女流画家Fの生涯と最後の一枚

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 目を引くのは画面中央、やや右にあるオボンの実。枝から離れ今まさに地面に落ちようとしている。雨露に濡れる葉やいくつも実るオボンの実たち。そして画面左に広がる色鮮やかな青空と虹。
 この絵には残念ながらタイトルはない。展示される際には「無題」、あるいはただ「オボン」と題される。
 この絵にはとある秘密があるのだが――その前に作者について記そう。
 作者は19世紀中頃にカロスで活躍した女流画家Fである。
 Fの作風は優美にして妖艶。また、Fは当時アカデミーの主流であった新古典主義の流れを汲んだ写実的な絵を描きつつも、宗教画や神話画といったものではなく、当時のカロスの風景や人物、ポケモンなどを好んで描いた。
 18××年、ミアレ郊外の商人の家に三人姉妹の末っ子として生まれたFは、幼い頃から身の回りのものをスケッチしており、やがてその才能を見出され絵の教育を受けることになった。
 当時、ミアレの国立美術学校(アカデミー・デ・ボザール )では女性の入学は認められておらず、そのため私立の画塾に通い、時には美術館へ行き巨匠の絵の模写を行った。当時のアカデミーでは新古典主義が主流であり、歴史や神話、聖書を描いた「歴史画」が高く評価されていたが、Fの通った画塾はそれにとらわれず自由に描くことが推奨されており、のちに名を知られることになるような画家を多く輩出した。


 Fの出世作といえば「葡萄色の海」と「鯨飲」であろう。
 「葡萄色の海」はそのタイトル通り紫色の海、そして夕方の紫の空を背景にマンタインが勢いよく海を飛び出しているさまを描いた作品だ。
 今にもふりかかってしまうのではないかと錯覚する水飛沫と生き生きとしたマンタインが見事な筆致で描かれている。
 なお、葡萄色の海とは古代ギリシャでの表現であるが、古代ギリシャ人の目には海が紫色に見えていたわけではない。彼らの色彩表現は独特で、見た色をそのまま表すのではなく、質感やそれ自体の性質を表現している。したがって葡萄色の海とは波の打ち寄せる様子を言い表しているのである。
 F自身もおそらくそのことを知っていただろうが、夕闇に染まっていく海を見てタイトルをつけたのだと思われる。
 次に「鯨飲」であるが、この絵はまるで天の川を飲み込もうとしているようなホエルオーを描いた作品だ。
 日が沈む寸前の昼と夜の境の夜空がはっとするほど美しい。次の瞬間には大きな音を立ててホエルオーが海へ戻るのであろうが、この切り取られた一瞬だけは音の消えた世界のように感じられる。
 この二作はサロンに出品されるや否や大変な評判となり、Fの名を知らしめることとなった。


 次に紹介するのは、Fの初期の傑作であるコウジン水族館を描いたものだ。
 「葡萄色の海」と「鯨飲」の評判を聞きつけた水族館側がFに制作を依頼し、作成された。
 実物を見た人ならご存知かもしれないが、この絵は見る者を圧倒するほどの大きな作品である。
 まず目を引くのが画面中央やや左に描かれたミロカロスだろう。そして周囲に目をやれば描き込まれた多くのポケモンや背景に驚嘆するほかない。ラブカス、ケイコウオ、マンタインにタマンタ、サクラビスやハンテール。サニーゴやネオラント、プルリルやハギギシリ、数多のヨワシやテッポウオ。ヒトデマンやジーランス、チョンチー、ヒンバスやコイキング、メノクラゲやクラブもいる。さらに分かりにくいがオクタンやママンボウ、ランターン、スターミーなども描かれている。
 泡か何かかと思って目を凝らせばそこにポケモンがいる、というくらい細部にわたって描き込まれている。描き込みの細かさもさることながら、上から差し込む光の表現も注目に値するだろう。いくつもの光の筋が揺れる水面を示している。
 また、画面右に描かれている仲睦まじそうな二人はFの親しい友人たちである。水族館側からは巨大な水槽とそれを眺める人を描いてほしい、という依頼であり、描く人間の指定はなかったため彼らを描いたようだ。Fは特別な指定がなければしばしばこの友人たちを描いていたので決して珍しいことではない。彼らについては長くなるので後述する。
 細かい描き込みはともかく、今でこそさして珍しいとは思わないかもしれないが、実はこの絵は画家としてのFの想像力が発揮された作品である。
 初期の水族館というのはやや大きめの水槽を並べただけであり、水族館と呼べるようなものになるまでにはさまざまな技術の発展が必要であった。
 当時のコウジン水族館の水槽は鋳鉄のフレームにガラスをはめ込んだものであり、Fが描いたような全面ガラス張りの水槽の登場は、飼育水の処理法の改善や、漏水防止技術、大型でぶ厚いガラスの製作技術の発展などをもう少し待たなければならない。
 したがって当時、この絵が描かれた頃にはこのような光景は存在しなかった、と書けばFのイマジネーションの素晴らしさがわかるかと思われる。
 この絵が飾られたコウジン水族館は大変な盛況となったが、絵とは違い鋳鉄のフレームにガラスをはめ込んだ水槽にがっかりした客も少なくなかったという。それだけリアルに描かれた絵であり人々を魅了したと言える。
 なお、この絵には金色のコイキングが描かれているのだが、わかっただろうか。見つけた人には幸運が訪れるとも言われている。ぜひ探してみてほしい。


 ここでFの最も親しかった友人夫妻について述べる。
 彼らとは画塾に通っていた頃に知り合ったようだ。
 Fの彼らに対する愛はいっそ病的と言ってもよく、余人には理解し難い部分もある。それはFが生涯で描いた絵の約半数にこの二人、あるいはどちらか一方が登場する、といえばFの愛の凄まじさが伝わるだろう。
 夫妻のうち夫は白い髪に銀紫色の瞳を持ち、他人には冷徹で大変気難しく、短気なところもあったようだ。妻と出会うまでは暴言や豪力に訴えることも珍しくなかったそうだが、パートナーを得てからはだいぶ落ち着いたのだとか。
 妻の方は黒い髪に金茶色の瞳を持ち、陽気で温厚な性格で、人当たりもよかったようだ。一見してなんの問題もないように思えるが、実は夫と出会うまではそのうちに希死観念や世界に対する絶望のようなものを抱えており、笑っていても実は目は笑っていない、などという状態だったようだ。こちらもパートナーと出会うことで安寧を得て落ち着いたようだ。
 一見してよくある話にも思えるが、ここでこんな言葉を紹介しておう。「不幸は人の数だけあるが、幸福はいずれも似通っている」。
 さて、Fが知り合ったのは二人がまだ恋人同士であった頃だ。結婚こそしていなかったが当時から二人は仲睦まじく、そしてあまり人とは交わらない生活を送っていたようだ。
 そんな彼らがなぜFと親しくなったのかはよくわからない。黒髪の友人は誰にでも友好的であったそうだが、白髪の友人、のちの夫は恋人に近づく人間は男女問わず警戒していたという。しかしなぜかFには心を開いたようだ。Fもまた、あまり多くの人間と交流するような性格ではなかったようであるし、そう考えると奇妙な話である。
 ともあれ、二人の友人とFは不思議と馬があい、親密な交流が行われ、Fの描く絵に彼ら二人が登場することとなる。
 二人がいざ結婚するとなった時には殊の外Fは喜び、その思いのままに十数枚もの絵を描き残したという。しかし実は結婚式の絵は残っていない。もちろん結婚式には出席している。F曰く、この美しさ、尊さを描き切ることは自分には到底できない、ということだ。とはいえ、絵には残っていないものの、日記にはその興奮ぶりが記されている。
 夫妻は二男一女の子に恵まれ、子どもたちを描いた作品も多数残されている。家族全員揃った肖像画もある。Fは自分の子どものように可愛がっていたようだ。
 また、友人夫妻のポケモンの絵もいくつか残されており、有名なのは嫉妬するニャスパーの絵だろうか。普段の愛らしさとのあまりのギャップが人々には受けたようだ。夫妻が仲睦まじくしている端に描かれるニャスパーは、時にメインの二人を押しのけるほどのインパクトがあった。
 このようにFと友人夫妻は非常に親しい仲であったが、30歳をすぎた頃からFが体調を崩しがちになってからは交流も途絶えがちになったようだ。Fはミアレ郊外にアトリエを構えており、夫妻はハクダン郊外に住んでいたため、物理的な距離はそこまででもないものの、やはり頻繁に行き来するのは難しかったようだ。
 直接会うのは難しくなり、手紙でのやりとりが主となった。残された手紙からもFの友人たちに対する深い愛情がうかがえる。しかしそれも体調の悪化により返信は遅れ、短いものとなっていった。そのことを不甲斐なく思う、という一文もある。
 Fは生涯独身を貫いたものの、決して孤独などではなく、この夫妻をはじめとした友人たちに恵まれた人生を送った。
 さて、夫妻について語るのはこの辺にして、Fの絵の話をしよう。
 夫妻を描いた絵で最も有名なのは、アテスゥエ(綴りは「A tes souhaits」、カロス語で君の願いが叶うようにの意)と名付けられた一連の絵であろう。ミアレやハクダンを始め、カロス各地の風景を描いた連作である。Fは時折カロス各地に旅行をし、その時の情景を描き残している。
 そのうちの二枚を紹介しよう。
 一枚は「風月のフウジョタウン」である。
 有名な巨大な風車を背景に白髪の友人と黒髪の友人がバゲットを片手に、まだ雪の残る葡萄畑のそばを歩いている様子を描いた作品だ。時間帯の曖昧な紫の空が独特の雰囲気を醸し出している。
 もう一枚は「収穫月のシャラシティ」である。
 海に浮かぶ小島の上にそびえ立つマスタータワーを背景に、和やかな雰囲気で向かい合っている二人を描いている作品だ。夏本番を迎える少し前のさわやかな空気感が伝わってくる。
 ちなみに風月(ヴァントーズ)や収穫月(メスィドール)はカロス革命暦で使われた月名である。グレゴリオ暦では風月は2月20日頃から3月20日頃、収穫月は6月20日頃から7月20日になる。カロス革命暦は原則として十進法を用いているのが特徴で、問題点が多かったため12年ほどしか使われなかった。
 今回紹介したもの以外もどれも素晴らしい作品なので、機会があれば是非見てほしい。


 Fが好んで描いた人物画として四つ子姉妹の絵がある。
 四つ子といっても実際のモデルはとある一人の踊り子である。その踊り子は大変珍しいことにオドリドリを連れており、四つ子という発想はここからきたようだ。
 ご存知ない方もいるかもしれないので説明すると、オドリドリは主にアローラに棲息するポケモンで、ある花の蜜を口にすることでその姿を変える特殊な性質を持つ。情熱的な火の舞を踊るめらめらスタイル、人懐こく励ましの踊りをし電気を操るぱちぱちスタイル、ふらふらとした踊りで精神を研ぎ澄ませるふらふらスタイル、扇子のような翼で舞うように踊り死者の魂を引き寄せるというまいまいスタイルの四種が存在する。
 オドリドリを連れた踊り子はオドリドリのように、まるで別人かと思うほど変幻自在に様々な舞を披露したという。
 アローラから遠く離れたカロスの地でなぜこの踊り子が活動していたかは定かではない。オドリドリのための花の蜜も入手困難であっただろうに。また、踊り子はクノエの出であり異国の血が混じっているとも噂されたが、謎が多い。


 Fの最高傑作といえば、忍者とゲッコウガを描いた絵であろう。
 満月の夜、柳のような樹木に佇む藍墨色の外套で全身を覆い隠した人物と、おそらく氷でできているのであろう透明な手甲と臑当を身につけたゲッコウガ。ゲッコウガは後手に巨大な――これもおそらく氷製の――クナイを構えている。彼らの向こうにはゴシック建築の建物だろうか、尖塔のある屋敷が描かれている。
 ゲッコウガの足元を中心に水面に波紋が広がっているが、この絵からは静けさばかりが感じられる。画面全体は暗く、月明かりだけが彼らを照らす。まさに闇の中で生きる彼ら忍者のありようを表しているのだろう。
 この絵はFと交流のあった研究者であり作家でもあったA博士の小説にいたく感銘を受けて描かれたとされる。
 A博士の書いた小説は遠い異国、東の島国から訪れた忍者とそのパートナーポケモンのゲッコウガがヨーロッパを生き抜いていく物語である。三十年戦争を背景に、動乱のヨーロッパを巧みに描き出している。
 忍者というと冷静沈着な人物を思い浮かべるかもしれないが、この作品の主人公はまだ若者とあって血気盛んな一面もあり、外国の作品であるが親しみやすさを覚える。作中には研究者でもあるA博士の豊富な知識が織り込まれ、当時使われていたポケモンの道具や当時の世情の解説も書かれているので予備知識がなくてもすんなり作品の世界に入り込むことができるだろう。また、Fの描いたこの絵ではゲッコウガが氷の装備を身につけているが、これはきずなへんげの伝承をもとにA博士が考えたオリジナルの形態である。
 なお、この作品にはFの友人夫妻がモデルとなったと噂されるキャラクターも登場する。少々入手は難しいものの、邦訳も出ているので興味のある方は是非読んでみてはいかがだろう。


 ジャポニスム、という言葉を聞いたことがあるだろうか。これは19世紀後半にヨーロッパで流行した日本趣味、すなわち日本の美術品などに対する関心のことを指す。絵画、版画、彫刻、工芸など美術のあらゆる分野に大きな影響を与えた。
 きっかけは19世紀半ばに万国博覧会に出品された美術品や陶器を輸入した際に入っていた浮世絵などであったとされる。当時の日本では浮世絵はありふれたものであり、また安価であったため、梱包材として用いられていたのである。
 それまでもシノアズリー(中国趣味)やテュルクリ(トルコ趣味)などが流行したこともあったが、いずれも一時的であった。しかし、ジャポニスムは一時的なものに止まらず、ヨーロッパ全土における一大潮流となった。ルネサンス以降の伝統的美術表現ではなく、新しい表現を生み出そうとしていた芸術家たちがタイミングよく、斬新な日本の美術に触れた結果であるといえる。先述したA博士が書いた小説もおそらくこの過程で生まれたのだろう。
 Fもまた例に漏れず影響を受けたようで、いくつかジャポニスムの要素を取り入れた作品を残している。そのうちの三枚を紹介しよう。
 一枚目は花咲く梅の木にちょこんと座るピィの絵である。
 梅の花とピィの体を同じ色で塗ることにより、画面に調和をもたらしている。また、背景の色は一色ではなく、左上は薄緑色、そして画面右下にかけて朝焼けのような薄紅色にすることにより、画面右下は梅の花と馴染み、自然と画面中央のピィへ目が行くようになっている。
 画面上の情報量が少なく、ピィがぽつりと存在している様がどこか日本画を思わせるのは気のせいだろうか。もちろん、西洋画でも静物画や肖像画などにはシンプルな画面構成の作品も存在する。しかしこの絵に限っては空白部分が梅の花、そしてピィをより一層引き立てているように感じられてならない。
 二枚目は朝顔とエーフィを描いたものである。
 朝顔の鉢の後ろに体のほとんどを隠したエーフィがしっぽと顔をのぞかせ、蠱惑的な笑みを浮かべている。朝顔の色はエーフィの体色と合わせた紫の他に青も混ぜることで、のっぺりとした平面的な印象を避け、奥行きのある絵に仕上がっている。
 エーフィの進化条件は当時まだ詳しいことは分かっておらず、経験則的に昼間に進化することは知られていた。またこの頃、朝顔はヨーロッパでも盛んに栽培され、カロスでは昼間の美女とも呼ばれていたようだ。日中に進化するエーフィと朝しか咲かない朝顔を重ね合わせて題材に取り上げたと思われる。
 三枚目に取り上げるのはグレイシアと椿を描いたものだ。
 中央に大きくグレイシアが、画面右上に綿雪の積もった椿が主張しすぎない程度にそっと描かれている。きんと冷え切った冬の空気が伝わってくるような作品だ。片目だけを開いたグレイシアはまるでウインクをしているようで、その意味ありげな表情にあれこれ想像を巡らせずにはいられない。
 椿は東アジアや東南アジア原産の植物であり、16世紀頃にはヨーロッパに持ち込まれていたものの、本来温暖な気候の植物であることから栽培が難しく広まらなかった。18世紀に宣教師が種を持ち帰り、その後名前が付けられ、ミアレの王宮の温室にて栽培されていた。また、椿は東洋のバラとも呼ばれ、 19世紀には園芸植物として大流行し、有名なオペラ「椿姫」が生まれた。
 グレイシアと椿という組み合わせは作家Oの書いた短編小説が由来と思われる。グレイシアとの暮らしの何気ない瞬間を切り取った小説だ。作家Oの作品はいずれも優しく柔らかな雰囲気が特徴である。興味があれば読んでみるのもいいだろう。

 19世紀初頭は18世紀から続く新古典主義が主流だったものの、それに反発するようにロマン主義が生まれ、そこから写実主義、さらには印象主義などが生まれた。新古典主義に反発した若い画家たちは遠い遥かな過去の歴史ではなく、自分たちの生きる時代の出来事を描いていった。
 この流れはジャポニスムも大きな影響を与えており、それまでとは違った表現で描かれる絵が多く生まれた。
 Fもまた、新たな表現に挑んでいる。
 その一枚が「庭の女王の交代」である。
 これは老いて色あせたフラージェスとまだ年若いフラージェスを描いた作品である。
 この絵はFとしては珍しく筆の跡が残るような塗り方をしており、一見印象主義の絵に似ているようにも思える。それまで写実的な絵を描いていたFであるが、古いやり方に固執せず、新たな表現方法を取り入れようとしていたことがわかる。
 この絵はFの晩年に描かれており、まるで自身の死を予期して描かれたような印象を受ける。


 Fの作品は非常に多く、どれも素晴らしい出来であるが、全てを語るには時間がいくらあっても足りないので、このあたりで終わりにしよう。
 最後に紹介するのは冒頭でも触れたオボンの実の絵である。
 実はこの絵はFの最後の作品となったものだ。
 先述したように、Fは30歳をすぎた頃から体調を崩しがちになった。寝室の窓から見える位置にオボンの木が植えられていたようだ。オボンの実は人が食べてもよく、滋養に富んだ食べ物である。もしかしたら体のあまり丈夫でないFのために植えられたのかもしれない。
 亡くなる直前、彼女は何かに取り憑かれたかのようにこの絵を描き始めたのだという。Fは鬼気迫る勢いでこの作品を仕上げると、全ての力を使い切ったかのようにその三日後に息を引き取ったのだという。
 今一度この絵をよく見て欲しい。とても病床にあった人間が描いたとは思えないみずみずしく明るい作品である。
 この絵を見てあなたは何かを感じないだろうか。
 実はこの絵には不思議な力が宿っているのだと言われている。曰く、人に何かを作らせる力がある、と。
 事実、多くの人間――画家や作家、彫刻家、建築家、音楽家、果ては料理人までも――がこの絵を見て何らかの作品を作り上げている。ある料理人はオボンの実を使った新たな料理を考案したし、ある音楽家は交響曲を作り、ある建築家はこの絵にインスピレーションを得て建物の設計をし、彫刻家はオボンの実をモチーフにした作品を作り上げ、画家は習作やあるいは新たな絵を描き、さまざまな作家がこの絵をもとに数多くの物語を書き上げた。
 何が彼らを駆り立てるのだろうか。彼らはこの絵に何を見出したのだろうか。

 あなたもまた、その一人かもしれない。
 さあ、あなたはこの絵に何を見出す?