違和感の箱庭

29962文字あるので時間あるときにどうぞ
イラスト
 十一月に差し掛かる間際の何とも言い難い、「ぬるい」の真逆語があるならドンピシャで嵌まる程度の気温である風が、みすぼらしく吹いている。
 数カ月でこの風も耳の奥をイジメてくる冷風に化けることを考えると、今から薄ボンヤリと気分が憂鬱になる。耳が痛くなったり醜く腫れたりすることを私は幼少時代から嫌っていた。プールで耳に水が入って泣いたことは二度あった。耳かきで鼓膜を傷つけて出血を招いたことはほとんどトラウマに近くなっていた。
 耳は体のオルガンの中でもとりわけデリケートな部分だと思う。耳には必ず膜がある。膜というのは薄くて破れやすく再生が困難であるものを指すのに用いられる呼称だ。鼓膜に限っては再生能力は一応あるものの、中耳炎とかで何度も破けた場合はもう元に戻らない。私達は一生かけてこの耳を守っていかなくてはいけない。
 ここまでの冗長な耳の話を読んで想像に難くない通り、私は今、暇だった。学校が終わった帰り道、今宵は家に帰宅してももぬけの殻なので、自分はぶらぶら散歩をした挙げ句、ベンチでアイスを食べて時間を適当に潰していた。
 この"ザクレ"という名称のオボン味のアイスは、どこにでも売っている定番の物で、一時期販売休止になった程人気がある。下の分厚い氷の部分全てが木の実のオボンで味付けされ、黄色一色で綺麗に染め上がっている。そして極めつけとばかりに、上にスライスしたオボンが氷漬け状態で乗っている。木のスプーンでオボンを貫通させつつ氷をすくって食べるのが好きだ。風が吹く日の屋外でも余裕綽々で完食することができる。蓋までほんのりと甘い味がして、ひと目のつかない空間では私は蓋を舐めることさえある。
 イネ科雑草が生い茂る緑一面の草むら、その真っ只中ではトレーナーによる野良試合が繰り広げられていた。ただ今火花を散らしているのはイワンコとサンドというモンスターだ。サンドは砂丘とかで見られる赤茶けた色の方。双方小柄な種族だが技の応酬は怖いぐらい激しく、私は流れ弾が飛んでこないか注意を払う必要があったが、このスリルも町中バトルの醍醐味だ。
「よし、イワンコそこだ! 昨日練習した技で決めてやれ!」
 気合の入ったトレーナーの指示に軽く頷いた後、イワンコは膝を曲げて大きくジャンプする。そして空に向かって、もし進化系であったら神々しくなるに違いないぐらいの迫力で吠えた。
 次の瞬間何もない空間から四つの岩が、まるで神様の落とし物かのように急に出現して落下した。
 ポケットモンスターというふしぎなふしぎないきものは、バトル中質量のある物体を突然引っ張り出してくることがある。ふと目についた本で得た知識だけど、それらの物体は元々どこかの異世界に存在していたもの、らしい……。とりあえず、あの子達の力は卓越していると思う。
 だが異世界で暮らしている人達は、触れていた岩などが不意に消失し、口をあんぐりさせていないだろうか。ときどきそんな危惧が生まれる。その人にとって大事な宝物だったら可哀相。生き物がいない世界から頂戴しているなら良いけど。
 イワンコが降らした岩の一つはサンドの頭頂部を見事直撃。相性的にはイマイチだが結構痛かったようで、サンドは座り込んで頭を必死に押さえていた。
「うわあ凄い強力な技……。サンド大丈夫? どうするまだ戦う?」
『う、うん。まだ、なんとかいけそう。フラフラするけど』
 トレーナーの心配げな声を聞いたねずみモンスターは、根性を発揮して立ち上がり戦闘態勢を取り直す。
 サンドはその後地面タイプの技で挽回しよう励んだ。しかしレベル差が少し開き気味なのか、結局致命傷は与えられなかった。最後はイワンコのかみつくであえなくひんし状態となった。
 
*

 十二才のハッピーバースデーを迎えた子供達はみんな一人前の大人とみなされる。野生のモンスターをモンスターボールで捕まえ他人のモンスターと戦わせることも、この年齢から許される。
 更には学業を放棄して各町を転々とし、ジムバッジを集めチャンピオンを目指すことに挑戦できる。
 さっき私の目の前で野良試合を行っていた二人も、ジムバッジを集めている最中のトレーナーなのだろう。
 この十二歳という年齢で旅をするということについて、あちこちで賛否両論が飛び交っている。国会でも井戸端でもインターネットのSNSでも、罵倒や人格否定を混じえながらの話し合いがされている。
 トレーナー稼業に失敗した人の進学や就職が困難で、路頭に迷う人が増えるという意見が多くある。そもそも十二才というまだ幼気とも言える年齢で旅をするのは危険ではないか、という意見は更に多くある。
 ただその一方で旅を終えた子供達が、心身共に立派に成長していたりする。自身のパートナーと絆を深めることでその後の人生に多大な影響を及ぼす。実際今の日本を動かしているのはトレーナー出身の人が多いということも、旅賛成派の思想を強く後押ししている。
 どちらの思想がしくじっているのかは分からない。別にどちらか一方が正善なんてこともないと思う。人それぞれ生き方や考え方は異なって良い。そんなことよりその偏った考えを他人に過剰に押しつけることが無用だと思う。自分こそ正しいという傲慢な思想は危険だし、ときにそれは正義の暴走を招きかねない。
 リスクを承知で旅に挑むのも全然正しいし、旅をしないで日常を謳歌するも全然正しい。ちなみに私は旅をしないで学生をやっている。
「お疲れイワンコ。よくやったね。実践で初めていわおとし使ってみたけど無事成功したね。凄いよ」
『一個しか当たらなかったけどね。他全部外しちゃった』
「いやいや上出来だよ。元々命中率高い技じゃないし」
『なんとか勝てて良かったー。あのサンドも強かった。砂地獄っていう例の物騒な名前の技、結構怖かったよ』
「よっし、お疲れ様。ボールの中でゆっくり休んでて」
 そう労い、イワンコと気持ちよくハイタッチした後ボールへと戻す。赤い閃光に包まれた子犬は、縮小してボールの中へ吸引されていく。
「サンド、しっかりして! 大丈夫?」
 敗北した方のトレーナーは未だぐったり横たわるサンドを抱きかかえ、声を絞りながら強く揺すっていた。噛みつかれた右足の出血で、彼女のズボンが汚れていくのが見える。意識を取り戻したらしいサンドは線香花火のような声で喋った。
『う、うう……。負けちゃった。ごめんなさい。あの身軽なイワンコには全然敵わなかったよ』
「そんなことないよ。サンドも良く頑張ったよ。最後まで諦めず戦ってくれたね。立派だったよ」
『ありがとう……。また次、勝てるように頑張るからね』
「ちょっと待ってて。今痛いの治してあげ……うわあ右足が凄いことになってるよ。すぐに血止めないと」
 彼女がリュックサックに手を入れ取り出したのは、キズぐすりだった。持ちやすい形状でスプレータイプになっているそれを、ひんしで今も苦しんでいるパートナーの傷口に吹きかけていく。一通り治療を済ますと少し元気を奪還したようで、グラグラしながらも独りで起きることができた。痛々しかった出血も完全に止まっていた。

*

 ザクレオボン味もいつの間にやらもう食べ尽くし、オボンの種と皮だけがカップに残されていた。   
 私はもう良い加減下校することにした。ベンチから立ち上がりバトルしていた二人に軽く手を振ったが、折悪しく彼らは自分の方を見ていなかった。
 草むらと草むらの間隙をだらだらと歩く。ときどき野生のモンスターが、人の手が加わっていない自然の中で活き活きと生活する様子を観察できた。それぞれの種族が今日も明日も、可もなく不可もない日常が狂わぬよう祈りながら、厳しい日々を活発に生きている。
 長い尻尾をフックにして器用に木の上に登るエイパム達が、獲ってきた木の実をみんなで分け合っていた。エイパムの中にはシワが多くて腰が曲がった、年配者らしき子も混じっていた。
『はい、クラボの実とオボンの実!』
『わあ、こんなにたくさん! いつもすまないね助かるよ! これで冬も越せそうだ』
『なあに、困ったときはお互い様さ、おばあちゃん』
『ありがとうや』
 草むら付近の川では二匹のニョロモが、どちらが早く向こう岸まで早く泳げるか競争を行っていた。水しぶきを荒々しくあげながら真剣勝負を謳歌している。
『負けてたまるものかー』
『くそー。中々追いつけてつけないなー』
『まだまだ修行が足りないな! こんだけ差がもうついてるんだから諦めろ』
『まだまだー。ここから追いついてやる』
 更に先へ進むと、ピシッと一列に並んだヤングース達が、私を見ながら何やらひそひそ述べ合っていた。
『あのニンゲン、何しにここに来たんだろう』
『さあ、散歩じゃない? それかホームレスで移住先を決めているとか』
『えーこの辺来るのやだー』
『ボク達捕まえようとしないのかな』
『……アウトオブ眼中っぽい』
『私達ヤングースは所詮有象無象の雑魚だからね』
『いや俺達はざこちゃーう!』
 ヤングース達にツッコミを入れたい所をぐっと堪え、無表情のまま私は通り過ぎる。
 厳しい自然界の現実も垣間見れた。大鳥のピジョンが芋虫のキャタピーを今まさに丸呑みしようする手前だった。ピジョンは鋭い爪の生えた足で、被捕食者の体をきつく木に固定している。被捕食者の方はろれつの回っていない怯えた声で、目に涙を浮かべながらピジョンに訴えていた。
『た、食べないで下さい!』
『食べるよ!』
 不敵な笑みを浮かべながらピジョンはそれが当然とばかりに即答した。呆気なくキャタピーはピジョンの胃の中へと吸い込まれていった。

*

 野生のモンスター達がうじゃうじゃ住まう空間を抜け出した。お次は町を歩くのである。町では、人間とモンスターがカオスに交錯する光景が見られる。人とモンスターと言う相反する二種類の生物は、共に助け合い、共に笑い合い、そして共に反発し合って生きている。
 新人らしき風貌のトレーナーが、すでにクシャクシャ気味のタウンマップを眺めていた。初心者用の一匹に指定されているヒトカゲと手を繋ぎ、汚れのない純粋な笑みを浮かべて呼びかけていた。ヒトカゲはやる気十分のようで、尻尾の炎をちょっとだけ強くしながら応えていた。
「よし! この町を抜けたら次はジムのあるバッジだ」
『いよいよだ!』
「気合入れていくぞ!」
『うん!』
「閉店セール中」と色濃く看板に書かれたお店があった。お店ではどくけしやモンスターボールと言った定番の道具が、通常よりも安い値段で売られていた。お店の前で一人のおじさんと一匹のニューラが、通行人の若いお姉さんに商品を買うことを催促していた。こうやって自分のモンスターまで駆使して押し売りしてくる手法はずるい。ついつい商品に手が伸びそうになってしまう。
「おいそこのお嬢ちゃん、どくけしはいらないかい? 今なら安いよ」
「あ、ごめんなさい。今あんまりお金ないんで」
『えー、お姉ちゃん買ってかないの。安いよ』
「ごめんね、今本当にお金ないから」
 まだ十二才に満たない幼い男の子と女の子が言い争いをしている。真ん中には下を向いて溜息を付いているイーブイがいた。どうやら二人はイーブイの進化先について議論を繰り広げているらしい。どの家庭でも有りがちな、ありふれた喧嘩内容だった。
「ぜったいブースターに進化させるんだから!」
「やだもん、ブラッキーがいいもん! そうだ! イーブイに聞いてみようよ! 何に進化したいのか、イーブイ自身の意見を参考にしよう」
「そうだな。イーブイ、なあ教えてくれ。一体何に進化したいんだ?」
『……ぼくもう卵に退化したい』
「え?」
「イーブイ、それどういう意味!?」
「ちょっとイーブイどこ行くの? ねえ卵に退化したいってどういうこと? 退化って何?」
 私は思わず乾いた笑いが出てしまった。あのイーブイには同情するしかあるまい。自分の身勝手な希望や考えを一方都合で相手に投げないで、ちゃんとお互いを尊重し合いなさいよって言いたくなる。あんな小さい子達に大人でも上手くいっていないことを実践しろって説教しても、土台意味のない話しだけど。

*

 早歩きならほんの後三分で家の玄関に到達段階、そのときのことだった。
 私は町と草むらがサクで区切られた所を歩いていた。この町の西と東の草むらは道中のトレーナーもジム地点の都合上あまり通過することはなぐ、私が通学するときいつも閑散としている。
 そのような物静かな草むらで、三匹のポッポが同じ所をぐるぐる回っている光景を発見した。
 傍から見てそこまで異質な場面という程ではない。野生のモンスターが人間にとって意味不明な行動を取ることなんて常日頃起こりうることだし、神に祈る儀式の可能性もあるから迂闊に邪魔をしてはいけない。
 と、みなしていたが私は、ポッポ達が円転を繰り返す中心部に、得体の知れない不審物が置かれていることを捕らえた。
 嫌な予感を察知した私は歩みを完全に止め、全力で集中力を発揮してその場所を凝視する。その正体が判明したとき私は青ざめた。 女の子が一人仰向けになって倒れていることが判明した。
 運動不足の軟弱な体で懸命にサクを飛び越え、私は一心不乱にそこまで駆け出した。ポッポらは私が押し寄せると一斉に飛び交った。気絶した人間を発見したものの、どうすべきか判断に困っていたのだろう。大胆不敵に人間に知らせに行くべきか、突付いて意識を確認すべきか。
 彼女の傍まで辿り着いたが、私も結局ポッポ達と同様、何をどうしたら良いのか迷った。こういう状況ではAEDという装置が役立つらしいが、草むらにはそんなピカチュウの技発生器みたいなものは無かった。 
 そもそも心臓は現在停止中なのか。ひとまず私は胸に耳を当てて音を確認した。週に一度丁寧に垢を除去しているこの耳は、一定リズムで刻まれる「ドクン」という音を確実に拾った。心臓弁膜症の恐れを表す不審な雑音も聴こえてこない。何はさておきこの子は生きている。
「ねえ大丈夫? しっかりして!」
 心臓は正常に動作しているなら、この子はモンスターで言う所のいわゆるひんし状態である。場違いな連想からそう考えた馬鹿な私は、パートナーを心配するトレーナー紛いなセリフを放ち、その子の体をちょっと強めに揺さぶった。
「うう……」
 彼女は苦難を込めた声を漏らしゆっくり瞼を開けた。どうやら意識が戻ったようだ。あまりにも雑な私の救護活動は一応ハッピーエンドで終わるようで安堵した。
 良く見ると彼女には目立った外傷もないし、服だって丸っきり破けていない。一体なんでここに倒れていたのだろう。
「ここって……どこ……?」
 失神から復活した人にかけるべき最初の言葉が分からず、私はうっかり黙り込む。その女の子は寝ながら左右に何度も繰り返し首を捻っている。急に目を見開いてこんなことを弱く叫んだ。
「嘘……私、本当に来ちゃったの?」
 そうして彼女は私の膝上でまたもや意識を失った。
 もう一度体を揺さぶろうとしたが一旦止めた。最も適切な行動は何か気がつき携帯電話を手に取った。
 束の間の空白の時後、彼女は救急車で運ばれていった。
 その後彼女は無事に目を覚まし元気になったと私宛に連絡がきた。
 どうやらあの子は本日トレーナーとして旅を開始したばかりのようだ。記念すべき旅立ちの日に道端で失神とは災難なことだと同情する。私だったら気絶の発端となった事柄に対して、延々恨みの念を送り続けることになっていただろう。

*

 事件って言えば事件のあの出来事から数日が経過した。中二病盛りの十四歳を迎えてから、ときの流れが随分と早く感じられる。
 119番に電話をして頂いた方の家にはお菓子を持ってお礼に行くというマナーが、私の知らない高級な世界ではあるみたいで、例のあの子もそれに則り私の家まで一人でやってきた。
「先日は、ありがとうございました」
 家の中に上がらせた後、彼女は用意した座布団にも座らず深々と頭を下げた。別にそこまで畏まらなくても良いことを伝える。そして私は、今日までのべつ幕なしもやもやしていた件を単刀直入に尋ねた。なぜあのとき倒れていたのか、という根本的なこと。病院の先生はどういう訳かこれについて共有してくれなかった。救助者にも教えないとは一体どういうことか。
「野生のポケモンに襲われてしまいました。繁殖期なことを知らずに、つい怒らせてしまって」
 彼女はきっぱりとそう答えた。だが私は0.5ミリも腑に落ちていなかったし、彼女の目が泳いでいたのもあって嘘をついているのだと疑っていた。  
 ただ私は探偵の振りをしたい訳ではない。そもそも推理小説を読んだことがないので振りなんか出来ない。それに彼女にとってあのときを思い返すのは苦痛を伴うことだろう。本当は知りたかったが、仕方なくこれ以上問い詰めなかった。「どのモンスターに襲われたの?」ってことも質問しようかと思ったけど止めた。
「今日って、誰も家にはいないんですか」
「いないよ。お父さんは今普通に社畜中だし、お母さんはトレーナーだから稀にしか帰ってこないし」
「じゃあ今は家でお一人なんですね」
「うん今は一人」
『あれその子誰? どうしたの?』
「今は一人」って言ったタイミングでドア開けっ放しの隣の部屋から声を発せられたので、「いや、人いるやん」って突っ込まれてもおかしくない状況になった。たが私は別に嘘をついた訳ではない。彼のことは普通『一人』とはカウントしないからだ。場合によって彼は『一匹』ともカウントされない。
 彼は人間ではなくれっきとしたポケットモンスターで、『ヒトツキ』という鋼タイプの種族だ。少し珍しい分類に入るモンスターで、野生ならともかく飼っている人はほとんどいないだろう。だがヒトツキはエサ代がゼロ円で済むという神がかった特性を持つ。
 見た目は剣のような姿をしている。だが彼は生き物であり当然のように霊長類だ。まるで「自分は無機物ではなく生物だ!」と主張するかの如く、ヒトツキには目や口が備わっている。また彼は自分の足という物を持たないが、ゴーストタイプを複合しているみたいなので、幽霊みたいにふよふよと浮游して移動ができる。
『もしかして誘拐してきたの?』
「違うよ。何頭のおかしいこと言っているの」
『もしかしてこの間言っていた子?』
「うんそう。この子があの西の草むらで倒れていたんだよ」
 私とヒトツキの談話を彼女は居心地が悪そうな様子で聞いていた。ヒトツキが誘拐してきたとかシュールめいた冗談を唐突に投げたせいで。
「あの……ちょっといいですか……」
 彼女が突然喋った。声が明瞭にビクビクしている。
「どうしたの?」
「あの……もしかしてその、ヒトツキが何を言っているのか、理解できちゃったりするんですか……」
「えっ」
『あー、僕ちょっと早口だから聞き取りにくいもんね。ごめんね。どう? これぐらいのスピードだったらちゃんと聞き取れる?』
 ヒトツキがさっきよりも早口で喋り、彼女をおちょくっている。一方の彼女は、黙り込んで下を向いていた。背中がぶるぶると震えている。
『もしもーし。聞こえてますかー。もしもーし。なんで僕の言ってること無視するのー』
 今度は顔を上げた。汗を垂らしながらヒトツキの口の動きをじっと観察している。やがて彼女は強張った表情でこんなことを言い出した。
「あ、ヒトツキ、さん。こちら、こそ、よろしく、お願い、しま、す、ね」
『はい!? なんで急に?』
 ヒトツキが苛立ち始め体を左右にシャキシャキ揺らしたとき、彼女は「一か八かに懸けたのにしまった!」という表情が完全に表に出ていた。
「どうしたの。色々と様子が変だけど。ヒトツキの発言が無礼なせい?」
「……」
「具合とか悪い?」
「あの、本当は、黙ってるつもりだったけど正直に言います。実は私……」
 次の彼女の発言に、私は圧倒的すぎる衝撃を受けた。衝撃で体が押される感覚を生まれて初めて覚えた。むしろ今までに受けてきた衝撃がずいぶんと下らないものに思えてくる程だった。
 彼女は、全てのモンスターの、喋っている言葉が理解出来ないらしい。
「……」
「……」
 そんなことって、あるのだろうか。
 言わずもがなそんな人と出会ったのは初めてのことだった。
 この世界で人間と共存するポケットモンスター。彼らの喋る内容が分からない。彼らと会話することができない。そういう人がいる、という想像をそもそもやらないまま生きていた。私が想像力に乏しい人間なだけかもしれないが実際にそうなのだ。
 まず私は、そのメカニズムが理解できなかった。人間とモンスターの喋る言語にこれと言った相違点はない。多少訛りや癖が強い場合に出くわすときがあるが、意味を理解できないレベルって訳ではない。種族が何であろうと同じことだ。
 考えても、考えても分からない。その事象は私にとって空に浮かぶ雲のようであり、フワフワとしていてなおかつ掴める所はどこもなかった。

「やっぱり私、変ですかね……」
「いや、変という訳では……」
 私は彼女に対して『変』という角印はさすがに押したくない。ここで彼女を否定するのは罪悪感が確実に伴う。かと言って「そんなことないよ!」と明るく励ますのも無責任な気がしていた。
 しかしモンスターと喋れない生活というのは、果たしてどう言った感じなのだろう。不便なことが多々あると言うことは想像力に乏しい私でも想像に難くない。
 モンスターと喋れないとなると「モンスターに襲われた」と言うのが、少しだけ説得力を増していってしまうことになる。繁殖期であるというモンスターの忠告を分からなくて、知らず知らずのうちに怒りを買ってしまったのではないか。
 息苦しくなる程空気が重くなってきた所で、彼女とのお話は終了となった。再度助けてくれたことについてお礼を私に言って彼女は玄関へと向かう。 
 そう言えば重要なことを聞いていなかった。彼女の名前を私は知らない。病院の先生が言っていたかも知れないが白状なことに忘れてしまった。
「私は、ユカリって言います」
「私はメイリって言うの。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします! 今回は本当にありがとうございました!」
 ユカリは旅を初めたばかりのトレーナーなので年齢は十二歳ということになる。私より二歳年下だ。それにしてはずいぶんと幼い風貌をしている。
 私達は今更ながらの自己紹介を終えその日はそれで別れた。ユカリがいなくなってからもまだ現実感のないフワフワとした気持ちが残っていた。
 
*

 そして私はユカリに物凄く興味を持った。モンスターと喋ることができないという不思議で神秘めいた特性に惹かれた。とても、面白い。彼女がなにゆえそのような特性を持っているのか、原因を追求したい好奇心が収まらなかった。
 その後私達は仲良くなった。携帯の番号は当然のように交換したし、何回か会って下らないお話をしたり一緒にごはんを食べたりもした。
 ユカリは病院を退院した後、この町のポケモンセンターで寝泊まりを繰り返しているらしい。トレーナーカードさえ掲げればそこは無料で宿泊できる。あんまり長く居座ると煙たがられるらしいが。色々準備をしたらユカリは旅を仕切り直しするようだ。
「モンスターの言葉が分からないと大変じゃない?」
「大変だと思ったことは一回もないですね。私にとっては、それが当たり前のことだったので」
「へえ、そうなんだ」
「それが普通だと、ずっと思っていたんですよ、はい」
「……」
「普通だと、思っていたんだけどなあ……はあ……」
「なんかごめんね。このことってあまり聞かれたくない?」
「そんなことないですよ。どんどん聞いて下さい。私も話したいです。話して楽になりたいです」
「喋ってる内容が分からないなら、モンスターの声ってどういう感じで聴こえてるの? 無音?」
「無音ではないです。私は全部鳴き声を発しているように聴こえるんです」
「鳴き声? 鳴き声ってどんなの? ヒトツキだったらどんな感じ?」
「うーん、ちょっと言葉では表しにくいんですが、『キュイーンター!』っていう風に聴こえます」
「キュイーンター」
「はい、キュイーンター」
「キュイーンター」
「キュイーンター」
「キュイーンター」
「キュイーンター」
「キュイーンター」
「キュイーンター」
「じゃあ他のモンスターは? ピカチュウだったらなんて聴こえるの」
「ピカチュウの声は確か『ピッカッチュウ』って聴こえますね」
「なんかピカチュウはそのままだね」
「そうですね。ピカチュウだけはなんでか、種族名をそのまま言っているように聴こえるような」
「へえ、面白いね」

*
 
 私は他の友人に「モンスターと喋れない人って見たことある?」としきりに聞いて回った。だがしかしやはり予想通りと言うべきか、みんなの答えは概ね共通していた。私に対して呆れを抱く人もいてちょっと悲しくなった。そんな人、いる訳ないじゃないかと。いや、実際に私の目の前にいたのだよと言いたくなる所をぐっと堪えていた。
 相も変わらずトレーナー業で稼いでいるお母さんにも電話で尋ねてみた。「久しぶりに電話してきたと思ったら何馬鹿なこと言っているの。熱でもあるの」という旨の発言をされたから、「ごめんなんでもない」って言ってすぐに電話を切った。
 現代の若者らしくインターネットで調べてみたりもしたが、全く情報が出てこなかった。『ポケットモンスター 言葉 分からない』で検索したが、関係ないページばかり出現してグーグル先生に泣きつきたくなった。
 一層のことオーキド博士に質問のおハガキを送ることも考案した。抽選で選ばれると質問に対する答えをオーキド博士がラジオで直々に教えてくれる。だがあれは夏休み期間中しか受けつけてないことを思い出した。そもそもあれは小学生以下からの質問ばかりが選ばれる、お年寄りに優しくないシステムであったことも思い出した。 
「なんか私、トレーナーの才能ないんですかね」
 ある日急にユカリはそうボヤいていたので、一体全体何があったのって真剣な顔で聞いてみた。
 どうやら「お悩みなんでも明るく解決! どんな困難にもマケンカニ電話相談」というお悩み相談紛いな所に電話をかけ、モンスターと話せないことを打ち明けたらしい。フリーダイヤルじゃなかったことにもショックを受けたが、そんなことより、暗に「モンスターと喋れないような人はトレーナーに向いていない」とばっさり言われたことが酷く心を抉ったようだった。何気ない休息の時間の中で時折そのときのトゲのある声が再生されたりするらしい。うわあ何一つ明るく解決していない。勝手に名前使ったマケンカニにも謝罪を要求したくなる。
「ポケモンのことを深く考えているかどうかって、トレーナーにとって凄く重要な要素じゃないですか。パートナーと絆を深めないと、そもそもスタートラインにすら立てない、みたいな。ポケモンの言葉が分からないっていうのは絆が一欠片もない証拠なのかなって。それがみんなにとっての常識なのかなって。どうしてもそういう風に考えてしまうんです」
「……」
 肩を落としているユカリに対し私は少し考えてあることを提案した。あくまで、こういう方法もあるよっていう感じで言ったつもりだった。
「あのさ、もし今まで行ったことないなら、あそこに行ってみるっていうのはどうかな。丁度ここから近くにあるんだけど。この町のは結構評判良いよ。ネットの投票だと星の数4.5だった気がする」
 そんな詐欺チックなお悩み電話に相談するくらいなら、ここへ出向いた方が確実に解決が早い気がする。こういうことはこういうことの専門の人に一度は話しておいた方が良いと思う。
「どこなんでしうか」
「えーと、耳鼻科なんだけど……」

*

 ユカリを耳鼻科に誘うのは些か抵抗が強いことだったが、勇気を出して勧めてみた。彼女は一瞬意味が理解できていない様子を見せたが、やがて私の提案に乗っかってくれた。
 詰まる所モンスターの声が聞き取れないということは、耳に何かしらの事情があるということ。耳鼻科の先生なら、例えそれが前例のない症状であっても何か具体的な解決策を捻り出してくれるんじゃないかという期待があった。
 翌日私の学校が終了後、青春真っ盛りの十二才と中二病真っ盛りの十四才は二人で東総合耳鼻咽喉科へと向かった。女の子二人で放課後に向かう場所としてはあまり相応しくない印象はあるが、病院の受付の人は暖かく私達を迎えてくれた、ような気がした。
「番号呼ばれたので行ってきますね」 
 私は病院の待合室でユカリの診察が終わるのを待っていた。事前に予約したらしいので番号は即パネルに表示されたが、診察自体がえらく長々とかかっていた。やはり苦戦しているのだろうか。
「お疲れ。どうだった?」
 診察をようやく終えたユカリはクタクタになっていた。
 ユカリの耳を見る限り特に何も変わっていない。何か突っ込まれていたり、精密な機械を取り付けられていたらと少し心配していたが杞憂だった。耳は本当にデリケートな器官なので大切にしなくてはいけない。
 それにしてもユカリは綺麗な耳をしている。耳たぶは大きくて理想的な福耳だし、輪郭も良く美しい曲線を描いている。この耳が、モンスターの言葉を認識できないなんて、凄く勿体なく感じる。
 耳鼻科の先生は問診表を訝しげな目でずっと見ていたのが怖かったと、彼女はまず感想を述べた。問診表に書かれた内容に従って診察は行われていくのだが、診察自体は卒なくやってくれたものの、結局耳鼻科の先生でさえも解決策を導き出さなかったみたいだ。治療方針についての説明もなかったし処方箋も出されなかった。悪く言うならお金だけ取られた状況だ。
 ただプロの先生に直々に打ち明けたことで、幾分か楽になったとユカリは言っていた。ユカリはここ最近までこのことを誰にも相談したことがなかったらしい。ずっと独りでこんな大事なことを悩んできたのだろうか……。
「うーん耳鼻科の先生でも駄目かあ」
 ここまで来ると、完全にお手上げ状態だった。と、思いきや、一つだけ活路が生まれたようだった。
「一個だけ何ですけど、耳鼻科の先生に言われたことがあるんです」
「何か良さげなこと提案された感じ?」
「とりあえず自分のポケモンを持って見たらって」

*

 ユカリはトレーナー活動をスタートさせたばかりとも言えるし、定義次第ではまだ始まってすらないとも言える。というのも現状まだ一匹も自分のモンスターを持っていないからである。
 旅をスタートさせる際一番初めの手持ちをどうやってゲットするかは、中々切実な問題らしい。オーキド博士が研究の拠点にしている町では、初心者用に育てられたモンスターを最初の手持ちとして与えられる。これが一番恵まれているパターンで、他には知り合いのブリーダーから譲ってもらったり、親のモンスターの卵から孵った子をパートナーにしたりするパターンがある。
 その他の方法としては、友達や先輩からモンスターを一時的に貸してもらい、その子に野生のモンスターを弱らせてもらって捕まえる、というのもある。
 詰まる所『コネ』があればだいたいなんとかなるということか。だがコネがないと度し難い状況になる。
 元々親の反対を押し切ってトレーナーになったらしいユカリには、コネらしきコネがなかった。
「でも、ユカリは今、私とコネができてるよね」  
 という訳で、そんな格好良いセリフを放ちながら、私はヒトツキを貸して上げることにした。
 何はともあれ自分のパートナーを得てみるっていう耳鼻科の先生のアドバイスは、結構有効かもしれない。
 一緒に日々を過ごしていく内に、固い絆も育まれていき、ときに喧嘩をしつつも乗り越え仲良くなり、共に困難を乗り越えていけばいつの間にやら自然と意思疎通が可能になったり、そういう展開って、なんだかありそうだ。 
 今考えるとそれはある種、酷く不遜な妄想だった訳だけれども。

*

「うーんなんだろう。過保護過ぎるっていうか。そこまでしてやる必要あるの」
 明日ユカリの力になって欲しいと手を合わせてお願いした私に対して、ヒトツキはちいとばかり不満気な態度を示してそう言ってきた。
 そう言われてしまうと正直私も反論がしづらい。十二歳はもう正式には大人と見做されるとか、世間的な事情はスルーするにしても、だ。トレーナーとして自立しようとしている人に対して、ちょっと色々とやり過ぎている気がする。今考えるといくら私が暇人だからとは言え、耳鼻科に同行するのはなんだかアホらしい。
 あまり助け過ぎても逆に迷惑だという視点もある。他人からあまりに過剰に手を差し伸べられると、その人に対して罪悪感を抱くというのは、これまでの人生において私自身も幾度と経験があることだ。
「別に良いけどさあ、明日は力になってやっても。でも自分はちょっと過保護すぎると思うけどね」
 なんだかんだ言いつつヒトツキは指示には生真面目に従う。モンスターと人間の主従関係と言うべきか、そう言うものに逆行する気概はない。
 しかし一方の私はこれで終わるとヒトツキを無理やり働かせてしまったような感じで、如何せん居心地が悪かった。
 だから私は蛇足した。
 「まあでもヒトツキの意見も良く分かっているよ。考え方はそれぞれだよね」
 私は笑顔で優しい声で丁寧な口調で綺麗な雰囲気で発言をする。
「まあそれはそうだね」
 考え方はそれぞれ。そう言ってお話をオシマイにすると、みんな明るくハッピーな状態のままで居られるような匂いが出る。だから私は何気ない状況においてでもついこう言う、あるいは自分の中でこう結論づけることが多くある。
 しかしたった今「考え方はそれぞれっていう考え方は、本当に正しいのか」という、メタ的とも言える疑問が思い浮かんできた。いや恐らく、厳密にはたった今思い浮かべた疑問じゃない。私は心の片隅でこのように結論づけることに対して、自分でも気がつかないレベルの小さい違和感を宿していたのかもしれない。
 「考え方はそれぞれ」という考え方には、一つ卑怯とも言えることが潜んでいる。こう唱えてオシマイにしようとしてからまだうだうだ言歯向かってくるような謀反者を「自分だけが正しいと思っている奴」と、悪役認定することができるのだ。
 そうは言っても私は、只今の私の発言を撤回することも断りたい。私は、考え方はそれぞれって言う考え方に、理が非でも共依存したくなってしまう。なぜだろう。誰も傷つけたくないのか。それは建前で自分が傷つきたくないだけなのか。
 考え方や行動の多様性を認めると凄く楽になれる。誰にも救いが存在するという素晴らしさ。小さい頃、おばあちゃんの家に家族で遊びに行ったときのような、暖かい安心感が充満している。 

*

 広大な草むらから独立した箇所にはいくつかの果樹が見える。この日はこの前よりも風の強さが増し、枝と果実を繋ぐへその緒が細いなら、落果の恐れがある程だった。
 視線の先には草むらでモンスターを探し回っている、一人と一匹(やっぱり厳密に言うと一匹とカウントしないのかもしれないけれど一本って数えるのもあまりに可哀想なので)がいる。
 現在私は手持ちという名のボディガードが傍らにゼロ匹ゆえ、生息地体外の安全な場所で立ったり座ったりしてその様子を展望していた。
 意外なんて言ってしまうのも大変失礼だが、草むらに紛れるユカリは如何にもトレーナーという雰囲気を全身から醸し出していた。いや、私はトレーナーでないから分からないのだけど、モンスターを探すときの目つきがキリッとしていたり、単眼鏡の持ち方が格好良かったり、細かい仕草が妙に様になったりしていた。私に画力が備わっていればこの風景を絵に残したくなるかもしれない。
 少し経った所で初めて一匹のモンスターが彼らの前に姿を現した。現れたのはコラッタという種族。この当たりだと出現率は比較的高めではある。
『ん?』
 黄色くて硬そうな木の実を前歯で齧りつつ、そのコラッタは不注意にも独り言を呟いてしまった。それによってヒトツキがコラッタの存在を捕らえた。ヒトツキが草を掻き分ける音で、ユカリもコラッタに気がつく。
 コラッタは、ユカリの片手に握られているモンスターボールを見て一気に顔色を変貌させた。野生の暮らしを満喫していようが、人類の基礎的な文明は口伝で把握している。それが自らの自由を奪うものであると理解しているのだろう。
 野生に生きる彼らは一部の変わり者を除き、積極的に人間に捕まりたいとは思っていないはずだ。確かに人間の配下にいた方が楽で安全な暮らしが保証されるし、毎日のご飯の心配もしなくていい。だが、生涯のプランと言うべきか、これからの未来の予定が最初から最後まで上書きされてしまうのが嫌なのだ。何か目指すべき夢があるならそれが叶えられなくなる。
 これゆえにトレーナーの行いは残酷だっていう意見が噴出する。噴出するだけならいいけど、これが原因で言い争いになることも多くある。言い争いになるだけならまだまだ良くて、ときには激しい喧嘩になることさえもある。
 そして喧嘩になるだけならまだ良くて、他国では戦争にまで発展することがかつてあったのだ。
 さすがに戦争にまで発展してしまうと、「考え方はそれぞれ」って言う結論で丸く収めたくなる。
 言い争いするだけならまだ良いかもしれない。どんどん意見をぶつけ合ってお互いの思想を深めて行くというのは、必ずしも悪いことではないと良いと思う。ただし殴り合っての喧嘩まで行くと、中々「もっとやれ」とは言いづらくなる。そして死人が出てしまうレベルまで行くともうだめだ。
 ただ、その基準も曖昧で、人によって異なる。言い争いの時点で良くないっていう人もいるし、関係ない人さえ巻き込まなければ戦争しても良いっていう人もいるだろう。
 他者と戦っても良いレベルって、果たしてどこまでの規模なんだろう。意見をぶつけ合っても良い境界線は、どこに引かれてあるのだろう。
 
『やばっ、トレーナーだ。おいみんな逃げろ! 捕まっちゃうよ!』
 次の瞬間草むらの至る所から紫色の頭が見えた。さすがねずみは算数の比喩で使われるだけあって数が多い。コラッタ達は甲高い悲鳴を挟みながら一斉に走って逃げていった。
『どうする? 追いかける?』
 咄嗟にヒトツキはユカリに問いかけるが、その言葉はユカリの耳には届かない。あいつはユカリの特性を完全に忘却している。
 嫌な予感がしてきた。ヒトツキと話せないことがやはり、足かせとなってしまうのだろうか。
「ヒトツキ、あの耳長い子だけ集中して追いかけて」
『うん、分かった!』
 否、そうはならないかもしれない。ユカリはヒトツキの言葉が分からないが、一方でヒトツキはユカリの言葉が分かる。意思疎通は一方通行になってしまう。だがそれでもバトルとしての形は、一応取れている気がする。
 なんだか、あまり問題なさそうな。ユカリのトレーナーとしての仕草が様になっているのもあるけれど、あの一人と一匹はとても自然な姿に感じられた。
 ヒトツキは最も逃げ足が遅い子まで一直線に向かっていった。あのヒトツキはあんな感じでも、この草むらにいる子達と比較すればレベルは高い。お母さんのパーティから早々リストラされた訳だが、でも決して弱くはない。
 逆にあのコラッタを一撃で戦闘不能にしまう恐れがある。そしたらゲットできない訳だが、そこは心配無用だ。ヒトツキは例の、捕獲において有能な技を覚えているから。みねうちだ。相手の体力を必ずほんの僅かだけ残す技。
 ヒトツキが自分の体を勢い良く振る。その一撃をコラッタは避けきれず喰らってしまう。二回バウンドしてようやく止まる。コラッタの目はぐるぐるしていないが、ほとんど体力が残っていないので動くことができない。草むらの上でじっと蹲っている。
『くそっ……体が…もう動かない……』
 ヒトツキが目でユカリに合図する。言葉を使わなくても、これぐらいのコミュニケーションなら取れる。ユカリはモンスターボールを今まさに投げようとしていた。
 だがそのとき面倒くさい事態が発生。突如コラッタよりも一回り大きいラッタが登場して、倒れているコラッタを咥えて走っていった。仲間一人咥えているのにそのラッタは凄く速い。
 このままチャンスを逃す訳にはいかないので、すぐにユカリはボールをコラッタ目掛けて投げた。そのコントロールはかなり良く、ボールは上手くカーブしてコラッタの方へと向かっていく。間違えてラッタの方に当たってしまうなんてこともなさそうだ。
 だがボールは運悪く僅かに軌道がブレた。ボールはコラッタの尻尾を掠めたものの、捕獲装置は発動してくれなかった。外れたボールは情けない感じでコロコロと転がっていき、木に衝突して虚しく停止した。
そんなボールをしばし見つめた後、ヒトツキが自分の所まで戻ってきた。いや、先にユカリの方に何か言ってやれよと思ったが、それは無理なことに気がつく。私は全然ヒトツキのことを悪く言えない。ユカリとヒトツキの様子があまりにも自然だからつい惚けてしまった。
『あーあ、逃げられちゃったね』
「まだ一回失敗しただけじゃん」
『ユカリボール投げるの下手じゃない?』
「いやいやそんなことない。めちゃくちゃ上手いよ。私見惚れたもん。野球選手かと思った」
『野球選手はさすがにもっと上手いでしょ』
「じゃあ高校野球ぐらい」
『小学野球ぐらいじゃない』
「小学野球なんかテレビで見たことあるの」
『ないよ』
「じゃあ知らないじゃん」
『適当に言っただけ』
 ヒトツキの愚痴はユカリには全く聴こえていない。
 ここだけ見るとヒトツキが性格悪い奴みたいに思えるので一応擁護しておくと、大方のモンスターは人間に対して愚痴を言うものなのだ。私は町の至る所で、彼らの愚痴をしょっちゅう耳にしている。彼らは別に純粋無垢な存在という訳ではないし、人間と絆があろうとなかろうと愚痴ぐらい誰でも言う。
 モンスターを飼っている人の中には、自分のパートナーから自分がどういう風に見られているか、過剰に気にしてしまいがちな人も結構多い。気になり過ぎて鬱になってしまい、パートナーの里親を探してしまうケースもある。
 ユカリは言葉が分からないゆえに、そのような心配をしなくて良いのかもしれない。モンスターからどういう風に見られているかを気にしなくても良いのは、最終的に多くの手持ちとの旅を強いられるトレーナーにとって、かなりお得なことのように思える。もしかして、これがユカリの一番のアドバンテージなのかもしれない。
 一度溜息を吐いたユカリは気を取り直し、落ちているモンスターボールを拾い上げ一旦しまう。
 再度一人と一匹はモンスターを探し回る。先程みねうちを喰らわせたあの耳の長いコラッタをもう一度見つけた。走り回れてるぐらい体力が回復しているのは、今も食べ続けている木の実のおかげか。赤くて丸い、あれは、クラボの実だろうか。
 もう一度みねうちを使えば確実だが、また傷つけるのも可哀想だと思ったのかユカリは既にボールを投げようとしている。先程虚しく転がり木に衝突したモンスターボールを、ユカリはリベンジでもう一度投げる。見事コラッタへとボールは命中。しっかりと捕獲することができた。
「ふう……ようやく捕まえられた」
『おめでとうユカリ。記念すべき最初の一匹目だね』
 ユカリはさっそくコラッタをボールから出して挨拶する。
「コラッタ、これからよろしくね!」
『……』
『ユカリ、コラッタが今何言ったのか分かる?』
「いやまだコラッタ何も喋っていないでしょ」
 まだ懐いていないせいでコラッタはまともに話そうともしなかった。まだまだこれからだ。これから絆を深めていけば、ユカリならもしかしたら。

*

 数日が経過したがユカリはまだコラッタの言葉を理解してはいなかった。さすがに数日じゃ無理だろう。無理の基準が自分には全く検討がつかないけど。
 ただ仲良くなることはできたみたいらしい。最初は噛みつかれたりすることもあったらしく、ユカリの右腕には包帯が巻かれていた。最近だとずいぶんと距離が縮まっていき、ユカリが出した餌もすんなり食べてくれるようになったらしい。
 私達は話しながら歩いていたのだけれども、いつの間にかユカリの声が後ろから消えてなくなった。怪訝に思った私は振り返る。するとそこには誰もいなかった。途中で何かあったのだろうか。
 私は元来た道を引き返していく。曲がり角を丁度曲がった先にユカリはいた。
 ユカリはその手に一匹のモンスターを抱えていた。あれは確か、エネコロロっていう種族だった。 エネコロロは僅かに意識あるようだが、酷く苦しそうな表情を全く崩さない。
「トレーナーとはぐれたらしいです。しかもすごく弱っているらしくって」
 歩いている最中ゴミ捨て場の隣で倒れている所をユカリは見つけたらしい。私は全然気がつかなかった。
「今からポケセンセンターに連れていきます」
「ポケセンなら向こうの道路通った方が近いよ」
 ユカリは今からポケセンまで走るつもりみたいだ。
『私……今毒……なん……』
「えっ」
 ユカリの手の中で倒れているエネコロロが微かに声を挙げた。
『走るの…やめ……て』
「ユカリちょっと待って!」
 エネコロロの必死の訴えはユカリには届いていない。私は慌てて走って行こうとするユカリの服を引っ張った。
 ユカリの行為は明らかに最悪手だった。
「え……死ぬ……?」
「この子今どく状態だって自分で言ってる。このまま歩き続けて振動を与えていたら、たぶんポケセンにたどり着く前に命が尽きちゃう」
 真実を知ったユカリは放心していた。
「どく……命が……尽きる……」
 私はどくけしを取り出してエネコロロに塗ってあげた。とりあえず苦しそうな表情はだいぶ和らいだ。その後キズぐすりも吹きかけてひんし状態も治す。ここで初めてポケセンセンターへと直行した。

「もしああなったのが、自分のポケモンだったら……」
 ポケセン内でユカリはずっと俯いていた。適切な対応どころか最悪のことをやろうとしていた自分をずっと悔やんでいた。
「私、やっぱりだめだ……」
「そんなことないよ。仕方ないよエネコロロの言葉分からなかったからって自分を責めないで。一番悪いのははぐれたトレーナーだよ」
「言葉が分からないとかじゃなくて、あの……」
「見た目でどく状態って見分けられなかったのがいけないって思ってる? そんなことできたら神の領域だよ」
「いや、そういう問題じゃなくて私……」
「大丈夫、ユカリはトレーナーに向いていない訳じゃない」
「違うんです」
 ユカリが何か、私が話していることと全く関係ないことを言いたそうであることに気がついた。
「お願いがあるんですけど」
「どうしたの」
「明日大事な話しがあるので、聞いてくれませんか」

*

 ずっと胸に秘めていた何か大事な告白があって、それをその場で吐露せず時期と場所を指定してその際に話されるという状況なんて、果たして一生のうちに何回体験することなのだろうか。
 これまで彼女に対して抱いてきた数々の違和感、その正体が本日明るみになるのであれば私としてもとても有り難い。
 私はあのときユカリが倒れていた場所へと向かっていた。人気の少ないあの草むらである。
 私が辿り着いたときもう既にユカリは待機していた。ユカリの隣にはコラッタがいる。ユカリは丁度コラッタの頭を撫でていた。
 ユカリが私と目が合ったとき、こっちだと合図する目的で右手を挙げた。その挙げ方がなんだか妙にシャキッとしていて、少し笑ってしまったのだけど、今からシリアスな話をするのだと再度実感もした。
「おまたせ」
 私はそう言いながらユカリに傍まで寄る。私は二人分のアイスを購入してきていた。例の私が推しているザクレオボン味のアイスだった。今日まだ暖かい日なので問題はないだろうと勝手に決めつけて買ってきた。私とユカリは大事な話をする前にまずそれを食べた。ザクレオボン味はユカリにもかなり好評だったようで安心した。しかしユカリは、上に乗っているスライスされたオボンの方に全然手をつけていなかった。
 彼女は私が思いも依らぬ行動を取った。そのスライスされたオボンをアイスから切り離したのだ。捨てるのかと思いきやそれをコラッタの傍へと置いた。「これ食べなよ」。彼女はそう言った。氷漬けとなったそのオボンをコラッタは美味しそうに食べた。本当はこのアイスは上に乗っているオボンをスプーンで貫通させて氷にオボンの酸味を染み込ませながら食べるのが美味しいのだが、あえてユカリはコラッタにオボン部分を分け与えた。
「どうおいしい?」
『おいしい。ありがとう!』
 コラッタの言葉は未だユカリに届きはしないのだろうだがそれでも、ユカリとコラッタの間には確かに絆が生まれつつある。そう実感できる瞬間だった。

 さてアイスを食べ終えてそろそろ本題へと入ろうとする。
「えっと、昨日言っていた話しって何?」
「はい、もう勿体振っても辛いだけなので言いますね。結論から言うと私は元々この世界にはいた訳ではないです。ウルトラホールを通過して異世界からやってきました」
 本当に一切勿体振ることなく彼女はいきなりそう発言した。
「なんか、あんまり驚いてないですね」
「いやあ、なんとなく予想はしていたんだよね」
 ウルトラホールは言うのは幾度か噂で聞いたことはある。全く原因は不明だが、異世界へと出入り口みたいなのがこの世の空間のどこかに開くときがあり、それはウルトラホールと呼ばれていた。どの変がウルトラなのかは知らないが、しかし異世界というもはや絶対に干渉できないと思われていた場所と繋がるという意味では、究極的な穴とも思える。
 あまりにもファンタジー過ぎる事象だが、信じられないという訳ではない。この間見たイワンコは異世界から岩を持ってきていた。モンスターには異世界何かを転移させる能力がある。つまり、異世界への入り口なんかもモンスターの能力で開かせることは案外容易いのではと思う。
 ユカリはそのウルトラホールに偶然吸い込まれてしまったということだろうか。
「前に、モンスターと喋ることができないのは、自分の身の回りでは当たり前だったって言ってたもんね」
「はい、その通りです。私の世界ではみんなポケモンの言葉は分かりません。それが極々当然なんです。特にそれで誰も不自由もしていなかったし違和感も抱かなかったら、この世界に来たとき凄く驚きました。町のどこを見てもみなさんポケモンと喋っているんだもの」
「いやーでもまさか、本当にウルトラホールに吸い込まれてやってきたなんてなあ。ただの私の過剰な妄想に過ぎないだろうって思っていたんだけど」
 ウルトラホールの存在自体は信じられないものでもない。だが自分の身の回りでそれが関わってくると、途端にそれはあまりにも現実離れしている事象だと思えてきた。
「厳密に言うとウルトラホールに吸い込まれたというか、私は旅立つとき、運悪くアクジキングっていうポケモンに襲われたんです。アクジキングっていうポケモンは口の中がウルトラホールになっていて、それで私は食べられちゃってこっちに飛ばされたんですよ」
「っていうことは野生に襲われたっていうのも別に嘘って訳ではなかったんだ」 
「ごめんなさい。信じて貰えないと思ってずっと誤魔化していました」
「元の世界に帰る方法はあるの?」
「全然分からないです……」
「ええ……」
「でも、もう覚悟というか諦めというか、そういうのはもう半分程度はできているんですよ。帰れないなら帰れないでこっちの世界で生きようって。初日の夜はパニックになりすぎて病院が大騒ぎになりましたけどね」
 ユカリは苦笑いしながらそう話す。
「本当に、それで良いの?」
「全然良くないですよ。トレーナーとして意気揚々と旅立とうとした初日にこんなのに巻き込まれたんですから。でも、うーん、なんだろう。トレーナーって野生のポケモン捕まえるじゃないですか。野生のポケモンの予定、大幅に狂わせているじゃないですか。それと逆のことをアクジキングは私にやっただけなんですよ。こう考えたら、ちょっとは理不尽に耐えられるかなって」
「予定を狂わせたとか、そういう次元なのかなあ」
「正直両親とは中が悪かったし、半場家出に近いような感じで旅に出ましたからね。つまらなかった毎日を打開しようとして、新しい世界に出たくてトレーナーになったから。ウルトラホールの向こう側だったら、本当の意味で新しい世界を覗けるってことじゃないですか。だから正直ちょっとだけワクワクもしたんです。勿論帰れるなら帰りたいけど」
 ワクワクしたという発言にはほとんど共感できなかった。でもトレーナーという人種は多かれ少なかれそういうところもあるのだろうか。多少のトラブルがあったとしても、好奇心を武器にして前向きに生きていける人達なのだろうか。それにしたって彼女は今日までかなりの葛藤がやはりあったのではないかと思う。
「どっちかっていうと、ポケモンと喋れない方が辛かったです。この世界だとそれが普通なんだろうなあって。もうトレーナー失格どころの騒ぎじゃないんじゃないかって。あらゆる場所で自分の存在を根本から否定されたような感じで」
 モンスターと喋ることができないイコール、モンスターに対して愛情がないとか、絆がないとか、そういうふうに汲み取る人も多い。だから存在を根本から否定されたような、辛い感情を抱えることになってしまうのだろう。
 未知の世界にやってきて、頭がおかしくなる程懊悩して、それでもなんとか気を保って、この世界で生きていこうと前向きに決意をしたのに、モンスターと喋れないという壁にぶち当たる。その辛さは想像を絶するものがあるだろう。
 例え本人がみんなと同じになれるよう望んでいようと、モンスターと喋れるようになれるようユカリを導こうとしていたことを、私は酷く後悔した。どんなに頑張った所でユカリはモンスターと喋ることなんてできる訳なかったのだ。報われない努力をユカリにやらせてしまった。
 もうどうしようもない。ユカリはモンスターと喋ることは恐らくこの先もできない。元の世界へ帰ることもできない。あまりにも救いがなさ過ぎる。
 唯一できることはありのままのユカリの存在を認めることぐらいだろうか。だがそれすら上から目線で、傲慢な行為な気さえしてくる。だが自分にできることと言ったらもはやこれぐらいしかないし、認めないよりは認める方がまだマシなのは事実だ。
「私は、受け入れるよ。他がユカリをどんなに根本から否定しようと、私はユカリを受け入れる。ユカリがモンスターと喋れないことも、他の世界からやってきたということも、全部受け入れて肯定する」
 ユカリがどんな世界からやってきたって構わない。考え方は人それぞれなのと同じように、この世にはそれぞれ違う世界がある。それぞれの世界の特徴を否定することなく、私はどんなことも受け入れていこう。ユカリの世界の人達がモンスターと喋れなくてもそれがおかしい訳じゃない。
「ありがとう。本当にありがとう。メイリにそう言って貰えて、私嬉しい。メイリはこの世界になってきて、初めての友達だったから」
「もしよかったらさあ、話してくれないかな、ユカリの世界のこと。私色々知りたいんだ」
「……分かりました」
 そこから私達は幸福に満ち溢れた時間を過ごせた。私の世界とユカリの元いた世界。双方を比較して、それぞれの相違点を語り合った。モンスターと会話ができる・できないだけではない。二つの世界には他にも様々な違いがあったのだ。
 それらの中には本当に些細なこともあったが、私達二人を面白がらせるには小さいスケールでも何の問題もなかった。

*

「こっちの世界だと旅に出られる人間が十二才なんですよね。私の世界だと十歳か十一歳が一般的なんですよ」
「そうなんだ。ってことはユカリ十歳だったんだ……。ずっと十二歳だと思ってた」
「はい、四つも差ありますね……」
「どうりで私よりずっと年下に見える訳だ。というか十一歳で旅に出るのってなんか中途半端じゃない?」
「確かにそうですね。でも十二歳も中途半端じゃないですか」
「そうかな。丁度一ダースだよ」
「それって年齢じゃなくて個数の単位なんじゃ」
「でも十歳でも十二歳でもちょっと旅に出るの早すぎるよね」
「確かにそれは。十八歳ぐらいでも良いくらいですよね」
「旅って危険過ぎるし。私なんか一人で電車に乗って隣町まで初めて行ったのが九歳のときだよ。よく十歳で旅なんかできるね」

*

「キズぐすりってあるじゃないですか。ポケモンを回復させる道具。あれ、うちの世界だとひんし状態のポケモンに使っても全く効果ないんですよ」
「どういうこと?」
「ひんしのときにキズぐすり吹きかけてもずっとひんしのままなんです」
「キズぐすりなのにキズ治せないなんて。じゃあひんしになっちゃった場合ってどうしてるの?」
「げんきのかけらっていう道具があって、それを当てるとひんしから復活することができます」
「そういうのが別に売ってるんだ」
「あれちょっと値段高いですけどね。キズぐすりで復活できるのは凄い便利です」

*

「え! 一度投げて失敗したモンスターボールって、再利用することできないの?」
「そうなんですよ。ボールは使い捨てです。店のおじさんにモンスターボール二十個まとめ買いしたら『そんなに買うの?』って驚かれました」
「使い捨てだとお金足りなくならないの?」
「逆に再利用可能だと、ボール売ってるお店が潰れません?」
「そういえばこの間閉店セールやってた。だからか……」

*

「クラボの実って、そっちの世界だとまひ状態を治す木の実なんだね」
「そうですね。食べても別に体力が回復したりはしませんね」
「でも不思議だよね、木の実って体力回復するのはともかく、なんで状態異常を治したりできるのもあるんだろう」
「確かに不思議ですよね。中には食べるとこおり状態から復活できるのとかもありますよね」
「凄いよね」
「超常現象引き起こしてますね」
「木の実はね、超常現象を引き起こすものなんだろうね」

*

「後一番怖かったのはあれですね、どく状態で歩き回るとポケモンが死んでしまうってこと」
「あーそっかーだからあのときポケセンに走ろうとしてたのかー。そっちの世界だとどく状態になっても死なないんだね」
「ひんし状態にはなります。でも死にはしません」
「すごいね、モンスターの生命力……」
「むしろ自分はどくタイプ技の殺傷力の高さに引きます。なんでどくだけ生死が絡んでくるんですか」
「え、だってどぐだよ」

*

「後一番気になったのったあれですよ。なんでみんなポケットモンスターをモンスターって略してるんですか!」
「え?」
「え?」
「え?」
「え?」
「モンスターって呼ばないの?」
「はい普通は『ポケモン』って略します。その方が語呂良くないですか」
「ポケモン?」
「後モンスターって呼ぶと、生生しいっていうか」 
「ちょっと待って。じゃあ『モンスターボール』のことを『ポケモンボール』って呼ばないのはなんで?」
「……言われてみると変ですね。なんでポケモンボールって言わないんだろう。あれっ、でもこっちの世界の人も、『ポケモンセンター』のこと『モンスターセンター』って呼ばないですよね……」
「確かに。言われてみると……うん」

*

 その他にも数多くの異なる点を私達二人は出し合った。私達は楽しくて心地良くて仕方がなかった。
 ユカリと出会ったことで私は、此処ではない、別の世界の存在を垣間見ることができた。
 世界と言うものは決して一つではないのだ。僅かずつ食い違う多種多様な世界が顕在し、それぞれが独立した道を歩んでいる。
 どの世界にも一見すると納得し難い事象がある。しかしつらつら覗き込んでみればどの世界も正しく、そして美しい。
 私は実在するあらゆる世界を、肯定したい。 
 私はそう強く決心した。モンスターと喋れない世界が存在しようが、どんなに不条理な事象が起こる世界が存在しようが、別に構わない。

…………。

…………。

…………。

 だが、戦いはそこで終わりでない。

*

 私は、そこで目を覚ました。
 途方もなく幸福で不思議だったあのときのことは、今になっても夢の中に出現するときがある。
 ユカリと対面することがなってからもう一ヶ月近く経つのだろうか。やはり十四歳になってから時の速度がずいぶんと早く感じる。ユカリは元いた世界に戻れたのではなく、こっちの世界でトレーナーとして旅をしている。またどこかで出会う日も来るのだろうか。
 ユカリと出会ってから別れるまでのあの短くも濃縮された日々は、全てが夢であったかのような錯覚を覚えている。今になって冷静に考慮してみると、あの日々はあまりにも非日常的過ぎた。異世界からやってきた少女が目の前にいたのだ。 
 ユカリが私の傍から離れ、私は非日常的な日々から、元の普通の日常へと帰還を果たす。
 いつも通り朝目覚め、いつも通り朝ごはんを食べ、いつも通り学校へ行き、いつも通り授業を受け、いつも通り下校し、いつも通り布団に入る。 
 至って特筆すべき事項のない、ありきたりでつまらない日常を私は過ごしている、はずだった。
『何ぼーっとしてるの? 考えごと?』
 二階の窓から空をただ眺めている私に、ヒトツキが話しかけてきた。
 話しかける?
『なんで今度はずっとこっち見てるの。口の回りになんかついてる?』
「剣が、喋ってる……!」
『……え?』
剣なのに、日本語をペラペラと話してる!」
『ちょっと本当にどうしちゃったの? さっきから何を言ってるの。僕は前からずっと喋ってたよ』
「……そう、だよね。私、なんかおかしなこと言っていた」
『どうしたの? なんか最近ずっと変だよ』
 そう、私はずっと変なのだ。

 平時と同様に、草むらで野良試合を開催しているトレーナーがいる。今回火花を散らしているのは、ニャースとロコンだった。ロコンは氷タイプではない火山などにいる真っ赤な色の方。
「よし先手必勝よニャース!」 
 トレーナーの明るく元気な呼び掛けに呼応するかの如く、ニャースは張り切ってしっぽをふるを使用した。ニャースの白くて細長い尻尾が左右に激しく揺れた瞬間、ロコンの体は宙を舞った。そして背中から地面に叩きつけられ、ロコンはかなりのダメージを負っていた。立ち上がるのが一杯一杯のようで、四本の足がぶるぶるると震えている。
「まずいなあ……しっぽをふるで結構体力削られちゃった。こうなったら一気に決めるよロコン!」
『うん!』
 ロコンは力を振り絞り一心にニャースの方を睨みつけ、ロコンはほのおタイプで上位の威力を誇る技である、かえんほうしゃを放った。ニャースはその技を避けきれずモロに喰らった。灼熱の炎に体を丸ごと包まれたニャースは、後一歩の所で香ばしい匂いすら放ってしまう所だった。なんとかニャースは地面に体を擦りつけ、消火活動を成功させた。
 そのタイミングで丁度ロコンが力尽きてしまい倒れてしまった。このバトルはニャースの勝ちに終わった。
「ニャースお疲れ、腕大丈夫?」
『痛っ、やけど状態になってる』
「ちょっと待って今治すから。やけどだったら簡単に治せるよ」
 リュックサックに手を入れてトレーナーが取り出した物は、一本の笛だった。色と大きさ的に、ポケモンのふえと呼ばれる道具だろう。
 トレーナーはポケモンのふえで美しい音色を奏でた。瞬く間にニャースの腕のやけどのが治っていく。吹くのを止める頃には腕には跡すら残っていなかった。
「何回も使えるから便利なのよね、これ」
 草むらから離れて町に行くと二人の少年が話している。片方の少年の手には丸くて平べったい形の岩が握られている。
「なにこの石?」
「カブトの化石らしいよこの間洞窟で見つけた」
「え、本物? すげーじゃん」
「今からこの化石を生き返らそうと思うんだ」
「生き返らせる? どうやって?」
「こうやってやるんだ」
 石を持っていた少年は、もう片方の手を開いて化石に触れる。目を瞑り神経を集中させしばらく念を込めていた。
「いにしえの生命体よ! 現代に蘇りたまえ!」
 突如化石はルビーが埋め込まれているかのような赤い光を帯び始める。次の瞬間一気に光は強くなり、そして、石であったはずのそれは、生き物となって現代に蘇ったのだ。
『え、ここどこ?』
生き返ってカブトは自分がされたことに気がつかず、ひたすら周囲を見回していた。

*

 何の変哲もない日常がだらだと続いているだけで、やはり特筆すべき点なんてなかった。そのどれもが一回は見たことのなる光景。極々当然のことしか起こっていない。それなのに。
 なぜ私は、こんなに『違和感』を抱いているのだろう。
「ねえ、ヒトツキ」
『ん?』
「私達が今暮らしているこの世界ってさあ、果たして『本物』なのかな」 
 私は生きているこの世界が本当に正しいのか、自信を持てなくなってきていた。
 私はあのとき確かに違う世界を垣間見ることができた。そして他のどんな世界も受け入れていこうって決心したはずだった。
 だが今度は、自分の所の世界に『違和感』を抱くようになってしまった。他の世界と自分の世界を比較した結果、他の世界が『正しい』と認めるは良いが、その副作用で、己の世界が『間違っている』という予感を抱くようになってしまった。
 無論こんな哲学的な感覚を抱いたのは初めてのことだったので、私は非常に困惑した。しかもどんどん時が流れていくにつれて、抱いた違和感は膨れ上がっていくのだ。あれはおかしいんじゃないか、これもおかしいんじゃないか。そう思い始めたらキリがなかった。
 もはや私は何も信じられなくなるのではないかという恐れすらあった。
「私、ユカリの世界を知ってからさあ、なんか変な思想持つようになっちゃって。本当は、ユカリの世界が『本物』で、こっちは誰かがでっち上げた『紛い物』なんじゃないかって思えてきたんだよ。いやうん、突拍子もない考えだっていうのは分かっている。でもユカリと別れてから私は、ジワジワとこの考えが強くなってきちゃってさあ」
『なんか良く分からないけど、こういうときはいつもユカリが言ってるあの「考え方」を使えば良いじゃん』
「何?」
『「考え方はそれぞれ」って言う考え方だよ』
「あ……」
『そう考えて済ませれば良いだけじゃん。考え方に多様性があるのと同じように、ユカリがいた世界も、僕達がいる世界も、両方正しくて紛い物なんかじゃない。そう思えば良いだけじゃないのかな』
「私も、一旦はそうやって考えた。でもそう結論づけることもどうなのかなって思う。なんでもかんでも、『それぞれ』で結論づけてしまって良いのだろうか。あなたの世界も正しい、私の世界も正しい。果たしてそんなんで良いのだろうか」
「……」
 私の中で、ずっと燻っていたこと。
 善悪の概念。それは思春期において誰もが一度は疑問に思い、懊悩し続けることだと思う。特に誰かに聞いた訳じゃないけれど、なんとなくそうなんじゃないかって思う。親や教師から一方的に押しつけられた『正しさ』。それに反抗したくなるようになり、いつしか善悪の概念を考えるまでに思考が及ぶ。
 やがて善悪の概念を考え続けた人たちは、いわゆる世間で中二病と言われている存在になっていく。だが、いつまでも子供でいる訳にはいかない。少年少女はいつしか「考え方はそれぞれ」という結論を導き出し、大人へと成長を遂げていくのだろう。
 だが私はそこで終わらない。そこから更に話しを深めようとしている。誰も踏み入れたことのない境地へ自らを侵入させようとしている。そのことに対してそれなりの自負を私は抱いてしまっている。十四才にしてここまで思考を辿り着かせた私を誰でも良いから褒め殺して欲しい。
 なぜ私は「考え方はそれぞれ」という平和主義的な思想に対して、ケチをつけたくなるのか。朧月ながらその理由がだんだん分かってきた。
「分かったよ。『考え方はそれぞれ』で終わらせるのが、なんで最近になって嫌になってきたのか」
「『なんでもアリ』になっちゃうからだよそれだと。どんな不条理なことが巻き起ころうが全部オッケーだと、もうぐっちゃぐちゃなことになるんだよ。それって良いの? 大丈夫なの?」
 いやむしろ、それで正解なのかもしれない。どんな受け入れ難いことも全部肯定し、世界をどんどん広げていくのが正義かもしれない。行ける所までどこまでも。進んで進んで切り開く。
 しかしそれも、ああ分からない。そんなことをしていたら、最終的に狂人になるのではないだろうか。
 私はどうしても結論を出すことができない。「考え方はそれぞれ」ということに突っ込み始め、何か別の結論を導きだそうものなら、その結論だって正しいかどうか分からないではないか、という所に戻ってしまい、延々と同じ思考の中を、彷徨い続けることになってしまう。これでは全然前に進んでいかない。頭がおかしくなっていくだけだ。

『確かに「なんでもアリ」じゃまずいと思う。そもそもさあ、「考え方はそれぞれ」だってことに、拘らなくても良いんじゃない?』
「拘らなくて良い?」
『大事なのは、メイリ自身が肯定したいのか、否定したいのか、じゃないかな』 
「あ……」
『メイリ自身は一体どう思いたいの』
 そうか……。私はここであることに気がついた。
 私はずっと「考え方はそれぞれ」を肯定したり否定したりする所から思考を開始していた。「考え方はそれぞれ」という考え方に、色々な意味で縛られていたのだ。
『「考え方はそれぞれ」っていうことをいくら掘り下げたって結論は出ないよ。そこを考えたってどツボに嵌まるだけ。その考えの是非なんかより、もっと大事なことがあると思うよ』
 そうだ。大事なのは、私自身が肯定したいか、否定したいかだ。そのことを私はようやく思い出した。
 私はユカリの世界も、そして私の世界も肯定していきたい。ユカリの世界を肯定したいのはユカリが大事な友達だから。ただ、それだけ。私の世界を肯定したい理由はもっと単純で、だって私が暮らしているのだから。私にとって世界で一番大切な人物がこの世界にいるのだ。だから肯定する。本当にただ、それだけ。
『いや、ちょっと待って。なんでこんな頭痛くなるような話し延々と続けてるの』
「さあなんでだろう」
『僕はこんな真面目な話しするような奴じゃなのに』
「本当だよ。ただの剣なのに、こんな哲学的なこと語るなんて意味分かんないよ」
『いや誰がただの剣だよ!』
 そうか、もしかしたら。この世界にやってきたばかりのユカリは私が先程までしていたものと、同じような葛藤をしていたのかもしれない。この世界を歩いていくにつれて、自分自身、ひいては自分の世界を否定される思いをずっとしてきたのだろう。それでも彼女は決して堕ちることなく、私に対して胸を張って自分の世界を共有した。この世界を認めつつも、自分の世界を否定しまいともがいていた。
 おかげで今度は私が葛藤するハメになってしまった訳だけど。
 でも、今度は私が頑張る番だったんだね。例え他の世界の存在を聞かされようとも、私自身の世界を決して否定してはいけなかったんだ。

*

 ユカリが、この町を旅立つときのこと。
 見送りに向かったらそのタイミングで丁度雨が降ってきた。なんでこんな日に雨なんか降るのだろう。確か今日の天気予報では降水確率がゼロ%だったはずだけど。 
 近くから大声がしたのでそちらを見ると、ベテランらしき風格のトレーナーが二人、激しいバトルを繰り広げていた。戦っているのはカメックスとボスコドラ。雨が突然降り出したのは、カメックスがあまごいを使ったせいだろうか。高レベルのカメックスが出した技ゆえに、バトルフィールドと見做している場所からかなりはみ出た所にまで雨が降ってしまったのだろう。これは中々止みそうにない。真剣勝負を謳歌するのは良いが、こっちとしては良い迷惑だ。
 そんなふうに不満を垂れているうちにユカリが登場した。ユカリの肩にはすっかりパートナーとして馴染んだコラッタがいる。
「はい、これオボンの実」
「わあ、こんなにたくさん、良いんですか?」
「コラッタオボンの実美味しそうに食べていたじゃん。あんな一スライス分だけじゃなくてもっと、たくさん食べさせてあげなよ」
「ありがとうございます。本当メイリには感謝してもしきれない。今まで本当にありがとう」
「今日でお別れだね」
「ですね。でもまたいつか会える日を楽しみにしています」
「それにしても邪魔だねえ雨。あのトレーナーが降らせたんだよ」
「邪魔ですねえ、せっかくの旅立ちなのに」
「そうだそうだ、良いこと思いついた。オボンの実をさあ、コラッタに一口食べさせてみて」
「え、オボンの実を、ですか」
『食べるの? ぼくが』
 コラッタは訝しげな表情でオボンの実を一口齧った。
 次の瞬間、そのオボンの実は金色に輝き始めた。驚いたユカリはオボンを地面に落としてしまった。
「え、何々? 何が起こってるの?」
 オボンが発した光は天高く上っていく。やがては雨雲まで辿り着いた。するとここら一体に降っていた雨が徐々に弱くなっていき最終的にカラッと晴れ始めた。
「オボンの実にはね、あまごいの効果を打ち消す効果があるんだよ」
 私がそう説明したときユカリは大層驚いていたがすぐに笑顔になった。
「こっちの世界のオボンはそうなんですか。凄いなあ」
 未だ激しいバトルを繰り広げている二人のトレーナーは、さっきからこっちを睨んできている気がする。せっかくのバトルを邪魔してごめんなさい。だが今回だけは許して欲しい。記念すべき日なのだから。
「私、まだまだこの世界について、知らなくてはいけないことがあるみたいですね。では、私はそろそろ行ってきます!」
「行ってらっしゃい。旅楽しんでね!」
 雨上がりの空には、いつの間にか虹がかかっていた。まるで彼女の旅立ちを祝福するかのようだった。