楽園の輪舞曲

クロネコヤマトのタンゴ
イラスト
編集済み
この作品はR-15指定です




 朝露に濡れる黄金の果実が、柔らかい朝の陽射しできらきらと輝く。新緑の草原の海を駆け抜ける風は涼やか。小振りの雨が降った後の蒼天には、七色の光のアーチが架かる。絵に描いたような美しい風景は、自然の豊かさを如実に表していた。
 大きな樹木に背を預けながら、木陰で座りこんでいる少年の姿がそこにはあった。“忍者”ごっこのような身なりをした少年は、朝早くから楽園に足を運んでいて、その傍らに同じ姿勢でリオルが座っている。
「ミーくん、こんなところで何をしているの?」
 静けさが支配する中に、新たな訪問者。栗色の長髪をした少女が、その髪を揺らしながら後ろからひょこっと顔を出してきた。一度は目を配らせる少年であったが、一瞥いちべつだけしてすぐに素っ気なく戻す。
「別に、なんでも」
「なんでもって事はないでしょ? ほら、ミーくんってば守護者に選ばれたばっかだから。先代の事もあったし、不安なのかなって」
「時期が早まっただけだ。先代がどうだろうと気にしないし、元々私はそうなる定めだった」
 森の中心の大樹には、瑞々しい黄金の果実が生っている。その実はオボンの実とは似て非なるものらしく、不思議な力が宿っており、口にした者は力を得られると信じられていた。果実を狙う輩も後を絶たず、楽園を守るのが守護者と呼ばれる存在である。
 すっくと立ち上がった少年は、首を捻って再度視線だけ少女の方に寄越す。突然の先代の死を惜しむ者、いぶかしむ者、集落の者の受け止め方も三者三様であったが、少年は興味がないという立場であった。宿命なのだと思えば、特に感情も湧いてくる事もない。ただ、誇らしげな父や少女のお陰で、喜ばしい事として実感出来なくもなかった。今はそれ以上に、少年には気にかかる事がある。
「その、ミーくんってのは止めてくれないかな。私は猫じゃないんだ」
「昔からそう呼んでたんだから、良いじゃないのよ! ミーくん、最近は私の事、昔みたいに呼んでくれなくなったの寂しいんだからね。それに、ミーくんって猫みたいだし、可愛い顔してるからあながち間違いじゃないと思うな」
 半分からかうようにくすくすと笑う少女に、少年は初めて生き生きした感情の篭った――堅苦しくない、年相応の素の表情を向ける。決して明るい表情ではなく、不服そうにむくれる顔ではあるのだが。
「“ボク”にはミズキってちゃんとした名前があるんだ! それに守護者たるもの、いつだって沈着冷静にいなければ務まらない」
「ムキになって反発してる辺り、とても沈着冷静には程遠いんじゃないかな」
「お前はそうやってボク――じゃない、私の揚げ足ばっかり取って!」
 早々に我慢の限界を迎えたミズキは、少女の頬を摘まんでつねってみせる。痛くない程度に、しかし喋れなくなるくらいまで引っ張ったところで、満足してその手を緩めた。
「あはは。いつものミーくんに戻ったみたいで良かった。ミーくん、最近思い詰めてたような顔をしてたから」
「別に思い詰めていたわけではない。ただ、いかにして責務をこなしていこうかと考えていただけ」
「ミーくん、真面目よねー。守護者が嫌なら、逃げ出しちゃえば良いのに」
「ナズナが楽観的過ぎるんじゃないか? 私はこれが自分に与えられたものなら、ちゃんと向き合って成果を出したい。そのために育てられたようなものだから」
「そう? 私だったら逃げちゃうなーって思っただけ。本当、あれだけ泣き虫だったミーくんがよく変わったよ。だけど、君のご主人は堅物だね」
 柔和な笑みを湛える少女――ナズナは静かにその場に屈んで、二人のやり取りを見つめていたリオルの頭を撫でた。首を傾げていたリオルも、絶妙な撫で心地にうっとりしたような顔になる。正直に感情を表に出すポケモンとは対照的に、腕組みをして立っている少年の方は、相変わらずの仏頂面に逆戻りしていた。
「堅物ではないし、私は主人じゃない。ただの同志、みたいなものだから」
「私から見たら、主人に見えるんだけどな。そういうものなの」
「そういうものだ」
 ナズナも納得がいかない様子であったが、必要以上に食いつくつもりはなかった。もう一雨来るかもしれないからと、ナズナは思い出したように持参していた傘を渡す。今度こそ用が済んだナズナは、一人と一匹に別れを告げて集落の方へと戻っていった。
 ミズキが楽園の方に足を運んでいたのには、気晴らし以外にも理由はある。それが見張りという役目であり、楽園の果実を狙う不届き者がいないか探るのも立派な任務の一つである。大樹のある付近は開けた草原になっていて、そういう輩は比較的見つけやすく、ミズキは早速怪しい人影を見つけた。

 頭部に灰色のターバンや鉢巻を着け、口元を同色のマスクで覆った集団が現われた。その格好はいかにも盗賊のなりをしていて、全体的に薄手の布で出来た服装を身に纏っている辺りからも、自身の正体を誇示しているかのよう。総勢三人ではあるが、その脇に二匹のポケモンを連れている。
「相手は複数。ポケモンを携えてはいるが、武器らしいものはない。大方ポケモン頼みなのだろう」
 木陰から索敵を終えたミズキに、物怖じしている素振りは一切ない。ただ忠実に任務をこなすのみ。突風が吹き抜けたのを合図に、周囲を警戒しながら歩み来る集団の前に躍り出る。
「お前達、何者だ。この楽園は、集落以外の者は立ち入り禁止とされている。それ以上歩みを進めれば、侵入者と見なし、排除せざるを得ない。早々に立ち去れ」
「何だ、守護者の一人でもいるかと思って来てみれば、ただのガキとリオル一匹じゃねえか。構う事はねえ、やっちまえ!」
 嘲るような命令と共に、盗賊風の男は自身のポケモンを送り出す。ミズキの背丈の半分くらい。小さな格闘家のような姿のバルキーは、拳を構えて一直線に走りだす。標的は傍らに立つ、似たような背格好のリオル。細かく指示されずとも、打倒すべき相手を見定めたらしい。
 一歩もその場を動かないリオルの眼前まで辿り着くのは、あっという間だった。バルキーは両手を目の前に突き出し、掌を合わせて叩く。小気味よい音が鳴り、相手が怯んだところへ“たいあたり”を仕掛けようとする、前傾姿勢のバルキーの体が、次の瞬間には宙を舞った。視界が反転するバルキーの腹部に、リオルの鋭い掌底が直撃していたのだ。
 悲鳴を上げながら、バルキーはもんどり打って倒れる。だが、即座に起き上がって打たれた部分を擦りつつ、拳を握り直して向かっていく。まさに猪突猛進。埒が明かないと判断した別の盗賊が、異なるポケモンをリオルに仕向ける。突出した前歯を鳴らしながら、待機していた茶色の鼠は、後を追うように突っ込んでいく。
 直線状に走りくるバルキーと、弧を描くように迫りくるラッタ。速度的にも先行したバルキーに追いつく状況。リオルは俊足で回り込んでバルキーの脇を取り、足払いをかける。迂闊に止まれないその体は、空中に投げ出される事となる。直後、隙だらけの体に入った蹴りでバルキーは吹き飛ばされ、接近していたラッタと正面衝突を果たす。リオルは体勢を戻して一気に近づき、身動きの取れないラッタを掌で打ち、芯まで響く衝撃波を浴びせた。
「ちっ、役立たずが」
「シグレ、奴らを捕まえろ」
 二体共に伸されてしまっても、盗賊に焦りの色は窺えない。人間が三人に対し、登場したポケモンは二体。あと一体潜んでいるのは間違いないが、対峙した時から姿は視界に映らない。もたもたする意味もないと、ミズキから指示を受けたリオルは、倒した二体を捨て置いて盗賊の方へと足を向ける。
「だが、忘れてもらっちゃ困るなあ!」
 盗賊の口元を湛える不敵な笑みと、足元から聞こえる不自然な地鳴り。それが指し示すものは一つ。長らくの沈黙を破り、大地に亀裂が走る。剥き出しになった土の中から、穴を穿った張本人が飛び出してきた。位置はリオルの傍ではなく、ミズキの背後。針鼠のような姿のその名は、サンドパンという。
 いくら反応して振り向こうが、非力な人間など餌食でしかない。その確信の下でけしかけられたサンドパンの、ミズキを狙って突き立てられた爪はしかし、見事に空を切って地面に突き刺さった。呆気に取られる間もなく、サンドパンは獲物である人間に蹴り飛ばされる。
「シグレ、力を借りる」
 構えを取るミズキの手足から、青い水蒸気のようなものが迸る。小さく屈み、サンドパンの元に韋駄天走りで詰め寄っていく。可視の“気”を拳に集結させ、豪快に殴り飛ばした。呻き声を上げて痛がるサンドパンの背後には、仁王立ちのシグレの姿が。
「“はっけい”で締めだ」
 地を揺るがすような衝撃が走る。待ち構えていたリオルの強烈な一撃に、サンドパンは悶絶して気を失った。これで対峙していた三体のポケモンを処理した。残るは手駒を失った人間三人のみ。くるりと振り返ると同時に、ミズキの体から立ち上っていた力も霧散していく。
「何なんだてめえは! 守護者ってのがいるのは聞いてたけどよ、化け物だってのか!」
「紛れもない普通の人間だ。少しだけ力を得た、な」
 守護者に課せられるのは、楽園を守る使命だけではない。楽園を守るための力も同時に大地から付与される。その一つが、友軍のポケモンの力を一部借り受ける事が出来るというもの。今回の場合はリオルのシグレがその対象となる。そしてミズキは殊に、“波動”という力を賦与されており、普段使用するには負荷がかかる代物である。だが、この地の恩恵を受けて行使する場合は、出力も上がって負荷も抑えられ、力を遺憾なく発揮する事が叶う。
「てめえみたいなガキが普通の人間であってたまるか。薄気味悪い」
「最後に言いたい事はそれだけか。悠長に話す暇は与えないが」
 懐から短刀を取り出し、鞘から白銀の刀身をちらつかせる。襲撃者には容赦をするなと再三に渡って教えられてきた。命を奪う事に躊躇いもなければ、慈悲など捨ててきた。そのはずであったのに。刀を引き抜く手が止まった。先に抜けなかった。自らの意志に反して、刀を鞘に戻してしまう。これはあくまで護り刀。護身用に託された、形見である懐剣を、このように使いたいと別の自分が叫んでいる。
 男が安心したのも束の間。その首元に、針のような矢が深々と刺さった。細長い中空の筒を取り出したミズキは、瞬時に息を吹き込んだのだ。ぐったりとして動かなくなった仲間を見て、蒼ざめつつ逃げ出そうとする二人を、シグレが小さな体に見合わぬ力で押さえ込む。その間にもミズキは次弾を装填していき、次々と吹き矢で倒れさせていった。
「無事に終了。呆気ないものだった」
 盗賊三人組が物言わぬ状態になった事は、首の脈を触って確認済みだった。用は済んだと立ち去ろうとするミズキの背中に、シグレが一鳴きする。見上げる赤い瞳には憂いの色が滲み出ているが、当の本人は一瞥だけして深く構う事はなかった。

 淡々とした足取りで待機場所の見張り用の小屋へと向かう最中、思い出したように懐をまさぐる。忍ばせておいたのは短刀だけではない。ミズキが今度掴んだのは、白い花の飾りがついたかんざしであった。手を開いて確認して、もう一度大事そうに懐にしまう。無表情を貫いていた少年に、一縷いちるの光が戻った瞬間でもある。

 小屋は木製で、暴風で吹き飛びそうなくらい古びている。中には最低限の寝具と食料、救護用の道具がいくつか置いてあるだけで、見張りのために一時身を休めるような場所である。
 次の襲撃があるまでは留まろうと扉を潜った先に、先刻別れたばかりの少女がいた。見間違いかと目を擦ってみるが、可憐な少女は自分に向かって微笑んできていた。溜め息を吐いてきびすを返そうとしたところで、背中に追いついた少女の手に肩を掴まれる。
「待って! 何も出ていく事ないじゃないの!」
「何でナズナがここにいるんだよ。守護者の見張り小屋なのに」
「知ってているんじゃないのよ。ミーくんが怪我をしてたら手当てしなきゃって思って」
 今のミズキの風貌を見る限り、傷どころか汚れの一つすら付いていない。ミズキはさも得意げに鼻を鳴らすが、ナズナはめげずに詰め寄る。
「ほら、私はミーくんよりお姉さんなんだから、弟分の事が心配になってさ。だから、その、追い出したりしないでね?」
「そんな事しないよ。ちょっと、びっくりしただけだから」
 堂々としていれば良いものを、おずおずとしてしまう。ナズナの振る舞いに心が和んでか、ミズキも自然と顔が綻んでいた。さっきまで張り詰めていた神経も解けて、自然体でいられた。ナズナの方にその自覚はなくとも、ミズキとしてはそれだけで十二分に嬉しかった。
 一時の休息。流れる平和な時間は、そう長く続く事を許してくれなかった。突如として爆音が鳴り響いたのだ。その出どころは楽園の中心部の方。即座に気持ちを切り替えたミズキは、鋭い目つきで扉の方に視線を遣る。
「ナズナ、絶対に小屋から出るな。何があっても」
 相手の返事を待たずして、立ち上がったミズキとシグレは飛び出していく。疾風の勢いで去ってしまった二人の背中を、ナズナはただ目で追うしか出来なかった。その面影を瞼の裏に強く残しつつ、無事な帰還を祈って一人両手を組むのであった。


 肌を撫ぜる心地よい風に、鼻を突く異臭が混じる。風に靡く灰色の煙は、蛇のように虚空を流れて彷徨っていた。立ち昇る煙を辿ってみれば、行き着いた先には四つの影。二つは人間のもので、残る二つは従えるポケモンのものであった。
 人間の装束にミズキは見覚えがある。近隣の村民の、武装時の姿であった。一人は恰幅の良い中年の男性で、もう一人はミズキと背格好の似た少年である。その傍らにいるのは、真っ赤な外殻に鋏のような両手をしたハッサムと、頭部や腹部、両腕に至るまで刃のあるキリキザンだった。
「来たな。という事は、お前が当代の守護者というわけか」
「煙と爆音は、私を呼び出すためにわざと起こしたのか。よほど自信があると見える」
「そうとも。正々堂々と戦って力を得るつもりで来たのだからな」
 互いに見合ったまま、一歩も動かない。口を開くのは中年の方ばかりで、少年は伏し目がちで一言も発する様子はない。猛々しい隣の男とは天と地。不審ではあるものの、気に留めている余裕はミズキにもない。臨戦態勢に入るハッサムとキリキザンに、気を配らなければならなかったからだ。
 シグレが一歩前に出て、じりじりと間合いを詰める。必要のなくなった煙を消すべく、大男が火元に土を蹴り掛け、美しい楽園に不似合いな不純物は完全に立ち消えた。合図としてはちょうど良い、開戦の狼煙が上がる。
 リオルのシグレが地を蹴る。その速度は電光石火の如し。一弾指いちだんしの間に距離を詰め、避ける隙も与えずハッサムに殴りかかる。鋏での防御も間に合わず、懐にもろに正拳突きが刺さる続けざまにもう一方の掌を叩き込み、衝撃波を撃ち込んだ。外殻越しにも通る“はっけい”で、ハッサムの体は揺さぶられ、腹部を押えて後退する。
 その攻防には目もくれず、キリキザンは真っ直ぐミズキの方に向かってきた。ミズキも覚悟はしていた。鈍く輝くキリキザンの刃を目で追う事に、全神経を集中する。幸いにも動きはさほど速くない。迫りくる刃を、体を仰け反らせてかわしつつ、避けきれないところは刃先に触れぬよう、金属板を仕込んだ手甲で受け流していく。
「中々どうして、若き少年にして冷静に動ける。さすがは当代の守護者、我が息子にも爪の垢を煎じて飲ませたいくらいである。だが、小手先でどうにかなるほど甘くない」
 指示を除いて反応の乏しい少年の背を、男は軽く打擲する。少年はびくりと肩を震わせつつ、静かに頷いた。直後、決めあぐねていたはがねポケモン達の動きが変わる。
 次々と畳みかけられ、防戦を余儀なくされていたハッサムの姿が、瞬時にシグレの視界から掻き消える。だが、見失ったのも束の間。脇から文字通り“弾丸”のようなパンチのラッシュが繰り出され、シグレは全身を隈なく殴打される。気付いて構えた時には既に“バレットパンチ”は止み、違う方向から連打を噛まされる。数発受けてから防御に回るのが精一杯で、その繰り返しで徐々にダメージが蓄積されていく。
「くっ、シグレ!」
 キリキザンに足払いをかけて、攻撃をやり過ごしたミズキは、急ぎシグレの加勢に駆けつけようとする。その足を踏み出そうとしたところで、左肩に鋭い痛みが走った。よろけながらも前方に勢いよく跳躍。追撃はすんでのところで免れた。足払いにかかった振りをした上での“だましうち”は、ミズキにとって痛手であった。
 油断したと後悔するよりも先に、足を動かさなければならない。懐に手を忍ばせつつ、一旦距離を置くために逃げの体勢に入る。キリキザンが追ってくるのを確認したところで、掴んでいた玉を取り出して地面に叩きつけた。玉からもくもくと煙が上がり、キリキザンの視界を切った。
「シグレ、反撃だ。次、左!」
 猛攻を浴びていたシグレが奮起する。何度目になろうか、堅く素早い一撃を貰ったところで、自分の視界から消えるのを認識する前に、ミズキの指示を得て体を急反転。ハッサムが鋏を構えていたところへ、波動を篭めた起死回生の拳が腹部に直撃する。必死に耐えた先の“カウンター”は効果てきめんで、こちらも攻撃を積み重ねていた事もあってか、戦闘不能に追い込んだ。
 だが、まだ立ち止まるには早い。煙を突っ切ってキリキザンが現われた頃を見計らって、ミズキは持っていた手裏剣を投擲する。堅いキリキザンにあえなく弾かれるが、狙いはそこにあらず。打ち払って隙の出来た懐に、シグレが飛び込んでいた。左の拳で顔を打ち据え、右の掌打で腹部を叩く。怯んでいる間に立て続けに打ち、最後に“はっけい”でキリキザンを突き飛ばす。地に倒れた二体のはがねタイプは、起き上がってくる事はなかった。
「高らかに襲撃してこのざまか。煮るなり焼くなり好きにするが良い」
「お前のそのなり、体術の心得があるように見える。力比べもするつもりで来たのではないか?」
「ご明察。だが、俺はあくまでポケモンによる襲撃を企てた。それが頓挫したのであれば、抵抗は無意味。それだけだ」
「思い残す事はないか。隣村の襲撃者よ」
「俺は自分が命乞いをしようとは思わん。慈悲があるなら、この愚息だけは見逃してくれと言うくらいだ。才能だけで選抜されただけの、小童だからな」
「そうか」
 平原に坐して顔を伏した男に、抵抗の意思は見られない。間を置いて返した後に、短刀は手にする事もなく、再び吹き矢に手を掛ける。筒を掴んだのと同時に、沈黙を貫いていた少年が初めて口を開いた。
「頼む! 父ちゃんは大事な戦士なんだ! 逃がしてくれ、殺さないでくれ!」
「見苦しいぞ、リンドウ。俺は敗北を認めた。敗者は勝者に身を委ねるのだ」
 戦士として代表して来るだけあってか、男の潔さは確かである。父として、戦士として諫める男に、リンドウと呼ばれた少年の悲痛な叫びは届かない。良心の呵責がないと言えば嘘になるが、覚悟を決めた相手に施しをするという選択肢もミズキにはなかった。まるで処刑人になった気分で、ミズキは毒矢で次々と二人の命を絶った。

 命のやり取りを終えた事で気が抜けたのか、ミズキは膝から崩れた。依然肩の怪我は左腕を濡らし続け、長く放置した代償に倦怠感が全身を襲い始める。緊張で堪えていた痛みも無視できるものではなく、シグレ共々早急に小屋に戻る必要があった。
 呼吸を乱しながら帰ってみれば、小屋を飛び出す前の指示通り、ナズナが中で座って静かに待っていた。手当てをしてくれる存在はありがたかったのだが、叱られるのが怖くもあった。ミズキの姿を捉えるや否や、ナズナは反射的な速さで立ち上がって駆け寄ってくる。
「やだ、酷い傷じゃない! すぐに手当てするから、早くここに座って」
 幸いにも心配の方が上回ったらしいのは、ミズキにとっては好都合であった。反論するだけの余力も残っていなかった。ここまで来ると言われるがままである。ナズナは小屋の中にあった救急箱から包帯を、鞄から弟切草を取り出し、葉っぱの搾り汁を塗りながら手際よく患部に巻き付けていく。
「ナズナ、ありがとう。お陰で痛みも引いた」
「大した事じゃないよ。心配したんだから、本当に」
「このくらい、何でもない」
「そんなわけないでしょ! あれだけ辛そうにしていたのに。全く、どこまで無頓着なんだか」
 特段ナズナの事を意識した事はない。だが、正面からじっと見つめられては、ばつが悪い気がするのに加えて、妙に胸の奥がざわついていた。少女の優しさに、居た堪れなさすら覚える。ミズキは期せず目を逸らしてしまうが、ナズナも怪我人相手に必要以上に咎める事はなかった。
 言葉に棘を持たせる代わりに、ナズナは心が落ち着くお茶を煎じて持ってきたと教えてくれた。水筒からコップに注がれた液体は、琥珀色の美しいもので、漂う香りも胸いっぱいに吸い込みたくなる心地良さ。喉が渇いて水分を欲していたミズキは、礼を告げた後にごくごくと一気に飲み干す。
 喉が潤い、傷の痛みも和らぎ始め、生き返った気分になる。同時に、戦いを終えた安堵からか、張り詰めていた緊張の糸が解け、急速に意識が遠退いていく。必死に抗おうと目を擦るなど試みてはみるが、睡魔の前に全ては無駄であった。重い瞼が完全に閉じ切ると、ぷつりと糸の切れた人形のように体は倒れ、意識を根こそぎ暗闇に引きずり込まれるのであった。

 耳を聾さんばかりの大きな雷鳴に、意識を芯から揺さぶられ、眠っていたミズキは覚醒に至る。どうやらシグレも同時に寝て、同じく轟音で目を覚ましたらしく、寝ぼけ眼で視線を泳がせていた。だがそこに、意識を失う前にいた少女の姿はない。彼女が座っていた場所には、置き手紙が残されているだけであった。
『休んでもらうために“キノコのほうし”入りのお茶を飲んでもらいました。ごめんなさい』
 綴られていた筆跡は確かにナズナのものに違いなく、ナズナがパラセクトを育てて連れていたのも知っている。慮っての事であるのはミズキにも理解出来なくはなかった。お陰で失われていた体力も戻っており、本調子とはいかないまでも、すぐにでも動けるような状態になっている。
 ミズキとシグレが慌てて扉を開け放つと、外は夜を迎える準備を着々と整えていた。今にも降り出しそうな怪しい雲行きで、強い風がざわざわと梢を揺らし、草原に緑の荒波を立てていく。藤色と橙色の織り成す空模様は、美しさの中に禍々しさを内包していた。集落にでも帰ったのだと思いたいが、胸騒ぎを抑えきれない。その足を急ぎ前に進め、祈るような思いで楽園の方へと向かう。

 蒼白な顔で辿り着いた先に、ミズキは見つけた。見晴らしの良い原っぱの上に、棒杭のように立っている男の姿。片手には得物である白刃が握られていて、氷のように鈍く冷たい光を放っている。
 雷光が一閃。その姿が真っ暗な影になったかと思えば、気配に気づいた男がミズキの方を向いていた。ぎらりと光るその目つきに、寒気すら感じる。脳内で常に警鐘が鳴り響いていた。身の危険は経験の浅い少年でも直感で分かるが、脂汗を滲ませながら、使命感からシグレと共に身構えた。
「まだ年若いのに、どうして命を散らそうとするのか。何と口惜しい。力を得られる黄金の果実とやらを頂くだけなのに、立て続けに手にかけなければならないとは」
 口ぶりに引っ掛かりを覚え、ミズキは男の持つ刀を凝視する。美しくも冷徹な輝きを放つ刀身には、銀以外にも僅かばかり赤が付着しているのが映った。
 頭の中が漂白される。考えるよりも先に、体が動いていた。全身から波動を放出し、棒立ちの男の顔を殴りつける。
「その異能、貴様が守護者と言うわけか。なるほど、貴様を“始末”すれば良いのだな」
 男は殴られながらも、愉快そうに口角を上げた。にたりと笑って、刀を持った腕を肩の高さまで上げる。放つ威圧感とあまりに不釣り合いな笑みに、対峙する少年は背中に氷柱を差し込まれたようなおぞましさを覚える。勇ましく踏み出したはずの足は、反射的に退こうとしていた。否、退かざるを得なかった。距離を置かなければと、両足の爪先に全力と波動を集結させる。
 瞬間、後方に跳ぼうとした体から、赤い飛沫が舞った。粒の一つ一つまで鮮明に映る。気が付けばその体は仰け反っていて、真っ赤な鉄を押し付けられたような熱さが、一呼吸遅れて腹部に訪れた。それだけ、何をされたか分からなかった。
「なん――、これ――ないな――」
 受け身さえ取る事も叶わず、ミズキは無様に大の字になって倒れる。朧げな視界の中、男の声が途切れ途切れに耳に届くが、もはや集中力を他に回す事など出来ない。絶え間なく襲い来る疼痛が、残り少ない意識を刈り取っていく。
 ――あまりに呆気ない。守護者として自信が付き始めた矢先であったのに。こうも容易く屠られる事になろうとは。悔しさというより、使命を果たせなかった不甲斐なさが先に来る。露の命、という言葉がしっくりきた。
 守護者になった時から、死を覚悟してはいた。恐怖は感じないように、自分を押し殺す。ただ、走馬灯のように脳裏に浮かぶ、誇らしげな顔に曇りの映る父と、いつも気に掛けてくれるナズナの顔が、一抹の未練をミズキの心に残した。だが、薄れゆく意識を止められるはずもなく、視界に黒いとばりが降りていった。







 合唱となった小鳥のさえずりが遠くの方から聞こえ、全身は暖かい毛布に包まれているような快感を得る。五感に訴えかけるもののお陰で、生の感覚を思い出す。だが、目は固く閉ざされたままで、何も映らない。少しずつ意識が覚醒してきたところで、思い切って瞼を開けた。
 色彩を取り戻していく視界に、緑の大海が飛び込んでくる。空は青く澄み渡り、降り注ぐ陽の光は変わらず眩しい。少し視線をずらしてみれば、景色に溶け込む黄金の果実と、見覚えのある青いポケモンの姿があった。
「あの戦いは、夢?」
 肩に受けた傷も、致命傷となったはずの腹部の傷も、今は何もない。守護者になった事を浮かれた自分の夢だったのかとさえ思う。
「ミーくん、こんなところで何をしているの?」
 自分に覆い被さる、柔らかく微笑む少女の影。太陽の煌めきに負けない輝きを持つ彼女の、一言一句違えぬ呼びかけを聞いて、普段硬くなりがちな表情が緩んでいた。
「別に、なんでも」
 あれが夢なのだとしても。ナズナが魔の手にかかっていたわけではないとしても。せめて同じ道を辿るような事はしたくないと、ミズキは心の中で密かに誓いを立てた。一人で納得したように頷いている少年に、ナズナは頭に疑問符を浮かべつつも、傘を残してその場を離れていった。

 楽園の守護者という大役を任された以上、期待を裏切るわけにはいかない。責任を重く受け止めなければいけない。この地の守り手であるならば、非情に徹しなければならない。自らを使命という名の鎖で縛って、シグレを伴って今一度探索を開始する。
 神秘さすら漂わせる澄み切った空気の中に、淀みが混じったような感覚を抱く。大地から力を授かっている影響からか、それが侵入者を検知する類だという勘があった。ナズナと別れた地から遥か遠方、夢の中で見つけた位置よりもより離れたところで、既視感のある姿を捉える。
頭や口元に薄手の布を巻いた、盗賊風情のその出で立ち。夢の中で最初に対峙した男たちと、数も構成も同じである。だが、この地に侵入したばかりというのもあってか、サンドパンも地上を歩いていて無警戒である。
 今度は正面切って飛び出すような真似はしない。もし先程までのが正夢である可能性があるのならば、その道から逸れるような事をしておきたかった。シグレと視線を交わして頷き合い、男たちの背後を取って、絶好の位置から急襲を仕掛けた。
 シグレはまず、サンドパンの背中に挨拶代わりの突きを繰り出す。シグレがガードの空いた懐に“はっけい”を撃ち込むのに重ねるように、ミズキも瞬時に波動を全身に展開し、男の一人の鳩尾を拳で強打する。早々に一組を無力化に成功した。
「てめぇ、守護者ってやつか! 不意打ちとは汚い真似を!」
「窃盗が目的の侵入者に言われる筋合いはない」
 青年は焦燥しながらバルキーをけしかけるが、ミズキはこれを一蹴。バルキーは苦し紛れに腕を交差させるが、シグレは攻撃する“フェイント”を挟み、堪える覚悟で硬直した腕の下から、腹部を思い切り殴りつける。覚束ない足取りのところに、頭部を揺さぶる掌のとどめの一撃。逃げ腰になる二人目の男を、ミズキは小柄な体で背負って投げ飛ばし、地に伏せさせた。
 残るはラッタ一匹と男が一人。ミズキとシグレが睨みを利かせて凄んでみせると、圧倒された鼠ポケモンは、一目散に逃げ出してしまった。仲間二人は意気消沈している挙句、最後の手持ちに逃げられ、残された男は茫然自失であった。一歩ずつ着実に近づいてくる守護者たちの姿に、半ば飛びかけていた意識を取り戻し、その場に尻もちをついた。
「ひっ、頼む、許してくれ」
 男は血相を変えて必死に懇願する。動揺から掠れかけの声で、不格好な体を晒す。命より大事なものはないが故の、文字通り死に物狂い。
「侵入してきたのはそっちだ。許してくれなどと、どの口が言うのか」
「俺達は命令されるがままに、こうするしかなかったんだ。さもなくば、俺達が殺される」
 まともに取り合うつもりはないと、ミズキは短刀を取り出して脅しにかかる。男はさらに情けない顔をして、地に頭を擦りつけだした。平身低頭の体勢で、ミズキの顔色を窺うように時たま視線を上げてくる。薄ら笑いすらもなくなった、濁った瞳から、ミズキは何故か目を背けられなかった。
 短刀を抜く勇気はないが、忍ばせている吹き矢の毒でなら、まだ躊躇いなくやれる。守護者として敵を排除するのは当然の責務であり、今回も容易く事を終える。そのはずだった。そうでなければならなかった。
 ――だというのに。吹き矢の筒に手を伸ばす気にも、短刀の刀身を見せる気にも、ミズキはなれなかった。見逃しては守護者としての沽券に関わる。集落の者に白い眼を向けられるかもしれない。それでも、ただこの場で殺すだけが正解なのではないと、どこかで信じたかった。躍起になって手にかける程でもない。何度も暗示をかけるかのように、心の内で復唱させたミズキは、取り出した短刀をもう一度しまって盗賊に背を向ける。
「気が変わった。逃げたければ好きにすると良い。私はもう興味がない」
「へ、へへ。そうか、そいつはありが――」
 男の言葉が最後、聞き取れなかった。背後から脇腹に突き刺さる熱と、鋭い痛みに襲われて、それどころではなかった。蹲りそうになる足に鞭を打ち、その場で転回。即座に男の胸倉を掴み、地面に叩きつけた。合図もなくシグレが飛び込んできて、その頭部に“はっけい”を繰り出す。悲鳴を上げる事もなく意識を閉ざしたのは、命乞いをしたのとは別の、投げ飛ばして倒れていた男だった。
「そうか、そうなのか。信じてみようとした私が、間抜けだったのか。こんな、騙され方など」
「ち、違う。俺は何も――」
 二の足を踏む事はしない。止まった的に吹き矢を撃ち込むなど造作もなく。殺すまいと思っていた残る二人も、先の男の後を追わせた。結果は夢の時より悪化している。最後の刀の一撃と違い、死に至る程ではないが、脇を赤く濡らし続けるそれは決して放っておいて良いものではない。
 ふらつきながらも、何とか足は動く。首からマフラーのように巻いていた布で腰をきつく縛り、小屋に戻ろうと歩みを進める。シグレはしきりにミズキの体を触り、支えようとしてくれた。だが、これは自分の甘さが招いた失態と、押し遣って拒んだ。シグレに労いの言葉を掛ける余裕もなく、すげなく接してしまう。
 意識を持っていかれないようにと、必死に歯を食い縛りながら歩き、何とか小屋まで辿り着いた。夢の記憶が正しければ、小屋の中でナズナが待っているはずである。だが、予想は見事に外れ、中には元からある道具しか置いていなかった。思い描く道筋と少し変わったのだとしたら僥倖である。包帯で最低限の止血だけ出来れば充分と、ミズキは早々に立ち上がろうとする。
 しかし、シグレが悲しげな鳴き声を上げながらミズキの体を押さえ、意地でも立たせまいとしてきた。今まで付き従っているだけだと思っていただけに、ミズキも一瞬目を丸くする。
「この後、すぐに次の侵入者が現われるはずなんだ。だから、ここで休んでいる暇など、ない」
 必死に振り解こうとするが、シグレは首を大きく横に振る。体格が小さいとはいえ、相手はかくとうタイプの、力が自慢のポケモン。さしものミズキでも、傷を負った肉体では力ずくでどうにかなる相手ではなかった。
「あはは。シグレ、お前、ナズナのお節介が映ったんじゃないのか?」
 きょとんとした惚けたような表情で、シグレは首を捻る。その仕草が愛らしい事に、今さらになって気づく。今まで自分もシグレも、守護者という仕組みを果たすための道具だとばかり思って過ごし、鍛練を積んできた。こうして間近で身振りをちゃんと見て、愛玩ともされうるポケモンなのだと実感する機会など、全くなかったのだ。
「シグレ、その……ありがと。今までちゃんと、お礼らしいお礼、言った事なくてさ」
「わうっ!」
 あまりに実直な眼差しに根負けしたミズキは、改めてその場に腰を下ろす。幾許もなく次なる侵入者が現われるのに変わりはないが、少し体を休めるだけでも違うのは確か。今度は嬉しそうな声を上げるシグレを見て、小さくはにかみつつ、項垂れて目を閉じた。

 やがて、下を向いていた首ががくんと揺れ、睡魔に負けかけていた体を現実に呼び戻された時。来訪を告げる音が、外の世界より聞こえてくる。待っていたと同時に、望まぬ爆音でもある。気だるさが残る体を奮い立たせ、重く感じる扉を押し開ける。
 一条の煙が天に向かって伸びていた。目的は、爆音と煙で自分たちの位置を知らせ、決戦の場に誘い出す事にある。近隣の戦士二人組の仕業である事は確定であった。しかし、ミズキが知っているはずの情景と、明らかに異なっている。
 一つ目、発生源が小屋から近い事。移動が辛いミズキにとっては不幸中の幸いであり、休息の時間があって近づかれていたのだと考えれば頷ける。二つ目、二人組であるもう一方――威風堂々たる立ち振る舞いの大男の姿がなかった事。三つ目、単身乗り込んできた少年が息を切らし、装束がボロボロである事。夢との展開の相違にミズキも小首を傾げる。
「お前が。お前がっ!」
 変化に対して悠長に構えている余裕はなかった。少年は額に青筋を張らせ、鬼気迫る形相で迫ってくる。追随するようにして動くのはハッサムのみで、キリキザンの姿は周囲にはなかった。隠れている可能性も無視出来ないが、今は迫りくる一人と一体を対処するのが先決。
 左右に分かれる敵方に対し、シグレはハッサムの方を担当する。リンドウと呼ばれていた少年は、腰に携えていたナイフを握り、弧を描く進路でミズキに接近を仕掛けてくる。未だ万全に動ける状態ではないが、四の五の言ってなどいられない。
 シグレは先制攻撃を仕掛け、立て続けに拳を打ち込んでいく。はがねタイプで堅い甲殻に、幾度も防がれて大した痛撃を与えられなくとも、防戦一方を強いる事に意味はあった。敵に鋏を振り抜く隙を与えないよう、左右交互に打ち分ける。シグレなりに敵の動きを警戒しているようであった。
「お前が守護者なんだな! 許すもんか!」
 闇雲に突っ込んでくる一撃目を往なし、ミズキは波動を篭めた掌で弾き飛ばす。リンドウが放つ凄まじい剣幕は、終始伏し目がちで、戦意の薄かった少年とは思えない。ぎらぎらとした瞳に宿る怒りは、恨みの入り混じった獣の如き。炯眼けいがんの奥に燃える炎に、ミズキはたじろぎこそしないが、その矛先が自分である事に衝撃を受ける。まだ少年には何もしていない。執着される所以などないはずなのだ。
「何がそんなに君を駆り立てている?」
「何が、だと! ふざけるな! お前の仲間が、オレの父ちゃんを、父ちゃんをっ!」
 低い姿勢で駆けてくるリンドウの刃が、足元から迫る。身を引いてすんでのところでかわし、頬と髪を少し掠めるだけに留まる。続けて突こうとする腕の動きを見切り、払って受け流した。ミズキはナイフを握る手を掴み、引き剥がそうとするもう片腕も押さえる。
「姿が見えないとは思ったけど、まさか既にやられた後だったとは」
「何を白々しい。父ちゃんをやったのは、お前の仲間に決まってる! お前の格好みたいなポケモンを連れていたからな!」
「守護者は私一人だ。他の者なんて知らないよ」
 忍者のようなポケモンを連れた者など、ミズキには心当たりがなかったのだ。だが同時に、少年の怒りの理由にもようやく納得がいった。対峙すべき敵が減ったのは喜ばしい反面、目の前の少年を激昂させてしまった事は決して都合が良いとは言えない。
「ねえ、このままおとなしく引き下がってもらう事は出来ないかな」
 夢の中で君を殺してしまった、などと口にしたところで、信じてはもらえない。故に、ミズキは自身の願望のみを先に告げる。守護者の使命だと割り切ってきて、侵入者を危める事をしてきた。それが正しい事だと教え込まれ、信じて育ってきたから。それを貫かなければ、守護者としての使命を全うする事も、延いては自身の存在意義を見出す事も、出来ないと思っていたから。
 だが、根深く張っていた信念が揺らぎつつあった。それが例え夢の中であろうとも、彼ら親子と一戦交えた事が大きなきっかけとなっていた。守護者という歯車として動くべく、長年囚われていた呪縛から、解き放たれようとしていたのだ。彼らを危めた事への罪滅ぼしにはならないが、討ち果たす事なく済めばどれだけ気が楽かと、ミズキ自身も願うところがあった。
「誰が引き下がるか! この人殺しめ!」
 無機的な少年が、初めて敵対する者に願った一縷の望みは、儚く散った。頭で分かってはいても、突きつけられる事のなかった真実――“人殺し”という、たったこれだけの単語が、深く胸に突き刺さった。それが同年代の少年に突きつけられたのだから、なおの事であった。
 ミズキが呆然として力が抜けるのを、リンドウは見逃さなかった。全力で掴まれていた手を振り払い、ミズキの腹部を蹴り飛ばす。傷の癒えぬ箇所に喰らって蹲っている、無防備な宿敵の肩に、手にしたナイフを深々と突き立てた。
 背後で漏れる悲鳴を、シグレは聞いてしまった。主人の危機に振り向こうとした時点で、注意力は散漫になっていた。ハッサムは好機を逃さず、シグレの両手両足を鋏で挟み、地面に叩きつけて拘束する。リンドウにとって邪魔者たる守護者は、ここに封じられた。
「は、はははっ! どうだ、見た事か! 守護者と言うのも呆気ないな!」
 リンドウはナイフを離した手を震わせ、現実を噛み締めるように引き攣った笑みを浮かべる。復讐を果たした陶酔感か、恍惚感か。少年のちぐはぐさは間近で見ていたミズキにも見て取れるが、痛みで思うように動けぬ彼に為す術はなかった。
 一頻り達成感に浸ったところで、リンドウは急に冷静になる。黄金の果実が生る大樹へと赴き、その手で果実をもぎ取ったのだ。そして、近くに捨て置いていた荷物からごそごそと何かを取り出し、大樹近くの枯れ葉の付近に振り撒いた。後を追うように、小さく光の放つものを投げ込む。
「果実を所有するのは、オレ達だけで良い。こんなものが存在しては、守護者共々、都合の良い抑止力にされかねないからな!」
 炎上。視界が真っ赤に染まる。必死に守ろうとした果実は大樹ごと轟々と燃え、次々に炭と化していく。
 暗転。視界が真っ黒に染まる。目隠しでもされたかのように忽然と景色が消え、徐々に意識が遠退いていく。
 明滅。視界に白の光が瞬く。得も言われぬ浮遊感と、渦に飲み込まれたような眩暈に襲われ、ミズキの意識は“二度目”の断絶を果たした。
『時空の歪みだと思って来てみれば。何て呆気ない幕切れ』
 ミズキの気持ちを代弁する声と、小さな影が浮遊するのを、最後に感じながら――。







 ぐらつく頭をもたげて目を開けてみれば、そこはいつもと変わらぬ景色。二度目の目覚め。前回は夢だと思っていたが、此度の目覚めでそれが間違いだという可能性に辿り着いた。
 一周目の最後に確実に命を落としたのは、体験した生々しい感覚が物語っている。だが、二周目の最後は異なる。傷を負ってはいたが、あの時点で死に至るほどではなかった。意識が薄れ始めたのは、大樹を燃やされて、守るべき果実に危害を加えられた辺りからである。回避すべき展開ではあるが、死を迎える事並みに夢から覚める程の衝撃としては疑問が残る。
「ミーくん、こんなところで何をしているの?」
「何も……していない」
 それが、終わりの来ない始まりを告げる呪詛にさえ感じる。もう聞きたくないと、ミズキは震える手で耳を塞いだ。
「何もしてないって事はないでしょ? ミーくん、大丈夫?」
「うるさいっ! ボクの事はもうほっといてよ!」
 傷はとっくに消えている。だが、痛みは忘れられるはずがない。ナズナと変わらない言葉を交わすだけで疼くような気がして、全てから逃れたくなって、なりふり構わず走り出していた。
「ごめんね、ミーくん。私のせいで」
 一陣の疾風に乗って、その声も思いも、虚空へと飛ばされていく。感情を剥き出しにして走り去る、遠い背中に届く事も叶わぬまま。

 ただがむしゃらに、体力が尽きるまで走り続ける。足よりも、胸よりも、心が痛いと叫んでいたから。その叫びが自分のものだと信じたくなく、振り払いたかったから。だが、脇目も振らない全力疾走にも限界が訪れた。足がもつれて、草原に顔から滑り込んでしまう。痛くても涙を流すわけにはいかない。全てを吐き出してしまえば自分が自分でいられる気がしなかった。
「わう……」
 傍らにはいつも、シグレがいた。置いてきぼりにしたはずなのに、しっかりと付いてきていた。手を差し伸べてくれた。だが、シグレはただの同志だと割り切っている。甘える相手でも、泣きつく相手でもない。弱いところを見せるのは許されない。ミズキは自身に深く重い杭を打つ。
「情けは無用だ。私はまだ自分の足で立てる」
 ぶっきらぼうにシグレの手を払い、自力で体を起こす。息を整えて、項垂れていた頭を起こしてみれば、ぼうっとする意識に迫りくる真実を否が応でも押し付けられる。常に最初にやってくる討伐対象は、既に六つの影という群れを成して視界に現れた。
 姿を捉えた瞬間に、ミズキの中で何かが音を立てて壊れた。空っぽになっていた心の泉に、沸騰する熱湯か溶岩のような怒りが、尽きる事なく湧き上がってくる。あってはならぬ感情で、穴が満たされていった。
 握り拳を作ったミズキは、全身に蒼の波動を滾らせる。シグレがおろおろした様子で隣を歩くのを気にも留めず、疾風迅雷の勢いで盗賊達に肉薄していく。盗賊三人衆が接近に気付いた時には、ミズキの姿は三人の中央に陣取る形であった。波動に満ちた手は、既に一人の首根っこを掴んでいた。捕まえた盗賊の首を、ミズキはぎりぎりと締め上げる。目を見開いて苦しそうにするが、見ても何も湧いてこなかった。代わりに乾いた笑いが零れる。
「その手を離しやがれ!」
 地を蹴って背後から人型のかくとうポケモンが飛びかかってくる。ミズキが反応して振り向くよりも先に、近くに控えていたシグレが顔面を殴打して地に叩き落とした。得意げに腰に手を当てて立つ背中に、ミズキは鋭い視線を投げかける。
「シグレ、手を出すな。私一人で倒す」
「わ、わうっ!」
「良いから!」
 ついぞ吐き出される事のない怒声が、ミズキの口から漏れた。シグレはびくりと畏縮し、戸惑った様子ながらも必死に首を横に振る。勇ましいのに震えて悲しげな素振りを見せられ、昂っていたミズキもその気持ちを無下には出来なかった。
「サンドパンは任せる。それで良いな」
「わうっ!」
 シグレが任せろと言わんばかりの笑みを浮かべ、サンドパンに突っ込んでいく。それを見届けたミズキは、失神しかけの男を地面に取り落とした。体が地に着くと同時に、ラッタが鋭い歯を剥き出しにして駆けてくる。ミズキは機敏な動きでこれを避け、すれ違いざまに尻尾を掴んだ。遠心力を活かして振り回し、別の方向から走りくるバルキーにラッタをぶつける。
 縺れて倒れた二体の下に走り寄り、拳を固く握って波動を溜める。俄かに起き上がって飛びつくラッタの腹部に、縦拳を打ち込んだ。同時にバルキーの拳がミズキの鳩尾を捉える。痛みに喘ぎつつも、次なる拳が飛んでくる前に、ミズキはリーチの長い蹴りで弾き飛ばす。痛打によろめくバルキーに、仕返しとばかりに大量の波動を篭め、正拳突きをお見舞いした。これにて二体は沈黙。遠くではシグレの方も雌雄を決していた。
 蒼の気の力を絶やさぬまま、睨みを利かせた視線で盗賊二人を射貫く。向こうも必死に睨み返してはくるが、手駒を失った状態では単なる虚勢にしか映らない。
「逃がしてくれ。やばい男の殺気にあてられて、やりたくもない事やってただけなんだ」
「命乞いは聞き飽きた。そう言って見逃そうとしたところを、お前達は……っ。嫌だ、嫌なんだよ。もう、痛いのは、死ぬのは!」
 強くあろうとした心が、脆くなって軋む。自分の叫び声すら響いてこない。狂気に蝕まれ、虚無の中に怒りを押し込め、無理やり煮立たせている。ぎりぎりで堪えていた堤防が、ここを起点に決壊した。
 懐から取り出された短刀の鞘が、初めて地に落ちる。日の目を見た刃が、鈍い輝きを放つ。抜刀した。抜刀してしまった。抑え込んでいたものを解き放つようにして、出してはいけないものが溢れ出す。刃物に身の危険を感じた盗賊達は、息を呑んで蒼ざめる。空気を切るような軽く小さな挙動。首筋に当てられたという感覚を得る事もなく、男は力なくごとりと倒れた。息を吐く間に屍となり果てた仲間に、絶句しながら身じろぎする暇すら与えられる事もなく。盗賊は最もあっけなく、守護者によって片付けられた。
 短刀に付着した赤を振り払ったところで、ミズキは期せず短刀を取り落とす。地面から拾い上げようとする手は震えており、伸びる手も短刀も、もう見たくないと目を瞑る。それでも内なる自分を押し殺し、何とか懐にしまったところで、切り替えるために繰り返し深呼吸をする。
 無理やり鎮めたミズキの頭は冴えていた。いやに、という言葉が付随するほどに。被害も軽微で済んだという事もあるが、一旦少しでも休息を取るためにと、小屋へと向かう事にする。そこには前回なかったナズナの姿があった。だが、そこにいつもの微笑みはなく、不安そうな面持ちで近づいてきて、ミズキの手を取ろうとする。
「ミーくん、大丈夫? その、顔色が良くないけど」
「ダメだ。こんな汚れきったボクの手を取っちゃいけない。ボクは、ボクは」
 伸びてくる温かい手を、乱暴に振り払ってしまった。既に幾度も人を殺してしまった。守護者という名の下に、働いてはいけない事まで手を染めている。その手を、穢れなき少女に握らせてなるものかと、全力で拒絶する。
「あなたは守護者として戦ってくれている。それのどこが汚れているというの? むしろ誇りに思って良いのに。汚れているというなら、それは私の方だもの」
 手を取って貰えなかった事ではなく、少年が気に病んでいたという事実に、ナズナは心を痛めていた。憂いの色が一層濃くなるが、強引にミズキの手を取って握り締める。温もりが伝わってきて、強張っていたミズキの頬も少しだけ緩んでいく。ようやく落ち着いたと見えたところで、ナズナは思い出したように鞄を漁る。
「そうだ。良かったら、私が持ってきたお茶でも飲んで落ち着く?」
 ナズナの所作がぎこちないのも然ることながら、お茶に覚えがあるミズキは、いつもの調子で受け取れなかった。その反応をナズナが逆に不審がっていると、おとなしくしていたシグレが水筒を少女の手から引ったくる。これにはナズナだけでなく、ミズキも驚きを隠せなかった。
「どうしたの、シグレ。その水筒を警戒するなんて――」
 真意を問いただすのを妨げるかのように、遠方より大きな破裂音が轟いた。
「ごめん、ミーくん。その、ね」
「話は後だ。ナズナ、絶対に小屋から動くな」
 水筒を放ったシグレを連れて、ミズキは二番目の交戦の場へと走った。唇を噛み締めて、その場に崩れるナズナを残しながら。

 こんなに嬉しくない待ち合わせも、通算三度目となる。排除すべき敵の声など聞こえない。前口上を聞く時間すら惜しかった。時を移さず抜刀した後に、立ちはだかるハッサムとキリキザンの下へ駆け出す――そのつもりだったミズキの体は、衝撃と共に後方に弾き飛ばされていた。
 代わりに二体の前に立ちはだかったのは、今しがたミズキを突き飛ばした青い影――シグレであった。“はっけい”を打ち込んできた事もあってか、麻痺した体はしばらく言う事を聞いてくれなさそうであった。
 一体ずつ相手にするのも大変なのに、身の丈に合わない無茶をする。これまでのシグレでは考えられなかった。案の定、好戦的で戦闘慣れした二体に嬲られる始末。次第に体に傷が増え、見るに堪えない姿になっていく。
「どう、して。シグレ、何故そんな――」
 声を振り絞ったミズキに、余裕のないはずのシグレが、振り向きながら微笑んだ。痛みに顔を歪ませてはいても、向けた笑みは間違いなく本物であった。いつだって健気に見せてくるその顔で、ようやくミズキにも合点がいく。
 “睡眠薬”が混入した水筒を奪った時点で気づくべきであった。この不可解な現象――時間が巻き戻る苦難に、シグレも共に巻き込まれていたという事に。同じ繰り返しを味わいながら、それでも献身的に傍にいて、支えてくれた事に。いつだってシグレは傍にいた。拒む事なく波動の力を貸してくれた。そんな重要な事を忘れて、一人で戦っているつもりになっていた。殺意の衝動に身を任せ、一人闇雲に足掻こうとしていた。
「だけど、そんなの間違ってるんだ――シグレっ!」
 波動に頼る事なく、己の力で足を進める。痺れの残る体が崩れそうになるのも厭わず、駆け寄っていく。あわや凶刃にやられそうなところ、間一髪でシグレを抱え、思い切り跳んだ。
 シグレを庇った代償として、ミズキはキリキザンの刃に背中をやられるが、救出自体は無事成功した。主人の負傷に慌てふためくシグレの頭を、ミズキはぎこちないながらも優しく撫でる。それは久しくする事のなかった、愛情の篭った触れ合いに相違なかった。
「ありがとう、シグレ。こんなボクに、いつまでも付き合ってくれて。大事なものを、思い出させてくれて。君が良かったら、その、また一緒に戦ってくれる?」
「わうっ!」
 ただ行動を共にするだけの同志から、思いを通じ合わせるパートナーへ。ミズキからの心の距離が縮まり、一気に階段を駆け上る。お互い満身創痍の状態ながらも、見つめ合う内に笑顔の花が咲いた。瞬間、シグレの体が発光して、輪郭が見る見るうちに変わっていく。それは進化の光。眩い光が止んだ頃には、背丈が高くなって勇ましくなった――ルカリオへと成長したシグレの姿があった。相棒の進化に、ミズキの心も明るい気持ちで満たされていく。
「よし、反撃開始だ。行くぞ、シグレ!」
 勝負はこれからだと勇み立ち、ミズキとシグレは心機一転して迎え撃たんとする。――その折、対峙する戦士二人の体が、刃に貫かれるのが見えた。不意打ちに応対する事も出来ずに、赤を散らしながら崩れ行く。

 戦士たちの背後から現れた影に戦慄し、全身の毛が逆立った。忘れもしない。忘れられるはずもない。あれが夢でなく現実であるならば、一度は命を奪われた相手。飄々とした風貌の侍のような青年が、そこに立っていたのだから。ミズキはぎりっと音が鳴るまで歯ぎしりをする。
「邪魔者には早々に舞台を降りてもらわねばな」
「……っ! お前も、果実を狙う侵入者か!」
「そうさ。強い力を得れば、もっと強い奴とも戦える! そのためにはここの果実って奴は打ってつけでな! もっとも、一番の目的は守護者とやらとの“死合い”にあるのだが」
 怒りでも憎しみでもない。獲物を弄ぶような、蔑むような、冷たい愉悦に満ちた視線。一瞬交わしただけで、心臓を直接握られたかのような圧迫感と息苦しさを覚える。しかし、ここで怯むわけにも、退くわけにもいかない。シグレと揃って拳を握り締め、一気に詰め寄ろうとする――敵とを結ぶ一直線の道上で、三日月型の刃が天から落とされる。手負いの身である二人に、不意打ちをかわす事は叶わない。離れた丘の上から降り注いだ“サイコカッター”の嵐に、全身を切り刻まれ、男の手前で地に伏せる事となる。
「手を出すなと言っておいたのに。これでは何と呆気ない。守護者の命以外興味はないのに、これが守護者など――」
「――いいえ、守護者は私よ」
 戦場に突如として舞い降りた、凛とした立ち振る舞いをしている少女に、ミズキは唖然とする。何か声を絞り出さなければならないのに、混濁する頭がそれを許してはくれない。少女の傍らには、忍びのような姿をしたアギルダーというポケモンが、確かにいた。
「ごめんね、ミーくん。こんな形でしか、償いは出来ないけど」
 ナズナは優しく微笑んだ。儚さを感じさせる笑みだった。次の瞬間には、小刀を握り、険しい顔つきになって駆けていく。そこから先の事は全て、ミズキには時の流れが遅く感じた。
 男の太刀を掻い潜り、幾度も凶刃を向け、ナズナは善戦する。だが、長くは続かず、可憐な花びらが舞う。踊らされるように、ひたすらに舞っていく。そして、最後の鋭い一閃に、一輪の花ナズナは散ってしまった。その間際を見届ける事もせず、男は不満げな面持ちで立ち去っていった。果実を一房取っていく以外は、何をする事もなく。
「う、嘘だ」
 空が泣きだした。天から降り注ぐ銀の滴が、次々に地面を叩く。大地はあっという間に雨を吸い、赤土は湿って柔らかくなっていく。ミズキは満身創痍の状態で這いずり、ナズナのところへと辿り着いた。泥に塗れた手で、必死に抱き起した少女の体からは、既に温もりが失われつつあった。
「ナズナ、ダメだ! 死ぬなんて、そんなの、許さないぞっ」
「うん。やっぱ、泣き虫ミーくんだ」
 頬を伝っていくのは、冷たい雨だけではなかった。とめどなく流れ落ちる。雨が、涙が、血が。守護者の力があっても何も止められない。無力な自分が歯がゆくて、さらに顔をぐしゃぐしゃにする。
「本当はね、ミーくんが選ばれるはずじゃなかったの。でも、私は怖くなって、現実から目を背けた。それがずっと心残りで、どうにかしたくて」
「喋っちゃダメだったら」
「だから、せめて最後にミーくんを守れたなら、良かったかなって。自分の名前の意味、全う出来たわけだし」
「良くない! ちっとも!」
 ナズナの思いが、言葉が正しければ、今まで全ての時間軸において、自分のために散ったという事に他ならない。あってはならないと、信じたくないと思っていた事実に行き着いてしまった気がして、ミズキは蒼白な顔になっていく。そして、ナズナの方も同じく。
「私は、これで良かったの。ミーくん、こういう時は、笑顔で――」
 握り締めていた手が、するりと力なく抜けていく。冷たくなった手も、白くなった体も、反応を寄越す事はない。振り撒いていた笑顔は、戻っては来ない。ミズキの世界で、たった一つ咲いていた大輪の花が、掌の中で散ってしまった。小さな少年の世界から、急速に色彩が失われていく。
「こんな結末、ボクは望んでなんかいない。これで楽園が守れたところで、大事な人を一人守れないで、何が守護者だ。大事な人を守るためになったのに。認めない。こんなの認めないぞ!」
 慟哭どうこく。声が枯れるまでなど生ぬるい。血反吐が出そうな程に声を絞り出す。それを尽く掻き消して、全てを洗い流す雨も、ミズキの心を清めては、静めてはくれなかった。少女が一人いなくなったところで、果実を取られたところで、巻き戻しは起こらない。
 逃げたい。楽になりたい。救って欲しい。罪悪感に満ちた、死の匂いがこびり付いた手から、穢れを払いたい。死の影に付き纏われるのは、もうこりごりだった。切に願う少年に、運命は残酷な刃を突き立てる。風が吹き抜けそうな、空虚な心が、壊れそうになりながら叫んでいた。全てを正しくやり直したい――と。
『汝は願うか。正しき流転を。汝は抗うか。己が意思にそぐわぬ運命に』
 願いは聞き届けられた。空間に燐光が舞い、歪んだ空間から小さな光が現われる。それが取った形は、森の精霊のような姿。名をセレビィという、幻とされるポケモンであった。影と声に覚えのあるミズキは、藁にも縋る思いで手を伸ばす。
「この筋書きを変えられるなら、何だってやる! 抗ってみせる!」
『ふむ。それでは正式に姿を現わそう』
 光が次第に収束していき、その輪郭と色がはっきりする。宙に浮かぶそれは、見紛うことなくセレビィであった。体色が桃色という点だけが、伝承とは異なっているのだが。
『単刀直入に聞こうか。君は自分が置かれた状況について、完全に把握している?』
「守護者が死ぬか、楽園が危機を迎えると、それが起こる前の時間まで巻き戻される」
『合ってるけど、正確には少し違う。楽園の人柱となった守護者は、大地の時間を逆行させるための、いわば道しるべ。その地に根付いた人間しか役目を果たせないんだ。君は今、時間遡行の術式と言うか呪いに囚われた存在ってわけさ』
「つまり、守護者が楽園の平和を守り続ける未来以外は、存在しない?」
『そう。あなた達も、植物の剪定をするでしょ? それと似たようなもの。大元の軸を生かすために、枝葉を切り落とすのと同じ。並行世界に近いのかも。そして何度遡行を繰り返そうと、あなたが体験する、時間の流れを定義づける鍵に大差はない。そういうものよ』
 滔々と語る様は特別な存在を思わせるが、一方で言葉の端々には親しみやすさすら感じていた。そのせいか、この状況下で話を聞いていても、何故か受け入れられるものがあった。
「だとしたら、先代達が老衰以外で死んだ理由って――」
『私が力を貸したから。彼らがそうした理由も手段もそれぞれだけど、少なくとも私が関与してるのは確かよ』
「君は協力してくれるんだ。どうして? 呪いを解いてくれるって言うの?」
『こういう、歪な呪いの類が嫌いなの。ただ……それだけ。そして、それは私には叶わない。神が信仰のためにかけた呪いか、気まぐれの益なる術式か。私には解く力はない。私に出来るのは、大樹にかけられた時間遡行の術式に“ときわたり”の力で干渉するくらい。本当は過干渉は許されないんだけどね』
「分かった。じゃあ、最後の時、あの強い剣士との一戦の時は力を貸してもらえるかな? きっとそこが分岐点で、そこだけが私だけではどうにも出来ないところだから」
『今の話だけで、自分が何をすべきか悟ったって言うの。私が酷な選択を強いるまでもなく。悲しい子。でも、約束する。先代との――いいえ、昔からの約束だから。そのために現れたのだもの。先に行ってるわね』
「ありがとう」
 この期に及んで笑みさえ零すミズキは、既に腹を括っていた。何だってやると高らかに宣言してみせたのは、決して虚言のつもりはない。一世一代の覚悟を以って、これが最後だと言い聞かせ、懐にある短刀を取り出す。全てはナズナを守る、そのためだけに。刃を己の胸へと突き立てた。







 目覚めと共に、自分の胸を擦る。傷がないのは経験上分かってはいても、一応確かめておきたかった。また戻ってきたという事実も含めて。
「ミーくん、こんなところで何を」
 耳がこそばゆくなる優しい響き。美しい音色が終わりまで流れるよりも先に、ミズキは立ち上がって、その手を握っていた。柔らかくて、温かくて、生の躍動を感じる。ナズナが生きているのを目にして、望むところに来たのだと再確認する。しかし、あくまでスタートであって、ゴールではない。
「えっと、ミーくん? いきなりどうしたの?」
「ナズナ。ボクのお願い、聞いてくれるかな。大勢のパラセクトを集めて、この大樹のところまで連れてきて欲しいんだ。ナズナ、パラセクト育ててたもんね?」
「まあ、確かに育ててるけどね。少し時間は掛かるけど、お安い御用よ。でも、どうして?」
「理由は今は聞かないで。あと、集め終えたら、一度小屋に足を運んでくれる? やって欲しい事、詳しく記しておくから」
「ミーくん、それって――」
 ミズキの真摯な眼差しに、ナズナはそれ以上の追究が躊躇われ、そのまま首を縦に振った。なるべく急ぐからと駆け出したその背中を見送った後で、ミズキもシグレを連れて行動を開始する。向かう先は、最初に遭遇する盗賊が現われる方角であった。
「シグレ、今度もよろしく。君の事、頼りにしてるから」
「わうーっ!」
 柔和な微笑みと明朗な鳴き声。全てを共有して通じ合っている仲で、気を引き締める前の最後のやり取り。微笑ましいくらいの魔法が解けたのは、遠くから近づきつつある盗賊が、声の届く距離まで来た頃であった。
「お前達、果実を狙う盗賊だな。話がある」
「ああん? 何だ、ガキじゃねえか。こんなところで何を――」
「時間がないんだ。手っ取り早く行く」
 綻んでいた優しい表情を押し込め、ミズキは波動の力を漲らせる。百聞は一見に如かず。その特異な力で、さしもの盗賊達も少年の異常さに気付く。
「てめえみたいなチビが、守護者だってのかよ」
「チビって言ったのは目を瞑る。それはともかくとして、だ。お前達、強請られているのだろう」
「何を言い出すかと思えば。俺達は果実を狙いに来ただけで――」
「果実を本当に狙う奴に脅されて、都合の良いように使われているだけじゃないのか?」
 怒りで我を忘れかけていた時でも、しっかりと前回まで盗賊が口にした事を覚えていた。命乞いをさせた事で得られる事があったなど、皮肉でしかない。内心嘲笑をせずにはいられなかったが、良い材料となりえた事だけは喜ぶべき事だった。
「だったらどうだって言うんだ」
「私が守る。お前達を利用している奴が果実を狙うのなら、どのみち私が撃退する必要がある。それまで身を潜めているが良い」
「それが、お前に何か得があるって言うのか」
「分からない。だけど、必要以上に誰も死なず、誰も殺されずに済むなら、それが良い」
 年不相応の重苦しい雰囲気を纏った少年の言葉を、盗賊達は受け入れていた。波動の力を垣間見たが故の、動物の本能的なものか。哀愁を帯びた声に同情を覚えたのか。いずれにせよ、ミズキにとって穏便に済むのは最善であった。
 今までで一番早く、そして最も平和的に済んだ事で、深く溜め息を吐く。だが、これで浮かれてもいられないと、一人と一匹は次なる場所――近隣の戦士が現われていた方へと走り抜ける。

 それは小さな丘の向こう。想定よりも楽園の中心部から離れた位置で、その姿を捉えた。今度は五体満足で二人と二匹が歩んでくる。唯一違うのは、聞き慣れた号令を鳴らされる前に、接敵を果たしたという点であった。
「近くの集落の戦士だな。果実を狙って来たのは分かる。が、どうか退いて欲しい」
「その口ぶり、守護者の類というわけか。侵入者は排除するものだと思っていたが、はて、退いてくれとはまた変わっている。その真意を問おう」
「詳しくは言えない。だけど、退いてくれればきっと、この先果実が悪用される事はなくなる。そっちも脅威とみなす事はなくなるはずだ。だから――」
「我々もいろんなものを背負ってやって来たのだ。おいそれと帰るわけには行かぬ」
 父親の方が信念の堅い戦士である事は、ミズキも察しは付いていた。情に訴えかけるわけではないが、少なくとも話せばわかるだろうと踏んでいた。期待を撥ねつけられ、肩を落としかける少年に、男は「だが」と言葉を繋ぐ。
「妄言とも思えぬ。これでも一児の父親である故な、お主の目を見ればわかる。修羅場を潜ってきたと見えるしな。だから、提案しよう。倅との一騎打ちに勝てば、言う事は聞くとな」
 それが最大限の譲歩だとすれば、ミズキに呑まない理由はなかった。父親は狼狽える少年――リンドウを諫め、背中を押して送り出す。その相棒たるハッサムが前に出てきたところで、ミズキもシグレに目で合図を送る。視線を交わし、頷き合ったところで、シグレの体に変化が訪れる。前回経験したはずの進化を改めて経たのだ。
 初手の小手調べ。互いに高い瞬発力を以って動き、鋼の拳と鋏がぶつかり合う。弾かれて後退した後に、次なる一手。両の鋏に鋼を表す銀灰色の輝きを纏わせ、ハッサムは正面から突っ込んでくる。シグレは波動を両手に集中させ、骨の形をした短い棍を二つ形成する。両手に握り、立て続けに振り下ろされる“メタルクロー”を往なしていく。
 一つ一つの動きが素早いシグレが推し始め、鋏が天を向いたところで懐に“ボーンラッシュ”の一突きを入れる。呻き声を上げつつも、戦意は衰えない。ハッサムは一段と早い動きで飛び回り、居所を掴まれないようにする。がら空きの背後を取ったところで、ハッサムは渾身の力で交差した腕を振り下ろす。
「シグレ、後ろだ!」
 シグレはミズキに身を預け、ミズキは翻弄される事なく波動の感知で応えた。シグレは振り向きざまに棍を収束して長柄に変え、“シザークロス”を間一髪のところで受け止める。そのまま押し込んでハッサムを地面に叩きつけ、両手の内に力を収束する。
「そこまで! もう結果は分かった。お主らの勝ちだ」
 追撃が飛ぶ前に、男の制止が入る。
「退けと言うならば退こう」
「いや、その前に一つ頼みが。合図を出したら、果実の生る大樹の根を、そのポケモン達で切っていって欲しい」
「それが果実を悪用されないための策なのだな? ならば、従おう。本当に我々を殺さないのか?」
「私はやっと、それが無益だと気づいたんだ」
 立ち去る背中に「変わった少年だ」と投げかけられるのを余所に、ミズキは早々に親子に別れを告げ、小屋へとひた走る。最大にして最後の試練は、もうすぐそこに迫っていた。ナズナ宛ての伝言を紙に分かりやすく認める。そこにはパラセクトに一斉に大樹の栄養を吸い取って欲しい旨、協力者がいる旨、その協力者が大樹に作った傷からアギルダーに“アシッドボム”を流し込んで枯死させて欲しい旨を簡潔に記した。
 きっと直接話したら、質問攻めに遭う事は想像に難くない。アギルダーの存在を知っている事、大樹を枯らそうとしている事。その顔が浮かんだら、苦笑も滲み出てくる。疑問を抱くだろうが、ナズナならやり遂げてくれると信じ、急いで表に出る。一番の強敵が現われるタイミングに、掴みどころがなかったのだ。

 小屋を出た傍から“奴”は想定よりも早く現れた。既に抜刀した状態で、今までと変わらぬ異様な殺気を放っている。対峙も三度目ともなれば、威圧感を振り払い、臨戦態勢を取るまでに支障を来す事はなかった。互いに見合ったところで、ミズキの体が淡い光を纏う。姿は見えないが、セレビィが約束を果たしてくれたのだと知る。
「良いねえ。やる気に満ちていて。こちらは二対一でも一向に構わない」
「どこかに潜んでいるポケモンがいるはずだ。シグレ、警戒は怠るな」
 進化して力が強くなったシグレには、波動で遠くの敵を感知する能力もある。瞬時を何者かの姿を捉えたシグレは、先に武器となる棍を作り出し、丘の方へと駆けていく。丘に立つ影――エルレイドは、接近を拒むように念の刃を放つ。迎え撃つシグレは、一度棍を消し、両手の中に全身の波動を収束させ、蒼の光弾を撃ち出した。“はどうだん”と“サイコカッター”は相殺を果たす。煙が立ち込める中、腕に念の力を宿す剣士と、波動の棍を持つ闘士は、壮絶な打ち合いを展開する。向こうの力は拮抗していた。
 これで前回のように急襲を受ける事もない。ミズキは満を持して長い得物を持つ男と対峙する。命を奪うためにこの刀を使うのは、これが最初で最後にしようと、願いを込めて。不退転の決意で臨む少年は、厭う短刀に手をかけた。
 正面から特攻を仕掛ける。男が迎え撃ってくるのを予想して、急停止。相手の刀が空振ったところで、一気に接近しようとする。しかし、畏怖すべき視線を受けて勘が働き、ミズキはなりふり構わず飛び退く――その眼前を、白銀の剣筋が薙いでいった。そのまま飛び込んでいたら、確実に胴をばっさりとやられていた。腕を掠めただけで済んだのは幸運に他ならない。
「入ったな」
 だが、踏み込んだ以上、既に敵の射程内だった。気を呑まれる。足が竦む。そこへ容赦ない刃物が、次々と襲い掛かる。何とか波動の感知を全開にし、自身の短刀を波動で覆って必死に切っ先で受け流していくが、力の差は歴然。ちらほらと剣戟は防御を擦り抜け、ミズキの体に刀傷を作っていく。このままでは嬲り殺しにされるのは明白だった。
 ――怯えるな。全てを投げ打て。そうでなければ、格差を覆せない。
 自分の意思で戻ると決めてから、どうするかは想定していた。最初の回で貰った一撃。見切れないなら、その足を後ろではなく前に。肉を切らせて骨を断つ、捨て身覚悟の一点突破。
 白刃一閃。男の鋭い突きが、ミズキの腹部を易々と貫通する。全身を奔る激痛も、受ける気であれば堪えられる。より強く短刀の柄を握り締め、血を散らしながらも前へ。男の胸元に、切っ先に波動の篭った必殺の一撃を突き刺した。
 白目を剥いて倒れた男が、ぴくりとも動かなくなるのを確認したところで、ようやくミズキも気が抜けた。途端に激しい倦怠感と脱力感に苛まれ、意思に反して体は地面に倒れ込んでいた。
 緑の絨毯が見る見る内に赤に染まっていく。ここまで含めて計画通りだった。後は守護すべき果実の喪失と、守護者自身の死が完遂されれば、何代にも渡った長い呪縛から解き放たれる。誰かが確実に男と戦って命を落とす運命からは逃れられないのなら、その役は自分が適任だとミズキは思っていたのだ。守護者の使命と、自分の命と、ナズナの命。最初ならば違ったであろう優先順位も、今は天秤にかけるまでもなかった。
 既に体は言う事を聞かない。流れゆく命の源に包まれ、温もりを感じ、またそれが自分から抜けていくのを感じる。遠くではシグレが勝ち誇った声で雄叫びを上げ、直後にミズキに気付いて駆け寄ってくる。震えるシグレの頭を、ミズキはありがとうと告げて優しく撫でる。
――ああ、別れの言葉を告げたい人には、もう届かないのか。ごめん――心の内で謝りながら、一人の少女の姿を思い浮かべた、その時。
「ミーくん、ダメっ! このまま死ぬなんて、そんなの」
 優しい声は幻聴か。温かい手や可憐な姿は幻視か。ぼやける視界で疑う少年を、そっと包み込む感触があった。嫌に言葉に覚えがあると思えば、前回立場が逆だった時に、自分が零したのと似ているからだった。あの時は後悔と絶望しか胸に残っていなかったが、今はもう充足感に満たされている。
「いいんだ、これで。ボクは、ナズナを救えたんだ。心残りは、ない」
「あなたにはなくても私にはあるの! ずっとずっと、あなたにはこれからも楽しい事をいっぱい知って、幸せになってもらいたかったのに。私はそのために頑張って来たのに、なのにっ!」
「ううん。ボクはずっと、ナズナと一緒にいて、げほっ、幸せだったよ」
 限られた時間で長く喋らせてすらもらえない。喉元をせり上がってくる赤が、口から零れては阻害される。刻一刻と死の足音が忍び寄る時に、最後の悪あがきは止めない。
「そんな事言わないで。ミーくんはこれまで頑張ってきた分、これからを楽しく生きるの! こんなところでまで、自分を偽らなくて良いの」
「楽しく……そう、だ」
 今際の際になって思い出した、懐にしまった髪飾り。ずっと大事に持っていたのは、大切な人への贈り物として渡すため。ほんの少し赤く汚れてしまったけれど、その美しさは未だ健在だった。震える手で取り出して、目の前の少女に見せる。それが、自身に封じた思いを解く鍵となり、ぼろぼろと、雫が落ちていく。泡沫の夢と共に。
「本当は、もっと一緒に遊びたかった。祭りとか行って、これを着けたナズナを見てみたかった。……やだ、やだよう。死にたく、ない。もっと、ナズナといたい、よ」
「行ける。行けるからっ。今からでも、ね。だから、お願い。私を置いていかないで。一人にしないで!」
 散り際くらいはかっこよく。ナズナの前では涙を見せまいと堪えていたのに。堰を切ったように溢れ出すのは、押し殺してきた思いと、衰弱を示す命の源。目頭も、口の中も、全てが熱い。だが、それを感じていられるのもほんの一瞬。悠長にはしていられなかった。死神に手招きされ、急速に体温が失われていく。残された命の時間は、欠片ほどしか残っていない。ほとんど空っぽの頭で、伝えたい言葉を必死に掻き集めて、体よ動けと最後の願いを込める。
「ごめんね。これで、お別れ。“なっちゃん”、ずっと、ありがとう。大好き、だった、よ――」
 完全に力を失った手が、ナズナの頬から滑り落ちる。少女に赤い筋を残し、手が地面に落ちると同時に、その瞼も閉じていった。温もりの失せた頬に、最後の最後まで精一杯の虚ろな笑みを滲ませながら。
「――最期になって呼んでくれるなんて、そんなのずるい。一人で背負って逝っちゃうなんて、あんまりじゃない……っ」
 気まぐれな風に、少女の沈痛な声はさらわれていった。時を忘れた涙の雨が、空に七色の橋を架ける。蒼穹は山吹色に染まり、果実は失われ、守護者もいなくなろうとも。大地を跨ぐ虹だけは変わらず、確かに美しくそこにあった。楽園を巡る輪舞曲りんぶきょくは、主演の終焉わかれを以って、寂寥たる終演おわりを迎えるのだった。