ビー男とミー子のセレナーデ

ねるねるねるね
「波音」「マスク」「神経衰弱」
編集済み
 モリモリ山のふもとにあるイワイワ岩のあなぐらに、ツボツボ病院というのがあります。ツボツボ先生、のんびり屋さんでのんき屋さん、診療時間も気分次第、ですがモリモリ山に住むむし達には、格別に人気のお医者さまでありました。と申しますのも、処方されるこの『ツボツボ先生特製ジュース』、モリモリ山産完熟きのみを甲羅のツボで発酵させたものでして、これが良薬も良薬、どんなにおそろしい病でも、立ちどころに治してしまうと言うのです。
 そのツボツボ病院の戸を、きぃ、と開くむしが一匹。ぜえぜえよろめきながら来院したそのむしは、モリモリ山の中腹のチャプチャプ池のあたりに住む、バルビートのビー男さんです。
「先生おかしいんです、助けてください、胸が苦しいんです」
 ビー男さんは顔面蒼白、神経衰弱。くるんと跳ねる触覚のまがりもあまり見事とは言えません。前肢でしきりに胸のあたりを掻いています。
「それはいけない。さあさあこちらへ」
 ツボツボ病院は小さな小さな病院ですので、看護師さんはおりません。いまにも倒れこみそうなビー男さんを支えながら、ツボツボ先生は一台こっきりの干し草ベッドへ彼を寝かせてやりました。
「しめつけられるように痛むんです。ボクどうなってしまうんでしょうか」
「ほかに症状は?」
「頭がボンヤリとして、全身がカッカと熱い、あと動悸もひどくて」
 フムフムと親身に頷きながら、カシワの葉にカルテを書きつけるツボツボ先生。ビー男さんはぜえぜえと肩で息をしながらうつろに天を仰いでいます。
「先生はやく助けてください、このままでは死んでしまう」
「その症状は、いつから?」
「ついさっき、ガヤガヤ商店街で、ミミロップさんを見たときから」
 ビー男さんはうつろに天を仰ぎつつ、悲壮な面持ちで言いました。
 その悲壮具合たるや、まるでこの世の終末を目にしてきたかのようなのです。
「ミミロップさんを見たときから」
「先生。ボクだってね、前から歩いてくるのを見たときは、かわいいなあと思うくらいだったんですよ。それくらいは不可抗力だし、誰だって許されるべきでしょう? ところがね今日にかぎっては、前からやってくるでしょう、それで隣をすれ違った瞬間に、頭がこう、ぐらあっときて」
 衰弱しているビー男さん、まるで要領を得ませんが、ツボツボ先生はフムフムと親身に頷きます。
「いやもうあれはね、ぐらあなんてもんじゃないですよ、ぐわん、どおん、ずごおおおんみたいな、そうそうあのキリキリ谷のダゲキの野郎がローキックしてくるような衝撃で」
「それはすごい」
「でしょ? それでローキックぶちかまされたボク、思わず振り返ったんですよ。ミミロップの彼女が歩いてく後ろ姿を振り返ったんですよ。そしたら、ああ、思い出すのもおぞましい、あろうことか、ボクその姿がものすごく魅力的に思えてきて……うっかり後をつけてしまいそうになって、そんな自分に気がつくと突然胸の痛みと動悸が」
「なるほどなるほど、よく分かりました」
 さらさらさらりとカルテを書き終え、ツボツボ先生は薬ツボへとにょろにょろり。
「それは恋の病ですね。ええとじゃあ、このキーのみジュースをお出ししましょう。鎮静作用がありますから」
「――違います! 決して恋の病なんかじゃありませんっ!」
 はて、どうしたことでしょう、急に声を大にして、ビー男さん叫びはじめるではありませんか。
「だってボクにはミー子というガールフレンドがいるんですよ! ミー子がいるのに他を好きになるなんて絶対おかしい、そんなことがある訳ないんだ!」
「ええと、ミー子さん、と言うと?」
「イルミーゼですよ、当たり前でしょう」
 ミー子は素敵な女性なんですよ、とビー男さんはうっとりしながら語りました。ツボツボ先生はやはりフムフムと親身に頷き、机に戻って、カルテに続きを書き足していきます。
「ミー子は綺麗だし、妖艶だし、スタイルもいいし、ちょっと怒りっぽいところもあるけど、したたかで賢くて、とっても気が利く良い子なんですよ! 他のイルミーゼと比べてもすごく上等な匂いがするし、最近始めた香水のお店もとても軌道に乗っている。若い子に大人気で、いつも店内はいっぱいなんです」
 いつも店内はいっぱい、と、ツボツボ先生はさらさらさらりと書き並べます。なんだか、途中からただの自慢話になってない? というか最初からでしょうか?
「ミー子はボクの誇りなんです、こんな素晴らしい女性をガールフレンドに持つボクは世界一幸せなバルビートだ……ああ、なのにどうしてこんなことに!? 先生助けてくださいよ!」
 みるみるうちにヒートアップしたかと思えば、今度は突然、がばり起き上がりましたビー男さん。
「そうだ先生ご覧になってくださいよ、ボクがあのミミロップに誘惑されてしまうさまを! 何かヒントになるやもしれません」
「しかし病院を空ける訳には」
「同じむしのよしみでしょう! ささ、行きましょう!」



 ということで、ツボツボ先生とビー男さん、やってきましたガヤガヤ商店街。待ち合わせスポットとして人気の高いプルリル噴水の影に隠れて、噴水向かいを窺います。あの子ですあの子、とビー男さんがしきりに示すのは、なるほど見目麗しくオシャレなミミロップの女性でありました。
「ああ……胸が苦しい、なんということだ……ボクともあろうものが、ミー子以外の女性にときめきを感じてしまうだなんて……」
 ビー男さん、ひとりでぶつぶつ言っています。その顔のとろけ方たるや、今にもフラフラと羽ばたいていってしまいそう。
「綺麗だなあ、妖艶だなあ、スタイルもいいなあ……そして、とてもやさしそう……」
 そのとき――

 カッ!

 と、ビー男さんは大きな複眼を見開きました。

「ああっ!」

 そして――

 ピカッ!

 と、ビー男さんのおしりが輝きました。

「はっこうしてしまう!!」

 ピカッピカッピカッ。
 ゆらぎながら美しく明滅を繰り返すビー男さんのまあるいおしり。
 その求愛のたおやかなゆらぎとは対照的に、ビー男さんはおしりを両肢で隠しながら必死の形相で叫ぶのです。(まあ、短い前肢は届いていないし、おしりは隠れていませんが)

「はっこうしてしまう!! 先生、ボクはっこうしてしまいます!!」

 あまりにビー男さんが叫ぶので、待ち合わせのひとびとがなんだなんだと注目しはじめてしまいました。

「ミー子というものがありながら、はっこうしてしまうううううう!!」

 そしてもちろん、あのミミロップさんも。
 目があいました。
 小首をかしげられました。
「な、なにか……?」
「うぎゃあ!」
 ビー男さんは絶叫して、ますます熱烈に光るおしりを、ツボツボ先生の甲羅の裏に隠します。
「ミミロップさん、違うんですこれは違うんです! ボクはっこうしていないんです! はっこうしているのは先生なんですよ!」
「確かに私もはっこう  発酵  しますが、はっこう  発光  まではしませんよ」
 さてミミロップさん、ビー男さんの訴えのあまりの壮絶さに、完全に怯えてしまっています。周囲に怪訝な視線を向けられる中、待ち合わせのプルリル噴水から離れてしまおうか、彼女迷っているうちに……
「どうしたんだい、ミミ美」
 ハンサムなコジョンドさんがやってきて、ミミロップさんを覗き込みました。
「コジョ彦くん」
「何かあった?」
 ミミロップさん、困り顔でビー男さんをちらり。
「なんでもないわ。さあ、行きましょ」
 そしてビー男さんの存在を完全になかったことにして、腕を組んで、二匹で去っていきました。
 ひゅるりらひゅるりら。乾いた風が駆け抜けます。
 お似合いだなあ、と、ツボツボ先生は呟きました。隣でビー男さんが崩れ落ちました。
「ああああああああ……」
 うずくまるビー男さんのおしりの光は、弱々しくなり、やがて消えてしまいました。周囲のひとびとが同情の目を向けていますが、ビー男さんは気付きませんし、ツボツボ先生も気にしません。
「もうだめだ。先生、もうだめだ……胸が苦しい、これは明らかに失恋の痛みだ。先生、どうか薬をください……失恋に効く薬をください!」
 ビー男さんよろよろと起き上がり、ツボツボ先生にすがりつきます。ふうむならばオボンのジュースがいいかなあなどとツボツボ先生がうなります、それと同時に。
「ビー男さん?」
 鈴の鳴るような声がして、二匹は振り向きました。
 ベーカリー・ド・ドンメルの買い物袋を前肢に抱えたイルミーゼが、ビー男さんのことを不思議そうに見つめています。目が大きくてとっても可憐で利発そう、そしていかにも気が強そうです。
 み、ミー子……! ビー男さんはわななきながら、慌て気味に立ち上がりました。
「ああやっぱりビー男さんだわ。こんなところで何をしてるの?」
「ノープログレム、心配ないよ」
「そう? あらツボツボ先生、ごきげんよう」
 きゅっと上がった口角で微笑み、にこやかに会釈するミー子さん。とってもチャーミングなむしレディです。
「今、先生とばったり会って立ち話をしていたんだ。ああしかし今日もミー子はかわいいなあ、なんて甘美な匂いなんだ」
「分かる? 昨日から売り出してる、新作の香水なの」
「素晴らしいよミー子。もっと近くで嗅がせておくれ」
 じゃあね先生。そう言い残して、二匹はいちゃつきながらモリモリ山の方へと並んで歩いていきました。
 一匹取り残されたツボツボ先生。なんだあのむし振り回しやがって、と思いたくなるところですが、ツボツボ先生はのんびり屋だから、細かいことはいいのです。ああよかったなあ、とにっこり笑って、イワイワ岩へとにょろにょろ帰ってゆきました。


 〇


 数日後。
 ツボツボ病院の戸を、きぃ、と開くむしが一匹。ぜえぜえよろめきながら来院したそのむしは、バルビートのビー男さんです。顔面蒼白、神経衰弱。くるんと跳ねるはずの触覚は今やだらり垂れ下がり、前肢で胸を掻く気力もなさそう。加えて、今日は、愛らしい団子っ鼻と口元を、ケムッソの吐く糸で作られた大きなマスクで覆っています。
「先生おかしいんです、助けてください……どっどっ動悸が」
「どうしましたそのマスクは」
「この原因不明の病が……ミー子に移っちゃいけないと思って……」
「恋の病は移りませんよ」
「だから違うんです! 恋の病じゃないんです!」
 日に日に悪くなってます、今やあらゆるむしやヒト型の方々に誘惑されてしまうんです、と言い言いやってきたビー男さん、ツボツボ先生の甲羅をがっしと前肢でつかまえると、がっくんがっくん揺さぶりはじめました。ぶるんぶるんするツボツボ先生の頭です。
「今日なんかはもう道行く色んな方々に何度もはっこうしてしまいそうになりました、このままじゃとてもミー子に顔向けできません。一匹のイルミーゼを愛し抜けないバルビートなんか、聞いたこともありませんよ! なぜなんだ? こんなにミー子を愛しているのに。先生お願いします助けてください。この病はなんなんです? 不治の病なんですか?」
 最初からヒートアップし続けているビー男さん、そうだ! と高らかに叫びました。がっくんがっくん。ぶるんぶるんぶるん。
「先生ご覧になってくださいよ、ボクがあらゆるむしやヒト型の方々に誘惑されてしまうさまを! 先生には必ずやこの病の原因を突き止めていただかなければなりませんっ」
「しかし病院を空ける訳には」
「同じむしのよしみでしょう! ささ、行きましょう!」



 ということで、ツボツボ先生とビー男さん、やってきましたトゲトゲ峠。ここはチャプチャプ池とキリキリ谷を繋ぐ道で、結構なひとびとが行き交います。
 二匹で歩いておりますと、なるほどビー男さん、あっちへフラフラ、こっちへクラクラ。種々様々の方々に誘惑されるではありませんか。ビー男さんの言うとおり、あらゆるむしやヒト型の方々に反応している――という訳では、どうやらなさそう。何か法則があるようにも見えるのですが……。
「ああ、あのダゲキ……」
 道端で大木を殴ったり蹴ったりして空手の練習をしているのは、キリキリ谷のダゲキさん。乱暴で怒りっぽいヤンキーもので有名ですが、隠れたオシャレへのこだわりも実はキリキリ谷随一だったり。
「キリキリ谷のダゲキの野郎、いつもは癪に障るばかりなのに、今日は見ているだけで胸の高鳴りが止まらねえ……」
 ビー男さん、ひとりでぶつぶつと言っています。その顔のとろけ方たるや、今にもフラフラと羽ばたいていってしまいそう。
「でもビー男さんや、あの方、男性ですけれども」
「真実の愛を語る時、男も女もありますか! ああっ綺麗だなあ、妖艶だなあ、スタイルもいいなあ……そして、とてもやさしそう……」
 やさしそう……? そうですか?
 そのとき――

 カッ!

 と、ビー男さんは大きな複眼を見開きました。

「ああっ!」

 そして――

 ピカッ!

 と、ビー男さんのおしりが輝きました。

「はっこうしてしまう!!」

 ピカッピカッピカッ。
 ゆらぎながら美しく明滅を繰り返すビー男さんのまあるいおしり。
 その求愛のたおやかなゆらぎとは対照的に、ビー男さんはおしりを両肢で隠しながら必死の形相で叫ぶのです。(まあ、短い前肢は届いていないし、おしりは隠れていませんが)

「はっこうしてしまう!! 先生、ボクはっこうしてしまいます!!」

 あまりにビー男さんが叫ぶので、道行くひとびとがなんだなんだと注目しはじめてしまいました。

「ミー子というものがありながら、はっこうしてしまうううううう!!」

 そしてもちろん、あのダゲキさんも。
 目があいました。
 睨まれました。
「てめぇ何ガン飛ばしてんだコラ、ああん?」
「うぎゃあ!」
 ビー男さんは絶叫して、ますます熱烈に光るおしりを、ツボツボ先生の甲羅の裏に隠します。
「ダゲキさん、違うんですこれは違うんです! ボクはっこうしていないんです! はっこうしているのは先生なんですよ!」
「確かに私もはっこう  発酵  しますが、はっこう  発光  まではしませんよ」
 さてダゲキさん、ビー男さんの訴えのあまりの壮絶さに、無論、怯えるまでもなく、ずかずかと大股で近づいてきて、
「てめぇのおケツがピカピカ光ってんじゃねえか!」
 ずごおおおん!
 ローキックを決めました。
 ビー男さんは崩れ落ちました。フンッと鼻息を鳴らして、ダゲキさんは去っていきました。
 ひゅるりらひゅるりら。乾いた風が駆け抜けます。
 うずくまるビー男さんのおしりの光は、既に虚しく消えています。哀れビー男さん、ぴくりとも動けません。周囲のひとびとが同情の目を向けていますが、ビー男さんは気付きませんし、ツボツボ先生も気にしません。
「先生……」
 ビー男さんはうずくまったまま言いました。
「入院させてください」
「恋の病で? それとも、おしりの痛みで?」
「もういいです、なんでもいいです。巣に帰りたくない。このままのボクでは、ミー子にふさわしくありません」
 

 〇


「先生も呆れますよね、こんなにうだつのあがらないバルビートなんて。ボクはバルビートの面汚しだ」
 干し草ベッドに寝転がり、ビー男さんたら、すっかりさっぱり意気消沈。ツボツボ病院はそもそも入院には対応していないのですが、さてどうしたことでしょう。外は次第に薄暗くなってまいりました。
「愛を語れないバルビートに、生きている価値なんてあります?」
「そう仰いますな。どんな物にも、等しく価値はある」
「ミー子に申し訳が立ちません……よよよ」
「自信をもって、ビー男さん」
 よよよと涙を流すビー男さんを見かね、ツボツボ先生は薬ツボとは別のツボから、にょろとあるものを取り出しました。成熟したウタンのみを乾燥させて作った容器、とぷんとぷんと揺れる液。実はこれ、ツボツボ先生秘蔵の逸品。
「神経衰弱には、これが一番よく効きます」
 ツボツボ先生のツボでじっくりはっこうさせられた、特製オボン酒なのでした。


「――べらんめぇ先生、あのねえご存知ですかねぇ、バルビートのほたるびっちゅうのはねぇ、この世でねぇい……っちばん美しい光だって言われてんですよ。それはねえ何かって言うとねえ、『ゆらぎ』なんですよ。『ゆらぎ』。これはねえ1/fゆらぎっちゅうて、自然界のうんぬんかんぬん、まあボクもね詳しくは知らないんですけれども、バルビートの求愛のほたるびを見た者は、みな心が洗われて、ぽうっと幸福に包まれる。バルビートのほたるびはねえ、天からの贈り物なんですよ。ひっく」
 真っ赤な顔をしたビー男さんは、ベッドの上ででろでろしながらいっそうくだを巻いています。外はすっぽり夜に包まれてしまいました。
「中でもボクは、チャプチャプ池で最も美しい幾何学模様を描くバルビートなんだ」
 ごっきゅごっきゅとオボン酒を流し込むビー男さん、気持ちいいほどの飲みっぷり。自信家だなあなどと水を差さず、ツボツボ先生はフムフムと話を聞いています。
「それがこんな、っぷはぁ~……心に決めたイルミーゼがいながら……ひっく、フラフラとねぇ、他にうつつを抜かすようになっちまうなんて……」
「ビー男さんや、もしかして、波長が合わないんじゃないですか?」
「波長?」ツボツボ先生の言葉に、ビー男さんはべろんべろんの顔を上げます。「波長ってつまり音波……むしのさざめきのことですか?」
「低周波音には、聞く者を不安にさせる効果があるのです」
 ツボツボ先生、これでもちゃんとお医者さんですから、そういうことにも詳しいのです。
「どの音域を低周波音とするかは感受性の個体差がありますから、ミー子さんの羽の振動で起こされる音波の音域が、あなたに合わないとか」
 ツボツボ先生の講釈を、分かってるのかいないのか、ビー男さんは半分以上とろんとした目で、しばらく聞いていましたが……
「常日頃の羽音というのは、そうそう変えられるもんじゃあありません。もし本当にこれが不快ということになれば、それはもうビー男さんとミー子さんの相性が悪かったということで、添い遂げるのは諦めた方がいいんでないかと思うのですが……」
「――馬鹿な!!」
 突然、真っ赤な顔を更に真っ赤に、どなり声をあげました。
「ボクとミー子のむしのさざめきは、完璧なハーモニーを奏でているんですよ! 馬鹿にしないでいただきたい!!」
 カラになった秘蔵オボン酒入りウタン、哀れ空へ。投げ捨て、ぶうんと羽音を響かせて、ビー男さんは飛び上がりました。
「あの晩、チャプチャプ池で出会った時、ボクたちは一目で恋に落ちた。そりゃもう運命を感じましたよ。ミー子はボクを誘導して、この世のどんな図形よりもロマンティックな幾何学模様を、こんなボクに描かせてくれた」
 そう、バルビートという男たちは、イルミーゼのあまいかおりに誘導され、夜空に光のサインを描くのです。
 前肢をふりまわし、羽を震わせ、熱っぽい演説は続きます。いつしかビー男さんのくるんと跳ねた触覚も、見事なまがりを取り戻しているではありませんか。
「確かに、自分では、自分がどんな模様を描いているのか分かりません。でもねえ先生、分かるんです! ミー子の匂いに身を委ねて夢中で夜空を舞っているとき、ああボクは、これまでの生涯で最も尊く、芸術的な存在へと高められているんだと、感動に打ち震えたんですよ! シンパシーを感じた。エクスタシーを感じたんだ!! ボクにあんなに美しい模様を描かせてくれるひとはミー子しかいない。ミミロップさんやダゲキさんが、ボクに美しい模様を描かせることができますか!?」
 熱弁を振るいながら、ビー男さんはびゃあびゃあ号泣していました。
「ボクをこの世で最も美しいホタルにしてくれるひとは、この世にミー子しかいないんだ!!」
 先生!! ――がしり、と先生の甲羅を抱きしめるビー男さん。感極まって流れ出た液体で顔はぐしょぐしょになっています。
「ありがとうございます、たったいま、ボクは真実に辿り着きました。この世で最も愛しいものを、先生のお陰で思い出すことができたのです」
 こうしちゃいられない。ミー子のところに帰ります。そう言って羽ばたき、ぶうんと出口へ。なんと自己完結したむしなんだ、と思いたくなるところですが、ツボツボ先生はのんびり屋だから、細かいことはいいのです。ああよかったなあ、とにっこり笑って、にこにことビー男さんを見送ります。
 ところがあなぐらを飛び出す直前、ぶんっとひるがえってビー男さんは言いました。
「そうだ先生ご覧になってくださいよ、ボクとミー子が共に愛を奏でるさまを。今宵の夜空に、極上の幾何学模様を描くさまを!」
 しかし病院を空ける訳には……という言葉が出かかりますが、まあ、もう夜中です、多少空けたっていいでしょう。
「ぜひ、拝見させていただきましょう」



「――ミー子ッ!」
「――ビー男さん!」
 光咲くチャプチャプ池の真ん中で、ひっしと抱き合う二匹のむし。
「言葉なんていらない……さあ、踊ろう!」
 そうして、二匹は手を取り合い、すぐに踊りはじめました。
 ミー子さんのエスコートに、情熱的に舞い踊るビー男さん。光は尾を引き、旋回し、水面にきらめき、幻想的に明滅します。無数に飛び交うバルビートたちの光の中で、なるほど確かに、ビー男さんの幾何学模様、得も言われぬ色香を放つ、美しき模様でありました。ゆらぎながら見事に描かれる二匹の愛の結晶に、ツボツボ先生、日頃の疲れも癒されるようで、うっとりと魅入っておられました。
 ビー男さんは、自分がどんな模様を描いているのか、とんと分かっていないのでしょう。ミー子さんに導かれるまま、とろけた表情で踊り続けるビー男さんのおしりの光は、あるとき幾何学模様の合間に、こんなメッセージを描きました。

『あ』
『り』
『が』
『と』
『う』

 ほたるびに照らされたミー子さん、ひとつウインク。
 ツボツボ先生は、にっこり笑って頷きました。


 〇


 次の日。
 ツボツボ病院の戸を、きぃ、と開くむしが一匹。ちょこんと顔を覗かせ来院したそのむしは、イルミーゼのミー子さんでした。
「ごめんくださいませ、先生」
 ミー子さん、ツボツボ先生を見つけるやいなや、ぺこりとお辞儀をするのです。
「先日は、とんだご迷惑をお掛けしまして。私からも、是非ともお礼を申し上げたく」
 ツボツボ先生、なんだかにこにことうれしそう。診療代はビー男さんからいただきましたよ、と優しい声で返しますと、ミー子さん恥ずかしそうに微笑みました。怒りっぽい、だなんて言われていましたが、とってもしとやかなむしレディではないですか。
「先生、とっくに気付いておられましたよね。ビー男さんに内緒にしていただいて、どうもありがとうございました」
 恐縮するミー子さんに、あなたの香水は素晴らしい、とツボツボ先生は出し抜けに言います。
「今朝、ちらりとお店を拝見しました。大行列が出来ていた」
「ええ、みなさん、こちらを求めて」
 先生にもこれを。手渡されたのは、可憐な小瓶に詰められた、ミー子さんの新作香水です。
 ツボツボ先生、しばらくのあいだ、まじまじ小瓶を眺めまして。
 それから、いらずらっぽい笑顔を見せて、ミー子さんに問いました。
「これをつけたら、私はビー男さんに惚れられてしまう?」
 ミー子さん、いかにもこそばゆそうな笑顔。
「製造してから数日でフェロモンのみ抜けるよう調合しております。この香水をつけたひとにビー男さんが誘惑されるようなことは、もう今後はないでしょう」
 それから少し、間を置いて、
「……ビー男さん、どうも気が多いというか、通りかかる女の子に目を奪われていたりするから、私なんだか自分に自信がなくなってきちゃって」
 でも、とまっすぐにツボツボ先生を見ている目は、決意の中で、ほうととろけているのでした。
「私の考えすぎでした。――彼、私のことを、ちゃんと愛してくれています」
 私が保証しましょう、とおどけるツボツボ先生です。ミー子さんはくすくす笑って、ではまた、と背中を向けました。ですが、あなぐらを出る前に振り返り、
「愛し抜こうと決めたひとを試すようなことするなんて、私、だめなイルミーゼですよね」
 ばつの悪そうな顔で、そんなことを言うのです。
 ツボツボ先生はゆっくりと首を振りました。
「ゆらぐからこそ、あのほたるびは美しい」
 あなたはとても魅力的ですよ。ツボツボ先生の言葉にふわあと笑うミー子さんからは、香水の匂いとは少し違った、とろけるようなあまいかおりが、ふあふあと漂っているのでした。