あめ・つち

特になし
イラスト
 私があの子達と出会ったのは、ちょうどあの子達との別れの日と同じような、すっきりとした雨上がりの午後のことだった。
 田畑が広がる中に様々な色の屋根が寄り集まっている。時々低めのビルやアパートが農道沿いに構えているが、自分の車を運転している私の景色からそれらは一瞬で姿を消してしまう。運転中の私の視界はいつも道路を真っ直ぐに突き抜け、私の町を見下ろすように取り囲む高い山々の麓で立ち止まる。あの日は山のてっぺんを軽やかに飛び越えるような虹がかかっていた。虹の出るような時はいつもそうだけど、あの日の風も爽やかな中に一筋の潤みを帯び、赤信号で立ち止まれば、道沿いの木や草や家の屋根などのあらゆるものが、泣き腫らした後の瞳の色つやに似た光を放っていた。
 私があのチェリンボと出会ったのは、そういう日だった。
 穏やかな日曜日で、ドラッグストアで買い物をした帰りだった。元々人も車もあまり通らない農道に、やや不揃いな丸い体の二匹は、車道に背を向けてぽつんと立っていた。
 どこにいても視界のどこかに山がのさばってきて、市街地から少し離れれば一面が田畑の緑一色になるこの町では、チェリンボ自体はそう珍しいポケモンでもない。ただ、緑と黒の視界に突如飛び込んできた鮮やかなピンク色に驚いたのと、歩道もない道の端に途方に暮れたように立ち尽くし、私の車を避ける様子もないのが気になって、私は車を停め、降りて彼らのところへ向かった。
 私が隣にしゃがみこんでもチェリンボは逃げようともせず、ただ傷ついた身をくっつけあい、車道の外を見つめていた。何があったかは車を降りた瞬間に大体分かった。風に舞い散る、くすんだ色の羽根。畑から聴こえる騒々しい鳴き声。
 整然と並んだぶどうの木の下で二羽のムックルが喧嘩に夢中だった。喧嘩のきっかけは、おそらく私の隣で身じろぎもせずに事を見つめている、あちこち怪我したさくらんぼポケモンだろう。でもお互いの羽とくちばししか見ていない彼らには、きっかけなどもうどうでもよさそうだった。
 私は目の端でチェリンボを見た。引っかき傷と、突っつき傷……とでも言うのだろうか、とにかくそんな感じの傷がいくつも、柔らかそうな肌に痛々しく残っていた。でも、何故だろう。恐ろしい目にあったはずなのに彼らは逃げようともしない。それどころか、お互いに、ちぇり、ちぇり、と興奮した声で小さくささやき合いながら、目の前の騒ぎに夢中になっている様子だ。短い足は精一杯に踏ん張って道から落ちないように、でも明らかにその体は前のめりになっていた。
「ねえ、その傷、痛くないの」
しゃがんでもなお、目線を下げなければならないほど小さなそのポケモンに、私は話しかけていた。
「ていうか、怖くないの?」
 車から出てチェリンボの隣に座った時、私は彼らが怯えているか、その身に負った怪我が重いせいで動けないのだと思っていた。でも、そのどちらでもなかったと判明したこの時、何か別の不安が私の心をせっついた。私はポケモントレーナーではないし、ポケモンに詳しくもないけど、何というか、彼らの有り様は……どうにも危うすぎる。
 二匹のうち、やや大きめの方が私を見て、ちぇり、と弾んだ声で鳴いた。ムックルの羽根が風に乗って二匹の側を舞うと、小さい方のチェリンボは、微妙に地面に届いていない足をぱたぱたさせてブランコのように楽しげに揺れた。
――これはダメだ。私の中の何かがそう告げた。よく分からないけどとにかく断言できる、放って置いたらこの子達は近いうちに死ぬ。絶対に死ぬ。そう確信したら、もうそのまま立ち去るわけにいかなくなった。
 助手席に置いた買い物袋を後部座席に投げ、代わりにチェリンボを乗せた。抱き上げられても、助手席に乗せられても、車が走り出しても、二匹は欠片も警戒する様子を見せず、小さな子供のように足をばたつかせてはしゃいでいた。空いてる道でよかったと思いながら、ゆっくりゆっくり走って帰った。途中で寄り道して、フレンドリィショップでいいキズぐすりを二つ買った。ムックル達は追ってこなかった。
  それが私のチェリンボ達との生活の始まりで、あの時の彼らは怪我こそしていたけど、とても元気な普通のチェリンボのようだった。
 
 正直に言えば、初めて見た時、あの子達の容姿に何か不穏なものを覚えなかったわけではない。でもそれは彼らの体についた大小の傷と同じ類のもので、ポケモンセンターなどの然るべき施設で適切な治療を施せば元どおりになるものだと思っていた。何ならきれいな水を与え、太陽の光を浴びさせれば勝手に治るんじゃないか、くらいに思っていたのだ。彼らを連れ帰った当時の私は。
 私の拾ったチェリンボには、葉っぱがなかった。
 本来なら瑞々しい緑の葉が、二つの傘のようにそれぞれの頭の上に広がっているはずなのに、彼らの頭上にはひとつながりの茎の他、何もなかった。その茎もチェリンボのそれ本来の柔らかな緑色ではなく、二股の枯れ枝でも刺したみたいな硬く細い茶色の棒が、かろうじて二匹の体を繋げているのだった。
 違和感は葉っぱのことだけではなかった。家に連れ帰り、二匹の体に薬を塗ってやっている時に、ふと、彼らはチェリンボにしてはどうも、大きさが揃いすぎているように思った。
 この辺りではそれなりに身近なポケモンとはいえ、ポケモン自体との縁が薄い私はこんなに近くでまじまじとチェリンボを見たことはなかった。それでも、チェリンボというポケモンは、もっとこう、片方の体がもう片方をアクセサリーみたいにぶら下げて歩いていたような覚えがあった。
 私の拾ったチェリンボは、二匹ともはっきり自分の足で歩く意志を持っていた。私のアパートに連れて来た当時は、右に比べて左の方が一回りほど小さくて、足が床に届いていなかった。なので、どこかに行きたい時には歩く代わりに跳びはねていた。つまり、茶色い枝を軋ませながらブランコのように揺れて反動をつけ、行きたい方に向かって勢いよくジャンプするのだ。なので連れ帰った夜の彼らは、居間のテレビ画面に向かって左側の方が突然飛び跳ね、右側が盛大にすっ転んでは喧嘩をし、揺れるカーテンに向かって右側が左側を引きずって歩き、左側はそれに抵抗して足をばたつかせ、といった具合で、二匹が何かをするたびにキャビネットの服が揺れて落ち、テレビはぐらつき、右側に執拗に狙われたカーテンは最終的にレールを外れて床にずり落ちる羽目になった。しかし私はそんな事より何より、二匹が何かをするたびに、二つの体を繋げている頼りない枝が折れないか心配でたまらず、いいキズぐすりを片手にひたすらオロオロしていた。
 それでも、この向こう見ずで無邪気なチェリンボがようやく疲れてきた頃合いに、座布団の上にブランケットを敷いた急ごしらえの寝床にそっと入れてやると、彼らは寝息を揃えてよく眠った。
 モンスターボールにも入っていないチェリンボは、私の家に居ながら野生のままだった。傷も枯れた枝も、未知の世界に連れて来られた彼らの探検の邪魔はできなかった。あの子達は自由で、快活で、奔放だった。
 そして、私はポケモントレーナーの資格を持っていなかった(だからいいキズぐすりは買っても、モンスターボールは買わなかったのだ)。初めて一人で一晩ポケモンの世話をしただけで、その小さな傷ついた体からは想像もつかない、溢れるほどの元気に振り回され、すっかりへとへとになっていた。
 世の中のポケモントレーナーというのはこんな力のある生き物を毎日相手にしているのだろうか。私には無理だ。人間としての仕事をしながら毎朝毎晩こんな格闘を繰り広げる生活なんて、絶対に無理だ。
 こんなに怪我まみれで小さいんだから、家に連れて来ないと死んでしまう、なんてただの思い上がりだった。傷ついた野生ポケモンの保護なんて、トレーナーの資格もない私の手に負えるものじゃなかった。ブランケットに包まれて気持ちよさそうに眠る二匹の姿を眺め、泥棒に荒らされたかのような部屋の惨状に目をやり、私は深い溜息をついた。ポケモンについて何も知らないまま野生のポケモンを拾ってきてしまった事を心底後悔し、私達にとっての最善の道について改めて考えた。
 恐らくは、ポケモンセンターに通って早くチェリンボの体を治してもらい、早々にお互いの世界に帰るのが一番いいと思われた。私達はきっと、いつまでもこの生活を続けてはいけないだろう。この子達の有り余る元気なら、怪我さえ治れば野生の世界で立派にやっていけそうだ。ただの人間の私にできるのは、精々寝床や餌の提供くらいかもしれない。何なら野生ポケモンの保護施設的なところに連れて行って、それで素人の私の役目はお終いかもしれない。とにかくそれが終わったら私は私の、平穏な日常に戻るのだ。
 疲れで自然にまぶたが落ちるまで、私はそんな風に考えていた。
 そして、次に目を開けた瞬間、こんな都合のいい未来図はただの一夜の甘い夢だったのだと、私は強烈に思い知らされることとなる。
 
 翌日、憂鬱な月曜日の朝を、私は何時も通りの携帯のアラーム音で迎えた。億劫さに任せて寝返りを何度か打つ間に、部屋の様子の違和感が目に入ってくる。意識がはっきりしだすと同時に、昨夜の出来事が脳裏に浮かび上がってくる。
 アラームの止まった部屋に広がる静寂が突然、不穏なものに変わった。チェリンボというポケモンがどんなサイクルで一日を過ごすのかは分からない。でも、草ポケモンが晴れた朝にじっとしているものだろうか。昨日うちではしゃぎすぎて疲れたにしても、この気配すら希薄な静けさは何だろう。
 音のない不安に押しつぶされそうで、布団から出るのが怖かった。でも、このまま動かずにいても何にもならない。
 私は意を決して身を起こし、昨晩作った即席の小さなベッドに向けて呼びかけた。
「おは……よう?」
 かける言葉に迷った結果、ただの挨拶が情けない疑問形で漏れた。彼らにニックネームをつける予定はなかった。チェリンボ、と種族名で呼ぶことさえ少しの抵抗があった。私にできる役目を果たしたらこのチェリンボとはきっぱり別れる、昨晩にそう決めていたからだ。
 二匹が揃って寝顔を見せていたブランケットからは、ただ乾いた枝だけが覗いている。それを目にした途端、私はバネのようにベッドから飛び起きて彼らの寝床の側にかがみ込んだ。
 ブランケットをはいでその体をひと目見ただけで、一刻を争う事態なのだと分かった。二匹の体を薄く覆っているピンクの皮は水気を失い、くすんでシワがよっている。大きさの差が一回り分くらいあったはずの二つの丸い体は、ほぼ同じくらいになっていた。特に右側の体は明らかに昨晩より縮んでいて、苦しげに閉じられた目がシワの一部に見えるほどだった。
――どうしよう。
 私は激しい混乱に陥っていた。
 水をやったら元に戻るんだろうか。水道水、ではダメな気がする。かと言って人間用のお茶やジュースなんか飲ませていいか分からない。そもそも水のやり方は? 口から飲ませるのか、体にかけるのか?
 思えば昨日はいいキズぐすりを体に塗っただけで水も食べ物もやってない。いいキズぐすりを傷に塗ったら浸透しすぎて余計悪くなる、なんて事があるんだろうか。食べ物って言ったってこの子達何食べるんだろう、それとも光合成? でもこの子達には葉っぱがない……
――どうしよう。無理だ。無理だ。
 その日の朝はずっとそう呟いていた気がする。呟きながら、這いずるようにして枕元の携帯を手にし、最寄りのポケモンセンターを地図アプリで確認する。そのまま職場の電話番号を呼び出して事情を話し、急な休みを入れることを必死に詫びた。ポケモンと暮らしていない人は珍しがられるような職場だったから、ポケモン絡みで休みを取ることを、驚きながらも二つ返事で了承してくれたことは本当に、本当に助かった。
 
「典型的な、ハガレ病の症状ですね」
ポケモンセンターの奥にある個別の診察室で、私は白髪の医者からその病名を聞かされた。
 安野深雪さんのチェリンボでよろしかったですね、と聞かれ、私のチェリンボじゃないんだけどな、と思いながら頷く私の傍らのベッドの上で、チェリンボは点滴をうたれて眠っていた。体には色つやが戻り、シワもない。ただ、茶色い枝と、同じくらいの大きさになった体はそのままだった。
 ポケモンセンターの受付に診せるなり、彼らは緊迫した声や足音と共に施設の奥へ連れて行かれ、それから私がこの部屋に通されるまで、随分と沢山のトレーナーが受付にモンスターボールを預けては返され、出ていった。待合室の椅子でその様子を見ながら、予約でもしていた人なのかなぁと私はぼんやり考えていたが、どうも、そうではないようだった。
 ちょっとした病気や、トレーナー同士のポケモンバトルで負うような傷ならば、ポケモン自身が持っている休眠機能と、ポケモンセンターに常備された様々な薬や治療器具の効果を合わせることで、速やかに快復の方向にもっていけるのだそうだ。逆に言えば、そうできないポケモンには、そうできないだけの事情がある。
 私の拾ったチェリンボのハガレ病も、そういう病気だった。
 
 草ポケモンの体は、じっとしている間に光合成をして栄養を作り出す植物の部分と、動き回ってより良い環境を探したり、光合成で作れない栄養を取り入れたりする動物の部分がうまく組み合わさってできている。その植物の部分と動物の部分のバランスが崩れ、動物の部分が活発になりすぎた時に起こる病気、それがハガレ病なのだという。
 病状としては、まず、植物の部分の枯死と脱落。ポケモンの種類によって枯死する部分は様々で、鱗や毛、尻尾に症状が現れるポケモンもいるそうだ(なので「葉枯れ」ではなく「ハガレ」ということらしかった)
 他の草ポケモンにうつる病気ではないが、草ポケモンにとって最も重要な器官そのものが死んでしまうというのはやはり重篤で、症状が進むにつれて、栄養失調や代謝の異常、体温調節機能の喪失……とにかく、生命活動に必要な機能が次々に問題を起こし始めるらしい。
「やはり、厳しいでしょうか」
私は、ベッドの上のチェリンボを横目に見ながらおずおずと訪ねた。これまでの説明で、余計な言葉を加えるのが憚られるほど「厳しい」ことは分かった。私の拾ったチェリンボの葉っぱ――植物の部分のほぼ全て――は、既に根本から脱落してしまっている。
「ここまで症状が進んでいると、難しいと思いますね」
医師は眉間にシワを寄せ、しゃがれた声で答える。何が「難しい」のかをどのように説明すべきか、白い眉の下で見定めているようだった。
「このチェリンボを拾われたのが昨日ということで、その時は大きさはどうでしたか」
「えっと、左の方が少し小さかったと思います」
「で、今は同じ大きさ、と」
医師は頷きながらカルテに何か書き込んだ。そして言った。
「さっきの説明の通り、草ポケモンの植物の部分が無くなるということは、外から栄養を摂り入れる手段が丸々一つ無くなってしまうということなんですね。このチェリンボの場合、葉っぱで光合成して栄養を摂り入れることができなくなってしまって、お互いの体から栄養を取り合っている。今はそういう状態です」
私は黙って「正常」なチェリンボの姿を思い浮かべ、ベッドの上の彼らの姿に重ねた。逆V字型の細い緑の茎が、不揃いな二つの体をしっかりと繋げている。そしてその上には大きな葉っぱが二つ、それぞれの体を守るように被さっているはずだ。本来ならば。
 自分達を守り育むはずのものがないまま、白い照明に身を晒している彼らが、ひどく痛々しく見えた。
「ここで入院ということでも、お家に連れて帰られてケアされてもいいですけれども、正直言うと、ここまでいくと、どちらにしてもできることは葉っぱの代わりに人力で栄養や水のやり取りをしてあげて延命させてあげる、それだけのことなんですね……」
「……それで、その、残りの時間はどっちも変わらないってことですか」
「一ヶ月もったら褒めてあげていいくらいです」
私がすぐに返答できなかったので、病室に少しの間、静寂が訪れた。ベッドの上のこの子たちの命の残りは、私の手に委ねられるほどしか残されていないのだ。
「このチェリンボは、野生でしたね?」
「はい」
それは随分と出し抜けな質問に聞こえた。が、次の質問で大体の意図は理解できた。
「安野さんは、トレーナー資格はお持ちでない?」
「はい」
ああこれは、入院費用とかそういう流れになる話だ。そう直感した私はすぐに続けた。
「昨日、偶然拾った子です。どっちにしろ長くないなら、最後までうちで面倒見ます」
すぐに答えられたのは、所有トレーナーの登録がないポケモンは諸々の治療費が有料になったり割高になったり、ベッドをトレーナーのポケモンに譲る必要が生まれる場合がある、という旨のポスターを待合室で見ていたからだ。
 でも、断る理由はそれじゃない。
 この時の私はその気持ちをうまく言葉にできなかったが、白く明るいシーツの上で大人しく仰向けになっている二匹を見ていると、何故か落ち着かず、心が激しく痛んだ。
 この子達がいるべき場所はここじゃない。
 確信にも似たその気持ちが、私にこの言葉を言わせたのだった。
 ちぇり、と、病室に細い声が響いた。点滴に繋がれたチェリンボはいつの間にか目を覚まし、双子の赤ん坊のように丸々とした身をよじらせてむずがり、点滴の繋がれた小さな足を中空に蹴り上げていた。
 その姿に昨夜の彼らの暴れっぷりが思い出されて、私は自分の選択は彼らにとって良い事だったのだと思った――いや、思いたかった。
 医師の表情もどことなく和らいでいた。ただ、後で草ポケモンの体内の栄養や水を調節する器具の使い方の説明がある事と、帰りに購買コーナーに寄ってその器具や流動食を忘れずに購入する事、そして週に一度は様子を見せに来るよう告げる声には、やはりどこか哀しげな枯れた響きがあった。
 
 その日は一日中、チェリンボと一緒にいた。ポケモンセンターに連れて行く時に使った、タオルを詰めた古い旅行カバンを彼らはやたらと気に入り、揺らして遊んだり位置どりで喧嘩したりするため、帰りの運転も全く気が抜けなかった。
 アパートの駐車場に戻り、助手席のドアを開けるなり、二匹はてんでバラバラの方向に飛び降りようとするので、両手でカバンごと強く抱き抱えて阻止する。拾ったのがワンリキーとかでなくて良かった、と暢気に思う反面、手提げのビニール袋の重みに現実を直視せざるを得なくなる。ストローと哺乳瓶を一体化させたような柔らかい容器と、空の注射器と針の替え。レトルトパウチの流動食。小さな体組成計。
 確かに、自分の役目を果たすと決めたのは私だ。自分で面倒を見ると言ったのも紛れもなく私だ。でも、袋の中身を見るとどうしても思ってしまう。なんてことを決めてしまったのだろう。
 バッグの中でもがくチェリンボの、「休みの日とかに散歩に出て、この子達が歩いてるのを見ると、私、いつも何も言えなくなる」そしてそれを果たしたところで、この子達に明るい未来は待ってはいない。
 この子達は遠くないうちに死ぬ。
 その日はずっとその事が頭から離れないまま過ごした。自室の中に器具を置く場所を探す間中、彼らは直したばかりのカーテンを潜り抜け、窓ガラスを枝で叩き続けていた。
 近場を軽く散歩させれば、数歩歩かないうちにどっちかが転んだ。元々歩くのに向いてなさそうな体つきのポケモンが二匹繋がってバラバラに歩くのはどう考えても無理があるが、私は彼らに歩調を合わせ、転んだ方を起こしてやるくらいしかできない。私が彼らにそう過ごさせると決めたのだから。
 よく晴れた日なのに、今の彼らに天気はほとんど意味を持たなかった。散歩の後、注射器で体内の余った水分を抜いてやる。本来なら体内で循環して余った水が、葉っぱの裏から勝手に出て行くはずのところを、代わりに私がやらなければならない。当然ながら凄く嫌がられたが、押さえつけてでもやるしかない。
 注射で不貞腐れているところに、容器に入れた流動食を差し出す。糖やらアミノ酸やら、草ポケモンに必要な栄養でできた濃いめのゼリー飲料のようなものだ。最初は警戒されたが、指につけたのを口に入れてやってからは二匹とも自力でよく飲んだ。空になるまで飲みきったら、眠そうな二匹を体組成計に乗せる。代謝の値がおかしいのはともかく、水分率や体重がほどほどの量を保っているのを見てほっとする。チェリンボは私の心配など知らない顔で座布団の寝床に勝手に潜り、眠ってしまった。
 この子達は遠くないうちに死ぬ。
 信じられなかった。こうして生活しているうちに葉っぱが生えて普通のチェリンボになるんじゃないかと、まだそう思っている部分が頭の中にあった。でも、彼らの茶色く硬い茎は、一枚の若葉すらつける気配がない。
 案外、葉なしの状態でも生き延びられるのでは、という望みは既に医師の言葉で絶たれているし、何もしなければどうなるか、既にこの目で見た後だ。
 ハガレ病にかかった草ポケモンは植物の部分が脱落しただけではない。動物の部分が過剰に活発なのだ。病気とは思えないほど彼らはよく動き、よく水を飲み、よく食べる。だが、例え体中の葉が落ちても、彼らは自分が草ポケモンである事までは捨てられない。
 水は植物の部分で光合成をして、初めて体内で栄養になる。それが無ければ水は体内の栄養を循環させて出ていくだけに過ぎない。ところが、ハガレ病の彼らには体内に栄養を取り入れる手段がほぼ無い。種類によって多少の食性の違いはあっても、基本的には水と太陽光と土、二酸化炭素があれば口からは補助的な栄養素を取るだけでいいはずの草ポケモンの体は、植物の部分が機能しない場合、それらの物質を何一つ栄養に変えることができない。水にしても、水分量を調節してくれるはずの部分が死んでしまうため、老廃物を排出できずに苦しんだり、体表から水が滲み出てきたり、あるいは体内で水を消費し尽くしてさらなる枯死を招く羽目になる。
 結果、チェリンボに飲ませたような流動食が栄養摂取の手段の全てとなり、水の取り入れと排出についても人の手による調節が必須となる。草ポケモンとして生きていれば無意識に、無尽蔵に与えられ、体中を巡るはずの水と栄養を、ハガレ病のポケモンは望んでも手に入れられず、人によって与えられるのを待つしかできない。
 
 二匹の寝息を聞きながらネットでチェリンボの生態について軽く調べた私は、彼らが二度と真っ当なチェリンボに戻れないことを改めて思い知った。
 チェリンボは元々、連なった二匹が二匹とも元気に育つということはない。大きな葉っぱで作られた栄養は、二股の茎を通して非常に偏った形で二匹に与えられる。ざっくりまとめると、片方には意思を持ち動き回り、戦って身を守る為に豊富に栄養が与えられ、もう片方には動き回る方の体が成長し、チェリムへと進化するのに必要な水や栄養だけが溜め込まれる。片割れの為の栄養タンクと化した側は、必要に応じて茎を通して栄養を与え続けて萎んでいき、進化しないまま命を終える。本来のチェリンボはそういうポケモンだ。
 でも、私の拾ったチェリンボには、太陽の光から存分に手に入るはずの栄養を得る手段がない。ポケモンセンターで聞いた通り、光合成などで栄養が得られなければ、自分と繋がったもう一つの体から奪うしかない。奪い合い、得る以上の消費を繰り返し、衰弱して死ぬ。何もなければ、それが運命のはずだった。
 彼らは私の気まぐれと医療の力で命を繋ぐことになったが、その命はチェリンボとしての生をひと月全うすれば良い方で、チェリムへの進化など夢物語でしかない。例え健康なチェリンボのように片側にだけ多く栄養を与えたとして、もう片方が容赦なく奪い、自分の体で消費してしまう。それぞれの体に行くべき栄養を仕分け、お互いの果たすべき役割を果たさせる茎の役割までは人間は代わってやれない。どんな手段を用いても、いつかは人間の力が自然の決めごとに及ばなくなる日が来る。植物でいることができなかった草ポケモンは生きていけないという、大昔からの決めごとに。それはおそらく、全てのハガレ病のポケモンがそうなのだ。
 ブランケットの下で二匹が何やら寝言で会話していた。少なくともその声を聞いている間だけは心が慰められた。その時だけは、医療機器に囲まれたベッドの上で過ごす一日よりは、うちで過ごす一日の方が良かったのではと思えたからだ。
 でも、それ以上に、そもそも彼らをこんなところに連れてくるべきだったのか、という暗澹とした思いがあった。葉のない草ポケモンに無理矢理栄養をやって水を抜いて、それでも長くない命の先延ばしをしている私は、酷く残酷なことをしているのでは? あの時車を停めてあの子達を抱き上げた私は、間違っていたのでは?
 過去ではなく未来の事に目を向けても、余計に袋小路に入り込むばかりだった。今はまだ野生のこのチェリンボを本当に私はどうすべきなのか。今からでもトレーナー資格を取って正式に私のポケモン、安野深雪のチェリンボとして面倒を見るかどうか。最初に決めた「役目を果たしたらきっぱりお互いの世界に戻る」は今となっては難しい事だと分かっていた。しかしやはり、あの大きな一つの事実にぶち当たると、それ以上何も考えられなくなり、再び「そもそも」の後悔に苛まれるのだった。
 この子達は遠くないうちに死ぬ。
 私は窓の方を見た。彼らが元気になったら再びその命を託すつもりだった外の世界を見た。私の部屋の弱々しい明かりは、いつしか大きな夜の闇にすっぽりと包み込まれていた。もうどんな光も彼らの味方にはなってくれないというのに、チェリンボは灯りの下で安心しきった顔で眠っている。
 もう寝言も聞こえない。心なしか右側の体が更に萎んでいる気がする。押しつぶされそうな暗闇を遮る壁の中で、彼らの微かな呼吸音だけが反響していた。
 彼らはまだ生きてここにいる。
 呼吸音に耳を澄ませてその事だけを考えた。この時の私自身、その思いだけで生きているようなものだった。
 やがて私は、自分自身の世話をしなければならない事に気づいた。今日休んだ分の仕事が明日から待っているという事実に備える必要があった。自分のご飯を食べてシャワーを浴びるうち、少しずつ私の心の中を蝕んでいた闇に目が慣れていくような、冷静で澄んだ心持ちになっていった。
 私は仕事の準備と、もう一つしなければならない事の準備を始めた。その間も私の耳は、チェリンボの規則正しい寝息を捉え続けていた。
 
 
 仕事なんか放り出してどこかへ行ってしまいたくなるような良い天気がずっと続いていた。心地よい初秋の風が、いわし雲を引き連れた空の下を流れた。
 おかしなことに、あのハガレ病のチェリンボを拾ってから、私の方が天気や空気の具合に随分と敏感になったようだった。
(私が草ポケモンみたいになっても、仕方ないのに)
思わずため息をついたところで、
「雪ちゃん、大丈夫? どっか具合悪い?」
隣のデスクの同僚の声が、私を現実に引き戻した。
 私のパソコンの画面には「五つの味全部入りぜいたくオレンゼリー」のパッケージ案がずっと表示されたままだった。本格的な観光シーズンがこの地にやって来る前に、この新商品を店頭に出せるところまで持って行く必要があった。
 この辺りの山は、秋が深まるにつれ、それはそれは素晴らしい色模様を見せるため、登山客や写真愛好家の来客が絶えない。燃え立つような赤や黄色に染まる葉があり、控えめな色で咲く花々がある。秋が深まっても厚い緑の葉を広げて凛と立つ木が、葉を全て落として幹一つで静かに佇む木と並び立つ。たった一日でも、同じ色の山はない。そうした光景を愛して訪れる観光客に向けて、広大な耕地や果樹園で採れた人間用の果実、ポケモン用のきのみ、それらを使ったお土産品を企画、制作、販売するのが、私達の仕事である。
 そしてその仕事はここ数日、全く進んでいなかった。カーソルは無意味に画面をうろつくばかりだ。ただ、私がこうなっている理由の大雑把なところは話してあるので、大雑把なりの理解はあった。
「チェリンボちゃんの世話疲れ?  早く良くなるといいねぇ」
「はい、すみません」
病気をした野生のチェリンボが元気になるまで家で世話している、ということだけ職場には伝えていた。細かい話をして湿っぽくしたくもなかったし、私にとって職場はそういう場所ではない。
「でも雪ちゃんがまさかポケモンの世話をねぇ。初めてでしょ?」
「初めてのポケモンって響き、なんかいいよね」
「うん、うちらの歳でそういうの、なかなかないしね」
だから出社ギリギリまで二匹の世話をしていた私の周りでこういう会話が交わされることになる。
 水を抜く必要があったのは最初の二、三日で、この頃は夜に水を摂らせて丸くした体が、朝になると初めてポケモンセンターに連れて行った時のようなしわしわの状態になってしまっていた。まだ生きて残っている植物の部分の細胞が水を保持できなくなっていて、体に入れた栄養を循環させた水は、そのまま二匹の背中や枝から浸み出してしまうのだ。
 寝場所も座布団ではなくなった。百均で買ったプラスチック製の籠に大量のタオルを敷き詰めたものだ。そのタオルも深夜に起きて時々替え、水と栄養食も飲ませる。この頃は市販のおいしいみずと流動食を一緒にして、その時その時の体重によって分量を変えて与えていた。ほんの僅か吸う力があれば、素直にストローを通って体に入っていく。
 夜毎、うす赤く染まったタオルを水で軽く洗って絞り、籠の底に溜まった水を捨てるのが憂鬱だった。作業自体は何ということもない。ただ、深夜に洗面台の前に立っていると、ふと我に返る瞬間がある。それはチェリンボの世話そのものよりも、ずっとひどく私を悩ませるのだった。
――今している事は、本当にあの子達のためになっているのだろうか?
「ちなみに加藤くんの最初のポケモンなんだった?」
「畑にいたキャタピー。免許もらったその日に捕まえたのに、ムックルに食べられた。おしまい」
「ちょっと! 酷くない?」
「でも大体最初のポケモンてそうじゃない? うちも最初ヒトカゲ貰ったんだけど、こういう場所だから炎技の練習できなくてさ、ストレス溜まってうまくいかなくて、余所のトレーナーの人と交換しちゃったんよね」
「まあ……難しいよね最初だし、若いってか子供にポケモンの世話まるごととかさあ、結構無茶だよね」
なんでこういう会話は頭に入ってくるのに、目に入ったものは一向に頭で像を結ばないんだろう。
 きっと見ているものがゼリーだから悪いのだと思う。ゼリーを見て最初に思うのは、あの子達に流動食を飲ませる時の事だ。ストローから上がってくる、水で薄めた流動食を、時折彼らは飲み込みきれずに口の横から漏らしてしまう。私はそれをハンカチで拭く。あの時のたるんだ皮膚の感じだ。
 闘病の事から逃れたくても、オフィス内には赤っぽいイチゴジャムを挟んだラングドシャのポスターが貼ってあってあの子達の体色を思い出し、うちが地元のテレビ番組で特集された時の写真では、笑顔の社長がナナシアイスのカップを持っていて、ナナシは丸いからやっぱりあの子達のことを考えてしまう。
 そもそも、この地で採れた果実やきのみを観光客に美味しく食べてもらうのが私達の仕事である。逃げ場はない。かと言ってこういう職場で重病のチェリンボの話なんかできない。特にさっきのあんな会話の中では。
 チェリンボより先に私の心の限界が近づいていたこの日、チェリンボを預けてある場所へ一刻も早く行きたい一心で私は仕事を再開した。彼らの病は重く、長い昼間に彼らだけで家に置いてはおけない。そして私は思うところあって未だにトレーナーの資格を持たず、ポケモンセンターは野生のポケモンが長々とベッドを占領できるような場所ではない。
 彼らがいるのは、そのどちらでもない場所だ。
 
 チェーン店が立ち並ぶ国道沿いから逸れた、前世紀の趣きを残した街並みの中にそのマッサージ店はある。
 「杏」という名の、ちんまりとした和風の店で、入ると井草の心地よい香りがして、ささやかながらよく手入れされた庭がある。
 双子の姉妹が経営する小さな店で、完全予約制。マッサージはデンチュラの「ジン」が担当する。人でもポケモンでもよくツボを心得ており、ごくごく弱い電気と柔らかな脚で優しくコリをほぐしてくれる。
 私が拾ったチェリンボは、平日の昼間はこの店にいて、私の大切な古くからの友人らに面倒を見て貰っていた。
 
 チェリンボを引き取る際、必ず三十分は予約を取り、その分のお金は払わせて貰っているが、この日はどうしても彼女達と話したかったので、二時間の予約を取っていた。
 「杏」の入り口の引き戸を開け、こんばんは、と声をかけると
「こんばんはー、お疲れ、今日もチェリンボちゃん、いい子だったよ」
と、土間の横に造られたカウンターから返事がする。
 彼女が遠藤杏奈、店を経営する双子の姉の方だ。昔から誰とでもすぐ打ち解けるタイプで、今もこうしてカウンターに立ち、接客をメインで担当している。
「奥においでよ、お茶用意してあるから」
畳に上がった杏奈の誘いに応え、私も靴を脱いで畳に上がり、待合用の机と座布団を避けて縁側から奥の部屋に向かった。マッサージ室に行くには縁側に出る必要はなく、床に上がったらそのまま真っ直ぐ行って襖を開ければよい。だが、チェリンボがいるのはそこではなく、縁側から渡っていかないと入れない、店員達の休憩室だ。
 杏奈に着いていく途中、庭先で遠藤杏里、「杏」を経営する双子の妹が丁寧に庭を掃いているのを見かけた。こんばんは、と挨拶すると、少しして微笑みとお辞儀が返ってきた。杏里は姉とは対照的に控えめな性格で、昔から図書室で一人静かに本を読むのが好きな子だった。今も、ポケモンや庭の植物の世話を始めると、一人で没頭してしまうようなところがある。
「チェリンボちゃん、今日のお昼もお散歩してましたよ」
と、杏里は地面についた、這ったような足跡を指す。所々の砂が薄桃色に染まっているのを見ると、いつもながらとても申し訳なくなり、頭を下げた。こうして来るたびに謝っては「そんな、いいですよ」と笑顔で返されるのがこの頃の常だった。
 
 姉妹の休憩室は店内とは打って変わってログハウス風で、四人がけの椅子とテーブル、奥に小さなガスコンロや食器棚、湯沸かしポットなどが備えてある。ボリボリと何かをかじる音がするのは、デンチュラのジンがポケモンフーズを食べる音だ。
「ほら座って座って、やっぱさ、足伸ばせる椅子はいいよねー」
そう杏奈に促されるままに椅子に手をかけると、ちぇり、と部屋の隅から声がした。うちにいる時より若干丸みと艶を帯びたチェリンボが、うちにあるのと同じようなプラスチックの容器とタオルの敷布団と、濡れタオルの掛け布団の間から顔を出している。これは杏里の考えた案だ。
 体のあちこちから水が浸み出してしまうというのは、逆に言えばどこからでも水が浸透する、ということで、日が沈むまではこの状態で縁側に出しておけば、日光も浴びられて元気そうにしている、とのことだが、それを聞いた私はありがたい反面、ある種複雑な気持ちになった。
 夜の世話が主な私の家では、タオルを替える回数が追いつかないため、濡れタオルは使えない。まだ体に残っている植物の部分のおかげか、夜より昼の方が元気そうなのは、休日の様子で分かる。しかし、そういう事を考えていけばいくほど、私の心はどこか、夜中に洗面台に立った時のように寂しく冷えていくのだった。
 休憩室に入ってきた私を見ると、チェリンボは必ず嬉しそうな様子になる。私が来たのを喜んでいるのではない。私がいる間はジンの体が空くから、暇つぶしにジンに構って貰うのが楽しいのだ。そうした様子もどこか私を切なくさせた。
「雪ちゃんどったの? 元気ない?」
いつの間にか目の前には温かなお茶が置かれ、向かいに座った杏奈が心配そうな顔でこちらを見ている。
「ううん、今日もこの子達元気そうだなって考えてた。良かったとか、ありがたいなとか」
「そっかあ。病気って言っても思ったよりずっと普通だなって思ってたけど、やっぱ悪い時もあるの?
「寝起きとか、梅干しみたいになってる」
「梅干し!」
杏奈が盛大に吹き出す。その様子につられて私も笑う。
「でもやっぱさ、雪ちゃんが最初にここにチェリンボちゃん連れてきた時はもう、一刻を争うって感じだったじゃん?」
「あー、あの時は本当、焦ってたから……」
「雪ちゃんがポケモン連れてきた、ってだけでも驚きなのに、こんな大変そうな子で大丈夫? ってこっちが思ったよ、正直。だって忙しいんでしょ?お土産屋さん」
杏奈はいつも私の仕事を「お土産屋さん」と言う。私が実感を込めて頷くと、後ろでドアの開く音がした。杏里が庭掃除から戻ってきたのだ。
 おかえり、と杏奈が声をかけてお茶を用意する合間に、食事を終えたジンが杏里の足元に寄ってくる。チェリンボもタオルの中でそわそわしている。
 杏里はジンの頭を撫で、チェリンボ二匹の頭を軽くくすぐってから、私の隣に座った。
「庭、いつもごめんなさい」
「庭? ああ、うちら気にしてないですけ、いいですよそんな」
「でも、汚してしまって」
「いやいや、庭は簡単に掃除したらきれいになりますけ、いいですよ。お部屋で夜お世話しとられる方が、色々大変でしょう?」
頷きながらも私は、二人の言葉の中にある、私の心から熱を奪っていく何かを感じざるを得なかった。二人はあくまで心配して気遣ってくれているだけだと、きちんと分かっているのに。
「うん、雪ちゃんは頑張ってるよね、本当。拾って帰った子が大変でもさ、ちゃんと元気でいられるように毎日世話してさ」
「全然頑張れてないよ……手伝って貰ってばっかだし……」
横でチェリンボのはしゃぐ声が聞こえだした。ジンに構ってもらっているのだ。その声が余計に私の心を揺るがす。
「だって本当にびっくりしたもん。あの雪ちゃんがポケモンの世話? って。しかも凄い必死だったし、そりゃ手伝うっしょ」
「それは、本当にありがたいんだけど、」
「てか、何でそうなったんだっけ?」
「えっ?」
どうしてこんなことになったのか。本題を切り出そうとしたところに突然浴びせられた質問の答えは、自分でもすぐに思い出せなかった。ちぇり、ちぇり、と騒ぐ声が耳に響く。その声にデジャヴを覚えてチェリンボの方を見れば、答えは思い切りそこにあった。
 ジンがチェリンボに覆い被さるようにして遊んでいる。脚はピンと突っ張っていて、チェリンボの体に触れないようにしてくれているのは分かったけど、一見するとチェリンボが襲われているのでは、と勘違いしてしまうような光景だった。そんな風にされても、チェリンボは甲高い声をあげて喜んでいるのだった。
「ほっとけなかった、からかな……」
「ほっとけなかった?」
「だってあのチェリンボ、今も野生なのに……野生であんなに危機感無いってありえない、よね?」
「無いですね……草ポケモンは大体、虫ポケモンにはあんまり近寄らないです。野生とか、慣れてないとかなら特に」
「ジンとチェリンボちゃん、最初からああだったけどねえ」
「いや、拾ってくる前からこうだった。自分を食べようとしたムックルが他のムックルと喧嘩してるとこ、夢中で見てた」
二人は目を丸くし、顔を見合わせた。私は続けた。
「ほっといたらこの子達危ないんじゃ、って思って拾ってきたけど、まさかこんな風になると思ってなかった。ただのドジだけど元気なチェリンボだと思ってた。すぐ元気になって野生に返せると思ってた」
「でも、今もちゃんと世話できてるじゃん」
「ちゃんと世話できてないよ!」
自分でも驚くほどの大声で私は叫んだ。ハッとして口を抑えると、休憩室がやけに静かに思えた。杏里も、杏奈も、ジンもチェリンボも固まり、私を見ているのを感じた。
「……ごめん」
「いいよ」
杏奈がいつも通りの明るさを声に滲ませて微笑む。
「今日話したいのって、もしかしてその辺の事?」
「うん」
返事をすると、その拍子に頭の中のもやもやしたものが次から次へと言葉になって、喉から溢れてきた。
「正直、もう本当に自信がなくて、これでよかったのかも、これからどうすればいいかも分からない。私じゃなくて杏里や杏奈みたいに昼も面倒見られるような人に拾われた方が良かったんじゃないか、とか、いっそ最初から何もしなきゃ良かったかなとか、いつもそう思ってる」
「でもチェリンボちゃん、毎日楽しそうですよ」
「ううん、毎晩、毎朝、寝てる時に水が滲み出して苦しい声出してる。症状が進んだら苦しい時間の方が長くなる。私、助けるつもりでこの子達を苦しめてばっかりなんじゃないかって……」
「……もしかして、それが怖かったの?」
「え?」
「この子達をずっと野生のままにしてる理由」

 思いもよらない方向からのその話題に、私は凍りついた。喉がきゅっとなる。杏奈と目が合って、杏奈の声と視線に捕らわれたような気さえした。
「うちら、雪ちゃんはずっと、普通に勉強とか仕事が忙しいからポケモントレーナーにならないんだと思ってた。でも、今こういう状況で、どうしたらいいか分かんない、ってなった時に、この子達のトレーナーになってポケモンセンターに預けるっていうやり方もあるのに、そうしなかったじゃん?」
私は何も返せず、うつむいた。ジンとチェリンボの遊ぶ声がやたら大きく聞こえた。
「何か分からないけど、そこにはよっぽど大きな理由があるんだなと思ってたけど、怖かった? 先が短いこの子達が初めてのポケモンになるのが、怖かっただけ?」
杏奈の声はあくまで優しい。責めてるわけじゃないのは分かる。でも、その真っ直ぐな視線は、はっきりと私に答えを促していた。
 正直、聞かれるのが一番怖い質問だった。それは私が直視できない感情だった。長くない命のポケモンを、野生の世界で生きていけないポケモンを、自分の名前の下で世話する事を放棄する。どう見ても無責任で、臆病で、冷たい人間だ。そんな自分が私の中に存在している事を認めるのが、はっきり言って恐ろしかった。
 けれど、彼女の前で嘘はつきたくなかった。そういう感情は、間違いなく、少なからず、自分の中にあったのだから。
「……最初は完全にそうだった。連れて帰った時、手に負えないから元気になったら野生に戻そうって思ってた。それは言い訳できない。病気だって分かってからも、杏奈や杏里に手伝って貰ってばっかだし、自分がトレーナーでいいのか分からなくてブレーキかけてた部分はある」
消えそうな声で話している途中、突然、部屋の隅でゴトッと音がした。杏里が慌てて立ち上がる。私の拾ったチェリンボが、ハガレ病の弱ったチェリンボが、小さな掛け布団を跳ね除け、寝床を出ようとしていた。
 自分の足で、歩こうとしていた。
「でも、それは自信がないとか、逃げたい、とかじゃない気がする」
力を込めて絞り出した言葉は、自分でも思ってもみなかった言葉だった。杏奈の目の光が強くなる。杏里は少し考える素振りを見せた後、寝床をそっと傾けてチェリンボを外に出した。彼らは傍らに控えているジンの脚に少しずつ近寄っていく。
「休みの日とかに散歩に出て、この子達が歩いてるのを見ると、私、いつも何も言えなくなる」
目の端に映る彼らの歩いた後から、足跡のように水が染み出す。思わず席を立ちそうになった私を、姉妹の視線が留めた――いいよ、続けて。
「拾ってきた最初の日、この子達、私の家で凄く自由に跳ね回ってた。カーテンとか落ちちゃうくらい。あの時は手に負えないって思ったけど、でも、忘れられない。あれがこの子達の本当の姿なんだって」
私達の見ている前で、チェリンボは一歩ごとにどんどん萎んでいく。見かねた杏里が、空気の抜けた風船みたいな彼らを抱き上げる。
 私は杏里に感謝の気持ちを込めて頷き、話を続けた。
「ポケモンセンターに入院させる話が出た時、私は断った。入院しても私が面倒見ても同じ命の長さなら、ずっとベッドの上は何だか嫌だった。多分、少しでも長く最初の日みたいに過ごさせたいって思ってたんだと思う」
――自由で、快活で、奔放だったあの日のように。
「散歩ももう長く保たなくて、さっきの杏里みたいに抱き上げちゃうけど、本当は自分の足で歩くの、邪魔したくない。一番治りたいのはこの子達自身で、私のためじゃなくてこの子達自身が自分のために良くなりたいって思ってること、受け止めたい。そう思うと、私の役目はこの子達のトレーナーじゃないんだと思う」
――この子達が無くした緑色の代わり。
「トレーナーとして出会ってたなら、また違ったんだろうけど、そうじゃなかったから、この子達は今でも人間よりポケモンが好きで、家の中より外が好きで、自分の力で生きて歩いてるって、思ってるんだと思う。全部私の思い込みかもしれないけど、私の見てきたこの子達の生き方を、最後まで通させてあげたい」
一気に話しきると、私は空気の抜けた風船のように脱力してしまった。そこでさっきのチェリンボの姿を思い出して慌てて身を起こすと、彼らは濡れタオルを掛けられて寝床の中で静かに眠っていた。傍らに杏里が座っている。
「あっ、ごめん! 床とか汚して本当ごめん!」
「ううん、なんか……雪ちゃん本当凄いなって……」
切れ切れに答える杏里の頬にも濡れて光るものがあった。床はいつの間にかきれいに拭かれていた。謝り倒しても首を横に振られるだけだった。
「まあフローリングだからね、大丈夫、大丈夫」
杏奈がのんきな調子で合わせてくる。
「でも……」
「いいよいいよ、うちらも雪ちゃんの考えが聞けてよかった」
その言葉は、私の中で堪えていたものを一気に溢れ出させた。杏里の泣き声に私の泣き声が重なった。
「ごめん、もっと早くこういう事言っておけばよかった……でも、二人に頼んで良かった、本当に……ありがとう……」
感謝の気持ちや謝りたい事、まだ言葉にできない想いは数限りなくあるのに、口をついて出るのは陳腐な言葉ばかりだ。
 けれど杏奈は、言葉にならない言葉をどうにか吐き出そうと咳き込む私にティッシュを差し出しながら言ったのだった。
「チェリンボちゃんはまだまだ元気なんだから、雪ちゃんも元気出さなきゃ。これからの事とかまた聞かせて。そんでそのうち全部落ち着いたら、美味しいもの食べに行こうね、雪ちゃんのおごりで」

 あの日から数えて二度目の日曜日だったと思う。私があのチェリンボと別れたのは。
 私があの子達と別れたのは、ちょうどあの子達との出会いの日と同じような、すっきりとした雨上がりの午後のことだった。

「草ポケモンは、自らの最期の時を知ると、自分と似た植物の所へ向かい、そこで命を終えるのだという話があります。
 キレイハナなら、一面の花畑の中で。
 ユキノオーなら、雪解けのない山の樹氷の下で。
 ジャローダなら、木に絡みついた蔦に寄り添って。
 本当かどうかは分かっていませんが、彼らの生息地を考えると、嘘とも決めつけられる話でもありません。
 草の力を持つポケモンは、動物であると同時に植物でもあります。
 死を前にした時、彼らは自分たちの体を、より大きなスケールの中で生きている自らの似姿に委ねたくなるのかもしれません」
 これは、いつかのポケモンセンターの待合室で読んでいた本の中にあった一説で、もうタイトルも覚えていない。でも、この文章だけは、忘れられないでいる。
 私のチェリンボは、もう、こういう事を考えなければならない時期に来ていた。
 
 ハガレ病と本格的に向き合いだしてから最初の日曜日、彼らは私に助けられながらも自力で散歩ができた。
 二度目の日曜日、十歩も歩かずにへたりこんだ彼らに水を飲ませ、歩きたがる限り歩かせた。
 三度目の日曜日、腕の中で弱々しく足を動かす彼らを抱っこして散歩コースを歩いた。
 四度目の日曜日を前にした夜、彼らは自力で水を飲む事が全くできなくなった。

 柔らかな容器に水を入れ、容器を押せば押したぶん、口には入る。だが、その水を体の中で一巡りさせる力も、体に留めておく力も、もう彼らには残されていなかった。
 こうなってしまったらもうそれ以上の延命は負担が大きすぎるからしないと、事前に「杏」の姉妹やポケモンセンターの医師と話し合って決めてはいた。その時がやってきたらどうするかも決めていた。そして「こうなってしまって」から丸々一晩の格闘の後、ようやく「その時」がやってきたのだと、柔らかな朝日の中で私は思い知った。
 座って見つめる寝床の中のチェリンボは、かろうじて息をしているのが分かる程度で、どんな音にも振動にも、もう反応しない。初めて家に連れてきたときにはあんなに頼りなく見えた枝が今では一番目立っていて、二つの身は握り拳くらいにまで固く縮んでしまった。
 それでも私の中の二匹は、初めて出会った日の、傷だらけではしゃいでいた二匹であり、初めてポケモンセンターに連れて行った日に、枝で窓を叩き続けていた二匹で、デンチュラのジンに覆い被さられて歓声をあげていた二匹だった。毎朝毎夜世話をし続け、その変化も見続けているのに、記憶にあるのは彼らの自由な姿ばかりだ。
 決心がつかなかった。これからしようとしている事を実行すれば、もう今際の際まで彼らの姿を見ることができなくなる。でも、引き伸ばせば引き伸ばした分、彼らの命のロウソクの残りは短くなっていく。そしてそのロウソクの炎は、次の瞬間にも掻き消えてしまうかもしれない。
 躊躇している時間はなかった。私はすっかり軽くなったチェリンボを寝床ごと抱き上げ、車まで連れて行って助手席に乗せた。そしてゆっくり、ゆっくり裏道を走り、ポケモンセンターに向かった。

 ハガレ病の発覚時からお世話になった白髪の医師と、治療の打ち切りについて話し合う。残りの時間は思い残しの無いよう過ごさせてやりたいという想いを、医師は汲んでくれた。
 思えば最初から、この方は私達が思い残しの無いように過ごせるよう計らってくれていた。私達の自由を重んじてくれた。
 医師に深々と頭を下げてポケモンセンターを出ると、私は次の行き先へ電話をかけ、車を走らせた。
 
「もう、水も飲まないんだ」
 開店準備中の「杏」の玄関先でそう告げると、二人は息を呑んで黙り込んだ。代わる代わるといった風に寝床を覗き込み、杏里は二つの体を労るように何度も撫でてくれた。杏奈は
「もう会えないんだ、寂しくなるね」
と、やはり二匹をそれぞれ撫でてくれた。そして不意に呟いた。
「自分じゃない人やポケモンを助けるのって、何なんだろうね」
「え、でもこの店ってそういう店でしょ」
やや場違い感のある返事に、杏奈はしみじみと答える。
「いやあ、うちらは仕事だけど、でも仕事だからって以前のところで、人やポケモンを助けて嬉しいっていう気持ちがあるのって何なんだろうって思うこと、あるよ」
そんなこと、今まで考えもしなかった。答えに詰まっていると、痛ましげに寝床を覗いていた杏里が口を開く。
「そら、うちら生き物だけ、そう思うんしょ」
「生き物……」
「んっ」
言葉を繰り返すだけの私に、杏里は笑ってみせる。
「人もポケモンも、嬉しいとか悲しいとかと同じ場所にそういう気持ちがあるんだと思うんですよ。誰かを助けて、誰かに助けられて、そうやってみんな生きていってるんですけ」
「そっか、生き物か、いいねえ」
杏奈は杏里に笑いかけ、チェリンボと私を交互に見て、言った。
「じゃあ、出会ってからずっと、雪ちゃんとこの子は全力で生き物だったんだね」
「……杏ちゃん達とも」
昔からの呼び方で、そう答えるのが精一杯だった。寝床の中の小さくなった二匹を改めて見つめる。一緒に生きていた私達の時間が、もう終わってしまう。
 涙を堪えきれなくなる前に、ディナーの約束をして、足早に「杏」を立ち去った。

 ここからの事について、私は誰にも相談しなかった。「杏」の二人にさえ事後報告で済ませると決めていた。誰からも反対されると分かっていたから、一人で決めた。
 開店前の「杏」の駐車場には私の車しかない。人通りの無いことを確認して、私はバッグから予め買っておいたモンスターボールを取り出し、チェリンボをその中に収めた。空になった寝床を助手席の下に置き、後部座席に置いていたリュックサックを助手席に引っ張ってくる。そして雨合羽やらゴールドスプレーやら携帯食料やら、これからの行程に必要になるかもしれない物をごちゃごちゃと入れたリュックサックの一番下に、厳重にモンスターボールを押し込んだ。
 一連の動作を終えるなり、私はエンジンを掛け、駐車場を飛び出した。目的地は、市街地にある駅前の駐車場。そこからバスに乗って、ある場所に向かう予定だった。

 日曜の午前中ということでそれなりの人通りはあるとは言え、やはり大きなリュックを背負ってバス停に立っている私の姿は浮いていた。路線マップに顔を埋めながら、誰にも話しかけられないよう必死に祈った。リュックの中に五億円の札束でも入れているような心地だった。実際しまってあるのは一見何の変哲もないモンスターボールでも、見つかって調べられたら間違いなくまずいことになる。
 野生のポケモンが勝手に家に居着くのは違法ではない。トレーナー資格を持たない人が、譲渡の用等でポケモンの入ったモンスターボールを一時的に持ち歩くのも、説明やら何やらが必要だが違法ではないらしい。だが、この時の私の「トレーナー資格の無い人間が野生のポケモンをモンスターボールに入れ、名義なしのまま町外へ連れ出す」は、完全に違法だ。
 もし見つかれば、まずトレーナー資格の無いことを咎められるだろう。そして一番に疑われるのは、恐らく死体遺棄だ。モンスターボールの中のチェリンボは、ボールに入れていなければもういくらももたないだろうから。もしここでチェリンボに所持トレーナーの名義があれば、疑いは確定になる。名義の有無の関係で、法の上ではそうはならなくても、そう言われても言い逃れできないような事を、これからやろうとしている。
 野生のポケモンを、野生のまま、野生のやり方で、野生に還す。それが私のしたい事だ。しかしそれをやろうとすると、どうしても人間の世界の仕組みを破る羽目になる。誰にも言えるはずがない。
 私を苦しめている事はまだあった。チェリンボ自身の意思が分からないことだ。これから私がしようとしている事の根拠は、私が読んだ、題も思い出せない本に書かれた草ポケモンの最期についての記述と、チェリンボの行動から私が勝手に推察した彼らの心理で、どちらも主語は「私」だ。「チェリンボ」ではない。
 でも、ここまで野生のポケモンとして生ききった彼らにしてやれる事が、もう他に思いつかなかった。
 一秒が一日に思える心地で待ち続けたバスは、定刻どおりにやって来て、私一人を乗せて走り出した。

 バスはどんどん人里から離れていき、山中の古ぼけた停留所で停まった。運転手に怪しまれないうちに手早く支払いを済ませて道路に降り立つ。バスが走り去るのを見送って、私は澄んだ空気の中を歩きだした。
 バスの進行方向には、山中に切り開かれた段々畑と、数件の民家があり、人のいる証はそれだけだ。しかし私はバスの来た方向、山の深くなっている方へ歩を進めた。私の目指す場所は、もはや人々が行き交わなくなった道の先にある、人々に放棄され、忘れ去られて久しい場所だ。
 職業上、私はこの町と周辺地域の観光地には詳しかった。現役のものではなく、もう潰れてしまった場所についても覚えていた。
 これから向かうのは、十数年前に廃棄されたレジャー施設だ。自然と触れ合うことを目的とした小規模な施設で、調べた限りオボン狩りの体験農園もあったはずだ。アクセスの悪さから開園して十年程で閉園し、施設も取り壊されてしまったと聞く。だが、例え人の作った建物が壊されてしまっていても、生命力の強いオボンの木なら? もし、破壊と腐敗を免れて、草土に埋もれたオボンの果実が一つでもあったなら?
 はっきり言って、分の悪い賭けであることは分かっていた。でも、人里から隔離され、チェリンボの眠りが妨げられず、チェリンボの似姿のような植物がある場所というと、トレーナーでない私が一人で行けそうな範囲ではここしか思い当たらなかった。

 ゆるく下る山道の途中に、唐突にその道は現れた。
 そっけない一車線の道路が、バスの道を直角に逸れ、山の斜面を登っている。
 道はチェーンも何もされておらず、ただ真ん中に、立ち入り禁止、この先何があっても責任は負いません、という旨の、町によって置かれた看板があるだけだった。トレーナーの入っていきそうな横道では、土地の管理人や町役場により、往々にしてとられる処置だ。注意はしましたよ、というわけだ。そしてこの看板は何度か動かされた跡があった。
 管理人だろうがトレーナーだろうが、この先誰とも会いたくはなかった。もちろん、野生のポケモンとも。私はリュックから取り出したゴールドスプレーを念入りに体に吹き付け、坂道を上がっていった。
 急勾配の坂道は三十歩分も進むと大きなカーブを見せ始め、山の中にS字を描きながら斜面を登っていく。登ってきた真っ直ぐの坂が遠くなるごとに足元はどんどん落ち葉に覆われだし、細い道路だったものは今や、山の自然の中で燻る黒く細い煙のようになっていた。
 ふくらはぎは既に痛く、雨も降らないのにスニーカーの足元が濡れて滑る。中途半端な用意で山に来た事を後悔した。
 でも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。リュックを背負い直し、しばらく真っ直ぐに進む道を歩き続ける。
 足は何度も止まり、視線は路上と道の行く先を何度も行き来した。道の終わりはまた緩やかなカーブになっているようで、この道の終点が目的地の廃園である事は分かっていても、あと何回のカーブを超え、何メートルの坂を登ればそこに着くのかは見当もつかなかった。
 それでも、と足を引きずるようにしてカーブを曲がり切る。路面は、上に落ち葉を積もらせるだけでなく、割れ目のあちこちから雑草や若木を茂らせ、人の通る道としての役目を終えようとしている。カーブを曲がるごとに状況が悪くなる一方だ。
 改めてゴールドスプレーの霧をまとい、ついでにリュックの底から軍手を取り出して着ける。持ってきたものが役に立った、と安堵した直後、そんな私をあざ笑うかのような出来事が起きた。
 雨が降り始めたのだ。
 
 腕や頭に感じる水滴の数がどんどん増えていき、私は思わず眼前の光景から後ずさった。雨の中、半ば草むらと化した道路に入り込みたくはない。だからと言って戻るわけにもいかない。全てを諦めて戻ったところで、駅まで行くバスは夕刻までやって来ないし、増してこの足で見知った人もいない集落まで行くのは色々と遠すぎる。
 せめて、ここまでの道のりに雨宿りできる場所があれば……
 絶望的な気分で私は振り返った。そして「それ」が目に入った。
 登ってきた道の縁に敷かれたガードレールの端に、通れそうな隙間があった。そして隙間の先は斜面ではないように見えた。むしろ、斜面を回り込むような平らな面が、車一台分の幅でずっと続いているらしかった。
 後から思えば、どう考えても素直に進行方向に進んだ方が安全な局面だった。どちらにしても草むらに突っ込むことには変わりないのだから。けれど、この時の私は突然の雨で我を失っていた。とにかく、小屋でも大きな木でもいい、今この近くに雨宿りできる場所があって欲しい。その一心で私はガードレールを越えた。
 舗装も何もない、土と落ち葉と下草だけで構成された平場は、しかし、ある種の確信を持って斜面を回り込んで続いていた。靴跡を刻みながら、私は導かれるようにを進んだ。そして平場が連れてきたかった場所を目にした瞬間、私はその場に崩折れそうになった。
 半ば埋もれたコンクリート製のトンネルが、平場の終点にはあった。
 
 山の中に響く雨音をじっと聞いていると、世界には果てしない大自然と自分だけがただ存在しているかのような、静やかな心持ちになってくる。
 雨宿りの必要があったとは言え、崩れたトンネルというのはあまり長居はしない方がいい場所だ。それでも、携帯食料を食べ終え、先程までの心配を取り払ってくれた狭い空間にしゃがみ込んでいると、どこか離れがたい気持ちを振り払うのは難しかった。
 改めて見る、人の営みから遠く離れて広がる秋の景色は、息を呑むほど美しかった。誰にも何も言われないのに、なぜこんなにも自然に、赤と黄と緑、その間に数限りなくある色が調和して存在できるのだろう。どこまで遠くに視線をやっても、木々が織りなすグラデーションには一つとして同じパターンはなく、それでいて、どの色一つとっても、そこにあっておかしいという事が無かった。一本一本の木は、ただ木としてそこに生えているだけだとしても、もっと大きく深いところ、根を包む土の湿りや、
同じ雲から葉に落ちる雨粒を通して、どの木も、どの草も、繋がり合っているような気がした。
 これからチェリンボも、そうした景色の一部になる。

 いつしか雨は止み、アーチ状の光がトンネルの中に差し込んできた。
 私を呼んでいるようなその光の中に這い出していく時、私の中にはもう、怯えや迷いの気持ちは無くなっていた。
 
 路面の状況は進むごとに悪くなり、歩いている場所が正しい道路なのか、ただの草むらなのかの判別すら難しくなっていた。ゴールドスプレーを念入りにかけ、道無き道を踏み分け、草露で全身びしょ濡れになりながらも、ようやく私は目的地らしき場所に着いたようだった。
 何の前触れもなく、突然視界が明るく、広くなった。私の頭上から枝が消え、雨上がりのすっきりした空が、惜しみなく青を世界に振りまいてる。あるかなきかの道は、役目は果たしたとばかりに草に完全に埋もれてしまった。そして山中に現れた広場、かつてレジャー施設の建物があったと及ぼしき場所は、一面が揺れるススキの穂に覆われていた。金にも銀にも見える穂波の向こうに、一年中葉を落とさない針葉樹の影がいくつか見える。
 冷たい風がぴゅうと音を鳴らして吹き、ススキ達は雨粒をぽとぽと落としながら穂波を大きく揺らした。
 その風にどこか夏の面影を残したような一陣の甘酸っぱさを感じ、風の源に目をやってみれば――あった!
 ススキに目を取られて見逃していた。チェリンボだけでなく、私の事も丸ごとその木陰に抱いてなお余裕がありそうなほどのオボンの大木が、そこにあった。
 どこがどう建物だったかもう分からないススキ野原のへりを走ってオボンに近づく。沢山の、それは沢山のオボンの実が、枝の下、葉の内側で、ぽとりぽとりと雫を落とし、はしゃぐように揺れていた。まるで、かつてのチェリンボのように、罪のない無垢な色つやの肌をまん丸く光らせている。
 廃トンネルで雨宿りをしてから、迷いも憂いも振り捨ててここまでやって来た。でも、いざ目的の場所についてみると、捨ててきたはずの弱気、振り切ったはずの悩みに足を取られ、動くことができない。
(これはこの子達が望んだ事だろうか)
(私の身勝手で、人の法を破ってまでこんな事をしていいのだろうか)
(本に書いてあった通りにならなかったら? 彼らがこの場所を拒み、自然がハガレ病でもある彼らを受け入れなかったら?)
オボンの木の下で全く身動きがとれなくなった私は、すがるように、視線だけで、オボンの木を見上げた。雨の水滴は、オボンの葉から、枝から、たわわに実った果実から、ぽたぽたと限りなく降って私の体を濡らす。あの子達が望んでももう手に入らないものが、私の上に惜しみなく注がれる。
 その感覚は、私にある事を思い出させた。私は、あの子達の、ハガレ病のチェリンボの失った緑色の代わりなのだという事を。

 初めて農道沿いで彼らと出会った時、「死なせたくない」と強く思って連れ帰った。それは彼らを助けたかったのではない。死なせるのが嫌だという私のエゴだ。
 家で過ごさせたのも「杏」に預けたのも、チェリンボのためを思ったのではない。これも「彼らには自由に生きて欲しい」という私のエゴだ。それがたまたま、彼らの「生きたい」という真っ直ぐなエゴと、どこかの部分で一致したんだと、限りなく確信に近い思い込みでそう思えた時があっただけだ。
 でも、私があの子達の緑の葉の代わりとして、一緒に生き物をした片割れとして、ここに来るまでの時間と過程が、その限りなく確信に近い思い込みを私にくれたのだとしたら。
 これからする事によって、私に確信以上の思い込みを授けてほしい。
(どうかこのハガレ病の、野生のチェリンボの体を受け入れて下さい。この子の命を、この風景の、この景色を形作る物の一部にして下さい)
 願いながら、私は夢中でリュックを開けた。防水シート代わりにしかならなかった雨合羽の下に包まれていたモンスターボールを取り出し、オボンの木の根本に向けて開閉スイッチを押した。
 くしゃくしゃに小さくなったチェリンボが、木の根元に現れた。その姿は家でプラスチックの寝床に寝かされていた時と何ら変わりない。自分達のいる場所が変わった事にさえ、気づいているのか分からない。ひたすらに小さな呼吸を繰り返すばかりだ。
 絶え間なく降り注ぐ水滴は、チェリンボの枝や身にも落ち、流れた。この雫を浴びたらみるみるうちに彼らの枯れきった体が蘇り、鮮やかな緑の葉が生えて……なんて奇跡は端から望んではいない。それでも、何か応えて欲しくて、心の中で呼びかけた。ここはあなた達の大好きな外、私がずっと返したいと思っていた野生の世界だよ。もう、あなた達はどこへでも歩いていけるよ。緑の葉の代わりはもうできないけど、たくさんの緑があなた達の歩みを見守ってくれるよ……
 
 特別大きな雫が二つ、ぱらぱらと音を立てて、二匹の顔に落ちた。水は彼らの口を潤すこと無く体を伝い、地面を濡らす。その時、彼らの足が微かに突っ張ったような気がした。驚いて、何をしたか確かめようと彼らの体の側にかがみ込んだ時、彼らはもう呼吸をしていなかった。

 しばらく私はその姿勢のまま、呆然とチェリンボを見ていた。眼の前で起きていることを、信じることができなかった。
 確かめるために口元に手をやっても呼気は少しも感じられない。なのに、縮んだ体は、ほんの少し、錯覚と見間違うほどだが、間違いなく膨張と収縮をまだ繰り返していた。
 首元に水滴が落ちるのを感じて、慌てて私は身を引く。そしてまた水滴が彼らの上に落ちるのを待った。起きようとしていた何かの続きが始まるのを待った。
 しかし、そうはならなかった。チェリンボの体はもう動きはしなかった。水滴の落ちる音も小さくなり、私は背をじりじりと太陽に焼かれながら、立ち上がるきっかけも気力も失い、ただ座っていた。水滴ではないものが、突然彼らの側に降ってくるまでは。
 それは熟しきっていないオボンの実だった。チェリンボの痩せてしわくちゃになった身と、かさかさの枝をうまく避け、爽やかな香気だけを内に孕んだ果実が、彼らの傍らに落ちた。
 私はその実を手に取った。ぎゅっと締まった、実ることのなくなったきのみの皮と実の固さと重みを確かめ、チェリンボの隣に戻した。
 オボンの実の上に水滴が落ちる。動かないチェリンボの上にも交互に落ちる。それはオボンの木が降らせる雫ではなく、私の涙だった。
 熟すこと無く落ちたオボンの実の事を想った時、私はチェリンボの最期に起きた事の、本当の意味を悟った。あれは、彼らが最後に試みた、光合成だったのだ。私の思い込みなのかもしれない。でもそれは、彼らの緑の葉の代わりとして生きた私の、確信以上の思い込みだった。
 爽やかな中に一筋の潤みを帯びた風が私の背を叩く。何が起きているのかを反射的に感じ取った私は立ち上がり、広場を振り返った。
 山のてっぺんを軽く飛び越えるような大きな大きな虹が空にかかっていた。オボンの木のつるりとした枝や葉、丸く大きく膨れたオボンの実や、ススキ野原で揺れる穂の一つ一つが、泣き腫らした後の瞳の色つやに似た光を放っていた。落ちたオボンの実と、魂が離れたチェリンボの体でさえ、オボンの葉陰から差し込む光に控えめに照らし出されていた。虹が出る時の景色は、いつもそうだ。そして私は、もうその理由を知っている。同じ雲から落ちる雨粒に打たれ、同じ太陽の光を受ければ、誰もがそうなるのだ。ばらばらに、自由に生きているはずの生き物が、大きな自然のめぐりの中で繋がり合う。この景色を一層ぼやかし、滲ませている私の涙も、この体も、いつかは大きなめぐりの一つになる。

 もう、この場所に来ることは無いだろうと、私は深く、強く思った。その事を、寂しくも悲しくも思わなくていいのだとも。
 時々流すかもしれない涙も、いずれ自然のめぐりの一つとして、彼らに出会うだろう。この地で育つ草木の緑の呼気が、いつか風となって彼らを私の元へ運んでくるだろう。
 帰り際、私は振り向き、もう一度だけこの景色の全てを目に焼き付けた。安らかに眠るチェリンボは、もうオボンの木の影の一部にしか見えなかった。