のんびり屋さんの精霊馬

ハぁーーーあああクションッ
イラスト
 暑い。クソ暑い。これだから、夏は嫌いだ。俺はオボンの実を掴むと、割り箸を4本突き刺して仏壇の前に置いた。相当まぬけな体型の精霊馬の横では、制服を着た女の子がこっちを向いて笑っている。
 姉が亡くなったのは10年前、俺が7歳、姉が17歳の時だ。姉は、俺が生まれる直前に病気が発覚し、入退院を繰り返していた。10歳も年の離れた俺が物心つくようになった頃には、もう姉は病院で暮らしているようなものだった。
 俺は姉が嫌いだった。家族の中心にいるのはいつも姉で、両親が俺の方を向いてくれることはほとんどなかった。両親は毎日姉の病院に通った。泊まって帰ってこない日もあった。俺がどんなに頑張っても、リレーの選手になっても、テストで100点を取っても、両親は振り向いてくれなかった。年を重ねた今ならそれが仕方のないことだとわかるけれど、幼い俺にはそれがわからなかった。両親は、自分よりも姉の方が好きなんだと思い込んでいた。姉がいなくなれば……とも思った。でも、そう思ったことを、いなくなってから後悔した。
 夏になると、姉が好きだったオボンの実が生る。お盆に生るからオボンの実なのだと、姉が得意げに言っていたのを思い出す。俺は毎年夏休みになると、本当ならなすときゅうりで作る精霊馬を、オボンの実で作る。カラッと晴れた夏の日とは裏腹に、この部屋だけがジメジメしている。これだから夏は嫌いだ。みんなが姉を思い出す。姉を思い出して、複雑な顔をする。両親が仏壇の前ですすり泣く。どんなに時が流れても、姉がいない悲しみは残る。
 あれからもう10年……俺はもうすぐ、姉と同い年になる。



「チョウジ、精霊馬作ってくれた?」
「作ったけど、あれじゃあ行きも帰りものんびりじゃねーか」
「いいのよ、ハナはのんびり屋さんだったんだから。そろそろお昼にしましょ」
 この10年で母も随分明るくなった。姉が亡くなってすぐは、ご飯が食べられずに見るからにやつれていたが、今ではどこにでもいるオバチャン体型。髪型もパンチパーマという徹底ぶりだ。
「そうだ、後で廊下にかかってる絵、雑巾で拭いてちょうだい。下ろそうにも額縁が重たくて、私じゃできなかったのよ」
 廊下には姉が描いた絵が飾ってある。姉は、絵を描くのが好きだった。姉が生きているときは家中に飾ってあったのだが、今はこれしか飾っていない。姉のお気に入りだから……というのは表向きの理由で、実は姉が油性ペンで壁に落書きをしたのを隠すために飾ってある。しかも、書かれているのは俺の名前である『チョウジ』の文字……全く迷惑な話だ。そういえば姉に、この絵の額縁の掃除係に任命されたような気もする。確か額縁を下ろして板を外してなんちゃらかんちゃら……指示が多すぎてよくわからなかった。さらに、7歳の俺に額縁を下ろす力はなかったので、額縁掃除はすぐにあきらめた。
「それ、五十肩なだけだろ」
 俺は母に聞こえないように小声でそう言った。正直額縁掃除なんて面倒くさい。
「……何か言った?」
「あー、今日のお昼は何かなー」
 お昼に食べた冷やし中華は、心なしか麺が少なかった。



「確かに重いな……」
 額を下ろしながら、俺は絵をまじまじと見た。群生しているオボンの木に、無数の実が生っている。絵の中心でひときわ輝くオボンの実は、枝から離れて今にも落ちそうだ。その後ろには青空が広がり、虹がかかっている。まるでオボンの実から虹がかかっているみたいだ。
 姉の絵にはポケモンがいない。この絵だけじゃない、すべての絵にポケモンがいない。俺は姉の口からポケモンの話を聞いたことがなかったし、両親もポケモンの話題に触れなかった。きっと、ポケモンが好きじゃなかったんだと思う。
 そんな姉とは対照的に、俺はポケモンが大好きだった。10歳になったらポケモントレーナーになって世界を旅するのだと、信じて疑わなかった。姉にその話をしたら、なれるわけがないと鼻で笑われた。まだ幼くて無知だった俺は、姉の言葉に半泣きしたのを覚えている。
 結果的に、俺はトレーナーにはならなかった。なりたい気持ちが無くなったと言ったら嘘になる。でも、俺はトレーナーの道を選ばなかった。選べなかったのだ。姉が死んだ悲しみから立ち直れていない両親に、トレーナーになりたい、家を出て旅に出たいと言い出すことが出来なかったのだ。
「これで、よし」
 額縁もガラスも綺麗に拭いた。額縁の中はさすがにやらなくてもいいだろう。俺は重たい額を壁にかけ、姉が描いた落書きを上手に隠した。



 お盆休みに入り、母の作る冷やし中華にも飽きてきた。毎日冷やし中華と素麺の繰り返しじゃ、飽きても仕方がない。バリエーションがなさすぎる。高校の購買で不味いと評判の味噌バターカレー拉麺パンですら恋しい。もう麺類じゃなければなんでもいい。あれ、でも味噌バターカレー拉麺パンは結局麺類……? いや、もうそれもどうでもいい。母は何食わぬ顔で冷やし中華をすすっている。飽きないのだろうか。
 冷やし中華をつついていると、廊下からピシッと変な音がした。今日は父は仕事に行っているし、母は一緒にご飯を食べている。それ以外に家に人はいないはずだ。俺は箸を置いて急いで廊下に出る。廊下に不審な人物は見当たらない。玄関の鍵もしまっている。ただ――
姉の絵が傾いて、額縁のガラスにヒビが入っていた。



「これ、飾っとくのもなぁ……」
 額縁が傾いたことで姉の落書きが丸見えになり、ガラスにヒビを入れた犯人が俺だというダイイングメッセージのようになっている。完全なる誤解だ。それでも俺はやってない。でも、このまま飾っておくのも危ない…… 仕方がないので額縁を下ろして、俺の名前を公開処刑することにした。家族にしか見られないし、まぁいいや。
「母さん、危険物の袋どこー?」
「はいこれ。手、切らないようにね」
 ガラスが危ないので、まず額縁から絵を取り出すことにした。とりあえず、板を外す。すると、絵の裏に茶色い封筒が貼り付けてあった。姉の字で、『チョウジ』と書いてある。壁の字といい封筒の字といい、ちょっとホラーだ。どんだけ俺の名前気に入ってたんだ。まさか、ブラコン……? いや、思い過ごしに違いない。アイツは弟の夢を鼻で笑うような奴だ。今はとにかく割れたガラスを袋に入れよう。俺は額から絵を取り出すと、割れたガラスを危険物の袋に入れた。ミッションコンプリート。よくやった、俺。
 俺は茶色い封筒に視線を戻す。俺の名前が書いてあるんだから、勝手に見たって怒られやしない。俺はリビングからハサミを持ってきて、封筒の上部分を切った。
「これは、地図?」
 中に入っていたのは、姉が入院していた病院の周辺マップだった。病院までは電車で2駅、家からもそう遠くはない。マップをよく見てみると、赤いマーカーで二重丸が書いてある。二重丸の横には姉の字で、こう書いてあった。

『たからもの』



 駅から歩いて15分、そこは姉の絵そのものだった。大きな公園の一角に、オボンの実が群生していた。違うところといえば、虹が出ていないこと。そして、人とポケモンが多くいることくらいだ。ビビヨンが飛び、ヤヤコマがオボンの実をつついている。あそこにいるのはシシコだろうか。なんだかここは、とても時間がゆっくり流れているような気がする。
 道沿いに歩いていくと、ひときわ大きなオボンの木を見つけた。木だけじゃない、生っている実も随分と立派だ。横の看板には『オボンの実は1人1つまで。ルールを守ってみんなで使いましょう』の文字。どうやら1つはもらってもいいらしい。
「どれにしようか……痛ッ、なんだよもうッ」
 突然上からオボンの実が降ってきて、見事に頭にクリティカルヒット。あまりの痛さに思わずうずくまる。しばらくして視線を上げると、見覚えのある二重丸が目に入った。急いで看板に駆け寄る。看板の足の部分に、褪せて茶色くなった二重丸。さらに下向き矢印が書いてあったのだ。
 俺は矢印の指す場所を掘った。爪に砂が入ったけれど、そんなのはどうでもよかった。必死に砂を掘った。ここには何かがある。姉が残した何かが、ここには絶対にあるのだ。
「あった……」
 それは、オボンの実ほどの小さなカプセル。タイムカプセルだった。



 中から出てきたのは、封筒に入った手紙と小さな巾着だった。たたまれた手紙を開く。さっきも見た、懐かしの姉の字だ。

『チョウジ、久しぶり。これ、ちゃんと見つかったかな? チョウジには難しかったかな?ううん、きっと見つけられたはず。だってチョウジは、いつまでも幼い弟じゃないんだもんね。でも、すぐ見つけられてるといいなぁ……どうだろうか。
 私の病気が見つかったのは、9歳の頃。トレーナーになるかならないか両親ともめて、やっと説得したと思ったら病気が見つかって、本当に何も思い通りにならなかった。そのときチョウジはお母さんのおなかの中にいて、何にも思い通りにならないんなら弟の名前くらい私が決めてやると思って、油性ペンで壁に大きくチョウジって書いたの。花の隣には蝶がいてほしいと思って。今は、後悔してる。名前をチョウジにしたことを後悔してるんじゃないの。油性ペンで書いたから……消えないよね。ごめんね。
 トレーナーになることを諦めてからは、ポケモンとかかわることも減っていった。自分の命がもう長くないっていうのはなんとなくわかっていたし、自分がいなくなって、悲しむ人やポケモンを増やしたくなかった。ポケモンが大好きだからこそ、ポケモンを悲しませたくなかったの。両親は、トレーナーになる夢を諦めた私に気を使って、ポケモンと一緒に暮らそうとしなかった。きっと今でも家にポケモンはいないと思う。
 今、あなたは何をしてる? 何歳になった? 私よりも身長が伸びたかもしれない。あなたの未来は私にはわからない。でもね、お願いがあるの。あなたの未来はあなたが決めていい。だってあなたには、ポケモンと泣いて笑って共に過ごす時間がまだまだある。前にあなたがトレーナーになりたいって言ったとき、意地悪な返事しかできなくて、本当にごめんなさい。それだけじゃなくて、いっぱい意地悪してごめんなさい。お父さんとお母さんを独り占めしてごめんなさい。それでも、私はあなたのことが大好きです。
 カプセルの中に、私の宝物を入れました。トレーナーになって旅に出られなかった私が、ずっと捨てられずにいた宝物です。それと、私のトレーナーカードを同封しておきます。両親に黙って取得したトレーナーカードです。これは、病院の横のポケモンセンターに持って行ってください。注文が多くてごめんね。
 これから未来を生きるあなたが、幸せでありますように。あなたの姉でいられて、私は幸せでした。ハナより』

 封筒の中に、折りたたんだ絵とトレーナーカードが入っていた。俺は絵を手に取ると、ゆっくりとその絵を開く。そこに描かれていたのは、青い空に白い雲。そして満面の笑みを浮かべたポケモンたちだった。その中に1人だけ、笑っている男の子がいた。それは、ポケモンたちに囲まれて楽しそうに笑っている、幼い頃の俺だった。
 俺はカプセルに入っていた巾着を取り出して、中身を見てみた。それは、空っぽのモンスターボール10個とプレミアボールだった。



 俺は姉のトレーナーカードを持ってポケモンセンターに来ていた。ポケモンセンターに入るのなんて、小学生の頃の校外学習以来だった。ポケモンを連れたトレーナー達が各々ポケモンを回復したり、休憩したりしている。
「あの……」
 俺は、受付にいるジョーイさんに声をかけた。受付にはたくさんのジョーイさんがいるのだが、みんな同じ顔にしか見えない。
「これ、姉がポケモンセンターに持って行ってほしいって言って、持ってきたんですけど……」
 ジョーイさんはトレーナーカードのバーコードを読み取り、パソコンのキーボードをたたくと、目を丸くしてじっと画面を見つめた。
「お姉さんのボックスの中に、1匹だけポケモンが残っています」



 ジョーイさんから受け取ったのは、ポケモンではなく、ポケモンのタマゴだった。ボックスに入ったポケモンは年を取らないと聞いたことがあるが、データ化されてボックスに入っていたので、タマゴも孵らずにそのときの状態のままだった。ただ、このタマゴを引き出すまでに10年の時間を要してしまった。データ化され続けていたこともあり、ジョーイさんには、孵るかどうかわからないと言われてしまった。
 ガラスのケースに入ったタマゴを家に連れて帰ると、両親にかなり驚かれた。今までポケモンとは縁のない生活をしてきたのだから無理もない。俺はガラスのケースからタマゴを取り出すと、膝の上に乗せた。軽いけど、重い。それは、ずっしりとした生命の重みだった。
「あったかい……」
 タマゴの底の方が、じんわりとあたたかくなっていた。姉の残したタマゴは、生きているのだ。10年の時をボックスで過ごしても、この小さな殻の中で、懸命に、確かに、生きているのだ。
「頑張れ……」
 俺はそのタマゴを、抱きしめることしかできなかった。



 お盆休みも後半に入り、タマゴも少しずつあたたかみを増してきた。殻の中で何かが動いているのがわかる。俺はタマゴを受け取ったその日から、毎日仏間でタマゴの成長を見守っていた。タマゴが孵ったときに、姉に最初に報告したいと思ったのだ。
「もうすぐ産まれると思うんだけどな……どう?」
 俺は仏壇に向かって話しかけた。制服を着た姉がこっちを向いて笑っている。いつ見ても、笑っている。タマゴがカタカタと揺れる。俺はタマゴの方に視線を落とした。
「聞いたってわからないよな、もういないんだもんな……痛ッ、なんだよもうッ」
 突然頭に何かがぶつかった。それが床に落ちて転がった音と同時に、ピシッという音が響いた。すぐさま膝の上のタマゴを見ると、一筋ひびが入っている。もうすぐ、もうすぐ産まれる。中で何かが一生懸命に殻を破ろうとしている。1つ、2つ、ひびが増える。タマゴがカタカタ横に揺れて――








「ようこそ、待ってたよ。10年も待たせて、ごめんな」








 床には、オボンで作った精霊馬が横たわっていた。