機械仕掛けの海

アルジェント
「波音」「マスク」「神経衰弱」
編集済み
この作品はR-15指定です

「……全く、どうして僕がこんなことを」
 マスクとレシートだけが入った、何とも言えない寂しさを覚えるビニール袋を片手にぶら下げながら、僕はそう呟いた。思わず零れた溜め息に、パートナーであるクチートが不思議そうにこちらを見る。
 何でもないよ、とクチートに笑いかけてから、僕は自分が今の状況……つまり家から遠いところまでマスクだけを買いに行く原因となった妹のことを思い出す。
 我が妹は年がそれほど離れてはいないのもあってか、いつか誰かが聞きそうな「お兄ちゃんなんて嫌い!」というセリフは「今のところ」聞いていない。
 そんな妹だが、何でも勝負になると自分が勝つまでは絶対諦めず、自分がどのような状態であったとしても勝負を続けようとするのが玉に瑕だ。母が言うには、妹のそれは父と肩を並べるほどのものらしい。僕は幼い頃に片手に数えられるくらいしか会ったことがないから実感が湧かないが、何でも父はポケモンのためになることや、歴史や誰かの人生を変えられるくらいすごいことを日夜研究しているのだという。
 まぁ、父についてはぶっちゃけどうでもいい。今重要なのは、父の性格の一部を受け継いだ妹のことだ。……妹とは今回も、トランプの神経衰弱でおやつのチーズタルトを賭けてちょっとした勝負をした。結果は僕の圧勝だった。
 ――圧勝だったのだが、まさかの一ペアも揃えられないとは一体どういうことなのだ、妹よ。いくら何でも、何回か間違えればどこに何があるのかくらいわかるだろう。同じ場面を繰り返すかのように同じ失敗をするのを見て、お兄ちゃんは自分の目を疑ったよ。
 妹の記憶力の悪さに色々と考えていると、案の定負けず嫌いな妹は目に炎を宿した状態で再戦を申し出てきた。妹の性格は僕もよく知っているので何も言わずに付き合ったのだが、なんと二回目も僕の圧勝。
 続いて三回目、四回目、五回目も圧勝……ときて、これはいくら何でもおかしいと僕が思い始めた頃――妹がぶっ倒れた。慌てて僕が病院で働いている母に電話をすると、僕よりも慌てた様子の母が飛ぶように帰ってきて、パートナーのラッキーと一緒に大騒ぎしていた。
 母が騒いでいるのを見て逆に冷静になった僕が一人と一匹を落ち着かせると、さすがは病院で働いていると言うべきか、素早く妹の症状を見てくれる。その結果、どうやら妹は風邪を引いてしまったらしいことがわかった。
 風邪と聞いて、僕は昨日妹が自分のパートナーであるマリルと庭でびしょ濡れになりながら何かの勝負をしていたことを思い出す。髪から服まで全て濡れてしまったから母にこっぴどく叱られて、僕は自分が勝つまで勝負なんかするから……と思いながらその光景を見ていた。
 恐らく、いや間違いなく風邪を引いたのはそれが原因だろう。それ以外、妹が風邪を引くような出来事が思いつかない。母も僕と同じ真相に辿り着いたようで、これに懲りたら負けず嫌いも少しは直しなさい、とベッドで熱に浮かされている妹に向かって言っていた。……恐らく妹の耳には届いていても、理解はされていないだろう。それでも言いたかった気持ちはわかる。わかり過ぎて逆に辛い。
 僕も何か手伝えることはないか、と聞いて返ってきた返事。それが「マスクを買ってきて欲しい」というものだった。マスクくらい家にあるだろうと思ったのだが、タイミングの悪いことにマスクが切れていて、近いうちに買いに行こうと思っていたら妹が風邪を引いたとのことだ。
 熱は薬を飲めば数日でよくなるとは思うが、用心は必要だ。それなのにマスクがない、というのは確かにダメだ。母かラッキーが買ってくればいいのにと思ったが、その母とタブンネは妹の看病に付きっきりだし、だったらマリルを、という考えが一瞬浮かんだが、妹のマリルは致命的な方向音痴だったことを思い出す。
 ……結局、何もすることがなかった僕とクチートがマスクを買いに行くことになり、そして今に至る。マスクだけが入った非常に軽い袋をゆらゆらと揺らしながら歩いていると、クチートが僕のパーカーの袖を引っ張った。
「……ん、どうしたクチート」
 クチートの方を見ながらそう聞くと、クチートは袖を掴んだまま空いている手で向こう側――海がある方向を指さした。それを見て、僕はああ、と納得する。
「波音が聞きたいのか?」
 そう尋ねると、クチートは嬉しそうに「クチィ!」と笑った。あんなもののどこがいいのか、僕にはさっぱりわからないが彼女が聞きたいというのだから行こう。
 僕は海がある方向へと足を踏み出した。


《ザザー……ザザー……》

 波音が聞こえる。相も変わらず、僕には何の面白みもない音が。だが、クチートはそれを聞いてうっとりと目を閉じている。ポケモンにはいい音なのかと思ったが、僕達以外いたのはほとんどが電気タイプのポケモンだったことから、単に好みの問題なのだろう。
 クチートはしばらく波音をうっとりとした様子で聞いていたが、やがて満足したのか目を開いて再び僕のパーカーの袖を引っ張った。コクリと頷くと、クチートはぺたぺたと先に歩いていく。どうやら先頭を歩きたいようだ。
 どんどん先へと進む彼女を見て、自分もすぐに追いつかなくてはと足を動かしかけた、その時。

 ザザーン……

 波の、音が聞こえた気がして、僕は慌てて海の方を見た。しかし、そこにはテレビ、ラジオ、スピーカー、パソコンなどで一面が埋め尽くされた光景――先ほどまで見ていた「海」しかない。
「――――」
 それはそうだ。この数十年で急激に進められた開発によって、本物の海はほとんど埋め立てられてしまったのだから。

 人の新しく住む場所がなくなったから。そう言って海の一部を埋め立てようと最初に提案したのは、一体誰だっただろうか。ジムリーダー? 四天王? チャンピオン?
 いや、ポケモンを心から愛する彼らがそんな提案をしたはずがないか。きっと会社の偉い人や、巨大組織のトップとかが言い出したのだろう。海を埋め立てるなんて認めない、という組織が一時期派手に暴れていたこともあったが、対立していた組織と一人のポケモントレーナーの手により解散させられた、という噂を母から聞いたことがある(もう片方の組織がどうなったのかは、明らかにされていない)。
 そういう風に一時期反対する動きがあっても、賛成する動きによってことごとくねじ伏せられてきた。その結果海はどんどん埋め立てられ、それと同時進行するかのように科学も発達していった。「古い」もの達はあっと言う間に見向きもされなくなれ、常に「新しい」もの達が注目される。「新しい」からと買ってもすぐ「古い」ものになってしまうのだから、発達のしすぎも考えたものだ。
 ……次々と出た「新しい」ものにより、役目を追いやられた「古い」ものはどこへ行くのか。簡単だ。海が埋め立てられてできた新しい場所に捨てられる。人が住むために埋められたのに、物を置かれるために使用されるとは……皮肉なものである。
 そうやって様々な「もの」特に機械が捨てられ続けた結果、僕達の身近にある「海」は科学の進歩により不要と判断された機械達で造られたものになっていった。波音は機械達のどれかから発せられるもので、本物の波音ではない。
 リサイクル技術にもっと目を向けていれば、この光景は生まれなかったのかもしれないのに。いや、それもそうだが、反対の声に耳を傾けてどこがどうダメだから反対されるのかを知ればもう少しいい結果が待っていたのではないのだろうか。
 ……もう過ぎたことにあれこれ言っても、仕方のないことなのかもしれないが。自然と俯いてしまい、海に遊びに来たらしいピチューの姿が目に入る。
 僕達の傍にはポケモンがいてくれるが、それもいつまでのことだろう。環境が変わってしまったことで、草タイプや水タイプのポケモンの多くは人があまりいない場所へと移動してしまったとニュースで聞いたことがある。草タイプや水タイプのポケモンを連れているトレーナーをあまり――いや、ほとんど見たことがないのが、その証拠だろう。妹がタマゴの頃からかわいがっていたマリルも、何回人に狙われたことか(もちろん、狙われる度に僕と母で撃退していたが)。
 自分達のことを優先していった結果、大切なものを失ってしまった。この「機械仕掛けの海」は、それを僕達に教えてくれている。

 ――これ以上、失うわけにはいかない。

 そう両の拳を握りしめた時、ふと数日前母に将来の夢は何なのかと尋ねられ、この年齢になってもまともに答えられなかったことを思い出す。海を見て、幻の波音を聞いて、あちこちに散らばっていた何かが混ざり、ハッキリと形を成した。家に帰ったら、いや少なくとも妹の風邪がちゃんと治ったら、そのことを伝えてみよう。
 そう考えていると、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。

「クチィ――!!」

 声が聞こえた方向に視線を動かすと、いつまで経っても僕がついて来ないことに気が付いたのか、頬を膨らませたクチートがこちらに向かって走ってきたのが見えた。
 彼女はかなり怒っているのか、目の前まで来た途端クチクチと言いながら僕の足をポカポカと叩く。怒っていても叩く程度で済んでいるのだから、本気で怒っているわけではないのだろう。
 ……彼女が本気で怒ったら、叩く程度では済まないことを僕は知っている。
「ああ、ごめんごめん。今行くから」
 そう言いつつクチートの頭を撫でるが、彼女の中で僕は「何を言っても動かないやつ」になってしまったらしい。ぐいぐいとパーカーの袖を引っ張り、無理やりにでも連れて行こうとする。
 このままではクチート自慢の大顎でずるずると引きずられていくと考えた僕は、彼女に引っ張られた状態のまま歩き出す。……歩き出しても手を離されないとは、彼女の中では僕の評価はどれだけ落ちてしまったのか。気になるけど今はそれどころではないだろう。
 歩きながら、機械仕掛けの海を見つめる。今日妹が風邪を引いてしまったのも、クチートが海に行きたいと言ったのも、僕の将来の夢がきまったのも、全てが全て偶然なのかもしれない。
 でも、僕は思うのだ。

 ――これは、偶然が複雑に絡まり合った「必然」だったのだと。

 裾を引っ張る力が一段と強くなった。妹とこれからの僕達のために、早く家へと帰りたいのだろう。彼女の思いに答えるためにも、僕は歩みを早める。

 ザザーン……

 海が視界から完全に見えなくなる直前、またあの波音が聞こえた気がした。僕のことを応援、してくれているのだろうか。
「叶えられるかどうか、わからないけど――やるだけやってみよう」
 拳に力を入れると、いつもと変わらない灰色の空へと視線を移した。

 しばらく歩いていると、家の前でこちらに向かって懸命に手を振っているマリルの姿が見えてきた。いや、手を振り過ぎて今は尻尾をぶんぶんと振っているが、それはぶっちゃけどうでもいい。
 ――ああ、もうすぐあいつらが待っている場所に着くんだ。そう実感すると、僕の口元は自然と上がっていった。
「クチィ!」
 玄関に着くまでの僅かな間も、クチートはパーカーの裾を離そうとしない。だが、これは僕を動かすためと言うよりも、単に僕から離れたくないからという理由でやっている気がしてきた。
 そう思うと裾が伸びるという文句も喉を通り過ぎる前に消えていって、出かける前よりも伸びてきた袖を眺めることしかできない。マリルがそんな僕達を見てニコニコとしているのに妙に腹を立てている間に、玄関へと辿り着いた。
 ありふれた形のドアを見て、一気に気持ちが緩む。そのせいか、ついぽつりと本音が零れてしまった。
「さて、どうやって馴染んでいこうかな。研究ばかりしていたせいか、演技には少し自信がないのだが――」 
 僕の呟きが聞こえたのか、クチートがこちらを振り返って不思議そうに首を傾げた。マリルもきょとんとした顔をしていた。あのことで頭が一杯で、うっかり彼らのことを忘れてしまっていた。これではいけない。
 何でもないよ、と二匹に笑いかけてから、僕はドアノブをゆっくりと回した。




 ――否、回そうとした。でも、できなかった。僕がドアノブに手を触れた瞬間、視界の端でクチートの大きな顎が開かれたのを捉えた。

 その直後、世界が暗い赤に染まった。

 ――ねぇ、あなたは一体誰? わたしのご主人様じゃないよね? ご主人様を、一体どこへやったの? 返して、わたしのご主人様を。返して、返して、返して……返せ。返せ、返せ返せ返せ――

 脳までもが赤に染まる直前に聞こえた「ポケモン」の声は、今まで被っていた優しさと名の仮面を脱ぎ捨てた、とても冷たく狂気に満ちたものだった。
「――――」
 どこからかドアを開ける音と、あいつらの家族の悲鳴、誰かがすすり泣く音が聞こえた気がした。







「上手く、いったようですね」
 真っ白に染まったモニター画面を見つめながら、グレイシアはリーフィアに向かってそう言った。「ポケモン」の言葉ではなく――「人間」の言葉で。
 リーフィアはその言葉を聞くと緊張した顔つきから一転、ぱあっと顔をほころばせたかと思うと、パタパタと早いリズムで尻尾を振り始めた。その勢いが少々激しくて時々グレイシアに当たってしまっているが、グレイシアは少しリーフィアを睨むくらいで特に何も言わない。
 二匹の傍にいたニンフィアはその光景にふっと目を細めると、ただクスリとだけ笑った。二匹を見つめるその眼差しは優しさに満ちており、母親が愛する我が子を見るのと似たようなものを感じられる。
「これでお父様の願いが叶うね!」
 リーフィアがニコニコとした表情のまま、嬉しそうに二匹の周りを走り回る。危ないですよ、とグレイシアが言ってもリーフィアは走るのを止めない。
「あうっ」
 すると、案の定というか何というか、リーフィアは突然現れた何者かにぶつかり額を強打してしまった。ほんのりと赤くなった額を擦りながら、危ないな~とリーフィアは自身とぶつかってしまった者を僅かに涙が浮かんだ目で見る。
「……あ」
 リーフィアはその者を見ると顔をさぁっと蒼くして、素早くグレイシアの後ろへと隠れてしまった。そんなリーフィアをやれやれと言った様子で見ていたグレイシアとニンフィアは、視線を静かに目の前に立つ者の元へと移す。
 「彼」はリーフィアがぶつかってきたことに少し機嫌を悪くしたが、それが気にならないほどに気分がよかった。なにせ、長年の夢が遂に叶うのかもしれないのだから。
 静かに視線をスライドさせると、茶色と水色――「彼」とニンフィアの目が合う。ニンフィアの目に穏やかな光が宿ると、自然と「彼」の目にも穏やかな光が宿った。その様子に顔を蒼くしていたリーフィアが、恐る恐るといった様子でグレイシアの後ろから出てくる。
「お父様……?」
 リーフィアが耳を後ろへ移動させながらそう尋ねると、グレイシアが無言でリーフィアの背中を尻尾で叩く。突然の痛みにリーフィアが目尻をつり上げながら睨みつけると、グレイシアはわざとらしく咳払いをした。
 なぜいきなり咳払いをしたのかとリーフィアはしばらく首を傾げていたが、グレイシアがしきりにニンフィアと「彼」に視線を送ったことでようやく理解し、数少ない穏やかな時間に水を差してはならないと慌てて口をつぐむ。
 しかしその頃には「彼」はとっくにニンフィアから視線を離しており、リーフィアとグレイシアのやり取りを真顔で眺めていた。その事実に気付いていたグレイシアは自身の体温が更に下がるのがわかった。
 だが、「彼」はグレイシアが思ったこととは反対に三匹の頭を優しく撫でると、モンスターボールを白衣のポケットから取り出し、三匹をその中へとしまった。

 ボールをしまったのと反対側のポケットから、発行されてからかなりの年月が経っているのかボロボロになり、コーヒーのシミなどでところどころ文字が見えなくなった新聞を取り出しある記事を見ると、フッと笑みを浮かべる。
 「彼」は彼のかつての友と見た海で、ある勝負をすることになった。今から思えば、あれが「彼」と友の研究の始まりであり、友が「彼」にとって更にいいライバルとなった出来事なのだろう。
 友は一緒に働いていた時から優秀で、こんな自分でもいいライバルだと言ってくれていた。風の便りによると、友の息子も彼と肩を並べるほど優秀なのだという(娘については「かわいい」としか聞かないので、除外する)。
 しかし、何もやることが見つからず、ただその才能に埃を被せているのが勿体ないとも聞いた。実際、あまり顔を合わせたことがないというのに友が何度も褒めるものだから、こっそりと見に行ったことがある。そして行動を見て、確かに勿体ないと思った。
 「彼」が見た様子だと、彼は埃を払う気がさらさらない。どうにでもなれ、という感じにも思える。これではいけない。
 だから、「彼」は決めた。自分の研究でその埃を払いのけることを。しかし現実は無常なことに、研究で「彼」は埃を払えるほどの力を得ないことを知る。どうしたものか、と頭を抱える「彼」の耳に飛び込んできたのは、友の研究内容だった。
 内容は友にしか思いつかないようなものであり、「彼」の理想を実現できる可能性を秘めたものだった。こっそりと友を研究対象にして結果を見たが、友は「彼」が求めていた力も持っていた。
 これだ、と「彼」は思い、そのタイミングを狙った。かつての友と言えど、今も昔もよきライバルであることには変わりない。
 どんなことをしてでも勝ちたいと思って、何が悪い。そう「彼」は無意識のうちに自分を正当化しつつ、友のものとそれほど変わらないレベルの負けず嫌いを、これまた無意識のうちに発揮していた。

「――この勝負、僕の勝ちだな。さぁ、始めようか」

 そう言い終えると、「彼」の姿はまるで煙のようにかき消えた。残ったのは、「彼」が新聞を取り出した時に落としたらしい、海賊のような服を身に着けた者達が集まっている風景が切り取られた古い写真と、機械仕掛けの海の写真だけだった。







「――なぁ、博士がどこにいるか知らないか?」
 とある研究所の廊下で、眼鏡をかけた男が糸目の男にそう尋ねた。その腕には今にも崩れ落ちそうなほどの書類を抱えている。糸目の男はそれを見て、疑うような目を隠すことなく眼鏡の男に向けた。
 しかし、眼鏡をかけた男は真剣な目でこちらを見ている。抱えている書類はまるであってもないかのような態度だ。
(……どうやら、書類を運ぶのを手伝えとは言われなさそうだ)
 自身の視線が糸目によりわからなかった可能性をあえて排除しそう結論付けると、男はその問いに答えた。
「いや、知らないな。どこにいるのかさっぱり見当もつかない」
 糸目の男が首を横に振ったのを見て、眼鏡の男はうっかり書類を落としそうになる。書類の束がぐらりと揺らいだのを見て糸目の男が半歩退いた時、どうにか体勢を立て直した眼鏡の男はハァと深い溜め息を吐いた。
「お前も知らないのかよ。……博士、一体どこに行っちまったんだ?」
 眼鏡の奥の目が疲労により暗くなりかけているのを見て、糸目の男は同情の視線を向けると共にふと思ったことを口にした。
「だよな……。それにしても、博士本当に成功させるなんてすごいよな」
「ああ。何でも博士のライバルが『人間をポケモンに変化させる』研究をしているのに対抗してのものって聞いて、どうかと思ったんだが。どんなものでも、やろうと思えばできるものなんだな!」
 糸目の男が「あのこと」に関することを口にした途端、男の眼鏡がキラリと光り暗くなりかけていた目がみるみると輝いていく。その変わりように糸目の男の口元が少し引きつりかけた、気持ちもわからなくはないので素直に頷いた。
「全くだ。『ポケモンの様々な能力を、そっくりそのままその身に宿す』研究なんて、博士くらいしか思いつかないよな。博士の手持ち、よく手伝ってくれたよな」
 糸目の男が書類やら何やらを持たされ、あちこちに走り回るピカチュウやザングースを思い出していると、眼鏡の男がそういえばという感じで口を開く。
「ああ、そうだ。博士の手持ちと言えば……博士、ヨノワール持っていたっけ?」
「ヨノワール? 確か博士は持っていなかったはずだが。一体どうしたんだ?」
 何を一体どうすれば、博士と何の関係もないヨノワールの話題が出るのか。そのことを不思議に思いつつ、糸目の男は理由を言うよう視線で促す。
 眼鏡の男は少し眉を下げると、ある方向――自分達がいる場所とはかなり離れた、確か特別研究室なる部屋がある方――に視線を向けた。
「さっき誰もいない研究室で、かなり弱った状態のヨノワールを見つけたんだ。周りはとても酷い状態で、博士のモンスターボールは全て壊れていた。俺は運がいいのか悪いのか、博士がどんなポケモンを持っているのか知らなくてな。博士がいつも持ち歩いていた家族の写真を持っていたから、てっきり博士の手持ちなのかと思ったんだが……」
 ヨノワールは意識を取り戻すかどうか不明だから、今のうちに連絡して様子を見に来て欲しかったんだが……と呟く眼鏡の男に、糸目の男はある可能性を話す。
「だったら、博士のライバルの手持ちじゃないのか? 少し前、ここに来るのを見かけたから――」







 誰もいない研究室。そこで、一匹のヨノワールが壁にもたれかかって、何もない空間を眺めていた。彼の傍にはパートナーである……いや、正確にはパートナー「だった」ピカチュウとザングースが静かな眠りについている。
 彼らにはかなりの迷惑をかけてしまった、とヨノワールは罪悪感に心を視えない縄で締め上げられるのを感じた。無意識のうちに頬を熱いものが流れていくのを感じながら、ほとんど力の残っていない手でそっと柔らかな黄色い毛と白の毛を撫でた。
 その体は毛のお蔭か時間がそれほど経っていないからか、まだ温かい。そのことに頬から流れる熱の量が増えた。
(なぜ、私はこんなにも負けず嫌いなのだろうか。あの時素直に負けを認めていれば、こうはならなかったというのに)
 始まりとなったあの海と勝負の内容を思い出しつつ、視線を天井へと移す。真っ白だった天井にはところどころ汚れがついていて、偶然泣き顔のように見える汚れと視線が合う。まるで今の自分の顔をそのまま見ているかのようだ、とヨノワールは思った。
 ゆっくりと、だが確実に瞼が重たくなってくる。自分の研究所に来て土壇場で自身の研究の成果を見せた後に自分の研究を盗むという、とんでもないことをしでかしたあの男はどこで何をしているのか。研究員達は無事なのか。妻は、子供達は大丈夫なのか。
 様々なことがヨノワールの脳裏を駆け巡るが、最後に過ぎったのは目の前にいるパートナー達のことだった。
(ああ、仲間や家族のことよりもパートナー達のことが最後に過ぎるとは……。妻や子供達に文句を言われても、何も言えまい)
 苦々しい笑いが零れるのを感じながら、目の前にいるパートナー達をこのままにしておけないと思った。パートナー達の後を研究員達に託すのは何だかモヤモヤするし、かといってこの体ではもうモンスターボールは持てないだろう。
 ふと、視線がヨノワールとなった自身の体に落ちる。視界に映ったのは、腹にある巨大な口だった。今はピタリと閉じている口を見て、ヨノワールは通常では考えられないことを思いついた。

 静かだった研究室内に音のないメロディーが鳴り響く。そのメロディーはヨノワールの脳内でしか聞こえなかったが、とても美しく儚げなもので――まるでオルゴールのようだと彼は思った。

(……これで、一緒だな。いつまでも。どこに行っても)

 床一面に紅い液体が広がり、尻尾や耳だったものがあたりに散らばっている。こんな状態でよくここまでできたものだと自分で自分を褒めながら、満ち足りた心でヨノワールは暗くなる世界にその身を投げ出した。

 ザザーン……

 常闇の世界がヨノワールを包み込む直前、彼の耳に届いた波音とポケモンと青年達の笑い声は、彼が無意識のうちに思い出した大切な過去のものだろうか。
 それとも、復讐の仮面を被った男と様々なことが原因で神経衰弱を患った男が、ポケモン達と共に悪しき思い出を赤い波音で消した、壊れかけの過去のものだろうか。
 それは誰にもわからない。かつて仲間やライバルから博士と呼ばれていたヨノワール本人や、その家族でさえも。
ヨノワール達がこのような運命を辿ってしまったのは、一つ一つは単なる偶然だったのかもしれない。
 だが、彼はこう思うのだ。

 ――これは、偶然が複雑に絡まり合った「必然」だったのだと。