下手なペテン師と至心な賊子

双弹瓦斯
イラスト
編集済み
『輸送機が食われる! これ以上やらせるな! 守れ!』
『早く乗客を降ろせ! このままじゃもろとも全滅だ!』
『動け、動けえええええッ!!』
『制空権はこっちにあるんじゃなかったのか!?』



「ち――」
 くしょう、と言いかけたところで、わたくしはとっさに口をつぐみました。
 いけません。レシーバーから聞こえる声が阿鼻叫喚のるつぼだからと言って、"畜生"という言葉を使うなんてはしたないでしょう。無線機越しに誰かが聞いていたらどうするのです。仮にも"駆逐航空団のスター"と呼んでいただいている身の上です。そんな言葉を使っていては、わたくしを慕っている皆さまをがっかりさせてしまうでしょう。
 そんなことを考えていられるような場合ではないのに、口を閉じることができたのは我ながら立派なものだと思います。なぜって、ここは紳士淑女が社交に集う、華やかな舞踏会の会場などではなく、軽金属の機械の翼が互いの命を求め、死の舞踏を舞う戦いの空なのですから。



 今日、大規模な空挺降下作戦が実行されたこの島は、事前の徹底的な航空爆撃によって、敵軍の戦力は大きく削がれているはずでした。わたくしも飛行場への爆撃作戦には参加していましたし、敵の航空戦力は破壊しつくした、と思っていたのですが……
 どこへ隠していたのか、敵軍の迎撃機が今まさに兵を降下させんとする輸送機、そして、輸送機を狙う対空砲や強固な敵陣を爆撃するわたくしたち駆逐機を急襲したのです。
 わたくしの乗る駆逐機も、曲がりなりにも戦闘機なのですが、なにぶん重いエンジンが2つ付いているので、エンジン1つの敵戦闘機より小回りが効きません。最高速度では勝っているのですが、あいにく今日の任務は対地攻撃。重くかさばる爆弾を吊り下げ、加速しにくい低高度を飛ぶわたくしたちは、こちらより勝る高度から先手を打たれ、厳しい戦いを強いられていました。



 わたくしは改めて状況を確認しました。
 左エンジン。これはまだ大丈夫。プロペラはまだ元気よく回っていますし、傷もありません。
 しかし視線を右へ移すと、抜き差しならない現状が嫌でも目に入りました。
 ぎこちなくプロペラを回しながら、黒煙を吹き出す右エンジン。更に視線を右へ移せば、あちこちに穴の空いた主翼とエルロン。先程受けた敵機の初撃で付けられた傷です。
 飛び続けることならまだできるでしょう。ですが、右へ傾きそうになる機体を力いっぱい抑え込んでまっすぐ飛ばすのがやっとといったところです。
「新たに敵機、7時方向上空!」
 後部座席のエミリエが叫びます。
「撃ち返して!」
「今やります!!」
 エミリエが受け持つ後部機銃の銃声が響きます。わたくしは右へ機体を動かそうと、操縦桿に込める力を緩めました。
 しかし。
 わずかに力を抜いただけで、機体はわたくしが望む以上に右へ大きく傾きました。
 だめだ、これでは墜落してしまう――そう考えた時にはもう、わたくしたちの乗機は敵弾の雨を浴びていたのでした。



 痛みはまったく感じませんでした。痛みを感じる間もなく死んでしまったのかもしれない――とも思いましたが、鳥かごのように狭いコックピットの中に変わらず収まっていることに気づいて、わたくしは自分がまだ現世にいることを悟りました。
「……いた……い……」
 風の音にかき消されてしまいそうなほどに、小さな声が聞こえてきます。エミリエの声です。
「エミリエ!」
 わたくしは叫びました。
「……さむいよ……ママ……パパ……」
 帰ってきたのは、やはり消えそうなほどに小さなうわごとでした。わたくしは無力な自分を呪いました。
 それでも、操縦しているわたくしは無傷でいられたことは不幸中の幸いです。わたくしが五体満足なら、どうにか機体を飛ばし続けることはできますから。
 とにかく、まずは状況の確認です。エンジンの音がさっきよりずっと弱くなっていることに気づいて、わたくしは左手へ目をやりました。
 飛び散ったエンジンオイルが張り付いて、風防が黒く汚れていました。その隙間から目を凝らして左翼を見ると、さっきまで元気に動いていた左エンジンが止まっています。
 右翼が壊れたところに左翼も被弾したためか、機体が急激に傾くことはなくなっていました。しかし、今度は力任せに操縦桿を動かしても、ほとんど機体はロールしません。
 動いているエンジンは、悲鳴を上げている左側だけ。舵も効きが鈍って、方向転換もままならない状況でした。
 もはや逡巡する猶予はありません。わたくしは機体を不時着させることを決断しました。落下傘で脱出できるだけの高度は既にありません。
 尾翼は幸いなことに無事でした。ピッチとヨーは問題なく制御できます。眼下に広がるのは平らな小麦畑。不時着にはうってつけの場所です。
 —―あとは、まだ上空を悠々と舞っている敵機が、こちらにとどめを刺しにやってこないかだけが気がかりです。
 エミリエが傷を負っている以上、こちらは完全に無防備。今敵機に狙われてしまえばひとたまりもありません。どうにかして遠ざけられないものでしょうか。
 一弾指いちだんし、考えて策を定めました。この策をもう数分早く、戦闘中に思いついていれば、こんなことにはならなかったのに――そんな思いが一緒に頭をよぎりましたが、後悔しても何も生まれません。今は生き延びることだけを考えなければ。



 脳裏に浮かぶ光景を、わたくしはわたくしの外へと伝播させます。
 引火し、炎に包まれる愛機。炎の中で悶えながら、火球となって麦畑に堕ちていくわたくしとエミリエ。想像していて気分のいいものではありませんが、敵機にとっては慊焉けんえんたる光景でしょう。愛機に輝かしい撃墜マークをひとつ、描くことができるのですから。
 今、わたくしの思い浮かべる光景。それはわたくしの周りにいる全ての生き物に、眼前で起きている現実と見分けのつかないほどの精緻な幻影として映し出されます。
 幻影イリュージョンのローブで実相を包み込み、自己の存在を覆い隠す。わたくしたち――化け狐ポケモンのゾロアークは、機械の翼で空を飛べるようになるよりもずっと昔から、そうして命を繋いできたのです。



 わたくしは燃料供給のバルブを閉じて、胴体着陸の体制に入りました。
 エンジンが止まり、機体は滑空状態に。速度計に目をやりながら、慎重に操縦桿とペダルを動かします。
 機体を壊さない程度に遅く、でも失速しない程度には速く。機首を上げ下げしながら、慎重に速度を制御。ゆっくりと、機体を地面に近づけていきます。
 地面まで残りわずか。機体がひっくり返って潰れてしまわないように、機体をなるべく水平に保って。このまま、このまま。
 高度が麦の先端をかすめそうなほどに低くなったところで、操縦桿がすっと軽くなります。
 失速。しかし高度はすでに麦の穂の高さ。どしん、という大きな音と、一瞬の衝撃。地べたを滑りながらカクテルシェイカーのように激しく揺さぶられる機体は、コックピットの中のわたくしたちをもみくちゃにします。
 体中に打ち身ができたかと思うくらいに揺さぶられたところで、ようやく機体は止まりました。
 ああ、生きて地面を踏むことができた――と感慨にふけっている場合ではなさそうです。空の上からは、相も変わらずレシプロエンジンの爆音と、装薬が弾け銃弾が空を切る音が響いています。
 ここに留まるか、それとも逃げるか。どちらを選ぶにしても、まずはやらねばならないことがあります。
「エミリエ、無事ですか? 返事をして、エミリエ!」
 シートベルトを外して、わたくしは風防に頭をぶつけるのもいとわずに座席から身を乗り出し振り返りました。
 エミリエの座る後部銃手席の風防には、黒いエンジンオイルではなく、鮮やかな赤い血のしぶきが風防の内側から張り付いていました。その下にいるのは、上へ銃口を向けたままの機関銃に突っ伏したまま動かない、首から下を真っ赤に染めたグランブル。
「……ごめんなさい」
 そう呟いて、わたくしは前へ向きなおります。エミリエを射抜いた弾丸が、もう数センチ上へずれていたら。そう考えると、恐怖で身体が凍り付きそうでした。



 * * *



 結局わたくしは、燃える機体の幻影を映したまま、震えながらコックピットの中にうずくまることしかできませんでした。
 無事降り立つことができたこの土地は、今はまだ敵の支配下にある土地なのです。幻影で姿を隠すことはできても、敵地にひとりで取り残された心細さと恐怖心は隠せません。護衛していた空挺部隊の兵士たちが、わたくしの機体を見つけてくれることを祈るばかりでした。



 空を飛んでいたときにはまだ南東の空にあった太陽が、もう南西の空にあります。
 エンジンの音が聞こえなくなってからも、遠くから微かに聞こえる銃声と砲声は続いていました。そのくせこの麦畑は不気味なくらいに静かです。前線はまだ遠いのでしょう。
 友軍は今どこまで進んでいるのでしょうか。ここまで来るのにどれくらいかかるのでしょうか。いつやってくるか分からないなら、自分から探しに行くべきなのでしょうか。地図ならあります。飛んでいるときの景色を思い出せば、自分が今どこにいるかくらいはわかります。けれど――
 空の上では即決即断できるというのに、今のわたくしときたら情けないことに、何時間もそんなことをぐるぐると考え続けていました。



 うなだれていてばかりいてもらちが明かない、そう思って顔を上げたときでした。
 風になびく黄金色の小麦の穂の中を、なにかが歩いています。数は1。背丈と体型からして、2本の足で歩く生き物なのは間違いありません。
 なるべく自分の身体が外から見えないように縮こまりながら――相手には燃え盛る愛機の幻影しか見えないと頭ではわかっているのですが、もしかしたら、と思うと恐ろしくて、そうせずにはいられなかったのです――、わたくしは目を凝らしてその"なにか"を見つめました。
 背丈はヒトと同じくらい。ですがシルエットから見てヒトではなさそうです。ヒトの首はあんなに長くありませんし、揺らしながら歩くような大きな尻尾はヒトにはありません。おそらくはポケモンでしょう。でも手には何か細長いものを持っています。小銃――にしては短そうに見えますが。
 "なにか"はこちらを見ているようでした。こちらをじっと見つめながら、機体の周りを回るようにゆっくりと歩いています。こちらを警戒しているのでしょうか?
 少しずつながら、"なにか"がこちらに近づいているのがわかりました。手に持った細長いものを、一端を肩に当て、もう一端を体の前に向けて構えています。銃の横には、細長い突起が枝のように付いていました。
 やはり、あれは銃のようです。おそらくは短機関銃でしょう。銃を構えるヒトではない生き物といったら――答えはひとつしかありません。



「撃たないで! わたくしは味方です! 友軍です!!」
 風防を跳ね上げ、幻影を掻き消し、わたくしはシャンパンのコルクのように両手を高く掲げて立ち上がっていました。
 "なにか"は呆気にとられたように一瞬立ち止まりましたが、すぐに状況を理解してくれたのか、銃口を下ろしてこちらに足取りも軽くこちらに歩み寄ってきました。
 つばのないヘルメット。身体をゆったりと覆う迷彩柄のスモック。膝につけたプロテクター。もう見間違えようがありません。我が軍の空挺歩兵――降下猟兵部隊のポケモン兵です。ヘルメットの下から除く黄色い目。緑の鱗に覆われた肌。モミの木を身体に植えたような大きな尻尾。種族は密林ポケモンのジュカインのようでした。



「こいつは驚いた……"駆逐航空団のスター"とこんな所でお会いできるなんて」
 開口一番、降下猟兵のジュカインさんから発せられたのはそんな言葉でした。
 主翼の上に乗って、短機関銃を左手に持ち替え、ジュカインさんは右手をこちらへ差し伸べます。
「申し遅れたね。空挺突撃連隊、第Ⅲ大隊のエレナ中尉だ。活躍は聞いてるよ、ヒルデ・ライチュ少尉」
 差し伸べられた手を取って、コックピットから抜け出します。助けに来てくれたのが同じポケモンの女性将校だったことがなお嬉しくて、安堵で腰が抜けてしまいそうでした。
 ――それにしても、お会いしたこともない方から名前を呼ばれるのは、まだ慣れないものです。
「……キミもひとりか」
 わたくしが主翼の上に降り立ったところで、ジュカインさん――もといエレナ中尉が言いました。
 彼女の視線の先には、血染めになった後部座席。はい、と一言だけわたくしは返しました。
「そうか。実は私もなんだ。会えて嬉しいよ、少尉」
 中尉はわたくしの手を放して、東の空を眺めます。
「ひどい戦いだ。敵機の襲撃をかろうじてくぐり抜けたら、敵さんの真上に降下しちまった。なんとか武器は回収して、そこにいた敵もみんなやっつけたけど……気づいたら私ひとりさ。それで別の味方の降下地点へ向かおうとしたら、変な燃えかたをしてる駆逐機の残骸を見つけた。それでキミを見つけたんだ」
 憂いを帯びた目で中尉は語ります。腕に籠った力でかすかに揺れる短機関銃が、ここまで来るまでに彼女が被ったであろう受難を物語っているようでした。
 でも、それ以上に気がかりなことがわたくしにはひとつ、ありました。
「あの、変な燃えかたというのは……?」
 最後のほうに言った"変な燃えかた"という言葉。もしかして、わたくしの幻影になにか瑕疵があったのでしょうか。どうしても気になって、わたくしは不躾なことに、中尉のことを気遣いもねぎらいもせずに、そんなことを訪ねていました。
「……キミ、"下手なペテン師"って言われたことはない?」
 エレナ中尉の憂いを帯びた目が、瞬きする間に半月刀のように鋭くなっていました。
「えっ……あ、ありませんが」
 そのまなざしに気圧されて、わたくしは思わず口ごもってしまいました。
「私が見た残骸、風があるのに煙がまっすぐ立ち昇ってたよ。よほど鈍いヤツでもなけりゃ、すぐにおかしいって気づくさ」
「!!」
 風で擦れる麦の穂が奏でる音が、心なしか大きくなったように感じました。
「燃え方はすごくリアルだったけどね。でも、仕掛けが複雑になればなるほど、ひとを騙すのは難しくなるんだよ、少尉。ペテンのトリックってのは単純なのが一番いいんだ。機体の中で死体のふりをしてるくらいでもよかったと思うね。
 一番最初に気づいたのが私でよかったな。もしこれが敵兵だったら、キミは今頃毛皮を剥がれてマフラーにされてたぞ」
 長々としゃべる中尉に、わたくしは何も言い返せませんでした。
 風があるのに煙がまっすぐ。これは言い訳のしようがない失態です。確かにそんな煙が立っていたら、わたくしだって不審に思います。強い風が吹いていたことは、空の上で当て舵をしていたのだからわかっていたはずなのに。
 そこに最後のひとこと。それを聞いたわたくしの心には、ここに来てくれたのが中尉でよかったという心弛びと、皮を剥がれてマフラーにされる自分の姿を想像して起こる恐怖がないまぜになった、泥水のような感情が洪水のように溢れていました。
 なにか言葉を返さないと。でもどうすれば。頭をどれほど回しても答えは出なくて、わたくしはコイキングのように口をぱくぱくと動かすばかりでした。
「……講釈はこの辺にしようか。行こう。ここに留まってても仕方ない」
 肩を落とすわたくしの肩を、中尉は軽く叩いて歩き出します。その後ろを、わたくしはとぼとぼと歩き始めました。
 これほどまでにわたくしをちゃんと叱ってくださる方にお会いするのはいつ以来でしょうか。そんなことを考えながら……



 * * *



 日はすっかり暮れて、星々が煌めく時間になりました。
 わたくしとエレナ中尉は、道中に主のいない一軒家を見つけて、そこで一夜を明かすことになりました。戦いの気配はあいもかわらず遠くで鳴り響く砲声のみで、
 部屋のカーテンは全て閉めて、小さなランプをひとつだけ灯し、わたくしたちは食事を摂っていました。メニューは中尉の持っていた糧食と、わたくしの愛機に積んでいた非常食。それに、この家の台所に残っていたオボンの実を添えて。



「うん、うまいな!」
 エレナ中尉は皮もむかずに、オボンの実に豪快にかじりついていました。これで3つめくらいです。よく食べる方なんだなあ、と思いながら、わたくしは2つめのオボンの皮をむきながら、そうですね、と相槌を打っていました。
「こっちに来て知ったんだけど、今の時期が一番うまいって話だよ。オボンは大好きだし、この島のオボンはうまいって聞いてたしな。ここで食べられて嬉しいね」
 そう言ってまた、中尉はオボンにかじりつきます。
「オボンって、今の季節に採れる果物なのですか?」
「そのようだね。でもニンゲンの連中は2ヶ月くらい蔵で寝かせてから出すらしい。そうしたほうが美味いらしいんだ。全くニンゲンってやつはさ、そういうことだけしてりゃいいものを――」
 言いかけたところで、急にエレナ中尉は口を閉じました。
 口の前で指を立てて、中尉は食卓の右側へ視線を動かします。わたくしはうなずいて、中尉のジェスチャーの通りに食事の手を停め、息をひそめました。
 視線の先には卓上ラジオがひとつ。少しの物音でもかき消されてしまうくらいに、小さな音で鳴っています。外に聞こえないようにするためです。
 勇ましい音楽に続いて流れる、どこか不遜な雰囲気で弁じているニンゲンの言葉。わたくしの所属する軍隊で使っている言葉とは、違う国で使われている言葉です。
「……はは、よく言ったもんだね」
 中尉が、ため息交じりの笑いと共に呟きました。
「言葉がわかるのですか?」
 わたくしは中尉に訊ねます。
「あっちこっち回ってたからね。だいたいわかるさ。そもそも、言葉が分からないなら言うわけないじゃない。敵地でラジオ使ってうちのプロパガンダ放送を聴こう、なんてさ」
「……それで、何と言っていたのですか?」
「我が軍はわずかな損害でこの街の西の飛行場を制圧した。お前たちに勝ち目はない。今からでも遅くないから投降しろ――とさ。どこまでも私らポケモンのことを馬鹿にしてくれるよね、全く……」
 両掌を天に向けて、皮肉めいた笑みを浮かべながら語るエレナ中尉。ランプの弱い光に照らされた彼女の顔は、まるでファウストを誑かすメフィストフェレスのようでした。



「……あの」
 声を張り上げてしまいそうになるのをどうにかこらえて、わたくしは口を開いていました。
「なんだい?」
「……なぜ、その言葉がポケモンを馬鹿にしていることになるのです?」
 単なる疑問ではない感情が、わたくしを突き動かしていました。
 わたくしの所属する軍に、わたくしは大きな恩義があります。わたくしは他の多くのポケモン将校たちと同じように、わたくしは高級軍人の持つポケモン牧場で生まれ、士官として、パイロットとしての教育を受けて今ここにいます。
 育ててくれた恩に報いたくて、わたくしは懸命に戦い続けてきました。それに報いて、軍はわたくしを軍の花形――"駆逐航空団のスター"という二つ名をくれて、わたくしたちの活躍を広く祖国に広めてくださっているのです。
 そんなわが軍のことを、わたくしより階級も高いエレナ中尉が悪く言っているのは、正直に言って気分のいいモノではありませんでした。
「言ってたろ? "わずかな損害で"って。ヒルデだって見たろう? 東の飛行場を目指してた私たちの仲間がバタバタ落とされてくのをさ。飛行機が帰った数を見りゃ、上の奴らだってこっちの損害がひどいってことくらい、すぐにわかるはずだ。
 キミの部隊もポケモン部隊なんだろ? こっちだってそう。降下猟兵、輸送機のパイロット、ほとんどみんながポケモンだ。一方で、西に降りたのはニンゲンの部隊。降りた順番も東より西のほうが後だった……ここまで考えれば、なんとなくわからないか?」



 ですが、わたくしが言葉に込めた思いも、さほど気に留めているような気配も見せぬままに、さきほどと変わらない顔のままで中尉は言います。口元は笑っていても、目は昼間と同じような円月刀になっていることに、わたくしはやっと気づきました。声を大きくできない分、表情と身振りで、感情を表現しているようでした。
「――私たちは囮にされてた、ってことだよ。ヒルデ少尉。ニンゲンが受け持つ西の飛行場を簡単に取れるようにするためにね。おまけにそこに送り込まれた"損害"のうちに数えてももらえないときてる。こんなあからさまなことをしておいて、馬鹿になんかしてない、って言うのは下手なペテン師のすることさ」
 そう言って、中尉はオボンの最後のひとかけらを、丸ごと口に放り込みました。
 "下手なペテン師のすること"。その言葉が、わたくしの頭の中でこだまのように響き渡ります。昼間に言われた幻影のダメ出しのときと、同じことをわたくしに言っているように思えて。
「……考えすぎではないのですか? 相手に降伏を迫るんですから、こちらの損害を少なく見積もるのはむしろ自然だと考えますが……」
 わたくしは言葉を返します。でも、先ほどのようには言葉に力を込められません。
 納得したくないのに、信じたくないのに、中尉の言葉に納得して、信じてしまっている自分がいました。



「ちょっと話は変わるけど……ヒルデ、撃墜記録はどれくらい?」
 エレナ中尉が話題を変えました。
「2年乗ってきて、今までで41機。うち爆撃機が20機くらい、戦闘機が10機くらい……あと、地中海に来てから輸送船も2杯ほど沈めました」
「受勲は?」
「二級鉄十字章と……戦傷章の黒章です」
 ここで嘘をついても特に意味はないので、正直に答えます。すると、中尉は一瞬、驚いたような顔を見せて。
「……なるほどね」
 そして、目を閉じてため息をひとつつきました。
 なにか変なことでも言ってしまったのでしょうか。心の中に不安がぽつりと湧いたその瞬間、中尉は口を開いていました。
「もしキミが人間だったら、とっくの昔に中尉になってる。勲章だってもっと多くもらえてるはずだよ。でも現実はそうじゃない。キミに与えられているのは、エースパイロットには物足りない等級の低い勲章と、"駆逐航空団のスター"っていう、プロパガンダで持ち上げるのに都合がいい二つ名だけじゃないか。立派な二つ名で新聞をにぎわせてるエースパイロットなんてニンゲンにもたくさんいるし、そいつらはキミより出世してるしいい勲章ももらってる。
 私だってそうさ。私は5年前、コンドル軍団のころから従軍してる。その時同期だったニンゲンの将校たちはみんな佐官になった。中尉止まりなのは私だけ――」
「だって、わたくしたちはポケモンでしょう? ニンゲンの方々とは種族が違うんです。だから扱いも同じというわけには――」
「けど、やってることは同じだ。同じように命を張って、同じように傷ついてる。なのに私たちだけ報いが少ない。それにどんな合理的な理由があるって言うんだ?」
 中尉の長い言葉に、なんとかわたくしは割って入ろうとしましたが、その言葉も中尉にさえぎられてしまいました。
 ――そんなことはありません。そんなはずはありません。そうであってはいけません。だって、わたくしは、軍に育てられて、恩に報いてきたのです。今までずっと。なのに、こんなことが現実なのだとしたら、わたくしは、いったい、なぜ、どうして――
 頭の中を思考が乱気流のように渦巻いて、それを言葉にすることができません。開きかけた口が強張って、わたくしはまた、コイキングのように口をぱくぱくしていました。



「キミはニンゲンばかり貰いが多いことを当たり前だと思ってるのかもしれない。でもそうじゃない。そんなのは当たり前じゃないんだ」
 エレナ中尉は椅子から立ち上がります。そして、ラジオを挟んで皿の反対側に置いていた、短機関銃を手に取ります。銃身の横に付いた弾倉が食卓の面に当たって、ごとりと鈍い音を立てました。
 そのまま中尉は、部屋の出口のドアノブを握ります。でも、捻ることはせずに、ドアに目を向けたまま中尉は再び口を開きました。
「私はね、軍人の家の生まれじゃないんだ。ここからずっと南の土地の、深い森の中が私のふるさとさ。
 そこでは、立場の違いなんてものはなかった。共存するにせよ、争うにせよ、条件はみな同じだった。ニンゲンもポケモンも、皆が自分の生きたいように生きることができてた……
 でもね、ある日私は、そこで暮らしていたニンゲンとは違う身なりのニンゲンに、突然捕まえられたんだ。そして、金で売られた。いろいろなことをさせられた。戦わされて、売られて、働かされて、売られて――そんなことを何度も繰り返して、最後にこの軍隊の高級軍人のところに流れ着いたのさ。そうして、士官にさせられて、今ここにいる」
「……」
 返す言葉が思いつきませんでした。同じポケモン将校なのに、こうも経緯が違う方がいらっしゃったなんて。わたくしの全く知らない世界の話。そこで中尉が見てきたものがどんなものなのか、わたくしには想像することもできません。
「報いもろくにないままニンゲンに見下されて、一方的にこき使われるなんてポケモンの生き方じゃない。そうであっちゃいけない。私はそう思っているし……そう思ってる自分に、嘘をつきながら生きていくつもりもない。嘘つきになって生きるくらいなら、正直者として死んだほうがマシさ」
 中尉はドアノブを捻ります。ぎい、と音が鳴って、玄関へつながるドアが開きます。
「……変なことを長々言ってすまん。見張りに出てくる。キミは寝てな。交代するときになったら起こすから」
 そう言い残して、中尉はドアをくぐり、そして静かにドアを閉めました。
 わたくしはその後姿を、何も言えずに見送りました。



 瞼がだんだん重くなっていることに気づいて、わたくしはランプの火を消しました。
 エレナ中尉の言う通りに、ここは眠ってしまいましょう。眠ればきっと、気持ちも晴れるでしょうから。
 そう思って、やはり借り物の寝床へ潜り込んではみたのですが、寝床に潜り込んだ途端に、重かった瞼がすっと軽くなってしまいました。わたくしの脳裏に、ずっと忘れていた光景が、不意にありありと蘇ってきたのです。
 それは、わたくしがパイロットになることが決められた日のことでした。言われるがままのことでしたが、そのときはとても誇らしい気分だったように思います。
 ですが、あの日わたくしは、パイロットになることに、軍の一員として育てくれたライチュ家に従ったことに、確かな罪の意識を持っていました。



 その日わたくしは、足元に届くくらいに長かった赤い髪を、短く切らねばなりませんでした。パイロットとしての任務をこなす上で、ゾロアークの長い髪は邪魔になるというのです。
 わたくしは何も言わずに、それを受け入れました。家の命じることは絶対であると、そのときは疑問にも思っていませんでした。
 けれど、頭がすっかり軽くなったわたくしを見たお母様は泣いていました。長い髪はゾロアークの誇りなのに、それを切ってしまうなんて、なんてむごいことをニンゲンはするのか、と言いながら。
 お母様の悲しむ顔を見て、わたくしは罪悪感を覚えずにはいられませんでした。しかし、その罪悪感は、絶対のものである家の命に反しているもの。わたくしは家のために、その罪悪感を必死に塗りつぶそうとしました。



 それ以来、牧場を離れてお母様には顔を合わせていないのをいいことに、わたくしはずっとその罪悪感を忘れていたのです。今この瞬間まで。
 きっと、わたくしはこの罪悪感を忘れることを無意識に望んでいたのでしょう。わたくしがわたくしの使命を果たすことで、わたくしやわたくしの家族が苦しむことがあるという現実を、認めたくなくて。でも――
 "下手なペテン師"。エレナ中尉の言葉が、ふたたび頭の中をこだましはじめました。
 わたくしは下手なペテンで、他人のみならず自分さえ欺きながら生きてきたのでしょうか? 自分自身のことさえ、もはやわからなくなり始めていました。
 わたくしは今まで、なんのために戦ってきたのでしょうか? 今までわたくしが歩んできた道は、すべてが間違いだったのでしょうか? 仮にそうだったとして、これからわたくしはどうするべきなのでしょうか?
 考え事ばかりが頭の中で膨らんで、結局その日はほとんど眠ることができませんでした。



 * * *



 明くる日。
 わたくしとエレナ中尉は、プロパガンダ放送で流れていた西の飛行場を目指して歩き始めました。東の飛行場のほうが近いけれど、東側の味方がどうなっているのかわからない以上、情報がはっきりしている西側へ向かったほうがいいと判断したためです。
 昨日と打って変わって、空は鉛色の厚い雲で覆われています。正午を回る頃には、ぽつりぽつりと雨が降り始めました。招かれざる状況だ、とわたくしは思っていましたが、中尉はその真逆に状況を解釈していました。雨の中では視界が悪くなるから、身を隠しやすくなる。中尉はそう語っていました。
 雨の中を歩き続け、すっかり毛皮もずぶ濡れになった1320時。わたくしたちは、東の飛行場にほど近い集落に差し掛かっていました。



「戦闘が続いてるな」
 エレナ中尉が、双眼鏡を覗きながらつぶやいています。
 わたくしたちが今いるのは、集落を見下ろす丘の上のオボン畑。見下ろす小さな集落からは銃声がいくつも響いています。一部が崩れていたり、煙が上がっている家も見えました。
「風車を挟んで撃ち合いをしてるみたいだ。見たところでは我が軍が優勢……ラジオの言ったとおりか。気に食わないな」
 中尉は舌打ちをして、木に生っているオボンの実を引きちぎって、やはり皮もむかずに食べていました。こんな食べ方をしているのも、彼女が生まれたのがニンゲンの高級軍人の家ではなく、自然の森の中だったからなのでしょうか。
「今までは運良く敵に出くわさずに進んでこれたけど、これからはそうもいかないぞ。武器の準備をしっかりしておけ」
 そう言って中尉は、負革を肩から外して、短機関銃を手に取ります。弾倉を外して、中に入っている弾薬を一瞥して、ふたたび弾倉を装着。安全装置を外して構えます。
 わたくしも拳銃をホルスターから抜き、中尉と同じように弾倉を外して中を確かめ、弾倉を戻して安全装置を解除。ホルスターには戻さず右手に構えました。
「行きましょうか。中尉」
 わたくしは中尉のほうを向き直りました。きっとわたくしを置いていきそうなほどの勇ましさで、中尉は戦いに立ち向かっていくのでしょう――そう、思っていたのですが。



「……すまんヒルデ、少しだけ待ってくれないか」
 エレナ中尉から返ってきた答えは、わたくしが思っていたものとは真逆の、躊躇いの言葉でした。
 引き金を引けばすぐに弾丸が飛び出す状態の短機関銃から、中尉は右手を離していました。代わりに右手に携えていたのは、どこからか取り出した小さな紙片でした。雨で濡れないようにか、オボンの木のひときわ葉が茂っている枝の下で眺めているそれは、中尉にとって何か特別なものなのでしょうか。
「……それは?」
「娘の写真さ。見るかい」
 好奇心にかられて思わず出た不躾なわたくしの問いに、中尉は特に嫌な顔を見せることもなく、そう返しました。
 いまさら遠慮するのもばつが悪くて、わたくしは望んだとおりに写真を覗き込みました。
 写っていたのは、木の枝の上に腰掛け、オボンの実を抱えている小さなキモリの姿でした。進化前なので姿形は中尉とは大きく違いますが、目の形の凛々しさに、中尉の面影が残っているように感じました。
「可愛い娘さんですね」
「まあね。写真じゃわかりづらいけど、他の子と違って、空みたいなきれいな青い鱗をしててね……可愛いくて、可哀相な娘さ」
「可哀相な……?」
 実の子をさして"可哀相"と表現する中尉。わたくしはその姿に、髪を切ったわたくしを見て泣いていた母の姿を重ねていました。中尉のの顔を流れていく雨粒が、まるで涙の筋のように見えました。
「私を買ったやつが、戦争に使うコマを増やしたくて、私に無理やり種をつけて産ませたのがこの子さ。おまけに痛い思いをさせて産ませておいて、産んだ私からは引き離してほとんど会わせてもくれない。この写真を持つことだって、いろいろ難癖をつけられたくらいさ。
 ……もっとも、一緒にいたらいたで、憎悪を抱いて殺してしまうんじゃないかとも思ってて、少し怖くも思うんだけどね」
 中尉の言葉には、表情には、慈愛とも鬱慮ともとれない、複雑な感情が浮かんでいます。
 子を産んだことのないわたくしには、中尉の心情がいかばかりの苦しさを伴うものなのかは理解できません。でも、わたくしが子を持って、中尉やわたくしの母と同じように、我が子にこうあってほしいと願う想いに反したことを子に強いるニンゲンがいたとしたら……きっと、苦しさをおぼえるでしょう。そう、想像することはできました。
「私を買ったやつは、私の魂を持たない私の力が欲しいらしい。憎いとも思っていても自分の身体から出てきた子供だし、同じポケモンだ。この子には力を搾取される戦争の道具なんかになってほしくない……まあ、私がそんなことを考えてるから、やつはこの子を私から遠ざけてるんだろうがな」
 左手で短期間銃を握りしめながら語る中尉の目は、右手に持って眺めている写真よりももっと遠くを見ているようでした。
 中尉の目に見えているものはなんなのか。わたくしは、それを知りたいと強く願っていました。それを知ることは、エデンの知恵の実を食べるようなことかもしれません。そうだとしても知りたい。知らねばならない。そんな衝動は、抑え込むのが難しいくらいに膨れ上がっていました。
「……すまんな。長い身の上話ばかりしてて。さあ行くぞ。キミのペテンを頼りにしてる」
 写真をしまった中尉の右手が、わたくしの肩を叩きます。
 そうしてやっと、わたくしの衝動は収まったのでした。聞くのは脱出劇が成功してからでもできるでしょう。そう思って、わたくしは中尉の後を追って、ふたりで走り出しました。



 * * *



 町中に陣取る敵軍の兵士を一瞥することもなく、わたくしとエレナ中尉は駆け抜けていきます。
 何もしなければ、わたくしたちはたちどころに敵兵に見つかり、凶弾に斃れていたことでしょう。しかし、そうなることはありません。わたくしがそうはさせません。なぜならば、敵兵が見ているのはわたくしと中尉の姿ではなく、雨の中を駆け抜ける2頭の野良猫の幻影でしかないからです。
 "ペテンのトリックってのは単純なのが一番いいんだ"。そう言われたことを思い出して、わたくしが中尉に提案した作戦です。中尉はふたつ返事でその提案を受け入れました。そして今、順調に作戦は進んでいます。
 わたくしたちはラストスパートに入っていました。この道をあと50メートルほど進めば、風車に出られます。そこまで行けば、あとは友軍のところまでまっしぐら。わたくしたちは助かります。
 あと少し、あともう少しで。その一心で、わたくしは途切れそうな集中力を必死でつなぎとめながら、野良猫の幻影を見せ続けました。



 眼前、およそ25メートル先に、小さな土のうの山を盾に、軽機関銃と小銃を構えて相手を待ち伏せる4名の敵兵の背中が見えます。その脇では、荷物運びと思しき2本足のポケモンが1頭、背負った大きな荷物を下ろしています。弾薬でしょうか。
「どうしますか」
 建物の影から顔だけ出して、わたくしは中尉に訪ねます。
「なにか変わりは?」
「荷物運びのポケモンが1頭いるくらいです」
「なら変わりなしだ。この道を突っ切って、右手の納屋を通り過ぎたところに風車がある。一気に突っ切るぞ。いいな」
「諒解」
 作戦会議はすぐに終わりました。もとより長々と話している時間はありません。
 わたくしは残された集中力を振り絞って猫の幻影を作り出し、中尉と共に駆け出しました。



 武装した敵兵。せっせと荷物を下ろすポケモン。わたくしとエレナ中尉は堂々と彼らに迫ります。
 これがうまく行ったら、下手なペテン師から並のペテン師くらいには昇格できるでしょうか。そんなことを考えながら、わたくしは"目の前に2頭敵軍用ポケモンがいる"という事実に気づかない敵兵たちを横目で見ながら、土のうを飛び越えます。
 荷物を下ろし終えて顔を上げた荷物運びの青いポケモンと、その時、目が合ったように思いました。



 刹那。



 青い2本足のポケモンが、青い衝撃波を放ちました。



 そして、その衝撃は、



 わたくしの身体を弾き飛ばし、納屋の壁へと叩きつけたのでした。



「ヒルデ!!」
 エレナ中尉の叫びが聞こえます。
 もはや猫の幻影は消え去っています。わたくしはわたくしのありのままの姿、壁に叩きつけられた哀れな化け狐ポケモンの姿を晒していました。
 4人の敵兵が血相を変えて、一斉に銃口をこちらに向けます。
 なぜ。なぜわたくしの幻影が。ここで死ぬ前に、それだけは確かめたくて目を見張ります。
 4人のニンゲンの奥に立つ、1頭のポケモン。
 青く長い耳。黒く縁取りされた目。頭の後ろで、長髪のごとく揺れる4つの房。
 "雨の中では視界が悪くなるから、身を隠しやすくなる"。忘れていた中尉の言葉を、わたくしは今になって思い出していました。
 そう、雨で煙った視界のせいで敵の正体を悟れなかったこと。それが、わたくしの敗因でした。
 荷物運びのポケモンが、波導ポケモンのルカリオであると、万物の放つ波導を感知し、それによって幻影を見破ることのできるポケモンであると気づいていたなら。わたくしも中尉も、ここで死ぬことは無かったはずです。



 銃声。
 わたくしの視界の中で、血煙が舞いました。
 撃たれたのはわたくしではなく、機関銃を構えた相手の兵でした。エレナ中尉のほうが、引き金を引くのがわずかに早かったのです。
 短機関銃の弾丸は、またたく間にニンゲンの敵兵を薙ぎ倒します。しかし、ルカリオだけはその斜線を読み、中尉の射撃を回避していました。
 痛む体に鞭を打って、わたくしも拳銃をルカリオに向けます。しかしルカリオは、その動きさえ見切っていたかのように、わたくしにふたたび衝撃波を飛ばしました。
 再びの直撃。右腕に伝わる強烈な衝撃と痛みで、わたくしは拳銃を取り落としてしまいます。落ちた拳銃に再び手を伸ばそうと試みましたが、強烈な右腕の痛みがそれを阻んで叶いません。
 とどめを刺さんと、わたくしに躍りかからんとするルカリオ。ですがその刹那、彼の左手から叩きつけられた、モミの木型の尻尾によって阻まれました。
「先に行けヒルデ!!」
 エレナ中尉です。何もついていない短機関銃の弾倉受けに新たな弾倉を差し込んでコック、中尉は至近距離でルカリオに拳銃弾の雨を浴びせます。
 しかし、ルカリオは左腕をくろがねの壁に変え、その銃弾を弾き返しました。そして右手で、中尉の右腕に掴みかかります。
「行け! ヒルデ少尉! これは命令だ!!」
 中尉が再びの咆哮。
 命令、そうです、行かねばなりません。わたくしたちの目的は逃げることであってルカリオを倒すことではありません。逃げて味方を呼ぶことができれば、注意だって助かるかもしれません。だったら。
 意を決して、わたくしは中尉から目を背けました。まだ生きている左腕で身体を支え立ち上がり、道の先を見据えます。待っていてください中尉、わたくしが助けを――



 呼びに行こうとしたその時でした。



 目の前、20メートルほど先の塀を、黒い影が乗り越えてきました。ニンゲンの集団です。数は7人ほど、各々の手には小銃が携えられています。
 やってきた方角は、風車を挟んで西側。ということは、敵軍である可能性はありません。
 味方だ、味方が来てくれたんだ。
 わたくしは左腕を思い切り振り上げて、ここにいるぞ、と合図をしました。
 それを見届けたであろうニンゲンたちは、その場で立ち止まって、銃を一斉に構えました。



 わたくしと、エレナ中尉とルカリオがいる道――
 つまるところは、わたくしたちに銃口を突きつけて。



 銃声が鳴るほんの僅かな先に、わたくしは地べたに伏せていました。
 そしてすぐさま、わたくしは振り返ります。わたくしの後ろから、あれは敵か、いや違うぞ、という声が聞こえていましたが、わたくしは構わず、エレナ中尉とルカリオが立っていた場所めがけて駆け出していました。



「エレナ中尉!!」



 そこに立っている者は、すでに誰もいませんでした。
 ルカリオはすでにぴくりとも動きません。ですが、エレナ中尉は違いました。立とうと手足を動かして、でも立ち上がれずにもがています。
「中尉! 中尉!!」
 わたくしは中尉に駆け寄りました。左手が真っ赤に染まるのも構わずに、彼女の肩に手を掛けます。
「……はは、ここまで来た結果が同士討ちか……やっぱり、この国は私のようなポケモンには消えてもらいたかったらしいな」
 中尉は力なく呟きました。そう言っている間にも、とめどなく流れる血と雨水で、中尉の周りには赤い水たまりが広がっていきます。
「しっかりしてください中尉、あなたはまだ――」
「もう……いいんだ。これが結果なら、受け入れるしかない。でも……」
 弱々しい声で、中尉はわたくしの言葉を遮りました。
 いいはずがありません。だって、まだ、言い足りないことが、叶えられていないことが、あるんでしょう? だって――
「……でもせめて、最後に一度くらい、娘に会いたい。伝えたいことが、まだ――」



「おかあさん」



 雨は、いつの間にか止んでいました。
 周りには、枝にたくさんの実をつけたオボンの木が立ち並んでいます。そこに倒れるエレナ中尉の傍らには、1頭の小さな青いキモリ。
「……キミは」
 キモリを見た中尉は目を見開きました。そして、すべてを悟ったような笑顔を浮かべて。
「キミって奴は、本当に下手なペテン師だな」
 失笑するように、中尉は続けました。



 エレナ中尉が、大きく胸を膨らませて、息を吸います。
「でも……最高のペテンだよ。だから、これ以上は……」
 そして、小さいけれど朗らかな、心の底から満足しているような笑みを浮かべて。
「自分に嘘を、ついちゃダメだよ」
 そう言ったきり、エレナ中尉の身体は動きを止めました。



 たわわに実ったオボンがひとつ、枝からちぎれて落ちていきます。
 雨上がりの青い空。東の空にかかる鮮やかな虹。
 なぜでしょう。今見えるこの景色はすべて、わたくしが作り出したものでしかないのに。出来損ないの幻影に過ぎないのに。
 なぜにこうも、こんなにも、新鮮で、透き通っていて、初めて見るもののように美しく見えるのでしょうか。
 すべてが滲んで見えるのは、わたくしの幻影が不出来なせいでしょうか。それとも、とめどなく目から溢れる涙のせいでしょうか。
 わからないことはたくさんあります。でも、ひとつだけ、理解できたことはありました。
 出来損ないで歪んでいるけれど、鮮やかで美しいこの世界。世界がこんな色を、形をしていることは、エレナ中尉に出会わなければ気づけませんでした。自分の思いに正直になることをエレナ中尉が教えてくれなければ、こんな幻影はわたくしには作り出せませんでした。
 もっともっと知りたい。あなたに教わりたい。この世界の醜さと美しさを。自分の心に従うことの尊さを。
 もう二度と叶わぬ願いを言葉にならない声に乗せて、わたくしは叫んでいました。母親の愛を求める幼子のように――



「おい、おい! あんた何してる!」
 誰かの声がしました。幻影はたちどころに消え去り、世界は真実の姿――雨が降りしきり、銃声が響く道の上に戻ります。
 声のしたほうを向きました。そこには、エレナ中尉と同じヘルメットとスモックを身にまとった、ニンゲンの兵士がふたり立っていました。片方はわたくしの肩に手をかけ、もう片方はおもちゃ屋の店先を眺める子供のような目で、わたくしを見ています。
 わたくしたちを、エレナ中尉を撃った、ニンゲンの部隊です。敵軍ではありません、間違いなく友軍です。
「すげえ、ヒルデ・ライチュだ! 本物だ! まさか本物に会えるなんて……!」
「そんなこと言ってる場合か! こいつ怪我してる、衛生兵呼んでこい! 俺はこいつをそこの家の影まで連れていく」
「あっ、諒解です軍曹!」
 奥のひとりが、足早に奥のほうへ走っていきます。そして肩に手をかけていた手前のひとり――軍曹と呼ばれた兵士は、わたくしの右手を引いて立ち上がらせようとします。
「さあ、行きましょう。姿勢を低くして!」
「待ってください、わたくしだけ連れて行くのですか? 中尉は、エレナ中尉はなぜ助けないんですか? 中尉を敵と見間違えたなら、あなた方にはその責任が――」
「いいから!」
 軍曹はわたくしの右手を、右腕がちぎれてしまいそうなくらいに強く引きました。その痛みに耐えられなくて、わたくしは立ち上がってしまいました。
 手を引かれるがまま、わたくしは走りました。遠くなっていくエレナ中尉を振り返りながら。
 あの日――ゾロアークの誇りである長い髪を切られたあの日と同じ心苦しさが、わたくしの心に竜巻のように渦巻いて、それ以外の全てを飲み込んでいくようでした。
 その竜巻で、わたくしの心の中はいっぱいいっぱいでした。心を支配しているこの感情は、怒りなのか。それとも悲しみなのか。いま目を濡らし、見える世界をぼやかしているのは、雨なのか。それとも涙なのか。それさえわたくしにはわかりませんでした。



  * * *



 あの日から1週間が経ちました。
 動かすこともできなかった右腕は、少しは動くようになりました。ですが、まだ病室から窓を眺めるだけの日々は続きそうです。
 あの日からも、色々なことがありました――というよりも、今まで気にも留めていなかったようなことを目を凝らして見るようになって、まるで大きな事件のように、わたくしの目に突き刺さるようになったのです。
 例えばケガの治療。わたくしを含めたポケモン将兵に施される処置は、ヒトの将兵に施されるものよりも明らかにぞんざいで、傷が酷くなったり、感染症にかかって命を落とす人が多いことに気が付きました。
 例えば食事。わたくしたちポケモン将校に出されるものよりも、人間の兵卒のもののほうが上質で、量も多いのです。
 そしてなにより、わたくしの戦果を何より気がかりにしている、新聞の従軍記者の方々。付き合いが長い方もたくさんいるのですが、エレナ中尉に出会う前と後では、まるで違うニンゲンのように見えるようになっていました。
 わたくしが病院に入って2日目、記者の方々がわたくしを訪ねて、こぞって中尉のことを訪ねてきました。中尉はどうして、自らの命を捨ててまでわたくしを守ったのか、と。
 わたくしは事実をありのままに伝えました。中尉は彼女の信じる正しさに従ってわたくしを助けようとしたけれど、敵と一緒に味方に誤射されてしまったのです、と。
 その取材のことが新聞に載ったのは、その3日後のことでした。
 エレナ・ハインリッヒ中尉。"駆逐航空団のスター"、ヒルデ・ライチュ少尉を庇って命を落とした英雄――記事の見出しには、そう書かれていました。



 その記事を見て、わたくしはやっと、中尉が娘の写真を通して何を見ていたのか、中尉は何と戦っていたのかを理解しました。
 中尉は、世界そのものと戦っていたのです。ポケモンの意思を、望みを貶め、ニンゲンのためにポケモンの力を使い捨てる、ニンゲンの作ったニンゲンに都合のいい世界に放り込まれても、それに屈せず抗い続ける道を選んで、その道に殉じる。それが、中尉の続けた戦いだったのだと。
 でも、中尉が命を捧げても、そんな中尉の姿をわたくしが伝えても、その世界が変わることはなかったことを、新聞の見出しは高らかに宣言していました。わたくしは屈辱で胸が張り裂けそうでした。せめて中尉の仇を討ってやりたい、そう思わずにはいられませんでした。
 でも、結局それだけ。思うことだけしかできません。
 嘘をつくなと新聞社に怒鳴り込む勇気なんて、わたくしにはありませんでした。そんな事をやったら一体どんなことが起きるのでしょうか。そう考えると、あの日腕がちぎれそうな勢いでわたくしを引きずり、中尉の亡骸を雨ざらしのまま放置した、あの軍曹を思い出してしまって、身がすくんでしまうのです。
 中尉に会って、出来損ないでも美しい、自分の思うがままに生きる価値のある世界の姿を知って。
 でも、わたくしができることはほとんど変わっていません。ニンゲンたちに淑女の幻影を見せながら、自分の心に嘘をつきながら、駆逐機に乗って空を飛び、お国のために敵を殺す。そんなこれまでと何も変わらない毎日が、また始まろうとしています。
 わたくしはきっと、これからも何度も下手なペテン師を続けるのでしょう。そしてその度、わたくしはわたくしの知らない所で嘲られ続けるのでしょう。
 あのひとのようになりたい、ならなくちゃ。そう心で思ってはいても、ペテン師にならなければ生きていけない世界は、私の意思なんて気にも止めずに回り続けています。世界に戦いを挑むのは、本当に大変です。



 でも。それでも。
 下手なペテン師なりに、ほんの少しでも、世界に爪を立てることはできるはずです。
 小さな川の流れがやがて大きな谷を作るように、小さな爪痕だろうとそれを積み重ねれば、やがては世界をえぐり取ることができるはず。そう信じて、爪痕を残し続けたい。何をすればいいのかはまだわかりませんし、何かをしたところで全て徒労に終わるかもしれない。でも求め続けたい。エレナ中尉が見たかった世界に、届かなくても近づきたい。
 ――そう、今はそう思います。それでいいと思うのです。



「……ちくしょう」
 誰にも聞こえないような小さな声で、わたくしはつぶやいていました。