大樹の声は何キロも虹を追わないミチへ

ミチクサ
イラスト
目次
1.ミチ
2.ニイちゃん
3.大樹
4.虹
5.キロ





1.ミチ

 頭で草を掻き分けて、たったひとりでミチは森の中をとぼとぼ歩く。
 ほら、こっちだよ。背中の硬い毛をぴょこぴょこ揺らしてちょっと先で振り返るニイちゃんの匂いを思い出して、ミチはたったひとりで湿った道を往く。
 ニイちゃんがお水を飲んで波紋を起こしていた沢には、ミチの黒く縁取られたふたつの眼が映る。ばっさり膨らんでいるはずの耳は後ろに倒れてもぎ取られたかのようで、情けない顔が水の流れでゆらゆらと歪む。
 たったひとりでミチは沢の水に口をつける。冷たいお水が舌に絡む音が森の奥まで反響して、姿もわからない生き物が動き回る音が四方八方から押し寄せてくる。
 頭のすぐ後ろになにか居るような気がして、背中の毛がぞわぞわと逆立つ。
 きゅっと胸の奥が縮んで痛む。
 ミチはひとりぼっちだった。

 尻尾の先っちょがひやひやする。引き摺って泥にまみれて湿気が染み込んで、感覚が無くなっている。
 霧が流れてくる。
 先客の姿を見て、ミチの短い足が歩みを止めた。

 陽が射す滝壺を、岩に停まった一匹のスバメが見詰めている。
 シュッと二本伸びた尾羽が歌うように楽しげに上下している。
 ミチの足音は聞こえている。
 振り向きもせずにチョチョッと鳴く。
 キロはそういうスバメだ。
 この森で生まれて南の島へと旅立ち、春にまたこの森へとやってきた。

 ミチはとぼとぼとキロの横に来て、滝壺を眺める。
 飛沫が霧となってゆっくりと漂ってくる。
 チッチッと得意げにキロが鳴く。
 その眼はキラキラと輝いて、薄く流れていく霧をうっとりと見詰めている。

「ねえ、なにがあるの?」
「見なよ。虹が出ているぜ、くしゃたぬきくん」
「にじ?」
 白く流れていく霧は陽を浴びて、渦巻いて流れていく様子はまるで生きているみたいで。
「へぇ」
 ぺたんと腰を落として、ミチは霧を眺める。尻尾がふさっと上がって、冷えていた先っちょに血が通ってくる。

 とぷん、と太い音がした。
 滝壺に沈んだ菱形の影が、ゆっくりと浮き上がってくる。
 見たこともない木の実だ。
 つん、と刺激の強い匂いが漂ってくる。

 流れてくる木の実に先回りして、ミチは苔生した中洲に飛び移る。
 身構える。背中も尻尾の毛もバサバサの毛玉のようになって、目の前の木の実のヘタをかぷりと銜える。
 くらっと眩暈がする。濃くて刺々しい薫りが口の中に絡んで舌がピリピリしてくる。
 きつい匂いに頭の奥まで貫かれて、何故かふわっと楽になるような感覚を覚える。

「それ腐ってるぜ。やめときなよ、くしゃたぬきくん」
 遠くで呆れた様でキロが言う。
 ミチはひんっと鼻面に皺を寄せて、菱形の木の実にしっかりと牙をめり込ませると、ぴょんっと草叢に跳ねる。

「腹壊すぜ、やめとけっての」
 間近でキロの声がして、どんと頭にスバメの体重が乗る。
 くらくらする頭を硬い嘴でがすがすと容赦なくつつかれる。
「痛っ、痛いよっ、やめてよっ」
「放せっての、どうなっても知らんぜっ」
「放っといてよっ、これは僕のだっ!」
 倒木の中に逃げ込んで、ミチは唸る。
「キロにはあげないっ!」
 ぴゅーいぃ、とキロは軽く歌って、高い枝の上から言う。
「バッカだなぁ、信じられんくらいにバカだなーこのくしゃたぬきは!」
 ミチは木の実を銜えたままギリギリと歯ぎしりして唸る。
「うるさいうるさい、キロになにがわかるんだよっ」
「バカだーうっはぁバカだバカだぁ♪ バカだ♪ ばーか♪」
 チュチチッチュチチッと響くキロの歌声が遠ざかっていく。
 ミチは喉のつかえを押し切るように刺激臭のする木の実を咀嚼して飲み込む。

 静かになった日の下を、ミチはとぼとぼと歩いてねぐらに戻る。
 森の外れにある大きな木の洞が、ミチといなくなったニイちゃんの巣穴だった。

 この大きな木は、甘くて大きな実をつける。
 あれは巣立ちの後、他のきょうだいと別れた後。
 森の奥の岩に穿たれた巣穴で暮らしていたミチは、ニイちゃんの後について初めてここにやって来た。
 森の外れの眩しい初めての場所。
 ニイちゃんは梢を見上げて、くんくんと鼻を動かして、揺れる大きな実の匂いを気持ち好さそうに吸い込んでいた。
 甘くなった木の実はひとりでに千切れて落ちてくるんだ、とニイちゃんは言って、きししっと笑った。
 ミチはニイちゃんの後について何度もここに通って、大きな実が落ちるのを待っていた。
 でもなかなか、地面に転がる大きな実には出遭えなかった。
 草の上に匂いだけを残して跡形も無くなって、木の枝からも消えている。
 先を越されたーっ、とニイちゃんは悔しがって、遂にはミチに宣言した。オレ、ここに棲むわ!
 びっくりしたミチのぴんと真っ直ぐに立ったばさばさの耳を見て、ニイちゃんは牙を見せて笑った。

 こんな離れた場所を棲み処にするなんて、ミチは考えたこともなかった。
 なにが危なくてどこが安全なのか、全然知らない場所なのに。ごはんのある場所もお水を飲む場所も、どこにあるかわからないのに。どこをトイレにしていいのか、どこに背中を擦り付ければいいか、見当も付かないのに。
 ニイちゃんは続けて軽く言った。ミチもどうよ?

 その時からずっとずっと、ミチはニイちゃんについて歩いている。
 苦労して自分で見つけた森の奥の巣穴は、外がどんなに暑くても寒くても中に入れば落ち着く場所だったけれど。
 それよりも遥かに、ニイちゃんと地面を掘って涼を取ってニイちゃんと身を寄せ合って暖を取る、このがらんどうの木の洞はとっても居心地が良かった。
 森の奥で通っていた餌場や水場は、順番待ちの要らない、誰かに見付かって邪魔されることもない、安全な場所だったけれど。
 それよりも遥かに、ニイちゃんと一緒に隙を伺って他のイキモノを眺めながら巡る新しい餌場や水場は楽しかった。
 棲み処を大きな木の根元に移してそこでずっと張っていても、大きな木の実は落ちるなり素早いやつに掻っさらわれたり、強いやつに持っていかれたりして。
 結局、ミチとニイちゃんが食べられた大きな木の実はたったひとつだけだった。
 ニイちゃんと両側から熟れた実をかじった時、こんな美味しいものを食べたのは初めてだとミチは思った。

 ニイちゃんが居なくなった後も、ミチはニイちゃんと一緒に居た時と同じ暮らしを続けている。ひとりぼっちで。

 頭が痛い。ズキズキと疼く。
 お腹の中が、焼けるように熱い。
 ざわあっ、と大きな木が騒めく。
 揺れる梢を見上げて、湿った風の匂いを嗅いで。
 ミチは小さく鳴く。

「ニイちゃん……」


 ニイちゃんが居なくなったのは薄暗く曇った日のことだった。
 遠くでごろごろと空が鳴っていた。
 森のすぐ外の草原にはゆらゆらと往く大きないきものや、湿った羽を休ませる場所を探す虫たちが居た。
 背の高い草の中を、ニイちゃんは走っていた。
 ミチは怖気づいて、この木の下から一歩先の草の根っこを見詰めていた。
 ニイちゃんが居る場所は揺れる草の穂でわかった。
 空が唸る。
 なにかを見つけたニイちゃんが歓声を上げる。
 空が叫ぶ。
 チカッ、と眩暈がする。
 さわさわと草の鳴る音が妙に大きく響く。

「ニイちゃん?」

 待って。耳を澄ませて。風に乗ってくるはずの匂いを嗅いで。
 おずおずと声を上げて。

「ニイちゃん!」

 呼んで、叫んで。
 ミチは初めて、草原に短い足を踏み出した。

 ニイちゃんの姿はどこにもなかった。
 ただ、焼け焦げた草が、ニイちゃんが最後に啼いた場所で恐ろしい匂いを放っていた。


 頭が痛い。
 お腹の奥が気持ち悪い。
 ざわざわと大きな木が騒めいて、とすっ、と硬く小さな実がミチの尻尾を掠めて地面を跳ねた。
 ミチが不意に、ぼやけた目を見開いた。鼻腔が広がる。青い匂いを吸い込む。

 梢にびっしりとついた、小さな葉っぱ、だと思っていたもの。
 いっこうに大きくならない丸まったままの小さな葉っぱたち。
 あれがもしかしてぜんぶ、実だっていうの?

 苦い涎が口から漏れる。
 喉が痙攣する。
 ミチは蹲って背中をひくつかせる。
 不意に。
 ばさっと澄んだ香りの草切れが、顔に押し付けられる。

 スバメの匂い。よく見知った、キロの匂い。
「ほらっ、草でも食ってな、くしゃたぬきくん」
 言われた通りに、ミチは差し出された草に噛りつく。
 溶けるように、すうっと喉からお腹へと楽になっていく。
 頭も軽くなって、眠気が押し寄せてくる。
 チッチッとキロがからかう様に鳴く。
「ばっかだよなー、このくしゃたぬきくんは」
 言い返す元気も無いミチは、そのまま眠りに落ちた。





2.ニイちゃん

 さわさわ、しゃらしゃら、と草の鳴る音が響いてくる。
 乾いた日。軽くなった背の高い草の穂先が打ち合って、囁く音が神経をくすぐる。
 草の向こうをつるっとした木のような大きないきものがゆっくりと動いている。
 すさささっ、と草を揺らして誰かが走っている。
 虫たちは日や雲と溶け合うくらいに高く舞っている。

 鼻腔に微かに触れた匂いに、ミチの胸の奥がとくんと鳴る。
 知らない匂いだ。なのに。きゅううっと胸の奥が熱く縮む。

「よっ」

 背の高い草を割って、すらりとしたひとがミチの目の前に出てきた。
 母ちゃんと同じ、大きな体、おさかなみたいに寝そべった毛のつるっとした輪郭。
 知らない人だ、なのに、このひとを知っている気がする。ドキドキする。
 空と似て澄んだ眼がミチを映して、知らない匂いの芯に潜む懐かしさが毛をバサバサに立たせる。

「久しぶりだなっ、ミチ!」

 その鳴き声。その目の細め方。その耳をぴくぴくっと動かす仕草。
 姿は変わっているけれど、その仕草は間違いようもなく、胸の奥の柔らかく湿った裂け目にぴったりと填まった。

「ニイちゃん……?」

 きししっ、と歯を見せて笑って、ニイちゃんはすらっと長い体で流れに逆らって動く魚のように、すぐ脇をすり抜けていく。
 ミチは慌てて横について走る。
「ニイちゃんっ、ねえニイちゃんっ、どこにいたの? ずっとずっと、どこに行っていたの?」
 違う匂いで違う姿になったニイちゃんは真っ直ぐに突風のように走る。
 波打つ背中と尻尾を、ミチは必死で追いかける。

 ふたりで棲んでいた巣穴の前で、ニイちゃんは大きくなった果実を溢れるくらいにつけた木を見上げていた。
 ニイちゃんの感嘆の溜息が、遅れて走ってくるミチの耳に届く。
 どき、どき、とミチの体の中が熱くなっていく。
 ふわふわと夢の中みたいにむず痒くさまよっていた目の前の光景が、ようやくぴたりと重なった気がした。
 ニイちゃんが、帰ってきたんだ。また一緒に暮らせるんだ。
 思わず巣穴の入口の柔らかな土に思いっきり背中を擦り付けてはしゃぐミチのお腹に、ニイちゃんは喉を擦りつける。
「きゃはきゃはっ! くすぐったいよニイちゃん! きゃははっ!」
「ちっちゃいなぁミチ!」
「ニイちゃんがおっきくなったんだよぉ、どこに行ってたの? ねえねえっ」
「遠くだよ。いろんなところに行ったさ」
「わかるよぉ、嗅いだことのない匂いがいっぱいするもん。ねえっ、どうしていきなりいなくなったの?」
「なんでかなぁ、よくわからないんだ」
 梢を見上げて、巣穴の匂いをくんくん嗅いで、ニイちゃんは言う。
「気が付いたら、本当の巣穴の中に居たんだ。ここよりも静かで、薄暗くて、知らない筈なのにひどく懐かしい、とても安心できる場所に居て、そして……あいつに出会ったんだ」
 ミチはニイちゃんの言ったことを考えようとして、頭がぐるぐるして、仰向けのままぺしゃりと地面に四肢を伸ばす。
「ニイちゃんが帰ってきてくれたんだから、いいやぁ」
 ぽふ、とニイちゃんはミチのお腹に顎を乗せて、眼を細める。
「すごいなぁ、こんなにたくさんの実が生っているなんて。初めてだ」
 くんくん、とニイちゃんが鼻を動して強く吸い込む呼吸が伝わってくる。胸の奥深くまで大きな実の匂いを吸い込んでいるのがわかる。
 ざらっと枝がしなる音がする。
「あ、スバメ」
 ニイちゃんが呟く。
 ミチが顔を上げると、キロが大樹の枝に降り立つところだった。
 たわわに実を下げた枝の上をぴょんぴょん、ぴょんぴょん、と踊るように飛んで、首を傾げて無数の実ひとつひとつを覗き込んでいる。
「あいつ、キロって言うんだ」
「へぇ、ミチの友達?」
「うぅん、よくからかわれるんだ」
「へへぇ?」
「友達なんかじゃないよっ」
「そうかそうかぁ」
 ニイちゃんが帰ってきたんだから、もうキロと遊んでやる暇なんか無いんだから。ミチは弾む心で思う。
 ニイちゃんはミチのお腹から喉をすっと上げて、立ち上がって大樹を仰ぐ。冷気がお腹を撫でる。
「まだ食べられないかぁ」
 残念そうに、ニイちゃんは言う。
「もうすぐ食べられるようになるよっ」
 勢いよく体勢を戻したミチは、巣穴の中に潜って枯葉をニイちゃんの広さに整える。今夜は寝床はニイちゃんにあげて、ミチはニイちゃんのお腹で温まるつもりだ。明日になったらもっと枯葉を取りに行こう。
 あんなにおっきくなったニイちゃんは、そんじょそこらの連中には負けないだろう。ニイちゃんと一緒なら、またどんな場所でも楽しくなる。今度はたっぷり降り注ぐ大きな実を、ニイちゃんとおなかいっぱい食べられるんだ。

 ひょう、と強い風が吹き抜ける。
「ミチ」
 ニイちゃんが森の出口を振り向いて言う。
「行かなきゃ。元気でな!」
 あたりまえのように、快活な声で。
 ミチの耳が小刻みに動く。
 素早く、ミチ自身にとってはひどくのろのろと向き直る。
 大きくすらりと尖ったニイちゃんの姿が、ひどく遠くに見えて、ミチの全身の毛が逆立つ。
「待ってニイちゃんっ、どこに行くっていうの!?」
「マッスグマが呼んでる」
 冷たい風が吹き抜ける。ニイちゃんの眼は空のように澄んでいる。

『マッスグマ!』

 森の外から知らないイキモノの声が響く。

「あいつ。マッスグマって鳴くから、マッスグマ。俺を呼ぶときだけなんだぜ? あの鳴き声」
 きししっ、とニイちゃんは楽しげに笑う。
 ぞわぞわとミチの毛は逆立ち続けている。土を掴む肉球が冷たい。
「ニイちゃん」
 ミチは鳴く。この響きの血を吐くような切実さに、ニイちゃんは気付いてくれない。
「――行っちゃうの?」
 蚊の鳴くような声を絞り出す。
 冬の水に浸ったように、尻尾の先が、足先が、爪先が冷えて、見えない冷気の水位が上がっていく。
「おう。ほらっ、ミチ! ちゃんと見送ってよ?」
 屈託なく笑うニイちゃんが、ミチは好きで堪らない。
 ニイちゃんは。ニイちゃんは――黙っていなくなった癖に。
 ぴしっと前足を揃えて、背筋を伸ばして。背中の毛を立てて。
 揃えた前足から地下深くまで木の根のような金縛りが恐ろしい力でミチを掴む。胸の奥が大きな石でも呑んだように重い。苦しい。
「ニイちゃん」
 ミチは鳴く。外から圧されるように無理に。走り出したい焦燥に衝かれて一歩も動けずに嘘を吐く。
「行ってらっしゃい」
 声を出し切った途端、喉が弾けるように熱くなってじくじく痛む。
「おうっ、またな! いつか!」
 どうっと風の塊が木々を揺らして吹き抜ける。
 風の速さで、ニイちゃんは真っ直ぐに駆けていく。遠ざかっていく。木の根を跳び越えて、茂みを突っ切って、背の高い草に飛び込んで、すさすさと草の穂が揺れて、遠ざかっていく。ニイちゃんが遠ざかっていく。

 ひょいっ、とキロが降りてくる。
 浮き上がった木の根に停まってちらとミチを見る。呆然と森の外の背の高い草叢を見詰めるミチの視線の先を見て、またミチの顔をみて、声を掛ける。
「よおくしゃたぬきくん。あれがそのニイちゃん?」
「うるさいッ!!!」
 ミチは叫ぶ。うわっ、とキロが飛び立つ。ばさばさっとわざとらしく羽音を立てて飛び上がっていく。
 巣穴の底に飛び込んで、ミチは穴を掘る。土を掻く。どこまでも、奥底に、遠くに、深くに、此処じゃない場所に。
 身体が凍るようだ。寒い。寒くて堪らない。
 体を丸めた口許に、硬い背中の毛が触れる。
 うそつき。咥えて引き抜くと、すっとする。
 背中の毛。脇腹の毛。腿の毛。
 ミチは時を忘れて毛を引き抜く。うそつき、うそつき、と声もなく唸りながら。





3.大樹

 湿気に包まれて雨音で満たされて、長い時間が過ぎた。
 大きな雨粒が砂利のように叩きつけて、地面は抉られて、巣穴の外は真っ白になって何も見えない。
 巣穴の奥で、体を丸めて、ミチは流れ込んでくる雨粒を吸い込んで、肌寒さに震えていた。
 禿げた脇と背中を容赦なく冷気が刺す。

 びちゃ、と大きなものが落ちてくる音がした。
 ぎょっとした耳を立てたミチの視線の先、巣穴の入口の地面に濡れそぼったスバメが立っていた。
「いよぉ、くしゃたぬきくん。なんだい、はげたぬきくんになってるじゃないか?」
 キロは上機嫌でちょんちょんと跳んで巣穴の中に侵入してくる。
「おぉ、いい毛がたくさん落ちてるじゃないか」
 歓声を上げて、キロは囀る。
「巣材に貰っていこうかな。嫁を探すにはちょーっと遅いけどなー」
 ミチはぺたんと耳を寝かせて膝の裏側に頭を埋める。
 出て行けよ、と言う声の塊が奥に詰まって喉の坂道を上ろうとしない。重苦しい喉のしこりは数呼吸で霧と共に霧散して、すうっと喉に湿気が流れ込んで潤う。
「ここぁすっごいよなー、雨が全っ然当たらん場所なんか他に無いぜ?」
「あまやどり、していけば?」
 ぐるるる、とうめく声は恨み節のように響く。
「お、珍しいじゃん、ひねくれくしゃたぬきくんにしては」
 意にも介さずキロが叩く軽口が、ぐさりと胸に刺さってミチの口許が震える。ひねくれ。ひねくれ。
「ひねくれ」
「ひねくれもんだぜぇくしゃたぬきくんは。そこがおもろくってたまらんぜ?」
「キロはお調子者だ」
「鳥は誰だってお調子者だぜぇ、頭が軽くない奴が飛べるわっきゃないしぃ」
 細く蛇行した水の流れが巣穴に入ってきて、キロの脚を掠めてミチの埋もれる窪みに流れ込んでくる。
 びくっと毛を震わせたミチの耳に、キロの落胆の鳴き声が響く。
「あーあ、ここもダメかぁ」
「ダメって?」
「登んなきゃなんねぇってこと」
 ぱさぱさっと羽ばたいて、キロは大樹の洞の裂け目に脚を開いてがっしりと掴まって叫ぶ。
「ほらほらぁ、くしゃたぬきくんも登ってこなきゃあ」
 艶々と流れ込む水は幅を増して、瞬く間に巣穴が川の中へと変貌する。
 浮かび上がって、流されかけたミチは大樹の洞から放り出される寸前に慌てて幹に掴まり、よたよたとよじ登る。
「……寝床が……」
 ニイちゃんが過ごした巣穴が。
 毟った毛もまるごと流されて、剥き出しの肌が冷たくてヒリヒリする。
「愚痴んのはあとでなー。ここまで登って来な、くしゃたぬきくん」
 太い枝の上からキロが囀る。
 樹の皮に爪を立てて、滝の中みたいに顔に雨粒を浴びながら、ミチは手探りで幹をよじ登る。
 剥けた腿が樹皮に擦れて苛立つ痛みが付き纏う。
 轟々と空から地面へ森の中から外へ、雨が川が霧が流れていく。

 ようやく枝に体を乗せて、ミチはぶるぶるっと身震いする。
「うわっとぉ」
 ぱささっと飛び上がったキロは、呆れた声で言う。
「流血しすぎだぜー、大水じゃなきゃたぬき食らいに狙われていたかもなぁ。よかったな!」
「よくないぃ」
「自分で毟ったんだろぉが」
 ぱさっぱさっと羽を瞬時に広げて鳴らして、キロはミチを枝のつけねの洞に追い立てる。
 雨を巻き込んだ分厚い風がこの太い枝を揺らす。
 枝にしがみついたミチの短い足が滑って空を掻いて大きくなった果実を踏みつけ、落ちかけた体重を支えた果実がぶちっと音を立てて千切れた。
「あっ」
 ぼちゃん、と濁流に呑まれて、大きな実は流されていく。
「気にすんな、ほらほらさっさと行った行ったぁ」
 身を縮めていたキロが囀って追い立てる。
「種は出来上がってんだから、遠くに行けりゃ御の字さ。水だって立派な運び屋だぜぇ」

 薄暗い洞の中、斜めに刺さった枝の上で、ミチはようやく落ち着いて、体を丸めて傷口を舐める。その少し上に陣取ったキロが、ぴゅう、一息つく。
 遥か足の下で濁流の音が轟々と響いている。
 濡れて剥けて苔が剥がれて、木の匂いが充満している。
 掠れた息のような音。
 なんだろう、とミチはあたりを見回す。
「ん、なんかあるか?」
「だまって」
 ぴくぴくと耳を傾けて、その出処をようやく絞り込む。
 洞の壁、樹の幹からだ。肉球を押し付けると、振動すら感じる。
「……お水を吸い上げてる」
 こぉおおおお、と細く掠れた音がミチを取り囲んで響く。
 ミチは上を見上げる。真っ暗な洞に点々と穿たれた光射す穴。
「欠片に注いで立派な実に熟させる」
「……キロ?」
 低く太い、スバメの喉から出るとは到底思えない音がこだまする。
「これが最期だ。先の冬は寒かったろ?」
「うん、寒かった」
 ぶるっ、とミチは身を震わせる。一緒に冬を越したニイちゃんの温かさが去来して、気が狂いそうになる。
「キロは南の島に行っていたんだよね?」
「欠片を出せるだけ出して甘い肉で覆った。遠くで芽吹く子を託す」
「ねえ、キロ?」
「仕舞いの甘味、とくと堪能したまえ」
「キロ?」
 ぴゅいふっ、と軽いスバメの鳴き声が応える。
「ほいほいっ、どうしたんだい? 血みどろはげはげくしゃたぬきくん」
「ねえ、いまのなに?」
「今のってなによ?」
「キロじゃないみたいな変な声で、カケラとかさいごとか」
「ああ」
 ちゅちちちゅちっち、と照れ隠しのように鳴いて、キロは答える。
「ひとりごとさ」
「なんだよそれ」
 ミチは枝の上で体を丸めて、傷口を舐め始める。しょっぱい血と甘い膿。開いた傷に舌が触れる刺すような痛みが、少しだけ心を軽くする。
 木が水を吸い上げる音が喘息のように響く。
 洞の外で、空が鳴いて風が叫ぶ。
 無数の果実はまだ硬く、しっかりと枝に繋がっている。





4.虹

「もうそろそろかな」
「まだまだ、黄色いだろうが? 渋みは無くなってるだろーけど」
「いつ落ちてくるのかな」
「落ちてくる実は一発でわかるぜ。旅立つ準備が出来た実は、極紫の艶掛かって合図してくるんだ。そうすると枝の上で跳ねるだけで落ちるのさ」
 黄色とか極紫とか、そんな気配がキロには感じられるらしい。
 ミチにもうっすらと、熟した実の匂いは感じられる。でも、それが無数にぶら下がっているどの実なのかなんて、到底わからない。

 冬毛が生えてきたお陰で、ミチの禿げはふわふわの下毛で覆われて隠れている。硬い上毛も伸びてきたけれどまだ短くて、キロはその不揃いな模様を「ぐにゃたぬきくん」と呼んでからかってくる。


「キロはいつも雨の後に草原を見ているよね」
「虹の中に入ってみたくてな、でもいつも逃げられちまうんだ。どんなに速く飛んでも届かねぇの」
 ちゅいちゅいっと鳴いて、キロは続ける。
「ムカつくのがさぁ、ゆっくり飛んでたらゆっくり後退っていくのに、スピード出した途端にあいつもきっちり同じだけ遠ざかっていきやがんの」
 わさっと羽を浮かせて居住まいを正して、キロは空を見上げる。
「あほらしくなって遠くの虹を追っかけるのはやめたんだけどさぁ、やっぱ、いつかあそこに頭突っ込んでみたいよねぇ」
 雨上がりのうっすらとした白い霞や揺らめきをキロは虹と呼んでいるらしい。
 でも、霞の中に突っ込むなんてキロには簡単なことの筈だ。
 キロが虹と呼ぶそれは、キロにしか感じ取れない気配なのかも。
 ぼんやりとそんなことをミチは頭の中に揺蕩わせる。


 ミチの頭上では、大きな実がたわわに熟して、枝がしなってきている。
 最近、キロはずっとこの木の上に居る。
 小雨の朝。
 ミチは木の洞の底で丸まっている。
 キロは木の洞の一番上に停まっている。
「なあ、くしゃたぬきのミチくん」
 くぉんくぉん、とキロの声が響く。
「ふあ? なんだよぉ」
 欠伸混じりにミチが応える。
「もしおれがさぁ、南の島に行く途中にあのニイちゃんってやつに会ったとしたらさ」
 ぴくっ、とミチの耳が動く。
「なんかして欲しいことある?」
 軽く、キロは囀る。
「……もうすぐ大きな実が落ちてくるよって知らせて」
 ふひゅう、と息を吐いてミチは続ける。
「ニイちゃんに食べて欲しかった。こんなにあるのに」
 ミチは丸めた腿に鼻先を押し込む。
「キロ、行っちゃうんだね」
「そのつもりさ~」
 ぴゅいぴゅいっとキロは歌う。
「南の島はいいところさ~。カラフルで陽気でさぁ~。あったかくっておっきな虫がいっぱい居てさ~。なにもかもがおっきいんだぜ、あっちじゃあくしゃたぬきくんを丸呑みにできる魚がうようよいるんだ」
「こわいところじゃないか」
「いいところさぁ、みんなボケーっとしてのんびりしてるんだ。それこそ昼間っから飛び回ってるのはおれたちくらいでさぁ」
「ふぅん」
 鼻声が温かな腿の内側に響く。
 さああっ、と雨が激しくなって、同時に陽が射してくる。
「もうすぐ上がるな、よしっ」
 洞の上に響いていたキロの声が、外へと行ってしまう。ぱさぱさっと羽ばたく音。
 ミチは腿の奥に顔を押し込んで、身を震わせて、頭を上げて立つ。
 洞から出ると、日差しの中で雨が徐々に弱まって、治まりゆく雨音と共にキロの声が響く。
「いっくぜぇ、くしゃたぬきくん! こっちだ、見なっ」
 見上げると、張り出した枝の上でキロが羽を広げていた。
 ぴょんっと枝の上で飛び上がって、素早く羽を畳んで同じ場所に着枝する。
 ざっ、と枝が揺れて震えて瑞々しく葉に蓄えられた滴がばらばらと雨の余韻のように撒かれ落ちて、そして。

 ぷつんっ。

 と。大きな実が、枝を離れた。
 つやつやと光って、芳醇な匂いが近づいてくる。
 ミチは伸び上がて、飛び上がって、お腹でその大きな実を受け止めて、ごろんごろん泥の中を転がって、仰向けで止まった。
 白く木漏れ日が射して、枝からみっしりと生えた大きな実や葉の表面と垂れる滴ひとつひとつが眩く輝いている。
 待ちに待った匂い。ずっと欲しかった匂い。大きな実にミチは鼻を押し付けて、胸いっぱいに吸い込む。
「グッジョブぅ。くしゃたぬきくん、さっすがぁ!」
 とんっ、とキロが、ミチのお腹に抱えた大きな実の上に停まる。ずっしりとキロの重みをお腹に受けて、ミチが呻く。
「どいてぇ」
「おうっ。それじゃあ」
 キロが後ろを向いて頭を下げる。
 と。
 ぶちいっ! と尻の毛が毟り取られる。
「ぎゃっ!?」
 あまりのショックに弛緩したミチの上から、キロが飛び立つ。ミチが抱えていた大きな実をしっかりと足に掴んで。ミチの尻の毛を嘴に銜えて。
「なんだよおっ、なにするんだよおっ!」
 ミチの鳴き声など知らぬ風に、キロは風に乗って草原の上へと飛び上がっていく。
「キロなんかキライだあっ!」
 ミチは叫ぶ。思いっきり叫ぶ。
 風が吹いて滴がばらばらと落ちて、芳醇な香りが遠くまで広がっていく。




 追い風に乗ってキロは飛ぶ。風の波に乗って空を泳ぐ。大きな虹が架かっている。
 近付いて、近付いて、鼓動は熱く、風よりも熱く。目の覚めるようなカラフルな虹に近付いて。
 飛び込んだ、と思ったら虹は消えていた。雨粒が顔に当たり、翼を叩く。
 キロは方向転換して、あいつらを探す。
 毎日、居場所は確認している。
 居た。
 岩山の中腹で、“ニイちゃん”とケンゲンキが追い詰められている。

 ケンゲンキは木のように縦に長いイキモノで、大規模なコロニーを作る。その活動は地形を変える程だ。
 ケンゲンキの傍にはそこに棲んでいないはずのイキモノが現れる。魅入られて“取られてしまった”イキモノだ。
 一度ケンゲンキに“取られて”しまうと、たとえ戻ってきても、もう元の心には戻れない。あちら側を想い続けて暮らすことになる。
 ミチよぉ、お前のニイちゃんは、あいつに取られちまったんだ。キロは心の中で皮肉に語りかける。

 “ニイちゃん”は満身創痍でふらつきながら、ケンゲンキを庇って威嚇を続けている。
 相手はこの岩山を縄張りにしているグラエナだ。獲物に咬みつき引き裂く鋭い牙が唸り続ける口から覗いている。影のような黒と岩肌のニビ色の毛並みを逆立たせ、赤い眼は敵意で燃えている。
 旋回しながらキロは考える。あのグラエナがあのケンゲンキを殺ったら、“ニイちゃん”はどうするだろう? あの寂しがりやのたぬきのところに戻るだろうか? これまで戻ってきたイキモノたちのように、心をあちら側に残したまま、元の生活に戻っていくだろうか?

『マッスグマ、もういい! ボールに戻れ!』
 ケンゲンキが鳴く。
 “ニイちゃん”は油断なくグラエナに対峙して、その牙がケンゲンキに届かないよう睨みを利かせている。
 双方、満身創痍。
 グラエナが低い唸りを上げ続けているのに対し、“ニイちゃん”の呼吸は深く掠れて限界が近いことを示している。

 しょうがねぇな、とキロは羽を捩って降下を始める。
 遠回りして、グラエナの背後でわざとバサッと羽音を立てて、ぴくんと耳が動いたその脇をすり抜けて、目を見開いた“ニイちゃん”の鼻先にミチの尻毛をぶわっと叩きつけ、一瞬きょとんとして、くしゅんっ、と盛大にくしゃみしたニイちゃんの開いた口に大きな木の実を蹴り込む。
 しゃくっ、と音が響く。
 咀嚼して呑み込む“ニイちゃん”の寝そべった直毛がぞわぞわっと波立って震えている。
「元気が出たか? タラシのばかぐまくん」
 澄んだ空の青色の目がキロを映す。胸に鮮やかな赤を持つスバメの姿を。
 その背後でケンゲンキが、真ん丸の硬い木の実を枝に生やす。
「じゃあなっ!」
 飛んできた木の実をサッと躱して、キロは“ニイちゃん”の尻尾の毛を、ぶちいっ! と引き抜いて。銜えて飛び去って行く。
 遥か下で、ケンゲンキの鳴き声が響く。
『マッスグマ、いわくだきだっ!』
 きゃいぃいいん、とグラエナの悲鳴が響き渡る。


「勝ったな……」
 トレーナーの少年は深々と息を吐く。
「よくやった、えらいぞマッスグマ」
 マッスグマはふんふんと地面の匂いを嗅ぎ続けている。やけに熱心に。
「マッスグマ!」
 少年はもう一度マッスグマを呼んで、振り向いたその頭をわしゃわしゃと撫でてやる。
 それにしても。
 偶然スバメが飛び込んできて、スバメが落としたオボンの実をマッスグマがキャッチして、それで逆転できるなんて。
 こんな嘘みたいなことがあるんだ、と興奮冷めやらず。
 少年は思う。グラエナもスバメも逃がしちゃったけど、手持ちのポケモンは一匹を除いて瀕死で、残ったのはボロボロのマッスグマだけで、散々だけど、でも。
「あ、虹だ! ほらほらマッスグマ、虹だよ!」
 少年は虹を指す。マッスグマはその指の先を見る。白く茫洋とした雨の空を。




 ミチは周囲の低木に背中の硬い毛を擦り付けて、一生懸命に縄張りのしるしを付ける。
 その横をぽにょんぽにょんと頭から羽の生えた食いしん坊の草色のおまんじゅうが通り過ぎていく。
「あっこら」
 と、匂いが濃くなって、その正面の草叢から空色の巨大なおまんじゅうの親玉が姿を現す。
「ぴゃっ!」
 ミチはそさくさと巣穴に滑り込む。
 山から下りてきた濃色の大毒蛇が何でも呑み込むおまんじゅうの親玉の脇を横切り、あぐっと大口を開けた巨大まんじゅうにちゅるちゅるっと呑み込まれる。ぼこんぼこんと堆い巨大まんじゅうの身体が内側から膨らんで、げぼぉ、と胃液と共に大毒蛇が這い出てくる。それを遠巻きに草色まんじゅうが眺めている。
 大樹の下にイキモノたちが集まってくる。
 こんな奴らがいっぱい来るから、大きな実が落ちてきてもなかなか取りに行けないのだ。
 巣穴の中で、ニイちゃんはくすくす笑いながら集まってくるイキモノたちを眺めてあーだこーだ言っていた。それが面白くって、──怖いなんて思ったことがなかった。
 木の根っこと土の隙間を通り抜けて胃液をこそげ落とした大毒蛇が、チロチロと舌を出す。
 ひっ、とミチは身を縮める。
 大毒蛇の舌がミチの巣穴の入口を掠める。
 と、大毒蛇の顎が木の股にガンっと当たる。ちらりと白い毛が見えて、木の外へと鎌首を擡げた大毒蛇が、白い毛の鋭い爪の恰幅のいいケモノと組み合ってくんずほぐれつどったんばったん転がっていく。
 ミチは巣穴の奥でそっと土を掘って、逃げ道の増設にかかる。


 日が傾いた頃。濃厚に集っていたイキモノたちの匂いが薄れて、気配が退いて。
 ミチはようやく、巣穴から顔を出した。
 とん、と何かが落ちてきて頭に当たる。
 ふわっ、と漂ったその匂いに、とくんと熱く心臓が打って毛がばさばさに浮く。
 ころんと草の上に転がったそれは、土で根元が固められた毛の塊だった。
「いよぉ、くしゃたぬきくん。おっひさぁ♪」
 木の上でぴゅいぴゅいっと澄まして上機嫌に囀るキロの声。
 ミチはくんくんと毛の塊の匂いを嗅いで、小刻みに耳を動かして、キロを見上げる。
「ねえ、これって」
「お前の“ニイちゃん”の尻の毛を毟ってきてやったぜぇ」
「っ、どうしてそんなことするのっ!」
 キロは鳴かずに踊るように尾羽を振る。そうじゃないだろ? とでも言いたげな視線で。
「……ニイちゃん、元気だった?」
「それ嗅いだらわかるんじゃね? おれあんまり見てないからわっかんないのさ」
「えぇえ? ちゃんと見てきてよぉ」
「おれもヒマじゃないの~。でも。一生懸命で、楽しそうだったなー」
「ふぅん、そうかぁ」
 ミチはニイちゃんの毛の塊に鼻を押し付けて、思いっきり匂いを吸い込む。
「キロはすごいね、どこへでも行けるんだね」
「へへっ、すごいだろ?」
 枝の上でちょんちょんと跳ねたキロは、再びばさっと飛び立つ。
「んじゃあ、まったな~」
 夕空を遠ざかっていくキロの影。足には熟し切った大きな実を掴んでいる。
 ミチはニイちゃんの毛の塊を銜えて巣穴の中に戻った。
 ニイちゃん、とミチは呟く。胸の奥が熱くて痛くて、ひどく安らぐ。
 ニイちゃんは居るんだ、とミチは思う。ここに居なくても、遠いこの空の下のどこかに。キロが飛んでいけるくらいの場所に。
 なんだか体が温かくなって、ミチは久し振りにゆっくり眠ることができた。





5.キロ

 ばさっ、と飛び立つ羽音を、ミチは何度となく聴いた。
 枯葉がたくさん落ちて、大きな実も次々と落ちて、大きなこわいイキモノが満足して立ち去った後でもお口の中がとろけそうになる実をお腹いっぱい食べられる日が続いた後に。
 イキモノたちは去って、枯葉は落ち切って、冷たい風が吹く。
 ばさっ、と飛び立つ羽音を、ミチは洞の巣穴の中で聴いた。
 空は澱んで、白く静かに粉のような雪が降り始めた。
 ばさっ、と飛び立つ羽音を、ミチは洞の巣穴の中で聴いた。
 霜柱を踏んで、ミチは食べ物を探しに行く。
 見上げる。
 あんなにあった大きな木の実も、枝に数個を残すのみ。
 キロはもう、南の島に行ったんだよね。
 霧の息を吐いて、ミチは思う。
 薄く積もった雪にミチの足跡が残る。
 と。
 懐かしい、ありえない、匂い。
 大樹の下に。
 駆け寄ったミチは、息を呑む。
 仰向けに、黒いスバメが倒れていた。
「キロ?」
 鼻を押し付けると、キロはうっすらと目を開けた。
「あぁ、ミチ」
 いつもの軽口が無い。ミチは戦慄して、ぐいぐいと鼻を押し付ける。
「ねえ、なにしてるの、どうしたの? 南の島に行ったんじゃなかったの?」
「あぁ、そのつもりだったんだが、ねぇ」
 キロは力なく笑う。
「タイミングを逃しちまったのさぁ」
「どうしてっ?」
「どうしてかねぇ」
 キロは実と葉をほぼ落とし切った大樹の梢を見上げて力なくひゅうと啼く。
「お節介焼きが過ぎたかなぁ」
「ずっといろんなひとに木の実を届けていたの?」
「ああ、喜んでくれるから、つい、なぁ」
「ばっ、ばかじゃないのっ!?」
「おぉ、たぬきくんにばかって言われちまったかぁ。おれももうおしまいかなぁ」
「おしまいって、おしまいって、そんな、そんなの……ばかじゃないのっ!?」
「あばよ、たぬきくん。行きなよ」
「行けるわけないよっ」
「おれ、もう助かんないから。自分でわかるの、もう飛べないって」
 くっ、と歯を食いしばって、ミチはスバメの身体を銜える。
 ミチの熱い息を浴びて、キロは朦朧と呟く。
「おぉ、あったけぇ」
 キロを巣穴に持ち帰って、ミチはその体にぴったりと覆い被さる。
 おかあさんが、きょうだいたちが、ニイちゃんがしてくれたように。
「おれが死んだらさ」
「んっ」
「食っていいぜ、たぬきくん」
 ミチは黙ってキロの頭にはあっと息を吐きかける。
 降り止まない雪が、巣穴の入口を塞いでいく。
 音を消していく。
 光が薄れていく。
 匂いが塗り替えらえていく。
 白く。白く。白く。



 真っ白に染まった森の中で。
 枯れかけた大きな木の根元から。
 ずぼっ、と一匹のジグザグマが頭を出す。
 続いて、その背中の毛の中から、ぴょこんとスバメが頭を出す。


「案外、死なないもんだねぇ」
 ミチのお腹の毛の下で、元気を取り戻したキロが言う。
「こわくなるから、もういやなこと言わないでよ」
 恨みがましくミチがうめく。
「でもこの寒さじゃ飛べやしないから、春までは生きられそうにないや」
「どうしてっ、僕は飛べないけど生きてるよっ?」
「たぬきくんは雪の中でも平気だろ? おれこの寒さは無理。ずっとたぬきくんのお腹の下にいるってわけにもいかないしぃ」
「居たらいいじゃないっ、春までずっとお腹の下にさ!」
「これでどうやって飯食いに行くわけ?」
「……背中なら毛が長いから、キロ、すっぽり入れるんじゃない?」
「そうかぁ?」
「入ってみてよ、ほら」
 のろのろと背中を登るキロが鎮座して落ち着くと。
 かつて毟り取って少し毛が薄くなったところ、その寒さが。
 キロの体温で、ぴったりと塞がれた。


「こりゃ快適だねぇ」
 雪景色を眺めて、キロが上機嫌で囀る。
「あったけぇ、この巣、最高ぉ」
「泥で固めたりしないでよ? 歩くよぉ」
 雪を割って、ミチが進む。
「そうそう、この先まっすぐ。坂を上ったところに赤い実があったぞー、あれなら冬でも食べられるんじゃないか?」
「知ってる、そこに向かってるの」
「道、外れてるぞー」
「そっちは岩があるの。あとこっちは池があるからまた曲がるよ」
「地面ってホントいろいろあるんだなー」
「ふふん」
「あっ、得意になってるな? このあったかもこもこたぬきくんは」
「へへっ。走るよ?」
「ちょ、待てよぉ。よし掴まった」
 雪を掻き散らしてジグザグマが走る。
 その背中の毛の隙間からスバメの頭がちょこんと覗いている。
 きゃははっ、とミチは笑う。
 胸がすくような楽しさが、体中を満たしている。
 ずっしりとした確かな温かさが背中にある。
 ちっちぃい、とキロが背中で鳴く。
「波の間を飛んでるみたいだわぁ、最高っ」
 キロが大好きな南の島もこんな感じなのか。なんだか嬉しくなって、ミチは速度を上げた。
 熱が無限に湧いてくる。雪を掻く足が火照る。どこまでも走っていけるような気がする。
「ちょおぉ加減してくれよぉ、暴走たぬきくんよぉ」
 背中でキロがちっちっちっと叫ぶ。舞い落ちる雪がきらきらと輝く。
「ねえキロ、いま虹って見える?」
 上気した吐息でミチが問う。
「それどころじゃねえよっ!」
 呆れたようにキロがわめく。



 その冬の終わりに、遂に。
 枯れた幹はひどく乾いて軽く。
 だから、心地好く歌うように、その音は響いた。

 ぱきっ、ぴしっ、ったぁあああん!

 眠っていたミチの頭をキロがつつく。
 ふさあっと綿雪を被って、くしゅんっ、とミチがくしゃみをして、見上げる。
 広い空。
 雪を巻き上げた風が吹き付ける。
 大きく裂けて倒れた幹は、白い雪の中に黒々と横たわる。

 ミチはゆっくりと、倒れた幹に添って梢まで歩を進めた。
 ミチの背中で、キロは小さく喉の奥でなにかを呟いている。

 一周する間に、キロの声は細く澄んだ歌になった。
 雪降る白い空の下で、巣穴だった窪みに座って、ミチはその掠れた歌を聴く。

 歌い終えたキロがぽつりと言う。
「おれ、このためにここに残ったのかも」
 ふぅん、と耳を寝かせて、ミチは訊く。
「もう、いい?」
 その穏やかな響きに驚いて、キロは問い返す。
「お前こそもういいのか?」
「うん、新しい穴を探さなきゃ」
 さっぱりとした小さな鳴き声。
 その清廉な響きに、キロは首を捻る。
 あの危なっかしかったくしゃたぬきくんが、いつの間にこんな頼もしくなったんだろ?
「じゃ、行くかっ」
 ぴゅいっ、とキロがミチの背中の毛に埋もれて胸を張って号令を出す。
「うんっ」
 ぴょんっ、とミチは雪の上を跳ねる。駆ける。
 楽しげな足跡が森の奥へと綴られていく。


 森の外れに黒く裂けた倒木がある。
 春になれば苔に覆われるその木は声を持たなかった。
 けれど、この地方に棲むたくさんのイキモノは、この木が最期に伝えた味を知っている。