海中への憧れ

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「波音」「マスク」「神経衰弱」
編集済み
 断続的に窓がガタガタと音を鳴らす。それと同時に窓にビチャビチャと雨が叩きつけられる音が響き、暗い部屋の中で眠りに入ろうとする私の邪魔をする。いや、それだけではない。今日のイベントを失敗にしてしまったことが、私の心に重くのしかかっていた。

 今日という日をずっと楽しみにしていた。願っても願っても、喘息を患った私の体ではできなかったダイビング。それを十四歳になった今日、実現することができた。海の中の景色を見ることができたのは幸せだった。嬉しかった。楽しかった。しかし、自らの醜態によって引き起こした恐怖が楽しかった思い出を薄めていた。

 窓に吹き付ける風雨はとどまることを知らず、むしろ強くなっていく。私は布団をかぶる。

 そのときの出来事を思いだし、背筋が凍る。もうあんな怖い目には遭いたくない。ダイビング以外にもまだまだやりたいことはたくさんある。自らを危険な目に合わせる必要はない。そうだ、そうしよう。

 ――もうダイビングなんてしない。

 そうすればもう怖い目に遭うことはない。

 しかし、心の中の誓いは頭に浮かぶもやもやを晴らさなかった。気がついたときには風雨は止み、室内は薄明かりに包まれていた。時刻は七時。眠っていたのか眠っていなかったのかわからない中で、やたらと目が冴えていた。もう一眠りしようとしても眠れる気配はなく、はぁ、とため息をつきながら上体を起こした。カーテンと窓を開くと風が吹き込み、私の長い髪をなびかせた。

 二階から見える外の景色はいつもよりどんよりとしていた。いつも遠くに見えるシロガネやまは曇天の空に姿を潜め、その足元ではいまにも飲み込まれそうな黒に染まった海が広がる。海は時化ていて、手前に見える海水浴場に打ち付ける波音がいつもより大きく、耳障りだった。

 再びため息をつく。何の希望もない一日が始まるのかと思うと気が重くなり、体から力が抜けていく。

 やっぱりもう一眠りしよう――そう思って窓を締めようとしたそのとき、ふと海水浴場に違和感を感じた。気になってよく見てみると、砂色で染まった浜辺に見慣れないピンク色の何かがあった。それが何なのか遠くてよくわからないが、人ではなさそうだ――いや、今わずかに動いたような気もする。

 妙な胸騒ぎがした。急いで部屋着に着替えて、浜辺へ向かう。

 波打ち際に倒れているのは平べったく流線型のものだった。体と尻尾には紫色の貝殻のようなものがついており、口先は細い。それがテレビや本でしか見たことのない、サクラビスというポケモンだったことを思いだす。名前と体の色が一致していて、とても綺麗なポケモンだと思った記憶がある。

 しかし、いま目の前にいるサクラビスは綺麗とは程遠い状態だった。体は鮮やかさのないくすんだ青紫に変色しており、無数の切り傷がついて赤くなっていた。数カ所には何かに刺されたような痕もあり、苦しそうな表情と相まって、痛々しい。

 素人目に見ても危険な状態だとすぐにわかった。しかし、この海辺の田舎町にポケモンセンターはない。連れて行くにしても車で三十分はかかる。とにかく、家に戻ってお父さんを連れてこよう――。

「おーい、そんなところで何をしているんだ! まだ高波だから危ないぞー!」

 踵を返そうとすると、そんな声が海水浴場に響いた。その声の主は歩道の柵越しに叫んでおり、その姿を見てはっとした。そのスラッとした体付きの日焼けした男性を私は知っていたのだ。

「ヤイチおじさん助けて! このポケモン怪我をしているの!」

 私は叫び返す。おじさんはキョトンとしたのもつかの間、後ろに倒れているサクラビスを見て驚きの表情に変わり、すぐさま駆けつけた。

「ひどい怪我だ。早く手当してあげないと」

「車に乗せてポケモンセンターに連れて行こう。このままだと死んじゃうかも」

「いや、ポケモンセンターは遠すぎる。すぐそこの水族館に運ぼう。ポケモン専門医もいるはずだから、そこで処置をしてもらったほうがいい。連れてきてもらえるか?」

「わかった!」

 私は返事をするとサクラビスの様子を伺った。ちょうどそのとき、サクラビスの目がゆっくりと開いた。しかし、視線は焦点が合わないようでぶれており、残されている時間が多くないことを悟る。

 そっとサクラビスの頬に手を添える。

 ――待ってて。いま助けてあげるから。

 サクラビスにそう誓った。刹那、サクラビスの視線と私の視線がぶつかりあった。

 ――助けて。

 そう言われた気がした。

 私はうなずいた。それが合図のようにサクラビスの目はゆっくりと閉じられ、私も水族館へ向かって走り出した。



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 海水浴場のすぐ近くに水族館があるのはすごく運が良かった。サクラビスはすぐさま水族館に運ばれ、当直の医師によって治療が行われた。私たちは衛生的にも近くにいないほうが良いと諭され、しとしと降る雨の中、水族館から海水浴場の方まで歩いていた。

「サクラビス大丈夫かな……」

 私がつぶやくように言うと、ヤイチさんが答えてくれる。

「大丈夫だよ。当直の先生もいたし、きっと助けてくれるさ。それに暑くなる前に見つけて助けられたのは大きいと思う」

「だといいんだけど……。でも、一体どうしたんだろう、あんなひどい怪我をして。何かすごいバトルでもあったのかな」

「うーん、そうかも知れないけど、サクラビスって、見た目とは裏腹に体がかなり頑丈なんだよね。ちょっとやそっとじゃ傷もできないほどなんだけど、あれだけの傷を負っているってことはそれだけの何かがあったんだとは思う。おれは網かなんかに引っかかったんだと思うけどな」

「え、それじゃあ、捕まえられようとしていたってこと?」

「いやいや、そういうわけじゃなくて、漂流していた海ゴミの網に引っかかったんじゃないかな、と思うんだよね。この辺ではあまり見なくなったけど、海ゴミがポケモンたちに絡まって怪我する事故とか結構あったし、最近の網は合成繊維で出来ていてかなり頑丈だから、抜け出すには相当の苦労が必要だと思う。そんな苦労があった結果があの傷なんじゃないかなと」

 海ゴミについては聞いたことがあった。釣りや漁で使われている道具がそのまま海に落ち、それらは自然に分解されないため、そのままになってしまうゴミのことだ。漁具などはとても頑丈なことから、海ゴミとなってポケモンたちに影響を出しているらしい。

 他にもペットボトルやプラスチックなども海ゴミとなって、例えばそれを食べることで窒息などを誘発したり、私たちの暮らしに影響をしたりすることから、近年ではカロス地方でプラスチックゴミを出さないように規制を検討しているとか。

「そういえば昨日のダイビングのことだけど……」

 その突然の言葉に思考が破られ、一瞬で体がこわばった。

 その話は聞きたくなかった。しかし、言葉が詰まって声にならない。

「ごめんねすごく楽しみにしてくれていたのに、あんなことになっちゃって。でも、大丈夫、次はマンツーマンで一緒に行こう。今度こそダイビングの楽しさとか、もっと綺麗な海の世界を案内してあげるから」

 呼び起こされる昨日の記憶。澄んだ海の中を恍惚として眺めていたときに感じた鼻頭の違和感。気づけばダイビングマスク内に水が侵入していた。私は事前に習っていた方法でクリアリングを試みた。しかし、瞬間、視界が突然シャットアウトされ、目が染み、目を閉じる。さらに口にも海水が入り込み、思わず咳き込む。息ができない。

 ――死ぬ。

「ツクモちゃん?」

 ヤイチさんの言葉にはっとする。ヤイチさんの顔を見る。そうだ、ここは地上だ。住み慣れた地上だ。

「ありがとうございます」

 足元に視線を向け、その場を取り繕うように言った。

「でも、もういいんです。昨日、海の中の景色はちゃんと見れたから、もうダイビングはしなくてもいいかなって」

「え……あ、でも、大丈夫だよ、昨日みたいなことがあって怖いのはわかるけど、今度は僕もちゃんと付いてるから、もしもがあってもあんなに怖い目に遭わせたりはしないよ」

 ヤイチさんが必死にダイビングに誘ってくれる気持ちはありがたかった。彼はダイビングインストラクターで、ダイビングがしたいという私の気持ちを子供の頃から叶えようとしてくれていた。体調の都合でダイビングができない私に、海中の景色や泳いでいるポケモンたちの写真を見せてくれたり、グラスボートに乗せて海の中を見せてくれたり。昨日だって、喘息が治り、早くダイビングをしたいという私のために無理してダイビングをさせてくれた。

 ヤイチさんは純粋にダイビングの楽しさを教えてくれようとしている。それなのにこんな形で断ってしまうのが申し訳ないことだってわかってる。それでも、昨日の恐怖を思いだすと決心がつかない。

「いまはサクラビスのことが心配だから」

 私は話をはぐらかすので精一杯だった。



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 翌日、サクラビスが無事回復し始めていると水族館から連絡があった。数日後に来てもらえればサクラビスに会わせてくれるとのことだったので、当日早速水族館を訪れた。

 サクラビスは一般公開されていない専用の水槽にいた。パネル越しに見るサクラビスは、青紫に変色していた体が桜色に戻っており、刺し傷こそまだ目立つものの無数の傷はほとんどわからなくなっていた。見た目からはだいぶ回復しているようだ。

 しかし、見た目とは裏腹に、様子は全く回復していなかった。水槽には岩を模したオブジェクトが置いてあるのだが、その場所にぐだっとした様子で寝そべって全く動く気配がなかったのだ。眠っているのならまだよかったのだが、目は虚ろな状態で開かれ、表情は暗く、疲れ切っている様子だった。

「なんだか元気がないですね」

 私がサクラビスの様子をつぶやくと、同行していた飼育員兼サクラビスを治療してくれた医師が答えてくれる。

「ずっとこんな調子なんですよね。あれだけの怪我をした結果力尽きて流されてきたみたいなので、おそらく精神的にやられて神経衰弱状態なんだと思います。体の方はだいぶ回復しているんですけど、ご飯を食べてくれないし、夜も眠れていないみたいなので私たちも心配しています」

「ここの環境に慣れていないからということはないんですか?」

「その可能性は否定できないですけど、いまのところはなんとも言えないですね」

 この話をしている間もサクラビスは微動だにしなかった。

 体の色が戻ったサクラビスの姿はそれだけで綺麗だった。少し泳ぐだけでその優雅さ故に水槽の中の視線を全て集めるのではないか、と思うぐらい私の心は惹かれていた。一度でいいからその泳いでいる姿を見てみたい――そう思うものの、今の様子では元気を取り戻すことはないように思えた。

 ――サクラビスには元気になってほしい。

 そっと水槽のパネルに手を触れた。そのとき、サクラビスの表情が急に明るくなった。かと思った瞬間、私とサクラビスの目が合う。何かが交信された……ような気がした。自分のものではない何か複雑な感情、不安や喜び――たったの数秒間に長年の友達だったようなそんな親近感を感じた。

 わずかに悲鳴が聞こえ、不思議な感覚から現実に引き戻される。見ると、あれほどぐだっとしていたサクラビスが水槽の中を泳いでいた。表情は全体的に明るく、先程の怠惰な一面は全くない。

 この突然の出来事に医師とお互いの顔を見合わせてしまう。

 そんな私たちを尻目にサクラビスは悠然と水槽の中を泳いでいた。その姿は想像していたように美しく、ただただ見とれてしまうばかりだった。

 その日から毎日のように水族館へと足を運ぶようになった。それに連れて、サクラビスのいる水槽に行くと、私が来るのを察知したかのようにサクラビスが入り口を向いて待っていることが多くなった。その出迎えを受けるたびに、待っていてくれたことが嬉しくなり、水族館に行くのが楽しみになった。私がパネル越しに声をかけたり微笑みかけたりすると、サクラビスもそれに習って笑ってくれたり、水面に飛び跳ねて、反応を返してくれたりするようになり、それがまた嬉しくなるのだった。

 そんな日々が続いたある日、いつものようにサクラビスの泳いでいる姿を見ていると、医師と一緒にこの水族館の館長がやってきた。その思わぬ登場に全身が引き締まり、鼓動が早くなる。館長は楽にしていいよ、と言ってくれたが緊張は解けなかった。

「どうだいサクラビスの様子は? 最初の頃よりだいぶ良くなっただろう」

 館長は優しい声で言った。

「はい、とても見違えるぐらいに。いまはもう傷もないですし、とても元気になったみたいで良かったです」

「それも君のおかげだよ。なんでも、君が来るようになってから、急速に元気になったそうじゃないか。彼女も」――体の動きで隣の医師を示す――「驚いていたよ。そんなことあるのかー! ってね」

「あのときは私も驚きました。いや、本当にあれは不思議な体験でした」
 
「それでね、そんな君にひとつお礼をさせてもらいたいと思ってるんだよ」

「お礼……ですか?」

「そう。不思議な出来事はともあれ、サクラビスが助かったのも、元気になったのも君のおかげだ。それに君は毎日のようにここに来て一緒にいてくれているらしいじゃないか。元気になったのも、その一緒に過ごした時間がサクラビスの支えになったからだと思う。だから、私たちにできることなら何でも良い、何かお礼をさせてもらいたいんだ」

 その突然の提案に考え込んでしまう。こうやって毎日サクラビスに会うために、入館料なしで入れてもらえていることが、何よりものお礼だと思うのだが、館長は他になにかないかと言う。

 ひとつあるにはある。

 視線を水槽の方へ移す。サクラビスは、こちらの話に興味がないらしく、水槽の中をのんびりと泳いでいた。刺し傷の痕すらなくなった全身綺麗な桜色に覆われたサクラビスは、相も変わらず美しく、私の視線を奪う。それを見ているとやっぱりひとつの願いを叶えたくなる。でもその願いは、ヤイチさんと別れたあの日に捨ててしまっていた。

 しかし、捨ててしまったあの日から何度も考えた。本当にそれで良いか。後悔をしないか。それが自分の望みなのか。

「あの、私――」

 そしていま気づいた。あのときの言葉は嘘だったんだな、と。あんなことを言ったのに身勝手かもしれない。また同じ怖い目に遭うかもしれない。もしかしたら死ぬかもしれない。ああ、それでもやっぱりもう一度だけでいい。もう一度だけその夢を見させてほしい。

「私、サクラビスと一緒にダイビングがしたいです」

 私はサクラビスが綺麗な海の中を自由に泳いでいるところを一緒に泳ぎたい。ダイビングがしたい。そう心の底から思った。



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 空は雲ひとつない快晴、遮るものがないこの場所にまばゆい光は容赦なく降り注ぐ。辺りではエンジン音が鳴り響き、海を切って進むボートに吹き付ける風はとても気持ちいい。

 館長のお礼の話をもらったあと、私はヤイチさんのところへ向かい、ダイビングはもういいと言ったことを謝った。そのうえで、またもう一度ダイビングをしたいこと、そのための指導をして欲しいことをお願いした。

 正直なところ、どんな返事をされるかわからなくて怖かった。嫌だと突き放されるんじゃないかと思った。

 しかし、ヤイチさんは私のその言葉を聞くと顔を明るくし、嬉しそうにこう言った。

「うん、ぜひともまた一緒にダイビングをさせてほしいな。今度こそ絶対楽しいダイビングにするから、大丈夫、安心して」

 それから館長が私の要望を了承してくれたことによって、サクラビスと一緒にダイビングができることになると、私は同じ轍を踏まないよう準備を整えた。

 そしていま、私たちを乗せたボートはダイビングポイントに到着した。

 水族館から預かったボールからサクラビスを海に繰り出す。サクラビスは海面から顔を出すと笑顔を見せた。私が手を振ると、嬉しそうな鳴き声を発し、早く早くと言わんばかりにぐるぐると泳ぎ回る。水槽の中ではこんな姿を見たことがなかったので、思わず笑みがこぼれてしまった。

「どうしたのそんな嬉しそうにして」

 ヤイチさんがフィンを渡しながら言った。

「サクラビスが楽しそうにしてるな、と思って。やっぱり海のポケモンだから海が嬉しいのかな。水槽とは広さも違うだろうし」

「それだけじゃない、きっとツクモちゃんと泳げることが嬉しいんじゃないかな」

「えへへ、そうかなあ、私もそうだと嬉しいんだけど」

「よし、じゃあ、それを証明するために早く行こっか。サクラビスもお待ちかねみたいだし。あ、あと、何があってもおれから離れないこと、何かあればちゃんとサインを出して、落ち着いて行動をすること。いいね?」

 はい――と返事を返す。そして、私たちは海へとダイブした。

 海の中はやはり綺麗だった。前回とは違うポイントのため、また違った海の景色に心が躍る。アクアブルーに染まった海の中は澄んでいて、遠くのほうまで見通すことができた。その遠くにはテッポウオの大群やマンタイン、タッツーたちが泳いでいるかと思えば、近くの岩場にハリーセンがふわふわと浮かんでいた。岩が動いた! と思ったらそれはシェルダーだったり、海底をクラブが歩いていたりするなど、たくさんのポケモンを見ることができた。

 サクラビスは私たちの前を泳いでいるのだが、その姿には変化があった。明らかに水族館にいたときよりも、体の色が輝くような淡い色に変化していたのだ。その姿はアクアブルーと相まって海の中に彩りを与え、これまで以上に綺麗だった。そして悠然と泳ぐ姿はさらに美しかった。

 水槽で泳ぐときとは違うサクラビスの姿に思わず見とれてしまう。いま目の前を自由に泳いでいく淡い色をしたサクラビスの姿、これこそが私の見たかったサクラビスの本当の姿なんだ――そう感じて目頭が熱くなる。サクラビスがこちらを振り向く。私が手を振ると、サクラビスも楽しそうに前を泳いでいく。

 ああ、いまこうしていられることが何よりも幸せで。

 この選択をして本当に良かったと心の底から思った。

 ふと、真っ直ぐと前を泳いでいたサクラビスがルートを変更した。その行く先にはたくさんのサニーゴたちが集まる岩場があり、これまで見てきた海の中とはまた違う色鮮やかな世界が広がっていた。

 サクラビスはサニーゴの群れを見渡しながら、私たちがついていけない速度で前へ前へと進んでいく。先程までとは様子が違い、一体どうしたのだろうと疑問に思いながら追いかけていくと、やがて歩みを止めた。そこはちょうど岩場と岩場の間で、その隙間に隠れるようにシードラが眠っていた。サクラビスはシードラが起きないようにそろりと近づき、くちばしのように細い口をシードラに差し込んだ。

 すると、ずるずるとすするような気持ちの悪い音が辺りに響き渡った。

 その音に鳥肌が立つ。明らかに気持ち悪いこの音はサクラビスが発しているもので、その姿はまるで吸血鬼だった。無表情にすするその姿が恐怖を増大させ、先程まで優雅に泳いでいたサクラビスの姿はなくなっていた。その突然の変化に頭をガツンッと殴られたような衝撃が広がり、頭の中が真っ白になっていく。

 そのとき、ダイビングマスクに海水が流れ込んできた。はっとして一瞬で体がこわばるが、うまく頭が回っていないながらも、冷静にクリアリングを行い、海水を抜き出す。

 そうしている間にサクラビスが、“吸血”していたシードラは目を覚まし、サクラビスと相対していた。シードラは当然怒っている様子で、サクラビスに対してハイドロポンプで攻撃を仕掛けていた。対するサクラビスもハイドロポンプを放ち、それぞれの攻撃がぶつかり合う。その衝撃は私たちにも届いた。

 続けてシードラは龍の波動を放つ。サクラビスは高速移動でかわすと、接近してアクアテールで攻撃をするが、シードラは煙幕で煙に巻きそれを回避する。サクラビスとシードラのバトルはお互い一歩も譲らないバトルに発展しようとしていた。

 ――止めなきゃ。

 そう思った私の肩がポンポンと叩かれる。ヤイチさんが浮上の合図を出していた。しかし、私は首を振った。サクラビスを放って戻ることなんてできない、その意思を示した。ヤイチさんは浮上の合図をやめるとゲージを指差した。残圧計の表示は事前に決めておいた、浮上するタイミングの数値に達していた。どうやら時間だと言いたいらしい。

 サクラビスとシードラのバトルはお互い譲らない攻防が続いていた。高速移動によって速度を上げたサクラビスに対し、シードラは龍の舞で攻撃力と速度を上げる。ますます熱を帯びていくこのバトルに介入する余地はなかった。むしろ、このまま近くにいたら巻き込まれる可能性のほうが高くなっていた。

 私は渋々うなずいた。ヤイチさんがうなずき返すと、私はBC浮力調整装置の空気を抜き始める。

 サクラビスはシードラをサイコキネシスで海底に叩きつけていた。続けて追い打ちをかけるためかサクラビスがシードラに接近すると、シードラの周りが渦巻き始めた。その渦はだんだんと大きくなり、接近していたサクラビスはその場から退避する。そのあとを追うように、竜巻が放たれた。サクラビスは、高速移動によって辛くもその竜巻を回避した。

 しかし、行先を失った竜巻は真っ直ぐこちらへと向かってきた。

 とっさに横へ泳ぐ。しかし、回避できなかった。強い水流を体に受け、体が吹き飛ばされる。

 ダイビングマスクに海水が侵入し視界が遮られる。

 レギュレーターに海水が侵入し呼吸ができなくなる。

 手探りでレギュレーターのパージボタンを押す。刹那、海水が喉元に直撃する。

 その衝撃で咳き込み、レギュレーターが外れた。右手を振り回しながら外れたレギュレーターを探す。しかし、うまく手に引っかからない。

 ――苦しい。

 強い水流のせいで体が動かない。悔しかった。想定されうることは全部練習して対処できるようにしていた。それなのに、マスククリアもレギュレータークリアもレギュレーターリカバリーも何もかもできない。

 体は動かない。視界も見えない。息もできない。この状態で何か助かる方法は――。

 ――助けて。

 何もなかった。ただ祈ることしか。

 意識が遠のいていく――。

 遠のく意識の中で、サクラビスの屈託のない笑顔が私に向けられていた。



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 耳障りな音が聞こえる。体に響く低音。体が揺れる感覚。潮の香り。

 ゆっくりと視界が開く。そこに映ったのは淡いピンク色をした姿――サクラビスの不安げな表情だった。しかしすぐに、表情がぱっと明るくなるとサクラビスは私に飛びついてきた。突然のことに驚きつつもサクラビスを受け止め、重さやぬくもりを感じた。

「大丈夫か? ちゃんとおれらがわかるか?」

 サクラビスと戯れる形になってしまった私たちを、今度は心配そうな表情のヤイチさんが覗き込んできた。私は差し出された手を借りて上体を起こす。ここは船の上で、どうやら陸地に向かっているらしい。そして、はっと思いだす。

 そうだ、私、溺れかけていたんだっけ――。

「うん、ちゃんとわかるよ。ごめんなさい、私、また溺れかけちゃったみたいで……」

「こちらこそ本当にごめん、また怖い目に遭わせてしまった。あんなに大丈夫だって約束したのに、なんと言っていいか」

「ううん、ヤイチさんのせいじゃないよ、浮上の合図にすぐ従わなかった私が悪いの。でもね、確かにまた溺れかけたことは本当に怖かったけど、今回のダイビングはそれ以上に楽しかったよ。新しい景色を見ることもできたし、何よりサクラビスと一緒に泳ぐことができたから。それにいまこうやって私は生きてるわけだし、大丈夫だよ」

「君が生きているのはサクラビスがいてくれたからだよ」

「サクラビスの?」

「うん。君が竜巻で飛ばされたあと、そのことにすぐ気づいたサクラビスが君を助けに行ったんだ。その素早さにシードラも驚いたみたいでその場に佇んでいたぐらいだ」

 私はサクラビスに視線を向けた。すると、サクラビスはそっと顔を上げ、目と目が合った。

 ――無事でよかった。

 そう言われた気がした。

「ありがとう。今度は私が助けられちゃったね」

 ふと、どうしてサクラビスの言葉がたまにわかるのか疑問に思った。でも、その答えはすごく簡単で。

「私ね、サクラビスとダイビングできてすごく楽しかったよ。だから、また一緒に泳ぎたいな」

 お互いがお互いの心の支えになった。そして、深く心と心が通じ合ったから。

 私はサクラビスをぎゅっと抱きしめた。通じ合った心と心がもっともっと寄り添えるように。