落ちなかった百個のきのみと、少女が歩む一個の夢

漢字の百がきのみに見えてきました
イラスト
* 百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百… *

 初めてその景色を見たのはいつだったろうか。

 澄んだ青に銀の雲が浮かぶ空に、虹色の線がゆるやかなアーチを描いている。雨上がりだろう。たくさんの果実をつけて生い茂る樹木も、草も、空気も、何もかも、綾絹のようにきらきらと輝く水滴をまとっている。
 きれい。
 ため息をついたその瞬間、目の前の果実がひとつ、柄から外れる。
 あ、落ちる――。

 初めてその景色を見たのは、高校二年生の夏休みに入ってすぐの頃だったと思う。「見た」と言っても、物体の反射した光が網膜に刺激を与えその情報が脳に届いた、という意味ではない。アユはそれを夢で見たのだ。
 一度目を見た時、その夢があまりにも鮮やかだったので、アユはノートに書き留めたほどだった。こんな美しい夢をまた見たい。そう願って何度も思い返していたからだろうか。数日後、アユは全く同じ光景の夢を見た。そして三度目は今朝。こんなことは初めてだった。何か特別な意味のある夢かしらと、アユは自室のベッドに寝転がったまま、寝ぼけまなこでスマートフォンを起動し、検索ボックスに「夢占い」と文字を打ち込む。特に有益そうな内容も見つからないまましばらくぼんやりと画面を眺めた後、はっと時計を確認し「やばっ、早く支度しなきゃ」と起き上がった。

 アユはアサギシティの公立高校に通う女子高生だ。自宅はシティの中心地から北にずっと離れた片田舎。父親もアユもバスで一時間ほどかけて職場や学校に通うような場所で、地元にあるものといえば山、田んぼ、畑、こぎれいな集合住宅地とチェーンのディスカウントストアくらい。華の女子高生が好むショッピングモールや話題のスイーツショップなんて当然あるわけもなく、部活にも塾にも入っていないアユが夏休み中やることといえば、学校の課題や諸々の家事、祖父の農作業の手伝いくらいだった。
 けれども今日は、そんな単調な夏休みがぱっと色づく日。高校の友達とプールに遊びに行く約束をしている日だった。
 手早く朝食を済ませ身だしなみを整えると、アユはお気に入りの服に袖を通す。今日のコーデは、腰の大きめリボンがチャームポイントのマリル色ワンピースに、透け感のあるレースカーディガン。黒髪を下の方で三つ編みに結ってふんわり垂らせば、アサギのおしゃれな街並みにもぴったりの夏コーデの完成だ。
 みんな元気かなあ、と鏡の前でヘアピンを選びながらアユは考える。テニス部のユウカはきっと真っ黒に日焼けしているに違いない。みいちゃんは夏休みに入ってからハネッコを育て始めたらしいから、どれくらい大きくなったか聞いてみよう。
 ヘアピンは星形に決めた。アユはプールバッグを肩に提げ、いってきまーす! とうきうき家を出た。

「おはよう、ポポ! 今日はお出かけだから一緒に遊べないんだ、ごめんね。夕方には帰るからー!」

 アユが手を振った先にはポッポとピジョンの群れがあった。自然豊かなアユの家の近くでは、野生ポケモンを見かけることもよくある。あの群れも時々姿を見せる一団で、中でも特に人懐っこい一羽のポッポを、アユはポポと呼んで親しんでいた。
 ポポはアユに近づこうとして足を止め、首をかしげながら仲良しな少女の背中を見送った。





「でなーでなー、ヒマワリちゃんってハネッコにしては珍しくはねるの下手なんやって。『はねる』が使えないハネッコ初めて見たってポケモンセンターの人に言われたわ。」
「いろんな個性のポケモンがおるんやねえ。普通は覚える技を覚えへんなんて。」
「うちバトルせえへんからええよ。むしろ家の中でもおとなしいから助かってんねん。」
「バトルしたとしても『はねる』は意味ないけどね。」

 あはは、と楽しそうに響く女子高生三人の笑い声。
 アユたちはプールで思いっきり泳いではしゃいで遊んだあと、カフェに入っておしゃべりに興じていた。今の話題はみいちゃんが育て始めたハネッコのヒマワリちゃんについて。みいちゃんはすっかりヒマワリちゃんにべたぼれらしく、話の尽きる気配はまったく見えなかった。

「アユはポケモン持ってないやんな?」

 だから突然こちらに話が振られた時、アユはちょっと反応が遅れた。

「うん、持ってない、私は。おじいちゃんが農作業用に何体か持ってるけど。」
「ポケモン嫌いなん?」
「そんなことないよ! ポケモンは好き。あ、家の周りにポッポの群れがいてね、一羽だけすっごい寄ってくる子がいるから、勝手にポポって名前付けて可愛がってる。ぽぽぽって鳴くから、ポポ。」
「はは、安直ー。でもいいな。あたしんとこは親があんまりポケモン好きやないから、そういうのも駄目。弟はその反発で家出てどっかでポケモントレーナーやってる。」
「たくましいんだね、ユウカの弟さん。」
「いやいや好き勝手やってるだけよー。あたしにだけはたまーに連絡くれるから、まあそれが救いかな。」
「ポケモントレーナーかあ……。」

 みいちゃんが水の入ったグラスに口をつけ、少し遠くに目をやりながらつぶやく。

「なるとしたら、今が最後のチャンスやなあ。」
「え、そうなの。」
「そうやでアユ! うちらもう高二やん。」
「そうだけど。ポケモントレーナーに年齢制限なんてあったっけ。」
「ないけどやなあ。ここまできたらもう進路もなんとなく決まってるし。あれ、そういえばアユ、進路希望まだ出してないんやったっけ?」

 みいちゃんに問われてアユは、ぎくりとした。
 進路希望とは、どの大学を受験したいか生徒の意向を学校側が把握するための、希望調査のことだ。中には受験せずに就職やポケモントレーナーを志望する子もいたけれど、それはごく少数。アユの高校は公立とはいえそれなりの進学校だったので、多くの生徒は大学への進学を希望していた。
 夏休み前に実施されたその調査用紙を、アユは白紙のまま手元に残していた。

「や、まあ、あの、夏休み明けたら出す……よ。」

 もう高校二年生の夏だ。大学、特に難関校に入学したいのであれば、今から目標を見据え、本格的に受験勉強を始めなければ間に合わない。
 アユにだって夢はあった。アユはポケモンが好きだ。いつか人とポケモンの役に立つ仕事がしたいと思っている。けれどもそれだけでは、進路希望調査用紙に大学名を書くにはあまりにも漠然としすぎていた。

「アユはうちと違って頭もええし、ポケモン好きなんやったらポケモンドクターとかポケモン看護師とか目指したらええんちゃうん?」
「ポケモンスクールの先生になるのもいいやんね。教員免許取るだけやったらどこの学部でもいいし。」
「ポケモン関係の仕事って意外と色々あるよな。ポケモングッズのショップとかメーカーとかもそうやし、あ、そうや最近は特定のポケモンの専門美容室とかもあるやろ?」

 次々に提示されるみいちゃんとユウカの案に、アユはひとつひとつうなずいていた。
 人とポケモンは古くから互いに深く関わりあってきた存在だ。「人とポケモンの役に立つ」形は、考えれば考えるほどいろいろ浮かんできた。十六歳の少女にとっては、どの可能性もとてもわくわくして心躍るもので、だからこそアユは選べなかったのだ。進路希望としてどれか一つの答えを書くことは、選ばなかった他の道を絶ってしまうことになるような気がして。自分の手で自分の可能性を潰すのは、あまりにも辛いことのような気がして。
 真っ白な紙を前に動けないでいるアユを見て、担任の先生はあまりいい顔をしなかった。ただ、焦って決めてもよくないとも思ってもらえたのだろう。アユは二学期が始まったら必ず進路希望先を決めることを条件に、用紙提出の先送りを許された。

「アユの可能性は無限大! 未来への希望にあふれておりますなー。」
「頭いい子はちゃうよねー。あたしにもアユの脳みそ分けてー。」

 ユウカが無茶を言いながら、アユの頭に両手をかざしてふわんふわん揺らした。そんなことしても分けられませーん、などと笑っていたところ、注文したスイーツが運ばれてきた。

「お待たせいたしました。フレッシュフルーツのラジオ塔パンケーキ、濃厚ガトーショコラのシロガネ山仕立て、とろけるモーモーミルクリームとぱりぱりキャラメリゼのカタラーナでございます。」

 まるで幸せを溶かして焼いて盛り付けたかのような三皿が置かれた瞬間、楽しげにじゃれあっていた彼女らの視線はもうスイーツにくぎ付けだった。わーっと歓声を上げながらスマートフォンで撮影会。いただきまーす! と各々のスイーツを口に運んでまた歓声。「美味しい」「すごい」とこぼれ落ちた感想をせっせとフォークやスプーンですくうのに夢中になってしまったから、その後アユの進路希望について話が続くことはなかった。





 帰りのバスの時間があるアユは、名残を惜しみつつも一足早く二人と別れた。
 アサギシティの中央区から自宅方面へ向かうバス停が見えた時である。アユは見慣れない男性がバスを待っているのに気がついた。短い丈の赤いジャケットに、動きやすそうな黒のカーゴパンツ。ポケモントレーナーかと一瞬思ったが、それにしては荷物が少なすぎるし、モンスターボールを収納するためのホルダーも見当たらない。代わりに彼は右手首にごつい腕時計のような、大ぶりの装飾がついた何かを着けていた。見たことのない出で立ちの人だ。

「あ、すみません。このバスって北側の山間部まで行きますか?」

 先に話しかけてきたのは男のほうだった。二十代の前半だろうか。茶色い短髪のこざっぱりとした印象の青年だった。
 アユは黙ってこくりとうなずく。
 男はありがとう、と言って時刻表を確認した後、もう一度アユの方を見て尋ねた。

「これと同じ行先のバスって他にもありますか?」
「いえ……山の方まで行きたいなら、この路線だけです。」
「そっか。じゃああと五分くらいで来るし、これに乗って行くかな。」

 ひとり納得してうなずいていた青年はそこでようやく、いぶかしげに彼の右手を眺めているアユの視線に気がついたようだった。

「キャプチャ・スタイラー、見るの初めて?」

 アユはどきっとして不思議な腕輪から目をそらし、青年の顔を見た。彼は優しく微笑んでいた。

「オレはポケモンレンジャーのハジメ。ポケモン密輸の取り締まりでアサギシティに来たんだ。」
「ポケモンレンジャー、さん。」

 アユも聞いたことくらいはあった。ポケモン同士、または人とポケモンの間で問題が発生した時に活躍するポケモンのエキスパート、ポケモンレンジャー。ポケモントレーナーとは違いポケモンをゲットするのではなく、キャプチャ・スタイラーという機械を使ってポケモンと心を通わせることで、事態の収拾をつけるのだという。テレビやネットなどで話を聞くことはあっても、実際にその職業に就いている人に会うのは初めてだった。

「少し前に、イッシュ地方からアサギ港にポケモンの違法輸送があってね。犯行グループは捕まったんだけど、まだ何体かのポケモンが行方不明のままなんだ。そのポケモンを探して保護するのが、オレのミッション。」
「へえ……すごい。」
「次は山間部の捜索をしようと思ってるんだけど、キミの家、もしかして近く? 良かったら分かる範囲でいいから、地形について教えてもらえると助かるな。」
 
 そういうわけでアユはハジメと一緒にバスに乗り合わせることになった。
 ハジメがタブレット端末に表示させた地図を見ながら、アユは質問に答え、気づいたことをコメントする。ここは半月前の大雨で崩れて今は通れません。この辺りは野生のヤミカラスの巣があるからいたずらされないよう気をつけてください、などなど……。
 素人の高校生が提供できる情報などたかがしれていたが、ハジメはとても感謝して頭を下げてくれた。

「なるほど、アユさんは高校生なんだ。」

 長いバスの乗車時間。早々に終わった業務会話の後、二人はどちらからともなく雑談を始めた。

「はい、アサギシティの学校に通っています。今は夏休みだけど。」
「けっこう大変な通学路だなあ。勉強は楽しい?」
「はい! どの科目も好きです。」
「へええ、すごいな! じゃあ卒業後は進学?」
「えっと、たぶん。将来は、人とポケモンの役に立てるような仕事に就けたらいいなって、思ってはいるんですけど……ドクターとか、先生とか。でもどれも興味がありすぎちゃって、なかなか一つに決められなくて。」

 苦笑いするアユに、ハジメは首を振ってみせた。

「いやすごいことだと思うぜ。その興味関心は大切にしたほうがいい。オレなんか物心ついた時からもうポケモンレンジャーになることしか頭になかったから。」
「へええ、物心ついた時から?」

 今度はアユが感心する番だった。
 ハジメは十年くらい前にはもうポケモンレンジャーとしての活動を始めていたそうだ。あの頃はオレもパートナーのムックルもまだほんのひよっこで、とはにかむハジメに、もっと話を聞かせてほしいとアユがせがむと、彼は初めてムックルと二人で受けたミッションについて語ってくれた。落石事故の原因調査の末、暴れているドダイトスをキャプチャして鎮めたところで、ちょうどバスが降車駅に到着した。

「いろいろありがとう。助かったよ。そうだ、もしこの辺りで見慣れないポケモン……密輸されたイッシュ地方のポケモンを見かけたら、オレに連絡をください。はいこれ連絡先。」

 バスを降りると、ハジメはそう言ってメモ用紙に走り書きし、アユに差しだした。アユは分かりました、とそれを受け取った。
 ところで、「ぽぽぽ」と小さな鳴き声が聞こえる。

「あっ、ポポ! 迎えに来てくれたの?」
「ポポ?」

 ハジメがのぞきこんだ先、アユの足元に一羽のポッポがいた。
 キミのポケモン? と尋ねるハジメに、いいえとアユは笑って答える。

「近所に住んでる野生のポケモンです。なんかこの子だけ人懐っこくって。ポポって呼んでるんです。」
「そうか。ポポ、初めまして。オレはポケモンレンジャーのハジメ。アルミア地方から来ました。」

 差し出された手の方へ、ポポはちょこちょこと近寄った。ハジメに指先であごの下をくすぐられ、目を閉じてくるくるのどを鳴らしている。さすがポケモンレンジャー、野生ポケモンの扱いはお手の物という感じだ。
 それからポポは、ぴゅっと羽を広げアユの足元に戻ったかと思うと、くるくる鳴いてアユを見上げた。ハジメの真似をしてアユがあごの下をくすぐってやると、気持ちよさそうに目を細めて尾羽をぷるぷる震わせた。

「アユさんはポポと仲良しなんだな。そうだ、そんなポケモン好きのアユさんに、オレの相棒を紹介しよう。」

 ハジメは一個のモンスターボールを取り出すと、ひょいっと放り投げた。現れたのは墨を流したような白黒の体に、とさかと瞳の赤色が映える大型の鳥ポケモン、ムクホーク。ハジメの話に出てきたムックルの進化した姿だった。少々の雨風などものともせず飛行できそうな、引き締まった体付きや翼のつやめきに、アユは思わず見とれてしまった。

「オレのいっちばん大切なパートナーさ。」

 にっこり笑ってハジメがムクホークの背中に手を当てると、ムクホークはうれしそうにすりすりとハジメにくっついた。
 それからハジメが何か指示すると、ムクホークはうなずいて空へと飛びたった。同じ方角へハジメも歩きだす。「それじゃまたな。勉強頑張って」とアユを振り返って手を挙げるので、アユも手を振り「ハジメさんたちもお気をつけて」と見送った。

「……かーっこいいねぇ、ポケモンレンジャー。ポケモンの力を借りて平和を守るなんて、憧れちゃうなあ。」

 ハジメの姿がすっかり見えなくなってから、アユはため息混じりにポポに話しかける。うっとりと見つめているその先にポポも目をやったが、そこには茜に染まり始めた空しか見当たらなかったので、ポポは視線をアユに戻し、首をかしげた。
 アユはふふと笑ってしゃがみこむと、ポポをなでた。ポポもうれしそうにすりすりとくっついてくる。仲の良さだけで言えば、私たちハジメさんとムクホークにも似ているのではないだろうか。そう思うとちょっぴりくすぐったかった。
 ポケモンレンジャーのように平和を守るとまではいかなくても、もしもポケモントレーナーになってあんなふうに相棒ポケモンがいたならば、と考えないわけではなかった。十歳になってポケモントレーナーになる権利を得た時、アユはその道にむしろ興味があったほうだ。ただ勉強も好きだったから、もう少し色々な知識を蓄えてから旅立っても遅くないのではと判断した。勉強を続けていれば、例えばポケモンドクターとかポケモン関連法案に詳しい弁護士とか、たくさんの学力が必要な仕事もできるようになるかもしれない。みいちゃんはポケモントレーナーになるなら今が最後のチャンスと言っていたけれど、アユはそんなことはないと思う。ポケモントレーナーにはいつでもなれる。アユはまだ、ポケモンドクターにもポケモントレーナーにもなる可能性を秘めている。
 もしもポケモントレーナーになって、ポポや他のポケモンたちの力を借りていろんな所を冒険できたら。そう空想すると、心に翼が生えてどこまでも飛んでいけそうな気分になった。





* 百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百… *

 雨上がりだ。目の前にはきのみのたくさんなった木が生い茂っている。向こうの青空には虹が見える。
 アユはこの景色を知っている。何度も夢で見たんだ。

「ぽぽ。」

 声がしてアユは驚いた。ポッポのポポが隣にいる。どうしてここに?

「ぽぽぽ!」

 ポポは少し怒ったようにアユの腰を示す。アユはボールホルダー付きのベルトを装着していて、ポポのモンスターボールがそこには収められていた。
 そうだ、私、ポポを連れてポケモントレーナーになったんだっけ。それでポケモンにはきのみが必要だから、取りに来たんだ。ポポのためにきのみを取らなきゃ。
 アユは樹上のきのみに手を伸ばした。が、そこではたと手を止める。

 あれ? このきのみ、なんていう名前だっけ?
 どういう時にポポに食べさせればいいんだっけ?
 どうしよう、私、ポケモントレーナーなのに何も知らない。

 動きを進めることができないアユの目の前で、きのみがひとりでに柄から離れていく。

 待って待って、落ちないで!
 私、まだ何も知らないの!
 私、まだどうすればいいか分かっていないの!
 ねえ、待って! 待ってよ!

 焦るアユの言葉など届くはずもなく、きのみが外れる。それはまるでその空間だけ時間の先送りを許されているかのようにゆっくりと、しかし確実に動いていて、今まさに、きのみのへたと枝に残った柄との間に空の青が侵入し――――



 アユは目を覚ました。

「またあの夢……か。」

 夏休みはごく平凡に、何も変化することなく過ぎていった。暑い毎日。各教科の復習課題。家事や農作業の手伝い。青々とした田んぼの上、薄羽できらきらと光を反射しながら飛ぶヤンヤンマ。夜の森で一定のリズムを保ちながら低い声で鳴き交わすのはホーホー。一度だけ見慣れないポケモンの影を空に見つけた気がしてハジメに連絡を取ったことがあったが、それ以外は密輸されたイッシュ地方のポケモンなど毛の先っぽも見かけることなく、日常の風景は繰り返されていた。
 そしてアユが不思議な夢を見ることも、その一部になりつつあり。
 それはいつも雨上がりの青空の下、黄色いきのみがいっぱい実っている光景だった。その景色には誰もいないこともあれば、人がいたり、ポケモンがいたり、あるいは人とポケモンの両方がいたりした。登場人物の出で立ちを見るに、場所も時代も一定ではない。夢の中でアユはおおむね彼らの様子を上から見ていたが、ごくたまに今見た夢のように、自分でも知らない自分になって、下からきのみを見上げていることもあった。景色が額縁の中に収められていて、写真か風景画のように見えたこともあった。
 こんなふうに夢の内容は見るたび微妙に異なっていたが、一つだけ共通点があった。どの夢も必ず、雨上がりの空に虹がかかったところで始まり、きのみが落ちる瞬間で終わる。過程も結果もまったく分からないまま、ただ美しい景色の様々な一場面を見るのは、さながら一枚の絵を眺めて空想遊びをしているようだった。そしてアユはこの遊びが、いつしかお気に入りになっていた。次はどんな人やポケモンが景色の中に現れるかなと、眠りの時を心待ちにすらしていたのだ。

 夏休みが何の変化もなく過ぎていったというのは言い過ぎた。アユがだんだん雨上がりの空ときのみの夢を気に入ったように、物事は少しずつ変わっていた。例えば田んぼの稲は穂を出しはじめたし、つがいでうろうろしていたオオタチはいつのまにか小さなオタチを三匹連れていた。夏休みの課題の残りページ数は着々と減っていて、秋に行く修学旅行の計画もちょっとずつ進んでいる。自由時間にどの順番で観光地を巡るかより先に、誰がトランプを持って行きどのお菓子を仕込むかのほうが早く決まったのは、高校生らしいご愛敬。
 変わらないのはアユの悩みだった。答えを出す期限だけが刻一刻と迫っている、進路希望。どの大学を受験するのか、あるいはしないのか。どんな職業を目指すのか。

「あー、いっそのこと本当にポケモントレーナーになっちゃえばいいのかも。」

 庭に遊びに来たポポと一緒に縁側に座り、クッキーを分けっこしながら、アユは投げやりなため息をついた。急に大声を出されたので、ポポはびっくりして体を細くする。アユがごめんごめんと笑いながらポポをなでると、ポポはくるくるのどを鳴らして、またふっくらした形に戻った。
 本当に、群れの中でこのポッポだけが人懐こい、変わり者だった。もしかしたらもともとは人間の側にいたポケモンなのかもしれない。他のポッポやピジョンたちは皆、こんなに近くまでは寄ってこようとしないもの。
 と、視線の先にポポの群れを眺め、アユは「あれ」と気がついた。

「ポポ、あなたの仲間、みんな進化しちゃったの。」

 それはポッポとピジョンの群れではなく、完全にピジョンの群れだった。初めてポポと出会った頃は、ほとんどポッポの群れに一、二羽のピジョンが混ざっているという感じだったのに。今はもう、一羽のポッポが混ざったピジョンの群れだ。

「ぽぽぽ。」
「そっかあ……。もう、ポッポはあなただけなんだ……。」

 アユの胸が無性にざわざわした。ポポのことはいつも可愛いと思っているけれど、その時はなぜか「可愛い」という言葉だけでは説明のつかない庇護欲というか、世界で自分だけがポポの味方であるような、たまらなく愛しい感情に体中を支配された気がして、アユは優しく優しくポポの羽をなでた。

「進化のタイミングって、難しいよねえ……。それともポポ、あなたはもしかして、進化したくないの?」

 ぽぽ、と鳴いてポポは首をかしげた。

「なんや、アユ、ポケモントレーナーになるんか。」
「あ、おじいちゃん。」

 ひょっこり庭に現れたのは、アユの祖父とその手持ちポケモンメガニウムだった。ポポは大柄な人間の男とメガニウムに驚いたのか、ばっと羽を広げて群れの方に去っていく。ばいばいポポ、と手を振ってからアユは祖父の方を向いた。

「聞こえてたんだ。」
「でかいため息と一緒にな。あのポッポ連れて行くんか。」
「違うよ。ポポはただの友達。」
「そうか。せやったら、あんまり人間が作ったもんやらへんほうがええで。」

 クッキーの袋をちらっと見て、祖父はそう言った。アユは曖昧にうなずいて、袋をちょっと体の後ろに寄せた。

「おじいちゃん、新しいわな作るの?」

 祖父が手にしているワイヤーや工具を目にして、アユは話題を変えた。おう、と祖父はうなずく。

「オドシシ被害がえらいことなっとぉ。シゲさんも手伝う言うてくれたから、向こうの山とシゲさんの山にも、罠増やすわ。」
「大変なんだね……。」
「今は申請したら獲れるだけましやな。昔はメスのオドシシ獲ったらあかんかったから。」

 アユの隣にどっかりと腰かけると、祖父は首にかけていたタオルでごしごしと顔を拭き、ついでにメガニウムの首についた汚れも拭い取ってやった。

「人もポケモンも仲良く暮らせたらいいのに。」
「まあな。あいつらもわしらに嫌がらせしようと思て畑荒らすわけやのぉし、わしらかてできれば命まで奪いたくはない。せやけどポケモンで追い払うのにも限界あるし、どっちも生きるのに必死やからなあ。言葉だけではどうにもならんこともあるんや。」

 アユは何も言えずうつむいた。祖父はそんな孫娘の頭に手を置くと、わしわしっと動かした。おじいちゃんの手は大きくてごつい。小さな女の子の髪を乱さずに頭をなでる方法なんて知らなくて、でもいたわり励ましてやりたいという気持ちだけはあふれるほどに伝わってきて、アユは祖父になでられるといつもくすぐったくて笑うのだった。その笑顔を見て祖父もにかっと歯を見せた。

「アユは賢くて優しい子やからな。ようけ勉強して、そのうちじいちゃんもオドシシも仲良く暮らせる方法、見つけてくれるかもしれん。」
「私は……そんな……。」
「なんや勉強おもろないんか? ポケモントレーナーになるほうがええか?」
「ううん、勉強は好きだよ。ポケモンも好きだけど。」

 少し考えた後、ねえおじいちゃん、とアユは問いかける。

「もしもポケモントレーナーになろうと思ったら、私の年齢じゃもう遅いかな?」

 祖父は一瞬きょとんとしたあと、大きな声で笑いだした。あまりに愉快そうに笑うので、今度はアユがきょとんとしたぐらいだった。

「なんでそんなん思たんや? ちっとも遅ない。大事なポケモンがおって、そいつと一緒に生きてくって決めたら、人間いつでも誰でもポケモントレーナーや。」

 なあ? と祖父はメガニウムを軽くたたくようにしてなでた。メガニウムが同意するように一鳴きし、首の花びらからいい香りを漂わせた。機嫌のいい時にだけ出す、花畑のような匂いだ。
 そんな答えが返ってくることは半分くらい予想していたのに、実際に耳にした言葉と香りは、思った以上にアユの心にじぃんとしみた。きっとポケモンと助け合うだけではなく時には敵対することすらある時間を、アユの何倍も過ごしてきた祖父とその大事なポケモンのものだからこそだろう。
 アユは祖父を見上げ、晴れ晴れとした表情でうなずいた。

「ありがとう、おじいちゃん。じゃあ私、お母さんの晩ご飯の用意手伝ってくる。」

 そう言って立ちあがり部屋の中に入ろうとした時だ。
 アユ、と名前を呼んで祖父がアユを呼び止めた。

「もしかして十歳の時、ほんまは、ポケモントレーナーになりたかったんか。」

 アユは祖父の顔を見つめ、困ったように少し微笑むと、そうじゃないよと首を横に振った。





* 百百百百百百百百百百百百百百百百 *

 雨上がりに虹が輝く青空の下、大きな黄色いきのみが今にも落ちそうなほどよく熟れて、いくつも木にぶら下がっている。きのみが落ちた瞬間、その景色は終わる。そのまま目が覚めることもあれば、また次の虹ときのみの景色に移ることもある。
 夏休みの最初に出会って以来、何度も現れるアユの夢。それはいつもきのみが落ちる直前の景色。どんな雨が降っていたのかも、落ちたきのみがどうなるのかも分からない、永遠の風景。
 ここにいればアユは、どこにも行かなくていい気がした。この前後の物語をぼんやりと考えていればよかった。雨は長く降り続く時雨だったかもしれないし、暑い夏の激しい通り雨だったかもしれない。きのみは誰かの口に運ばれるかもしれないし、落ちたその場所で芽を出して新しい生命が始まるのかもしれない。
 今、一匹のゴマゾウが草原に顔を出した。ゴマゾウはからんと晴れた空と大きな虹の橋を見上げながら進み、きのみのなる木に近づいた。これは美味しそうだと思ったのか、鼻を伸ばしてくんくん匂いをかいでいる。あの位置にいてはきのみが落ちた時、頭に当たってしまうだろう。無事に避けられるかな? それともきのみがぶつかって泣いてしまうかな? その泣き声を聞きつけて、お母さんドンファンが来るかもしれない。
 ここにいればアユは、ただ目の前の美しい光景から広がる可能性に、ふけっていればよかった。どの大学を受験するのかも、あるいはポケモントレーナーになるのかも考えなくてよかった。
 ゴマゾウの頭の真上で、きのみが枝から離れる。
 あ、落ちる――。
 そこで景色は消え、真っ暗になる。
 その時アユは、遠くに声を聞いた気がした。

『見つからなぁい。見つからなぁい。君の夢はどこ?』

 ……私の夢、どこにあるんだろう?




 アユがひどく衝撃を受けた出来事は、夏休みも後半に差しかかった頃に訪れた。それは言葉で表してしまえば何のことはない、ごく普通の現象で、それでもアユにとっては意味の深い、忘れがたいものだった。
 ポッポがピジョンに進化したのだ。
 よく晴れた日の午後だった。アユは祖父の農作業の手伝いを終え、一足先に自宅に向かって道を歩いていた。
 道端に数羽のピジョンの群れがいた。ふっくら丸いおまんじゅうみたいになって土の上に座ったり、赤色に目立つ冠羽をきらきらさせながら日光を浴びたりしてくつろいでいるその群れが、ポポの仲間だということはすぐに分かった。いつも顔を合わせていたから。だからアユは何気なくポポの――ポッポの姿を探して名前を呼んだのだ。

「ポポ。」

 アユの声に、一羽のピジョンが素早く顔を上げ、こちらを向いた。
 最初は信じられなかった。信じたくなかったのかもしれない。
 けれどもポポと呼ばれて反応したそのピジョンの表情は、ポケモンの言葉を知らない人間にだってはっきり分かるくらいに、一つの感情をあらわにしていた。「大好きな声が聞こえた」「うれしい」と。ポポ以外のポケモンには、浮かべようもない表情を。
 それでアユは、ポポがピジョンに進化したことを悟った。
 あのピジョンは、ポポだ。
 ポポは一直線にアユの方に飛んできた。ばさりと広げた翼は思った以上に大きく成長していて、アユはとっさに身を引いた。そのわずかな身じろぎを察知したのだろう。ポポは飛行速度を急激に落とすと、アユから一歩離れた場所に着地した。
 ついこの間まで両手で抱えられるぐらいだったのに、もう小さな子供くらいの大きさになっていた。ぐっとそらさなければアユの顔を見上げられなかった首を、今は少し上に向けるだけでアユと目線が合う。鋭い目つきだった。「ポポ」とおそるおそる呼んだアユの声に答えたのは、ぽぽぽと泡のはじけるような可愛らしい音ではなく、ぴいっと甲高い猛禽のそれだった。
 それはいずれも、ポポが仲間と同じようにちゃんと進化することを選べた証だった。それなのにアユは、すぐ側にいるポポがなんだかとても遠い場所にいるような気がして、いつものように手を差し伸べることができなかった。
 ポポがもう一度ぴいっと鳴き、首をかしげる。
 すると群れの方から同じ鳴き声が聞こえたので、ポポはそちらに顔を向けると、再び翼を広げて戻っていった。
 進化おめでとうと口にすることもできなかった。アユは一人取り残されたまま、たくましい姿になったピジョンたちの背中を見つめていた。



 家に帰ると、ちょうどアユ宛に電話がかかってきていた。担任の先生だった。アユはお母さんから受話器を受けとり電話口に出る。もしもしお久しぶり、元気にしてる? と聞きなじんだ中年女性の声が、機械を通した少しのっぺりとした調子で問いかけた。はい元気です、とアユは答えた。

「そう、それはよかった。あのね、進路希望のことなんだけど、どうかなと思って。」

 先生はアユが無事に自分の気持ちを決められたかどうか心配して連絡をくれたのだった。わざわざ申し訳ないという気持ちと、まだ猶予期間内なんだからほっといてほしいという嫌悪をぐちゃぐちゃの糸玉に丸めて飲みくだし、アユは「まあ……」と中途半端な返事をした。
 それがあまり前向きな返事ではないと、先生には伝わっただろう。電話の向こうで先生は小さくため息をついた後、もしよかったらね、と努めて明るく言った。

「今、アサギの市立美術館と自然史博物館で特別展示がやっていてね。イッシュの現代アート展と、化石ポケモン博。どちらもあなたの好きそうな内容だから、行ってみたらどうかしら。何か参考になるかもしれないから。」
「はい、ありがとうございます。調べてみます。」
「あまり思いつめすぎないようにね。時には勢いで選んじゃうことも必要よ。先生、なんでも相談に乗るから。」
「はい、ありがとうございます。すみません、わざわざ。」
「気にしないで。じゃあ残りの夏休みも、体調に気をつけてね。」
「はい。」

 ガチャリと受話器の置かれる音がして電話は切れた。アユも静かに受話器を電話の上に重ねた。
 決断までに残された時間はあとわずかだった。大学を受験するのか、するとしたらどこを受けるのか、大学に行って何がしたいのか。人とポケモンの役に立つために。ポケモンドクターになる? ロースクールで法律を学ぶ? ポケモントリマー、ポケモングッズメーカーの研究員、それともここでいっそポケモントレーナー? どの夢だって素晴らしい。けれどもいずれは、どれか一つを選ばなければならないのだ。
 アユも、進化しなければいけないのだ。



 その日の夜、アユは布団にもぐってまぶたを閉じ、黒い空間の中でまどろんでいた。
 今夜もあの夢を見られるといいなと思った。今日は一日中なんとなく重い気持ちで過ごしていた。あのきれいな風景を見て空想に思いを馳せられれば少しは慰めになるだろう。雨はどんなふうに降っていたのか、そこに誰がいるのか、そしてきのみが落ちた後に何が起こるのか。うたかたの物語に浸る時を、ひとりぼっちの闇の中で心待ちにしていた時である。

『君の夢を見つけたよ。』

 声が聞こえた。
 男とも女とも判別できない、ふわふわと幾重にも反響する高い声だった。
 どこから聞こえてくるのだろう。辺りは真っ暗だ。誰もいない。アユがひっそりと耳をそばだてていると、もう一度「君の夢を見つけたよ」とその声は繰り返した。

『雨がどんなふうに降っていたのかも、きのみがどこに落ちるのかも、やっと分かるよ。君の夢を見つけたよ。』

 あの景色の話をしていると気がついて、アユはどきりとした。雨がどんなふうに降っていたのかも、きのみがどこに落ちるのかも分かるだって? とんでもない! アユはそれが決まっていないからこそ、見るたびに違う景色だからこそ心惹かれているというのに。

 嫌!

 アユは誰に向かうともなく叫んでいた。
 黒い世界に、悲鳴のようなアユの声の残響だけがめぐっていく。

 きのみが落ちた先なんて知らなくていい。どんな雨だったかも知らなくていい。だって知らなければずっと空想していられるもの。知らなければ可能性はどこまでだって広がるんだもの。私から可能性を奪わないで!!

 アユの剣幕に押されたのか、そもそもアユの声はこの空間に響いていないのだろうか。いずれにせよ、不思議な声は聞こえなくなった。アユは今自分がどこにいるのか、あの景色を見たいのか見たくないのか、夢とは一体何なのか、もう何もかも分からなくなって、こんがらがった気持ちのまま、逃げるように眠りの深みに落ちていった。





* 百 *

 台風が接近していた。予報では、今夜ジョウト地方に最も近づくらしい。大切に育ててきたモモン林が台無しになっては大変と、祖父は今日の午前いっぱいまで使ってモモンの収穫を終えていた。今、アユの家はモモンの甘い香りであふれている。自家用に余ったモモンが山盛りあるのでお母さんが大量のジャムを作ったのだった。
 お母さんはまだ温かいジャムのびんを数本と、たくさん余っているモモンの実をいくつか紙袋に入れていた。

「ご近所にもおすそ分けしようと思って。」
「じゃあ私、ぱっと行って配ってくるよ。まだ雨降ってないし。」
「そう? 助かるわ。じゃあお願い。早く帰ってくるのよ。台風来てるから。」
「はーい。」

 ジャージのトレパンにTシャツという適当な格好のまま髪だけきゅっと一束にくくって、アユが家を出たのが夕方。隣近所、といっても片田舎のことだから畑を二つ三つ越えたところに隣家があることもあり、おすそ分けを終えた頃には辺りはすっかり薄暗くなっていた。雲行きもかなり怪しい。いつもはオタチがじゃれ遊んだり、バタフリーがひらひら飛んだりしている田んぼのあぜ道も、今日ばかりはしんと息を潜め嵐に備えていた。

「早く帰ろうっと。」

 アユが足を速めたその時だった。
 道の先に何かがいるのをアユは見つけた。四足の生き物だ。ポケモン? 細長い足にしゅっとした体つきをしていて、最初はオドシシの子供かと思った。しかしオドシシならば茶色いはずだ。そのポケモンは頭から背中にかけて、太陽に向かってぐんぐん伸びる真夏の木々の葉っぱのような、濃い緑色をしている。顔とお腹の方は白っぽい。オドシシの色じゃない。しかも頭には黄色い花のようなものまで付いている。
 アユはハッと思い当たった。あれは確か、シキジカという名前のポケモンだ。この辺りでは見慣れないポケモン。密輸されたイッシュのポケモン!
 シキジカはアユに驚いたのだろうか、ばっと身をひるがえすと、山道に逃げこんだ。アユは見失うまいとして追いかける。シキジカが木々の向こうからアユを振り返っていた。
 ここはご近所のシゲさんの山だ。そういえばおじいちゃん、シゲさんの山にもオドシシ用の罠を仕掛けたって言ってたっけ。

「その先に行っちゃだめ! 罠があるよ!」

 しかしシキジカはぴょんと奥の方に跳ねて行ってしまった。あちゃー、と顔をしかめるアユ。大声で逆に怖がらせてしまったらしい。どうしよう、どうしよう。

「あ……そうだ、ハジメさん!」

 アユは急いでポケットからスマートフォンを取り出すと、ポケモンレンジャーのハジメに電話をかけた。コール音が一回、三回……十回鳴っても応答がない。
 一分ぐらい鳴らし続けた後、もう、とアユは電話を切った。それから梢の向こうに目をやる。
 この山には罠が仕掛けられているうえ、今夜は台風だ。シキジカを放っておくわけにはいかない。見知らぬ土地できっと怖い思いをしているだろうから。
 ずん、と山道を進み始めたアユの優しさが、この時ばかりは裏目に出た。

 シキジカにはすぐに追いついた。木々の入り組む獣道で、不安そうに辺りを見回し、ゆっくり歩いている。全体的に薄汚れた感じがして、疲れているようだった。アユは静かに近づくと、その名を呼んだ。

「シキジカ。」

 シキジカが耳をぴくりとこちらに動かし、アユに顔を向けた。先ほどのように逃げることはなかったが、じっとアユの様子をうかがっていた。
 きっとこういう時ポケモンレンジャーなら、あのキャプチャなんとかを使って気持ちを伝えることができるんだろうなと思ったが、アユはレンジャーではないし、ハジメへの連絡もつながらなかったのでどうしようもない。できるだけシキジカを怖がらせないよう、アユは精一杯優しく穏やかに「シキジカ」と再び呼びかけた。

「大丈夫だよ。こっちにおいで。」

 アユが差し伸べた手のひらをシキジカが見つめている。少し考えるような時間の末、シキジカはキュルと小さく鳴くとアユに一歩近づいた。アユはポケモンレンジャーではないが、声音に込めた思いをポケモンに伝えることができた!
 とアユが喜んだのも束の間。突然シキジカの足元が崩れ、小さな緑色の体が地面に引きずりこまれた。

「シキジカ!」

 考える前に体が動いていた。アユはシキジカに駆け寄り、落ちる体をつかまえようと手を伸ばす。が、そのアユを支える地面までもがぐらりと形を失った。悲鳴を上げる間もなかった。伸ばした手の先のシキジカが降り注ぐ土砂で見えなくなり、アユの首筋にも湿った冷たい土がなだれこみ、あっと思った時には激しく地面にたたきつけられていた。

「あ、いててて……。」

 発した声に、ざり、と土と腐った枯葉の味が混ざる。うえっと眉根を寄せてせきこみながら口の中のものを吐き出した後、アユは上半身を起こし慌てて辺りを見回した。

「シキジカ! シキジカ!」

 シキジカはアユから少し離れた所に倒れていた。アユは立ち上がるのももどかしく、ほとんど這うようにしてシキジカに飛び寄る。シキジカがうっすらと目を開けて弱々しく鳴いた。首をもたげ、足を曲げて起き上がろうとするが、力が入らずにまた倒れてしまった。

「足けがしたの!? 見せて……」

 シキジカの体に両手を回そうとした時だ。アユは自分の体の異変に気がついた。右手が動かない。ぞくっとした汗が背骨に沿って流れた。こわごわと自分の右手に目をやると、手首の形が明らかにおかしい。右手が上にずれているような見た目になっていて、力が全く入らない。
 あ、これ、骨、折れてる。
 認めた瞬間に信じられないほどの激痛が走った。痛み以外の思考が吹き飛び、アユは右手をかばうようにしてうずくまった。

「い、痛い! 痛いいいいぃぃ!!! うぅあああぁぁっ!!!」

 経験したことのない痛みに、アユはパニックに陥った。何これ痛い、なんで、どうして、痛い、助けて、助けて痛い、死んじゃうたすけて痛いいたいイタイ! 涙と震えが止まらない。言葉とうめきの混濁した声が唾液と共に地面にぼたぼた落ち、世界がぐるぐると回り始め、いっそ死ねばこの苦しみから解放されると黒い何かのささやきを聞いた気がした時、

「キュル……。」

 シキジカの舌が、アユのほおをなでた。
 はっとして顔を上げると、シキジカが自由の利かない体を引きずってアユに寄り添い、心配そうにこちらを見つめていた。

「シ、シキジカ……。」

 右手はまだ死ぬほど痛かった。しかしその名を口にしたとたん、シキジカの体がアユに触れていることに気がついた瞬間、痛いという感覚だけで砂嵐のように覆われていた頭の中が、すうっと晴れていくような心地がした。

「ありがとうシキジカ。大丈夫だよ……一緒に帰ろう。」

 アユは左手でぐしぐし涙をぬぐい、痛みをこらえて今自分たちが置かれている状況を観察した。
 アユたちはどうやら元いた場所から二、三メートルほど下に落ちたようだ。崩れた崖はほとんど垂直で土はやわく、負傷した自分たちの体ではよじ登れそうにない。

「おおーい! 誰かー! 誰か助けてー! シゲさーん! おじいちゃあーん!」

 声が裏返るのにも構わず叫んでみるも、ここは獣道も外れた山の中。答えるのは強い風にざわざわ揺れる葉擦れの音だけだ。生い茂る木々とやぶで人家の屋根すら見えず、自分がどこにいるかもよく分からない。シゲさんの山のそんなに奥深くまでは行ってないと思うのだけど、偶然の救助を期待できる場所とは言いがたかった。

「そうだ、スマホで家に連絡……」

 ポケットに手をやって、どきりと嫌な汗が背中を伝うこと本日二回目。スマートフォンがない。
 きっと落ちた衝撃でその辺に転がったのだろうと、近くの地面を見渡すがそれらしい物はない。土砂に埋もれたかと、痛む右手をかばいながら何か所か掘り探ってみたが、見つからない。ということは、崖の上で落としてしまったのか……。
 シキジカに大丈夫と言ってみせた強がりが、早くもしゅるしゅるとしぼんでしまった。右手は相変わらず内側からハンマーでたたかれているかのように痛い。

(やばい、これ、詰んでるんじゃないの。)

 凍りつくアユの顔にぽとりとしずくが落ちた。雨だ。見上げた木々の隙間から、どんより低く垂れこめた暗い灰色の雲と、慌てて巣に帰っていくのだろう鳥ポケモンの影が一つ見えた。いよいよ台風の暴風雨域に入ったか。泣きっ面にスピアーとはこのことだ。

(とにかく雨を避けないと……。)

 向こうの方に大きな木が一本見えた。葉っぱもよく繁っているし、あの下に入ればここよりはいくらかましだろう。

「シキジカ、動ける? あの木の下で雨宿りしよう。」

 シキジカは弱々しくもなんとか立ち上がった。ということは、足は折れていない。アユは少しほっとして、自分の体でシキジカを支えてやりながらゆっくり移動した。シキジカもまた、左手で右手を保持し痛みをこらえているアユを、気遣い支えてくれているような気がした。
 風雨に耐え、寄り添いながらやっと大木に到着した二人に、運が味方した。幹が腐り落ちたのか根が複雑に絡みあっているのか、大木の根本にちょうど一人と一匹が入れるくらいのうろがあったのだ。
 アユはシキジカと共にうろにもぐりこむと、腰を下ろして大きくため息をついた。とりあえずこれで雨と風はしのげそうだ。暗がりの中で小さな虫がうごめいた気がするのは見なかったふりをする。そんなことよりも問題は二人のけがの具合だ。
 シキジカはけがの程度こそひどくないものの、きっと密輸業者から逃げだして以来さ迷い続けていたのだろう、かなり体力を消耗していた。アユの側にぴっとりうずくまり、少し震えている。そっと頭をなでてやると、キュルと鳴いた。
 アユのほうも深刻だ。いびつな形になった右手首は、目に見えて分かるほど腫れてきた。痛みもじんじん増すばかり。また涙が出そうになったが、いったん泣いてしまうと止まらなさそうだったから、必死で我慢した。
 ここまで移動する途中、太い木の枝を拾っておいたから、アユはそれを添え木にして手首を固定しようとした。髪をほどいてヘアゴムを用い、痛みにうめきながらもなんとか木の枝を腕に結び付ける。が、一か所結んだだけでは十分に安定しなかった。他に使えそうな物は何も持っていない。ジャムを配ったらすぐ家に帰るつもりだったので、スマートフォン以外完全に手ぶらだったのだ。タオルの一本でも首に引っかけてくればよかったと思いつつ、うろに生えている下草とか腐った木の根らしきものとかをつまみ上げて固定を試みたが、すぐにあきらめて手を離す。

「キュルル。」

 そんなアユの様子をしばらく見ていたシキジカが、不意に鳴き声を上げた。なんだろう? と思っていると、シキジカの頭の花からぽぽぽと光の粒が飛び出し、うろの隅っこに着地した。粒は見る間に発芽してほのかに光る茎を伸ばし、うろの天井まで育った辺りで成長を止め、光も消えた。
 シキジカはその植物をくわえてちぎると、アユに差し出した。何かを結ぶにはちょうどよい具合の、細長く丈夫な茎だった。

「えっ、これ……私のために?」

 キュルキュルとシキジカが答え、アユは感激にありがとうと声を震わせながらそれを受けとった。そしてシキジカにかなり手伝ってもらいながらも、なんとか骨折部位の固定に成功する。これで右手はだいぶ楽になった。
 うろのすぐ外では雨風がびゅーびゅー吹き荒れていた。辺りはもうすっかり暗くなっており、寒い。ここに来るまでに濡れた体が冷えてしまったようだ。
 吹きこんでくる嵐によってさらに体力が奪われてしまうのを防ぐため、アユはシキジカを抱えこみ、できるだけ互いの肌をくっつけた。するとどちらともなく体の奥でぐるぐるきゅうと音が響く。胃や腸が「からっぽだよ」と悲しげに訴える声だった。

「うう……お腹空いたねえ、シキジカ。」
「キュウ……。」

 このまま誰も助けに来なければ、アユとシキジカは死んでしまうのだろうか。痛みと寒さと空腹と恐怖で、頭が回らなくなってきた。
 もしも、とアユはぼんやり思う。
 もしもアユがポケモントレーナーだったなら、ポケモンの力を借りてこの状況をなんとかできたかもしれない。ポケモンを治す薬でシキジカを助けてあげられたかもしれない。
 そうでなくても、せめて早く進路を決めて、例えばポケモン看護の勉強でも始めていれば、シキジカの体力を回復させるにはどうすればいいか知っていたのかもしれない。けれどもアユが持っている知識といえば、どの進路も選べるように保険を掛けた中途半端な教科書知識ばっかり。人とポケモンの役に立ちたいと夢見て勉強していたはずだったのに、結局そんなのは口先だけで、何一つ意味がなかった。何の役にも立たなかった。
 骨折の痛みは耐えられても、現実がナイフのようにえぐる心の痛みは耐えようがなかった。情けなくて、心細くて、悔しくて、痛くて、アユの腫れた手首にぽとんと涙のしずくが落ちる。それが堰を切ってしまって、アユはまたしくしく泣きだした。
 シキジカが慰めるように、涙の伝うアユのほおをぺろりとなめてくれた。アユはシキジカをぎゅうっと抱きしめた。温かい。この体温に触れていれば、少しは心が落ち着くような気がした。

(ああ、私はシキジカを助けようと思ったのに、結局シキジカに助けられてばっかりだ。)

 シキジカの頭の花に顔をうずめて、アユは目を閉じる。
 そのままいつしか、溶けるように意識を失った。





* 百 *

『……。』

『おぅい。』

『おーぅい。』

 誰かに呼ばれているのに気がついて、アユは目を開けた。辺りは真っ暗だ。
 シキジカ! アユの腕の中はからっぽだった。慌てて見回しても闇が広がるばかりで、ポケモンはおろかうろにいた虫も植物も、およそ生命と呼べそうなものは何もない。さっきまであんなに激しく吹き荒れていた風も雨も止んでいる。無だ。そういえば右手も痛くない。
 私、死んじゃったのかな。

『違うよぅ。君は死んでなんかいないよぅ。』

 再び声が聞こえた。見るとアユの前方に、いつ現れたのかピンク色のボールのような何かが浮かんでいた。紫の大きな花柄模様がついていて、下側に四つ出ている小さな突起が足に見えなくもない。……ポケモン?

『その通り。ぼくはポケモン。みんなムンナって呼ぶよ。よろしくぅ。』

 ピンクのボールは楽しそうに揺れながらそう言った。ではその口調に合わせて細っこくなったあの赤いのが目玉か。口がどこで動いているのかは分からなかった。もともと口がないポケモンなのか、あるいはテレパシー的な何かを使ってアユに語りかけているのか。こちらの考えていることも筒抜けのようだし。

『だってぇ、ここは君の夢の中だもん。』

 あたかも「ポッポはピジョンに進化します」と当然を説くかのような調子でムンナが笑う。それから、あのねあのねぼくね、とアユの周りをくるくる飛んだ。

『君に夢を返しに来たんだ。ぼくねぇ、とってもお腹が空いてて、うっかり君の夢を食べそうになっちゃったの。ヨチムは食べちゃだめって、マムにあんなに言われてたのに。でぇ、その時に君の夢をどっかに落としちゃってね、やーっと見つけて持ってきたの。』

 ムンナがアユの鼻先で止まる。赤い瞳に、じっとアユを映しこむ。

『雨上がりの青空ときのみの夢。』

 アユは息を飲んだ。ムンナの言葉の意味はところどころ理解できなかったが、それだけは何のことか分かった。雨上がりの青空ときのみの夢。この一か月近く、アユがずっと見続けていた、その前後の空想を楽しんでいた、あの夢。

『あの……。』

 思いきって口を開けば、どうやらアユもここで発話することができるらしい。いつもと違って、ふわふわエコーのかかった奇妙な声ではあったけれど。

『私、その夢を、たくさん見た。』
『うんそうだよぉ。ぼくが君の夢を探しながら、似たようなやつをいっぱい持ってきたからねぇ。でもそれは全部、君じゃない誰か別の人が見た夢だったの。』
『あんなにそっくりな夢を? 誰か別の人が? そんなことってあるもんなの?』
『あるもんなのぉ。例えばみんなで同じ絵を見て空想にふけったりした時なんか、一度に同じ景色の夢がたーくさん生まれることがあるんだよ。ま、そういうのはほとんど形になれない夢なんだけどねぇ。君のと間違えて持ってきちゃったあの夢たちは全部、そういう夢だったの。きのみが落ちるその景色を一瞬は夢見てもらえたのに、すぐに忘れられちゃった夢とか。形になりそうだったけど上手くいかなかった夢とか。あるいは別の物語に取って代わられちゃった夢とか。』

 分からない顔をしているアユを見てムンナは「世界ってのは君が知っているよりもずっとずっと広くて深くてぐちゃぐちゃなのさぁ」とからかうように付け加えた。アユがますます言葉を失っていると、不安がっていると思ったのだろうか。一転した優しく穏やかな口調で、大丈夫だよぉ、とムンナはにこやかに目を細めた。

『君の夢はここにあるからね。そのためにぼく一生懸命探して持ってきたんだからぁ。はい、これが君の夢! 君の雨上がりの青空ときのみ!』

 アユとムンナに挟まれた空間に、ぼんやり白い光が生まれた。これがアユの夢だというのか。何度も出会い、親しみ、その可能性に思いを馳せた、あの美しい景色の夢だというのか。
 ムンナはにこにこと笑顔を浮かべながら、ゆったりとリズムを取るように左右に揺れている。

『つまり、これが正解ってこと? どんな雨が降っていたかも、きのみが落ちてどうなるのかも、これで全部、決まっちゃうってこと?』
『ん? んんー、よく分からないけど、これが君のヨチムだよぉ。』
『……いらない。』

 アユは光の玉から一歩後ずさった。

『いらない。私、あの夢が好きなの。あのきれいな景色の前や後に、何が起きるのかなって想像するのが好きなの。もしそれが一つに決まっちゃうんだったら、他の可能性がなくなっちゃうんだったら、いらない。私これ受けとれない。』

 ムンナは明らかに驚いたようだった。赤い目をぱっちりと開き、機嫌のよい体の揺らぎも止め、アユを見据えていた。その視線が痛くて、アユは目を伏せる。

『それじゃあ……夢はいつまでたっても夢のままだよ。何の役にも立たないままだよ。』

 アユはハッとして顔を上げた。ムンナが話しているのは眠っている時に見る「夢」のことだ。けれどもその言葉は別の意味を伴って、アユの心に突き刺さったナイフを激しく揺さぶった。
 アユは夢見ていた。人とポケモンの役に立てる自分の未来を。ポケモン看護師でもいい。トレーナーズスクールの先生でもいい。描いた数だけ夢はあったし、それぞれの未来を考えるのは楽しかった。

『どの可能性だって選べるってことは、とっても自由で気持ちよく感じるかもしれないけど、それじゃあ、君のきのみはいつまでたっても落ちないままだよ。』

 けれども同時に怖くもあった。どれかを選んで、それ以外の何かを選べなくなることが。だからいつまで経っても何も選べないまま、アユは全ての可能性を保持し続けていた。見るたびに違う夢で空想遊びにふける子供のように。群れの仲間が次々に大きくなる中で、自分だけいつまでも進化しないポケモンのように。

『どれか一つを選んで、形にするのは、君自身なんだよ。君が行かなきゃ、意味ないんだよ。』

 そして結局、シキジカ一匹救えなかった。
 人の役にもポケモンの役にも立てなかった。

『だから、さあ、怖がらないで、行って見て!』

 もしも何かを選んでいれば。
 夢の一つを目指せていたら。
 アユとムンナの間でぼんやりと光る玉が、アユの選択を待っていた。
 光の真ん中に、ひときわ強く輝きを放つ小さな種のようなものが見えた。アユはおそるおそる種に手を伸ばそうとして、ふとその動きを止め、ムンナに尋ねた。

『ねえ、形になれなかった夢たちは、どうなっちゃうの?』

 光を挟んだ向かい側で、ムンナが体を傾けた。
 さあねぇ、ぼくはよく知らないけど、とムンナは少し考えた後で言葉を続ける。

『でもマムがこんなことを言っていたよ。形になれなかった夢は完全になくなってしまうわけじゃなく、いろんな色や形の砂粒が無限に集まって厚い地層を作るように、小さな小さな存在になって確かにこの世界の一部になるんだって。この世界の土台はそうやってできてるんだって。で、その夢たちは永遠に忘れ去られたままのこともあるし、ごくまれに夢の持ち主に再会することもあるんだって。』

 アユは再び、ぼんやりとした光の玉を見る。
 形になれるかもしれないアユの夢。雨上がりの青空と落ちるきのみの、アユだけの物語。
 アユは大きく息を吸った。そして両腕を伸ばし、中心で輝く種をすくうようにして包みこんだ。
 瞬間、アユの手の中で光がほとばしる。発芽だ。芽はみるみる成長し、輝く茎と葉が指のすき間からあふれ出た。それはあっという間にアユの手に納まらなくなって、生長する、生長する、生長してどんどん空間を覆い尽くしていく。真っ黒な世界が真っ白に塗り替えられていく。

『また、会えるといいねぇ。』

 最後に聞こえたムンナの声は、アユに向けられていたのか、それともどこかで主を待つ夢のために発せられたのか、分からないまま光の中に消えた。





 光が収まると、アユは山を登っていた。ひざの辺りまで下草が茂っている道でとても歩きにくい。踏み出した一歩の先にあった地面がへこんでいて、少しバランスを崩してしまった。大きな岩が行く手をふさいでいて大回りしなければならない所もあった。それでもアユはひたすらに進んで行く。どこへ? 答えられないのに知っていた。アユはそこに行かなければいけないと分かっていた。
 突然、視界が開け、青い空が天を覆う。大きな虹がかかっている。何本ものオボンの木が、黄色い実をいっぱいにつけていた。すべてのものがしずくをまとい、光を浴びてきらきらと輝くその光景を、アユは知っている。これがアユの夢。よく似た景色を何度も見たけど、やっと出会えた、これこそがアユの景色。
 目の前の一番大きなオボンが、ゆっくりと柄から離れていく。
 あ、落ちる――。
 オボンに向かって、力いっぱい手を伸ばし、



 アユは目を覚ました。
 辺りは真っ暗だ。いや外から光が差している。アユは木のうろの中にいた。右手の痛みもずきんと目を覚まし、昨夜の出来事がうそではなかったことを証明した。しかしシキジカの姿が見当たらない。

「シキジカ。」

 アユの腕にはまだ自分のものではない体温が残っている。アユは急いでうろから這い出した。
 シキジカはすぐ近くにいた。風はまだ強いが、木々のすき間から見上げた空は明るい。朝だ。どうやら一夜のうちに台風は通り過ぎたようだった。
 シキジカはアユが出てきたのを確認すると、少しふらつきながら歩き始めた。

「待って、シキジカ! どこに行くの!」

 シキジカはアユを振り返ると、また前を向いて先へ行く。どこか目的地があるようだ。アユはシキジカの後を追った。
 山の中のこんな場所に道らしい道はなく、草がぼうぼうに生えていた。それでもシキジカはお構いなしで、首まで草に埋まりながらずんずん進む。アユも遅れまいとするが、足元が見えず何度も石や木の根につまずくし、細長い葉は露だらけでアユの服を遠慮なくびしゃびしゃ濡らすし、とても歩きにくい。きゃっ、と悲鳴を上げたのは、踏み出した一歩の先にあった地面がへこんでいて、少しバランスを崩してしまったからだ。
 はたとアユは思い当たる。
 私、この道を知っている。
 しばらく進むと、大きな岩が行く手をふさいでいた。シキジカが困ったように岩を見上げ、どうしたものかと思案している。アユはやっと追いついたその背中にそっと触れた。

「おいで。こっちから大回りして行こう。」

 まるで一度歩いた道であるかのように、アユは回り道を見つけだし、シキジカと共にひたすらに進んだ。どこへ? 答えられないのに知っていた。アユはそこに行かなければいけないと分かっていた。
 ふと、空気が変わったのをアユは感じる。足元から立ち上る、雨の後の湿った土と踏み倒した草の汁が混ざったにおいの中に、かすかに漂う甘酸っぱい香り。
 シキジカがぴんと耳と尾を立て歩調を速めた。アユもシキジカに続き、二人の息遣いとがさがさ草むらをかき分ける音が、朝の山道に響く。
 アユの体の中心で、心臓が一打ちごとにその音量を上げていた。予感。期待。不安。好奇。一つ深呼吸してその鼓動をなだめると、アユはたぶんこれが最後の一歩だと確信して、草を踏み倒した。
 突然、視界が開け、青い空が天を覆う。目の覚めるような深く透明な青だった。その青の中に銀色の雲がもくもくと光り、大きな虹がかかっている。何本ものオボンの木が、虹に手を伸ばすかのように枝葉を広げ、黄色い実をいっぱいにつけていた。その実が放つ甘酸っぱくみずみずしい香りが辺り一帯に溶け、さわさわと吹き抜ける風がアユのほおを軽くたたきながら、その匂いを運んでいった。熟した大きな実も、まだ青い小さな実も、よく茂った葉も、枝も、下草も、空気さえ、昨夜の雨がもたらしたしずくをまとい、朝の光を浴びてきらきらと輝いた。
 色も、匂いも、音も、輪郭も、それは今まで夢に見たどんな景色よりも鮮やかな、雨上がりの青空ときのみの光景だった。
 アユの視線は、自然、目の前にある一番大きなオボンの実に吸いこまれた。ぽってり栄養と水分をためこんだ実のついた枝はゆるやかにたわんでいる。次に何が起きるかアユは知っている。ふつとかすかな音を立てて、実と柄の間に空の青が侵入し、木々についた雨粒がぱっとはじけて宙を舞った。
 あ、落ちる――。
 次に何が起きるかアユは知らない。だって夢はいつもここで終わっていたから。その先を見るのが怖かったから。空想だけしていたかったから。けれどもこれは夢じゃない。アユが選んだ景色の先。定められた景色の向こうにある物語を、アユは今、紡ぐ。

 オボンの実が落ちる!

 アユは左手を掲げていた。
 ぼん、と思いのほか強い衝撃と共に、オボンがアユの手に収まった。

「キュルッ、キュルキュルッ!」

 シキジカがうれしそうにアユの足元にすり寄った。オボンの実は傷ついたポケモンによく効くとおじいちゃんが言っていた。きっとシキジカはこの匂いをかぎつけてここまで来たんだ。
 アユは少しかがむと、シキジカにオボンの実を差しだした。

「はい、どうぞ。」
「キュルキュル!」

 シキジカは勢いよくオボンにかぶりつくと、夢中で食べ始めた。しゃくと一口かじるたびにつややかな果肉がはじけ、一段と強く甘酸っぱい香りが周囲に満ちる。あふれた汁はシキジカののどを流れ、それでもまだとどまらず果皮にも流れ、オボンを支えるアユの左手にも流れ落ち、ぴかぴかと光をはね返した。アユはごくりと唾を飲んだ。アユだってのどはからから、お腹もぺこぺこなのだ。シゲさんには申し訳ないけど、シキジカにこれを食べさせたらあと一個だけ、自分用にもオボンを頂こうかと考えてアユが樹上を見上げたその時。
 木々の間に見えた空、虹の向こうに黒い点が見えた。点はどんどん大きくなり、やがて二つに分かれて小さな鳥ポケモン一羽と大きな鳥ポケモン一羽の影になった。大きなほうには人が乗っているようだ。こちらに向かって手を振っている。

「おーい! アユさーん!」
「ハジメさん!? それにあれはまさか……ポポ!?」

 それはムクホークに乗ったポケモンレンジャーのハジメと、ピジョンのポポだった。一人と二羽はまたたく間にアユの側に近づくと、ものすごい風圧で草を揺らし木々の葉に乗った雨粒を吹き飛ばしながら着地した。

「無事か、アユさん!?」
「は、はい。なんとか。ハジメさん、どうしてここが?」
「昨日キミから電話があって、すぐに出られなくて悪かった。折り返しても全然反応がないから、念のため朝一でこっちに来ておこうと思ってムクホークで飛んでいたんだ。そしたら血相を変えたピジョンがしきりに付いて来いって様子で。あの子、ポポだろう? これは何かあったに違いないって、やって来たら案の定ってわけさ。」

 ポポが遭難した私たちを見つけてくれていたんだ。遠慮がちに様子をうかがっているポポの姿が、アユの視界でじわっとにじんだ。

「ポポォー!」

 アユが腕を広げたのと、ポポがぴいっと鳴きながらアユに駆け寄ったのとはほとんど同時だった。ふかふかの羽毛に包まれた体は、ポッポの頃と少しも変わらず温かくやわらかく、それでいて大きくたくましく成長していた。

「ハジメさん、この子がポポだってよく分かりましたね。進化しちゃってるのに。」
「分かるさ、なんとなくだったけどな。ピジョンの必死の姿を見て、すぐにアユさんとポポのことを思い出したよ。キミたちはとても仲が良かったし、それは進化したからって変わるもんじゃないだろう?」

 アユは口をきゅっと結んでうなずいた。そうしなければまた涙がこぼれてしまいそうだったから。
 ポポはくるくるとのどを鳴らしていた。改めてポポを抱きしめようとした時、うっかり右手が動いてしまい、アユは「あいたっ」と悲鳴を上げた。けがしてるのか、とハジメが急いで症状を確認する。

「これはひどい……折れているな。一刻も早く病院へ行こう。よく頑張った。痛かっただろうに、自力で応急処置もできている。」
「これは、あの、シキジカが手伝ってくれたから。」
「ああ。固定に使っているこれ、シキジカの『宿り木』だろ。迷子になっていたイッシュのポケモンを見つけてくれて、ありがとうアユさん。いつもならここでキャプチャするんだけど……」

 シキジカは突然現れた人間とポケモンたちにすっかり驚いた様子で、それでもまだ口だけはオボンの実をもぐもぐしながら、アユの後ろに隠れてそっと顔をのぞかせていた。ハジメはキャプチャ・スタイラーを装着している腕を下ろして微笑んだ。

「アユさんがいればその必要はなさそうだな。」

 そしてハジメは救援連絡を送信し、アユの右手首を改めて処置し直すと、シキジカに何か薬を与えた。てきぱきと手当てを進めるハジメの姿を、アユはただただ尊敬のまなざしで見つめるばかりだった。一度「すごいですね」とつぶやくと「人もポケモンも、守りたいって思うからさ」と控えめな笑顔が返ってきた。それは口先だけではない、確かな知識と技術に裏打ちされた言葉だった。
 ほどなくして応援が到着し、アユは無事に病院へと運ばれた。





* *

 病院に飛んできた両親は疲れ果てた表情で、アユはうんと叱られた。ジャムを配りに行っただけなのに一晩中戻らず、連絡もつかない上、台風の一番強い時間帯で探しに行くこともできず、家族にどれほどの心配をかけたかは想像に難くなかったから、アユは素直に謝った。ハジメが事情を説明してくれたのでようやく場は落ち着いたが、お母さんの両目はレディバが止まっているのかと思うほど真っ赤になっていた。
 祖父が見舞いに来たのは両親と入れ替わり、午後のことだった。夜が明けるとすぐにメガニウムたちを連れてアユを探し回っていたらしい。祖父は両親ほど怒ってはおらず、むしろアユの命に別状がなかったことに穏やかな表情さえ浮かべて、昨夜何が起きたのか話をじっくり聞いてくれた。

「そうか、そうか。やっぱりアユは優しい子やな。シキジカ無事で良かったなあ。ようやったで。」

 大きくてごつい手で、アユの頭をわしわしっとなでてくれた。
 せやけどな、と祖父の顔がふっと険しくなる。

「シキジカがシゲさんとこの罠にかかるんちゃうかって心配して追いかけたって言うたけどな、その必要はなかったで、アユ。」
「え……どうして?」
「わしのオドシシ罠はくくり罠や。アユにも見せたことあるやろ。ワイヤーがぎゅっと締まってオドシシの脚を捕まえるやつ、あれはな、途中で締まりが止まるようになっとぉよ。小さいポケモンとかを間違って捕まえへんようにな。シキジカやったらたぶん抜けるやろ。せやから罠のことは大丈夫やから、とりあえず昨日はほっといてじいちゃんらに相談してから、今日みんなで探して保護したるんが、一番良かったと思うわ。」

 ショックだった。良かれと思ったアユの判断は、決して最善手ではなかった。不十分な知識をもって一人で焦って、軽率な行動で自身もシキジカも危険に巻きこんだ挙句、その状況を打破するための知識も技術も持ち合わせていなかった。木のうろの中で感じた無力さと悔しさが、再び鋭いナイフとなってアユの心に突き刺さった。人とポケモンの役に立ちたいと、思うだけではどうにもならないのだ。
 アユの後悔はその表情ですぐに祖父に伝わったのだろう。「まあわしもアユにちゃんと教えとかなあかんかったな。すまんかったな」と謝る祖父に、アユは首を振った。
 心の傷は手首の骨折とは違って医者には治せない。アユはこのナイフを自らの手で抜いて、二度と刺さらぬようにしなければならない。もしも本当に人とポケモンの役に立ちたいと思うのならば。
 アユはこの時、一つ、強く決意した。


「私、ポケモンレンジャーを目指そうと思う。」

 その決意について家族に伝えたのは、退院後、家族全員がそろった夕食時のことだった。
 父も母も祖父も、その言葉を聞いた直後は目をまん丸くし、ネイティオよろしくじっとアユを見つめ動かなかった。最初に口を開いたのは祖父で、気まずそうにくしゃくしゃと眉をひそめた後、ずいぶんもったいをつけて、そうかとつぶやいた。

「うん、あんな状況から助けてもろたんや、アユの気持ちも分からへんことはないが。しかしそういう理由は後でしんどい思いするかもしれへんで。ポケモンレンジャー以外にも、かっこええ男の子はようけおるやろ。」

 祖父の言わんとしていることを理解するまで三秒かかった。アユに恋心が芽生えたと勘違いしているのだ。アユは慌てて首を振って「違う違う。ハジメさんは関係ないってば」と否定した。
 それからアユは今まで内に秘めていた思い、人とポケモンの役に立ちたくて一生懸命勉強していたけど、ずっとどこに向かっているか分かっていなかったことを打ち明けた。

「私ね、なんとなく勉強していれば何にでもなれるような気がしてた。可能性をいっぱい持ってるのが居心地良くて、そこから抜け出すのが怖かった。だけどそれで結局何にもなれなかったの。人とポケモンの役に立ちたいって気持ち、何一つ形にできなかった。だからそんな中途半端、もうやめる。私はたくさんの知識を得たい、技術を学びたい。困っている誰かを助けるために、人とポケモンの役に立つために。そのためにポケモンレンジャーになりたい。」

 将来のことについて、そんなふうにアユがはっきりと自分の意思を言葉にするのは初めてだった。最初はとんでもないという反応をしていた家族も、しだいにアユの本気を理解してくれたらしい。ついにはアユの夢を応援することを約束してくれた。



 アユがハジメにかけた電話は、数回のコールでつながった。やあアユさん右手の具合はどう? 元気でやってる? と変わりなさそうなハジメの声が聞こえる。

「ちょうど良かった。オレからもアユさんに連絡しようと思っていたんだ。」
「え、そうなんですか。」
「ああ。密輸されたポケモンたちだけど、すべて保護できたよ。この間のシキジカと、あともう一匹ムンナっていうポケモンがいてね、これが最後のポケモンだったんだ。」

 ムンナ、とアユが声に出す前にハジメが「アユさんのおかげだ、本当にありがとう」と続けたので、結局アユがムンナについて話すタイミングはなくなってしまった。

「これで今回のオレのミッションはクリア。明日ジョウトを発つから、アユさんにも一言お礼を言っておきたかったんだ。」
「いえこちらこそ、ありがとうございました。」

 少しの間。それじゃあ、とハジメが会話を切りあげるよりも先に、アユは「あの」と口にしていた。
 続きを言うのはまだ少し怖かった。本当にいいのその道を進んでしまうのと、いまだに夢見がちで臆病な思いが底のほうにちょっぴりだけ沈んでいた。けれどもアユは、ムンナの前で輝く種に手を伸ばした時の気持ちを思い出す。夢を形にするために。アユだけの物語を歩むために。

「ハジメさん。実は相談したいことがあるんですけど……」

 勇気を出してつかんだアユの可能性が小さな発芽を迎えるのに、それほど時間はかからなかった。