under the false mask

じつざいのじんぶつ、だんたいとはかんけいありません
「波音」「マスク」「神経衰弱」
この作品はR-15指定です
 ――今月初めより行方不明となっている女子高校生二人について、捜査は依然難航しており、現在に至るまで――

   #   

「あーーーーーーーーっ!!」

 昼休みも終わった五時間目。ひとがうつらうつら午睡うたたねを楽しんでいた最中に、寝ているカビゴンも耳を塞ぎそうな大声がクラス中に響き渡る。その声になんだなんだと振り返るヤツも多けど、それよりもまたかと溜息をつく人の方がよっぽど多い。私はというとその両方で、またかと溜息をついた後、そのまま後ろを振り返った。
 視線が集まるのは学校指定の制服に着られているような小柄なクラスメイト。そしてその大声の主はおろおろという擬音語が正しい半泣きの顔で、どうしたんだと近づいてきた先生を見上げてこう続ける。
「せんせぇ……ちかのうでね、ちかのうで、とけちゃったの……」
 舌足らずの言葉で、正しく人間であれば童顔と言えるだろうその可愛い顔を潤ませる彼女の言う通り、その右腕はすっかり綺麗に、元からそこになかったかのように削げ落ちている。そして、代わりに床には紫色のスライム状の液体がぶるぶると波音を立てて震えていた。
 えぐえぐとぐずる少女の姿をしたそれに、もう一度溜息ひとつ。
 ――私、眠いんだけど。

 こんな奇妙な光景を当然のように許容できるようになったのはいつからだったっけ。窓越しに初夏の晴天を眺めながら、私は息を吐いた。

   #

 ――今月初めに二人の女子高生が行方不明になった事件について、新たに一人、行方不明になっていることが――

   #

 ロボットはどこまで人間に近づけるか。クローン人間を生み出すのは神の所業か。人工培養の命は偽物か。禁忌だというのであれば、倫理的でないというのならば、それはなぜか。小学生の道徳の授業のようなその問題は、けれど高名な学者も政治家も誰も答えられない。どこにも解決策も解法もない。ただ、山積みになったままだ。
 そしてその問題を置き去りのまま、四月、うちのクラスに『千可』は来た。
 『千可』と書いて『ちか』。
 天パのショートヘアーは童顔をより引き立てていて、ぱっちりとした大きな目は人懐っこくて、小学生に見間違えるほど小柄で、舌足らずに自己紹介するちかは小さな愛玩ポケモンを思わせた。……自己紹介の最中、その両足が融けるまでは。
 べしゃっという軽い音がして、ちかの姿が視界から消えて。クラスの全員がその様子に悲鳴を上げた。うん、今思い出してもあれは見事なスプラッターだった。グロテスクでも間違っていない。いや、血飛沫は上がってないけど。
 結論から言うと、ちかはポケモンだ。担任やちかの『保護者おや』からの説明によればメタモンの集合体。『へんしん』でただ単に人間の姿かたちを真似させるだけでは飽き足らず、人間の器官のうち比較的大きな器官ごとに『へんしん』させて、それぞれの役割を担わせている……らしい。それはマンタインとテッポウオ、ヨワシの群れの姿のような『共生』とは違う。どちらかと言うとレアコイルやメタング、メタグロスのような、そういう群を個として扱う方の意味での『集合体』だ。“ちかの人格”はいわゆる『脳』とか統率役にあたる部分のメタモンによるもので、実際にそのメタモン――『ちか』が人間の脳と同等の役割を担っているわけではないけど、『身体中』に指示を送っているのは間違いなくちかによるもの。右足を、左手を。胃を、肺を心臓を胴体を声帯を小腸を。本来人間の身体を走っているはずの神経はちかになく、代わりに生体であるメタモンが各々の部位に自分達の神経と言語を使って伝える。血液の代わりにメタモン達が自分達で栄養を分け合い、筋肉の代わりに手足役メタモンが身体を支える。酸素を鼻や口から取り込む必要は本来なく、各々が呼吸をしている。
 『ポケモンは人間に成れるのか』。……それは、ともすれば神様を愚弄する行為だとか、非人間的だとか、禁忌の領域だとか、そう言うクローン人間の良し悪しと同じ類の研究だろう。“触れてはいけないこと”の最たるものだろう。だって、ちかは人間じゃない。ポケモンだ。人間の形をできるだけ正確に模倣しただけのポケモンだ。
 けど、
「ちかね、ちか。きょーは、ひとりでがっこ、これたんだあ……の!……うん? の? へん?」
 えへんと胸を張り、『声帯』を使って言葉を操り、人懐っこく笑う、人間の姿をしたちかは。
 すごい! と声が上がる。ちかえらい! と皆が褒めてちかの頭を撫でる。誰もちかを『捕獲』しようなんて考えていない。誰もちかを『人間じゃないもの』としてなんて見ていない。ちかはこのクラスで、確かに皆と同じ人間だった。

   #

 ――先月初めより断続的に女子高校生が行方不明となっている事件について、警察は同一犯の犯行もしくは同一の野生ポケモンによるものとみて捜査を続けて――

   #

 世の中、物騒なニュースばかりだ。
 先月だったか今月だったか、この近くで女子高生の行方不明が相次いでいる関係で、ついにうちの学校でも部活が短時間で切り上げになった。これから試合だのコンクールだのがあるだろうにと思わなくもないけど、まあでも私には関係ないし。
 そんなことを思いながら放課後、私たち以外誰もいない教室で私はカードを切る。トランプなんかのアナログゲーも当然持ち込み禁止だけど、それでもこっくりさんをやり出すよりはよっぽど健全な方だと思う。家に帰ってもすることはないし、帰宅時は出来る限り寄り道せずに帰宅するようにと通達が下っている。ご丁寧に通学路の見回りまで先生方がなさってくださっているので、それならば寧ろ学校でぎりぎりまで遊んでやろうということになり、さっきから大富豪だのウスノロだので盛り上がっていた。
「あれー?」
 突然の第三者の声は、それが咎める誰かせんせいでないとわかっていてもびくりとする。私はトランプを取り落とし、よっちんは肩を飛び上がらせ、柴野は広げていたお菓子類を隠すように手を広げた。
「みんな、なにしてる? る?」
「……ちか?」
 正体見たり、なんだったっけ。とりあえず、相手がちかだとわかった私たちは安堵の息を吐いて、体勢を戻す。なんだちかかーと脱力し椅子にもたれるよっちんに、この時間まで何してたの、とちかに聞く柴野。私はばら撒いてしまったトランプを拾い集めて、もう一度シャッフル。てとてとと私たちに寄ってきたちかは不思議そうな目でトランプを見ている。
「ちかね、ぽのへやでみっちゃん……あしつけてたの!……ね、ね。それ、なに?」
 ぽのへや。つまり保健室だ。ちかは足が取れたり腕が取れたり――ちなみに『みっちゃん』は右足のメタモンらしい――内臓がどっか行ったりということを良く起こす。その部位のメタモンの機嫌次第らしいが、素直にメタモンが元の役割に戻ってくれないのならば保健室に行くことになっている。どうせちかがまともに参加できる授業は体育くらいだ。他は高校生レベルには到底達していない。なら小学校に行けばよかったのにと思わなくもなかったし、実際その疑問も出たけど、小学生に混じってだとちかが面白半分に傷つけられたり、逆上して攻撃をするとマズいなんてことなんかが問題だったらしい。ある程度分別がついて、なおかつちかを研究材料としての目で見ないのは中高生辺りが最適だったとのこと。本当かどうかは知らない。
「え、ちか、トランプ知らない?」
 柴野がちかのために空いてる席から椅子を引きながら、そう尋ねる。ちかは用意された椅子にちょこっと座ってこくこくと頷いた。元々ぱっちりしているちかの目は見開かれているせいでさらに大きく見える。瞬きもしないでトランプを見つめるちかに私はトランプを机に置いた。
「トランプってこのカード全部のこと。絵柄がこうやって色々描いてるでしょ。一から十三までの数が振ってあって、それが四種類ずつあるわけ。……何枚あるかちか、わかる?」
「う? ……えーっとね。ちかね、たしだんできるよ! えーっとね、えっとね。じゅーなな!」
 単純に足しちゃったかー、とよっちんと柴野が笑う。私はちかに掛け算を教えるか悩んで、まあいっかと諦めた。どうせそのうち先生が教えるだろうし。それより『トランプとは何か』の話の続きだ。けれど、私が何か言う前によっちんがちかの頭を撫でながら言った。
「ちかもトランプどうよ? する? あ、でも大富豪はルールムズいし、ウスノロもダルいっしょー。……あっ、ババ抜き辺りなら参加できるんじゃね?」
「なら神経衰弱が良いんじゃない? 数合わせるだけだし」
「なる。柴野さんさっすがー!」
 よっちんが盛り上がるのを横目に私は神経衰弱ねとトランプを机の上に広げる。ただ、そういえば予想していた反応が来ない。トランプを広げながら目線を上げるとちかのふわふわの髪がひょこひょこ揺れていた。
「とらんぷ……する? ……する?」
 首を右へ左へ傾けるちかに、私たちも反応に困る。ちかはこういうことはやりたがると思ったのに。降りる沈黙。そして、私たちの中で一番反応が早かったのは柴野だった。
「あー! あー、ごめんごめん。ちか、『トランプを使って一緒に遊びませんか』だよ」
「…………する! ちか、とらんぷする!」
 わっとちかの顔に満面の笑みが咲く。椅子から立ち上がり、机に手を付いてぴょんぴょん跳ねるさまはまさにミミロルとかそういうポケモンをイメージさせる。……いやメタモンなんだけど。
 そしてその時点で私にもちかが何を悩んでいたのかわかった。それはそうだろう。だってちかはトランプが遊び道具だって知らなかったのだから。まだトランプがカードであることの説明しかしていないのに『する?』と聞かれても何をするのか全く分からなかったに違いない。適当にカードを散らして、私はゴホンと咳払い。できるかぎり主語と目的語と述語を使ってちかに遊び方を説明する。
「じゃあ、今からトランプを使って遊びます。神経衰弱をします。神経衰弱とはトランプを使って遊べるゲームの一つです」
「しんけ……しんじゃくじゃく?」
「神経衰弱」
「しんじゃくじゃく」
「神経」
「しんけえ」
「衰弱」
「すいやく」
「じゃく」
「じゃく」
「神経衰弱」
「しんけいじゃくじゃく」
 なんでだ。崩れ落ちる私に、柴野とよっちんが手を叩いて笑う。神経衰弱の発音を教えることを諦めた私はまあいっかと続けてルールの説明をする。置かれたトランプの中から二枚選んで同じ数の数字で合わせることが出来れば手札に取れること、同じ数字にならなかったらトランプは元の位置に戻すこと、机の上に広げてあるトランプが全部なくなったらお仕舞いで、その時手札を一番多く持っていた人が勝ちであること。ローカルルールは今回はなしだ。私の説明にちかは真剣な顔で頷いて、ギュッと手を握りしめる。おそるおそるちかの右手がトランプを選んでめくる。ダイヤの三。固唾を呑んでちかがトランプを選ぶのを眺める私たち。柴野が「二枚目引いていいよ。それでちかが三のカード引けたら今のダイヤの三ともう一枚の三はちかの手札」と再度ルールを説明する。ぶんぶんと大きく首を縦に振ってちかは二枚目を選んだ。……ハートの六。はずれだ。がくりと肩を落とすちかが、カードの裏表を戻す。まあ、一巡目の一番から揃ったらそれはちょっとちかの目にはカードの表が透けて見えるんじゃないかって考えなきゃならなくなるし。ちかから時計回りに柴野、私、よっちんがトランプをめくる。プラスチック製のトランプがめくるたびに独特の音がして、ちかがルールを間違えたり理解していなかったりするたびに三人で指摘する。ちかの飲み込みは意外に早くて、ゲームの最後の方になればほぼルールを理解できていた。自分の手札を嬉しそうに握りしめながらちかは、
「あのね、あのね、もういっかい。もっかいしよ? しんけえじゃくたのしいね。おんなじものえらべたら、もらえるの」
 えへへと照れたように笑うのだった。

   #

 ――女子高校生連続行方不明事件について、被害者はすでに五人に上っており、行方不明になった女子高校生たちに何らかの共通点、もしくは何らかの繋がりはなかったか、SNSなども含めて調査がなされていますが――

   #

「ドッペルゲンガーに会ったんだって」
 近隣の女子高生が断続的に行方不明になっていることで、いよいよそんなオカルト染みた噂が立ち始めた。曰く、彼女たちは自分のそっくりさんに出会ってしまってそれで消えてしまったのだ、というもの。うん、めちゃくちゃ馬鹿馬鹿しいんだけどあまりにも何も出てこないのがそういう噂を立たせた原因だろう。テレビのニュースで見る限りマルノームとかベトベトンとか、そういうポケモンに丸呑みされたかのような消え方なのだ。ポケモンの線も調査されてるっぽいけど、『丸呑み』ができるようなポケモンは意外に数が少ない。噛み砕いて引き千切ってなら必ずどこかに痕跡が残るはずだとのことだ。おかげでこの歳になって出来る限り集団下校をするようにとまで通達された。まじか。なんなら親が近くまで送り迎えに来るのもアリになった。まじか。まあでも確かに、行方不明になった女子高生も、私たちも、ポケモントレーナーじゃない。ある程度趣味でやっててってタイプも勿論いてそういう子たちは自分のポケモンをボディガードにできるんだろうけど、そうじゃない子もかなりの数いる。かくいう私も後者で、あんまりポケモン自体に興味がない。で、どうも行方不明の子らもこっち側のタイプらしい。
「知ってる? このガッコでも一人出たんだって、行方不明」
「マジ? そんなこと一言も聞いてないけど」
「まだ数日だから? どっか行ってるだけかもーって」
 グループの中で騒がれる噂話を話半分に聞き流す。この調子じゃ、風邪をひいて休んだだけでも事件の被害者にされそうだ……、と。
「ちか? どうかした?」
 いつも良く喋るちかが大人しい。むむーと難しい顔で唸りながら下腹を撫でていたちかは、私の声に困ったように口をへの字に曲げる。
「いっちゃんがね、いっちゃん。あのね、ちかのいね、今日いないの……」
 またアレか。皆があー、と納得する中、お腹をさするちかに私は一つだけ指摘する。
「ちか、そこ、胃の場所じゃない」

   #

 ――六人が行方不明になっている事件について、本日は携帯獣の専門家に意見を――

   #

 本当に。本当に、私たちの学校に一番近い学校で行方不明の生徒が出ようがなんだろうが、私にとって無関係だと言えば無関係なのだ。だって事件に巻き込まれたのは私じゃない。私の家族でも私の知り合いでもない。自分の身近で起こらなければ、それはいつまでも『テレビの中の出来事』だ。そんなのきっと私だけじゃない。誰でもそうに違いない。だって、授業は相変わらず行われるし、小テストだってあるし、ちかの腕は今日もどっかに行ってるし。
 放課後、トランプをするメンバーを募る。今日は駄目だと帰る子、諸手を上げて参加する子、お菓子持ってきたと広げだす子。各々がどうするか答える中、ちかはじっとこちらを見ていた。
「ちか、トランプする? 前やった神経衰弱とか」
 トランプをちらつかせてそう言う私に、ちかはぶんぶんと首を横に振った。
「ううん。ちか、かえるの。……ちかもね、しんけえしんじゃくするんだよ!」
 だからかえるの! にまっと笑うちかにそっか、じゃあまた明日ねと皆で手を振る。ちかも手を振って、教室から出て行った。

   #

 ――行方不明になっていた六人のうち三人の女子高校生について、昨日彼女たちのものとみられる所持品の一部が発見され、大型のポケモンに襲われたものであると――

   #

 ポケモンがこういう事件を起こすと大体、テレビは『ポケモンと人間の共生について』なんてテーマを語り始める。今回もやっぱりそのパターンで、テレビの中のコメンテーターやら批評家やらはポケモンと人間の住み分けやら相互理解やらを懇々と述べていた。共生やらなんやらと言われても、なんだか大げさすぎて笑ってしまう。だって、なんたってクラスにちかが居るのだ。人間の姿かたちをしたポケモン。人間にどれだけ近づけるかを目指したメタモン。『へんしん』で人間の皮を被ったポケモン。それはきっとどこまで行ってもごまかしだ。嘘で覆われ、ポケモンであることを隠されているだけだ。でも、それでもちかは私たちのクラスメイトで、間違いなく皆と同じ、
「……ちか……?」
 放課後、恒例のトランプ大会が終わって帰ろうとしていたところだった。
 通りかかった女子トイレで水音がした。水が流れてぶつかっているような音。蛇口でも閉め忘れたのかと覗いたのがそもそもの間違いで。紫色の液体が、トイレの床に水たまりを作っていた。
 紫色のどろりとしたそれは時折細波立ち、ざばざばと波音のような音を微かに立てる。そして、その中心地で、
「ち、か……?」
 ちかが、誰かの首を絞めていた。
「う? ……あー! えへっ」
 学校指定の制服を着た、長い黒髪の生徒。後ろを向いていてこちらからは顔が見えないけど、小柄なちかがなんと彼女を両手で持ちあげている。地に足がついていないその誰かは足をバタつかせ、地面を探していた。
「ち、ちか? ちか、何やって!?」
「うん! しんけーじゃくすい!」
 手を離さないまま、誰かを宙に捕まえたまま、ちかは満面の笑みでこちらに言う。ぽたぽたと今も床に付かない足から紫色の液体が垂れる。何がと言いかけて、そのまま思考が纏まらない私に、ちかは相変わらず笑顔のままだ。
「あのね、あのね、ちかね。しんじゃくじゃく? うーん? しんけーすーじゃくしてるの!」
「しんけ……」
 神経衰弱。トランプを表返していたちかを思い出す。でもこれが神経衰弱のわけがない。
「な、何言ってんの!? ちか、首なんて閉めたら死……」
 ぐきゅっ。首の骨が折れたにしてはもっとずっと軽い音がして、バタついていた足がぶらりと力を失う。
「あ」
 その誰かが抵抗するのを止めたのを見て、ちかはようやく手を離した。その動作はあまりに自然で、無造作で。べちゃり、と紫色の液体の上に落ちる誰か。私はただ、茫然とそれを眺めているだけだった。
「うー? ん。よーし?」
「ち、か……」
 床に伏した誰かをちかは何でもないように見下ろす。紫色の液体に落ちた長い黒髪が揺蕩う。けど、次の瞬間には水に揺らぐ髪の毛はおろか人間の姿がそこにない。ぶるり、と私の声に知らない誰かが融けた水たまりが震えた。ずるずると、水たまりが動いて一つの形を作る。こちらを向いた顔と、目が合う。それは、私の。
 ――ドッペルゲンガーに会ったんだって。
「もん!」
 可愛らしい鳴き声が、私の声じゃない声で吐き出された。
「…………え」
 ガバリと。『私』の口が開く。それは本来の顎の可動域なんかをまったく無視した開き方で、口の中は紫色に染まって……あ。逃げ、
「だあーぁめーっ!」
 なきゃ。
 そこまで考えれたところで紫に染まった視界が急に開けた。『私』は『私』の姿のまま廊下側に吹き飛ばされ、べちゃっとスライムが壁に叩き付けられるような音を立てて床に倒れ込む。
「すーくん。にげちゃだめって、ちか、ゆった!」
 ふんす、と腰に手を置き『私』に向かって叱るちかが、あまりに普通で。私はもう自分が何をされようとしていたのか、何を考えていたのかわからなかった。ちかの視線を追って、ちかに蹴り飛ばされた『私』を見る。半分融けた、笑っているようなメタモンの目と口が張り付いた『私』の顔は下手なホラー映画よりもよっぽど恐ろしい。けど、それはちかの姿を見て、ぶるぶると震えて崩れて行った。
「だいじょぶ? だいじょーぶ? えへへ、あぶなかったねえ。すーくんに、“たべられちゃう”ところだったよ!」
 『へんしん』が解けて動かなくなったメタモンをちかは腕に抱きかかえる。教室で皆に向けるのと何も変わらない笑顔。だいじょうぶ、と心配する声も、何もかもいつものちかだ。
 それでも私は、何が起こったのかわからない。
「……っち、ちか!」
「ん? なーに?」
「食べられちゃうって……?」
 メタモンを抱きかかえたまま、ちかは屈託なく笑う。私は何を聞けばいいのかわからないまま、思いついた言葉を吐き出した。
「ん? ちか、へんなことゆった? ごはんになっちゃうことだよ? ばくーって! すーくん、たべちゃうんだよ。たべたらね、なにものこらないの。じゅわわってみーんななくなっちゃうの」
 だからあぶなかったねってゆったの、と。不思議そうにそう続けるちかの言葉を、私は飲みこむことが出来ない。だって、そんなの。まるで……
「この辺の、行方不明の……」
 ドッペルゲンガーの噂話の。上擦った声が、何とか漏れる。それにちかはうん! と大きく頷いた。にこにこと、笑ったままで。
「うん、あれね、あれ、みんなだよ。だからね、ちか、しんじゃくじゃくしてたの! ちかね、ちかが、めたもんでしょ。で、みんなもめたもんでしょ。ね、ね、しんすいけいじゃくじゃく!」
「な、んで……」
 頭の中で、警報が鳴り続ける。大きな目をぱちぱちと瞬きするちかに。人懐っこく笑う何かに。皆と同じクラスメイトのはずの『千可』はもうすでに、制服を着ただけの良くわからない怪物になっていた。
「なんで? なんで? なにがわからない? の? の? ううーん、うーん。あのね、あのね、ちかね、ちか、めたもんでしょ。すーくんね、すーくんもみっちゃんも、いっくんも、ちかのみんなね、ちかとなかよしじゃないの。めたもんってみんななかよしじゃないの。ちかのみんな、ちかになりたいの。うでじゃなくて、あしじゃなくて、こえじゃなくて、ほんとうはみんなちかになりたいの。だから、にげちゃう」
 ちかの腕じゃなくて、足じゃなくて、『ちか』になりたい。『ちか』を構成する『何か』ではなく、『ちか』になりたい。だから、
 うんうん唸りながらちかはたどたどしい舌足らずな言葉をなお続ける。
「みんなね、ちかのみんな、くらすのみんなとなかよしになりたいの。でもちかしかなかよしできないの。だってみんなはあしで、うでで、こえで、なかみだから。だからいやだーってにげちゃうの。にげて、ちかになろうとするの」
 ――人間に化けるために、成り代わるために、挿げ替わるために、その人間を食べた。
 跡形もなく。
 でも、腕や足や内臓が勝手に人を食うなんて話はない。ちかがメタモンの集合体だというのなら、その責任はちかにもあるはずだ。制服に着せられているような小さな体躯のちか。こちらを見上げて、小首を傾げるちか。その様子があまりにいつもと同じで、何も変わらなくて。
「でもそれ、ちかがやったことに」
「う? なんで?」
 ぱちり、ぱちり。大きな目が見開かれて、不思議そうに瞬く。え、と漏れる声は私のもの。
「ちか、だってなにもわるいことしてないよ? あ、でもね。すーくんはだめ。まえのみーちゃんも、まえのせっちゃんもみんなだめだったの。みんなはわるいことしたから、もういないの」
 それって、どういう。言いかけた私に、ちかは気絶したメタモンを抱きしめたまま、あっと声を上げる。
「ちか、かえらなきゃだめだった! またあしたね!」
 メタモンを小脇に抱え、ぶんぶんと空いた手を振るちかはあっという間に廊下の向こうに消えていく。その様子があまりにもいつもと同じで、毎日見ているちかと同じで。だから私は。
 ぐらり、ぐらんと。世界が歪んだ気がした。

   #

 ――六人の命を奪った野生の携帯獣について、本日殺処分の――
 ――なお、当ポケモンの種族名については当該ポケモンへの過剰な反感、攻撃を防ぐため伏せさせていただきます。

   #

「うん、すーくん。まえのすーくん? まえのすーくんね、わるいことしたの。そんなの、にんげんじゃない。ちかじゃない」
 今日の朝、見たニュースの中身を私はちかに伝える。ちかはそれに動じる様子もなくきょとっとした目でその通りだと頷く。すーくんは取り替えられたのだと。ひとをころしたわるいすーくんは、もう『ちか』じゃないのだと。
「だからあんしんして!」
 ロボットはどこまで人間に近づけるか。クローン人間を生み出すのは神の所業か。人工培養の命は偽物か。
 ポケモンは人間に成れるのか。
 解法なんてない。答えなんてない。
 人間の顔の、偽物マスク。人間の姿の、フリマスク。紫色の、身体を覆うものマスク
 だって誰も答えられない、こんなことしちゃ駄目だって。
 でも、だって、ちかは、
「ちか、わるいことなんてしてないよ!」
 ちかの腕が、足が、お腹のあたりが、陽炎のように揺らいで。

 えへっ、と無邪気に笑った。