
 チャッピーはあからさまにぶすっとむくれて、また口の形を『へ』の字にした。
「ぶぶー、残念。もっと慎重に考えなよ。あと一回しかないよ?」
 チャッピーはくるりと背を向けて、手近なオボンの木に飛び乗った。結愛は慌ててお弁当を包んで、ぴょんぴょんと枝を渡っていく黄色い尻尾を追いかけた。大事なみどぼんぐりを返してもらわない訳にはいかない。ポケモンたちが、二人のことを不思議そうな目で見つめている。
「ねえチャッピー。ポケモンはみんな、人間に大切にしてもらえると幸せって、わたし、学校で習ったの」
 伸びた下草がスニーカーに絡まる。生ぬるくて湿っぽい風が、木の葉を乱暴に掻き混ぜている。
 青空と、緑と、たわわに実ったオボンの下を、全部無視するようにして、黄色と茶色の縞模様はどんどん先へ進んでいく。
「ポケモンは、大昔から、人間と一緒に生きてきた生き物なんだって。手を取り合って生きていくべきなんだって……チャッピーはそう思わない?」
 ぴょんっと高枝から飛び降りて、道の真ん中で、チャッピーは振り返った。
 ぞくっとした。
 結愛の足は、勝手に立ち止まっていた。
 他のポケモンたちの姿は、木々の向こうに見えなくなっていた。一対一。肌がひりひりと痺れつく。それ以上近づいてはいけないと思った。チャッピーの電気袋はあからさまに電流を見せつけているのではないのに、下手したら感電してしまいそうな、強烈な緊張感を放っていた。

「そんなのは、人間のエゴだよ」

 チャッピーはあからさまに怒っていた。

「そもそも、ぼくはもう今は、恵太のポケモンですらないんだから。恵太から聞いてない? あの緑のボールからぼくはとっくの昔に逃がされてる。人間に付き合ってやる義理なんかない、ぼくは野生のピカチュウなんだ」

 結愛は何も言えなかった。
 お腹の中が冷たくなっていくような感覚がする。何を言われたのか、すぐに受け入れることができなかった。けど、少しもしないうちに、恵太のポケモンたちの中でチャッピーだけが森に帰って眠る意味が、不意に、結愛にも分かってしまった。
 立ち竦んでいる結愛の頭の上でざああとオボンの木は揺れ続け、少し距離のある事務所の方向で、車のエンジン音が聞こえた。
「……なんで、けいちゃんは、チャッピーを逃がしたの……?」
「知らないよそんなの、ぼくが使えないからじゃないの。恵太に聞いてみれば?」
 恵太が軽トラのドアを閉める時の、ばん! という音がした。チャッピーはちらりとそちらを一瞥して、ふんっと鼻を鳴らした。皮膚を切り裂きそうな静電気に似た緊張が、残暑の風に、ゆらりと溶けて消えていった。だけどその残り香は、結愛の鼻から肺に入って、確かに胸にこびりついた。
「はあ、あっきれた。きみを見てるとイライラするな。いっそ畑ごと焼き払っちゃおうかな?」
「え、だめだよ、待ってよ」
 どこか気怠げな顔の恵太は、二人を見つけると、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。結愛を見て笑ったというよりは、『ピカ』を見て笑ったように見えた。こちらに向かって歩いてくる。結愛は思いっきり声をひそめた。
「それはやめて。ちゃんと答えを見つけるから……」
 頼むよ、と、チャッピーは捨てるように言った。
 それからいかにもピカチュウらしい無邪気な表情の『ピカ』に戻ると、ぴっかあ、と幾分高い鳴き声をあげながら、恵太へと走り寄っていった。



(五)



 夕暮れを見上げながら、疲れてないか、と恵太の優しい声が問うてきたとき、結愛はうっかり涙がこぼれそうになった。
「うん、大丈夫」
「それならいいけど。おれ、あんまし気が利かないから、何かあったら言ってね」
 多分自分は疲れきった顔をしているのだろう。その理由を、恵太は何と想像するだろうか。ホームシックにでもかかっているのかと思われていたとしたら、とても悪いことをしている。唐突に農場に遊びに行きたいと言い出したのは結愛の方だし、一回こっきり会っただけの従妹のわがままなんて、別に迎え入れなくてもよかったのだ。
 きのみプランターに植えたオボンが二日で収穫を迎えたように、きのみの成長は普通の植物よりとても速い。収穫を終えたと思ったら、すぐに花が咲いて、すぐに青い実が太り始める。ずっとこの仕事をしていたら、休んでいる暇も、考えている暇も、恵太たちにはないだろう。つきすぎた実を落としていく作業を手伝っていると、あっという間に日が傾いて、緑と黄色のオボン農場は、じんわりと茜色に滲んでいった。
 形を変えながら音もなく流れる雲の淵は、眩い金色から赤へと少しずつ移ろっていく。一緒に仕事を手伝っていたチャッピーは、ぴいーかあーと大きく手を振って、森の中へと帰っていった。高い位置で跳ねる耳が木々の向こうへ見えなくなるまで、恵太は名残惜しそうな目をして、じっと見送り続けていた。
 背を向け、促されて、二人で事務所へと戻りはじめる。
 麦わら帽子の下、よく日に焼けた恵太の顔は、いつ見ても緩く微笑んで、満足そうな顔をしている。けれど足元から伸びる影は、木々の間に細長く頼りなく揺れていて、そのうちに消えてしまいそうな気がする。それも、もしかしたら、結愛の色眼鏡かもしれないけれど。
「けいちゃんは……」
 どうしてチャッピーを逃がしたの、と聞きたかった。でも答えを聞くのも怖かった。
「……どうしてトレーナーをやめたの?」
 目を瞬かせて結愛を見下ろした恵太は、さくさくと下草を踏み折る長靴の足元へ、気恥ずかしそうに視線を下ろした。
「根性なかったからな、おれ」
 はじめっから、リーグチャンピオンを目指す気なんて、更々なかったのだそうだ。
 十五でピカと出会い、知らない場所に行ってみたくて、海の向こうのイッシュ地方でトレーナーとしての旅を始めた。年下の駆け出しトレーナーたちが二、三年で集めるジムバッジを、六年かけて八つ集めた。トレーナー修行というよりも、放浪と言う方が近いような有様だった。
 それでも、ポケモンたちとの旅は楽しかった。
 ぽつ、ぽつ、と、空にひとつずつ灯りはじめた星みたいに、恵太は静かな声で、そんな話を聞かせてくれた。
「結愛ちゃんは、ポケモンバトルは好き?」
 頷くと、おれも昔は好きだった、と恵太は足元を見ながら笑んだ。
「チャンピオンロードって知ってるか? バッジを八つ持ってないと入ることも許されない。ポケモンリーグに挑む前に、最後にトレーナーが乗り越えなくちゃならない試練」
「カントーの、セキエイ高原のそばにある」
「そう、イッシュのポケモンリーグの手前にもある。おれは、あの恐ろしい山の向こうを一年以上目指し続けて、結局抜けることができなかった」
 仲間とともに苦労してバッジを集めて、リーグをいっときも夢見なかったとは言わない。だが、闘志を剥き出しにしたトレーナーやポケモンたちと来る日も来る日も戦っているうちに、恵太も、そして仲間たちも、心身ともにボロボロになっていった。あの長く険しい洞窟の、深い深い闇の中で、一度膝をついてしまったとき、辛うじて持ち合わせていたポケモンリーグへの渇望を、暗がりへ落っことしてきてしまった。静養と称して一度山を離れたとき、仲間たちの穏やかな表情を、本当に久々に目の当たりにした。
 折れた心が、もう二度と元には戻らないだろうことを、恵太はそこで悟ってしまった。
 ……なんと返せばいいのか、すぐには思いつかなかった。結愛は、いつかポケモントレーナーになることをぼんやり夢見続けてきただけで、挫折する日のことなんて、考えようとしたこともなかった。
 両手を揉みながら懸命に言葉を探している結愛のことを、待ってくれているのか、それとも何か考えているのか。恵太もしばらく黙り込んでいた。
「……でも、チャッピーは」どきっとして、すぐに言い直した。「ピカたちは、それでもチャンピオンを目指したかったんじゃないの?」
 恵太はやはり小さく笑って、長靴の底の泥を落として、事務所の扉を開けた。
 ジムバッジを取り囲むようにして飾ってある写真の中に、チャンピオンロードらしき写真はない。恵太はまっすぐその棚へ向かって、あるものを手に取って結愛に見せた。
 複雑に光を通す透き通った緑青色。鉱物の中に刻まれている、鮮やかな稲妻模様。
「ばあちゃんが死んだ後、どうしてもチャンピオンロードを抜けなくちゃならないと思いつめて、ピカを無理やり進化させようとした」
 ほんの少しだけこわばった声で、恵太は結愛に告白した。
 結愛は石から恵太へ顔をあげた。恵太はどことなく寂しそうな、痛いのを隠すような顔をして、やはり笑っていた。
「無理やり……?」
「ピカ、ずっと進化するのを嫌がってたんだ。前からかみなりのいしは持ってて、あとはタイミングの問題だった。進化するのを怖がるポケモンがいるっていうのは結構話に聞いていたから、いざ進化してしまえば、ピカも納得してくれるだろうと思ってたんだ。けど、ピカは怖がっていたんじゃなくて、自分の体のことを本能的に分かっていたんだろうな。拒絶反応が出て……」
 稲妻の上を指でなぞりながら、恵太はかなり言い淀んだ。
「……凄く苦しめてしまった。石の進化エネルギーにあてられてポケモンが進化するというのは、どうも自然なことではないらしくて、中には体に合わない個体っていうのがいるらしい。ピカは進化することができなかったし、自分の中にある強い電流を、うまく制御できない――つまり、強い電気技を操ることができなくなった。十万ボルトやかみなりを使うと、自分が出した電撃で、自分がダメージを受けてしまうようになったんだ」

『……なんで、けいちゃんは、チャッピーを逃がしたの……?』
『知らないよそんなの、ぼくが使えないからじゃないの。恵太に聞いてみれば?』

 ぼくが使えないからじゃないの。
 チャッピーは、もう、満足にバトルをすることができない体だったのか。それなのに――結愛は、知らないうちに言葉に生やしていた棘で、チャッピーの心を、ひどく傷つけてしまっていたのだ。
「オボン作りの仕事をしていると、ポケモンたちはみんな穏やかな顔をしてる。ここで暮らしていた方が、ポケモンたちも幸せだよ」
 ことん。恵太は元の場所へかみなりのいしを戻した。その隣に飾られている、チャッピーが入れられていたフレンドボール。恵太とチャッピーが、一緒に夢を追いかけていたフレンドボール。ボールの曲面に映る顔が歪んでいる。どうしてあんなことを言っちゃったんだろう。ライチュウに進化できるからなんて。焦燥感が膨らんでくる。罪悪感で、喉が詰まりそうになる。バトルすることができないなら、チャッピーは、本当に、バトルから離れたこの場所で、オボンを作って暮らしていた方が幸せなんじゃないだろうか。……でも、でも。
「でも、それは、人間のエゴじゃない?」
 顔も見れずに呟いた結愛を、恵太は目を丸めて見下ろした。
「……難しい言葉を知ってるんだな」
 エゴか。エゴかもしれない。
 口の中で、何度か繰り返す。それからいくらも沈黙があった。
 それから、少し熱っぽい声で、でも、と恵太は言葉を継いだ。
「チャンピオンロードを突破するために無理やり進化させようとしたことも、おれのエゴだったよな」
 はっとして、結愛は顔をあげた。
 恵太は悲しそうに笑っていた。
 結愛の髪の毛を、ぐしゃっと掻き撫でる。それからすぐに背を向けられた。
「変な話したな。ごめん」
 すぐメシつくるから、と行ってしまった恵太がどんな顔をしているのか想像すると、心臓がへしゃげてしまいそうだった。何か言わなきゃ。けれど、もどかしい気持ちで唇を開けても、咄嗟に出かかるうわべの言葉を、どうしても言おうと思えなかった。 
 たまらなくなって、結愛は階段をかけあがった。



 じきに日が暮れて、夜が近づいてきていた。
 ずっとベッドにうずくまっていた。電気もつけずにそうしていると、たくさんのことが頭の中をぐるぐるぐるぐる駆け巡って、考えなければならないことに、結愛は溺れてしまいそうになった。二度三度、遠雷が聞こえて、ふっと部屋が浮かびあがる。目を閉じていても、明るくなるのは分かるし、耳を塞いでも、ゴロゴロとすすり泣くような雷の声は聞こえてくる。目を閉じていても仕方ない。結愛は体を起こし、それから、ベッドの柵に引っ掛けていたポシェットをたぐり寄せた。
 美しい景色がちんまりと押し込まれたポストカードを、夕闇の薄暗さの中で、結愛はじっと見つめた。
 傷つき続けるポケモンを見て苦しんでいた恵太を思う。勝てなくて、恵太と夢を見続けたくて、必死にもがいていたチャッピーを思う。かみなりのいしを使ってしまった恵太の背負っていた重圧。電撃が放てなくなったチャッピーの、自身に対する絶望。イッシュを発ち、はじまりの場所に戻ってきて、二人は新しい暮らしを営みはじめた。バトルにあけくれる日々から離れ、忙しくとも穏やかに流れる時間の中で、傷は癒えていっただろう。けれど、かさぶたも剥がれてしまったあとに残り続ける傷跡を、二人とも、ずっと隠し持って暮らしてきたんじゃないだろうか。醜いケロイドになった傷跡が、お互いの目にとまらないように。
 ポストカードを裏に返す。父でも母でもなく結愛自身への宛名の下に、丁寧な筆跡で書きこまれたメッセージ。応援してくれた結愛ちゃんには申し訳が立たないけれど、今はそれなりに楽しくやってる。
 ――この言葉を、けいちゃんは、一体どんな気持ちで書いたの?
 風の吹く草原。心まで晴れ晴れとするような空。重そうに枝をしならせる木々には、黄金色に輝くオボン。甘いとも、酸っぱいとも、苦いとも渋いともつかないオボンの複雑な味わいのように、この景色の裏側にも、複雑な思いがあったのだ。あの美しい景色を一緒につくりあげた二人の、到底書き尽くせないような思いが――


 ――カッ、と部屋全体が照らされて、


 とてつもない雷鳴が、森全体に響きわたった。



(六)



「――けいちゃんっ!」
「ここに居て。様子を見てくる」
 言うなり恵太は背を向けて、事務所の玄関を飛び出した。
 結愛も急いで靴を履いた。外へ出て、思わず声をあげた。
 ――炎だ。何かが燃えている。藍色に沈みつつある農場の奥が、赤く輝いている、真っ黒でいびつな煙の塊が、ものすごい勢いで膨らんでいく!
 恵太はボールをふたつ取り出し、ポワルンとジバコイルを呼び出した。ポワルンにあまごいを指示すると、ジバコイルの背に飛び乗って、すうと浮き上がり、宵闇へと音もなく滑り出していった。
 無我夢中で、結愛も後を追いかけた。
 ぽ、ぽっ、と頬を叩いた雨粒は、すぐにどしゃぶりへと変わった。びしょびしょになる服も髪の毛もぐしゃぐしゃになる足元も構わず走り続けた。昼間とはまるで違う顔をしたオボンの木は、結愛の頭の上へ覆いかぶさるように両手を広げて、帰れ、帰れ、と言うように、風に木の葉を揺らしていた。火の手は、おそらく、雨が消火しただろうが、向こうでもうもうとあがる煙は、なお不気味に膨張しながら、空へと立ちのぼりつづけていた。
 チャッピーが。チャッピーがやったのかもしれない。ライチュウに進化するために働いているだなんて言ってしまった結愛に怒って、本当に畑を焼き払おうとしたのかもしれない。恐ろしい予感は煙のように渦巻きながら胸に広がり、結愛を覆い尽くしていく。比例するように、夜は刻々と深まって、景色は正体をなくしていく。
 野生らしきピカチュウたちが声をかけあいながら逃げていくのが何度か見えた。ポワルンが呼び出した雨雲の広がる空で、稲光は代わる代わるに轟いた。
 しばらく走り続けると、オボンの木の間の道に恵太がしゃがみこんでいた。なんと声をかけるか決めきれないまま、その背中まで駆け寄った。
 彼の視線の先に、ぐったりと横たわっているピカチュウがいた。
 傍に浮いているジバコイルが結愛にじろりと目をやって、リリリ、と音を立てる。恵太は振り向かなかった。恵太の手の中にはオボンのみがあった。分厚い皮を力ずく剥いて中身を取り出し、ピカチュウの小さな口を開けさせて、果肉を握り潰して汁を飲ませた。それから手の中で潰れた果肉を、ピカチュウの横腹へなすりつけた。ピカチュウは嫌がるような声を漏らした――その場所に、爪で切り裂かれたような、大きな傷口が血を流している。
 足元から、恐怖と悪寒がせりあがってくる。
 ピカチュウを抱き上げ、ジバコイルの背中に乗せる。事務所へ連れて帰ってチュリに手当てをしてもらって、と恵太が言うと、ジバコイルは再びすうと浮かび上がって、赤い目をてらてらと光らせながら元来た方へ戻っていった。恵太は少しだけ空を睨みあげてから、事務所とは反対側へと視線を移した。
 今の、と、結愛は咄嗟に声をかけた。
「今の、ピカじゃないよね?」
 やっと結愛の存在に気付いたのか、恵太は驚いたように視線をくれた。それから「分かってる」と言いたげに強く頷いた――その時。
 閃光と、爆音に似た雷鳴が、二人を呑みこんだ。
 悲鳴を上げた結愛を恵太は一瞬庇ったが、何も襲ってこないと見るや、とにかく待っててと肩を抑えつけて、光と音の方向へ駆け出した。斜めに降りすさぶ雨に霞んでいく恵太の背中が何かを飛び越えた。横倒しになっているものが何なのか、見たことがあったから、結愛はすぐに分かった。オボンの木だ。へし折られている。一本や二本ではない。
 恵太の背の向こうが、木々の向こうが、また輝いた。
 遠く、電撃の光の中に、シルエットが見えた。とんがった耳。ぎざぎざの尻尾。ピカチュウだ。そして――ぎらりと光る爪をふりあげる、恐ろしく巨大なリングマの影。
 くさむすび。きりさく。アイアンテール。アームハンマー。技の応酬は一瞬だった。遠雷の低い轟きを、リングマの咆哮がつんざく。応じるように、チャッピーの頬から、一筋の青白い稲妻が走る。いっそうに強く爆ぜる雨脚が筋になって照らされる。その奥へ、奥へと、恵太は駆けていく。

 結愛には、傷だらけのチャッピーが、笑ったように見えた。


「――――やめろ!!」


 普段の恵太から想像もつかないような怒鳴り声に、被さって、


 ――かなり離れていた結愛の体まで吹き飛ばされた。
 世界ごと割れたのではないかと思われるような音がした。


 声よりも、言葉よりも、何よりも雄弁な稲光が、
 まるで誰かの叫びのように、夜空へと、一心不乱に迸っていった。





 * * *





 両親が死に、一人この世に残されたまま、中学を卒業した年。
 何もかも嫌になって、頼るあてもなく、糸の切れた凧のように各地をふらふらと歩き回った。
 やつれきった心が山の上を目指したのは、誰もいない、誰にも迷惑をかけない場所に、最後に行き着きたかったからだった。
 ……はずだった。


 そこで、美しい稲光を見た。
 

 真っ暗闇に落ちた世界を、一閃、叩き割る、光。頬を打つ雷鳴。きっとあの時、何かにとりつかれたのだ。藪の中を、一心不乱に掻き分けて進んだ。


 ちりちりと青い静電気をまとっている、ちっぽけな電気ネズミが一匹、不思議そうにこちらを見ていた。





 * * *





(七)



 一階の、恵太の部屋のベッドに、チャッピーをタオルにくるんで寝かせた。
 電撃をうまくコントロールできないというチャッピーの放った壮絶な『かみなり』は、リングマを追い払う代償として、チャッピー自身を感電させた。恵太が抱き上げたチャッピーは身動ぎもできぬほど憔悴していて、けれど大事にまでは至らなかったそうだ。
 オボンの絞り汁と薬で看病し、ゆっくり休めば元気になる、とチャッピーを寝かせてから、恵太はぽつりと話しはじめた。
「最初はさ、この森に、ピカを帰してやるつもりだったんだ」
 結愛はそっと横顔を伺う。
 恵太は、瞼を閉じたチャッピーの目の奥を、しんとした目で見つめていた。
「バトルができない体にまでして、もう、人間の生活に付き合わせちゃいけないと思って。……でもそれ以上に、こんなにひどいことをして、一緒にいるだけの勇気がなかったんだろうな。一緒にいると、甘えさせてくれるから、こいつ。トレーナーを諦めて、イッシュからこっちに戻ってきて、一番最初にこの森に来た。逃がして、お別れをして、山を下りようとしたとき、ピカが追いかけてきて、森の中におれを連れていこうとする。言うとおりに進んでいったら、オボンの木がたくさん生えている場所があって、オボンをひとつ焼いて、おれに食わせてくれた。それが、びっくりするほど、うまくって……」

 信じられないだろうけど、そのとき、ピカが喋ったように聞こえて。
 と、恵太はかすかに声を震わせた。

「ここでもう一度、一緒に頑張ろうよって、言ってくれたような気がしてな」

 野生の子を見てくる、と言って恵太が出ていった後も、結愛は部屋の隅の椅子に座って、チャッピーの様子を見ていた。雨は次第に小降りになって、窓の外には、雲の切れ間から、大きな月が見え隠れしていた。
 目を閉じて、口を横に結んで、チャッピーはじっと動かなかった。ドアの向こうにまで聞こえないように、結愛は小さな声で話した。
「……チャッピーは、けいちゃんに文句を言うために、言葉を覚えたんじゃなかったんだね。本当は、もっと一緒にいたいって言いたくて、だから、言葉を覚えたんだね」
 ――閉じていた瞼が、ゆっくりと、諦めたように持ち上がっていく。
 チャッピーの表情は、なんだか、うんと子どものようだった。森の夜空みたいにきらきらとした真っ黒の瞳は、何もない天井を見ていたけれど、まるで違う景色を映しているように思えた。
 いつもの小生意気さを失った、途方に暮れたような顔で、ぼそぼそと独り言を言う。
 それから、真上を見つめたまま、結愛にあの質問を投げかけた。
「さあ、三回目の答えを教えてよ。ぼくがなぜ人間のために働いているか」
 消え入りそうな声が、迷子の子どもみたいに繰り返す。
「ぼくはなんで、恵太のために働いているの?」
 見つめる目の中に、稲光が残っている。
 鮮烈な光。チャッピーが恵太のオボンを守るために、無茶を分かって放った光。それは、結愛と、きっと恵太の胸の中でも、一生涯消えない光だ。
 結愛は、静かに、お腹に力を込めるようにして、そっと最後の答えを言った。

「『ピカ』は、けいちゃんのことが、大好きだからだよ」

「……違う」
 チャッピーは、瞼をわななかせながら、次第に目を見開いた。

「違う。違う、違う、違う、」

 感情と一緒に電気が漏れ出していっているように、うっすらと、体が光を帯びて見えた。止めたくなかった。同じことを繰り返しながら、耳を震わせ、ふつふつと起き上がるピカの姿を、きつく手を握りしめながら、結愛は座ったまま見つめていた。

「違う! 違うッ!! 全然違うよッ!!」

 もがくようにして立ち上がり、頭を振りながら叫ぶ。
 結愛は必死に堪えて見守った。

「残念! はずれも大はずれ! ほんっと人間ってさあ、馬鹿で! 勝手でッ! どうしようもない自己中ばっかりなんだよね!! ねえなんでそうなの? なんでそうやって自分の都合の良いように解釈することしかできないの? ぼくはあの緑色のボールのせいで、恵太のことを好きにならざるをえなかったんだ。ぼくは操られてたんだ、ずっと、洗脳されてたんだよ」

「でも、チャッピーは、もう逃がされてる」

「今更逃がされたってなんだって言うんだよ何年も何年もあのボールにつかまってたんだよ、生まれてからほとんどの時間、ずっとずっと、ずっとずっとずっと一緒にやってきたんだよ。ぼくはこんなに、努力だってしてきたのに。バトルだって最初は別に好きでもなんでもなかったけど、恵太が、恵太がバトルをするって言うから、だったらどうせなら恵太を勝たせてあげたくて、一緒に一番強くなりたくて、でもぼくはすごく弱かったし、進化できなくて、ちゃんと電気も撃てなくなって、なんでだよって、これじゃ恵太がチャンピオンになるのを諦めちゃうよって、でもねほんとはねチャンピオンなんかなれなくたってぼくはほんとは構わなかったんだよ、ぼくはただずっと一緒にバトルしていたくて、みんなで一緒に、楽しく旅をしていたくて、一生懸命、努力してきたのに……それなのに、なのに、諦めて、なんで」

 涙をこらえる真っ黒な夜空に、いっぱいの星が震えていた。

「逃がすなんて、ひどいよ……」

 一気に稲光が降り注ぐように吐き出され続けた言葉たちが、結愛の中に吸い込まれていく。
 懸命に暴れて、ぐるぐるとまわって、体のなかをぶつかって弾ける。けれどその乱暴な言葉たちは、とってもきれいに澄んでいて、結愛の胸を満たしていく。まるでそれは宝物のように、きらきらと、ぴかぴかと、輝いている。
 ぎゅっと抱きしめて、絶対に離さないように、結愛は拳を握りしめた。

「けいちゃんがトレーナーをやめたのは、きっと、チャッピーが弱かったからじゃないよ」
「でも実際そうでしょう!? ぼくがもっと強ければ、恵太は今だって旅を続けていたれたんだ!!」

 ゆがんだ目元から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。

「ぼくのせいだ。ぼくのせいなんだよ……」

 また、どこかで、遠雷が鳴った。
 稲妻のような、夏の嵐のような。たくさんの声を乱気流に乗せたチャッピーの目の中には、けれどその嵐の終わりのような、そこに訪れる晴れ間のような、瑞々しい光が満ちていた。それが結愛のエゴだとしても、そうであってほしかった。力尽きてとさりと倒れたチャッピーの体を、結愛はタオルでくるみ直してやった。チャッピーは朦朧とした様子で、ここでないどこかへ、ここにはいないだれかへ、思いを馳せているようだった。
「……チャッピーは、せっかく喋る練習をしたのに、それをけいちゃんに話してみたことはある?」
「うるさいよ。きみに何が分かるんだ」
 小さな両手で両方の目元を覆いながら、チャッピーが言う。ねえ、教えてよ。
「ぼく、なんで人間のために働いているんだろう。なんで恵太のために働こうって思ってるんだろう。教えてよ。教えてくれるって言ったじゃないか。ぼくはどうして、つまんない人間の、つまんない仕事の手伝いなんかしているんだ? ぼくは、何がしたんだよ」
 ぼく、ぼく。夢とうつつを彷徨って、すうと眠りについたチャッピーは、最後に、こんなことを言い残した。

「ぼく、ちゃんと、人間が嫌いなピカチュウみたいに、ふるまえてたかな? ……」



(八)



 いつの間に眠っていたらしい。ベッドの横で目を覚ました。
 静かで、穏やかで、優しい朝日が、ちらちらとシーツの上で踊っている。結愛はしばらくぼうっとしていた。長い夢でも見ていたかのようなふわふわとした心地がした。
 目をこすろうとして、手を動かすと、手元に置かれていたものが、ぽこぽこと床に転がり落ちた。

 結愛のみどぼんぐり。
 それと、こんがりと焼かれたオボンのみだった。



 起きていくと、恵太が台所に立っていた。既に一仕事終えてきたような格好をしている。シャワーを浴びておいで、晩飯も食わなかったから腹も減ったろ、と彼が何事もなかったように笑うので、ピカがどこに行ったのかと尋ねてみた。
「もう、仕事に行っちゃったよ。今日は休んどけって止めたんだけどな」
 昨晩の被害がどの程度なのか、気になるのだろうと恵太は言った。本当に良く出来た相棒だよ、と、嬉しそうにはにかんでいた。



 バスの時間ぎりぎりまで農場を手伝っていたけれど、結局チャッピーには会えなかった。
 農場を出ていく軽トラには、芳香剤の匂いに交じって、ハンカチにくるまれた焼きオボンの甘くて濃密な匂いが、ポシェットの中からたちこめている。リアウインドウの向こうに広がるオボン畑を、結愛は首を伸ばして見ていた。山道はくねくねと折れ曲がり、すぐに見えなくなってしまった。道と森。荷台の上に、二本の耳は揺れていない。けれど、まだ何かに惹かれているような、遠い雷鳴が聞こえているような気がして、結愛はずっと後ろを振り返り続けていた。
 農場を出たからなのか、結愛がそうしているからなのか、それとも、とびきりの話の種になる彼の黄色いパートナーが、今この場にいないからだろうか。恵太は行きの折に戻ってしまったかのように、うんと口数が少なくなった。けれど緊張しているというよりは、何かを考えているような。
 しばらく山を下ったとき、エンジン音に負けるほど自信のなさそうな声で、恵太が問うてきた。
「……楽しかった?」
 結愛は振り向いた。車を走らせながら、ちらりと横目に窺う恵太の顔を見た。
 その顔に、笑顔を作って、見せてあげた。
「楽しかったよっ」
 ほっとしたように、恵太が苦笑する。その顔を見て結愛もほっとする。
 彼の前で、かわいいピカチュウのふりをし続けるチャッピーの気持ちが、ほんの少しだけ理解できた。
 倒木が横たわっていた場所を過ぎる。流星のような木漏れ日の中を、軽トラは快調に走り続ける。バス間に合うよなあとやや不安げに呟いた恵太に、結愛は意を決して聞いてみた。
「けいちゃんは、ピカとずっと一緒にいるよね?」
 へ、と素っ頓狂な声。
 どういうこと、と笑いながら返してくる。けどその先にある答えを、恵太はあまり考えなかった。片手でハンドルを回しながら、間髪入れず、
「ピカも、そう思ってくれてるといいな」
 照れくさそうに、はにかんで言った。
「……うん」
 結愛は頷いた。それ以上、言葉なんて見つからない。
 ポシェットの中のみどぼんぐりと、オボンと、あのポストカードを。祈るような思いで、そうっと手のひらに包み込む。



 山のふもとに、バス停のある町が見えはじめた。
 徐々に道が広くなり、視界が開けていく。夏の終わりを感じさせない厳しい日差しが降り注いで、結愛は思わず目を細めた。

 エンジン音をうならせて、軽トラは一段とスピードを速める。