境界なきかつをぶし

椎名 成
イラスト
『しゃべる猫とわらう牡欒』

 幼い頃からやれ、と言われたことはせず、するな、と言われたことをする問題児であった。待てが出来ずに迷子になったことは数しれず。学校の宿題もせずに遊び、手を洗わずに菓子を頬張る。それなのに一度癇癪を引き起こせばいよいよ制御は利かなくなり、大概とんでもないことを巻き起こす。同級生にからかわれた挙句に度胸試しと言って学校の二階からたった一人飛び降りた事もあれば、銭湯で我慢勝負と言ってのぼせて倒れ、救急搬送されたこともある。齢は十を間近にしては落ち着きが足りず、学校の通知表には決まって、もう少し落ち着いて行動しましょう、と書かれていた。喧嘩をしたり、物を壊したりなどはしないが、椅子にじっと座る事が不得手で、親も教師も頭を悩まさせていたが、本人はそんなこと気にも留めずに無邪気に笑って生きていた。
 だからこそ今回もばちが当たった、というのが正直な感想であった。
 祖父の育てた夏牡欒オボンをネコババしようとした宗太は、虹が架かる台風一過の昼下がりに隙を見て牡欒畑に忍び込んだ。木の枝で高所にある実を突っついていたまさにその時である。予期せぬ別の木に成っていた、たわわに育ち硬い皮を備えた牡欒が宗太の頭を目がけて落果した。目から火が飛び出るような強烈な痛みと共に、宗太は声もあげぬままその場に崩れ落ちた。
 そんな少年が次に目を覚ましたのは、祖父母の家の布団の上。けたたましく鳴く虫の声を聞きながら縁側で丸まっているブニャットのニャン太郎がそれに気付き、宗太に近付いて口を開く。
「言わんこっちゃ無いのだ。手伝いもせずにセコイ事をしようとするから罰が当たるのだ。」
 てっきりいつも通りの気のない声でぶにゃあと鳴くと思っていたものであるから、宗太は目を皿のようにして驚いた。
「何を驚いている。何かいるのか。」
 やけに芯のある低い声を発しつつ、ニャン太郎が一歩近寄る。幻聴の割にはあまりに明瞭に聞こえるものだから、寝惚けたり頭をぶつけたが為の耳鳴りとは違う。ありうべからざる事ではあるが、間違いなく、ポケモンの声が聞こえるのだ。
 仰天のあまり目を白黒させた宗太は、布団から起き上がった姿勢のまま手と足を地につけて体を浮かせ、ニャン太郎が一歩近づけば宗太も一歩。二歩近付けば二歩、後退する。
 しびれを切らせて何をこいつ、とニャン太郎が飛び掛かれば、宗太も勢いよく後退しては柱に再び頭をぶつける。そしてニャン太郎の前足の重みを体で受け止めた。少年の小さな叫び声が響いて、奥の襖から宗太の祖母が現れる。
「どないしたんや。そんな大きい音出して。」
「ば、ばあちゃん! ニャン太郎が、しゃ、喋っとる!」
 祖母は皺だらけの額にさらに皺を寄せると「んん?」と声をあげ、ニャン太郎を見つめたが、祖母には太々しい顔から、ぶにゃあといつも通りのただの鳴き声しか聞こえない。
「何を言うんや。そんな事ないやろ。それよりもほれ、もうちょっとしたらご飯やから、それまで宿題進めなさいな。」
 呆れたようにそう言うと、ピシャリと襖を閉めて出て行った。
 己の身に起きた異変を理解してもらえなかった宗太だが、ニャン太郎の声は自分にしか聞こえないというのは理解したようで、先程とは反対に、これは何かしらの天の恵みだと解釈した。細かい事など何一つ分からないが、唯々心が昂る。どんな玩具や遊戯を前にしても、これ以上面白い事は無いだろう。であれば、楽しまねばならぬ。
 ピシャリと自分の頬を叩いて「なあ、ニャン太郎。」と語りかければ、「なんだ。」とぶっきらぼうな返事が来る。素っ気ないやり取りだが、楽しい。「ニャン太郎が喋ってるの? 猫ポケモンは喋るの?」「知らなんだ。わしはいつもと何も変わらぬ。」「じゃあおれだけが聞こえるん?」「わしには分からん。」などと、やり取りを繰り返し何度も確認したが、夢の類ではないようだ。押し寄せる興奮の波に耐えれず、ついにはすっくと立ち上がっては庭へ出る。
「これ、どこへ行くのだ。宿題はどうした。」という問い掛けに、「他のポケモンとも喋れるか試すんや。」と応えてみせた。
 さて、宗太はこの地から遠く離れた古鐘こがね府郊外の生まれ育ちである。夏盛りの八月半ば、彼は仕事で忙しい両親の都合で遥々と檜皮ひわだ県の外れにある祖父母の家に預けられた。隣の家まで歩いて五分というこの農地では、遊び場所も無ければ年の近い子供も見つからず、遊び盛りの少年にとってはいささか刺激が無さすぎる。ゲームをすれば祖父母に小言を言われ、外に出ようとすると危ないと引き留められる。監獄のような生活に飽き飽きしていたのだ。そんな最中に得たこの奇天烈な能力は、宗太からすれば退屈を晴らす、まさに垂涎ものであった。
 であれば試さねば損である。サンダルを履いて庭に飛び出しては、樹の枝に止まって羽を休めているピジョンに声をかける。
「なぁ、君どこから来たん?」
「なんだね君は。この高貴な私に気軽に話しかけて。私は疲れているんだ。」人間に問いかけられている事に少し驚いたが、ムッとした顔でピジョンは応じる。
「高貴?」
「失礼だな。この私の羽の美しさが分からんか。見よ、この整った羽毛を。」と言ってピジョンは誇らしげに羽を広げるが、宗太は「へぇ。」とだけ言葉を返した。
 決して羽に見惚れた訳はなく、ただただポケモンと話が出来ていることが面白い。両者の妙な会話のすれ違いに違和感を覚えたピジョンは、「ええい鬱陶しい。変わった子供だ。」と吐き捨ててどこかへ羽ばたいていった。何が気に障らなかったのかを顧みることなく、宗太は辺りを見渡しポケモンを探す。その様子を縁側から覗くニャン太郎は、溜息を吐いては爪を研ぎ始めた。

 宗太が学校に上がる頃に、ニャン太郎は宗太の家に迎え入れられた。親の顔や生まれの事なぞろくすっぽにう覚えてないが、ニャン太郎が痩身だった頃は、鋭い目付きと華麗な尾を備えた世渡り上手であった。そのため種族を問わずに人気者で、苦する程労せず生きてきた。ところが、知らぬ所で買った恨みか他のポケモンに襲われ動けなくなった所を宗太に拾われ、そこからその家族の一員となった。助けられた恩義もあるし、家族一同に可愛がられてのびのびと暮らしているが、この名はその際に宗太に一方的に押し付けられたものであり、もっと良い名があっただろうと思う。
 そして宗太の家に住む事になってから生活は一変した。野で生きていた時よりは画然と安全で雨風も凌ぐことができるようになった。しかし単調な食事に加え、押し付けられた人間の子供の相手がこれまた難題だ。かの音に聞くかぐや姫も青ざめるような無茶な要求に仕方なく応じているうちに、かつての姿形は見る影もなく太り、否、いつの間にか進化を遂げたのである。体が大きくなった事は好ましいことであったが、胴回りが太くなったことには少し落ち込む日もあった。
 人間の、特に子供となれば我儘なものであるのは世の常だ。朝は台風に戸や窓がガタガタと震えるのに怯え、布団の中にこもっていたかと思えば、昼になると畑へ祖父の育てた牡欒を盗もうとし、夕になれば突如舞い降りた能力に胸を躍らせ庭中のポケモンに話しかけては鬱陶しがられる。自分の勝手な時は世が自分を中心に回っていると思い込んで、周囲を振り回すが、いざ天災や祖父母に叱られるとなれば、泣きじゃくっては許しを請う。これで生きていけるのも、贅沢なものである。
 出会ってから三年経ったが、いつまで経っても通り雨のように生きる少年に対し、ニャン太郎は辟易していた。根が悪い少年ではないことは知っているが、このままでは彼自身の為にもならぬ。しかしこれ幸い。理屈は知らぬが言葉が通じるとなれば別、むしろこれはワシにとっても天啓なのだ。一度そう思えば腹を決めるには時間はかからない。この小童には言って聞かせねばならぬことがあるのだ。
 そう決意したのはその日の夜のことであった。宗太と祖父母は豪勢にすき焼きなどしてその日の食事に舌鼓を打っていた。一方ニャン太郎に差し出された小皿にはカラカラに乾いたポケモンフーズなる栄養食が山もり、その傍らに今朝の台風で落果して商品にならないいくつかの木の実が申し訳なさそうに座している。もはや毎度のことだが我慢ならぬ。
「ワシは鰹節が食べたいのだ。」と言えば、配膳した宗太が目を丸くしてニャン太郎を見つめる。
「宗太よ。以前から抱いていたが不満があるからこの際に言っておこう。なぜワシの食事はいつも同じ乾燥した健康食ばかり。おかしいとは思わんか。」
「何が?」と悪びれも無く答えが返ってくる。その反応もやむなし、彼だけが悪いわけではない。それはニャン太郎も理解している。ポケモンであればすべからくポケモンフーズを食べるものだと躾ける社会が誤りなのだ。その深く根付いた先入観を払拭しろと、もうすぐ十歳の少年に押し付けるのは酷であるかもしれぬ。であるからこそ噛み砕いてでも伝えねばならない。
「毎日毎日、朝から晩までご飯が一緒だったらどうする。」
「嫌だ。」
「それはなぜだ。」
「飽きるもん。他のも食べたくなるやん。」
「それはそうだ。そしてそれはワシもそうだ。人間は毎日違うものを食べるのに、ポケモンは毎日同じものを食べなければいけない。それは可笑しいだろう。」
 宗太は果たして理解したのかしていないのか、それとない生返事をする。
「人間だとかポケモンだとか、そこに境界は無いのだ。削れど削れど変わらない、鰹節のようにな。」
 この辺りから低気圧が押し寄せてきたかのように、宗太の表情が曇りゆく。先ほどまで庭中のポケモンに話しかけては喜色満面だったのだが、まさかポケモンに、それも数年来の手持ちに説法を食らわされるとは思ってもいなかったのだ。学校で先生に怒られているような、妙な納得のいかなさがじわりじわりと溢れ出す。このニャン太郎が何を言いたいか、ハッキリと理解は出来ぬ。ただ、鰹節が欲しくてくどくどとぼやいていることは理解した。
 これまでは宗太の心が赴くままに、ニャン太郎はその遊び相手となり、いびられてきた。級友とポケモンバトルをするときも、顔に落書きをされたときもニャン太郎は文句も言わずに宗太に付き合ってきた。それ故にまさかニャン太郎が明確に意思を表示すること、否、ニャン太郎もまた何かを感じ、考える生き物であるという至極当然な認識が欠落していた。だからこそここに来て不満を突き付けられるのは想定外であった。些細な小言ではあるが端的に面倒だと感じ、初めてこの能力を得たことを少しだけ後悔した。
「持ってくる。」と仕方なく言って台所に向かう少年の背を見て、虎猫は何年ぶりかの鰹節の対面に高揚したが、依然相互理解までの遠さに辟易し、背を丸めてため息を溢した。


『小さな柔らかい影』

 翌朝。漢字ドリルを数ページだけ進めた宗太は、自由帳と筆記具を抱えて祖母に「自由研究する。」と言い放つ。「遠くに行きすぎたらあかんよ。」との忠告を曖昧に聞き流して家を飛び出た。ニャン太郎は呆れながらも、お目付役を兼ねて付いていかざるを得ない。
 宗太の自由研究の題は、この檜皮ひわだの田舎にどのようなポケモンが生息するのかをスケッチする、というものである。しかし祖父母から言い渡されたのは、安全面から考慮して庭や畑から出ず、スケッチをするのであればそこにいるポケモンだけにせよ、との約束であった。
 おおよそ正確にその姿を捉えているとは言い難い、やや珍妙なタッチで色鉛筆を使い分け、畑で休むレディバを描く。しかし正面を描きたい宗太からすれば、半身のレディバを見るだけでは上手く描けるはずもない。そこで、「なあ、ちょっとこっち向いてぇや。」と声をかけるもレディバは驚いて飛び去ってしまう。
 薄羽を震わせて畑の木々に紛れていくレディバを目で追いかけたが、すぐに見失う。少し虚空を見つめて、ちぇっ、と吐き捨てた後に宗太は頬を膨らませる。
「思い通りに行かない事なんて幾らでもあるものだ。ほら、そんな顔をせず他のポケモンを探せば良い。」
 ニャン太郎の言う事はごもっともである。何せポケモンはこの辺りを少し探せばいくらでもいるのだ。自由研究をこなすのであれば他のポケモンでも良い。そしてそれは宗太も理解している。理解しているからこそ、その言葉を素直に認めらたくないのだ。
「レディバが良い。」
「何を言うか。」
「レディバがええんや。」
 軽く怒気を含んで言い放つと、宗太は筆記具を抱えレディバが消えた方へと走り出す。「これ、待たんか。」と叫んで追いかけるニャン太郎を振り切って、斜面に整然と並んだ牡欒オボンの木々の間を抜けていく。その様子に驚いたカイロスが仰け反り、眠りこけていたクヌギダマが木から落ちる。ポッポは慌てて飛び立ち、エイパムは尾を揺らして笑った。まるで畑全体が祭りかのように賑やかになり、宗太も声を上げて笑った。
 胴回りがいくら太いとはいえ、少年では虎猫に足の速さで敵うことは能わず、ついにニャン太郎が進路を塞ぐ。すると宗太は横に逸れ、ニャン太郎から逃れる。そしてそれをまた追う。徐々に当初の意味を喪っていくが、それが楽しくなって一人と一匹は駆け回った。
 昨晩は四の五の言ってはいたが、結局の所ニャン太郎は宗太が好きであった。この天真爛漫な笑顔を見れば、ついつい自然とこちらも笑顔になる。これが情愛と呼ぶべきものなのだろうか。だからこそ、我々はもっと上手くやれる。そう思わずにはいられないのだ。
 走り続けてようやく疲れの色が出てきた頃。畑の傍ら、倒れ臥して動かない綿鳥を見つけた。見るからに顔色は悪く、遠巻きでも息が荒いのが分かる。急いで近くに駆け寄り、そっと手を差し伸ばそうとしたところ、
「これ、迂闊に触るでない。」
 迫真の怒鳴り声に流石の宗太も手が止まる。
「でも、助けへんと。」
「そんなもの分かっておる。それよりもこのチルット、毒を負っておる。迂闊に触って宗太にも毒が回ってはいかん。ワシの言う通り、背中に乗せるのだ。」
 一度は膨れっ面を作ったが、ニャン太郎の言葉に宗太は笑顔で頷いた。言われた通り、チルットの体に直接触らぬよう、綿の羽を軽く掴んでそおっとニャン太郎の背中に乗せる。するとニャン太郎の発条バネのような尾がチルットとニャン太郎の胴体を縛り付け、しっかりと固定する。
「先に家に戻り、毒消しなり準備をしておくれ。」
 宗太はニャン太郎を心配したが、うん、と答えて駆け出した。

 太陽が空の天辺に到達した頃、チルットは畳に敷かれたタオルの上で目が覚めた。見知らぬ場所で覚醒したことと、まだ少し痛む羽が先刻の記憶を呼び戻す。部屋の引戸が開いて現れた少年と虎猫を見て、チルットは慌てふためき飛び立とうとする。
 嫌な予感がしたニャン太郎は、するりと宗太の脇を抜け、やけに俊敏な動きでチルットに飛び掛かり、目先寸前で手を叩く。虚を突いた『猫騙し』に机の上の漢字ドリルは宙を舞い、チルットは思わず怯んだ。
「これ、無理に動くでない。消毒はしてあるがお主体力を失っているであろう。」
「牡欒のジュース、ばあちゃんに作ってもらったから飲んでや。楽になると思うし。」
 近付こうとすれば、依然チルットは警戒する。気にも留めずに接近する宗太に、ニャン太郎は制止を促した。その助言に従い、皿だけ置いて宗太は渋々後ろに下がった。
 普段はニャン太郎が使用する皿になみなみと注がれた木の実ジュース。チルットは辺りを見回し怯えながらも、直に匂いにつられて嘴を浸しながら飲み始めた。そうするうちに徐々に張り詰めていた緊張が弛緩したのか、チルットは「ありがとうございます。」と会釈した。しかしその眼はどこか遠くを捉えているかのように感じられ、たまらず宗太は尋ねた。
「あんなとこで倒れてどないしたん?」
 すかさずニャン太郎が「宗太はポケモンの声が聞こえるのだ。」と耳打ちすると、チルットは戸惑いながらも口を開いた。
母様かあさまと東に向かって飛んでいたら、紫の泥のようなポケモンをつれたハンターとかいう人間に襲われて。」と言うと辺りを見渡して「母様はどちらにいるの?」と尋ねる。
「すまなんだ。わしらが見つけたのはお主だけでな、その母様とやらは見ておらぬのだ。」
 宗太は震えた声音で喋るチルットに衝撃を受けた。ハンターなんてテレビでしか聞かぬ存在だと思っていた。地元の古鐘府にも良からぬ輩は多々いるとも聞くが、現にその害を被ったポケモンが目前に現れたのは初めてだった。ニャン太郎と接する時と、宗太を見つめる時、後者の時だけその表情が強張っているように感じるのは寂しかった。こんなことは初めてである。そして、自分の周りには人に愛されたポケモンばかりであることに気が付いたのだ。だからこそなんとかしてやりたい、そう思ったのだ。
「おれがそのお母さん助けるよ。どこにおるかわかる?」
 その申し出に二匹は目を丸くした。すかさずニャン太郎が異議を唱える。
「待て宗太、どうしてお主が助けに行く。救助を生業とする人間がいただろう、電話だの何だのして代わりに助けに行ってもらった方が良い。」
 ニャン太郎は宗太が心配で仕方が無かった。流石に今回の事には危険が伴う。ただでさえ行くなと言われてる畑の外に出て、まともにやったことすらないポケモンの救助など出来るものか。無論、ニャン太郎もチルットの母とやらは気がかりであるが、見知らぬポケモンよりも目の前の宗太の方が当然優先するのだ。しかしそんなニャン太郎の心配をよそに、宗太は不満げに首を横に振る。
「人間に襲われた、って言われてんのに、救助隊の人がいっぱい来たら絶対驚いて逃げるやん。それに困ってる人がいたら助けなさい、って皆言うてるし。」
 ニャン太郎はううむ、と唸りこそしたが、中々二の句が出なかった。その指摘が正しいか否かは現時点では判別不可能である。しかしそうしている間に宗太は立ち上がった。考える虎猫と違って、少年はただ純粋であった。あれやこれやと理屈をこねようとする虎猫には目もくれず、綿鳥を連れて縁側へ駆け出してしまった。なまじ言葉が通じるからといって、説き伏せる事が出来ると考えたのは哀れニャン太郎の迂闊の至りであった。言葉が通じようが通じまいが、宗太は変わらず宗太である。悲しいかな、それとも嬉しいかな。ええいままよ、と宗太を追いかけたニャン太郎には、せめて宗太の見に危険が及ばないようにせねばと努めるしかないのである。

 庭を飛び出し畑に入り、斜面を登っていく。やがては柵に至り、チルットはそれを飛び越えていく。その様子を見ていた宗太は少し戸惑った。祖父母とは畑から出るなと約束されているし、それを知られたら怒られるに違いない。どうしようもないが、ここにきて急に自分が可愛くなったのだ。
 足元の愛猫の顔を伺うも、彼もまた、少年の顔を伺っていた。どないしよう、という問いかけを喉の奥で留め、飲み込んだ。チルットの母親を助けるといったのは誰だ。自分ではないか。きっと見つかったりすればこっぴどく怒られてしまうだろう。自宅へ帰るまでの数日間、いよいよ家から出てはいかんと言われるかもしれぬ。迎えに来た母はこっぴどく叱り、父は苦笑を交えて一言二言こぼすであろう。チルットの母を助けたい、というのはあくまでも自己の欲求である。しかしそんな動機はなんであれ、自分のためでなく、他者のために約束を破ることを決意した。いつもの我儘とは違う。指に食い込む柵がその通りだと促しているような気がした。
 柵を越えればいよいよ斜面の傾斜が厳しくなる。チルットのように羽も無く、ニャン太郎のように柔らかくしなやかな体躯をもたない宗太には少し険しい道のりである。人の手が入らない山の中は、それぞれ好き放題に伸ばした枝葉が生い茂り、陽光が差し込む隙などほとんどない。ほどほどに歩いていると、突如として開けた空間が現れた。陽光に照らされ、そよぐ風の下、大きな綿鳥が地に伏していた。顔色は悪く頰もこけ、まともに起き上がることが出来ないほど衰弱しているのが宗太にも分かるほどだ。全身に浴びたヘドロが綿のような羽毛と混ざり、毒々しい色になっている。子のチルットの様子からは想像もつかないほど異なる色だ。
「人間、何をしに来た。」
 弱々しいが、それでいて明確な敵意を感じて宗太は自然と背筋が伸びた。下手をすれば攻撃をされかねない。そんな緊張感の中、少年は物怖じない。なにせ常日頃から怒られ続けて来たものだから、こんな所で何糞負けてたまるものか。既に退路は断っている、となれば妙に強気になるものである。
「そんなん、助けに来たのに決まってるやん。」
 返答があったことにチルタリスは驚いた。毒によって回った熱にうなされているからかは分からぬが、どうも会話ができるらしい。
 であるならば、とチルタリスは宗太を見つめ、「お前がか?」と憫笑びんしょうした。「私達は人間に危害を加えたことなぞ一度も無かった。なのに人間は私達を襲った。そんな私達を事もあろうか人間が救う? 信じられるものか。」
「そんなん言わんといてや!」と宗太は、いきり立って反駁した。「確かに悪い人もおる。でも、良い人だっておるんや。」
「私達家族が襲われたのは此度一度きりでは無い。人間に住処を追いたてられ、私達は住処を、故郷を捨てて生きようと東へ飛んで生き長らえようとしている。そんな私達に人間は手を差し伸べるどころか何度も襲いかかってきた。口では、どんな清らかな言葉も出るものよ。そんな人間の所業を受けて来た私は人間を憎む。差し詰め、お前も私達に害を為すに決まっている。だからこそお前達の施しは受けぬ。傷口に塩を塗られては困るのよな。」
「違う! 人間がポケモンを助けて悪いんか。可哀想やと思ってんのに助けたらあかんのか?」
 募り積もったチルタリスの怨嗟の声に、宗太は少し躍起になった。このままでは平行線、そうお互いが感じ始めた時。ニャン太郎の背で休んでいたはずのチルットが親鳥の前に躍り出る。
「母様、一度だけで良いので彼のことを信じてやってください。母様を救おうとして力尽きていた私を、彼は助けてくれました。私だけでは母様を救うことが出来ませんでした。でも、私を助けてくれた彼ならば、信じられると思うのです。」
 愛する娘の嘆願に、チルタリスは渋々とそれを受け入れた。「そこまで言うのであれば好きにするがいい。」そういうと、宗太とチルットは目くばせをした後、声を出して喜んだ。
「必ず戻ってきて助けるから、ちょっと待っといて!」
 チルタリスは鼻で笑った。どうせ動けぬ。あのハンターのポケモンが放った毒が回り、身体中痺れて話すのがようやっとといったところである。いずれにせよ朽ちゆく命、最後くらいは娘の嘆願を受け入れるのも良いだろう。
 宗太一行はチルタリスに手を振って、行った道を引き返す。森を抜けて畑に戻った頃、入道雲が一人と二匹を遠巻きに眺めていた。


『長く素晴らしく透明な一日』

「あのチルタリス、見るからに相当毒が回っておった。恐らく痺れて体が動かないのであろうな。先ほどチルットに使った毒消しでは気休めにしかならんだろう。」
 一度家に戻った一人と二匹は、チルタリス救出に向けて作戦を練っていた。言って聞かぬというのであれば、せめて最善を尽くすしかない、とニャン太郎は思ったまでである。
「しかし手が無いわけではない。」
「どうするの?」
「まずは牡欒オボンで体力を回復させる。その後に毒と痺れを回復させればいい。ラムなんかがあれば一番なんだがな。」
 人間が作った薬で回復させる手はあるが、宗太はきっと使い方を理解していない。であれば確実なのは果実を使った自然治癒に限る。牡欒であればすぐそばの畑から拝借すればいいだろう。しかし肝心要のラムをどうやって入手すればいいか考えなくてはならない。畑には牡欒しかないし、家の中を少し探したがラムは見当たらない。野生で自生している保証もなければ、そもそもラムが緑色の果実であることしか情報は無いのだ。そうなれば答えは自然と目標は集約する。
「買いにいこう。」
 宗太は思い立って鞄を探ったが、がま口財布にあったは僅か八十七円のみ。駄菓子を買うのが精一杯であり、口を閉ざす他ない。そこでニャン太郎が一言漏らす。
「ならば牡欒とラム、物々交換してもらえばよかろう。人の言葉を喋れぬわしらでは出来んが、宗太。お主には出来る。その代わりお主では手が届かぬ牡欒も、わしらなら届くだろう。」
 そういって、ニャン太郎はチルットを見る。チルットは「任せてください、私に出来ることならばなんでも手伝います。」と胸を張った。
「人は人、ポケモンはポケモンでそれぞれ出来ることが異なるのだ。ゆめゆめ忘れるでないぞ。」
 当たり前のことだが、妙にその言葉が宗太の胸に深く響いた。そうして話していくうちに、おおまかな指針は定まった。まずは牡欒を手に入れチルットがチルタリスの下へ届ける。その間に宗太とニャン太郎はラムの実を入手して届ける。祖父母は外に出かけてもいいが、日が暮れる前には帰っておいでと言っている。太陽が地平線に交わるまでに、その全てを遂行しなければならない。するべきことは決まった。そうとなれば早速、なけなしの小遣いをポケットに詰め込んで一人と二匹は再び畑へ繰り出した。

 昨日試した時と変わらず、宗太の背では牡欒の実に手が届かない。しかし昨日と違うのはその隣に頼れる仲間がいることだ。チルットはくちばしで『つつく』ことで、牡欒の実を二つばかし地面にポトリと落とした。しかしそれを足で掴んでみようものにも中々飛び立つことが出来ない。飛べるようになったとはいえ、万全の状態でないチルットでは牡欒を運ぶのは難しい。なにせチルットの体重は牡欒の倍より多い程度しかないものだ。宗太がチルタリスの元まで運んでも良いが、そうすると時間がかかってしまう。
 その折、たまたま視界に入ったのは昨日庭で見かけたピジョンであった。彼の大きな体であれば、きっと牡欒を運ぶことも容易いであろう。そう勘付いたニャン太郎は、昨日の記憶を反芻した後、宗太にひそひそと耳打ちをする。
「いいか、相手に何かを頼むときは相手をまず褒めるのだ。そうすればポケモンだって気分が良くなる。まずは彼奴の羽でも褒めるがいい。」
 促されるままに宗太は言う。「なあ、自分めっちゃ羽綺麗やなぁ。」
「ほう、羽無き人間の子よ。私の羽の素晴らしさを理解するか。」
 こちらに気付いたピジョンは、右の羽を広げて恍惚とする。その隙に更にニャン太郎は耳打ちをし、宗太がそのまま答えるのだ。
「そんなに羽が綺麗やったら、さぞ飛んでる所も恰好良ぇやろうなあ。」
「ああ、その通りだ。珍魚落雁らくがん、光彩陸離と誰も彼もが讃えるものさ。」
 ピジョンの使う言葉が難しく意味は理解できなかったが、その様相から中々の自惚れであることは宗太にも分かった。そろそろ頃合いである、と思って話を切り出す。
「一つお願いしたいんやけど、この牡欒をこのお嬢さんのお母さんの所まで届けてあげてくれへんかな。」
 饒舌だったピジョンの口が、初めて止まった。すかさず助け船をニャン太郎が差し出す。「無論、タダではない。牡欒を一つ、ジュースにでもしてお主にくれても良い。」
 そこまで譲歩すると、うーむと首を傾げてしばらく唸った後に「良いだろう。」と承諾を得た。ピジョンは宗太の前まで降りてくると、軽々と牡欒の実一つを掴んでは浮き上がる。
「ではチルット、ピジョンを母君の元まで案内してやるとよい。」とニャン太郎が促すと、二羽は山の方へ飛んで行った。
 残された牡欒を宗太は抱え上げると、祖父母に見つからないよう静かに、それでいて足早に畑の裏口を探して抜け出していった。
 アスファルトを蹴りつけ、少年と虎猫は走る。幸いながら、道は一本道であるから迷う事は無い。とはいえぐねぐねとうねる坂道を、牡欒を抱えながら走らねばならぬ。照りつける日差しが上から、地面を反射して下からも一人と一匹を突き刺していく。坂道を下る中、汗をだらだらと流しながら宗太は僅かに後悔をした。ああ、なぜこんなにしんどい事をしているのだろう。ニャン太郎の言う通り誰かに任せ、家にいれば氷菓を食べながらゆっくり涼んでいたに違いない。走れど走れど景色はろくすっぽに代わり映えしない。こんな広い道路の小脇、まるで世界から切り取られ取り残されしまったようにすら思える程だ。否、隣には愛猫がいる。彼もまた疲弊を顔に滲ませてはいるが、黙ってついてきてくれている。宗太はきっと初めて、自分の我儘に付き合ってくれるニャン太郎の存在に感謝をした。此度だけではない、いつだってニャン太郎が傍にいる、そんな当たり前がとても大きく感じられた。だからこそチルタリスを助けねばらない。チルットは言葉にこそしていないが、常に母を想い憂慮していた。宗太も自分の親が、ニャン太郎が病に臥せっていたのであれば、気が気でないだろう。だからこそ家族がいる当たり前を、自分の手で助けてやりたいと再び認識した。その時、聞き慣れぬ重低音が前方から迫ってきた。大きなトラックである。これは天啓か、宗太は轢かれないように気を付けつつ、空に向けて一直線に手を挙げた。それに気付いたトラックは、速度を緩ませ停車した。
「あの、近くの街まで乗せていってくれませんか?」
 窓から顔を覗かせた運転手は、ひどく困惑した。「君、家出?」「買い物です。」「うーん、買い物、ねぇ。」運転手は顎に手を当て少年と虎猫を見た。
「すまないねぇ。君かそのブニャットか、大きさ的にどっちかしかこの助手席に乗せられないんだ。君だけなら構わないんだけど。」
 宗太は足元のニャン太郎を一瞥すると、首を横に振って断った。運転手は「気をつけてな。」とだけ言葉をかけ、出立した。
「わしのことなど気遣わず乗ればよかったものを。」
「たぶんおれ、ニャン太郎がおらんと一人やったらなんも出来ん。だから一緒に行くんや。」
 ニャン太郎は少し顔を綻ばせ、「そうか。」とだけ呟いた。宗太もひたいの汗をこぶしで拭い、再び歩き出した。そこからまたしばらく歩きながら通りがかる車に手をあげるが、これと言った反応も無く過ぎていく。諦めかけたその頃、後方から来た軽トラックが、久方ぶりに停車した。窓から顔を出したのは、丁度母と年が近いくらいの女性であった。
「すみません、近くの街まで行きたいんです。乗せてくれませんか?」
 女性は汗だくの少年と虎猫を見て、少し狼狽えた。「どうしたんよ君たち?」「街まで買い物に行きたくて。」「買い物? 何を?」「チルタリスを助けるためにラムが欲しいんです。」
 只ならぬ様相を感じた女性は、その申し出を許諾した。宗太は助手席に、ニャン太郎は空いていた荷台に乗せられ、軽トラックは動き出した。車内では、人の好さそうな女性が宗太に色々話を聞く。名前、年齢、ラムが欲しい理由、チルタリスについて。安心しきった宗太は、洗いざらい全て話した。そうすると、「ポケモンのためにそこまで頑張るの、偉いね。」と言われ、自然と頬が緩んだ。
 しばらくして宗太とニャン太郎は、街の八百屋の手前で降ろされた。簡素に礼を言い、牡欒を抱えて店内に入っていった。薄暗い店内の中、見覚えのある緑の果実を見つけ、新聞を広げ微睡む店主に向かって叫ぶ。
「ラム一つください。」
 気だるげに椅子から立ち上がった店主は、薄い頭を掻きながら「二百三十円ね。」と答える。とてと宗太の小遣いでは及ばない。そこですかさずこう言い張るのだ。
「持ってきた牡欒と物々交換できませんか。」その後に続けて慌てた様子で「あと八十七円もあります。」と付け加える。
 想像もしていない出来事に店主は戸惑った。なんという珍客だ。牡欒を抱えた少年と虎猫が、真剣な眼差しで店主を射る。
「坊や、家はどこや?」
 店主からの切り返しに、宗太は少したじろいだ。ここで答えればきっと確認されてしまう。そうすると祖父母に話され、家を出たことが明るみになる。とびっきりの雷が、宗太を襲うことになるだろう。困った宗太は沈黙を貫いた。店主は黙りこくった子供を前に、溜息を吐く。
「すまんけど、うちは物々交換やってないんや。坊や、家の人の電話番号教えてくれへんか。」
 宗太は絶句した。思わず目の前が真っ暗になった。呆然と立ち尽くしていると、背後から声がかかる。
「おっちゃん、じゃあそのラム私が買うわ。」
 背後から先ほどの軽トラックの運転手が現れ、小銭を店主に手渡しラムを手に取る。そして、宗太に向かってこう言った。「私のラムと君の牡欒、交換しよか。」宗太は顔を明るくし、頷いた。店主はやれやれ、と後頭部を掻いて、再び椅子に座った。
 彼女は「帰り道も送ってあげたかったんだけど、私も行くところがあるからごめんね。」とだけ言い残して軽トラックと共に去っていった。
「さあ、後は帰るだけだな。」とニャン太郎が言えば、「そうやな。」と宗太は答えた。ラムは牡欒よりも軽く、先ほどよりもかなり走りやすい。道も来た道を戻るだけで一本道だ。一人と一匹は駆け足で来た道を辿ることにした。

 行きとは違い、帰りは全くというほど車に遭遇することすらなく、己の足で長い上り坂を戻るしかなかった。暑さは先ほどと変わらないが、じめじめとした湿気が体に纏わりついて体力はさらに奪われていく。徐々に宗太の進む速度は遅くなり、いよいよ立ち尽くした。今すぐこの車道の小脇でもよいから、五体を地に投げだしたい所だった。
「どうした。まだまだ歩かねばならんぞ。」というニャン太郎にも、疲労の色が顔に現れていた。いつしか遠くにあったはずの入道雲が、空に蓋をしてしまっていた。まだ太陽が出ている時間のはずなのに、のっぺりとした灰色の雲が光を閉ざし、果てにはぽつぽつと雨が降り出した。気付いた頃にはザアザアと音を立てて激しい雨となり、宗太とニャン太郎は、合図せずとも揃って駆け出し、沿道の外れの木の下に逃げ込む。足元の砂利を少し払い、宗太は膝を抱えて座り込んだ。
 真っ直ぐ伸びていたはずの道も、霧によって遠くが見えなくなっていた。あらゆる音は雨に流され、土と湿気の匂いが肺いっぱいに広がる。まるで、今いる場所だけが世界と断絶されたかのような錯覚に襲われ、心細くなる。チルタリスやチルットと出会ったこと、祖父母の家にいた事。それらがまるで遠い過去の出来事のように感じられた。きっと祖父母も心配しているかもしれない。早く家に帰りたい。それでもこれだけは失ってはいけないと、ラムを抱えてうずくまる。横風で煽られた雨が肌や衣服に張り付き、体温も奪われていく。それでもなお勢いを増す雨に、一人と一匹は為す術がなかった。体を震わせながら耐え忍んでいると、木の上から降りてきたヘラクロスが目の前に躍り出た。
「君たちそんなところで何をしているんだい?」
「ここで雨宿りしてるねん。」
「そっかあ。でもね、ここは僕のナワバリなんだ。勝手に居座られても困るんだ。それでもここにいたいのなら。」と言いつつヘラクロスは宗太に近付き、「君が持ってるその美味しそうな木の実を渡してもらおうか。」
 雷光のように飛び出したニャン太郎が、ヘラクロスの胸元に飛び掛かる。「走れ!」その声に従って、状況を掌握しきれないまま宗太は豪雨の中走り出した。ヘラクロスは倒れた状態から角でニャン太郎の側部を突いて弾き飛ばす。ニャン太郎は車道をゴロゴロと転がされたが、立ち上がっては走る宗太の後ろを追いかける。さらにその後ろをヘラクロスが走って追いかける。激しい雨が何度も瞼に当たり、目を開けるのも苦行であった。整然とした三両編成の電車のように等間隔で走り続けていたが、水を吸った服と毛で鈍重になった宗太とニャン太郎に、目を真っ赤にした兜虫が迫りくる。戦いについてはかじった程度の知識しかない宗太でも、ニャン太郎では分が悪いことは承知している。ここでラムを失えば、軽トラックの運転手に申し訳が立たぬし、チルタリスに合わせる顔が無い。南無三宝、これまでかと目を閉じ歯を食いしばる。その刹那、空気の刃が頬の隣を掠め取り、最後尾のヘラクロスに襲い掛かる。
「トゲキッス、もう一度『エアスラッシュ』だ。」
 前方で傘を片手に立つトレーナーらしき人影の傍ら、トゲキッスが放つエアスラッシュが怯んだヘラクロスに再び襲い掛かる。たちまちヘラクロスは背を向けて、森の中へと逃げていった。
「君たち大丈夫?」
 そう言って近付いてきたトレーナーは手に持っている傘を宗太に押し付けた。
「でも。」と言葉を詰まらせていると、トレーナーは手際良くポーチから取り出した傷薬でブニャットを手当てした。
「こんな雨の中だし、その傘はあげるから使ってよ。俺はトゲキッスがいるから大丈夫。君たちの方こそ気を付けて。」と言い、トゲキッスに乗って去っていった。すぐに霧の中へ混ざっていったその背に、ありがとうと叫んだが、声が届いたかどうかは知る由も無かった。
 服を絞り、再び小走りで走り出した宗太とニャン太郎。ニャン太郎が傘からあぶれないように気を付けた。ここまで来て、自分に出来る事はたったこれだけの気遣いしかないのだ、と考えると、自分がとても矮小な存在に感じられた。自分一人では牡欒を取ることすら出来ない。牡欒を運んで街に行く事も出来ない。牡欒とラムを交換することも出来ない。雨を凌ぐ事も出来ず、襲ってくる野生のポケモンから身を守ることすら出来ない。愛猫に無理をさせても手当すらできず、せいぜい木の実を抱えて右往左往するだけである。いつも我儘をしていても、周りが助けてくれていることを、今更ながら理解をしたのだ。込み上げてくる自戒に耐えきれなくなって、おいおいと声を挙げて泣いた。これは悔悛かいしゅんと感謝の涙である。ふと昨晩のことが脳裏に過る。ニャン太郎はいつだって宗太のために身を挺してくれているのに、宗太はニャン太郎の好物さえ分かっていなかった。
「ニャン太郎、ごめんな。」
「何を謝ることがある。」
「いつも迷惑かけて。」
 ニャン太郎はくく、と笑って「どうした、何を今更。」と答えた。
「嫌いにならんといて欲しい。」
 涙と鼻水混じりの声で、宗太は嘆願する。
「まさか嫌いになるものか。確かにお主は悪戯ばかりで迷惑をかけることが多かった。だがな、それでもかつてわしを助けたように。今もチルタリスを助けようとしてるように、ポケモンのために何かしようとする。そういう所が好きなのだ。だから、そう易々と嫌いになったりなぞせん。わしもお主の声を聞く。だからこそ、お主もわしらの声を聞く。さすればわしらはより良い関係になれる。だと思わんか?」
 宗太は傘を肩に乗せ、空いた手で涙と鼻水を拭った。赤らめた顔のまま愛猫を見れば、自信ありげにニヤリと笑っていた。その様子がなんだか可笑しくて、宗太は笑った。
「ほれ、家まであともう少しだ。急ぐぞ。」
 宗太はうん、と頷いた。依然として体は重いままだが、ニャン太郎と話すことで心はとても軽くなった。肉体は変わらず重い。それでも、僅かながら希望が生まれた。金科玉条の希望である。自分の行いと、それを支えてくれた人とポケモンを信じる希望である。霧に包まれた視界の先へ、なんとしてでも行かねばならぬ。この信じる力を、あのチルタリスへ聖火のリレーのように届けねばならぬ。
 ここに来るまでニャン太郎に、いや、多くの人とポケモンに救われた。それは決して悔やむことでなく、むしろ誇るべきことなのだろう。だからこそ知った。人とポケモン同士、苦しい時は支え合い、楽しい時は笑い合う。その意味を字面でなく、言葉で理解した。そこには人とポケモンの境界は無い。ああ、なるほど。これは確かに鰹節である。


『気分は色鉛筆』

 いつの間にか雨脚は弱まっていた。祖父母の家を少し回って森の近くまで行くと、小さな綿鳥が待ち受けていた。
「ラム、持ってきたで。」
 チルットは感謝の言葉を述べると、山の中の道を先導する。足元は先ほどの豪雨でぬかるんでいる。もらった傘を畳み、それを杖変わりにして、足を取られないよう、丁寧に一歩ずつ進んだ。チルタリスが待つ開けた空間は、不思議とチルタリスの周囲を避けるかのように雨が降っていた。天気の影響など受け付けないのか、チルタリスの体には濡れた形跡はまるでない。その傍では、その恩恵にあやかろうとするピジョンが悠々と座していた。
「ごめん。遅なったけど、ラム持ってきたで。」
 既に牡欒オボンを食べたのか、チルタリスは先ほどよりかは顔色が良いように見える。チルットの促されるがままにチルタリスの眼前にラムを置くと、チルタリスは黙って一口で飲み込んだ。
「おれ一人やったらとてもじゃないけどラムは持ってこれへんかった。」まだ赤いままの顔で、宗太はチルタリスに語り掛ける。
「たくさんのポケモンと人が助けてくれたから、ラムを持ってこれてん。」
 そこまで言うと、宗太は言葉に詰まった。やれやれ、と鼻息を立て、ニャン太郎が間に入る。
「つまりだな、お主を救ったのは人間とポケモンの力によるものなのだ。確かにポケモンはポケモン、人間は人間で出来る事は異なるだろう。だがな、手を合わせることで一匹、あるいは一人ではできないことも出来るわけだ。人間のせいでお主が酷い目に遭ったのには同情する。それでも人間のことを嫌いにならんで欲しい、と言いたいのだ。」
 であろう、と尋ねられると宗太は力いっぱい首を縦に振った。
「ふふふ、それを言いたいがために私を救ったというのか。」
 チルタリスは上体をようやっと起こし、まだ痺れが残るのか震える声で言った。
「鰹節や。削っても削っても変わらへんやろ。つまり、えっと。」
「削れど削れど変わらぬ鰹節と一緒で、誰かを助けることに境界などない。ポケモンも人間も、困っていたら助ける。それがわしの相棒、宗太という人間だ。」
 そう、それ。と言って少年と虎猫は笑い出した。つられて鳩も笑い出し、終には綿鳥の親子も笑い出した。
「なるほど、これは立派な絆だな。私の心無い言葉や数多の苦難を乗り越え、人間は信じるに値するということを証明してみせたのだ。宗太と言ったな。此度は私の命、救って頂き感謝する。何か礼が出来ればいいのだが。」
「だったら元気になったら遊びに来てや。この山のちょっと下の方におるからさ。」
 いいとも、きっとそうする。と返事を受けて別れの言葉を交わすと、宗太とニャン太郎は満足げに家路に向かった。

 言うまでもないことではあるが、帰宅した宗太は祖父母にキッチリと怒られた。約束を破ったこと。心配をかけたこと。びしょ濡れになって帰ってきたこと。誰から傘を借りてきたのか。それから普段の行いの悪さのこと。出てきた小言を数えれば、指の数では足りなくなるだろう。無論、それに付き添ったニャン太郎も同罪であった。その判決により、案の定外出禁止令が出されたのは言うまでもない。しかし、今となってはそんなことなぞどうでも良かったのだ。遊ぶ機会は減ってしまったが、それより大切な事を学んだのだ。それを知らぬ祖父母は、あっさりとそれを受け入れた孫の様子眉をひそめた。余談だが、チルタリスの事はひた隠しにした。これは宗太とニャン太郎だけの秘密である。
 翌日、目が覚めた宗太はポケモンの声が聞こえなくなった。どれだけニャン太郎に話しかけたとしても、ぶにゃあとしか聞き取れない。それでも側部には昨日ヘラクロスに攻撃されて赤く腫れた跡が見える。
 夢のような出来事であったが、確かに現実だったのだ。それに少し安堵して、宗太は意味もなくニャン太郎を撫でまわした。朝食の際には、ニャン太郎の皿のポケモンフーズの隣にそっと鰹節を置いてやった。
 それから部屋に戻って宿題をしていると、甘く優しい臭いがした。庭のほうに目をやれば、姫林ヒメリやらブリーやらの果実を咥えたチルットとチルタリスが佇んでいた。
 少年は虎猫とともに庭へ飛び出し、綿鳥の親子に駆け寄った。縁側に置き去りになった自由研究の紙の上では、ガタガタの線で色鉛筆でカラフルに描かれた少年と虎猫、そして綿鳥の親子が笑っていた。